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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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「蒸しますね」彩がこぼす。「やっぱり店に入ればよかったかな」
「ま、日差しがないだけ昼間よりはいいだろ。ああ、少し風も出て来たか」
 吹くか吹くまいか程度の微風だったが、ないよりましだった。千砂は迷っていた。再会は再会、けれどなにを話してよいものか。なにから話すべきなのか。彩の方はあれきりだんまりで、沈黙が気まずい。
 仕方なく、千砂の方から喋ることにした。これくらいは、先輩としての見栄みたいなものだ。「いま、高校で教えてるんだって? 美術」
「ああ、そうです。赴任先はIです。ここより南の方になるので、夏場はほんと暑いです」
「よりにもよって高校教員とはな……。おれは、おまえはM美大に行くもんだと思っていたよ」
「はじめはM美大を受けるつもりでいましたが、事情が変わりました。高校三年生の先輩と全く同じ状況に追い込まれましたよ」
「離婚か?」
「いえ、死別です。父が急逝しました」
「それは……おれとは事情がだいぶ違うぞ」
「一緒ですよ。美大進学なんて目指しているわけにいかなくなったのですから」
「それで教育学部か」
「それでも絵の傍にいたかったので」
「……おまえは受かったんだ。すごいよな。それで教師になって、着々と」
 言っているうちにむなしくなってきた。千砂が望んでも得られなかった未来をこの青年は生きている。羨望、嫉妬、……諦観、うつろな心。
「なんで夏期講習会に来なかった」と、なんとも恨みがましい台詞が飛び出て、千砂は愕然とした。
「――いや、すまない。いまのは聞かなかったことにしてくれ」
「聞いてしまいましたから、もう遅いです。……おれを待っていてくれましたか」
「別に、待ってたわけじゃ、」
「遅くなってすみませんでした。……先輩にはたくさん嘘ついたし、つかせましたね、おれ」
 彩は、ベンチの背もたれに頭を預けて、足を投げ出し、暗い空を見あげるような姿勢を取った。「高校生の子どもら見てると、思うんです。おれは本当にあまっちょろいやつだったんだな、と」そう言って、息をついた。
「大きなことばかり言ってました。それが出来ると信じて、微塵も疑わなかった。そしてそれを他人にも、強要してしまった。その人のことが大好きなあまりに、どうしても同じ立ち位置でいたかった」
「大好きな人?」
「あなたのことですよ、馬鹿。前だって決死の想いで告白したのに、流された」
 心臓に衝撃が走った。あまりの衝撃に息が詰まり、一拍置いて、脈がどくどくと唸り始めた。
 また沈黙が出来た。千砂は大きく息を吸うと、彩に訊ねた。
「……高校生のころのおまえの夢って、なんだった?」
「画家になって、大きな賞総なめにでもして、富と名声を得る、ですかね」
「は、おれだっておんなじような夢見てた」
「いま、この歳になって思います。本当は絵が描ければそれでよかった。画家になんてならなくていい。賞とか、名声とか、そりゃあれば嬉しいけど、なくたって生きていける。たとえば、……ちいさくていいから、一室、絵の描ける部屋を持って、そこで、日々の余白の時間をつかって、絵を描く。傍らには好きな人がいて、その人と穏やかに暮らす。アトリエの場所は、森の際ぐらい、田舎でいい。夏場は涼しい風が吹く」
「……隠居したじいさんみたいな夢だな」
「素敵な夢だと思いませんか」
 少し間を置いて、彩は「一生描き続けること。瞬発力ではなくて、持久力。これがほしい」と言った。
「指導していく子らの中には、途中で諦める子や、挫折する子も、多いです。絵の道で成功することは並大抵の努力じゃできませんから、おれもはじめは脅かします。その上で食いついてきた子らに指導する。家庭環境、集中力、技術に、ひらめきや発想。センス、思考する力、精神力、――まあ、とかく大変ですよ。大変なことを、おれは生徒に課しています。でも本当は、絵が好きであれば誰だって進んでいい道なんだと思う」
「……高校生の進路指導は大変そうだな、先生」
 そう、千砂は笑ってやる。自分は彩みたいに美術を、絵のことを真剣に考えたことがなかったのかもしれない。だとしたら、彩の方がずっと、いまの職業は似合っている。そう思えた。
「彩、おまえ最近は絵を描いているか?」
「忙しくて、なかなか。今年この講習会に来れたことが、奇跡です」
