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本屋の棚、著者名に「遠城寧志」(えんじょう やすし)とつく本の数々を見て、本田静可(ほんだ しずか)は「あなた志してましたっけ」と呟いた。寧(やすし)は隣で首をひねる。
「この、志がつくのが本名でしたか?」
「いや、ペンネームだ。本名に一文字足したんだ」
「まさかミステリーだったとは」
「意外?」
「ええ。あなた虫も殺せなさそうですから」
とつれなく言われた。この冷たさがたまらない。はは、と寧は笑う。
遠城寧志――もとい、遠城寧は、ミステリー小説家だ。デビューしたてのころは暇で仕方がなかったが、最近はありがたいことに忙しくなりはじめている。デビュー十五周年ということで、出版社がフェアを組んでくれたのだ。シリーズ作品が多いから、そこそこに巻数も出ている。
静可は文庫本の帯文を見て、裏のあらすじを読んで、「面白そうですね」と心にもなさそうに呟いた。寧は「面白いはずだよ」と答える。
「はず、とは」
「面白いと思うかどうかは、その人の感性だからさ。山田さんが面白いと思っても、鈴木さんにはつまらないかもしれない。佐藤さんには難しく感じたり、小林さんに至ってはミステリーなんか対象外かもしれないし。そういう世界だよ」
「危うげなものの上に成り立っているんですね」
「エンターテイメントだからね。生活必需かと聞かれれば、そうじゃない」
「ですが、そう言ってしまえば私の仕事もそうです」
「ああ、そうだね。リゾートホテルは、パラダイスで、アトラクションだ。日常を忘れるための」
静可はしばらく文庫本を眺めていたが、「シリーズ最高潮!」と帯に書かれた文庫だけを取って、レジへ持って行った。
「それ、シリーズの途中だけど」
「なんでもいいです。面白ければ、後で揃えます」
「試し読みしたいなら、いくらでもあげるのに」
「この場合、私の給料で購入してあなたには印税が入る、それが重要です」
「そっか、ありがとう」
本屋を出ると、途端に熱風に包まれた。直射日光は標高千五百メートルの方が強いと感じたが、アスファルトからの照り返し、ビルからの照り返し、日陰のなさ。加えて湿気。普段、寧と静可が暮らす高原のリゾートホテルはよっぽど気候がいいんだな、と分かる。街の方が気候が極端とは、なんだかわけが分からなくなる。
「この後どうする? あまり街中は歩いていたくないね」と寧は言ったが、静可は「いえ、そうでもないですよ」と涼しい顔で言った。本当に涼しい顔をしている。彼の周囲だけ冷涼な空気が漂っていそうだ。一体どういうことだ。
「久しぶりに夏の街に出ました。少し、歩きたいです」
「……殺人級だから、三十分、いや、十五分だけにしよう」
屋外での活動は危険です、とニュースで言っていた。午後二時現在、駅前の温度計は三十七度、体温を超えて発熱状態だ。
「帰りの電車は十五時台に乗れば最終バスに間に合うよね」
「ええ」
「じゃあ、さくっと散策して少し買い物してから、帰ろう」
そう提案すると、静可はなにも言わずに頷いた。
◇
はじめて静可と出会ったときの衝撃を、なんと語ったらいいだろう。
寧の母は、水商売の女だった。頭の回転の速い美人だったので、高級クラブのホステスとして人気があったらしい。彼女を愛人として囲ったのが、寧の父だ。幼いころは、けっこう可愛がってもらえた。本妻とのあいだには女の子ばかりだと聞いている。男の寧がそういう意味では珍しかったのだろう。
寧が大きくなるにしたがって、父とは疎遠になった。リゾートホテルのオーナーである、という話は聞いていたが、訪れたことはなかった。「ホテルになんか行ってごらんなさいよ、あいつのお手付きばっかりだから」と母は言った。「しかもあの男がいまいちばん夢中になってるのは、男だから。ホテル自慢のバーテンダーよ」
それが静可のことだった。その数年後、父に呼ばれてリゾートホテルを訪れた。夏休みをここで過ごせ、という。そのころには父の寵愛から外れていたはずの静可が、世話係になった。
