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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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志津馬は一晩入院という話で、満はほとんど追い返されるように病院を出た。雨の中、傘を差さずに歩いた。どんどん濡れてゆく。衣類がべたべたに貼りつき、髪が寝て、靴が重い。それでも傘を差す気になれなかった。というより、傘を差すプランが満の中に存在しなかった。頭ががんがんと痛む。心臓ははやる。寒くて歯の根が合わなかった。
 家に帰りつき、シャワーを浴びて落ち着くかと思ったが、身体は冷えたままだった。薄暗い家の中を進み、志津馬の部屋に立ち入る。明かりをつけると、がらんとした室内が浮き上がるように照らされた。今日、作品のほとんどを搬入してしまった。作品はなにもない。隅に絵具の類がまとめられていた。まめに片付けるように言ったのは満で、志津馬はそれを守って一制作ごとに部屋を片付ける。
 イーゼルに、一枚白いキャンバスがかかっていた。これから描く絵なのだろう。色鉛筆で下描きがしてあった。なにを描くつもりなのかさっぱり分からないが、点と線と。志津馬が大音量で音楽を流しながら楽しげにそれを描いている図が浮かんで、かっと頭に血がのぼった。イーゼルを蹴り倒す。がらん、とそれは簡単に崩れた。
 絵を踏みつける。満の体重でそれは裂けた。それから手でキャンバスの枠を持ち、何度も何度も壁に叩きつけた。骨に画布がまとわりついただけのキャンバスはみじめたらしく、満は笑った。笑いながら泣いた。
 最初からこうしていれば良かったのだ。志津馬の絵を壊す、という経験をしておけば良かった。この生々しさを、身のうちに巣食う魔物への戦慄を、はじめに味わっておけばよかった。そうしたら志津馬自身を傷つけなかった。きっと、もっと志津馬と距離を置いた。友達にすらならなかった。
 志津馬にDVを施すことなんか絶対になかった。
 
 翌日、志津馬は自分でタクシーに乗って帰宅してきた。まんじりとも眠れない夜を超えて現れた志津馬に、満は駆け寄ることも、声を掛けることさえも出来なかった。ただ疲れていた。志津馬に会わずに志津馬から逃げることを考えていた。志津馬の方から帰ってくることはないような気がしていたので、唐突な帰宅に、心臓がきゅっと縮んだ。
 志津馬は「ただいま、」とはにかむ。目の上に傷、首から吊り下げられた腕。歩くことに支障ないのは幸いだった。「なんで」と訊けば、「なんでって、おれのうちじゃん」と志津馬は困った風にまた笑った。
「病院に言ったんじゃないのか。おれがお前に、暴力……」
「言ってないよ。なんでもありません、ただ転んだだけです、って言い張って帰って来た」
 志津馬本人が「なんでもない」と言っている以上、医者も介入しようがないのだろう。二十歳を超えた男だ。聞いているうちに、恥ずかしく、苛ついて、満はつい「なんだよ、おまえ」と志津馬に掴みかかる。
「――おれをかばって、いい気になったか!?」
「そうじゃない、そうじゃないよ、……ただおれは、満が好きなだけなんだ……」
「……」
「そう、それでね、考えた。ほら、もうじき三連休があるよな」
 満の手をぱっと払いのけ、彼はリビングにあがった。カレンダーがかかっている。海の日を含んだ連休が、赤い字で表示されていた。
「満と住みはじめてから、満は仕事しごとばっかりで、ちっとも遊びに行ってない。な、どこか行かないか? ほら、おれ手が使えないだけで動けるんだし。そりゃ荷物は、ちょっとは満に持ってもらうことになっちゃうかも、だけど、……だけど、行こうよ。おれな、前に海行って楽しかったの、すっげえ覚えてんの。だからあそこに、また、行こう」
 満はぼんやりと、こいつが具体的に段取りを組んでいるところを見るのははじめてだな、と思った。学生時代、仲間らとの旅行だ飲み会だ、そういう話に志津馬は飛びついたが、自分から企てることはなかった。子どもすぎて、そういうことを考えられないんだと思っていた。意外な一面を見たような気がして、満は怒る気も、それを否定する気も、失せてしまった。
「宿とか、おれ全部手配するし。あ、満は運転手やってな。せっかく免許持ってるんだから、レンタカー借りて……」
 志津馬があれこれを思案しはじめる。ぼんやりとしている満の背に、志津馬の手がそっと当てられた。「いやだ? 行きたくない?」と訊かれ、満はその手をいま出来うる限りで優しく、振り払った。
「おれに触るな」
「……」
「おれに触ると、おまえはまたひどいめに遭う。たとえばそのギプスをむしり取って、まだ傷のやわらかいところを折るぐらい、簡単なんだ、おれは。そうやって一生、描けなくすることぐらい、」
 たやすい、と言って、満は泣いていることに気付いた。頬に手を当て、ぬるい涙を確かめる。目を閉じるとさらに新しい涙が溢れ、手を濡らした。
「旅行なんて、馬鹿か。おまえ、殺されて埋められるぞ」
「あのね、みっちゃん」
 みっちゃん。あまったるい響きのそれは、最初の呼び名だった。くすぐったくてやめさせた呼び名はせつない響きで、懐かしかった。
「お願い、最後にするから、おれと一緒に旅行しよう。おれ、……来月から、日本を離れる」
 満はようやく顔をあげた。
「バンクーバーにギャラリーのオーナーの知人がいて、そこで滞在制作してみないか、って誘われた。前から言われてて、でもおれ人見知りだし、海外行ったことないし、迷ってたんだけど、……みっちゃん苦しめてんの、おれだよな。だからおれ、行くよ。すごく怖いけど、行く」
 志津馬の瞳がきらきらと輝いていて、綺麗だと思った。
 そんなに強い意思を表明されたことはなかったように思う。
「だからその前に、最後の旅行、しよ」
「……触らないこと」
「え?」
「おれに一切、絶対に、触れるな。触れたら殺す。おまえ殺しておれも死ぬ」
「……分かった」
 とても、「分かった」だなんて顔はしていなかった。それでも頷いた後は、笑顔に戻る。「楽しみだねえ、みっちゃん」
 志津馬は本当に嬉しそうだった。



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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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