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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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二〇〇七年


「別れたい」とアキは唐突に切り出した。夏の終わりで、市民病院の病室で、昼過ぎだった。僕はりんごの皮をアキのために剥いていた。アキはベッドでつまらなさそうに横たわっている。
 自転車事故。アキはロードバイクを走らせるのが趣味なのだが、トレーニングに出かけて、その帰りの坂道、スピードが出ている最高潮でカーブを曲がりきれずにガードレールを突っ切ってカーブ下へ転落した。宙に浮かんだアキの身体は幸いにも樹木に守られて大きな事故にはならなかったのだが、骨折はした。利き腕と利き足だ。精密検査もするので入院と相成り、僕はその見舞いに来ていた。
 アキが事故、と聞いたときは肝が冷えた。いてもたってもいられず、慌てて市民病院に駆けつけてみれば、アキはぴんぴんしていて、腰が抜けた。そんな僕をアキは笑ったが、ふと真面目な顔になると、「悪かった」と一言謝った。
「び、びっくりしたんだ、」
「うん、悪かったよ」
 その日は検査があるからと帰されて、翌日、りんごを携えて見舞った。そんなタイミングで別れ話。
 むしろよくもった方だと思う。高校生から続いて、もう何年だろう。アキは辛抱強く、おおらかに、僕を受け入れてくれた。アキ、社会人になって四年目、僕、半年後には大学卒業を控える年。そんな年齢に差し掛かって、アキはなにか決意した風に見えた。
「どうして」と僕は訊ねる。アキは即答した。「先がないだろ、男同士じゃ」
「素直に言うよ。おれ、自分の子どもが欲しいと思った」
「いつ?」
「事故ったとき。本気で、死ぬかと思ったんだぜ。なにも成さないまま死ぬのか、と思った。おれはなんの取り柄もない。あるとしたら、健康ぐらいだ。それが奪われちまったら、本当になんにもできない人間で終わる」
「……」
「どうせ生きるなら、なにかを成してみたいのさ。それが、嫁さんつくって、子どもを持つってことだと思った。平凡なおれが、唯一できる、道」
 それは、僕には成せないことだった。どんなに頑張っても僕はアキの子どもを妊娠できない。セックスのたびに腹の中に吐きだされるアキの精子は、ただ無意味にこぼれ伝うだけだ。一生恋愛して生きていけるなら、僕らの関係はありだ。アキはそうじゃない。アキはほんの少しだったとしても生死の境を垣間見て、父親になりたいと決意したのだ。
 それを僕は止めることを出来ない。生物として、ごくまっとうで正しいあり方だからだ。
 ただ、僕がアキをあんなにも心配していたあのとき、アキは僕のことではなく子どもが欲しい、と思っていたんだなあと思うと、心の底からやるせなかった。
「いやだ」僕はだだをこねるように、拒絶する。
「いやだ、いやだ、いやだ」
「悪い、おまえの気持ちも分かる。でもおれは、おれの気持ちに素直になりたい」
「おれのこと少しでも好き?」
「好きさ。いまでも好きだ。でも多分、おれの好き、とおまえの好き、は、ずいぶんと違う。――おまえだって分かるだろう?」
「いやだ、ひどい、別れたくない」
「じゃあたとえばおれがよそに女つくって子ども産ませても、いいって言うか、おまえ」
「……絶対にいやだ」
「別れたい、ミツミ」
「いや」
「別れよう。お願いします、別れてください」
 そう言って、アキは出来うる限りで頭を下げた。僕にはもう分かっていた。これはアキの、揺るがない意思だ。どんなに自分がだだをこねても、覆しようがない。
 だがどうしてもどう考えても自分が可哀想だった。
「呪ってやる」
 口をついて出たのは、そんな子どもじみた言葉だった。
「おまえに彼女が出来て、子どもが生まれたら、その子を呪ってやる」
「……三番目の悪い魔女みたいにか?」
「そうだ。だってその子はもう、……この世に存在しないうちから、おれから存在を否定されている、可哀想な子だ」
 アキは黙っていたが、やがて「それでもいいよ」と言う。
「その災厄から、おれが全力で守ってやる。だからいくらでもおまえは安心して呪え」
 涙が出てきた、まだ存在しないうちから愛されている子が憎らしい。出来うることなら僕はアキの子に生まれたかった。
「だから別れてください」
 アキは瞬きせずに真っ直ぐと見つめてそう言った。


