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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 今日は涼しいですねとひとりごとのようなつもりで言葉を口にすると、先生はそれを聞き漏らすことなく、「せやなあ」とお答えしてくださいました。
「もう盆過ぎて……夏も終わるな、」
「朝、浜へ出てみたんです。風が強うて、波も高うて、海、荒れとりました」
「無理ない、台風のすぐ後やからな、……今年の夏は台風ばっかで、漁師は泣いとるのやろ」
 そう言って、先生は身体を後ろへそっとずらします。起きていることがつらいのです。私は傍へ寄って、先生がその場で横になるのを手伝ってさしあげます。
「布団、敷きましょうか」
「ええて。……ちいと、横んなるだけや」
「なら上掛けをいま、」
「あ、七生(ななみ)」
 先生が私の名を呼ぶとき、私はいつも胸を高鳴らせてしまいます。この後とてもいいことを先生は仰ってくださる、そういう、人に期待をさせるのが上手な声音だと思います。私は「はい」と答えます。
「おまえの膝がいい」
「……はい」
 やはり先生は私を喜ばせるのがお上手なのです。なにを言えば私がどう喜ぶのかを、熟知しきっていらっしゃるのでしょう。私はその場へ座り込み、先生の頭の高さにちょうど良いように正座をします。そこへ先生がゆっくりと倒れ込むのを手伝ってやりながら、足の位置を調節します。
 横になった先生は、再び私を「なあ、七生」と呼びました。
「なんでしょうか?」
「いくら台風一過言うてもな、直後や海はまだ危ないんやで。波にさらわれたり、大風に吹き飛ばされて転んだりしたらどうすんねや。あんまほいほい外出たらあかんで」
「……様子見に行っただけです」
「ははは、責めとるわけやないで。心配なんや」
 それから先生は、ぽつりと、こうしとったらおまえはどっこもいかへんもんな、と仰いました。
「僕はここにいます。どこへも行きません」と答えると、先生はいつもの調子で「ほうか」と答えました。
 たまらず、私は先生の髪をゆっくりと梳きます。
 先生は目を閉じ、私の手に甘えるように頭を押し付けてきました。


 ◇


 先生の絵をはじめて見たのは、私がまだ一美大生のころでした。
 質素とも言える掛け軸は、流麗な線を持つ美人画でした。芙蓉を頭に挿して、美人はこちらをそっと振り向いていました。着物から見えるうなじがなまめかしく、振り向きざまの表情は、わずかに微笑んでいます。花は華奢なピンク、反映するかのように頬もばら色でした。私は生身の女性に虜になったことはありませんが、絵の中の女性の、妙な生々しさに、胸が鳴りました。夢中で眺めて、何時間も経ったころ、ようやく絵の下に貼られたタイトルと作者名に目が向いたのです。
 その公募展に、私は、当時教わっていた教授の勧めで作品を出品したのですが、落選したのです。せめて入選された方々がどんな絵を描いているのかを見ようと思い、足を運んだ美術館でした。先生は、公募展を主催するF画会の会員として出品されていらっしゃいました。いままでどの図録を見ても先生の名がなかったのは、病気療養で長いこと筆を持てなかったからだと、後に知ります。
 手帳の一ページを破り、その場で先生への短い手紙(感想のようなものです)と住所を書いて、受付の方に託しました。後日、先生から私のアパートへはがきが届きました。今度先生が関西の画廊でひらくという個展の案内で、先日は素敵な感想をありがとう、と記されていました。文字は流れるように美しく、そのたった一言に、また見入ってしまいました。私が通っていた学校は東京にありましたが、わざわざ新幹線の切符を取り、私は先生の個展会場へ向かいました。
 会場で、私は先生本人とお逢いすることが出来ました。想像していたよりも痩せていて、和服のよく似合う、粋、という言葉が似合う方でした。東京からわざわざよく来てくれたね、と温和に笑う先生に、実は私も西の出身で、と話すと、先生は口調を崩し方言で話はじめました。
――ここにある絵は女性ばかりですが、女性だけをお描きになるこだわりみたいなものは、あんのでしょうか?
――せやなあ、こだわりやないけど、男は描けんのや。それに男が微笑んでいる絵よりは、女やろ、やっぱりな。
――いまにもこの世に現れ出てきそうです。モデルは立てられるんですか?
――立てる、けど、あくまでも幻想や。実際こんな女はおらん。
 熱い談義は会場が閉まっても続きました。私は宿を取ってその場にとどまり、何日にも渡って会場へ顔を出しました。先生も嬉しそうにしてらっしゃいました。だから大学で日本画を専攻する私が先生への弟子入りを申し出るのに、流れはスムーズでした。
――大学卒業したら、おいで。
 先生はそう仰ってくださいました。私は嬉しくて、すぐにでも大学を辞めてこちらへ来たいのをこらえるのに必死でした。卒業までの半年間、私は毎日のように先生にはがきを送りました。まだそのはがきはちゃんと全部残っている、と先生は言います。
 卒業してすぐ先生の元へやって来て、このあいだの春で五年を迎えました。
 先生と過ごす五度目の夏はとても涼しく、夏らしい日がありません。去年はほんま暑うてかなわなんだし、今年はこんな涼しい、異常気象や、と先生はおおらかに笑います。


