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卒業コンサートが終わった日のうちには、諏訪に会えなかった。部屋で隣の様子を窺いながら待っていたのだが、諏訪は帰寮しなかった。根負けして眠ってしまった春見は、明け方になって寒さで目が覚めた。足が冷たくてたまらない。それでも温い布団をなんとか剥がして起き上がってみると、カーテンの向こうはうす明るかった。
二段ベッドの梯子を下りる。尾田も帰寮していないのは、彼女のアパートに泊まりに行っているからだ。春見は窓辺へ寄って、カーテンを開ける。そこは、真っ白だった。ぼたぼたと雪が降り積もっている。春も近いこんな時期に、名残り雪だというのか、雪が降っていた。
これでは庭の梅の花は凍ってしまうだろう。せっかく咲いた。慌ててダウンジャケットを引っ張り出して、春見は部屋を出る。と、そこへ諏訪に出くわした。風呂の道具を持っていて、髪は濡れ髪だった。朝風呂からの帰りなんだろう。
諏訪はふい、と目をそらして春見の隣を通り抜けようとする。春見はその腕を不意に引いた。振り払われはしなかったが、諏訪はきついまなざしで春見を見た。
「――雪だよ」
「え?」
「雪が降ってる」
その台詞が意外だったのか、諏訪はしばらく沈黙した。それからぶっきらぼうに言った。
「知ってる。風呂場の窓から見えたから。雪が、なんだよ」
「せっかく咲いた梅が可哀そうだな、と思って」
「そうだな」
廊下から窓なんか、ましてや梅の花なんか見えないのに、諏訪は視線を遠くに向けた。と、くしゃみをする。雪が降るような陽気の中を、洗い髪のままで、立ち話をさせているのだ。着ている部屋着も薄い。春見は慌てて、諏訪を部屋に入るように促した。
「――部屋、来るか?」
ところが諏訪は、春見の度肝を抜くようなことを言い放った。
「今日この後予定がないなら。先輩からもらった日本酒がある。雪見酒と行こうじゃないか」
「……予定はない。……行く」
珍しく懐かれたことに驚いていた。
二段ベッドの梯子を下りる。尾田も帰寮していないのは、彼女のアパートに泊まりに行っているからだ。春見は窓辺へ寄って、カーテンを開ける。そこは、真っ白だった。ぼたぼたと雪が降り積もっている。春も近いこんな時期に、名残り雪だというのか、雪が降っていた。
これでは庭の梅の花は凍ってしまうだろう。せっかく咲いた。慌ててダウンジャケットを引っ張り出して、春見は部屋を出る。と、そこへ諏訪に出くわした。風呂の道具を持っていて、髪は濡れ髪だった。朝風呂からの帰りなんだろう。
諏訪はふい、と目をそらして春見の隣を通り抜けようとする。春見はその腕を不意に引いた。振り払われはしなかったが、諏訪はきついまなざしで春見を見た。
「――雪だよ」
「え?」
「雪が降ってる」
その台詞が意外だったのか、諏訪はしばらく沈黙した。それからぶっきらぼうに言った。
「知ってる。風呂場の窓から見えたから。雪が、なんだよ」
「せっかく咲いた梅が可哀そうだな、と思って」
「そうだな」
廊下から窓なんか、ましてや梅の花なんか見えないのに、諏訪は視線を遠くに向けた。と、くしゃみをする。雪が降るような陽気の中を、洗い髪のままで、立ち話をさせているのだ。着ている部屋着も薄い。春見は慌てて、諏訪を部屋に入るように促した。
「――部屋、来るか?」
ところが諏訪は、春見の度肝を抜くようなことを言い放った。
「今日この後予定がないなら。先輩からもらった日本酒がある。雪見酒と行こうじゃないか」
「……予定はない。……行く」
珍しく懐かれたことに驚いていた。
同じ間取りであるのに、諏訪の部屋は閑散としていた。ものがない。寮の備品である二段ベッドと事務机、棚のほかは、諏訪所有のものらしきものがあまり見当たらなかった。寮の規則では、家電や暖房器具の持ち込みが制限されている。ちいさな石油ストーブがひとつあるだけで、諏訪は「寒いから羽織れ」と言って、毛布を寄越した。
