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痩せた身体をしていた。脂肪も、筋肉すらもないような身体だった。真っ白で、骨ばっている。その身体を床に直接組み敷くのはあまりにも可哀想な気がして、途中で祖母がつかっていた部屋に移動した。晩年、彼女は膝を悪くして畳敷きの部屋にベッドを導入しており、それをまだ処分せずに残していた。
白い身体は、しかしあまりにも快感に素直だった。通志は頑なに声を我慢したので行為はとても静かだった。下手に喘がれるよりずっと、五感が冴えて誰と身体を共有しているかが分かる。ふるえが伝わって、快楽のポイントを探り当てられたことを知る。濡れた音、ぬめる感触、肌や舌のざらつき、したたるようにこぼれる吐息。
行為は夜半にまで及んだ。ホテルのチェックインのことはもう、すっかり忘れていた。がさり、となにかが草木を踏み分ける音がして、通志はしんらに貫かれたまま、びくりと膝を引き攣らせた。
「――あ、いまの、なに……」情事に潤みきった声はあやふやで、普段より高かった。
「多分、なにか動物が通った音」
「動物、」
「獣だ。ケモノ」
「……僕たちも、じゅうぶん獣ですね」
「……そうだな」
耳を澄まさなくても、色んな音がした。秋虫の音、風に揺らされて木々の梢がこすれる音、家鳴り、羽虫のはばたき。夜行性の獣だってあちこち動きまわっている。たくさんのものに囲まれているのが分かる。いまなら花のひらく音にさえ気づきそうなほど、お互いの身体に没頭しているくせに、神経があらゆる方面に集中している。
しんらは通志の両側に手を突き、その顔をまじまじと見下ろした。薄暗いから表情が定かではない。先ほどから執拗にしんらの腹筋に性器を押し当ててはこすりつけていたが、観察されていると分かって彼は動きを止め、恥ずかしそうに顔をそむけた。
その顎を掴み、しんらは通志の額にくちづけた。目元にも唇を押し当てると、そこは少しだけ濡れていた。若葉に溜まった朝露を飲むような、吸うような、そんな感覚でそれを舐めとった。
「――しんら」と唐突に呼ばれて、心臓がずきっと痛んだ。通志はしんらの左の大腿を撫であげる。指は、膝の少し上のふくらみでとどまった。そのふくらみは、しんらがいまよりもう少し若い時にチェーンソーの扱いを誤ってつくった、三センチメートルほどの傷跡だった。
「ここ、痛い?」
「もう痛くはない。……なんでこれが傷だって知っているんだ」
「――ふふ」
彼は微笑んで、蠱惑的な笑みを浮かべた。暗闇でもはっきりと分かる、妖しい表情だった。しんらの心臓が、跳ね上がる。胸に直接杭でも打ちこまれたような火の熱さで、脈拍が唸る。
夜が明けなければいいと思った。このまま、冴えわたったまま、色んなものに抱かれながら、男を抱いていたかった。
翌日、しんらは通志を街まで送った。ずっとちいさくつきつきと心臓が痛みっぱなしで、しかしそれは体表しなかった。繊維に近い、やわらかく細い棘が触れているようだと思った。命にかかわるほど重大じゃない。無視していられる。けれど気になる、違和感。
通志も同じく、表面上はなにも起こっていなかった。来たときと同じように車内で喋り通し、民話や伝承を面白おかしく語って聞かせた。しんらは時折質問を交えながら、頷く。そんなふうに、ふたりは別れまでの時間を過ごす。
講演会場である市民体育館の前で通志を下ろした。彼は少しだけ目線を下げ、なにか言いたげに唇を動かしたが、一文字に閉じなおすと、しんらの顔を真正面から見て「色々とお世話になりました」と言った。
「それでは、」
「はい、お気をつけて」
別れはあっさりしたものだった。しんらはしばらくその場にとどまったが、エンジンをかけ直して軽ワゴンを発進させた。恋ではない。愛情はあったかもしれない。ただ淋しいときに同じく淋しい身体があったから、お互い心置きなく発散しただけだ。次はない、もう会わない。
けれど一向に身体が凪がないのは、なぜだろう。ぴりぴりと微弱な電流が走り、かぶれでもしたように、もしくは爛れたかのように、身体が火照る。あのひと晩は、薬だったのか毒だったのか。
路肩に車を停めて、しんらはハンドルに覆いかぶさり、うなだれた。通志の喋り方、華奢で白い身体、暗がりで見た蠱惑的な笑み。夏の終わりの発熱。
九月に入ろうかというころでも暑さが厳しく、それでも朝晩はしのぎやすくなってきたころ、しんらの家の庭に村役場所有の軽自動車が停まった。飼い犬が吠えたので、裏の畑で作業をしていたしんらにも分かった。表へ出ると、観光課勤めの幼馴染が車の傍に立っていた。
「――なに?」
「なに? じゃねえよ。盆の時に東京から来たセンセイのガイド料、受け取ってねえだろ」