寧十五歳、静可が三十歳だ。痩せ型の静可に、ホテルの制服はぴったりと似合った。真っ直ぐな背筋ですっすとコンパスをまわすように歩いてゆく。人が大勢いるのに、誰にもぶつからないのが不思議だった。見惚れてしまった。
それを静可は気付いただろう。実に蠱惑的な微笑みを浮かべて、「ようこそ」と言ったのだ。寧には「楽園へようこそ」とも聞こえた。
それ以来、寧は夏場を必ず父のリゾートホテルで過ごした。静可の傍にいたいがためだ。学生時代も、作家としてデビューしてからも、ずっと。
それが二十年以上も続いて、今年ようやく彼とリゾートホテル以外の場所で会っている。
ただバスに揺られ、電車に乗り、食事をして、本屋に寄っただけだ。それでも寧は、静可と共に歩ける喜びを感じずにはいられない。
→ 後編
◇
同僚の中には、休日には山に登る、という人種がいる。街へくだるより山へ登る方が近いし、気持ちがよいという。静可はそういう人間の気が知れない。山を美しいと感じたことはない。こんなに迫っている山を、うっとりと眺めて「綺麗だ」なんて言えなかった。
ただ静可は、街にいたら街に溺れてしまうと思ったから、ここにいるだけだ。自分を戒めるためにここにいる。それに、山が好きだからここで働いている、という人間でも、街が恋しくなって一年足らずで辞めていくというのは少なくない。だから「山が綺麗で」という人間を、あまり信用していない。
ただ、ここの湖は気に入っている。
ホテル周辺にはいくつか湖が存在する。従業員寮の裏口からそっと抜けて、休日、静可は湖岸を歩いた。岸の際、靴が水に浸る限界を歩く。湖はただただ静かだ。この世界にひとりだけでいるような気さえしてくる。
立ち止まり、湖を覗き込む。ずいぶんと歳を取った顔が映される。静可の心はいつだってすぐ三十数年前に戻るのに、白髪もない、しわもない、オーナーに寵愛されていたころに戻るのに、年齢は立ち止まらない。
いつまでこういう気持ちのまま、つまり気だけは若いまま年老いて死ぬのだろうか。
静可はその名の通り静かに暮らしたいだけなのに、それを願う心はもうひとりの自分が粉砕する。不安、欲望、願い。歳を取ると穏やかになると思っていたのに、そうではなかった。
八月の湖でも、水温は冷たい。山には部分的でも雪が残る。融けきらないまま夏を超えてしまう。いま足をこの水に浸したら、心臓まで凍えると思う。
そうやってこの白い火が鎮められないかとふと考えた。一歩湖面に近付く。靴が浸かる。もう一歩進む。また一歩。
もう一歩。
不意にぐいと腕を引かれ、静可は誰かの腕の中に収まった。「びっくりした」と頭上で声がする。それはもう二十何年も聞きなれた、寧の声だった。
「――なにやってんの、」
入水、とは答えなかった。寧がここぞとばかりに頬を寄せる。よっぽど驚いたらしかった。心臓が走っているのが聞こえる。
人の体温が恋しい、という事実が、白い火が、身の内にひたひたと迫る。
「僕がもし通らなかったら、あなたはなにをしていたの、」
「私と一緒に死ねますか、あなた」
静可の台詞に寧は身体をわずかに離し、真正面から表情を捉えた。
「私は強欲なので、百かゼロか、なんです。すべてをくれないなら、いりません。寧さん、だいぶ長いこと、恋煩いの様子ですが」
つ、と寧の胸に指先を当てる。
「私に百くださいますか?」
「……難しい質問だね」
寧は困った顔で、とりあえず湖から静可を離した。岸へ上がると、静可を座らせる。自分も隣へ座りこんだ。静可が逃げると思っているらしい。手をしっかりと繋がれた。
「死にたいの、静可さん」
その質問に、静可は少し考える。それから「分かりません」と答えた。
「強欲な自分に嫌気が差しているだけです」
「僕も欲深い男だから、あなたに百はあげられない。せいぜい、五十だな」
「ひどい」
「……そんな顔で言わないでよ」
繋いでいる手で、叱るようにして手の力を込めてくる。静可はそっと隣の男の肩に頭をもたせた。寧はため息を吐くばかりで、抵抗はしなかった。