二〇一五年


 新生児室から看護師が赤ん坊を連れてくる。右足にタグのつけられた、アキの愛する宇宙人だ。その赤ん坊をまず母親が抱き、僕に顔を見せてくれた。彼女はアキと僕との過去を知らない。とても仲の良い友人だと思っている。
「ほーら、みっちゃんですよー」
 と彼女は子をあやす。まだ目のあかない子は見るからにふにゃふにゃで、扱いに困るであろうことは抱かずとも分かったのに、母親から子を預かったアキは、「ほら抱いてみろよ」と僕に子を寄越した。
「無理むり、落っことす、怖い」
「情けねえやつだなあ。大丈夫だから。ほら、抱いてみ」
 と、押し付けてくる。やわらかい物体は熱く、ずしりと重たかった。「首、首」と言われて、慌てて頭を支える。
 ふあ、ふあ、と名のない子が声をあげる。僕は慌てる。しかしそれを両親らはおおらかに見ているのだった。
「感想は?」
「あ、」
「あ?」
「あっつい。重い。怖い」
 子が、手をもぞもぞさせる。なにかを求めている。僕にはそれが分からない。目もあかないのに、表情は分かる。僕じゃ不満です、という体で彼女は僕の腕に抱かれている。
「――なんかよく分かんない。分かんなくて怖い。けど、……かわいいな、」
「そうだろう」
 とアキは自信満々に言った。ここ数日で急に人間らしくなってきたんだぞ、と言う。
 かわいい、という言葉が当てはまるか分からない。愛おしいと思う。アキの血を継いだ子。そうでなくてもちいさくて、ふくふくとまるく、愛せない方が無理だ。こんな塊を、どうして女性は産めるのか。
 抱いているうちにしっとりと汗ばんできた。やわらかいものがしっとりしてくる感触は、三十年間生きてきて僕が感じたことのない経験だった。アキが、急かす。「さあいくらでも呪っていいぞ」と言うから、事情を知らない母親の方がぎょっとしていた。
「――すごいね」
「ああ?」
「もうこの先、なんにも、この子には苦しみも悲しみも起こって欲しくない」
「それがおまえの呪いか?」
「……ああ」
 僕は半分泣きながら頷いて、そのうち子が泣きだしたので慌てて母親に返した。
 この先なにも、なんにも、この子に苦しみも悲しみも起こらないことを。
 三番目の悪い魔女は、そう祈る。生まれてきた子どもらにはみな、そう思う。はじめはみなそうだったんだろう。かつて子どもだった僕らも、たくさんの祝福を受けた。
「みんなこの子が好きになるんだ」
「――ありがとう、魔法使い」
 アキがすっかり湿っぽくなってしまった僕の背を優しく叩く。それはいつどんなときのアキよりも逞しく、穏やかで、自信に満ちた手のひらだった。
 おめでとう、と心の中で僕は呟く。
 ありがとう、とアキが答えた気がした。


End.


← 前編




魔法使いの人数については諸説あるようですが、ディズニー版を引用いたしました。




 

拍手[42回]

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二〇一五年


 生まれたよ、と電話口でアキが言った。
 生まれてしまったのか、と思ったが、僕は口には出さなかった。「そうか生まれたか」と言い、平静を装い、ポケットに仕舞いこんでいたメモ帳をひらいた。そこには「もし、アキに子どもが生まれたら」、言葉詰まりにならないように質問が書き連ねてある。
 最初のクエスチョンから。
「いつ生まれた?」
『さっき。いまさっきだよ』
「じゃあおれに電話している場合じゃないだろう?」僕は呆れた、という風情で苦笑してみせる。なかなか上手にできた。
『ミツミに真っ先に伝えたかったんだよ』
「男? 女?」これがふたつめのクエスチョンだ。
『女の子。くしゃくしゃな猿みたいな顔で、全然かわいくないけどな』
「そのうちどんどんかわいくなるさ。女の子なら、なおさら」
 嫁さん美人だしな、と言おうとして、これはやめた。
「名前は?」みっつめだ。項目はあとふたつある。生まれたときの体重は? と、嫁さんの調子はどうだ? と。
『まだ決めてない。候補はいくつかある。おれには決められないからさ、ミツミが決めてくれよ』
「ばか言えよ。赤ん坊の命名権をおまえら両親が自由にしていいと思ったら大間違いなんだぞ。このたびめでたく祖父母となられた皆さまとか、きっと名づけたい、と思ってる」
『あー、うちんとこはそういうのねェなあ。なに、おまえのときはあったの』
「三男坊だから三の字を必ずつけなさい、ってじいさんが」
『それで〈美津三〉な。いいじゃん。おれ、おまえの名前好きよ』
「すきよ、って軽く言うな」
『いや、おまえに対してはもうとことんひどいやつになるって決めたんだ、おれは。仕方がない、こればっかりは。で、いつ見に来る?』
「なにを?」
『赤ん坊をだよ。――おまえは三番目の悪い魔女、なんだろう』
 いつか言った台詞をアキは覚えていた。確かに呪いめいていて、とても平静では聞けないような台詞だった。僕は観念して、「行く、行くよ」と答えた。
「おまえら夫婦がおれを呼んだことを後悔するぐらいのとびきりの呪いを、その子にかけてやるよ」
『ふふ』
 物騒な台詞だったのに、アキは笑った。笑顔は目蓋の裏にありありと描けた。それぐらいの長い月日を僕らは共にしたのだ。そしてこれからも多分、共にしてゆく。
『来るなら病院に入院しているうちに来いよ。退院したら嫁さん、しばらく赤ん坊と一緒に実家だから』
「あー、里帰りすんだ。H市だっけ」
『そうそう。お姑さんに面倒見てもらうの。初産だし、その方が気が楽だろうからな』
「じゃあ、二・三日中には都合つけて顔見に行くわ」
『おう。その時は連絡寄越せよ』
 電話が切れかかる、その直前に僕は声を出した。
「お、」
『お?』
 なんとなく、電話の向こうでアキは振り向いた気がした。
「おめでとう、とかな、ぜってえ言わねえからな」
『――それがミツミらしいよ』
 それでようやく、電話を切った。