「あ、」
そう、直接渡されるという話だったのだ。しんらも彼もおそらくすっかり、そのことを忘れていた。
「おまえんちの住所分かんねえからってさ、役場宛てに現金書留で届いたの、持ってきてやったんだ」
「悪かったな。あがるか? ちょっと休憩しようかと思ってたころだったんだ」
「いや、俺これでまたすぐ戻んなきゃなんねえ。庁舎に来客の予定なんだ」
「そっか。さんきゅ」
「おうよ。次回は酒飲みに来るわ」
車を見送り、しんらは庭から直接縁側に腰掛けた。渡された封筒を眺める。とめはねはらいまでぴっちり整った字で、役場の住所と共にしんらの名前が記されてあった。幾重にも厳重な封を、ぺりぺりと剥がしていく。現金と一緒に、名刺と、手紙が出てきた。
『実は僕はあなたのことを以前から知っていました。聞いていた、が正しい。あなたのおばあ様が携わっていたかたりべの会に、僕はちょくちょく足を運んでいました。会報誌を送ってもらっていたりもした。僕の学術研究のため、でもあったけれど、あなたのおばあ様の、昔ながらの質素で丁寧な暮らしにも興味がありました。それを聞いているうちに親しくなり、孫であるあなたのこともよく聞いていました。(チェーンソーで足を切ってけがをしたことは、彼女から笑い話として聞いたのです。)
寡黙で、ひとりを好み、人間関係に関してはとことん不器用で、決して群れない。母親とうまくゆかなかったのは祖母である私のせいで、私が死んだあとのことが心配だと、彼女はよく言っていました。どんな人だろうと、僕はずっと思っていた。彼女が亡くなったことを聞いて、なにもかも知らないふりで、思い切ってあなたにガイドを頼みました。念願かなってあなたに森を案内してもらえて、僕はすっかり、あなたに参ってしまった。深くもの悲しく、孤独で、しかし現実を見つめている瞳や佇まいが、森そのもので美しいと思いました。
会いたいです。またいつか、なんて言葉じゃなくて、いますぐ。すぐに。』
大学に勤める身にしては、ずいぶんと中途半端な手紙だった。しんらは呻き、身体を折る。ああ、毒だ、と思った。あのひと晩は、しんらをなんにも癒しはしなかった。恋を教え込まれ、愛の飢えを知らされ、しんらは愕然とする。
しんらもまた会いたいと思う。
名刺を片手に、記された電話番号とフルネームを口の中でそらんじてから、しんらは携帯電話の通話ボタンを押した。
End.
← 2
おつきあいくださいまして、ありがとうございました。
また一年、よろしくお願いいたします。
「滝まではここから二十㎞離れています。歩いて行きたいなら止めませんが、林道で、けっこう険しいですよ」
「そうなんですか……」
「滝には遊歩道がついていますから、歩けます。なんならその辺の林を少し歩いてもいい。とにかく、行きましょう」
飼い犬に留守を頼み、出発した。がたがたと舗装の悪い道をしんらはものともせずに運転する。慣れきっているのだ。のぼること十五分程度で、滝の遊歩道のある入口に着いた。
「――本当に山の中だ」と通志が言った。
「遊歩道、こちらです。滑りやすいので、気をつけて」
通志の先行をして歩く。途中、歩きにくい個所は足の載せ方をあらかじめ見せてから進む。五分程度で、滝についた。夏場なので水量は少なく、巨石の隙間から水が申し訳程度にしたたり落ちていた。
滝壺(と言っても池より小さい水たまり程度)の際まで行って、なにが楽しいのか通志はしばらく滝を眺めていた。それを邪魔せぬよう、しんらは一歩下がる。鳥の囀りが頭上を駆け、木々が覆い、直射日光を遮る。水辺なので虫がたかって気に障る。しかし通志は動かない。しばらくして「この大きな岩を昔の人は巨人が動かした、と考えたんですね」とこぼした。
「もっと水量があるときは見ごたえあったんですが」
「いえ、充分です。あの、水で穿って出来た窪みなんか、水があったら見られないですからね。――ありがとうございました」
と、深く頭を下げる。
「ええと、少し歩きましょうか?」
「ええ、ぜひ」
車を路肩に停め置いて、散策した。林道を進んでゆくだけだったが、通志はいちいちに反応した。あの鳥の声はなんの鳥? この花は? 木は? 質問攻めにあったが、単純に好奇心から来ていると分かるから、苦ではなかった。
「――あ、それはウルシです。触っちゃだめだ」
通志の手が葉に伸びる、その手を上から握るようにして覆って制した。驚いた通志と目が合う。通志は眼鏡の奥で目をぱちくりさせた後、さっと目を逸らした。耳が少し赤い。
「ウルシはね、厄介なんですよ。服の上から触っても、かぶれてしまう。この、茎の赤いのが目印です」
「そうなんですね。――そんな毒なのに、塗装につかおうとするなんて、すごいな」
