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『メイストームを知っているだろうか。気象用語で「春の嵐」を指す。三月から五月にかけては北の冷たい空気と南の暖かい空気がぶつかって大きな低気圧が生まれることがある。中心気圧が952hPaだった年があると言うから驚く。1954年5月、メイストームという言葉が生まれるきっかけになった怪物級の嵐だ▼和製英語だ。英語で春の嵐は「spring storm」。春はどこの国でも荒れるものだ。日差しののどけさに忘れかかる▼ノーベル文学賞を受賞したドイツ出身の詩人ヘルマン・ヘッセの「ゲルトルート」という作品の邦題も「春の嵐」だ。翻訳したのはドイツ文学者の高橋健二。障害を負う主人公クーンは美しい娘ゲルトルートに恋をする。二人の交流は清らかな一方、クーンには荒れる思いがある。表面上は穏やかな春でもクーンの心中は嵐だ。まさに「春の嵐」の訳が素晴らしい▼昨年は災害の多い年だった。春といえども嵐には充分注意したい。ヘッセは「日の輝きと暴風雨とは同じ空の違った表情に過ぎない」としている。災害は恐ろしいが私たちの心を和ませ凛とさせるのもまた陽光や薫風だ。〈暖〉』



 遠海の隣で伊丹は「休日なのにわるいね」と言った。すまなさそうな顔は特にしていないので、遠海も本気に取らず「暇ですから」と答えた。
 煙草を好きに吸えるという理由で、車で移動していた。高速道路を使って三時間半ほどの道のりだ。朝七時に伊丹は迎えに来たが、これは普段の遠海からすれば遅い開始時刻だ。早朝から始まるごみ収集作業を職にしているから、今日はわりとゆっくりした朝だった。
 今度の休日に遠出をしないか、と誘われたのは先週のことだった。構わないと思ったので行き先すら訊かずにOKを出していた。伊丹のことだから妙なことをするわけじゃないと分かっている。遠くの町でいい音を出す野外音楽フェスがあるとか、知り合いのレコード店が古い盤のセールをしているとか、そういう類の話かなと思っていた。
 車が動きだしてようやく行き先を訊ねるとHだという返答だった。楽器の町として有名だ。「ピアノを見に行こう」と伊丹は言った。
「店の再オープンが決まったよ。今度のゴールデンウイーク直前」
 それは本当に目前に迫っていることだったのでとても驚いた。「オープニングでぜひ遠海くんにピアノを弾いてほしいと思っている」と言う。
「もしかして店で使うピアノを見に行くんですか? これから?」
「そう。大丈夫。昔からの知り合いの店だし、あらかじめオーダーは出してある。全くあてなく行くわけじゃないさ」
「いやそうだったとしても、」うろたえながら喋った。「ちゃんと言おうと思ってましたけど、伊丹さんのあのピアノだったから僕はあの店で弾いていたんです。世の中にプロの演奏家はたくさんいるでしょう? 僕は音大すら出ていないアマチュアです。伊丹さんほどの腕と耳を持つ人の店ならもういい加減にプロのピアニストを雇うべきです」
「僕ほどの腕と耳を持ってる人間なんだから、遠海くんに頼んでるんじゃないか。プロだってピンからキリまで、きちんとした技術もないのにプロを名乗る人だっているんだよ。僕はきみのピアノが好きなんだから頼んでるんだ。本当はね、きみをきちんとスタッフとして迎えたいと思うよ。報酬だって支払うべきだと思ってる。でもきみはさ。あのピアノが好きだからっていうそれだけの理由で弾いてくれていたじゃない。ごみ収集の労働で得た報酬とか、経験とか、生活の上であの音を鳴らすのがきみっていうスタイルなんだから、僕はもうそれでいいと思ったんだ。変に報酬で縛るよりもきみは自由にピアノと向き合える。まあこれ、随分と僕にばっかり都合のいい解釈ではあるけどね」
 そう言われ、遠海はなにも返せず黙り込んだ。車内では伊丹がセレクトしたCDが音をちいさく奏でている。ピアノの入ったオーケストラの交響曲で、名演と謳われたコンサートの収録アルバムだ。
「……去年の秋の災害から、ほとんど練習してないです」と、ずいぶんと時間が経ったころに答えた。もうHが近い。
「アパートの電子ピアノじゃ面白くなくて」
「でもあの電子ピアノだってきみの兄弟じゃないか。実家に唯一あった楽器だろう?」
「タッチの重さは好きです。慣れ親しんでるものだし。でも弾くたびにがっかりする。こういう音じゃないんだよなあって。知らないうちに期待してて、がっかりして。わがままなんですね、僕は。ピアノが弾ければなんだっていいだろうと思うのに、本当のところはあのピアノじゃなきゃ嫌だって思ってる」
「それだけきみにとって運命的なピアノを所有してたんだっていう誇りとして受け取っておくよ」
 車は路地をぐいぐいと曲がっていく。ふと訊ねたことがなかったなと思い、「あのピアノ」と伊丹に訊いた。
「けっこう古かったですよね。ピアノの寿命って大体六十年ぐらいって聞きますけど、あれはどのくらいのピアノだったんですか?」
「ようやく訊いたね」
 伊丹は笑った。
「あれは元々僕の母親の所有だったの。ものはよかったけど、六十年は超えてたよ。母親も弾いたし、僕も弾いたし、きみも弾いた。酷使したっていう意味であのピアノの寿命なんかとっくに終わってたと思う。きみと生涯を共にできる、いつまでも弾き続けられるピアノじゃなかったね」
「……」
「ああいう形でだめになってしまったけど、いずれは手放すピアノだったんだよ。もうね、店に来る調律師さんがいっつも渋い顔してるの。こーんなに手を尽くして調律してるのに、こーんなに音が狂ってるんですよ! って言いたげで。きみがいつもはじめに鳴らしてたラの音、440Hzどころじゃなかったの気づいてたよね」
「そりゃ分かってはいましたけど」
「でもめちゃくちゃ綺麗に整った音よりほころびのある音を選んだのはきみも僕も同じ。――さ、着いたよ」
 伊丹の車は住宅地の真ん中で唐突に止まった。ピアノを見に行くというからにはもっと大きな工房や会社なのだと思っていたから、そこらへんのガレージをちょっといじりました程度の見かけをしている倉庫の前に車が停まってうろたえた。
「え、ここ?」
「腕はいいんだけど商売っ気がないもんで、いつまでもこんな見た目してるんだよね。地震が来たらどうするんだか。――こんにちは、伊丹ですー」
 半開きになったシャッターをくぐって伊丹は声をかける。シャッターをくぐれば思いのほか広い空間があり、そこはありとあらゆるピアノで埋め尽くされていた。右を向いても左を向いてもピアノピアノピアノ。こんなところに置いて大丈夫なのか? と不安になる粗雑さだった。
 グランドピアノもあればアップライトもある。メーカーもまちまちだった。ピアノの中古販売店、と目星をつける。やがて奥から出て来たのは意外にも若い青年だった。



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粟津原栗子
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成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
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