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海には、行かなかった。周辺の宿がいっぱいで取れなかったという。レンタカーで行くのだから車中泊でも良かったが、志津馬が「素泊まりでも、宿の方がいい」と言った。おそらくは満を気遣ってのことだった。満はあまり睡眠が深くない。眠るなら少しでも良い環境で、と志津馬は考えるらしかった。
高原へ行くことになった。湖の傍の、コテージへ一泊。この旅行のために満はサングラスを購入したが、梅雨が明けず空は始終薄曇りで、さほど必要とは思えなかった。面白がった志津馬が、「似合う?」と言ってサングラスをかけた。満に合わせて買ったサングラスは童顔の志津馬にはちっとも似合わず、サイズも大きい。満はわざと大きな声で笑った。
高原周辺には飲食店がないので、クーラーボックスに必要な食材を詰め込んで、コテージで自炊した。志津馬は当然ながら調理が手伝えなかったので(もっともそれはいつものことで、志津馬は料理が壊滅的に下手だ)、満の手元をじっと見ているだけだった。じっと、目を凝らして、じっと。そうしてしみじみと、「みっちゃんは格好いいねえ」と漏らすのだった。
夜、同じ部屋で眠るのはどうかと思ったから、別の部屋にした。二段ベッドがある方の部屋に志津馬が、ダブルベッドが備え付けてある方の部屋に満が収まった。居間でぐずぐずと満の傍にいたがった志津馬だったが、触れれば殺す、この脅しが効いていて、触れはしなかった。夜が深くなる。長時間の運転で疲れていたから、部屋に引きあげれば、満はあっという間に眠りに落ちた。
夢で見たのは、背を丸め怯えながらも必死で絵を描く志津馬だった。
いつだって天真爛漫に描いていたわけではないのだ。満に暴力で追い詰められながら、彼は自分の聖域をなんとかして守っていた。よくあんな無邪気なままで、絵を描いていられたと思う。精神的な崩壊を見せなかった。強い人間なのだ。満よりずっと強く、逞しく、自分に正直に生きている。そのなんと、眩しいこと。
比べてはいけないのだ、と満には分かっていた。自分が志津馬と同列に並ぼうなんて、無理がある。それでも志津馬と比べっこして、優位に立ちたかった。志津馬よりすぐれていると、どこかで誰かに認めてほしかった。感性で凌げないなら、パワーで上回ること。それが志津馬への暴力で、優越感で、自尊心だった。
ああ、そんなのはおかしい、と歯を食いしばる。絶望しながらもなんとか踏みとどまり、谷底へ落ちないように必死で力を入れる。ぎり、という音が内側から響いて、同時に「みっちゃん、みっちゃん」と肩を叩かれ、満は一気に覚醒した。ばたばたと雨音が鳴っている。傍に志津馬がいて、満を覗き込んでいた。
「――触ったな、いま」そう言うと、志津馬は素直に頷き、「ゆるして」と言った。
「みっちゃん、なんか苦しそうに呻くし、そのうち歯ぁ食いしばるし、……なんか見てられなくって」
「……なんでこの部屋にいる、志津馬」
「……ちょっと、ちょっとだけだよ。寝顔、見に来た」
部屋は暗い。目が慣れても、輪郭線ぐらいしか見えない。外は雨が降っているし、その上に遮光カーテンを閉めているから、なんの明かりも届かなかった。闇中にいると、光が恋しくなるのはどうしてだろう。
「――この雨終わったら、梅雨が明けるかな」
しとしと降る雨を、志津馬は語った。
「長かったね、今年の梅雨は」
「ああ」
「去年なんかろくに降らなくて、すぐ梅雨明けしちゃったよな。猛暑で、暑くて」
「そういえば去年だったな、志津馬が熱中症でひっくり返ったの」
制作の最中は扇風機だけで過ごしている、志津馬。家の中で熱中症に陥り、あの時も心臓を冷やした。
「そうそう。みっちゃんには迷惑かけてばっかりで、おれ、」
暗闇で、志津馬が動く気配があった。
「みっちゃんみたいにスマートになんでもこなせなくて、自己管理も甘くて、……本当、このざま、情けない」
志津馬の髪が頬に当たった。これも「触る」と言うなら、志津馬は今夜すでに二度殺されている。――もう、そんな気も起きない。
顔を傾けると、志津馬の唇と満の唇とが、簡単に重なった。ふ、と志津馬が吐息を漏らす。満は起きあがり、「おいで」と言った。志津馬が布団に潜りこんでくる。
左肩が下になるように、背後から志津馬を抱きしめた。手は腰から志津馬の腕へ、ギプスの上に置く。
志津馬は泣きだしていた。
「みっちゃんと離れたくない」と懇願するように言う。
「みっちゃん、好き。優しくて、あったかくて、格好いいのが憧れで、大好き。――離れたくない」