それで祖母の台詞を思い出した。猛毒は薬になる。ウルシを塗装につかうことで、食器や建物は、堅牢になるのだ。だが毒は毒。恋愛と一緒よぉ、という母の声も聞こえた気がして、いやになった。
「これは?」と通志が指差した先には青紫の綺麗な花が咲いていた。これも毒だ。通志の背後に寄り、耳元でそっと「それ、トリカブトです」と言ってやった。華奢な肩がびくりとこわばる。
「――これが?」
「そう、猛毒のトリカブトです。綺麗でしょう、花。でも全草に毒性があるので、素人は触らないでおくほうがいいでしょうね」
通志はしらばくそれを眺めていたが、「トリカブトは薬にもつかわれると聞きました」とぽつり、答えた。
「ああ、確か漢方で、強心剤に」
「そうです。――知らなかった、こんなに綺麗な花だったなんて」
くるっと通志がいきなりしんらを振り向いた。「あなたはなんでも、由来を知っているんですね」と言った、その真意が測れなかった。
「たとえば、僕らはスーパーで肉や魚を買うけれど、切り身ばかりで実際の魚も豚も見たことがない。豚の部位なら、ロースだとかヒレだとか知っているけれど、生身の豚に触れたことはないんです。それをあなたは、よく知っているような気がして」
「僕も豚は見たことがないですよ」
「でも、トリカブトの花を知っている。ウルシを知っている。同じことですよ」
その言葉は、しんらの心になんとなく沁み渡った。時間を確認すれば、そろそろ戻らねばならないころだった。「滑るから気をつけて」と声をかけながら、斜面を下りてゆく。
「――ホテルの予約は何時でしたっけ?」
荷物を取りに家に戻ったついでに、家にあげて茶を出してやりながら訊いた。通志は今日中には市街地のホテルへ戻る予定だ。講演会は明日の午後だと聞いている。
「チェックインは、十八時です」
「なにでそこまで行くつもりでしたか?」
「最寄駅までバスで出て、そこから電車を」
「ああ、ならホテルまで送ります。バスはあちこち周回してから行きますからね。時間がかかる。本数も少ないですし」
「そこまでお世話になるわけには」
「構いませんよ。ちょうど僕も買い出しに出ようと思っていたところなので」
と言うと、通志は迷ってから、「じゃあ、お願いします」と答える。
「まだ時間はありますか」と言うので、時計を確認した。十四時半。街へ出るのに一時間を見込むとして、余裕があった。
「じゃあ、少しあなたの話を聞きたい」
「なにを」
「ここでおひとりで暮らされているんですよね」
と、通志は室内を見渡した。典型的な田舎の、木造の、古い家だった。土間があり、土壁で、長靴や鎌、鉈、草刈り機、魚籠やらざるやらが隅に寄せてある。裏手はすぐ畑で、玄関先には耕運機を置いてある。あまり広い家ではない。それでも、通志は「広いですね」と言った。
「この家は集落から少し外れるようでしたが、」
「ええ。うちが集落のいちばん外側にあります。ここから先は森ですよ、という目印でもあるんです」
「ガイドのほかに、農業をして暮らしている?」
「そうです。畑で作物を育て、少しは出荷しますが、ほぼ自給自足みたいな暮らしです。小遣いはこうやって、ガイドで稼ぎます」
「おひとりで、大変ではないですか?」
「多分、どこで暮らしていても、そうだと思います。でも街で暮らすよりはここでひとりの方が性に合っている。大変ですが、苦ではないです」
通志を見る。彼もまた、いつの間にかしんらを見つめていた。目が真剣で、しんらはぎくりとする。
「――淋しくは、ないですか」
それはまるで、イエス、と言って欲しいみたいな訊ね方だった。
「こんな、緑に埋もれるようにして、ひとりで……淋しくは、ない?」
「淋しい、と言ったらどうしてくれるんですか」
「こう、します」
通志の身体が一気に近づく。唇と唇が触れあった。発する熱が肌に当たり、鳥肌が立った。
← 1
→ 3
猛毒はしかし、薄めれば薬になるのだ。先日亡くなった祖母は、よくそう言っていた。少量なら薬、多量なら致死。みいんなそういうもんだわね、というのが、彼女の口癖だった。
しんらがはっきりとよく覚えているのは、しんらが中学生のころ、母と、祖母と、三人でした会話だ。祖母は縁側で採ってきた山菜の下処理をしており、しんらは庭で飼っていた鶏に餌を撒いていた。母は台所から日本酒(料理酒だった)を持ち出し、縁側に腰掛けて足をぶらぶらさせながら飲んでいた。なにがきっかけだったか定かではないが、山で気をつけるべき毒草の話になり、そこで祖母が件の「少量なら薬、多量なら致死」を持ちだした、と記憶している。それを聞いた母は、「あはは」と祖母を笑った。
