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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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『今年の夏はエルニーニョ現象の影響で冷夏が予想されている。エルニーニョ現象とは海水温の上昇のことを指す。これが起きる原因については未解明な事が多いが、一つに「西風バースト」があるのではないかと言われている。赤道付近で強い西風が吹き荒れる日が何日も続く現象だ▼海水温の上昇によって冷夏がもたらされる訳だが、素直に理解し難い。水温が高ければ気温も上昇しているのではないかと思いがちだ。海水温が上昇する事で水蒸気が湧き、雲が発生しやすい気象だと言う理解が必要だ。雲は日光を遮る。すなわち冷夏なのだ▼エルニーニョだからと言って西風バーストがあったかは不明らしい。因果関係がありそうだと言われている。またエルニーニョだからと言って必ずしも日本が冷夏に見舞われる訳でもない。バタフライ効果を連想する。蝶の羽ばたきでハリケーンが起こるかと言う気象学者の演説だ。これが起きたからこうなると予測するのは難しい▼後から振り返ればあれがきっかけだったと言える。結果を見て経過を振り返る事は大切なのだ。それが未来の予測をより精度にする。今のあなたに起きている事を冷静に受け止める。いつ蝶は羽ばたいたのか。西風は吹いたのか。未来の為に立ち止まって考えたい。〈暖〉』


 取材の予定時間を押したので少し慌てた。取材に使う社用車をすっ飛ばしてそのまま店に向かった。途中、電話が鳴る。片耳に差し込んだハンズフリーのイヤフォンから聞こえてきたのは蒼生子の声だった。
『三倉さんのコラム、読んだんです』と言う。
「ありがとう」
『よかったのかわるかったのか私にはまだ判断がつかないんだけど、鴇田さんは西風だったんだなって思いました。西風バースト。マンションのベランダから収集車を三倉さんはよく見ていたけど、あのときもう発生してたのかなって思います。……私もちゃんと振り返るよ。見なかった振りやなかったことにはしない。それだけ直接言いたくなって』
「……わかるよ。ありがとう。あなたに届いてよかった」
 また蝶は羽ばたいているかもしれない、と言い添えようと思ったが、不必要であると思いなおして短い通話を終える。
 到着は十分遅れだった。駐車場に車を押し込み、急いで店の門をくぐる。もう閉まると告知された名店だから予約は無理なんじゃないかと思っていたが、運が良かった。店員に名を告げると座敷席に通される。襖で仕切られたいくつもの座敷の一室は風を通すために縁側に向いた襖を開け放っている。それでも目隠しにと透かし彫りの衝立が立つ、その一室の中に鴇田はいた。座卓にきちんと正座をして三倉を待っている。仕事のときもこういうときも背筋はピンと伸びるのに、ピアノに触れるときと暖に触れるときはその背中が丸まる。どういう訳だろうなと思いながら顔を覗かせると、鴇田はこちらを向いた。
「遅くなってしまって申し訳ない。取材が押して」
「僕は休みなので全然構わないです。今日はちょっと蒸しますね」
「晴れたり曇ったりですからね。もう頼んだ?」
「いえ、連れが来てからとお願いしていて」
 そう言いながら鴇田はメニューをくれた。従業員が用意していった冷茶をぐっと飲み干し、メニューもろくに見ずに「並でいいかな? 特上行く?」と訊く。
「並でいいです。そんなに散財してらんないですし」
「まーね。今月は旅行行っちゃいましたからね。プラス五百円で肝吸いだって。これはつけましょうか。すいません、お願いします」
 渡り廊下を通りがかった従業員を呼び止め、オーダーをかける。これから焼くので時間がかかると言われた。
「その間に中庭の水琴窟触ってていいですか?」と訊ねる。
「どうぞ。そこからつっかけ履いて出てください。ご用意出来たらお呼びしますね」
 にこやかに従業員は去った。今週いっぱいで閉店する店だ。惜しいが仕方がない。
 鴇田と連れ立って歩き、縁側から中庭に出た。軒下に玉砂利を敷いており、その一角に瓶と柄杓がある。雨が降っていれば地中に染みた水が落ちて地中に埋められた瓶が鳴るのだが、雨が降らない日はこうして手で鳴らす。柄杓で瓶の水を掬い、玉砂利の片隅にかけた。水が流れ、少しの時差でコンコンと硬質な音が鳴る。
「――想像してた音と違う」と鴇田は答えた。
「もっとまるい、木琴みたいな音なのかと」
「埋められた瓶の素材にもよるみたいですよ。これは音の反響がいいし、うまいこと埋めてあるか、瓶の素材が特別なのかもしれませんね」
 もっと聞きたいと言って鴇田は柄杓で水をかける。地中で音が鳴る。水をかける。そうやって子どもみたいにいつまでも音で遊んでいる。
「知らなかったなあ」と音の合間に呟いた。「知らないことばっかりだ」
「絶対音感ある人ってこの音はなんの音、って分かるんでしたっけ。鴇田さんはそういうのあるの?」
「ないですね。なんの音かくらいは分かりますけど、瞬間的に分かるようなものではないです。伊丹さんはありますよ。外から聞こえた音をピアノの音階に即座に当てはめられます」
「それは能力だなあ」
「昔、ピアノを習いたての頃に、伊丹さんとそうやって遊んでました。外から聞こえる音に耳をすませて、音階で再現するんです。僕はセンスがあまりなかったですけど、伊丹さんはすごかった」
 鴇田は水をかける。自然と頬が緩んでいることに気づいているのだろうか。好奇心に満ちた優しい笑みを傍らで眺めながら暖も微笑む。店員が呼びに来るまで飽きず繰り返していた。