「でもおまえは、絵も好きなんだろう」
訊ねると、志津馬は仕草だけで強く頷いた。
「みっちゃん苦しいの知ってて、みっちゃんが望むようなやつにはなれない。絵は、やめられないんだ。どっちも欲しい。どっちも離れたくない」
それは、おやつにケーキとアイスクリーム両方欲しい、と駄々をこねる子どものような響きがあった。ばかだな、と思う。ばかだな、おれはそんな人間じゃない。そんな固執して、可哀想に。
可哀想に、志津馬。
「――おれは、疲れた」
本音がこぼれた。志津馬の肩がひく、とこわばる。
「ゆっくり眠りたい」
「おれがいなくなったら、眠れるようになる?」
「多分、きっと」
「そっか」
雨が降っている。ずっと降っている。靄をかけ、湿気をまとわりつかせてばかりで、晴れ間を見たことがない。本当は志津馬とふたりで、虹が立つところへ出くわしてみたかった。
「今夜だけ、眠れないでいて。――ごめん、みっちゃん」
返事の代わりに志津馬を強く抱きしめようと思ったが、やめた。下手に力を入れてしまったら、またそれが暴力になる。だから満はただ「もう、黙れ」とだけ言って、じっとしていた。
帰宅してすぐ志津馬は荷物をまとめ、出国した。満も荷物をまとめ、ふたりで暮らした家から出た。もうしばらくはなにもする気になれないでいた。満は仕事も辞め、故郷へ帰った。
五年ぐらいは、あっという間に過ぎてしまった。
自分がいくつになったのかもおぼろげだ。場所を変えてしまえば、志津馬のことはすぐに忘れることが出来た。なんと言っても志津馬は、日本にいなかった。いないやつの情報まで拾えない。地元で、満はいま、天文学館の事務員として働いている。市と大学が共同で運営している天文学館で、大きな天体望遠鏡とプラネタリウムが自慢の施設だった。なんでもいいから、美術と離れた暮らしがしたかった。そのために簿記を教える職業訓練校に通い、得た職だった。
インターネットはもちろん、メールも、新聞も、届く郵便さえも粗末に扱った。満が故郷へ戻ってすぐのころはしきりに「東京で飲み会を!」と誘ってくれていた同期も、次第になにも言わなくなった。地元の友人たちは当然ながら志津馬のことを知らない。付き合いが楽で良かった。
再会は、唐突だった。市立美術館が二年に一度募集している若手を対象にしたコンペティションで、志津馬が最優秀賞を受賞した。協賛している地元の新聞社はそれを大きく取り上げ、一面記事で扱ったのだ。朝、年老いた父親が何気なくひらいていた新聞に、志津馬の絵と志津馬自身が載っていて、起き抜けだった満は一瞬、呼吸を忘れた。自分がどこにいるかも曖昧だった。母親が「どうしたの?」と声をかけてくれなければ、いつまでも突っ立っていた気がする。
父親から新聞をひったくる。母は知った顔で、「あんたと同じ大学の出身ね」と志津馬を指した。
「知りあい?」
「……さあ」
新聞には志津馬のインタビューが掲載されていた。授賞式は八月七日、市役所で。今日だ、と気付く。
志津馬がこの街に来る。もう来ているかも分からなかった。満の故郷の話をしてあっただろうか。したかもしれない。やたらと星が綺麗な街の話だ。地形のおかげで空気が澄み、冴えるのだ。その話を満の傍らで、志津馬は嬉しそうに聞いたかもしれない。
満のことが好きで好きでたまらない、という顔できっと頷いた。
もう、それだけだった。ただその顔が見たかっただけだ。その顔は、満を肯定する顔だ。満足を与える顔。きれぎれに、満は思い出す。はじめ、いちばんはじめは、志津馬の絵を見て、ただただ絵の前に立ち尽くしてしまった。あのときの純粋な感動。
それがいまは、心に広がっていく。この街の星空みたいな、すっきりと遠い、確かに輝く星々。何万年も前に放った光がいま瞬いている不思議を、いまなら志津馬はなんと答えるだろう。
なかったことには出来ない。志津馬に暴力を施したのは変えられない事実だ。だが五年経った。自分は変わった。コインの裏表は、いつからか意識しなくなっていた。どちらも満だ。
志津馬の絵が見たい。志津馬の顔が見たい。また「みっちゃん」と甘ったるく呼ばれたい。
ずいぶんと虫のよい話に違いなかった。もし、また繰り返すのだとしたらどうする、と脳内で警鐘が鳴る。しかし満は、大丈夫だと思った。今日、満はこんなに清々しい。だって志津馬の受賞作が、「もう悲しいことはなにもないよ」というタイトルだからだ。
満以外の誰にこのメッセージを向けられるだろう。
確かに受け取ったことを伝えるために、爽やかに痛む胸をさすり、息を深く吐いて、満は着替え始めた。
End.
