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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 ◇

 不意に秋空のにおいを嗅いだ気がして夕は振り返ったが、そこは会社だったので秋空がいるはずはなかったのだ。秋空はコロンの類などつけないが、独特の、こうばしく奥に甘いような香りをまとっているときがある。多分、発情して心拍数があがり、発熱したとき、とりわけうなじや手首の裏から香るのだ。そのにおいはいま自分から発せられていると気づいて、夕はひとりうつむいて顔を赤く染めた。明け方までしっかりと秋空の腕に包まれて眠ったせいだろうか。自分の体が自分のものじゃないような気がした。
 恋をするとはそういうことなのだろうな、と二十二年間生きてきてようやく実感する。この実感が、自分に訪れるとは想像だにしなかった。朝別れたばかりの体が、もう恋しい。秋空の力強い手指や、かたく触れた腹筋、情事にしか聞けないうめき声が体の奥底によみがえって、夕はしばらく窓辺に佇んだ。
 秋だと思っていた空は冬に変わった。窓から見える街路樹はすっかり葉を落とし、しんと澄んだ空を白々と映している。もう暖房なしでは日を過ごせないし、通勤用のコートはウールのものに替わった。体温の高い秋空は晩秋まで薄着でいたが、いまは出掛ける際に厚手のカウチンニットを羽織って出てゆく。
 会いたいな、と思う。会うためにはあと三時間、仕事をこなさねばならない。今日秋空はアルバイトが休みで、同じく詩子も休みを取っている。父親の命日なのだと聞いた。三時間後には駅前で待ち合わせているが、詩子も顔を見せるだろう。
 付き合いはじめて二週間、まだ二週間だ。それでも恋に浮つく気持ちより、いやな感じがした。自分に似合わないことをしている、と思う。着慣れない服を着ているような。秋空が睦言を囁かないことも起因しているのかもしれない。彼は決して、好きだとか愛しているとか、そういう言葉を口にしなかった。最初の一夜を除いて、「来てよ」だなんて言わなかった。ただ無言で夕の体の愛撫にかかる。
 恋とはこんなに静かに進行するものだろうか、と思うぐらいに深々とふかく静かで、音がしなかった。聞こえるのは自分の心音ぐらいだ。夕が鈍いせいかもしれない。ただ、心がざわめき、いつも緊張しているので、夕には歓迎しがたい事態でもあった。
 今朝、秋空は静かなまなざしで「今夜は少し話をしよう」と言った。その話が、雑談などではなくなにか重要な事柄を含んでいることは、語られずとも知れた。夕にはその内容が推測できない。
 待ち合わせ場所には、案の定詩子がいた。
 三人は駅前を少し離れて、飲み屋街の一角に腰を据えた。秋空が飲まないと言ったから、夕も飲まない方がいいような気がして、結局アルコールを注文したのは詩子だけだった。話題の中に、詩子の夫、秋空の父のことが語られた。夕ははじめて聞く話だったのだが、登山家で冒険家で写真家で、紀行文を写真とともに山岳雑誌や旅雑誌に寄せていたようだった。
「ほんと、秋空はお父さんそっくりに育っちゃった」と詩子がぼやいた。
「定職には就かないわ、すぐ旅に出るわ、余計な心配ばかりさせるわ」
「そんな方と、詩子さんはどうして結婚されたんですか?」くすくすと笑いながら尋ねると、「目が澄んでいて綺麗だったから」と彼女は答えた。
「ちょっと変わった見方をする人でね、不思議な口説かれ方をしたわ」
「なんて?」
「人は星だから、いまぼくときみはこうして一緒に巡っているけれど、公転周期がずれれば離れるだろう、と。ふつう、恋をしたら会いたいとか一緒にいたいとか思ったり、伝えたりするでしょう? それがはじめから別れが前提なんだもの。頭きて、ならどこまでその周期が一緒になるか試しましょう、と言ったのよ」
 それは、秋空から聞いた話とそっくりだった。彼は夜空の星を見上げて、夕に「おれたちは星だと思う」と、つい先日語ってくれたばかりだった。