「もっと若かったころなら、平気であなたに百あげる、って言ってた。でも僕だって年取ったんだ。色々背負ったし、引き受けてしまった。――今日は甘えてくるね、あなた。いままでちっともなびかなかったくせに」
「寒いんですよ」
「八月なのにね。僕も寒い」
水に浸かったからであり、夕方になって山から涼しい風が吹き下ろすせいでもある。寧はシャツ一枚で、それは静可も同じだった。
「大体、あなたは痩せすぎなんだ。少し前に、穣太郎が言っていたよ。痩せすぎは料理人の敵だって。ちゃんと食べてる?」
「食が細いながらに、食べているので大丈夫です。……ああ、そういえばあなたは、はじめて会った時も眉をしかめましたね。細いね、と言って」
「あれはびっくりしたんだよ。こんな綺麗な人が、……山にはいるもんだ、と思って」
寧は薄く笑った。遠い昔を懐かしんでいる。
「あの時からあなたがずっと好きだ」
「父親のつかい古した愛人を拾おうなんて、あなたもどうかしている」
そう言うと、寧はとても悲しい瞳で静可を見た。
「違う。僕は僕の意思で、あなたが好きなだけだ」
「冷えて来たのでもう戻ります」
「待って、」
「人がいるので、……あなたも部屋へお戻りなさい」
静可は立ちあがり、従業員寮への道を戻る。寧は追いかけては来なかった。
◇
その後しばらく、寧の姿を見なかった。部屋にこもりっきりで執筆活動でもしているのだろうか、と想像したが、違ったらしい。同僚の若いウエイターから寧は部屋を引き払った、と聞かされた。
「チェックアウト?」
「ええ、三日前に。いつもならシーズンまるまるいらっしゃるのにね。それにしてもあの方、本当に小説家なんですかね。何者なんでしょうねえ」
「……さあ」
静可はいよいよ見限られたのだと思った。これでよい。十五歳のころから変わらぬ想いなど、あり得ない。諦めをつけて街へ下りたのなら、それが正しい、とさえ思った。
八月の街はさぞ蒸し暑いだろう。静可にはもう何十年も訪れていない感覚だ。懐かしささえ忘れて、思い出せない。
ああひとりだ、と静可は思う。これで死ぬまでひとりきりだ。
安穏に暮らすだけ。
◇
だから二週間ほど経って、真っ黒に日焼けした寧が従業員寮を訪ねてきたときには、本当にびっくりしたのだ。静可は休みで、寮の自室で本を読んでいたところに、来客を告げられた。「部屋に入れて」と乞われ、玄関で押し問答している訳にもゆかなかったので、仕方なく部屋に通した。
「――すごい、本だらけだね」
「ええ、本が好きなんです。よく私が休みだと分かりましたね」
「狙って下山したからね」
「え? 下山?」
「僕、穣太郎のところにいたの。二週間山小屋暮らし。すごいね、極端、ってああいう場所のことを言うね。白いコマクサを見たよ」
てっきり街へ下ったのだと思っていたから、まさか山を上がっていただなんて想像外だった。寧は決してアウトドア派ではない。山道を淡々と進める筋力を持つようには見えなかった。ヘビースモーカーでもある。心肺機能も優秀とは言えないだろう。
だが真っ黒に日焼けしていれば、説得力があった。
「ずっと考えてたんだ、あなたのことを。好きだと言えば逃げるくせに、ひらひら躱すくせに、百欲しい、って言う。訳分かんないよ、って穣太郎に愚痴ったら、惚れた相手にはラブレターでも書くもんだ、ととんちんかんなことを言われた」
きっと穣太郎は忙しかったのだ。寧に構っている間はなかったのだろうと静可は思った。
「まあでも、確かに僕、あなたにそういうアプローチしたことないやと思って、書いたよ。書きはじめたら筆がのっちゃって、原稿用紙五十枚ぐらいになった。出会いの衝撃からばか丁寧に書いたからね。でもきっと――ここにある本と同じぐらい、あなたは夢中になるよ」
「自信作ですか?」
「出版社の担当に見せたいぐらい。ねえ、読んで」
そう言って、寧は鞄から原稿用紙の束を取り出した。五十枚、という厚みが寧からのただならぬ愛情をまざまざと伝えてくる。静可はほっとしてしまった。良かった、寧は自分から心を離したりはしなかった。
