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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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「いや、こういうとき、いつもなにか敷いておこうと思うんだ。シーツは濡れるし、濡れたらそのまま眠れないから。でも忘れる」
「そっち行きます?」
「うん」
「待って、身体拭きましょう」
 鴇田にタオルで拭われ、暖は目を閉じる。それから汚れた暖の布団から抜け出て、乾いた鴇田の布団に潜り込んだ。横向きになり、暖の肩甲骨から腰の辺りに顔を押し付けるようにして鴇田の腕が絡んだ。吐息が背中に当たる。暖は満ち足りた思いでうっとりと目を閉じる。
「――ああ、もう一時まわってる」
 スマートフォンの時計を確認すると鴇田は苦笑した。
「明日休もうかな」
「本当にいいの?」
「あんたも休めますか?」
「うーん、取材が立て込んでいる日だったからな……」
 答えるとしばらく間があった。やがて鴇田は「やっぱり行こう」と言った。
「三時間後にはもう起きなきゃいけないけど、それが生活だから」
「そうだね……」
「残業なしで帰ってきます。ここで寝てていい?」
「勿論」
 ふあ、と同時にあくびをして、同時に微笑む。
「寝ようか」
「うん」
 体勢を入れ替え、鴇田の腕枕で眠った。裸の胸に顔を押し付けて眠れることは鴇田にとってどれほどの衝撃だったんだろうか。そんなことを考えた。


