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 ドレスコードというドレスコードはないのだが、Tシャツにデニムはちょっとね、という伊丹からの申し出で、ここで演奏するときは三人とも黒っぽい服装に着替えている。紗羽だったらたいていは黒いブラウスに細身のパンツで、ヒールを履く。ケントはこの辺りきちんとしていて、黒シャツにタイを締め、そのタイが演奏に邪魔にならぬようベストを着る。オーストラリア人という体躯にこれがとても似合い、甘いマスクも手伝ってケント目当てで来る女性客もいると伊丹は言っていた。もっとも、すぐに左手薬指に嵌まった指輪を見てがっかりしていくそうだが。
 遠海は「どうだっていい」。黒いズボンに靴、黒シャツでも合わせておけばいいと思っていて、だからなにもしないに近い。今日だってここへ来るのにズボンとシャツはあらかじめ着ておいて、スニーカーを履き替えただけだ。コーヒーを飲む姿勢のまま動こうともしない遠海に、ケントが「トーミ、そのシャツにアイロンかけました?」と訊ねる。
「かけたよ」
「しわしわです」
「着っぱなしでここに来たせいかな」
「今日も仕事じゃなかったんですか?」
「今日は休み」
「遠海くんは昼ごろここに来てからずっとピアノを触ってたよ」
 伊丹が苦笑しながらコーヒーカップを下げる。察したのか、ケントは鼻から息を吐いて遠海の傍へ寄って来た。
「黒だから皺なんて目立たないよ。スポット浴びるわけでもないし」
「せめて髪。前髪あげましょう」
「スタイリング剤持ってない」
「僕のを使いましょう」
 触りますよ、と言ってケントは遠海の髪に触れて来た。べたべたするクリームのついた大きなてのひらに頭がすっぽりと包まれ、遠海は息苦しさを感じる。触れられることが好きではない。ケントのように近い人間にでも、こうやって「触りますよ」と言わせるぐらいに。
 ワックスに混ぜ込まれたシトラス系の香りも不快だったが、これでもこういう類のクリームにしては匂いが控えめであることは分かる。ケントはわしゃわしゃと髪にクリームを揉み込んだあと、毛先を捩ったり撫でつけたりして遠海の見てくれをなんとかまともにしてくれた。
「あ、それなりになってる」
 着替え終えた紗羽が戻って来てひと言そう言った。彼女はメイクも済ませていた。学校教諭という仕事は忙しいと言い、そのおかげか彼女には三分で完璧な化粧を済ませる技術が身についている。
 いつの間にか店は開店を迎えていた。セッションがはじまる時間はまちまちだが、開店して十五分から三十分ほど経てばおおむね出番となる。化粧室から移動してきた紗羽が「今日は」とソファに腰かけて言う。「客の入りが読めないね。雷雨で街が混乱してる感じがする」と見解を示した。
「お客さん、入ってない?」
「んー、金曜日の夜にしたら全然。でもこういう日ってわかんないんだよね。ある時間になってどっと混みだしたりするから」
「サワ、ボタンが外れています」
「おっと、やだな。どこ?」
「back」
 ケントが紗羽の背後にまわり、首すじにあるブラウスのボタンを留める。他愛ないことを三人でぽつぽつと喋っていたが、返事が面倒で目を瞑っているうちに遠海はいつの間にか眠っていた。脳内でA音が響く。ラー、ラー、ラー。
 ぱちっと目が覚めるといつの間にか遠海ひとりがバックヤードのソファに取り残されていた。店内からぽろぽろと弦が弾かれる音がする。寝てしまった、と慌てていると、伊丹が顔を覗かせた。
「起きた? 出番だよ」
「あー……」
「ドラムとベースがいてもね、やっぱりピアノがいないとね。お客さん、けっこう入ってるよ」
 そう言って伊丹はまたカウンター内へと戻っていく。顔を揉み、軽く頬をはたき、膝を叩いて遠海は立ちあがる。
 客が座るテーブルと楽器の据えられたステージとはほぼ同化しているようなもので、めいめいが好きに食事やアルコールを楽しんでいる中を、遠海は存在感なく進む。控えめなドラムとコントラバスは客の喧騒にかき消されても音楽をゆったりと楽しんでいた。そこへようやく姿を現したピアニストを見て、ベーシストは口のかたちだけで「遅刻」と言ってみせて、ドラマーはウインクを投げ寄越してきた。
 ポーンと白鍵をひとつだけ鳴らす。ピアニストに気づいた客がすこしざわついて、やがて耳をすませるかのように音量が下がる。別に気づかなくたっていいのにな、と遠海は思う。僕に気がつかなくていい。それぞれがそれぞれに料理やお酒やお喋りを楽しめばいい。ただそれにすこしだけ間が出来てしまったとき、底辺に音楽が流れていることが救いになればいい。またお喋りや食事を楽しむための繋ぎの音楽。だから意識しなくたっていいのに。