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家に帰りつき、シャワーを浴びて落ち着くかと思ったが、身体は冷えたままだった。薄暗い家の中を進み、志津馬の部屋に立ち入る。明かりをつけると、がらんとした室内が浮き上がるように照らされた。今日、作品のほとんどを搬入してしまった。作品はなにもない。隅に絵具の類がまとめられていた。まめに片付けるように言ったのは満で、志津馬はそれを守って一制作ごとに部屋を片付ける。
イーゼルに、一枚白いキャンバスがかかっていた。これから描く絵なのだろう。色鉛筆で下描きがしてあった。なにを描くつもりなのかさっぱり分からないが、点と線と。志津馬が大音量で音楽を流しながら楽しげにそれを描いている図が浮かんで、かっと頭に血がのぼった。イーゼルを蹴り倒す。がらん、とそれは簡単に崩れた。
絵を踏みつける。満の体重でそれは裂けた。それから手でキャンバスの枠を持ち、何度も何度も壁に叩きつけた。骨に画布がまとわりついただけのキャンバスはみじめたらしく、満は笑った。笑いながら泣いた。
最初からこうしていれば良かったのだ。志津馬の絵を壊す、という経験をしておけば良かった。この生々しさを、身のうちに巣食う魔物への戦慄を、はじめに味わっておけばよかった。そうしたら志津馬自身を傷つけなかった。きっと、もっと志津馬と距離を置いた。友達にすらならなかった。
志津馬にDVを施すことなんか絶対になかった。
翌日、志津馬は自分でタクシーに乗って帰宅してきた。まんじりとも眠れない夜を超えて現れた志津馬に、満は駆け寄ることも、声を掛けることさえも出来なかった。ただ疲れていた。志津馬に会わずに志津馬から逃げることを考えていた。志津馬の方から帰ってくることはないような気がしていたので、唐突な帰宅に、心臓がきゅっと縮んだ。
志津馬は「ただいま、」とはにかむ。目の上に傷、首から吊り下げられた腕。歩くことに支障ないのは幸いだった。「なんで」と訊けば、「なんでって、おれのうちじゃん」と志津馬は困った風にまた笑った。
「病院に言ったんじゃないのか。おれがお前に、暴力……」
「言ってないよ。なんでもありません、ただ転んだだけです、って言い張って帰って来た」
志津馬本人が「なんでもない」と言っている以上、医者も介入しようがないのだろう。二十歳を超えた男だ。聞いているうちに、恥ずかしく、苛ついて、満はつい「なんだよ、おまえ」と志津馬に掴みかかる。
「――おれをかばって、いい気になったか!?」
「そうじゃない、そうじゃないよ、……ただおれは、満が好きなだけなんだ……」
「……」
「そう、それでね、考えた。ほら、もうじき三連休があるよな」
満の手をぱっと払いのけ、彼はリビングにあがった。カレンダーがかかっている。海の日を含んだ連休が、赤い字で表示されていた。
「満と住みはじめてから、満は仕事しごとばっかりで、ちっとも遊びに行ってない。な、どこか行かないか? ほら、おれ手が使えないだけで動けるんだし。そりゃ荷物は、ちょっとは満に持ってもらうことになっちゃうかも、だけど、……だけど、行こうよ。おれな、前に海行って楽しかったの、すっげえ覚えてんの。だからあそこに、また、行こう」
満はぼんやりと、こいつが具体的に段取りを組んでいるところを見るのははじめてだな、と思った。学生時代、仲間らとの旅行だ飲み会だ、そういう話に志津馬は飛びついたが、自分から企てることはなかった。子どもすぎて、そういうことを考えられないんだと思っていた。意外な一面を見たような気がして、満は怒る気も、それを否定する気も、失せてしまった。
「宿とか、おれ全部手配するし。あ、満は運転手やってな。せっかく免許持ってるんだから、レンタカー借りて……」
志津馬があれこれを思案しはじめる。ぼんやりとしている満の背に、志津馬の手がそっと当てられた。「いやだ? 行きたくない?」と訊かれ、満はその手をいま出来うる限りで優しく、振り払った。
「おれに触るな」
「……」
「おれに触ると、おまえはまたひどいめに遭う。たとえばそのギプスをむしり取って、まだ傷のやわらかいところを折るぐらい、簡単なんだ、おれは。そうやって一生、描けなくすることぐらい、」
