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当たり前に「八束」って呼ばれた。散々「さん」付けだったのに、再会したらニュートラルに呼び捨て。心の底をなかなかあらわにしない男の深いふかい水底に光が当たってちょっと透けて見えた気がした。つまり言葉にはしないけれど心の中では八束を「八束」と呼んでいたのか、と。
三年間まるきり聞けなかった声で、名を呼ばれた。人混みに酔って疲弊している状況だったけれど、八束を見て安堵したか懐かしかったか、とにかくマイナスの要因は生まれなかったらしい。低くてちょっと転がるような、甘える響き。それを聞いて背筋のてっぺんから真下まで星が落ちたかのような衝撃が走った。正直、それだけで射精に至りそうだった。
この男は睦む関係がはじまる前に八束に触れたがそれきりで、キスはしたが身体を求められることはなかった。だからやっぱり男相手に性欲なんか湧かないんだな、と諦めるような気持ちもあったのは確かだ。そういう関係でもいい。世の中にセックスレスのカップルは多いんじゃないかと思う。心さえ通っていれば――でもなかなか本音を明らかにはされなかったし、黙り込むことも多かった。それに肉欲を別で処理されていたとすれば諦めることなく絶対に嫉妬や怒りで詰め寄ったはずだから、八束自身の性癖に添えないのは仕方がないとしてやっぱり触れられたかった。
再会した夜にセックスがしたいよ、と言われたから、本当に嬉しかったけど、信じられない気持ちもあった。髭を剃って思わぬ若い顔立ちを見てしまったせいかもしれない。精悍に引き締まった、肉とか余計な感情とか無駄なものの一切を削ぎ落としたソリッドな顔立ち。ミナミ倉庫を貸し出していた五年間で付き合いのあった穏やかでのんびりとした馴染みの顔とは全く違った。ただあの彫刻と全く同じ顔立ちで、でも彫刻より生々しくて余計に混乱した。彫刻家鷹島静穏だというのは理解したが、「セノさん」と同一なのかと本気で分からなくなった。
戸惑いは興奮を加速させ、じかに肌に触れられて、そのとき多分ようやく納得したと思う。この男は「セノさん」で、イコール「彫刻家・鷹島静穏」だ、と。馴染み深い匂いがしたのだ。いつもセノから嗅ぎ取っていた木材のやわらかく香ばしい匂いと、鉄や油の工業的な匂い。それとセノ自身の汗や体臭が混ざった、八束にとってくらくらする匂い。そしてまろやかな低音で名を呼べと求められて、自分と交わり発情をさらけ出している相手はこの男なんだな、と。八束に桃の実の彫刻を贈ってくれた男。怪我の手当が上手な、器用で不器用な男。
あのとき、名を呼んだら屈託ない顔で静穏は笑った。無邪気さに似ているけれど違う、思春期も青年期も経てちゃんと大人になった人が純粋に喜ぶ時の顔だった。胸が絞られて心臓が鋭く痛み、この痛みで死んだらめちゃくちゃ後悔するなと溢れかえる性感でいっぱいになりながら歯を食いしばった。行為の最中に死ぬなんて冗談じゃない。まだこれからもっと、ものすごく、この人のことを知りたいし傍にいたいのに。
帰郷、と呼んでいいのかどうか、とにかく静穏はミナミ倉庫に戻ってきた。抱えていった荷物を幾分か軽くして、あるいは重くして。八束の父とも契約を済ませ直し、また正式に南波の管理する不動産の店子となった。急な戻りに焦ったのはスペースの問題。四季が家を出て寮生活をはじめてから、実家にいるよりは倉庫にいる時間が増えた。とにかく本を積み上げては読み散らかしていたから、静穏の生活圏の確保はちょっと大変だった。そのままにしておけばいいよ、とは言われなかった。笑えないぐらい本で埋まっていた。静穏は呆れていたと思う。困った顔で「別の物件探した方がいいのかな?」と八束にとっては冗談でも受け取れない台詞を口にした。
「じゃあいっそうちに下宿でもするか? 部屋空いてるし風呂あるし」
「うーん、でも資材置き場は確保しないといけないしなあ。作業スペースも」
「わかってる、ジョークだ。ごめん、すぐ片付ける」
「どこに運ぶの?」
「実家の土蔵。足りなければ親父から空きを借りる」
「おれがそっちへ移ろうか?」
「いや、きみはここにいろ」
ふ、と静穏は笑った。
「――親の留守中に悪さしてた小学生みたいでさ」
「連絡を寄越さず唐突だったきみも悪い」
「責めてるわけじゃない。おれがいなくてもちゃんとここで生活しててくれたんだって、嬉しかった」
高く積まれた本の表紙を静穏は撫でた。留守番ありがとう、ということか。だったら僕を撫でてくれよ、と言いたくてさすがに言わなかった。四十路が近いおっさんの台詞じゃないだろ、と。
改めて荷物を運び直して、鷹島静穏は三年ぶりにミナミ倉庫での暮らしをはじめた。
この辺ではお盆といえば旧暦に合わせた八月になる。四季が成人するまではきちんと行事は行おう、と言ったのは思いのほか早くに妻も娘も亡くした父だった。だから八月十三日から三日間はきちんと休みを取る。仏壇の前に精霊棚を作り盆灯籠を組み立て、花や菓子を供え、きゅうりの馬となすの牛を作る。墓参りに行き、近くに自生している常緑樹の枝を折り、それを背負うようにして連れて帰る。父の教えではこれに仏様が乗っているから背負うのだと言う。そして家の前で迎え火として樺の樹皮を燃やす。樺は油分を含んでいるので簡単に火がつく。その煙を見上げ、暮れかかる空に「戻ったか?」と言ってやる。