 激しいフェーン現象の後にやって来たのは冬の風だった。日に日に寒さを増して、衣類を突き通るような風が吹く。身震いして上着の襟をかき合わせ、足早に道を急ぐ。店の前まで来ると暖色のライトで看板がぽっと照らされていて、それだけでほっと息をつく。
 店内に進むとカウンター席で出番を待つ鴇田の後ろ姿を見つけることが出来た。暖房の効いた店内とはいえ、黒シャツ一枚では寒そうだと思ってしまう。鴇田自身は体温というものにかなり無頓着だ。暑かろうが寒かろうが上着を変える程度で、中に来ているシャツは一年を通してもあまり変化がない。多分。
 暖を認めた伊丹がカウンターの中でにこりと微笑んだ。ちょいちょいと指を指された先にある壁には、音楽仲間で撮った写真の数々が大きな一枚のフレームに収められ飾られていた。いまより若い伊丹がピアノの前に座る姿もあれば、有名なジャズミュージシャンが来日した際に店で演奏したという驚くべき写真もある。その中の新しい一枚に先月暖が撮った集合写真もあった。モノトーンで撮影しているのであまり誰とはっきり分からないようになっているが、この店の記念として残せてもらえて嬉しいと思う。
 鴇田の隣に着き、スパイスの効いたホットワインとビーツのスープを頼む。温かいものを食べたかった。
「今日は寒いですね」と言うと、隣の男は「そうですか?」と真顔で訊いて来た。
「うん。昼前ぐらいから急に寒くなった。そういう日に限って外で取材があったりするんだ。あなただって外に出る仕事だろうに」
「でも基本いつも汗かいて仕事をするので」
「……そういえば冬服の鴇田さんのイメージないな」
「僕だって冬服の三倉さんのイメージはないですよ」
 そう言われて、そうかと思い至る。まだ共に冬を過ごしたことがないせいだ。出会ってからの年月で言えば一年はとうに経過しているのに。
 背の高いドラマーがやって来て「ふたりのところすみません」と声をかけて来た。
「あ、ごめんケント。行くよ」
「ケントさん、子育てどうですか?」
 訊ねるとケントは真面目な顔で「very angel」と答えた。
「こうして店で演奏出来る時間は減りましたが、減る以上の価値が彼女にはあります」
「名前、なんて言うんでしたっけ」
「Nina。日本でもオーストラリアでも呼びやすい名前を考えました」
「ニナちゃんかあ。かわいらしい。いつか会わせてくださいね」
 ケントは目尻を下げて嬉しそうに頷いた。「僕は毎晩歌を歌っています」と続ける。
「トーミからのリクエストですから、彼女には歌を覚えて欲しいのです」
「将来のボーカリストですね。楽しみがたくさんだ」
「日本で育てるのは大変だと思ったんです。子育てには息苦しい社会だと思います。住宅も狭いです。けれどいまはここで育てます。彼女がもうすこし大きくなったら、みんなで考えたいと思います」
「ああ、みんなってのはいい考えだと思いますよ。鴇田さんがひとりにならないから、僕も嬉しい」
 そう言うとケントはにこりと笑った。鴇田はいつものすました顔で、でも僅かに淋しいような嬉しいような複雑な表情を見せた。いつまでも話を聞けてしまいそうだったがさすがにそうもいかないので「また後でお話聞かせてください」とミュージシャンふたりを送り出す。
「――あ、忘れてた」
 ドラマーを先に追いやって、鴇田は左手に留めた腕時計を外した。それをこちらに寄越す。
「朝、出がけに暗がり探って出て来ちゃったので仕事に出てからあなたの時計だったと気づきました。すみません、困りましたよね。返します」
「してていいよ。鴇田さん間違えたんだろうなって思って、おれもあなたの時計してったし」
 そう言って自身の左手に嵌まる時計を見せると、鴇田は面映いようで照れ臭そうに頭の後ろをカリカリと掻いた。
 それから暖を見る。
「演奏する時はなにも身につけたくないので、持っててもらえますか?」
「分かった」
「なんかそれだけだったんですけど、今日は仕事が楽しかった。クリスマスも近いですし、そういう曲を弾きます」
「明るい気分の曲を?」
「プレゼントを贈りたくなるようなやわらかくて楽しい気分の曲を」
 鴇田から時計を受け取り、背中を見送る。自分の腕に嵌まっている鴇田の時計と、返却された自身の時計を見比べる。暖の時計はいまの会社に決まった時に買ったもので、革バンドが擦り切れて一度交換したぐらいで、ずっと使っている。もう暖の腕に馴染んでいるはずのものを鴇田が一日嵌めていたと思うと、鴇田が言うように胸にじわりと喜びが湧く。
 鴇田の時計はスポーツウォッチで、肉体労働者らしい選択だなと思う。ピアノを弾くときには外すので、ステージ衣装にはならない時計。それがいまは暖の腕に嵌まる。それぞれの生活の上で選び取ったものを、ふたりでいるから持ち寄る。
 これから季節が進めばもっと寒くなるだろう。冬の鴇田をはじめて目にする。暖にとって神様からの贈り物のような男がピアノを鳴らしはじめた。贈り物だろうか。災厄だったかもしれない。鴇田と会わなければ妻とは別れなかったかもしれないし、そうなれば樋口ケントのように子どもを持ちでれでれと笑う自分もいたかもしれない。もうどこを探しても妻と子どものいる、温かな家庭を持つ自分はいない。鴇田といれば先がないことは確かだった。妻といたとき以上に。
 けれどそれは妻と共にいる未来を想像することよりも、暖にとっては光が差している。空は変わらずずっと曇天で、海上はるか彼方まで雲が覆っている。その雲間から差し込む陽光や覗く空の青さを、暖はギフトだと思う。足元を浸す海はぬるく、どこまでも透明に浅い。天国と地獄を一度に味わうみたいな場所だと思う。
 ここから先へは進めない。後戻りもしない。ぬるい水がひたひたと邪魔をする。重たい足元で繰り返し音楽が鳴る。轟々と唸って鳴りやまない。
 寒い冬のさなかも体温を共有する。触れる喜びが滲む。荒天の中だったとしても傍で触れあえる。怖がりながら背を丸め、身体の内側に押し寄せるいとおしさの産声を聴く。鴇田の大好きなAの音を暖は覚えた。
 音楽を耳にして、これまでに起こった最大の災厄や数々のギフトのことを考える。悪くないよ、と心の中で唱える。テーブルに置いた腕時計を見て、暖は温かなスープを口にした。


フェーン現象 End.

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明日も更新します。


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粟津原栗子
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成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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