たやすい、と言って、満は泣いていることに気付いた。頬に手を当て、ぬるい涙を確かめる。目を閉じるとさらに新しい涙が溢れ、手を濡らした。
「旅行なんて、馬鹿か。おまえ、殺されて埋められるぞ」
「あのね、みっちゃん」
みっちゃん。あまったるい響きのそれは、最初の呼び名だった。くすぐったくてやめさせた呼び名はせつない響きで、懐かしかった。
「お願い、最後にするから、おれと一緒に旅行しよう。おれ、……来月から、日本を離れる」
満はようやく顔をあげた。
「バンクーバーにギャラリーのオーナーの知人がいて、そこで滞在制作してみないか、って誘われた。前から言われてて、でもおれ人見知りだし、海外行ったことないし、迷ってたんだけど、……みっちゃん苦しめてんの、おれだよな。だからおれ、行くよ。すごく怖いけど、行く」
志津馬の瞳がきらきらと輝いていて、綺麗だと思った。
そんなに強い意思を表明されたことはなかったように思う。
「だからその前に、最後の旅行、しよ」
「……触らないこと」
「え?」
「おれに一切、絶対に、触れるな。触れたら殺す。おまえ殺しておれも死ぬ」
「……分かった」
とても、「分かった」だなんて顔はしていなかった。それでも頷いた後は、笑顔に戻る。「楽しみだねえ、みっちゃん」
志津馬は本当に嬉しそうだった。
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いびつなかたちで、交際ははじまった。それがもう二年も続いているのだから、慣れというのはおそろしいことだと思う。はじめから黄信号だった。いまでは赤信号でも平気で渡る。
自分が志津馬を好きだという意識はなかった。愛おしく思う気持ちならあった。ひどいことをした後は、殊更やさしくしてやりたいと思う。乱暴に扱ったからやさしくしたいと思うのか、元から愛おしい気持ちがあるのかは、よく分からなかった。
志津馬を見ていると、こうありたかった自分、というものを見せつけられる気がして、むなしくなる。
志津馬は着実に力をつけ、名を広げていった。いくつでも湧くインスピレーションを、思いついたままにキャンバスに載せていく、その繰り返しの毎日。半日だけバイトに出かけ、半日は絵に没頭する。そういう暮らしを、満だってしてみたかった。
むなしさ、やるせなさ、妬み嫉み、憎しみ。けれど嫌えないのは、志津馬が満に夢中だからだ。才能があるくせに、満なんかを好きでいる。乱暴に抱く時、いつも思う。もし志津馬になんの才能もなかったら、めちゃくちゃに愛してやれるのにな、と。ただの男だったら、かわいい顔をしているだけだったら、
――いや、そうだろうか。
そもそも満の興奮の相手は女性で、志津馬ではなかったはずだ。別れてしまったが、過去には何人かの女性とつきあった。志津馬を抱くのは、ただ酔っているからなのではないかと思うときがある。才能のある志津馬が、男同士という禁忌を冒してまで満を選んだ、という事実に。自分が選ばれた人間みたいに思えてくる。優越感、その後にやってくるのは、ひどい自己嫌悪。
やはり、志津馬が描けなくなればいいと思いながら、志津馬を乱暴に抱く。
コインに表と裏があるように、自分にもそういう顔が存在しているみたいに思えた。表面の満は真面目な勤務態度で仕事をこなし、志津馬に優しく笑いかけ、家事を進んでやる。志津馬の才能を応援してさえいる。鳥が飛ぶのを魚が泳ぐのを不思議がって眺める瞳を、微笑ましく思っている。
裏面の満は、志津馬への憎悪でいっぱいだ。才能を憎く思い、なぜ自分には与えられなかったのか自己を責め、その怒りを、志津馬にぶつける。志津馬が泣いて懇願するのを喜んでいる。今日は裏、裏、表。明日は表、朝は表だったけれど夜は裏。そんなふうに、コインはくるくるとひっきりなしに裏返りながら日が過ぎる。
大学卒業の年から二年が過ぎ、志津馬は変わるかと思ったが変わらず、創作活動を続けている。夢を諦めることを知らず、キャンバスに描きつけることしか知らない無垢な瞳と毎日いつでも対面する。自分はひどく変わったと思う。裏、表、裏、表。
なぜ志津馬の傍で生きているのかな、と最近はよく思う。
