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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 音楽科四年の諏訪(すわ)の腹には、蝶の刺青が入っているのだと聞いた。それは真っ黒な蝶だという。諏訪の噂は、ほかにも聞いた。片耳が聞こえないとか。それは小さいころに実父から暴力を受けていたせいだとか。ゲイであるとか。
 こんなことってあるのか、と煤臭く騒がしい周囲の中で、春見(かすみ)はただただ茫然としていた。
 二月、借りていたアパートが燃えた。夜間の火事で、隣の部屋から出火した。旧式のストーブから出火したと言い、木造の古いアパートはたちまち火に包まれた。死人どころかけが人すら出なかったのが幸いだったが、一年で最も冷え込む時期に、春見は焼け出され行き場を失った。
 かろうじて持ち出せた貴重品の類だけが春見の手元に残った。衣類、布団、家電、テキスト等は、すべて燃えてしまった。火事を聞きつけた友人の尾田(おだ)に「とりあえずこっちに来な」と誘われて、春見は尾田の暮らす大学の学生寮に待機することにした。ここも古い寮で、定員割れしているから部屋には余裕があるという。ひとまずは来客扱いで、尾田の部屋にやって来た。部屋の暖房は切られていたが、屋内にようやく来られて、春見はほっとする。
 それが明け方のことだった。尾田の案内で、湯場をつかわせてもらうことになった。身体中が煤臭くて仕方がなかった。湯船に湯が張られている時間は夕方六時から夜十時までと決まっているが、シャワーだけは二十四時間つかえるのだという。尾田から石鹸とタオルと着替えのジャージを借りて、浴場に向かう。こんな時間なのに、湯からあがって着替えている男がいた。下着と長袖のTシャツだけを身に着けて、髪を拭いている。春見に気が付くと、特になにも言わずに頭を軽く下げただけだった。
 浴場は広く寒々としていて、タイルの冷たさには参ったが、シャワーの出はよかった。熱い湯に打たれて春見はしばらくじっとしていた。身体を丁寧に洗い、温め、風呂からあがると朝の六時だった。尾田の部屋に戻ると尾田は起きて待っていてくれていた。とにかく身体の冷えていた春見に、温かいコーヒーを入れてくれた。ミルクがたっぷりと入り、ブランデーも垂らされていた。
「朝風呂してる誰かに会った」と話すと、尾田は「ああ」と頷いた。
「諏訪さんだろ。痩せてて、肌が白くて、黒縁眼鏡の」
「諏訪さん? 院生か?」
「いや、同期だよ同期。おれたちと同じ四年でこの春卒業。――だけどなんとなく取っつきにくくてな、同い年なんだけど、みんなさん付けで呼んでる。いつも朝風呂なんだ」
「寮の入浴時間っていうかさ、湯船に浸かれる時間って決まってんだろ? こんな明け方に入って、寒くねえのかな」
 タイルの冷たさを反芻しながら言うと、尾田はず、とコーヒーをすすってから言った。
「噂がある。諏訪さんの身体には小さいころの虐待を受けた痕が残ってるとか、刺青が入ってるとか。あとあの人はこっち側の耳が、悪いんだと」
 とんとん、と尾田は人差し指で自らの右耳を指した。
「聞こえないってこと?」
「聞こえるは聞こえるらしいけど、遠いみたい。たまに補聴器っぽいものつけてる、とか聞いた。俺は見たことないけどな」
「うーん」
 考えるに、あまり見られたくない身体である、ということなのだろうか。だから変な時間に人目を気にして入浴している。だが虐待されたの、傷が残っているの、刺青があるの、なんだのと、それらは悪質な噂に思えた。先ほど脱衣場で見た身体(露出しているのは足だけだったが)は、白くなめらかで、そのようには見えなかった。
「あとはゲイって噂」
「ゲイ、」
「なあ、今日、どうする?」
「――もうちょっと明るくなったら、アパートの様子見に行く、かな。大家さんに連絡取ってみる。バイトが夕方からあるけど今日は休ませてもらう。そうだ、服貸してくれないか?」
「俺のだとサイズがでかいだろ。もうちょっと待ってられるか? 二年の西岡(にしおか)あたりがおまえのサイズとちょうどいいような気がする。西岡には連絡しとくから」
「色々と悪いな、迷惑かけた」
「いいってことよ。さ、ちょっとは寝ろ、おまえまるっきり眠れてねえだろ。二段ベッドの上空いててさ。布団敷いといたから、寝ろ」
「布団、あるのか?」
「来客用のが。寮の備品さ。干してないから、臭いかも」
「いや、充分だ。ありがとう」
 梯子をのぼって二段ベッドの上に横になる。そうか、ふたり部屋だったのだな、ということが分かる。よっぽど定員割れしているのだろう。
 身体は温まっていたから、すぐに眠りに落ちた。落ちる間際に風呂上がりの諏訪の身体がぱっとよぎった。すらりと下に伸びた白い足。黒い髪。きついまなざし。


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佳子さま(拍手コメント)
お待たせして申し訳ありません。「待ってました」のお言葉、嬉しい限りです。ようやく更新が出来て、私もほっとしています。
全10話ですので、今月いっぱい更新が続きます。お付き合いください。
拍手、コメント、ありがとうございました!
粟津原栗子 2016/02/21(Sun)08:02:12 編集
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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