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鴇田の天気予報は当たりで、宿に着くより前に本格的な雨が降りはじめた。I大社から離れない場所にある温泉街に宿を取っていたが、車を突っ込むころにはどしゃぶりで、荷物の運び入れに苦労した。チェックインを済ませ、部屋にたどり着く。ツインベッドの洋室を頼んでおり、雪崩れるようにベッドにダイブした。
温泉街だから泉質に自信のある宿で、広い大浴場と露天風呂があるという。車移動だったからひどく濡れたわけではなかったものの、冷えが身体にべったりと張り付いている。鴇田を風呂に誘ったが彼は緩慢に首を振った。
「あとで行きます」
「そっか。ならおれ先にもらいますね」
なんだかなあ、と沈んだ気分で浴衣とタオルを提げて大浴場に向かう。鴇田も楽しみにしていてくれていると準備段階では思っていたのだが、こうやって来てみたら予想外に盛り上がらない。あれは明らかになにかあったんだよな、と推測をしてみる。昨夜の電話も怪しかった。会社で落ち込むような失敗でもしたとか――いや、鴇田はおそらくそういうことのないように心がけて仕事をする人だし、そういう理由で落ち込んでいるならなおさら逃避の意味のある旅行は楽しいはずだ。
暖がなにか無神経なことでもしたとか。例えばで思いついたのは西川に借りたAVのことだったが別にやましいとは思っていない。性欲を解消するために借りたわけでもなく、中身も西川が勧める通りにただ甘い関係のふたりにカメラが入った、という感じだった。鴇田としたいな、と思えるような内容だったので、学習的な意味合いが強い。それにものはもう返却している。
なんだろうなと考えつつ風呂に浸かっていたらつい長風呂になった。あまり客もいなかったため、気兼ねなく堪能してしまった。先ほどよりは幾分かさっぱりした心地で部屋に戻ると、鴇田は暖を見送った姿勢のままで固定されていた。まるで彫像にでもなったかのようで、さすがに心配になった。
「鴇田さん」
声をかけ、近くに寄る。声だけで身体がこわばったのが分かった。よくないなと思いつつ「触りますよ」と声をかける。
「……」
「いい? 触るからな」
そっと髪に手を伸ばし、ぽんぽんと軽くはたく。温まった暖に反して冷たい髪だった。頬まで冷たい。部屋の空調が効きすぎていることに気づき、操作して室温を上げた。
髪に触れる暖の手首に、鴇田の指がゆっくりと絡んだ。「熱い」と彼は感想を漏らす。
「いいお湯だった。さっぱりしますよ。……鴇田さんさ、なにかあったんだろ」
「……」
「もしくはおれのことでなにか嫌になったり、気にかかっていることがあるんだったら話してほしい。……こういうのは言葉にしないと、分からない」
ごろごろ、と外から大きな音が響いた。雷鳴が轟いている。雨はひどくなる一方で、部屋の扉を開けたらたちまち水に襲われそうな気さえしてしまう。
「昨夜、電話をくれる前になにかあったんじゃないかな。というより、なにかあったから電話をくれた」
「……昨夜、店に」
「店?」
昨夜は出番じゃなかったはずだよな、と思いながら隣に腰掛ける。
「蒼生子さんが来て、すこしだけですが、話をしました」
全く予想しない出来事だった。別れた前妻が鴇田と接触した。自分を全く通さずに。――湯で解けた緊張が急速に固まっていくのを感じた。
「連絡、取ってないんですね」
「必要があれば取れるようにはなってるけど、必要がないから。……彼女、なんで、」
「近くの店で婚活支援の集まりがあって、その帰りに立ち寄ったんだと言っていました。僕は店に行く予定はなくてアパートにいたんですが、伊丹さんから僕に会いたがってるお客さんが来てるけどどうしようかと連絡をもらって。普段なら行かないんですが、名前を聞いたら蒼生子さんだと分かったので、……迷って、行くことに」
行かなくてよかったんじゃないかと思う。いい思いをしないはずだから。暖は黙って聞く。
「三倉さんに会っているかと訊かれ、返事に詰まっていたら、いつかは申し訳ないことをしたと丁寧に頭を下げられました。感情的に行動して謝罪もしなかったから、と。それだけだったんです。それだけで蒼生子さんは帰りました。僕も帰った。けど、……ずっとここに、おさまりがつかなくて」
ここ、と鴇田は自身の胸に手を当てた。暖はそれを痛々しい気持ちで見つめる。おそらく前妻に鴇田を混乱させる意図はなかっただろう。だが彼女自身まだどうしていいのか分からない場所にいるのだと分かって、どうしようもなくなった。おそらくは衝動的な行動で店を訪れた。普段は平然と笑ってなんでも許すくせに、一度こうと決めると一直線で感情のままに動くときがあった。そういう女性だった。