「親愛なるあなたへ」という書き出しだった。ベッドに腰掛け、静可はそれを読む。窓に背を預けた寧は、ただ黙って見ている。
『親愛なるあなたへ。
親愛なるあなたへ。
親愛なるあなたへ。
あなたが愛おしくてたまらない。
あなたに分かるだろうか。伝わるだろうか。
この心音の速さを、発火しそうな体温を。』
びっしりと書きつづられた愛のメッセージは、寧の「百」だと思った。百の力で、寧はこれを書いた。望むものは与えられたのだ。せいぜい五十と言っていたくせに――静可の中で白い火に酸素が送り込まれ、それは大きな炎となった。
一生、このままで生きていくのだろう。人の生来の気質は、そうそう変えられない。
静可はちいさく「困ったね、これは」と言った。
「私はただ、静かに穏やかに暮らしていきたいだけなんですよ、寧さん」
「うん」
「だからこういうのは、……困りました」
原稿用紙で顔を隠して、静可は震える。涙が出てきた。寧が「嬉しいの? 悲しいの?」と困りながら訊く。静可にだってどちらなのかよく分からないでいる。
「もし少しでも僕が好きなら、あなたから、お願いだよどうか――来て」
と寧は腕を広げた。背後の窓の向こうは、森林だ。緑が鮮やかで、静可は目を細める。
寧の腕の中に飛び込むと、きゅっと強く抱きしめられた。煙草と寧の体臭が混じったにおいがした。
「ようやく捕まえた」
「ただ淋しいだけかもしれませんよ。温い身体が、恋しいだけ」
「それでもいいよ」
「一生そうかもしれませんよ」
「うん、いいよ」
寧はそっと静可の後頭部に手をまわし、こめかみに唇を寄せた。ふ、と息を吹きかけ、またそこにキスをする。
「今度の休日は街へ下りよう」
と寧は甘ったるい声で提案した。
「本屋へ行こう。知ってる? 本屋にはちゃんと僕の棚があるんだからね?」
「……本当に小説家だったんですね」
「そうさ。ただ能天気にホテル暮らししながらパソコン叩いているだけじゃないのさ」
だから街へ下りて、本屋へ行こう、と寧は言った。
それもいいかもしれないな、と静可は思った。八月の、夏の、久々の街へ行く。
End.
← 前編
寧(やすし)が吸い残した煙草が、ゆっくりと煙をあげている。
先ほどまで寧は、ティーラウンジにいた。テーブルをひとつ取り、咥え煙草でノートパソコンを広げて熱心にキーボードを叩いていたが、急に電話が鳴って、慌てて灰皿に煙草を放った。そのままノートパソコンと共に消えてしまったのだ。煙草はまだ長い。その少し撚れた吸い口を見て、静可(しずか)はそこに口をつける自分を想像する。無論、行動には移さない。勤務中であるし、静可は喫煙者でもない。
煙草を手に取って、灰皿に押し付けて潰した。そしてテーブルを片しはじめる。
いつでも心に白い火が燃え盛っているのを感じている。
◇
寧が小説家であるという話は、本当なのだろうか。寧がこのホテルのオーナーの息子であることは、紛れもない事実だ。オーナーに数いる愛人の息子だ。そのことを、ここのホテルの人間はほぼ知らない。知っているのは支配人と自分ぐらいだ、と静可は考えている。
なぜ静可がその事実を知っているかといえば、かつて自分も、オーナーに数いる愛人のひとりであったからだ。オーナーは節操のない男だった。男でも女でも容赦なくばりばりと喰う、実に欲の深い男だった。
静可と寧は、歳が十五歳ほど違う。はじめてふたりが出会ったとき、寧はまだ十五歳で、華奢な手足を持つ少年だった。オーナーの招待でその年はじめてひとりでこの山奥のリゾートホテルに訪れた。夏休みだった。可愛がってくれよ、とオーナーは静可だけに言った。このホテルでオーナーのお手付きの者は数多くいたはずであり、そのころにはオーナーは静可の元へあまり来なかったから、久々に特別扱いされたみたいで、静可は嬉しかった。
かつて静可は、バーテンダーとしてこのホテルに就職したのだったが、年齢があがっていつの間にかティーラウンジ勤務となった。酒を作るのもコーヒーを淹れるのも静可は大差ないと思っていたから、別にそれでよい。面倒な役職になるのだけは御免だったので、その辺はきつくオーナーに頼んで、望んだ通り出世からは外れたコースを辿っている。会社員だったら、窓際族、といったポジションだろうか。