「それって恋愛のことみたいよねぇ。ちょっとだけならいいけどぉ、食べすぎると死んじゃう、みたいなぁ」
しんらは、母のこの甘ったるい喋り方が心底好きではなかった。派手で、男好きで、ばかで、田舎の山奥にある実家を嫌い、十六歳で家を飛び出した母。街で夜の仕事をしていたが、しんらを妊娠し、男には逃げられ、実家に逃げ帰ってきた。実質、しんらを育てたのは祖母だった。しんらがある程度大きくなると母はまた街へ飛び出し、たまにふらりと帰って来ては祖母やしんらの財布から小遣いを抜き取り、また街へ戻ってゆく、そういうしょうもない母親だった。
母の恋愛云々の台詞を、しんらは背中で聞いていた。顔も見たくないほど嫌っている女の声だ。祖母も無言でいたが、しばらくして静かに「そうさね」とだけ答えた。
「あたしはもうとっくに猛毒まわってるから、じきに死ぬかも。男に刺されてさぁ。あたしらしいでしょ?」
「あけみ、もう酒はやめときなさい」
祖母は立ちあがり、母から酒を取りあげる。しんらはもうこれ以上この女といたくない、と思い、自室に引きあげるべく庭に備え付けの水道で手を洗う。
「しんらぁ」
と母が呼んだ。しんらは振り向かない。
「あたしのことばかな女って思ってるだろうけどぉ、あんたもそのうち分かるから。恋愛は毒よぅ。あんたはうまくやんなさいねぇ」
これが母との最後の会話だった。翌日彼女はいつものように出てゆき、もう戻らなかった。ひょっとすると本当に男にでも刺されたかは分からない。しんらはずっと祖母と暮らしたが、彼女も亡くなって、ひとりになった。ひとりで田舎の山奥に暮らしている。
◇
祖母の喪があけると夏の盛りだった。すぐ裏手が山になるしんらの家は、油断していると緑にすぐさま飲まれるので、ゆっくり祖母を悼んでいる間もなかった。草刈り、生垣の剪定、野菜の収穫と出荷の準備、農具の手入れ。
村役場の観光課から電話が鳴ったのは、ちょうど盆に入る直前だった。「新盆で忙しいころかもしんねぇけどなあ、しんちゃんよ、ちょっと引き受けてくれねえか」と、観光課に勤めるしんらの幼馴染が言った。
「なに? ガイド?」しんらは農業の傍ら、ネイチャーガイドの資格を持って活動していた。
『そうそう、ガイド。K沢周辺を案内してほしい。ほら、滝があるだろ。あれを見たいんだと』
「夏場だからな、水量は期待しない方がいい」
『東京から来る、ナントカ大学のえらーいセンセイなんだ。講演会のついでに足伸ばして森林観察がしたいんだと。謝礼はセンセイから直接出る。ふんだくっていいぞ』
乱暴な物言いに、しんらは笑った。祖母が死んで、ただでさえ寡黙な性分に拍車がかかっていた。久々に自分が腹から出す声を聴いた、と思った。
『悪いな。でも、頼むよ』
日時と待ちあわせ場所を確認して、電話は切れた。
ちょうど盆の真ん中に東京から大学教授はやって来た。「講演会をする前に、地元の山を見ておきたい」というのが彼の希望で、だからしんらが駅まで迎えに行ってやった。どんな爺さんが来るかと思っていれば「センセイ」はずいぶんと若かった。まだ四十歳に届いていないと思う。
「やあ、若い人だ」
それがセンセイの第一声だった。そっちこそ、としんらは心の中で返す。少し猫背気味で、小柄。黒縁の眼鏡をかけていた。穏やかな物言い、半袖シャツから伸びる白い腕に、腕時計は手巻き式だった。いかにも勉強だけして生きてきました、という風体。正反対だ、としんらは自分を思う。
名乗りあって、車に乗り込む。「センセイ」は正確には准教授で、名を「通志(みちし)」と言った。苗字か名前か判別しかねたが、訊かなかった。しんらのフルネームのことは、「素敵ですね」と言った。
「森羅万象の、しんら、ですね。あなたとこの土地にふさわしい気がする」
「やはり東京と違いますか、ここは」
「ずいぶんと。山が近いし、空がちゃんと遠い。空気も乾いている。標高、どのくらいあると言いましたっけ?」
「ここはおそらく五百メートルぐらいですね。僕の家へ行くと、もう少しあがります。八百五十から九百メートルぐらい」
「それは涼しそうですね」
「朝晩の気温が下がる程度です。日中の最高気温は東京とあまり変わりありませんよ」
蝉の声が鳴り響く中を、びゅんびゅんと軽ワゴンを飛ばして街から里へ移動する。しんらの住まいは、集落のいちばん奥だ。そこに荷物をいったん置いて、通志を森へ連れ出す手筈にしてある。
最寄駅から自宅までは車で四十分ほどかかる。バスは一日三便。車がないとどこにも行けない。そんな田舎に用があるだろうか、と思ってしまう。もう少し標高の高い高原なら別荘が建ち並ぶので、この時期は避暑で訪れる人間が多いことも分かるが、しんらの暮らす土地はなにごとにも中途半端だった。
「――水の音が聞こえる」と通志は言った。