梅雨で、毎日のうっとうしい雨に苛々している。おまけに声すら聴きたくないと思っている女から仕事中に電話がかかってきて、さらに苛々した。凜子(りんこ)は大学時代の同期で、志津馬と仲が良かったが、満とはとことん馬が合わなかった。ナチュラル系オーガニック女子、とでも言おうか。おっとりとした喋り口調で、ふわふわとしたことしか言わなかったが、その裏で頭の回転の速い女だということは分かった。天然を装っている、そのあざとさが気に食わなかった。
彼女はその日もまた、ゆっくりと丁寧に、しかし強めの語気で、ことを語った。
『骨折』
「え?」
『志津馬くんがね、梯子から落ちて右腕を骨折したのよ。ほかもにもね、打った箇所があちこちあるから、念のために精密検査をね。ねえ、聞いてる?』
うるさい喋り方だ、と思いつつも、心臓が冷えた。明日からの個展に向けた準備で、志津馬はギャラリーへ作品搬入に出かけていた。凜子はその手伝いに駆り出されていた。満も頼まれていたが、仕事の日だったので断った。志津馬の絵を見たくなかったし、展示の準備にせわしないスタッフを見たくなかったからだし、凜子にも会いたくなかった。
梯子は、展示のスポットライトの調整に使っていたという。スタッフに任せればよいものを、人手が足りないからと言って、志津馬自ら梯子にのぼって手を伸ばしたという。ばかだな、と思う。雨のせいで頭がうまく働かない。志津馬が落ちて怪我をして、それで? とぼんやりと窓ガラスに落ちる水滴を見ながら、思ってしまった。
『志津馬くんを病院に迎えに来てほしいの。お医者さんがお話があるみたい。あ、保険証の場所がね、志津馬くんの部屋の机のいちばん上の抽斗に入っているからそれも持ってきて欲しいって』
用件だけ話すと、凜子からの電話は切れた。彼女もまた満のことを快く思っていない。長電話は、しようもなかった。
重たくため息をつき、仕事をこなし、満は退社時間ぴったりに退社した。いったん家に寄らねばならないのが面倒だ。
病院ではすぐに志津馬に会わせてはもらえなかった。ナースステーションに志津馬を引き取りに来た旨を告げると、別室へ案内された。診療時間の過ぎた診察室だ。そこへぼさぼさの白髪頭の、黒縁眼鏡をかけた白衣の男性が看護師を伴ってやって来る。やあやあ、お待たせしてすみません。ちょっと色々と手間取っていましてねえ。医師は久野(くの)と名乗った。
志津馬の傷を聞いた。梯子から落下した際、手を思い切り突いて、右手首を骨折、肩を打撲。倒れてきた梯子の下敷きになり、眉間を切る。目に当たらなくて良かったですよ、と久野は言った。頭は大丈夫。
ほか、身体中に、とりわけ背中に傷があることを指摘した。
「治りかけているんです。だから今日出来た傷ではない。ではいつのものか? おそらくここ一週間、といったところでしょう。叩いて出来たと思われる傷です。こう、うつぶせにしたところに、左手で襟首を掴んで抑え込んでね、右手で、思いきり叩いている。何度も」
冷や汗が一気に噴き出した。ようやく霞んでいた意識が覚醒する。
そこまで分かるものなのかと、満は目の前の一見とぼけていそうな老齢の医師が怖くなった。
「あなたは村瀬志津馬さんと、どういうご関係ですか?」
久野の目が鋭く冴える。
「……ルームメイトです。それだけです」
「村瀬さんの傷のことを、ご存知でしたか?」
「……知りません」
「私たちは村瀬さんの傷を、DVによるものだと考えます」
久野ははっきりと言った。
「親しい誰かに繰り返し、暴行を受けている傷です。城田さん、……心当たりは?」
「分かりません。僕では……ありません。僕は知りません」
「城田さん」
「僕は、……知りません」
そう言うのがやっとだった。喉がやたらと乾いている。
← 2
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関係が変わったのは、同居をはじめてから三か月ほど経った、初夏の日だった。
帰宅すると、静かだった。志津馬のアルバイトが休みだというのは聞いていて、そういう日志津馬は、音楽を流しながら自室で制作に没頭しているのが常だった。ほか、制作をしていないときでも、満が帰ると玄関まで走って出迎えるのが志津馬という男だったので、暑っ苦しい出迎えがないのは、なんだか拍子抜けして落ち着かなかった。絵具でも買いに出かけたかな、と見当をつけつつ、廊下を進む。
志津馬の部屋も静かだったが、扉がわずかにあいていた。不意に部屋の中から「みつる」と掠れた声が聞こえた。呼ばれたと思い、満は志津馬の部屋の扉を無遠慮にあけた。