「おれも全く描いていない。年に一度、この講習会でしか絵は描いていないよ。三百六十五分の、たった七日間だけの絵描きだ」
「ええ」
「大人になったら、ずーっと絵を描いているんだと思っていた。そういう大人になるんだと思っていて、でも、絵を手放しても生きていられるようになった。……おれも歳かな」
「まさか。まだまだでしょう」
「なあ、彩。おまえのそのじいさんみたいな夢に、混ぜろ、おれを」
 そう言うと、彩は目をまるく大きくして、こちらを向いた。
「おれにも一室寄越せ。絵の描ける部屋をさ」
「……先輩はおれのこと好きってわけじゃ、ないでしょう。むしろ嫌われていいと思った。おれが先輩の立場なら、嫌いますよ、こんな後輩のこと」
「おまえのこと好きか嫌いかは、おまえの心なんじゃなくて、おれの心なんだよ」
「そうですけど……でも、」
「確かに、おまえ見てると『道』から外れたおれがむなしく思える。絵の神様に見捨てられて、おれは自分のことを可哀相だと思っていた。悔しくもあったし、憤ったし、なにより、淋しかった」
「……」
「でも、な」
 不思議な気分だった。対話することで、彩という人間の輪郭がはっきり見えて、そのことが千砂は嬉しかったのだ。一度は同じ道を志した者同士だからこそ分かちあえる感情なのだと思う。
「おまえが絵ときちんと距離を置ける人間で良かった、といまは思うんだよ。虚しさとか、やるせなさとか、そういう感情を長いこと抱き続けて、手放せるときは、諦めたときなんだと思っていた。違うな。……とてもすがすがしい気持ちだ」
「本当に?」
「気分いいよ。だからな、彩。おまえの好きに、しろ」
「本気で?」
「今度、どっかの高原にでもさ、スケッチに行くか」
 あの辺り、と千砂は適当に指を指して見せた。公園の樹木のあいだに、遠くの山が夜の闇に沈んでいる。もう立秋は過ぎた。高原は秋の気配だろうな、と想像する。
「交代で運転してさ」
「行きます。どこへだって、行きましょう」
「うん」
 そうだな、と千砂は頷いた。そして立ちあがる。
「さて、今夜は帰るか。おれは風呂に入って、薬を塗らなきゃなんない時間なんだ」
「どこか悪いんですか?」彩の声音が一気に張りつめる。
「悪いっていうかな。夏場はいつもこうなんだけど、背中が――」
 そう言いかけて、千砂は思い出した。高校三年生の夏、美術室に彩とふたりしかいなかったとき、あのときも汗ばんだ肌にワイシャツの繊維が擦れて痒みをもたらし、濡らしたタオルで肌を拭いて、薬を塗ってもらったことがあった。
 彩も思い出したらしかった。「ああ」と軽く頷く。
「相変わらず、夏に弱いんですね」
 それはほっとしたような、呆れたような、それでいてどこか嬉しそうにも聞こえる響きだった。
「まあ、な」
「だったらうちに、来ませんか」
 と彩が言った。唐突な申し出に、千砂は目を瞠る。
「ここから車で三十分ぐらいです。幼馴染さんの家に行くよりは遠いですが、来てもらえたら、おれは嬉しい」
「うーん」
「どうせ、ひとりじゃ背中に薬を塗れないでしょう。誰が毎晩世話してくれてるか知りませんが、あなたの肌に触れていると思ったら、急に悔しくなりました」
「嫉妬って言うんだぜ、それ」
「嫉妬、結構です。うちに来てください」
 ああ、彩だな、と思った。押しの強さは昔から変わらない。けれど確かに年齢を経た、千砂の後輩だ。
「――いいよ。行こう」
「はい。駐車場まで少し歩きます」
「うん」
 ふたりは歩き出す。千砂のカルトンは当たり前のように彩が抱えた。わずかに前を行く後輩の後ろ姿が、いつかの夏の光景と重なって、千砂は目を細めた。


End.


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はるこさま(拍手コメント)
いつもありがとうございます。
夏とは、思春期の子らにとっては夢を追いかけるシーズンであるように思います。そんな思いを詰め込んでみました。その後を最初は考えてもいたのですが、生活の慌ただしさの中で埋没していっております。……でもいつかまたきちんと書いてあげたいと思うふたりです。
ふたりでささやかな夢を追いかけて行ってほしいものだな、と思っています。
拍手・コメントありがとうございました。励みになりますw
次回もぜひお楽しみに。
粟津原栗子 2016/08/24(Wed)07:00:19 編集
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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