「……僕は明日からあなたと旅行だと浮かれていたから、蒼生子さんを見て本当に衝撃を受けました。あの人はもしかするとまだ、あなたに未練があって」
「それは違う」と暖は否定する。
「おれたちは円満離婚で、離婚届を出しに行くときも――いえ、これはおれたちの話なのでいまは詳しくは話しません。でも別れ際には笑って別れたんです。財産分与も、やっぱり離婚するかしないかも、とにかくよく話し合った結果がいまです。未練があったとしてももう済んだ話なんです。区切りはつけた。それにあなたはなにも関係しない。おれたちの話だから」
「……未練はなくても、後悔はしているかもしれないじゃないですか」
「……それも、彼女自身の話です」
「あんなに子どもが欲しいって言って頑張ってたふたりなんでしょう。それを僕は、僕が苦しいからという理由であんたに散々好きだと言って、壊してしまったんだという感覚がどうしても拭えない。あんなに望んでいただろう人はもう、三倉さんに触れることはないんです。……それは精神的にも肉体的にもものすごいダメージなんだと思った。近かった人がいなくなる感覚は僕には分からないけど、辛いことは想像できる。……僕が望んで壊した関係だと思ったら、あんたとの距離が急に怖い……触れない」
「……なんだそれ……」
ふつふつと血が上昇して耳鳴りがした。離婚協議中でも感じなかった怒りと興奮を感じた。血が湧き立ち、湧くほどに頭が冴えるような、嫌な冷徹。
「彼女が苦しんでいても、吹っ切れていても、いまおれにはどうしようもないし、どうもしない。どうもしない関係になりましょうって話しあって決めて実行したんです。そしてそれらは、本当にあなたには関係のない話だ。あなたがそこまで考えて追い詰められる必要はどこにもない。あなたが壊した関係ではないし、強いていうなら、おれが望んだ未来なんだよ。……なんなの。おれは別れた嫁さんに対していつまで義理堅くいなきゃいけないの。そういう理由であなたはおれを拒むのか。そういう理由でおれたちはいつまで経っても、触れられないままか? あなたが壊した関係だと思うなら――」
放り投げて逃げるなと言いそうになり、言葉を飲み込んだ。そこまで言うべきではない。傷ついているのは鴇田だ。
それでも蒼生子を、そして鴇田を非難する言葉がいくらでも脳に浮かんだ。頭が煮えて煮えて仕方がない。暖は立ち上がった。じっとしたままこの部屋にいられないと思う。
「――ごめん、苛々して八つ当たりをしました。頭冷やしてくる」
そう言い残して部屋を出た。どうすることも思い浮かばず、どしゃぶりの中傘を借りて歩き、こぢんまりとした共同浴場を見つけた。地元民が利用するような簡素な浴場で、そこに浸かった。半露天みたいな風呂には誰もおらず、熱い湯に浸かりながら雨に当たるのはわるくないと思えた。
わるくない。蒼生子も、鴇田も。誰かが悪者だったらよかったのにな、と思う。そいつのせいにして思い切り悪態をつけば、すっきりして旅行を続けられる気がする。
衝動で鴇田に会ってしまった蒼生子には、まだ暖に対する未練があるのだろうとは思う。後悔か。それをまともに食らってしまって鴇田は動けない。暖に触れられない。
わるいのはおれだな、と空を向いて考える。雨粒がびたびたと頬に当たる。蒼生子だけを大事にしていたり、鴇田を好いたりしなければ、どちらかは傷つかなかったかもしれない。もしくはもっと思考して行動していたら。一歩一歩石橋を叩いて叩いて渡らないような選択をしていれば?
暖はいい人間じゃない。人生は楽に気負いなく生きたい。それでも好きだと言ってくれる人に対して誠実でありたいと思って行動しているつもりだった。その結果がこれなのだから、やり方が間違っていたのだろうか。
否、と思う。蒼生子を大事にしていても辛かったし、鴇田を好きにならない選択はなかった。自分が間違っていたと思ったら、いままでの暖をまるごと否定される。蒼生子と暮らして幸福だったし、苦しかったし、暖自身もたくさん悩み傷ついた。その事実をなかったことにはしたくないと思う。
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粟津原栗子
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短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
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甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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