 店は程よい混雑ぶりで誰もピアニストを気にしている風には見えなかった。けれど暖はずっと耳をそば立てて音を楽しんでいる。カウンター席には暖の他にもうひとり同じ世代ぐらいの男性がいて、彼も静かに酒を飲んでいた。
 鴇田のピアノを聴きながら暖は手帳にアイディアを書き記している。次に書こうと試みているコラムについて。掲載日が不定期なので時事問題を載せにくい。日ごろのアンテナの張り具合となにを考えているかがこういうときに出る。
 ピアノの音が止んでまばらな拍手が起こる。店内はレコードに切り替わった。鴇田がこちらへ来るだろうと予想していた通りに彼はこちらへやって来る。ところが暖ではなく、暖とひとつ席を空けて座っている男の姿を見てすこし表情を変えた。
「春原さん」と鴇田が言い、隣の男が手を挙げた。
「ご無沙汰してます」
「いらしてたんですね」
「こっち方面に配送があったのでついでに様子見にね。ピアノ、調子良さそうですね」
「おかげさまで」
 知人なら迂闊に声などかけない方がいいだろうかと思ってやり取りに無理に加わる事はしなかったのだが、鴇田が「Hにあるピアノ修理工場の方です」とわざわざ教えてくれたので顔を向けた。
「Hですか。遠いところからようこそ、ですね」
「いや、そうでもないです。わりと簡単に行き来出来ますよ。春原と申します」
「ああ、ご挨拶せずすみません。三倉と申します。ローカル紙ですが記者をやっています」
 鴇田を挟んで三人で喋っていたが、喋ると言っても鴇田は相槌を打つ程度で、暖と春原とで初対面らしい会話をした。カウンターの中で伊丹も黙って酒を作っている。鴇田にはジントニックを出す。暖にはオリーブとスナックを追加する。春原はヒューガルデンの瓶をもらっていた。
 やがて店の奥からドラマーがやって来て、「トーミ、行けますか?」と窺う。鴇田は頷いて席を立った。春原に「ゆっくりして行ってください」と声をかけ、暖には目線だけ交わしてピアノの元へ向かう。
 今日は昔の馴染みと久しぶりにセッションをする、と嬉しそうにしていた。ベーシストは産休中だが、ドラマーとは連絡がつくようになったのだ。甘いマスクのドラマーが据え付けのドラムセットに座ると、それだけで客の目がそちらへ向くようだった。スティックでリズムが鳴らされ、ピアノがころころ鳴る。楽しそうに音を出すなと、聴き入るよりは見入ってしまう。
「やー、しっかしよく鳴るなあ」と春原が半ば呆れたような口調で呟いた。
「あんなピアノだとは思わなかった」
「そうなんですか? あ、春原さんがあのピアノの修理を?」
「いえ、中古を買い付けて調整して、ここまで運んだだけです。ええと、ご存知ですかね。この店に元々あったピアノは随分なおばあちゃんで、加えて災害でだめになってしまったんですよね」
「ああ、ちょっとだけ経緯は聞いています」
「そう、それで新しいピアノが欲しいんだけどあのピアニストに合うようなものが欲しいと、かなり無茶な注文をここのオーナーにされた訳です。ピアノって車みたいなものでね。最新の方が燃費もいいしよく走るんです。中古車を気に入って使う人もいますけど、走行の質までは保証出来ませんよっていう感じで」
「なるほど、よく分かる例えですね」
「だから新しく買えばいいと思うんですけど、あえて中古がいいとオーダーされたんです。まあうちはもう新品は扱っていないですから、うち向きって言えばうち向きの依頼ではあったんですけど。探し出せたはいいけどこれ鳴るかなあって思いながら調律しました。とりあえず走るようにはしたけど止まるかもしんないし、って言ったら分かりますか?」
「とても分かりやすい解説です」
 春原はナッツを口にして、「でも心配はいらなかったようです」と言った。
「彼が弾けばピアノはあんなに鳴るんだから。不思議なもんです。ピアノが喜んでいる感じがする。触れ方が違うのかな? 僕がどんなタッチで鳴らしてもあんな音はしなかったですよ」
 そう言って鴇田たちミュージシャンの方を向いたので、暖もそちらを向いた。全く妬けるような触れ方をする。あんなに背中を丸めて、あんなに縋って。
 心拍のような単純さでドラムが鳴る。こぼれ出したメロディーを聞いて春原が「あ、これ好き」と言った。
「Human Natureだ。マイケルはやっぱりどこのどんなアレンジで鳴らしてもいいですよねえ」
「お好きですか?」
「そりゃもう。青春全部これ。映画だって見に行きました」
「この曲ってなにを歌ってるんでしたっけ?」
 そう訊ねると春原は顎に手を当ててから、「人間の質かな?」と答えた。
「理性も欲望も人の本質でしょ、っていう理解です。僕はね」
「なるほど」
 頷いて、またミュージシャンの方を向く。勝手気ままに鳴らされる音。自由なアレンジ。音はうねる。鴇田遠海の表現。触れ方。
 遠浅の海であり、西から激しく吹き付ける風であり、蝶の微かな羽ばたきであるような。


西風バースト End.


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今日の一曲(別窓)


次は30日に更新します。





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粟津原栗子
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成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
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