忍者ブログ
ADMIN]  [WRITE
成人女性を対象とした自作小説を置いています。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

千奈


 おびただしい量の黒い絵具が、F100号のキャンバスにぶちまけられていた。ただ絵具の缶をばしゃんと放ったような、決して「塗った」わけではないのは、一目見て分かった。キャンバスを固定していたイーゼルにも、イーゼルの背後の壁にも、黒が飛び散っている。そしてイーゼルの脇にまとめられていた油絵具の類は踏みつけられ、絵具がチューブの腹から飛び出し、テレピン油が上からメープルシロップのように垂らされている。
 油彩科四年の、海保(みほ)の卒業制作になる予定の絵だった。ほぼ完成を見ていて、この黒の下には、うすく溶いた油絵具であたかも日本画のように描かれた、モノトーンの女性像があった。短い髪をしていて、よそ行きと思われるワンピースを着ている。どこにでもありふれて存在している中年女性で、出かかった腹やしわやたるみを考えると、モデルとしては、美しいとは言えない。それを芸術ととらえる海保のセンスが光る絵だった。写実的に描くことで生命の迫力を見事に表わし、生々しさに鳥肌が立つような絵。その海保の絵が、誰もが羨みため息をつく才能が、黒に汚されている。
 絵の周囲には、絵の異変に気付いた四・五人の人だかりが出来ていた。登校したばかりの千奈(ちな)も、鞄を置くのさえ忘れて傍に寄る。卒業制作に入る四回生のみがつかえる絵画制作室だが、人の出入りは学部生なら誰でもできる。学校があいている時間ならば、一般の人間でも出入りは可能だろう。犯人を特定するのは難しそうだった。
「ひどい」
「いたずら、だよな? 海保がやったんじゃねえよな?」
「海保くんが自分でやるわけないでしょう。明らかにいやがらせよ」
「被害届出したら犯人捜してくれんじゃねえの? ひでえな、おい」
 仲間らは口々にそう言った。千奈も輪に混ざり、絵を呆然と見ていた。海保の描く人間は絶対に意思のある目つきをしていて、かつ穏やかで、人の一瞬の美しさを捉える、その感の良さも海保の才能だと思っていた。見る者を圧倒させる、ずば抜けた技術、センス。芸術は、見る人間があってこそだと海保は常々言っているが、その通りだと思う。見る者がいてこそ、その見る者の心にぽつっと一点の黒点を落とし、じわじわと浸食し、やがて染めゆく、そういう感動があってこそ、芸術。
 海保には人の心を動かす才があった。だからこれはひどい。一体誰が、誰が――心臓を冷やかせていると、がらりと扉のあく音がして、海保が「おす」と制作室に入って来た。
 誰かが事前にメールでも送ったのだろう、海保は絵の状況を知っていて、さして驚く風でもなく、仲間たちに「ひでえよなあ、これ」と苦笑してみせた。
 仲間たちは海保の言葉にどう反応すべきか、迷って沈黙が出来た。
「ペンキかな、アクリルかな。これ乾いてる?」そう言って海保は、誰も近づけなかった絵に、近寄る。それが仲間たちの口火を切るきっかけになった。
「アクリル絵具だと思うけど。学祭でつかったネオカラーの残り。そこに缶が転がってる」
「あ、本当だ」
「もう乾いてるみたいだし、削りゃ下の絵が出てくんじゃねえ?」
「下の絵も削っちゃわないか? アクリルだけにつかえる溶剤とか、なんかないかな」
「画布に食い込んでりゃ、完全には落とせねえだろうな」
 仲間たちは口々に言うが、海保は「んー」とイーゼル脇に広げられた絵具の海の傍に腰を下ろしてしまった。
「油絵具、買い直しだなあ」
「海保、そんなにのんきにしてんなよ。犯人見つけ出して、弁償させろって。卒制だぞ。これで一年棒に振ったら、それこそやってらんねえだろ、」
「んー、そうだな」
 曖昧に笑う。それからテレピン油にまみれた絵具のチューブをひとつ引っ張り出して、それをぬるりと、パレットに指で広げる。
 その指を、画布につける。
「……おい、海保、……」
 皆、黙った。海保は汚された画面の上からあたらしく絵を描き始めた。