「それで結局、結婚四年目に死んで終わっちゃった。変な人だった」
「変な人」
 これに笑ったのが秋空だった。「じゃあそっくりなおれも変かよ」
「変人よ」
「変人と結婚して子どもまで産んだんだからおふくろもよっぽど変人だな」
「ま、そうね。友達みたいに大学で遊びつくして男をみんな従えて、でも結婚する人は堅実な公務員か銀行員がいい、っていう人生はいやだったのよ」
「おふくろらしいな」
「ありがと」
 夕は彼らの話をぼんやりと聞いていた。夕は詩子のように前向きになれない。別れが前提と考えている秋空に対して、じゃあどこまで添えるか試そうよ、だなんて挑発的なことは言えなかった。それを言うには、あまりにも自分に対して自信がなさすぎた。
 急激に心臓が冷えた。今夜秋空がなにを言いたいのかはまだ分からないが、「人は星だから」と言って唐突に別れを切り出されるのではないだろうか、という不安が渦を巻いた。夕は膝の上でぎゅっと手を握り締める。
 会計は、きっちり三等分だった。同じ方向の電車に三人で乗り、詩子が先に降りた。目的の駅で電車を降り、秋空のアパートまでの道をふたりで歩く。そういえば最近はろくに家に帰っていない。歩く先に星が見えて、秋空が「星」と指さした。
「おれがWに行って見た星の話をした?」
「ん、……聞いてない」
「すごかったんだよ、星が。島を案内してくれた知人が南十字星を教えてくれた。天の川もくっきり見えた。この街に住んでいると、星はあんまり見えないな、やっぱり」
 恋人は瞳を煌めかせて旅の話を語る。Wからあらゆる国々へ話題は飛んだ。カナダで見たオーロラの話。パリの曇り空。タイの屋台で食べたバナナの揚げもの。ハワイのフラ。
「たくさん、いろんな国へ行っているんだね」
「いや、おれなんかまだ全然行ってない方さ。本当はもっといろんなものを見たいんだ。たとえばオーストラリアの砂漠は夜になると星で影ができるって聞いたし、あとアイスランドは憧れだな。氷河があって火山があって間欠泉もある。ボリビアの塩湖も行ってみたい。鏡みたいに空と地平線を映して、どこに立っているのか分からなくなるような不思議な光景が……」
 滑らかに唇から紡がれる夢は、秋空の心そのものだった。ああ、と夕は直観する。恋人は外へ出たがっている。それを夕に伝えたいのだ。夕は恋人の夢を聞きながら、悲しくなっていた。嘘でもいいから夕が一番だと言ってほしかったのだと気づく。なんという浅ましさ。そんな魅力もないくせに、そんな人間でもないくせに。
 恋をしてずるくなったり、身勝手になったりすることの、醜さを噛みしめる。こんな思いをするくらいだったら恋はいらない、とさえ思う。それでもこの恋を手放す気にはなれない。一度心に熾った炎はちいとも消えず、勝手に油を継ぎ足しては煙をあげて燃え盛ってゆく。波立つ心のまま、今夜このまま恋人のもとにいたら夕は壊れると思った。だから「僕、今日はやっぱり家に帰るよ」と努めて冷静な声で言った。会話のタイミングとしては最悪だったが、構えやしなかった。
 秋空は目を丸くし、「なんで」と言いかけて、首を打ち振った。これだけの態度で荒立つ人ではなかった。そして彼から出てきたのは謝罪の言葉だった。「ごめんな」
「おれ、旅のことになるといつも人の気持ちを考えられなくなる。――いや、もう今夜はこれ以上喋るのやめるよ。……送って行こう」
「――いや、ひとりで歩きたい」
「そうか」
「うん」
 じゃあ、気を付けて、と言って恋人はアパートの方向へ歩いてゆき、夕はしばらくその場に佇んでから、くるりと向きを変えて駅へと戻る。この街では星はあまり見えないと秋空は言ったが、それでもどうして、澄んだ夜空だった。白く吐いた息が天へとのぼっていく。
 家に帰りつき、風呂を済ませて横になってもなかなか寝付けなかった。そうかこれが眠りに苦労するということなのだな、と夕は秋空の不眠を思う。今夜秋空は眠れているだろうか。そう考えつつもうつらうつらとし出したころ、秋空からメールが届いた。はっと飛び起きて内容を確認する。長いながいメールだった。