「川沿いに家や道路が並びます。山と山のあいまの、谷になっているんですよ。この村は広いですが、この地区のことは『谷』と呼ばれますね」
「へえ、興味深いな」
「先生はなんの先生なんですか?」
「大それたもんじゃないんです。一応大学では、民俗学を。特に地域の民話や方言を収集しては分類しています。――そういえばしんらさんは、あまり訛りがないですね」
「そうかもしれません。祖母相手だと出ていました」
「いました、」
「亡くなったので。元から祖母とふたり暮らしでした。いまはひとりなので、方言を気にする相手すらいません」
「……すみません、その、僕は、」
「いえ、平気です。お気になさらず」
沈黙が出来た。ガイド、という一応の客商売であるため、しんらは話題を変えた。「滝が見たいというのは、伝承が残っているからですか?」
「――そうそう。そうなんです」通志はほっとした表情で話題に応じた。
「巨石を組み上げて崖場をつくり、水を流した巨人の話ですよね」
「そう、それです。デエラボッチ、ダイダラボウ、日本各地で様々な呼び方があるようですが、この辺りではなんと?」
「デェラボッチャ、ですかね」
「へえ、音が下がるんですね。面白い」
道は、次第に谷の一本道になって来ていた。両側に山が迫る中を、まだ進む。どのくらいしんらの家が山奥かと言えば、しんらの家までで電線が止まっているところで分かる。ここから先は森へ続く道なのだ。家の庭に車を停め、ひとまず荷物を下ろす。
「弁当、どうしてますか?」と訊くと、通志はビニール袋を示して「車内で買った駅弁が」と照れ臭そうに笑った。ペットボトルのお茶もあるというから、水分は大丈夫だろう。ナップサックにそれらを背負わせて、あとは虫よけをたっぷりと撒き、「じゃあ、行きましょう」と再び車に乗り込んだ。
→ 2
恋人は遠い彼方に住んでいる。中学時代からの同級生で、付きあいはじめたのが二十歳になってから。大学を卒業し、就職し、おれたちは一生こうやって続くのかな、と思いはじめた矢先に恋人は突然「俺、ニュージーランドへ行くわ」と言ったのだ。二十八歳の時だった。ワーキングホリデーで一年間、という話が、いつの間にか向こうで就労してワークビザを取り、ずるずると住み続けてもう五年になった。日本にちょくちょく帰国はしたが、「帰る」という話にはならなかった。恋人にとってニュージーランドはとても居心地が良いようで、帰国するたびに向こうで出来た友達(多国籍にいろいろといる)の話を語ってくれた。
達流(たつる)は海外に興味を持ったことがない。恋人が異国へ行くからと言って、達流自身がどうする、ということは考えなかった。「案内するから一度は遊びに来いよ」と恋人から散々言われていて、行かなかった。休みが取れなかったし、英語にはとことん自信がないし、根が小心だ。恋人のように大胆にはなれなかった。
それがある日、ぽんと失業してしまった。いきなり時間が無制限に与えられ、達流は驚いたというよりも、なにをしていいのか分からずうろたえ、落ち込んだ。精神的に大きなダメージだった。こういうとき恋人がどうして傍にいないんだろう、と考え、なんであいつ海外なんか行っちゃったんだ、と恨めしい気持ちで、たまらなくなって電話した。料金が高いとか時差のおかげで向こうはいま真夜中だったとか、お構いなしだった。電話に出た恋人の迅(じん)は、半分寝惚けていたようだったが、達流の話を聞いていきなり笑い出した。「なあんだ、タツ、時間があるんじゃん。だったらこっちへ来いよ。いくらでも世話してやるから」
「え」
『旅行してもいいし、なんにもしないってのもいい。おおらかな国だよ。日本で就活なんかやめだ、やめ。しばらくこっちにいろよ。なんなら旅費も出すから』
「……旅費ぐらいあるよ、」
『海外はじめてだろ? 道中が心配なら、いったん成田まで俺が迎えに行ってもいい』
そこまで言われると、行こうか、という気になった。まずパスポートの取得からはじめるのだから笑ってしまう。航空券は、恋人が手配してくれた。はじめての身でも安心してゆける直行便だ。成田まで、という申し出はとりあえず辞退して、国際空港のあるオークランドまで迎えに来てもらう手筈になった。キャリーケースを買い、サングラスを買い、衣類を支度し、三月に日本を出国した。
入国日は、雨が風に煽られ舞っていた。発着ロビーで恋人と落ちあう。彼はサングラスを頭に乗っけていて、いつの間にか髭を生やしていた。いかにも現地に見あった日本人、といういでたちで、なんだか知らない人に出会ってしまったようで、少し怖気た。
「――痩せたな」
久しぶり、も、ようこそ、も言わずに恋人はそう言った。達流が面食らっているうちに両頬を両手で包み込まれる。指で顎のラインをなぞられて、ぞく、とした。
