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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 ぽろんぽろんと雨粒みたいな音をさせて、映画は終わった。明かりが灯ると途端に周囲にはざわめきが訪れ、三倉の膝も離れる。「蒼生子さん」と彼は妻を揺さぶった。よっぽどよく眠れたのか(確かに静かな映画だった)、蒼生子はしばらく目をこすっていた。
 遠海はこれで暇を告げるつもりだったが、三倉に「予定がないなら一緒に昼食でも」と言われて、嫌と言えなかった。
 劇場から出て、チケット売り場の脇の売店で三倉は映画のパンフレットを購入した。三倉が買ったので遠海も購入した。それを見た三倉は意外そうな顔で、だが「買うんだ?」と声を弾ませたが、遠海は答えなかった。「あなたが買うから買います」とは、言うはずもない。
 近くのイタリアンレストランで三人で食事を取り、遠海はきっちり自分の会計分だけを三倉に支払い、「じゃあこれで」とようやく離れた。帰りの電車の中で遠海は映画のパンフレットをひらく。映画の概要、役者へのインタビューなどを眺める中で遠海が繰り返し思い返したのは三倉と触れていた膝の熱だった。それから三倉の囁き声。面白い? と訊かれて答えたときの、充実したため息。
 電車を降り、改札をくぐり抜けたタイミングで電話が鳴った。心臓に悪かった。登録していない番号からだったが、なんとなくそうじゃないかという予感があり、震えながら電話に出た。
『――鴇田さん?』
 三倉です、と電話の主は告げた。それを聞いて、声を聞いて、遠海は本当に嬉しかった。さっきまで傍にいたのに、嬉しかった。
 嬉しいと思うことが辛い。
『すみませんね。鴇田さん、忘れ物をされたみたいだったので、田代に連絡して無理やり番号聞き出しちゃいました』
「なにを忘れました?」
『傘。レストラン出るころには雨が止んでいたから、気づいてないかも、と思って。そうだよね、この青い傘』
「ああ、」
 確かに遠海が置き忘れた折り畳み傘だった。
『困ってるといけないな、と思ったんで。困ってる? いま、どこ?』
「いまはアパートの方まで戻って来ています。別に困ってはいないんですけど、」
『ああよかった。ならまたあの店に行きますんで、会えたら直接渡すし、会えなかったらお店の人にでも預けます。こんな時期だと必需だね。早く受け取れるようにしますから』
「お手数おかけします」
『いえ、鴇田さんにはまた会いたいしね』
 そこで会話が区切れ、電話の向こうから息をつく音がした。
『うわ、すごい』と三倉がこぼす。
「なにが?」
『いまおれたちのいるところから、すごく……なんていうかな、不思議な虹が見えたから』
「虹?」
『うん、雲に重なって、色もはっきりしてる。見えない? 鴇田さんのところからはさ』
 遠海は足早に駅の構内を抜けて外に出たが、どの方角を見ても虹は確認できなかった。ただ不安定な空があるだけだ。
「見えます、虹。すこし」
 けれど遠海は嘘をついた。
「ビルの隙間になってるけど、」
『あ、ホント? なんかこういうの、おれは嬉しくてさあ』
「はい」
『あとは単純に記事に出来そうっていう直感。ごめん、電話切るね。写真撮るわ』
「はい」
 すぐに電話は切れた。あっけないものだな、と思う。それだけ三倉の興奮が伝わって来る。
 アパートまで戻ってしばらくして、遠海のスマートフォンが震えた。
 三倉からだった。電話番号で送信できるショートメールで写真を送ってくれたのだ。三倉が見た、そして撮影した虹がかかっていた。上空の雲に幅の広い刷毛で掃いたようにさっと虹が乗っていて、それは遠海がこれまでに見たことのない虹のありようだった。
『すごかったですね。今日の記念にどうぞ』
 ショートメールにはそう記してあった。遠海はうなだれる。しばらく考えて礼だけにとどめる返信を送り、画像は保存して、そのままスマートフォンの待ち受け画面に設定した。
 三倉の素直な喜びが伝わってくるやり取りだった。遠海は胸を押さえる。嘘をついた罪悪感よりも、三倉が嘘を信じて喜んでくれる、そのことの方が遠海の胸を痛ませた。
 三倉の前では平気で嘘つきになれる。ごめんなさい、と遠海は思う。
 嘘をついてでも、なにをしてでも、三倉にまた会いたいと、祈り縋るように遠海は思った。


 連絡先を知ってしまうということはきっとよくないのだと遠海は思う。とりわけ、感情の方向が異なっているとまずい。適正な距離感を見失うなと言い聞かせながら、その後何度も遠海は三倉と電話で話した。待ちあわせ場所を決めて飲みに行った。その際に連絡先を正式に交換したので、その後はSNSでもやり取りが続いた。
 梅雨の気配がますます濃い、七月に入ってはじめの土曜日の夜。土砂降りの中を歩いていつものジャズバーへ行く。店内は混雑しており、蒸していつもより温度があった。
 今日のセッションは遠海たち「名無し」バンドの出番ではない。ここでは常時セッションするグループが遠海たち以外に三・四組いて、他はオーナーの伊丹がどこからか連れてきたグループなりアーティストなりに演奏させている。スタッフが歌うときもある。伊丹自身は聴くに徹しているが、昔は遠海と同じくピアノを弾いていた。
 カウンター席へ腰を据え、スタッフに「連れが来たら出して」と適当に食事を頼んで鞄の中からファイルを取り出す。新興住宅地が出来、伴ってごみの収集場所が新設されることになった。今回はそれの収集だけに留まらず、いままでなんのかんのと放っておいた各苦情にも対応するといい、たとえばもっと早く収集に来てほしいだの、道が狭いから通勤通学の時間帯はやめてほしいだの、そういう諸々を鑑みて収集車がまわるルートを変更することも検討している。そのルート設定を田代から任された。地図と注文と現状とを比べあわせて収集ルートをあれこれと考える。
 考えているうちに目の奥に疲労を感じ、眉間を揉んでいると背中をぽんと軽く叩かれた。思わずびくりと身体を引き攣らせたが、その相手が三倉だと分かると自分でも呆れるぐらいに喜びに貫かれた。
「待ちました?」とテーブルに広げられた書類に目を落としながら三倉は隣に腰かける。今夜、蒼生子の姿はない。蒼生子抜きで三倉に会うのはもう何度もあった。
「今日は黒ビールがいいな。いいですか? ポーターをふたつ」とアルコールを頼み、三倉は再度遠海の手元を覗き込んだ。



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粟津原栗子
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成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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