オーナーとはもう十何年も縁が切れているが、だからと言って嫌われているわけではないようで、世間から猛烈に離された山奥ではあるが、ちゃんと働かせてもらっている。それだけでもう充分だ。おそらく定年まで勤められるだろう。
これは静可の望んだ人生のはずで、しかし寧を見ると、白い火が宿る。
こういう自分のことを、強欲、というのだろう。オーナーのことを他人事のようには笑えない。
◇
小一時間ほど経って、寧が戻ってきた。
「あれ、片付けた?」と訊く。
「煙草、火がついてなかった?」
「とっくに消しましたよ。気をつけてください」
「本当だよね。……明日、休み?」
それは質問のようで、実は確認である。寧はとうに静可のシフトを把握している。
「休みですから、ゆっくり眠って、起きたら読書をしている予定です」
「うーん、湖辺を散歩しない?」
「休みですから、目立つところに出たくはありませんね」
辺鄙なところにあるホテルで、周辺には川と、湖と、宿屋と宿屋にくっつく温泉と土産物屋しかない。どこどこホテルの従業員が湖辺を客と散歩していただの、すぐに知れ渡る。
「じゃあ街へ出るとか」
「興味ございません」
「本屋へ行こうよ」
「本ならば、通販で届きます」
そう、こんな辺鄙な場所でも、郵便屋は来るし宅配便も届くのだ。寧の友人が勤めるあまりにも辺鄙すぎる山荘ならばさすがに無理だが、この辺は車が入れるので、あまり困らない。もっとも、静可がこのホテルで働きだした三十数年前は、無理だった。
かつて十五歳だった少年が円熟し、いまでは髪に白いものが混じるぐらいに、時が経った。時代は変わる。自分は取り残されることを望んでおいて、中途半端に、現代を生きている。いっそ標高三千メートルの山小屋暮らしに切り替えたら、この白い火は治まるのだろうか。
寧の気持ちは知っている。はじめて会ったときに、寧を虜にしてしまったという自覚があった。あのころからずっと変わらぬ想い、というのもすごい。歳を取れば自然と見向きされなくなると思っていたのに、寧は相変わらず静可に熱のある視線を向ける。
知っていながら、寧の誘いに応じるようなことはしなかった。一切。
なぜなのか、よく分からない。寧の前ではクリーンでいたかったのかもしれない。自分ほど爛れた人間はいないと思うのに、よく見せたい。
寧は納得しかねる、という顔でしばらくその場にいたが、やがて諦めをつけて、「じゃあまた明後日」と言って自室へ引き上げた。
→ 後編
そしてしばらくして、いらっしゃいませ、と本田が丁寧に発音した。穣太郎は顔をあげる。
ティーラウンジの入り口に、帽子を目深にかぶった、痩せた男が立っていた。彼が帽子を脱ぐ。汗をかいてぺたりと寝た髪は、つむじの部分だけぴょこんと跳ねた。
燕は穣太郎に気付くと、ほっとした顔で、穣太郎と寧の席へやって来た。
「お、お久しぶりです、穣太郎さん」
「おお、久しぶり。まー細いなあんた。暑かっただろ。座れ、座れ」
「いえ、すごく涼しいですよ、ここは」
街からやって来た燕の、ごくまっとうな言い分に寧は愉快そうに微笑んだ。本田がさっと動いて、椅子を用意してくれる。燕はぺこんと頷き、テーブルに着いた。
「また会えてうれしいです。お元気でしたか?」
「おうよ、体力勝負の仕事してんでな。あ、こっちは寧だ。友達だ」
「こんにちは。燕、と言います」
「素敵なお名前ですね。こんにちは」
本田がメニューを持ってきて、燕に渡す。ケーキは頼まれている旨を告げているあいだに、寧はそっと穣太郎に耳打ちした。「かわいい子じゃないか」
「きみと正反対だな。線が細くて、白くて」
「そうだろう」
と、なぜか穣太郎は得意になった。なぜだろう。燕を褒められると、嬉しかった。自分のことのように嬉しい。
「で、約束の品って、なに?」
待ちきれない、という風に聞いたのは寧だった。
「ひどい男なんだよ。きみとの約束を忘れたらしいんだ」
「おまえが語るな」