最初に見えたのは、志津馬の腰から尻の、ほとんど白に近い肌色だった。志津馬はベッドに横たわり、ハーフパンツと下着を膝まで下ろして、懸命に自分自身の性器をこすっていた。かたく目を閉じていたが、満の気配に、はっと目をあけた。手指の動きも止まる。
――いま。
「みつる」と呼びながら、自慰をしていた。
志津馬は慌てて布団に潜ろうとしたが、満の方が素早く動いた。志津馬の、男にしては華奢な身体をベッドに押し倒し、両手首を縫い止めて、満は真正面から志津馬の顔を覗き込んだ。
「――おまえ、おれが好きなのか?」
「……」
「おれの名前、呼んだだろ。……これ、硬いぞ、」
膝で、志津馬の股間を押す。そこはぬるついていて、満の穿いているチノパンの布地を汚した。
「しずま」
「……」
「ほら、志津馬、」
呼ぶと志津馬は観念して、消え入る声で「すき、」と言った。
「なに? 聞こえない、志津馬」
「すき、すき、です。ごめん。満、ごめん、……」
「なんでだよ」
「嫌いにならないで、汚いって言わないで……」
その言葉が、満の心のどこかに深く刺さった。すさまじい喜びだった。日ごろ妬ましいと思うやつが、自分のことを好きだと言っている。それは志津馬の弱点となりうるのか。おれにとっての、利点になりうるのか。
ごめんなさいを繰り返す唇を唇で塞ぎかえすと、志津馬は目をまるくあけた。
「……満、どうして?」
「おれに嫌われたくないか、志津馬」
訊くと、志津馬はしばらくの沈黙の後に、こくんと頷いた。
「ごめん」
「謝るより、見せろ」
膝でぐいぐいと股間を押してやると、志津馬は「あっ」と鼻にかかった声を出した。
「志津馬、見せろ。自分でしてるところ。おれを頭の中でつかってたんだろ」
「……」
「おまえの中でおれはなんて言ってんだ? ほら、見せてみな、見ててやる」
「……できない、」
「できないことないだろ。……ああ、じゃあ、触ってやる」
志津馬の身体は軽く、簡単に持ちあがった。ベッドの縁に腰かけ、その上に志津馬を乗せる。背後から抱きかかえる格好で、足を大きくひらかせて股間に手を伸ばすと、志津馬の肩先がひくりと跳ねた。目の前に白い首筋が剥き出されている。背骨の、ぽこりと浮いた骨を満は舐めた。
「いや、汚いから、満」
「汚くないよ……ほら、自分でも触ってみろよ」
「……いや、」
「志津馬の、真っ赤でぬるぬるしてる」
「いやだ……」
「こうされたかった、ってことだろ」
志津馬の、小ぶりな性器をゆっくりと見せつけるように扱く。先端を指の腹でぴとぴとと叩くと、粘液が糸を引いた。いやらしいな、こんなに感じて、しずま――過去、どこの誰にも言ったことのない卑猥な台詞を、志津馬の耳に吹きかけるようにして発音した。志津馬はいや、いや、とそのたびにかぶりを振ったが、手を取って性器に導いてやると、困った顔で背後の満を振り返った。
満にいいように性器を弄られ、快感で真っ赤に潤む瞳、頬、ふっくらと赤い唇。きゅっと寄った眉根。そそられて、満はその唇にキスをした。貪るように口内を探りながら、手のスピードを速める。手の下にある志津馬の手は、そのうち自立して、自らの性器を扱きはじめた。
「――ふ、んんっ!」
唇を塞いだまま、志津馬はいった。精液は壁に立てかけてあった制作途中の絵画にまで飛んだ。それを見て、満の心臓がどくんと音を立てる。憐れだと思い、こうすれば志津馬の絵が汚せる、と分かって、興奮した。満自身の性器もまた、すっかり硬く、布地を押しあげている。
茫然と荒い息を吐く志津馬を、先ほどと同じくベッドに押し倒す。志津馬はされるがままだったが、服を脱ぎはじめた満を見て、ようやく顔を持ちあげた。
「……満?」
「おれがいってない」
志津馬の脚の間に身体を滑り込ませる。志津馬の尻を探り、窄まりを押して「いいよな」と言うと、志津馬の身体が途端こわばった。
「あ、うそだ、……満っ」
「男同士って、ここつかってするんだろ、志津馬」
「知らない、おれしたことない……いやだ、こわい、」
「志津馬」
「こわい」
「怖くない。――それとも嫌われたいか、おれに」
つめたく言うと、志津馬は黙った。これじゃ完全にレイプだ。自分の口から出た脅し文句に愕然とした。がんがんと頭の奥が痛む一方で、性欲は膨れあがる。奇妙に興奮している。手が勝手に動く。志津馬のそこは、狭くて、きつかった。