この辺ではお盆といえば旧暦に合わせた八月になる。四季が成人するまではきちんと行事は行おう、と言ったのは思いのほか早くに妻も娘も亡くした父だった。だから八月十三日から三日間はきちんと休みを取る。仏壇の前に精霊棚を作り盆灯籠を組み立て、花や菓子を供え、きゅうりの馬となすの牛を作る。墓参りに行き、近くに自生している常緑樹の枝を折り、それを背負うようにして連れて帰る。父の教えではこれに仏様が乗っているから背負うのだと言う。そして家の前で迎え火として樺の樹皮を燃やす。樺は油分を含んでいるので簡単に火がつく。その煙を見上げ、暮れかかる空に「戻ったか?」と言ってやる。
盆の夜の食事は寮から戻った四季がこしらえた。夏野菜の天ぷらは母の好物で、姉が好きだったいなり寿司やかんぴょうの細巻きも並ぶ。台所に立っていた四季は「セノくんがすごい」と言って仏壇の置かれた和室の方向を指した。開け放たれた襖をくぐると、そこにはとうもろこしで作られた円盤状のオブジェ――というよりはきっとUFO、があった。
八束に気付き、「お盆の行事をきちんとこなすのは久しぶりだ」と静穏は笑った。
「呼んでくれてありがとう」
「いやそれはいいんだけど、……とうもろこしの未確認飛行物体?」
「おれの実家、盆っていかに発想力と創造性を発揮するかが重点だったんだよな。ズレてるのもいいとこだろ」
そう言いながら野菜の屑をまとめはじめる。
「早く帰ってきて欲しいからきゅうりの馬、ゆっくり帰ってほしいからなすの牛、だろ?」
「ああ」
「そしたらまだガキだったおれら兄弟におふくろがさ、『このご時世牛で移動しないし馬で移動もしないわよね』って言い出して。その発言に火がついた親父がきゅうりでバイクを作ったんだよ。レーサー用のバイクだった」
「おお」それは一般的な家庭にはなかなかない発想だった。
「それでおれら兄弟は、ゆっくり帰るための乗り物として三輪車を拙い感じで作ってね。でもそれはおふくろいわく『自力で漕がなきゃいけない乗り物なんて疲れるから却下よ』だそうだから。野菜で遊ぶなって話だけど、毎年楽しかったよ。ブロッコリーでロケット作ったり、リアルなロバを彫ってみたり」
「それで今年はUFO?」
「帰りは豪華客船のつもり」
その豪華客船とやらは貰いすぎて持て余していた冬瓜で作るようだ。ナイフを片手に静穏はまた作業に没頭する。四季を手伝って夕飯を呼ぶ頃には、それらは完成していた。
「そうか、うちのばあさんと五紀(いつき)は、今年は極楽浄土からじゃなくて宇宙からやって来るんだな」と父はとうもろこしのUFOを見て満足そうに笑った。
「楽しそうで何より」
「おばーちゃんもおかーさんもいつの間に宇宙飛行士なんかなったんだろう」
「いや、宇宙飛行士が乗って来るのは空飛ぶ円盤じゃなくてロケットだろう」
「帰りは世界一周して帰るのかな。いーなー旅行」
「このあいだ北海道行ったばっかりだろうに」
変わった点といえば、とても静かになった。こういうとき、以前だったら静穏もきちんと口を挟んだものだけれど、いまはあまり言葉にしない。口角をそっと上げてこちらを見ている。ただじっと、見ている。その目は時折きつく光る。見えないはずの衣服の内側の肌や、その肌の内側の肉や内臓、骨、髄、そういうものまで見ようとしているかのようなきつさに、心臓がヒヤッとする。
「セノさん、あの宇宙船の操縦者はやっぱりグレイタイプなの」と、あえて話題を振ってみる。
静穏ははっと目に現実を映して、穏やかさをじわじわと染み出すように滲ませて微笑んだ。
静穏ははっと目に現実を映して、穏やかさをじわじわと染み出すように滲ませて微笑んだ。
「そうだな、そこまで考えてなかったかな。四季ちゃん、料理の腕前上がったね。美味しい、この卵。味噌漬け?」
「あ、違うのそれ。それ漬けたのヤツカくん」
「へえ?」顔を直視された。
「私が寮生活はじめたら自分でもちょっと作るようになったらしいよ。これ、茹でて漬けとくだけじゃん。硬めに茹でとけばお弁当のおかずにもなるからいいんだって」
「え、八束さん弁当まで自分で作るようになったの?」
あれ、さん付けに戻った。
「白米と卵とソーセージとレンチン野菜をタッパーに詰める。以上」
「それでもすごいよね。あんなにぶきっちょ面倒くさがり代表選手だったヤツカくんが」
えらいえらい、と姪は頭を撫でてくれた。その行動が姉にそっくりですごいな、と思った。遺伝子ってすごい。姉は四季が六歳の時に亡くなっているというのに。
「うん、すごいな。――えらいね」
静穏も同意して、夏野菜のスープに口をつけた。えらいね、の後に言葉は続かなかった。やっぱり静かになった。この人には一体どんな変化があったんだろう。
それをちゃんと訊きたいのに、迫力に負けて口にできない。鷹島静穏という人間の凄みが満々と身体に溢れかえっていた。夏の盛りの草木が、容赦ない陽光を受けて鮮やかに繁茂するように。
不意にハイビスカスの花を連想した。真夏の真っ赤な花。陽気なイメージは受けないけれど、その色合いは生命のみなぎる赤だと思った。
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粟津原栗子
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短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
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甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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