「あーあ、こんなに痩せちまって。かわいそうに」
「……迅、人がいる」
「構わないだろ。おまえにとっちゃここは異国で、だから誰も見てない」
額と額が当たった。頬に触れていた手は背中にまわり、恋人の強い抱擁で、久々に彼の体温を嗅いだ。
だから安心して、身を委ねる。
「ようこそ、ニュージーランドへ」
耳元で囁かれた。長旅で疲労している身に、安心する声音だ。「遠かった」と言うと、恋人は優しく背を叩いてくれた。
疲れ切っていたので、オークランド観光はまたにして、迅が暮らすTという小さな町に移動した。高速道路でもないのに車の制限速度が100㎞/hなのには驚いた。目の回る速さであっという間に迅が借りている部屋に着く。一戸建てのこじんまりとした平屋だ。窓から海が見えた。「おまえの部屋こっちな」と促されて進めば、ゲストルームにはベッドが一台、きちんと備え付けられていた。
「俺の部屋、あっち。バスルームはここ、リビングルーム、キッチン、ダイニング……」
「ちょっと待てよ、おまえひとり暮らしなんだろ?」
「そうだよ」
「シェアハウスしてる、とかじゃないんだよな。なんでこんなに部屋数あるんだ?」
「俺は広い方が気ままで好きなんだ。ここへ来てまで日本と同じ、ってのはと思って、ちょっといい部屋借りてんの」
迅の仕事は、日本人向けツアーガイドだ。ほか、農場で日雇いのバイトをしてみたり、友人が経営しているパブで接客を手伝ったりと、幅広く活動している。
「だからその部屋は本当におまえのもん。好きにつかいな」
そう言って迅は部屋から出てゆく。ベッドに転がると、日なたのにおいがした。身体はくたくたで脳が痺れている。目を閉じると、すぐに眠りに落ちた。
そうやって一週間ほどは寝通した。起きて、適当に冷蔵庫を漁り、食べ、またベッドに潜りこむ。せっかく会えた恋人の、迅の気配もおぼろげだった。よっぽど自分は疲労していたのだ、と自覚する。色んな事柄からフリーになれたいま、身体がなによりも欲しているのは休養だった。
静かだった。鳥のさえずりぐらいしか聞こえない。本当に人は住んでいるのだろうか? だが一応、町の住宅街なので人はいるのだ。聞こえてくる言語のほとんどが英語なので、脳が音声として感知しないのかもしれなかった。情報がなにも入らない。とても楽に感じた。
ある朝(といっても昼ごろ)、目を覚ましたら傍らに迅がいた。椅子をリビングから持ち出して、腰掛けて本を読んでいた。タイトルが英名で分からない。窓に背を向け、わずかにあけたカーテンの隙間から陽光が差す。光が迅の頬をかすめている。
「……今日、休みなの、」
そう訊くと、迅はぱっと顔をあげた。
「起きてたのか」
「起きたんだ。なんでここに?」
「せっかくおまえがこっちに来たのに、寝てばっかりでちっとも起きてこないからつまらなくて、寝込みでも襲ってやろうと思ったんだけど」
あんまりにもいい顔して寝てるから、ばかばかしくなってやめた、と迅は笑った。髭面の瞳が、きゅ、と細くなる。
「なにか食べるか」
迅は本を閉じ、立ちあがりかける。その腕をつかんだ。振り向く迅を、達流は誘った。
「襲わなくていいの、」
「襲っていいのか」
「いまさら、許可のいるような間柄じゃないだろ」
普段の達流ならこんなことはあまり言わない。日本じゃない場所で、浮かれている、もしくは熱に浮かされている、と思った。迅はにこりと微笑み、達流がかぶっている布団をはぐと、腕を背中と足の下に差し込んで、抱きあげてしまった。
「――えっ」
「俺の部屋のベッドの方が広い。暴れるなよ、落とす」
そう言われるとされるがままだった。廊下を進み、迅の寝室に入る。こちらは庭木で窓が塞がっていて、カーテンがあいていても薄暗かった。
香を焚いているようだった。部屋に入ると、ふわ、と上品で清らかな香りがした。
「香を焚く趣味なんかあったっけ」
「こっち来てからだよ。たまに、懐かしくなってさ、日本の寺院のにおいとか」
ベッドに下ろされる。確かに迅のベッドの方が広く、ふたりでも支障ないぐらいだった。迅は気持ちのよい脱ぎっぷりで、ためらいなく衣類を床に落としていく。太い二の腕や厚い胸板なんかがあらわになると、眠りの延長線上にいた達流も急激に昂ぶった。
「――この辺のやつらはスロー・セックスらしいな」
達流にのしかかりながら、迅が呟く。
「知らない。実践したの、迅」
「おまえがいないのに出来っこないだろ。セックスなんて、達流がいなきゃ出来ないんだから」
その台詞に、胸が熱くなる。
「……じゃあ、今日する。――いま、する」
「おまえ、……」