それから志津馬は、痛い、とも、怖い、とも、やめて、とも言わなかった。ただ黙って満のすることに耐えていた。途中、夢中で腰をつかっているときにふと、頬を撫でられた。「満っておれのこと好き?」と訊くので、ああ、と頷いてやった。それはうめき声に近く、ただ息継ぎの合間に漏れ出た声だったのかもしれない。
「――そうだよね。だからこんなことしてるんだよね……」
「……」
「おれもだいすきだ」
そう言って、志津馬は笑ってみせた。その瞬間、満は吐きたくなったが、腰を動かすことに没頭した。性器さえ擦っていれば、性感に我を忘れた。最悪に長い、はじめての夜だった。
翌日は志津馬の方が先に目覚めていた。目をあけたらしげしげと満を見つめているピュアな瞳があって、満はひどくうろたえた。志津馬はすぐに笑顔に変えて、「おはよう、満」と言った。ひどい夜だったというのに、なにがそんなに嬉しかったんだろう。朝の光の中、洗濯だの朝食の支度だのでちょこまかする志津馬を捕まえて、満は、「その、昨夜は」と言った。その後の句はなにを言うべきか迷って、結局「大丈夫か、身体」と訊ねた。
志津馬はほっと笑って、「身体は平気。――嬉しかった」と言った。
「満とはじめて一緒に寝た」
「ああ、……うん」ひどい行為の後、そそくさと自室に戻れば良かったのにそうしなかった。志津馬に対する罪悪感があり、なによりも不憫で愛おしい気持ちが湧いて、昨夜は志津馬のベッドで志津馬を抱き締めて眠った。
「満はさ、あったかいなあって思って、静かに眠るなあって、……嬉しかった、いっぱい発見があって」
鳥の羽や、外国のコイン、珍しいかたちの瓶に、つかいかけの刺繍糸。志津馬はいつかそういったものを「おれの宝物」として見せてくれたのだが、そのときとまったく同じ顔をしていた。満は心から悲しくなったが、泣かなかった。どうやったら壊せるのだろう、この純粋さを。心の中に暗雲が立ち込めてゆく。濃く水蒸気を含んだ、雨雲。
「おれのことすき?」と志津馬が訊ねる。満はどうしていいのか分からぬまま、吐息を漏らしてちいさく頷いた。
志津馬が笑ったのが空気で伝わった。
「満、だいすき」
← 1
→ 3
背を向け、志津馬(しずま)はシャツを着る。傷がかくされていくのが、スローモーション再生のように満(みつる)の目には映った。擦り傷、噛み痕、鬱血痕。叩いたから痣にもなった。引っかいたり叩いたりだなんて、まるで絵画技法のようだと思う。さながら志津馬の背中はキャンバスか。美しい、なめらかな、満だけが描いていいキャンバス。そういう自己陶酔のかたまりみたいな思考が浮かんで、満はすぐにいやになった。結局、暴力そのもののセックスしか施せない。分かっている、分かっていて、でも志津馬には、優しくできない。
少しぐらい痛い方が志津馬は感じる、と分かってから、ひどくなった。手足を縛ったり、口がきけぬよう塞いだり、そのまま放置したりと、最近ではそれらが当たり前になった。志津馬がそれでも、ひどいことをすればするほど、満に「嫌いにならないで」と懇願じみたことを言うとき、言われたときの満のすさまじい優越感ときたら、なかった。ああ、なんという。あれほど羨む才能を持つ人が、自分に夢中になっていること。
そうやって自分に夢中になって、志津馬は絵を描けなくなればいい、と思う。
シャツを着た志津馬は、だるそうにベッドに横たわった。乱れたシーツの合間に沈む恋人の元へ寄り、満は一言「つらいか」と言って、その頬にそっと手を当てた。我ながら反吐が出る動作だと思う。それでも罪悪感みたいなものから、そうせずにはいられない。
志津馬は健気に笑ってみせた。
「大丈夫、おれ、タフだから。……気持ちよかった」
そんなわけがあるか、と思う。目を剥いて、悲鳴をあげて、泡を吹いて、失神するほどだったというのに。そんなわけがあってたまるだろうか。なぜ自分はこんなふうにしか愛せないのだろう。満は気分がわるくなる。
「最後、きらきらしてて、金色だった」
「……そうか」
「……眠い。寝ようよ、満」
「……」
「寝ようよ……」
