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寮にはピアノがあった。これが意外で仕方がなかったが、置いてあった。ピアノ室なる部屋があり、そこにグランドピアノがあった。ピアノだけでいっぱいになるような部屋の狭さだったが、たまにぽろぽろと、部屋から音が漏れていた。
春見が所属するこの大学は、十の学部が存在する大きな総合大学だ。おんぼろの学生寮には様々な学部の学生が集っていた。その中には芸術学部があり、映像や音楽、舞台芸術を学べる学科もあったので、ピアノが置いてあるのは必然だったのかもしれない。だが日ごろ音楽とは遠い生活をしていた春見には、寮にピアノがあるということが、不思議に思えた。
ピアノ室から音が漏れている。ポーン、ポーンと一音だけが間隔を置いて鳴らされている。いまこの寮の中でピアノを常習的に弾くのは、音楽科の諏訪だけだという。だがそれにしても一向に曲が鳴らされない。調律でもするかのように、一音ずつしか鳴らないのだ。
尾田に聞くと、「諏訪さんはいつもそうだな」と答えた。
「曲を弾いているところは、あんまり聞いたことがない。音を鳴らして遊んでいる感じだ」
その姿も、意外に思った。諏訪は固く真面目で、いつも眉間にしわが寄るような、きつい顔立ちを崩さない。だから「遊び」などという言葉がほとほと似合わないのだ。
卒業までの残り一か月半を、春見は学生寮で過ごすことにした。
後期の授業はすでに終了していて、卒業論文も提出し終えたし、あとは卒業式を待つだけだ。だから実家に帰ってしまうのも手だと思ったが、なにぶん実家は遠すぎた。雪の多い町なので、冬場だけは帰りたくないと思っている。そこへ帰るよりも、もう少しアルバイトを続けて、仲間たちの暮らすこの街にいたいと思った。
尾田がこの寮を出ていくのは三月最終日だと言った。もともと、一部屋につきふたり入ることが基本となる寮はいま、定員割れしているおかげでひとり一部屋ずつもらえている。ふたり部屋をひとりで使うと寮費は少し割高になるが、ふたり部屋をふたりで使うとなんとひと月五千円で暮らせるという。尾田に訊けばあっさりと「いいぜ」と言ったので、尾田と同室扱いにしてもらって入寮した。最低限の家電は揃っているし、布団もある。誰かと暮らすことに抵抗はない性質だった。寮の規則は守らねばならないが、門限があるとかそんな寮ではなかったので、卒業までの思い出作りのような気持ちだった。
尾田の部屋は諏訪の隣で、だから諏訪にはよく出くわした。週に一度の寮生ミーティングで「卒業までのあいだだけどよろしく」とあいさつをしてみたが、諏訪の反応は薄かった。それからコンパに流れたのだが、諏訪は不参加と言って、すぐ部屋に閉じこもってしまった。
諏訪は徹底的に無口で、言葉を発しなかった。たとえば朝起きて炊事場で出くわしても、おはようの一言さえない。よくこんなコミュニケーション不足で寮生活を四年も送れたな、と思うぐらいだ。誰に対してもそうなの? と尾田に訊けば、尾田は「そうだな」と言う。「諏訪さんのことはあんま気にすんなよ。気にするだけ割食っていやな思いするだけだから」と助言も受けた。どうにも寮生のあいだでの諏訪の評価は低すぎたが、春見はむしろ諏訪のことが気になった。出会いの素肌の記憶が生々しく残る。触れたわけではないのに、触覚を強く意識した。指が勝手に諏訪を求め、空を叩いている。
その気持ちをはっきりと恋だと自覚できたのは、まもなく三月、というころだった。諏訪のピアノを聴いたのだ。正確には、見た、と言う方が正しい。いつものようにアルバイト先から帰寮して、ふと寮の門をくぐると、梅の花が綻んでいるのを見つけた。その先には寮の建物があり、ちょうど一直線で、ピアノ室の窓が見えた。窓の向こうには諏訪がいた。右耳をグランドピアノに押し当て、眠るように目を閉じて、ポーン、ポーンと一音一音を鳴らしていた。
春が近い。窓から差し込んだ日差しの下に、諏訪の肌が白く発光するかのように存在していた。グレイのTシャツに、カーディガンを羽織っている。首筋はなまめかしく、脊椎が浮いているのが分かった。
音と視覚。それは強烈な感情を伴って、春見を襲った。打たれたまましびれ動けないでいる。いつまでも眺めていたかった。あるいはいますぐ部屋を訪れて、諏訪に触れたかった。
呆然と立っている春見の視線が、どこで分かったのだろうか。ふと諏訪は身体を起こし、窓の外を見た。梅の花越しに視線がぶつかる。