「あの、そんなに大した約束じゃあ、ないんです。ただおれは、穣太郎さんにまた会いたかっただけで、」
言葉は尻つぼみに細くなったが、寧にも穣太郎にもはっきりと聞こえた。穣太郎は「はっはっは」と笑った。「そうかァ、かわいいやつだな」
「それさっき僕が言った」と寧。
「で、なんだ?」と穣太郎は燕を急かす。
「星を編みました」と燕が真面目に答えた。
「星を編んだァ?」
編めるのか? と穣太郎は首をひねった。その仕草が可笑しかったらしく、燕はくすりと笑った。笑うとなんだか触りたくなる。頬とか、耳を、くすぐってみたくなる。
「僕、本職はニッターなんです。あ、編み物をする人のことです。山荘でもレース編みをしていましたが、あれは持ち運びしやすくて軽かっただけで、本当は棒針編みの、特にシェットランドのフェアアイルの勉強をして、」
横文字が並んだので訳が分からなかった。
「細かい、一目一目色を変えていくようなデザインのニットです。という話をしたら、あんたあれも編めるか、と穣太郎さんが星を指して」
夜、夕食の時間をようやく終えて終業したときの会話だったという。星を見ながら、穣太郎は言ったそうだ。当の本人はまるで覚えちゃいないが、星を編めるかとは、まったくロマンチックな難題をふっかけたものだと思う。
編みます、と燕は答えてしまったそうだ。ニッターとして火がついたからだし、大柄の穣太郎に、密に編んだニットはよく似合うと思ってしまったからだし。
「僕なりの星が編めたので、持ってきました」
そう言って、燕は背負っていたリュックサックから紙袋を取り出した。まるごと穣太郎に寄越す。ぱんぱんに膨らんだ包みをあけると、飛び出すようにして毛糸の帽子が出てきた。紺を基調に、赤や黄色や白といった色の毛糸が編み込まれている。
エイトスター、という本来ならば雪柄の模様を参考に編んだ、と燕が言った。
「夏に毛糸の帽子なんて、変ですよね。でも編めてしまったら、すぐに渡したくて」
「変じゃないさ、なんせおれの職場は山の上だからな。夏でもセーターは必需品だ」
「いまかぶってくれますか?」
「おう。――ほうら、どうだ」
穣太郎の頭に、ニットの帽子はちょうどよくフィットした。実のところ最近禿げかかっていた穣太郎だ。気になっていた部分が隠れて、気分もいい。
「――とても素敵です」と燕も満足そうに息を漏らした。
「本当だ。似合うな、穣太郎。とても丁寧で繊細な仕事だ」
「ありがとうございます。どうですか、穣太郎さん」
「ちょうどいい」
帽子を脱いで、もう一度それを眺める。寧の言う通り、丁寧で繊細で、穣太郎には到底真似できない。このやせっぽちの男の手からこんなものが生まれると思うと、穣太郎はなんだか嬉しく、嬉しいことが、むずむずした。
そこへ本田がケーキセットを運んできた。穣太郎がつくったケーキではないけれど、穣太郎は「食え、食え」と燕の背を叩いた。薄いTシャツ越しに痩せた肌が触れる。熱を感じると、ずっと触っていたくなった。こういう感覚は、正直久しぶりだ。ちょっとまずい感覚ではないだろうか。
手を離す。剥がす、が正しかった。燕は耳をぽっと赤くしていたが、やがて「いただきます」と丁寧に手を合わせてケーキを食べ始める。
ああ、いい子だな、と思った。
「ん、美味しい」
「ここのケーキはさすがだろ? ほら、もっと食っていいぞ。全部、全種類いいぞ」
「ありがとうございます。でも僕、穣太郎さんの作ってくれたパンケーキとか、マドレーヌとか、素朴な焼きっぱなしのお菓子、好きでした。たまに無性に食べたくなったり」
「そうか」
それは料理人として最大の賛辞で、穣太郎は嬉しい。
「また山荘に来い」
「はい、お邪魔します」
「邪魔には来んでいい。おれの飯を食いに来い。それで、また星を見よう」
「ふふ」
穣太郎と燕とで、会話が弾む。なんだよ、という顔を寧はしていたが、ふたりは知りようもない。
◇
以来、穣太郎は帽子をかぶって厨房で腕を振るっている。
いつでもその頭に星を頂いている。星をかぶった熊の料理は、登山客にたいそう評判がいい。
End.