諏訪は事務机の脇に置いてあったサイドテーブルを引っ張り出して、その上に酒瓶を載せた。カーペットが敷いてあるわけではないから、じかに座るには床は冷たすぎた。毛布を身体に巻き付け、諏訪がグラスに注いでくれた日本酒を煽る。グラスはひとつしかないらしく、諏訪自身はマグカップに日本酒を注いでいた。
静かだった。耳をすませば雪の舞い散る音さえ聞こえそうなほど、音がない。諏訪に「髪乾かさなくていいの?」と訊くと、諏訪の答えは「勝手に乾くだろ」とのことだった。もし髪に触れることが出来れば、それはとても冷たいだろうと想像する。シャワーで温めた身体は簡単に冷えそうだ。こちらが身震いしてしまいそうだった。
「ピアノ、聴いたか?」
諏訪が訊ねた。
「聴いた。ピアノが二台あったから驚いた。てっきりひとりで弾くかと思ってたから」
「簡単な話だよ。ピアノの数が増えれば、振動の、ふるえの幅も広がる。ラフマニノフは重低音が響くから好きだ。おれの耳にも、届く」
「……あの人、誰?」
「あの人?」
「もう片方のピアノを弾いてた人」
諏訪は複雑な表情を、一瞬だけ浮かべた。そしてすぐに冷笑した。「おれが慕ってる院生だよ。仲がいいんだ。――今回もピアノを引き受けてくれた」
くい、と諏訪は酒を煽る。それから窓の外を見て、春見を正面から見て、「あんたはあんまり悲壮感がないな」とこぼした。
「悲壮感?」
「アパート、燃えたんだろう? 全部焼失したって聞いたけど、その割にはケロッとしてるように見えるから」
「ああ……実際、あんまり痛手だと思ってない」
春見は苦笑した。
「卒業間際だったせいかな。整理しようと思ってたもの、全部燃えた。幸い、貴重品だけは持ち出せたから、……まあ、買ったばっかりだったパソコンが燃えたとか、衣類が全くないとか、布団も燃えたとか、そういうのは困ったけど」
「そんなもんか?」
「そんなもんだよ。ああ、後片付けが大変だったな。あとは……んん、でも、寮に入れてもらえて助かった。寮費安いし、規則はあるけどどうせあと一か月程度だしな。寝場所もある。めしも食える。風呂も入れて、服も、なんとかなってる。自分はきっとラッキーだったんだと思ってる」
「……」
「よくさ、言うじゃん。不幸中の幸い、ってやつ。おれはそれなんだ」
「……そう、」
諏訪が黙ったので、春見も黙った。時間を確認すると、朝の五時だった。これではまだ寮の人間は休んでいる最中だろう。
諏訪が顔をあげた。薄い虹彩の瞳にまっすぐに見つめられて、どきりとした。諏訪はマグカップをサイドテーブルに置くと、ゆっくりと春見に近づいた。春見はどうしてよいやら、ただ目を離せない。春見の肩先に諏訪の毛先が触れた。体重が徐々に預けられる。
「――蝶、見るか?」
諏訪が春見の耳元で囁く。かすれていた。
「……近い間柄の人にじゃないと見せないんじゃないの?」
「淋しい」
その一言に、春見ははっと顔をあげる。諏訪は笑っておらず、泣きそうにも見えた。なにか壮絶な淋しさを、苦しみを、抱えているように思えた。
春見は「蝶は、見ない」と答えた。
「淋しいだけで、誰でもいいんだろう? だから、蝶は見ない。その代わり、抱いててやる」
と、春見は腕を広げ、諏訪を抱きしめた。上から毛布でしっかりと覆う。
「これで淋しさが紛れるもんかわからんけど、いまはこうしていよう」
「あんた、ひどい男だな」
「いつかちゃんと見るよ、蝶。きっと今日は――その日じゃない」
室内なのに、吐く息が白かった。諏訪を抱いたまま、春見はゆっくりと床に背を落とす。諏訪を抱いて、目を閉じた。人肌は安心で、徐々に身体は温まっていった。
← 3
→ 5
