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演奏を終えてステージを降りる。カウンター席へ向かい、スツールに腰掛けて伊丹からジントニックをもらった。つまむ程度にフードメニューももらう。ひとりで飲食を済ませていると背後から「鴇田さん」と声がかかった。
「お疲れ様です。間に合った」
「演奏聴いたの?」
「最後の方だけチラッと。今夜出番は?」
「今日はもう終わり。僕は前座だから。ここ来る?」
席を促すと嬉しそうに頷き、日瀧は鴇田の隣のスツールに腰掛けた。カウンター内の伊丹に「いつものあれと、小腹が空いたのでジャーマンポテトを」と頼む。伊丹は寡黙に頷く。
「いつものあれ」とは日瀧スペシャルのアルコールを指す。飲酒年齢に達した日瀧ははじめての飲酒で自分がアルコールに弱いことを知る。けれどお酒は飲んでみたい。それで伊丹に相談し、ほとんどジュースのようなやや甘めのすっきりとしたアルコール度数の弱いカクテルを作ってもらうようになった。使用する果物はその時のお好みで。柑橘系が多い。これを「日瀧スペシャル」とする。
ステージでは別のグループによるセッションがはじまった。皆六十代から七十代に届こうかというオールド・マンのグループで、揃いのベスト姿がよく似合っていた。プロミュージシャンで、普段はスタジオミュージシャンやバンドのバックミュージシャンを務める人たちらしい。ピアノとサックスとベースとドラムという編成だ。伊丹がまたどこからか引っ張ってきた人たちで、熱心なファンのおかげで店は普段より混雑している。
聴いていると、やはりプロなのだと実感する。演奏にブレがなく、触りが上質な毛布で包まれているような心地になる。ドラムの正確なリズム。派手な主張をせずとも骨格を組み上げるベース。技巧豊かなサックスと、全てを受け止め統一に導くピアノ。このピアノの演奏の仕方は真似できないなと思う。プロ相手にそんなことを思うのもおこがましいが。
やってきた日瀧スペシャルとジャーマンポテトを、日瀧は表情を変えずに平らげた。遠海は飲んでいたジントニックが終わったので、たまにはと思い、モスコミュールをオーダーする。
「最近、三倉さんお見かけしませんけど、」と腹のくちた日瀧が口をひらいた。
「店に来てますか?」
「いや、来てないと思うよ」
「そうなんすね。お仕事忙しいのかな?」
距離を置きたい、遠海から申し出たことは黙っておく。
「今日、あの子は?」と話題を変えた。
「日瀧と同級の、あの子」
「あー……みかげのことすか」
「そうそう。みかげさん。最近よく一緒にこの店で飲んでた風だったから」
日瀧は照れ隠しに日瀧スペシャルを口にして、グラスが空だと気づく。同じものをオーダーし、「別にそういうんじゃないすよ」とぶっきらぼうに答えた。
「たまたま高校の頃の同級生に店で出くわしてしまって、いまどうしてるんだよって程度に話してたぐらいで」
「でも一度だけじゃなくて何度か会ってたんだから、ただの懐かしさだけじゃなかったんじゃないのかな」
「まあそりゃ……びっくりしたし、高校の頃とは印象の違うところもあったし、でもって話が弾んだってのはありますけど」
日瀧が高校の同級生だったという「みかげ」さんとこの店で再会したのは夏の手前だった。専門学校で動物看護について勉強しているといい、夏らしくてっぺんで結んだお団子が愛らしい女性だった。傍から見た印象では仲の良い友人以上カップル未満、ぐらいには見えたのだが。
「なんか難しいすよね。人との距離感って」
運ばれてきた日瀧スペシャルを口にして、彼はため息をついた。
「近けりゃいいってもんじゃねえし。適正な距離は難しい」
それを聞いて三倉を思った。いま故意に遠ざけている距離感をどうしていいのか分からずいいる。
「そういえば最後に弾いた曲、なんでしたっけ?」と日瀧が訊ねた。
「昔の唱歌だったような。聞き覚え? 歌い覚えが」
「ああ、『椰子の実』かな」
「歌詞ありますよね。なんで唱歌のジャズアレンジを?」
「んー」
寄せては返す波に打ち上げられた椰子の実を歌った歌だ。作詞は島崎藤村。
『これ聞くとおれの中では夏の終わりなんだ。遠い島から流れ着いたっていう由来の歌詞がそう思わせるのかも』
前に会ったとき三倉がそう言っていた。だから弾いた。
三倉はこの場にいないから聴けない。けれど弾いた。
きっかけ、というほどのものはなかった。ただいつもの「触れられない、触れて欲しくない」とは明らかに度合いが違っていた。通勤で使うバスや電車内での密接がもう耐えられず、大家に借りて自転車通勤に変えた。仕事で収集車に乗り込む際に同僚らとの距離が近いようなら鳥肌が立ち、心臓が痛んで苦しかった。こんなに嫌悪でたまらない。それでもごまかしごまかしでアパートに帰り着くと三倉がいた。休みだったからと部屋に上がり込んでいた三倉の真剣に資料を読み漁る後ろ姿を見て、どうしようもない孤独と、恐怖がこみ上げた。
こんな近くに人がいる。自分ではない他人がいる。
話をするし、食事も共に取るし、共に眠る。キスをするし、セックスもする。たわむれに背に触れたり、手を握ったり肩を抱く夜も幾度と過ごしてきた。
なぜ、今頃になってこんなにも――唐突に嫌悪感があるのだろう。
全く不可解だった。三倉が部屋にいる事実は嬉しいのに、触れたいと思うどころか、触れられたら激しく拒んでしまう、底知れない拒絶が身体に巡っている。
「おかえり」と三倉はいつもの顔で振り返ったが、遠海の身体は凍りついていた。「ただいま」の声が震え、三倉が異変に気づいて首を傾げる。
「なにかあった?」
冷たい麦茶でも、と冷蔵庫に向かう三倉に、帰ってくれと言いたい自分を自覚して、愕然とした。
離れたい。身体の距離を離したい。話したいことは山ほどあるのに、触れて境界を失うことが、こんなにも恐ろしい。
「――今日は、ひとりになりたいです」
言えたのはそんな台詞で、三倉はグラスに注いだ麦茶を片手に固まっていた。
「どうしよう、三倉さん。あなたが疎ましいわけじゃない。側にいたい。相反して触れて欲しくない気持ちで支配されている。触れられない僕が暴れ回っている」
唐突な告白に面食らったのだろう。三倉は麦茶を置いて黙り込み、長考した。
「触れたくない?」
「……語弊を招くと承知でこんな言葉しか出てこない。……気持ち悪い」
「……ゆっくりでいいから、話が出来る?」
「……嫌悪感が、あなたにだけじゃなくて、誰にでも」
「そうか……」
「きっと、発作みたいなものなんです。治れば平気になる。――でも発作の最中が、辛い」
三倉はなにを思っただろう。なにかを口にしかけ、手を伸ばしかけ、だが口にせず、伸ばした手も下ろして、そのまま資料をカバンに詰め込んだ。
「そういう日もあるよ。また連絡待ってる」
そう言って当たり前のように脇をすり抜けて部屋を出ていく。遠海はしばらくぼうっとしていたが、部屋の隅に残された三倉の荷物――読みさしの文庫本と薄いウインドブレーカーだった――を見て、部屋の扉を覗き込むように振り返った。
けれど足が動かない。返却には至らず、連絡にも至らず、あれからもう何週間も経過して、遠海はまだ迷っている。
極端な発作は治まりつつあったが、触れたい、とは言えなかった。
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暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
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お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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