 海保が同性愛者であることと、五つ年上の恋人と暮らしていることを、千奈は知っている。
 どんな性癖だっていいと思う。ゲイだろうが男の恋人と同居していようが、千奈が海保の才能に憧れている事実は変わらない。凡人の自分が、三浪してまで入った美術大学で、海保と知りあえたことは、素晴らしいことだと思う。友人であることが誇らしい。だから海保の性癖は、大した問題ではなかった。
 ただ、海保の恋人のことはよく思っていなかった。海保の恋人も画家で、現在は美大進学希望者向けのアートスクールで絵を教えていると聞く。この大学のOBであり、従って海保や千奈の先輩にあたる。海保が連れてくるまでもなく、現在も油彩科の教授と行き来があるので、大学には頻繁に顔を出している。そもそも、それが出会いのきっかけで海保と付きあっているのだ。
 精霊みたいな人だ、というのが印象だった。影のうすい、独特な雰囲気をまとった痩せた男。芸術家らしく身なりにあまり気を遣っておらず、肩まである髪を団子に結ったり結わなかったり、無精ひげを生やしたり生やさなかったりしていた。顎が尖って細い。少しぐらい見かけを気にすればいいのに、と思ったが、言わなかった。目つきを怖いと思っていた。やけにぎらついていて、常に戦闘に挑んでいるような。話しかけようものなら刺されそうだとさえ思った。近寄りがたい類の男だった。
 絵画制作室に立ち寄った海保と、海保の恋人の会話を、偶然聞いたことがある。千奈は制作室にいくつもある巨大なキャンバスの裏側の、ちょうど暗く影になっているところで授業と授業のあいだのあいた時間をつかって昼寝をしていた。その頃はバイトが忙しく、思うように睡眠時間が取れなくて、学校の制作室で取る仮眠が多かった。後からやって来たふたりは千奈に気付かず、だから少々込み入った話をしていた。痴話喧嘩の類と言えるのだろうか。会話から察するに、海保が当時制作していた絵に、恋人が難癖をつけているようだった。
 制作中の絵は、F30号の油絵で、やはりモノトーンで描かれた男性の半身像だった。目のあたりを、こちらは色とりどりの花で覆っているから顔かたちがはっきりしないが、男性のモデルが恋人だということは分かっていた。半開きにあいたくちびるが艶めかしく、海保の絵の中に珍しく、官能を見たのをよく覚えている。あの絵は後にどこかの画会が主催する品評会に出展されて、確か最高賞を取ったはずだった。
 その、出展前の最後の筆を入れている最中だった。恋人は、「最低な絵だ」と言った。海保が困った顔をしているだろうことは、切れ切れの会話から想像できた。
――破ってやりたい絵だね。おまえの絵はただ写実的なだけで、なんにも面白くねえ。リアルに描きたいだけなら、写真でも撮って引き伸ばせよ。
――それじゃ意味がないんだってことを、あなたも充分分かっているでしょう。
――嫌いだね、こんな絵。最低だ。存在するだけで芸術が穢される。おい、カッター持ってこいよ、切り裂いてやる。
――……参ったな。
 なにやらただならぬ会話だ。キャンバスの裏側から少しだけ這い出てみると、海保が男をきつく抱きしめている姿が見えて、ぎょっとした。
――今日は特に機嫌がわるいね。
 囁き声でも、ちゃんと耳に届いた。海保の、普段はのんきとしか言えない声音が、穏やかにくすぐったく、融けている。その声に、ふたりの男の立ち姿に、ばくんと心臓が音を立てた。聞こえていやしまいか、と思ったほど。
 海保の腕の中で男はしばらくもぞもぞと体を動かして暴れていたが、細腕ではかなわなかったのだろう、大人しくなった。
――今日は制作しないで帰るよ。なにか食べて行こうか。
――……。
――あなたが好きだ。
 すると、海保の恋人の顔が持ちあがり、ふたりは抱きあいながら見つめあう格好になった。恋人は頭を傾け、海保の剥き出た首筋にくちびるを押し付ける。海保は黙ってされるままになっていたが、しばらくして唐突に「痛い」と言って恋人の体を突き放した。
 首の左側の付け根を、右手で撫でている。そこは赤くなっており、歯形があって、血がにじんでいた。
――噛まないでくれ。
 そう言う海保に恋人は鋭いまなざしを向けている。そしてさっと体を翻し、ばたばたと音を立てて制作室を出て行った。海保はしばらく傷口を手で押さえていたが、やがて駆け出す。
 男を追って走り出した海保と、キャンバスの裏から身を乗り出していた千奈とで、目があった。
 海保は驚いて目をまるくしたが、すぐに困り笑いの表情に変えて、去った。千奈はキャンバスの裏から這い出て、改めて海保の絵の前に立つ。絵の中の男の、鎖骨の付近にほくろが描かれていた。あの海保の恋人の鎖骨にも同じく存在するほくろだろうか。海保の絵は千奈の心を掻きむしり、乱し、鼓動を速くさせた。見続けることが叶わなくて絵の前で目を閉じた、その経験や感覚もはじめてだった。


→ 2




拍手[31回]

PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
拍手コメントでお名前のなかった方
↑の表記で失礼します。
読んでくださってありがとうございます。
いまは下げてしまった昔の作品について、恥ずかしいけれど嬉しいです。芸術家という人種(?)が私は好きですので、これからも書いていくと思います。
「繊細な余韻」あるお話になるかどうかちょっと不安ですが、終わりまでお付き合いいただけると嬉しいです。
拍手・コメント、ありがとうございました!
粟津原栗子 2015/04/14(Tue)08:11:41 編集
はるこさま(拍手コメント)
更新を楽しみにしてくださっているとのこと、嬉しいです。ありがとうございます。
いただいたコメント読んで、笑ってしまいましたw
名前、紛らわしくてすみません。さらに付け加えるなら、「海保」は苗字です。(「千奈」は名前です。)こういうややこしい名付けが好きです……趣味にお付き合いいただいて誠に感謝です(笑)
こういう、サスペンス(?)調なはじまりは私の中では珍しく、またそれに主軸を置いた話でもないのですが、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。本日も更新です。どうぞお楽しみに。
拍手・コメント、ありがとうございました!
粟津原栗子 2015/04/14(Tue)08:20:17 編集
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
カウンター
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
フリーエリア
最新コメント
最新記事
フリーエリア
ブログ内検索
忍者ブログ [PR]

Template by wolke4/Photo by 0501