諏訪の表情は、いつもと変わらないように思えた。きつく、人を拒絶するようなまなざしだ。しばらくふたりは視線を合わせたままでいたが、諏訪の方から目をそらした。それからピアノの蓋を閉めると、おもむろに立ち上がり、部屋を出て行ってしまった。
まるで人に慣れない獣のようだと思う。その逃げ足を、追いかけてみたくなった。玄関へまわり、靴を脱ぐのももどかしい思いで、春見は寮の内部へ入る。廊下を駆ける。食堂を抜けて階段をあがると、自室には向かわず、その隣の諏訪の部屋の扉を叩いた。
「諏訪さん、諏訪、おい、諏訪っ」
ドンドンと扉を叩き続けると、根負けした諏訪が煩わしげな顔で扉を開けた。対面して、近くで視線を合わせて分かった。諏訪は瞳の色が薄い。透き通る茶色い虹彩越しに、諏訪という人柄が分かる気がした。――人を拒絶するようでいて、実は怯えている、ということ。
「あ、のさ」
「……なに、」
諏訪は視線を逸らした。それでも発した言葉には、硬さはあれど拒む響きは感じられなかった。春見はほっとする。その安心感は自分でも分かるほど顔に出た。春見の唐突な笑顔に、諏訪は面食らったようだった。
「腹に刺青があるって本当?」
質問には、さらに面食らっただろうと思われる。春見自身もまさかこんな直球を投げようとは思いもしなかった。諏訪はまるくひらいた目を瞬かせた。怒られると思ったのに、諏訪はため息をついただけだった。
「――確かめてみるか?」
「えっ」
「おれがゲイだってことも聞いているんだろう? おれは親しい人間にしか身体を見せないことにしている。親しいってのは、心もそうだけど、身体の距離の話だ。見たところあんたはゲイって感じじゃないけど、おれのことは、気になってる。違うか?」
あからさまな挑発だった。思いがけない展開に、春見はうろたえる。つまり、諏訪の腹が見たいなら身体の付き合いをしろ、というところか。わずかなためらいが伝わったのだろう。諏訪はそら見ろ、という風にうすく笑って見せた。
「その気がないならおれに興味なんか持つな。ちょっと噂があるぐらいで、面白がりやがって」
「そういうわけじゃ、」
「じゃあなんだよ」
「……ごめん、さっきの質問は、配慮が足りなかった。おれが悪かった。ただ、諏訪が、……ピアノを鳴らしている姿は、単純に好きだと思った」
好き、と言語化してはじめて、そうか恋だと自覚できた。こうして話が出来ることが嬉しい。たとえ諏訪の方は、その気がなくても。
好きだ、という言葉に諏訪はピクリと反応した。睨みつけてくる。その人馴れしない仕草が、春見には微笑ましく思えた。
「どうして曲を弾かないんだ?」
尋ねると、諏訪は「振動を楽しんでいる」と答えた。
「振動」
「音には振動が付きものだ。おれの右耳はあんまりよくないから――なんでもいいから鍵盤叩いて、音のふるえに浸ってるんだ」
「ピアノ、好きか?」
「あんたよりは確実に」
「はは」
春見は笑った。笑いながら、どうやったらこいつも笑うかなあと考えていた。醒めた瞳が、弧を描くさまが見たい。
「今度、ピアノ聴かせて」
甘えた声が出た。こんなのは、恋人にだってそうそう聞かせない、という甘さだ。諏訪はそれが嫌なのか、困るのか、またきゅうっと眉根を寄せた。なかなか笑ってくれない。
「金、取るぞ」
「それぐらいすごいんだ?」
「超絶技巧」
「へえ、聴きたい」
諏訪はますます表情を険しくする。でも春見をそんなには厭ってはいないと分かる。そのもの慣れない感じが、やはりいいなと思った。
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暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
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お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
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甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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