 タンタンタン、とケントがスティックではじめのリズムを打ち鳴らす。音楽がはじまる。今日は雨だったから天候に関する曲をやることにしている。はじめは皆が知っているような曲を、やわらかく。「Raindrops Keep Fallin’ On My Head――雨にぬれても――」。「あめのひとぼく」、「Over The Rainbow」。
「客のノリがいい」とぽそり、何曲か続けたあとに紗羽が呟いた。
「あれやろうよあれ。今日ならぴったりじゃない?」
「え、あれ雨に関係ないだろ?」
「関係あるでしょ、『水琴窟』なんてまともに聞こえてくるのは雨の日だけよ」
 最終的には「行け」とでも言うようにケントがウインクを投げるので、「これ終わったら下がるよ」と小声で申し立てて、遠海ははじめのメロディーを鳴らす。
 ゆっくりと水が流れるようにはじまるメロディーライン。硬い鍵盤をぱらぱらとはじき、高音から低音へとくだり落ちる。ほんの少しの間。三人で息を合わせて今度はいきなり疾走する。全力で、容赦なく。
 とにかくピアノの超絶技巧に頼る曲をはじめに「やろう」と言い出したのは紗羽だった。アレンジを工夫して、三人でもジャズ調に演奏出来るよう単純化して曲を組みあげたのはケントだ。息が切れるほど鍵盤を強く叩き、弾き、跳ねまわる。音量のことは全く気にしない。
 遠海がこれだけ力強く楽器を叩く曲はいまのところこれだけだ。反対に、いつもは女性とは思えないほど強気な音を出す紗羽の弦は、この曲ではあくまでも下地をつくり、大人しい。ケントのリズムが激走するピアノに道標を示す。これだけ疲れ果てる曲なのに、終わるころには終わるな、終わるな、と思っている。
 客が固唾をのんで曲に聞き入っている。とんでもない音を出しているくせに、ひどく静かだ。最後、余韻を残して一音を響かせ終えると、不思議な沈黙が空間を支配していた。しばらくして拍手が起こる。
 見遣る必要などないのに、客のいる方へ遠海は顔を向けた。額から汗が流れていて不快だ。拍手にざわめく客の、奥のちいさなテーブルに男女が腰かけているのが見えた。首を精一杯長くして、男の方がこちらを熱心に見ている。
 くりっとまるく好奇心に見ひらかれた目。身体にぴったりとそぐったシャツ。それを見た途端、遠海はとっさに席を立った。
「遠海?」
「疲れた。下がる」
 あと繋いどいて、と言ってステージから引っ込む。バックヤードに下がり、ソファにぐったりと沈み込んだ。
 ――なんだよ、なんでいるんだ。
 遠海を追いかけてケントがやって来た。「トーミ、」と声をかけられたが応える気力もない。ケントは用意されていたピッチャーからグラスにつめたい水をたっぷりと注ぎ、「おつかれさまです」と言って遠海に寄越す。ライムの香りのするそれを、遠海はようやく受け取る。
「すごくよかったですよ、トーミ。……トーミ?」
「……」
「顔色が、」
 受け取ったグラスからごくごくと水を飲み干すと、乱暴に音を立ててグラスをテーブルに置き、またソファに沈み込んだ。
「……なんでいるんだろう」
「知りあいでも?」
「うん、……」
 やがて場をソロで繋いでいた紗羽も戻って来た。店内にはレコードの音声が流れはじめる。
「遠海?」
「あー、疲れちゃったって。そっとしておいて、サワ」
「そうよね。でも、すごくよかったよ」
 楽しかったね、と紗羽は弾ける笑顔で言った。確かに楽しかった。楽しかったけれど終わりがよくない。
 遠海は目を閉じる。きっとこれで帰るだなんてことをあの男はしなさそうだな、と遠海は名や、好奇心で興奮していた目つきを思い浮かべる。
 全く。
 なんでいるんだ、三倉暖。




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今日の一曲(別窓)









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プロフィール
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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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