 ◇


 台風が去れば普通は晴れるものでしょうが、さして晴れもしませんでした。あの、なにもかも洗った青空がろくに見られなくて、私は少しだけがっかりしています。嵐の後のあの青が好きなのです。先生に見せて差し上げられるかと、嵐が来るのにわくわくしていたほどです。
 嵐を前にして、私は思っていました。このまま先生と永遠にふたりきりにならへんかな。すべての生物を一対ずつ舟に閉じ込めて地上を洗ってしまった神様の話を思い出します。あのように、私と先生とを舟に乗せて嵐が来れば、世界は私たちをふたりだけにしてくれるだろうか、と。嵐が去ってみれば、隣の家のおばあさんは朝から元気に畑に出ているし、港では漁師が台風の後片付けをしていて、こんな日でも海水浴客は浜辺をうろうろしています。実際はふたりきりではありませんでした。邪魔やな、と思いながらも、私は今日も先生のお世話の出来る日常に、世界に、感謝しています。結局私たちは日常を離れることは出来ないのです。
 夕方、私は先生と少しだけ散歩をしました。先生は足を悪くされているので、先生の手を引いて、ゆっくりと歩きます。たかが私より二十歳ばかり上でもうこんなに生命力を希薄にさせている先生のことを、憐れで、せつなく、いとおしく思います。先生の痩せて骨ばった手を握ると、私の心臓は高鳴り、身体中が芽吹きを迎えるようです。
 松の生える海岸の、舗装された道路をゆきます。蟹がざわざわと渡っていくのを見て、先生は「蟹や蟹、」と嬉しそうに仰いました。海からの風が強く、先生の髪も私の髪も横に流されます。
「やっぱり風が強いよって、あまり長く潮風に身体を晒さないようにしましょう」と私が言うと、先生は「おまえは医者か」と笑いました。
「さすがに海水浴客は少ないな」
「もう夕方ですし、今日は泳ぐには寒かったですから」
「沖合からの風が強い。海月がよう流れて来とる」
「あ、ほんまや」
「ほんまに、今年も夏が終わてしまうな……」
 そう言った先生の目が、とても遠いのを、私は心を痛めながらも目を逸らしません。
 先生には、約束した人がいるのです。将来を約束した、先生だけの男が。その人しか先生にはあり得ないから、女性しか描けないのです。いつまでも帰ってこない男を待ち続けている先生のことを、私はずっと想っています。
 その人は、次の夏には帰って来るよと言って、先生の下を去ったそうです。再会を先生は信じています。しかしもう、半分ぐらいは諦めているでしょうか。帰って来なければいいのに、と私は願っています。そういう私の醜い思いも、すべて、先生は見通されているはずです。
 何年も帰って来ぬ人がいるから、先生は淋しいのです。胸にぽかりと大きな穴があいているのです。淋しいからこそ、先生は私を傍に置いてくださるのです。師弟と大きく銘打って実は絵を描くだけの体力もない病弱な先生と、先生が絵を描かなくても傍にいるだけでいいと思っている私は、とうに師弟関係など破たんしていて、それでも淋しさが私たちを離しません。かたく結んだロープは、水につけることでより結びを強くします。淋しさの海にさらされて、私たちは互いの手を強く握ってたゆたうように、日々を過ごしています。
 散歩が終われば、先生の家に戻り、私はまず、潮風で冷えた先生の身体を洗います。丁寧に、指先、毛先まで温めるようにして、先生をお風呂に入れてさしあげます。終われば夕食です。今日は魚のアラを煮てあります。先生はこれが大好物で、たった一杯だけ、お酒を飲みます。私もお付き合いして同じく一杯だけ頂きます。
 先生を布団に入れる時、私は先生を背後から抱きしめます。そうやって私たちは眠りにつきます。先生が私を抱いたり、求めたりすることは、この先もないでしょう。しかし私は充分だと思っています。帰ってこない男よりずっと、先生に人間の温みを教えてあげられるからです。先生が大好きです。愛しています。そういう思いをすべて腕に込めて、最大限にやさしく先生にしがみつきます。
 今日も波の音が聞こえます。寄せては沖へと戻る波の音は、私と先生のふたりだけの生活に深々と響き、私の心を不思議と凪へと導くのです。こんな醜い心があるのに、私は穏やかです。




End.