『今夜話そうと思っていたことはまた後日改めて、対面で話そうと思っていたんだけど、うまく眠れないので、ごめん、メールを送ります。
 人は星だ、という話は、親父がしていた理屈をそっくりおれが受け継いだ。と言っても親父はおれが三歳のときに死んでいて、おれは彼のことをほとんど覚えていない。おふくろが、後からよく話してくれたせいだと思う。いつの間にかおれもそう思うようになっていた。人は星、巡り合わせの公転周期、いつか離れる。
 そうやって考えていたから、いままでどの恋人の、誰とも長続きしたことがなかった。おれ自身も旅にとらわれすぎて、半年間音沙汰なしとか頻繁にあったから、そりゃ向こうもなんだよって話だ。自然消滅っていうパターンがほとんどだった。一度だけきっぱりと振られたことがある。明日からトルコへ入るっていう日で、向こうひと月日本には帰ってこない予定だった。恋人は、『いますぐここで航空券を破るか僕にひっぱたかれるかどっちか選んで』と言った。おれはどちらも選べなかった。恋人はパンとおれの頬を強く張って、『ばか、死んでしまえ』と吐き捨ててそれきり連絡が取れなくなった。
 どうして旅にこんなにもとらわれるのか、おれも知りたい。知りたいから旅をしているのかもしれない。はじめて旅に出たのは十五歳の夏だった。夏休み、ひとりで自転車で旅に出たんだ。はじめて自分の足で到達した岬は、感動だった。この街からは海が見えないからな。それから高校生のうちにこの国は大体まわった。それでも欲が尽きなくて、大学で英語を専攻していたこともあって、はじめは短期留学というかたちで海外へ出たけど、それじゃ全然物足りなくて、同時に知れた。おれがしたいことは誰かとのコミュニケーションじゃなくて、この星を隅々まで見て回ることなんだな、って。
 皮肉にも、死んだ親父といまほとんど同じ道を辿っている。
 年内は日本にいる。かろうじている。年が明けたら、おれはポリネシアの島々を旅しようと思っている。いや、思っている、じゃない。行くんだ。もう決めたことだ。どれくらい行っているかはまだ分からないけれど、ビザが許す限りで行きたい。最低でもたぶん三か月は、行っていると思う。
 おれはあなたのことが好きだ。その好きは、いとおしいとか、大切にしたいと思う気持ちの総称だ。でも旅には出る。夕が傍にいてくれたらと思う一方で、旅はやめられない。多分、一生こうなんだと思う。親父がそうだったように。
 そういうおれがいやなら、別れてほしいと言われても無理はない。おれは頷くだけだ。でもわがままなことに、おれは別れるつもりは全くない。あなたはきっと、――こんな強欲、呆れるね。
 明日はバイトのシフトが夜間だから、会えない。明後日は土曜日だ。もし夕さえ良ければ、デートしよう。
 クリスマスだって騒いでる日本のこと、おれは結構嫌いじゃないんだ。
 長話してごめん。おやすみ。」

 夕はほっとした。ほっとしたと同時に、猛烈に淋しくなった。肌が、恋しくなった。
 これをメールで言うのはずるいと思った。


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ねこさま(拍手コメント)
いつもありがとうございます。
久々の更新となってしまいましたが、楽しんでいただけているようでほっとしています。
更新は本日17時の分でひとまずおしまいです。最後までお付き合いいただけると嬉しく思います。
拍手・コメント、ありがとうございました。
粟津原栗子 2015/11/05(Thu)07:29:08 編集
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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