迅はしばらく無言で、達流の腹部や腰回りを衣類の上から撫でていたが、パジャマのウエストに手をかけると、下着と一緒に一息に脱がした。
「積極的なのも、いいな」
腰骨に唇を落とされた。髭が当たり、それで思い出した。まだこちらへ来てから、キスもしていない。
ねだると、迅は嬉しそうに身体を上にずらした。
迅が連れて行ってくれたから、色んな場所へ行った。主に北島内を、車移動で。オークランドのミュージアム、ハミルトンでチャイニーズ・ティーを、ロトルアのスパ、マウントマウンガヌイのビーチとアイスクリーム。季節は夏から秋へと移行してゆくころで、栗を拾いに山中の公園へ入ったりもした。のどかで、おおらかで、なんにも急かされない。食事は絶対に日本の方が美味しかったが、素材は良かった。
ビザは、なにも申請しなくても三か月間は不要だった。それを超えると移民局でビザの切り替えを行わなければならないので、ひとまず滞在を三か月間と決めていた。帰る日が徐々に近づいてくる。息苦しくなった。相変わらず英語はひとつも分からないのに、友達すらいないのに、迅がいなければ移動のひとつも出来ないのに、この国にいたいと思うのはどうしてだろう。ここで暮らしてゆく覚悟みたいなものはまだなにも出来ていなくて、でもいまはストレンジャーのままでいいから、帰りたくなかった。
日曜日、迅と近くの公園でひらかれるというマーケットを覗きに行った。ころは五月、朝晩は冷え込み、雨が多くなってきた。こちらで買ったオーバーサイズのジャケットを着て迅と歩いていると、教会の傍に停めた車から男性がふたり降りるところに出くわした。揃いのシルバーグレイのタキシードを着こみ、胸に花を飾っていた。
それを迅としばらく眺める。雰囲気から、ゲイカップルだということは分かった。「結婚式だ」と迅は呟いた。サングラスを頭の上にあげて、ふたりをまじまじと見つめる。
「――結婚式?」
「そう、多分な。ついこのあいだ、法案が通って、この国でも同性婚が認められるようになったんだ」
「知らなかった」
「出来るように、なったんだよ、達流」
迅はゆっくりと、噛みしめるように言う。そのまま目線を達流に移した。細められた目は、しかし、迷っている。あと二週間もすれば達流は帰国してしまう。
「俺はおまえと結婚したいと思っているよ」
「――」
「本当は日本なんかに帰したくないんだ」
達流、と迅が呼ぶ。風がざあっと吹いて、街路樹の枝から枯れ葉が離れ、舞った。迅と達流の足もとを、かさかさと踊ってゆく。巻いた風はそのまま迅を吹き上げ、短い毛先が躍る。
「俺も帰りたくない」と言うと、迅はほっとした表情で、一言「うん」とだけ言った。
「なにをすればいいかな、俺は。この国で迅と暮らして行くために、まず必要なこと」
きっとたくさんある。ビザのこと、言語のこと、仕事のこと。日本に残している家族のことや、友人たち。それを乗り越えてでも迅とこの国で暮らしてゆきたい、覚悟、意思。
「――家に帰って、ゆっくり話しあおう。コーヒーを淹れるよ」
「じゃあ、マーケットでビスケットでも買って行こうよ」
ゆっくりと公園の方へ歩き出す。手が触れあったので、怖じず照れずしっかりと、握りあった。
End.
◇
帰宅は夜十時を過ぎた。学校図書館で借りものをして、そのまま施錠まで請け負ったらつい時間を忘れてしまった。明日卒業する生徒の、入学したときの集合写真を見ていた。どいつもこいつも初々しい顔をしていた。当然、西川もいた。
この時彼はまだマッシュヘアーではなかった。中学時代は野球部で、坊主頭そのままの入学だった。おでこ出すなんてあり得ない、と西川は言っていたが、写真を見る限りでは気になることはなにもなかった。大人しく切ってくればいいのに。一体いつから、西川はマッシュヘアーに目覚めただろう。
携帯電話が着信を告げる。誰だこんな時間に、と思って取れば、西川だった。
『先生、こんばんは』
「どうした?」
『いまから会えませんか? 田之上先生のアパートの前にある自販機のところにいます』
「なにかあったか?」
『――別に、』
と、珍しく口ごもる。田之上はいったん通話を終え、部屋を出て階下に降りた。ぼうっと明るい自販機の前に確かに人影があり、田之上に気付くと手を挙げた。
「先生、その格好ださすぎない?」と西川は言った。田之上は亡くなった祖母が残してくれた中綿の半纏を羽織っていた。
「いいんだよ、あったかいんだから。――おまえは完璧だな」
西川は自身満面の笑みを見せる。私服姿の西川は、どこかのファッション雑誌のストリートスナップそのままのいでたちで、制服姿以上に隙がなかった。
「で、なに?」
「明日までに髪切って来なかったら、僕、どうなりますか?」
「謹慎処分だよ。卒業式の出席が出来ないわけ」
