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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 開店して客の入りは上々で、席はすぐに満席になったらしかった。外はひどいどしゃぶりだと言うのに、皆心待ちにしていたオープンだったと分かる。オーダーをまわすスタッフたちの声や足音を聞きながら、遠海はずっと目を閉じていた。頭の中でははじまりのAが鳴り響いている。
「――出番だよ」
 そっと声をかけられ、目を開けた。伊丹がカウンターの中から目配せをする。バックヤードを誰にも気付かれないように抜けて、ピアノに近づいた。店の騒音が心地いい。どんなお喋りをして、どんな料理と酒を楽しんでいるのか。ああ、たしなむんだっけか、と思い直す。
 はじめの一音をポーンと鳴らす。遠海に気づいた何人かがこちらに注目したのが分かった。別に注目なんかしなくていいのにな、と思う。あなたの時間を楽しんでください。僕はピアノで遊んでいるだけ。ただあなたの時間にふと出来た余白に、ピアノが作用していますようにと願います。
 今日はあとからボーカリストが参加するが、はじめはひとりだから、タイミングを図ることもなく静かにピアノを鳴らしはじめた。撫でるようにやさしく。祈るように首を折る。
 いい音が鳴っている、と思う。自分で鳴らしておいてうっとりする。ホールが広く、天井が高くなったので、音の響きがいい。ピアノが喜んで勝手に歌っている心地がした。遠海はピアノの求めに応じてただ弦を叩いているだけのような気がしてしまう。
 もっと触ってと言われる。そこを押すと気持ちがいいよと言われる。
 紛れもなくこれは快楽だと思った。ピアノに触れて快楽を得ている。それは三倉に触れたから理解出来る感覚だ。
 自分でも驚くぐらいに次々と曲が出てくる。息継ぎもせずに水の中に潜り続けている心地だった。苦しいのにもっと続けていたいと思う。あまりにも没頭していて、だから鳴らしたイントロでボーカリストがすこし慌てたのが分かった。自然にボーカルが歌う予定の曲に突入していた。
 けれど即興演奏という性質上、ボーカリストも身構えない。傍の広いテーブル席に待機していた彼女は、喋っていた常連客らに笑いかけて立ち上がった。ゆったりと出て来て、身体を揺らしてマイクスタンドの前に立つ。歓声が沸き起こった。
 ボーカリストがハスキーな声を響かせて歌いはじめる。不意に雨のにおいがして、遠海は顔を上げる。照明を絞った広いホールに客がたくさんで、誰が入って来て誰が出ていったのかはよく把握できなかった。またピアノに没頭する。ボーカルとピアノが混ざって新しい快楽が生まれる。増幅する一方で収束を知らない。
 長い時間が経ったような気もするし、短かったようにも思う。気づいたら遠海は人気のない店内のカウンター席でぐったりしていた。スタッフが椅子を上げて丁寧にホールを掃除している。ようやく顔を上げると、隣でアルコールを嗜んでいたボーカルのアンジェがにっこりと笑って「情熱的だったわ」と感想を述べた。
「なんか人肌恋しくなるような演奏でびっくりしちゃった。隅に置けないったら。あたしそろそろ帰るわね」
「ああ、……お疲れさまでした」
「遠海も恋人と早く落ち合った方がいいんじゃない? 今夜の雨は冷たいから」
 いたずらめいて笑われた。アンジェは傍にいた旦那の腕にべったりと絡みつき、伊丹やスタッフらに声をかけて店を出ていく。今夜これから情熱的な夜を過ごすのかもしれない。そう思ったらいまさらになって恥ずかしくなった。
 遠海も伊丹らに挨拶をして、上着を羽織って表へ出る。傘を取り出しているとそこへ人影がぬっと現れた。びっくりしたが、「すげーですよ、やばいです」との声で誰だか判明した。日瀧だった。店を惜しんでくれていた彼にだけは、他に遠海のピアノについて口外しないと約束の上で今夜のステージのことを告げてあった。
「お疲れさんです。やべーもん聴きました。すげえ、すげえかっけぇすね、鴇田さん。あのボーカルの姉さんも色気だだ漏れで。大人ってすげえ」
「……ありがとう。雨の中待ってるより、店にいればよかったのに」
「追いかけたんです」
「なにを?」
「あの人。鴇田さんの演奏、聴きに来てましたよ。すみっこの方でずっと鴇田さんのこと見てた」
 あの人、と言われてもピンと来る人物は思い浮かばなかった。日瀧と共通の知人が会社以外にいただろうか。首を傾げつつ日瀧の話を聞く。日瀧は「鴇田さんの演奏が終わって出て行こうとするから、慌てて追っかけて捕まえたんです」と言った。
「鴇田さんの会社の後輩ですって言ったら、そうですかって頷いて、笑ってました。こういう風に笑って頷いてたってのが分かりました。……その人、今夜はこれを渡すか迷ってたんですがあなたに託しますって言って、これ、おれに渡して」
 そう言って日瀧がバックパックから取り出したのは封筒だった。定型の大きさで、封筒に書かれている社名を確認した途端に遠海ははっと顔を上げて振り返った。
「もういません。行っちゃいました。すいません、引き留めきれなかったです」と日瀧はすまなそうな顔をする。
「でも、とにかくおれはこれを、鴇田さんに渡します。いいですか、渡しましたからね。じゃあおれは行きます。――また会社で」
 遠海に封筒を押し付け、日瀧は雨の中を猛然と走って消えた。遠海はしばらくその場に佇んでぼんやりと封筒を見つめる。社名のロゴを知っている。毎日必ず目を通しているから飽きるほど見ていた。


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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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