← 1‐1
その日、熊田穣太郎(くまだ じょうたろう)は久々に山を下りた。
下りたと言っても、街まで出たわけではない。山のふもとのバスターミナルまでやって来ただけだ。穣太郎の勤め先は、標高三千メートル級の山の頂上付近に位置する山小屋だ。そこで穣太郎は登山客に毎日食事を提供している。いわば、シェフだ。メインメニューはカレーかポークステーキしかないが(ほかに出しようがない)、とにかく山小屋の厨房で汗水流して働いている。
夏だ。ハイシーズンで、まさか休みが取れると思っていなかったのだが、「おまえまるっきり下におりてねえだろ」と山荘主に言われて、ぽん、と休みをもらえた。穣太郎は山を下りることに楽しみを感じたりはしていなかった。山が好きなのだ。三千メートルといえば、森林限界を超える。穣太郎より背の高い草木は存在しないのだ。コマクサやライチョウといった高山の動植物は穣太郎の心を癒す。夜は満天の星々。当然ながら外灯がないので、天の川など目を凝らさずともくっきりと見える。
ある意味で、地球の突端で暮らしている。それが楽しくて仕方がないのだが、下りた。下りるなら下りるで、会う予定の人物がいた。その人物はバスターミナルまでやって来る。山のふもとの高原リゾートホテルのロビーで、会う約束をしていた。
数週間前に、手紙をもらった。なにぶん標高が標高なので、郵便局員による配達は行われない。街に山荘の事務所があり、そこに届くものを、事務所の人間が運び上げるのだ。だから差し出された日付からかなり日が経っていたが、別に穣太郎は慌てたりはしなかった。ただ、渡したいものがあるから山を下りる時に連絡をくれ、という内容だった。
『約束の品が仕上がりました。
下山の際にはご連絡ください。直接お渡ししたいです。
090‐××××‐××××
燕琢己(つばくら たくみ)』
まるっこい癖字を眺めながら、はてなにを約束したかな、と、どうしても思い出せない穣太郎だった。
◇
下界は暑かった。下界、と言ってもここ・バスターミナル付近はまだ標高千五百メートルほどあるのだが、三千メートルが常の穣太郎からすれば、充分下界に入る。暑いあつい、と文句を言ったら、これでもとっても涼しいんだよ、街に比べればね、と寧(やすし)に言われた。
この近辺に数あるリゾートホテルの中でも格段に値段が高い、高級リゾートホテルのティーラウンジで、燕琢己を待ちながら寧と話をしている。寧は穣太郎と同い年の三十八歳、当ホテルオーナーの息子で、普段はなにをやっているんだか、その身分を隠しつつ堂々と父親のホテルに入り浸っている。穣太郎の友人だ。
「暑いものは暑い」と言い張る穣太郎に、寧は「そんな格好じゃあ無理もないね」と言う。
「人に会うって言うなら、もう少し身なりを気にしなさいよ」
「髪は切ってもらったんだぞ」山小屋の仲間に、キッチンばさみでだ。当然ながら山頂に理容室はない。
「髭だよ、髭。日に焼けて、そんなに髭生やして、もう『熊田』という苗字そのままだね、穣太郎」
と、寧は言う。料理人は清潔感が命、と考える職場もあるらしいが、穣太郎の場合そんなこと構っていられない極地に生息しているのだ。結果、穣太郎の顔にはもっさりと見事な髭が生えている。元が骨太で、筋肉のつきやすい、大柄な男だ。髭は穣太郎のトレードマークとも言えるほど、似合う。
「剃っちまったら燕がおれだって分かんねえだろう」
「その、ツバメくんはどういう人なんだい?」
「去年、夏場だけ、うちにバイトに来てた子だ」