「みんなが卒業式に出てるあいだ?」
「そう。俺の監督の元、生徒指導室で反省文書かされる」
「先生は卒業式に出ないってこと?」
「毎年、風紀委員会の顧問はそういう役目なんだ」
西川はそっとうつむいた。吐きだされる息は白く、寒く、田之上は、早くこいつを帰さなきゃな、と思った。
「――考えたんですけど」と前を向き直して西川は言った。
「先生が切ってくれるなら、いまの髪型やめてもいいです」
「……こだわりのキノコカットを?」
「マッシュヘアーだってば。……眉毛の上に髪があれば、いいんでしょう?」
「そうだけど、俺、人の髪なんか切ったことない」
「いいですから、先生なら」
「どうして」
「どうしてだっていい。先生が切らないなら、僕は明日このまま学校へ行きます」
なんでそんな極端な二択しかないんだ、と思った。しかし西川の目は思いつめたようにまっすぐで、田之上は怖気る。さあ、とでも言いたげに、西川はその目を閉じた。しんと冷たい空気に耐えかねて、田之上はそっと手を伸ばす。
西川の前髪にはじめて触れた。針よりも細く、芯から美しい髪だ。きっと田之上の何倍も時間をかけて手を入れ、整えている。西川の自慢の髪。西川自身の表現。
西川という少年の主義、主張。象徴のヘアスタイル。ああ、と田之上は声には出さずに息を吐いた。腕を押し込み、前髪をかき上げる。白い額が露わになる。にきびのひとつもない、綺麗な肌だった。これもまめに手を入れているのだろうか。
「――ふ」とつい笑ってしまった。西川は目をあける。
「いや、俺は切らねえよ、西川」頭をぽんぽんと二度はたき、手を離した。
「規則上と立場上で言うけど、俺はおまえみたいな気骨のやつ、好きだからさ。切らない。っつか、切れねえ。卒業式に出たいなら、自分でなんとかしな」
「別に卒業式に出たいわけじゃ、」
「そう? じゃあどっちだっていいわ、俺も。ただ、俺はおまえの髪を切れない。明日俺と一緒に反省文書いて過ごすか、卒業式に出るかは、おまえ次第」
ポケットを探り、小銭を取り出した。運よく五百円玉が入っていて、ラッキー、と思う。それで温かい缶コーヒーを二本買った。一本を西川の頬に押し当てると、西川は眩しそうに顔を歪めながら、受け取った。
「間違っても風邪ひいて来れません、ってことだけはないように。じゃあな、おやすみ。また明日」
アパートの方へ戻る。後ろから「意気地なし!」と言われたが、ひらひらと手を振って、振り返りはしなかった。
◇
卒業式当日に馬鹿をやって来る生徒というのは、毎年必ず存在する。なんのために前日に風紀検査を行うのか、理解していないらしい。一晩で見事なブリーチを決めてきたり、スカートの裾を短くしたり。今年はつわもの揃いで、とりわけバリカンで刈り上げ頭に卑猥な単語を入れてきた阿呆がすごかった。その場で直せる生徒には注意をして出来る限りで式に出席させるが、直しようのないやつは、生徒指導室へ引っ張り謹慎処分とする。その中に西川もいた。彼の髪は前日と変わらず、見事なマッシュヘアーだった。
一応、「いまこの場で髪を切るか?」と訊いてみたが、彼は首を横に振った。そしてまっすぐな瞳で、「昨日も言ったように先生が切ってくれないんなら僕はこのままです」と言った。だから生徒指導室へ連行した。
西川は大人しいものだった。窓際の席に座り、黙々と机に向かっていた。田之上はその姿を暇に任せて眺める。寒いさむいとはいえども春の日差しで、眩い光が西川の黒髪を照らす。透けて、少しだけ茶色く見えた。肌の色が白いから、西川自身が発光しているようにも見えた。
卒業式後の最後のホームルームには出席させるので、卒業式終了時刻に合わせて、彼らを解放した。反省文を寄越すとき、西川はしばらく田之上の顔をじっと見た。それから頭を下げて、「三年間お世話になりました」と言って、部屋を出て行った。
提出された反省文を、その場で読んだ。癖はあるが読みやすい字で、たった一行だけ書いてあった。
『先生のことがずっと好きでした。』
ふーっと長い息を吐く。それから田之上は窓の外を見て、もう一度文面を見て、「ばあか」と呟く。「反省文じゃねえだろ、これ」
西川の自信満面な笑みが思い浮かぶようだった。そうやって貫いて生きていってほしい。彼がいちばん自分を魅せられると思う髪型と、スタイルとで。迷い、あるいは流されるままの人間が多い中で、西川の姿勢は実に潔く、真っ直ぐで、正しい。
西川が自分を好いてくれていたことは、ずっと前から知っていたように思った。そう、楽しい三年間だったな。卒業おめでとう。
End.
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