諏訪は事務机の脇に置いてあったサイドテーブルを引っ張り出して、その上に酒瓶を載せた。カーペットが敷いてあるわけではないから、じかに座るには床は冷たすぎた。毛布を身体に巻き付け、諏訪がグラスに注いでくれた日本酒を煽る。グラスはひとつしかないらしく、諏訪自身はマグカップに日本酒を注いでいた。
静かだった。耳をすませば雪の舞い散る音さえ聞こえそうなほど、音がない。諏訪に「髪乾かさなくていいの?」と訊くと、諏訪の答えは「勝手に乾くだろ」とのことだった。もし髪に触れることが出来れば、それはとても冷たいだろうと想像する。シャワーで温めた身体は簡単に冷えそうだ。こちらが身震いしてしまいそうだった。
「ピアノ、聴いたか?」
諏訪が訊ねた。
「聴いた。ピアノが二台あったから驚いた。てっきりひとりで弾くかと思ってたから」
「簡単な話だよ。ピアノの数が増えれば、振動の、ふるえの幅も広がる。ラフマニノフは重低音が響くから好きだ。おれの耳にも、届く」
「……あの人、誰?」
「あの人?」
「もう片方のピアノを弾いてた人」
諏訪は複雑な表情を、一瞬だけ浮かべた。そしてすぐに冷笑した。「おれが慕ってる院生だよ。仲がいいんだ。――今回もピアノを引き受けてくれた」
くい、と諏訪は酒を煽る。それから窓の外を見て、春見を正面から見て、「あんたはあんまり悲壮感がないな」とこぼした。
「悲壮感?」
「アパート、燃えたんだろう? 全部焼失したって聞いたけど、その割にはケロッとしてるように見えるから」
「ああ……実際、あんまり痛手だと思ってない」
春見は苦笑した。
「卒業間際だったせいかな。整理しようと思ってたもの、全部燃えた。幸い、貴重品だけは持ち出せたから、……まあ、買ったばっかりだったパソコンが燃えたとか、衣類が全くないとか、布団も燃えたとか、そういうのは困ったけど」
「そんなもんか?」
「そんなもんだよ。ああ、後片付けが大変だったな。あとは……んん、でも、寮に入れてもらえて助かった。寮費安いし、規則はあるけどどうせあと一か月程度だしな。寝場所もある。めしも食える。風呂も入れて、服も、なんとかなってる。自分はきっとラッキーだったんだと思ってる」
「……」
「よくさ、言うじゃん。不幸中の幸い、ってやつ。おれはそれなんだ」
「……そう、」
諏訪が黙ったので、春見も黙った。時間を確認すると、朝の五時だった。これではまだ寮の人間は休んでいる最中だろう。
諏訪が顔をあげた。薄い虹彩の瞳にまっすぐに見つめられて、どきりとした。諏訪はマグカップをサイドテーブルに置くと、ゆっくりと春見に近づいた。春見はどうしてよいやら、ただ目を離せない。春見の肩先に諏訪の毛先が触れた。体重が徐々に預けられる。
「――蝶、見るか?」
諏訪が春見の耳元で囁く。かすれていた。
「……近い間柄の人にじゃないと見せないんじゃないの?」
「淋しい」
その一言に、春見ははっと顔をあげる。諏訪は笑っておらず、泣きそうにも見えた。なにか壮絶な淋しさを、苦しみを、抱えているように思えた。
春見は「蝶は、見ない」と答えた。
「淋しいだけで、誰でもいいんだろう? だから、蝶は見ない。その代わり、抱いててやる」
と、春見は腕を広げ、諏訪を抱きしめた。上から毛布でしっかりと覆う。
「これで淋しさが紛れるもんかわからんけど、いまはこうしていよう」
「あんた、ひどい男だな」
「いつかちゃんと見るよ、蝶。きっと今日は――その日じゃない」
室内なのに、吐く息が白かった。諏訪を抱いたまま、春見はゆっくりと床に背を落とす。諏訪を抱いて、目を閉じた。人肌は安心で、徐々に身体は温まっていった。
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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