拍手[36回]

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美冬さま(拍手コメント)
いつもありがとうございます。
お好きと言って頂けて、ほっといたしました。激しく淋しいお話だと思うので、どこの層に受けるんだろう…と不安でいました。笑
美冬さんの周りにはそんな方がいらっしゃるのですね。ちょっとお会いしてみたいかも…?w 群青の綾さんと透馬くんを~というくだりは、大体あっています。発想の着眼点はその辺りでした。
夏の海というと、私はこんなイメージです。開放的になりませんが(笑)これもまた良しとしてください。
涼しくて夏どっか行っちゃったような空気ですが、お体大事になさってくださいね。
拍手・コメント、ありがとうございました。
粟津原栗子 2014/08/17(Sun)07:39:59 編集
無題
不思議な味わいのお話でした。

丁寧で自分を抑えた語り口は戦前を思わせますが、
「新幹線」とあるから昭和40年以降の事柄ですよね。
アップされたのが終戦記念日だったので、深読みしてしまったのですが、
先生の待っている人は、太平洋戦争で召集されたまま帰ってこない人
という設定かなと思って読みました。

でも、気候は、今年の夏のようでもあるし、
じゃあ意外にも最近の話…?
先生の待つ人は、ふらりと出かけてそのまま何年も音信不通になってしまった人?
今の時代に!?はがきも電話もメールの一つもなく?
とすれば、どこかで野垂れ死したか、
あるいは、先生を捨ててしまったか…

どちらの設定が、より不幸なのか、わからないなぁと思いつつ、
何度か読み返しています。


「私」は、「醜い心がある」と言っていますが、
ひとつも醜いとは思えない。
人は、一番望む形で幸せを得られなくても、
どうにか折り合いつけて、
違う形の幸せを見つけることができるのだと思います。
七生がいるからこそ、先生は安寧でいられる。
これも、一つの幸せの形ではないでしょうか。
Bei 2014/08/18(Mon)00:58:35 編集
Re:Beiさま
こんにちは。いつもありがとうございます。

>不思議な味わいのお話でした。
>丁寧で自分を抑えた語り口は戦前を思わせますが、
>「新幹線」とあるから昭和40年以降の事柄ですよね。
>アップされたのが終戦記念日だったので、深読みしてしまったのですが、
>先生の待っている人は、太平洋戦争で召集されたまま帰ってこない人
>という設定かなと思って読みました。
>でも、気候は、今年の夏のようでもあるし、
>じゃあ意外にも最近の話…?
>先生の待つ人は、ふらりと出かけてそのまま何年も音信不通になってしまった人?
>今の時代に!?はがきも電話もメールの一つもなく?
>とすれば、どこかで野垂れ死したか、
>あるいは、先生を捨ててしまったか…
>
>どちらの設定が、より不幸なのか、わからないなぁと思いつつ、
>何度か読み返しています。

時代の設定は、細かく設けないことにしました。とりわけ、メールや携帯電話といったアイテムを出したくなくて、あえて書きませんでした。ですが異常気象はここ最近のことですし、新幹線もBeiさんの仰る通りで、色々と混在していると思います。時代、もしくは先生が待つ人との背景は、読む方にゆだねてあります。
なのでBeiさんが色々とご想像くださって迷われているのは、私の思惑通りです。じゃんじゃん想像してやってください。広がりのある文章を目指しました。

>「私」は、「醜い心がある」と言っていますが、
>ひとつも醜いとは思えない。
>人は、一番望む形で幸せを得られなくても、
>どうにか折り合いつけて、
>違う形の幸せを見つけることができるのだと思います。
>七生がいるからこそ、先生は安寧でいられる。
>これも、一つの幸せの形ではないでしょうか。

私もそう思います。私は、このふたりは本当に心から安らいでいると思っています。淋しさから求めたとしても、お互いにあまいところばかり吸った関係だったとしても、不思議に落ち着いた、安定した生活であるとも思います。今回、とても淋しい雰囲気でひょっとすると読む方を選ぶかな、と危惧していたのですが、このようなコメントを頂けてとても嬉しく思います。素敵すぎて表へ貼り出したいぐらいです。(笑)
ありがとうございました。

栗子
【2014/08/18 07:37】
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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