「若いの?」
「分かんねえなァ。ほそっこい、骨と皮だけみたいな身体の子だった。こんな体格のやつがうちのバイトなんざ務まるかい、と思ったが、意外と体力あったみたいで、きっちり夏のハイシーズンをこなしてくれたよ」
「仲良かったんだ?」
「細い身体、っていうのがおれには恐怖でな。料理人にとっちゃあ、痩せっぽちってのは敵に近い。厨房にさらって、よくおやつを与えてたんだ」
「きみね、……いくら苗字が燕だからって、本当に鳥のヒナ拾ったわけじゃないんだから」
「まあ、おれにとっちゃあ似たような感じだったな」
そこへラウンジの従業員がコーヒーを運んできた。ここに長年勤める、ティーラウンジではおそらく最年長に当たる本田(ほんだ)というウエイターだ。彼もまた痩せすぎなほど痩せていて、それを指して穣太郎は「そうそう、こんな身体してたよ」と寧に告げる。
「ああ、穣太郎の言うことは気にしないでね、静可(しずか)さん」と寧が本田をフォローしたが、彼は慣れたもので、にこりと微笑んだ。
「またおふたり揃って悪だくみですか?」
「人聞き悪いな。そんなんじゃないよ。――ねえ、今日のケーキはなに?」
「白桃のタルトでございます」
「じゃあそれを、僕と、穣太郎と、ふたつ。それから穣太郎のお相手が来たら、その人にも出して」
「かしこまりました」
本田は静かにその場から下がった。本田だけにはどうも、寧の正体はばれているようだが、そんなことは穣太郎にとってどうでもよい。
「その、約束の品、ってのはなんだい?」本田の後ろ姿をしばらく追っていた寧だったが、改めて穣太郎を向いて、訊ねた。
「覚えてねえんだ」
「約束を忘れるなんてひどい男だ」
「なんか、山荘の女連中にはさ、やたらと受けている感じしたんだけど、……こう、銀色の長い爪楊枝みたいなものを持って」
「はあ?」
「糸つかって、ちまちまこまこま、やってんだよ。休憩のときにしょっちゅう。ああいうのなんていうんだ?」
「爪楊枝……」
寧はうーんと唸る。爪楊枝、と言っていいのか分からない。先が鉤状に曲がっていて、それで糸をひっかけてはくるくる回して、やたらとひらひらしたものを制作していた。それが女性従業員には大いに評判良かったのだが、流行ったりはしなかった。
「レース編みではないでしょうか?」
そう答えたのは、ケーキを運んでくれた本田だ。寧が「なんだろう?」と彼に訊いたのだ。
「レースって、あれかい。女の下着についてる……」
「私も詳しくはありませんが、私の母がやっていたのを、子どものころに見たことがあります。かぎ針編み、だったのでは」
「編み物?」訊いたのは寧だ。
「はい」
「へえ、編み物ねえ。棒を二本つかうんじゃなかったっけ?」
「そういう技法もあったかと思います」
本田の言葉に、寧は頷く。穣太郎はふーんと思いながら聞いていた。
「男性で編み物とは、珍しいね」
「うん。――美味いな」
と、白桃のタルトに手をつけて、穣太郎は答えた。女の趣味だとか男の趣味だとか、穣太郎にはあまり興味がなかった。ただ、約束の品、というものが思い出せない。どんな話をしただろう。
約束の時間に、いいころだった。そろそろ話題の男が現れてもおかしくない。直接聞けばいい、と穣太郎は考える。
→ 1‐2
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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