志津馬の瞳がとろりと融ける。目蓋が下がり、そのあどけない表情を見て、満はやるせなくなった。今日の行為を「また」猛烈に反省する。あんなひどいことをした。手で打ち、引っかいて、雑に転がし、犯す。もっとちゃんと愛してあげたいという気持ちがあるのに。肌を密にキスしてあげられたらと思うのに、なぜいつも、どうして。
こわごわ、満は志津馬を抱きあげる。ソファベッドへ身体を移し、シーツを取り替えた。志津馬をベッドに戻したとき、傷に触れてしまったのか、志津馬は軽く声をあげたが、起きなかった。可哀想だと思う。愛らしくて、いとおしい。それでも才能の枯渇を願わずにはいられない。
背後から抱きしめて、満も目を閉じた。深く眠れるはずはなく、つめたい泥のなかをもったりと進む夢を見た。
満と志津馬は、大学の同期生だった。国内最高峰の研究が出来る美術大学に、満は四浪して、志津馬は一浪して入学した。何浪してでも挑戦したいという人間が多い大学で、満からすれば志津馬は「たった一浪」で入学した、はじめから憎らしい才能の持ち主だった。
ふたりとも同じく油彩科だったが、授業についてゆけないと感じた満は途中でデザイン科に転科した。その際、満は自分の才能にあきらめをつけた。つまり、画家として自分は大成することなく、凡人の域で終わるのだろう、と。夢だけでは食べてゆけない。それよりは確実に生きる道を。
卒業したとき、志津馬はアルバイトをしながら画家として生きてゆくことを決意した。就職活動は行わなかったわけだ。一方で満はデザイナーとしてちいさなデザイン事務所に就職した。ふたりが暮らしはじめたのはそのころだ。志津馬には金がなかった。ふたりで暮らすことはなによりもメリットが大きく、学生のころから仲の良かったふたりの、必然だったかもしれない。ただそのときはまだ、恋人同士ではなかった。
仲が良かったとは言っても、それは志津馬や周囲による一方的な見方でしかなかったと満は思う。学生時代は、満の後を志津馬がくっついていたので、仲間から「仲がいいな」とからかわれていた。移動教室は必ず一緒で、転科してからも、生協でふたり昼食を取った。志津馬は満のことを「大人の男の代表」と評しては、「クール、格好いい」と褒めちぎった。彼がなにやら自分に憧れているのだというのは、よく分かった。満はそんな志津馬をうざったく思いながらも、まんざらではなかったから、好きにさせていた。満自身は実のところ、志津馬の絵を見て、なぜこんな絵が描けるのか(おれには到底描けない)という、憧れ、妬み、諦め、複雑な思いをあれもこれも抱えていた。
志津馬は幼い言動が多く、とても二十歳を超えた男には思えないところがあり、しかしその幼いからこその純粋さが、彼の才能のいちばんの特徴だった。子どもが好みそうな濃いパステルカラーに、大胆なタッチ。草木や動植物といった身近なモチーフが多く、大学時代からすでに確立された世界観があった。教授にあれこれ指導を受けてはそのたびに惑い、タッチを変えていた満は、志津馬の才能が眩しかった。絵の前に立つと、羨ましくてくらくらした。
ピュアな作風は、性格がそのまま出ていた。道端に落ちるガラス片を拾っては水で洗い、陽に透かし、透明さに目を輝かせる志津馬。一度、海に遊びに行ったときのはしゃぎようったらなかった。海には海水浴に来たはずで、でも志津馬は絵を描いた。何枚も、描かずにはいられないとばかりに。呼吸するように描いた。
志津馬にとって画家以外の道はないようだった。それ自体がもう、妬ましいことだった。同居は我慢と嫉妬の連続で、それでもいざ本人を前にすると、ほだされる。苛立ちは、志津馬が呼ぶ「満」ですうっと凪いだ。慣れない仕事でくたびれている身には優しく、頭を撫でると、ほっとした。さらさらと細い黒髪は手に心地よく、志津馬も志津馬で甘く蕩けた顔をするから、余計に気分が良かった。自分には自分の道があり、志津馬には志津馬の道がある。そう何度も自分に言い聞かせた。
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暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
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短編「さきごろのはる」
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