二〇〇三年


 演劇祭の演目決まりましたー、とクラスの学級委員長が言った。配役も決定しているのでプリント受け取ってない人は取りに来てくださーい、とクラスの演壇の上で声を張り上げている。
 そのプリントをアキがもらってきた。上演される演目は「眠れる森の美女」。美女、というか美少女がこのクラスには存在して、彼女がその美女役をあてられていた。ミスターコンテストで準優勝した美男子もいる。彼が王子役だ。誰もが納得の配役。しかし僕にはどうも気に食わなかった。
「おまえ、三番目の悪い魔法使いの役だってー」
 これ以上の可笑しいことはない、とばかりにアキは笑った。
 主役のふたりが演技未経験なので、脇は経験者で固めたい、というのが学級長らのもくろみだった。演劇祭はクラスごとに違う演目で行う。演劇部に所属する人間は主役および準主役を張ってはならない、という規定はあったが、ほかはうるさく言われない。
 僕は、演劇部所属だ。夏の文化祭の演劇部の発表では主役を務めた。ただしそれは男役だった。眠れる森の美女に悪い予言をする魔法使いは、確か魔女だったはずだ。
「ま、衣装は黒いマントかぶってるだけだし、台詞だってろくにないし。男女どっちだっていいんじゃあない? ロミオさまには物足りないぐらいかも」
 と言ったのはクラスメイトの木崎(きざき)だ。彼女のいう「ロミオさま」は、文化祭で僕が演じた「ロミオとジュリエット」のロミオに由来する。そう、ロミオ役だったのだ。
「三番目の悪い魔女って、具体的になにすんの?」とアキが木崎に訊く。
「王女が生まれたときに呪いをかけるのよ。この子は十六歳になったら糸車の針に指を突いて永遠の眠りにつくだろう、って。だから眠り姫になんのよ」
「なるほど。恨まれ役だなー、ミツミ」
 僕はプリントを見ながら、ふん、と鼻を鳴らした。三番目の悪い魔女。一体どんな気持ちで、赤子を呪ったというのだろう。
 その日はアキと一緒に帰った。
 途中、公園に立ち寄った。雨のおかげで通る人が誰もいない。東屋にふたりで並んで腰掛けて、僕の方からお願いをして、キスをした。
 最初に告白したのはやっぱり僕だ。中学からずっと一緒だったアキのことが、僕は好きだった。このまま卒業で離れるのが惜しくて告白をしたら、悩んだ挙句、アキはOKしてくれた。だから僕らは内緒で付きあっている。
 と言っても、素肌に直接触れたことはまだない。キスは出来る、キスまでが限界、アキの行動を、僕はそう感じ取っていた。
 まあ、男だから、と僕は言い聞かす。気持ち悪がられないだけマシだと。アキは優しい。同情で僕に付きあえるくらい、すごく、優しい。
 この演劇祭が終われば、みな本格的に受験シーズンに突入する。僕は進学組で、アキは就職組だ。進学先も就職先も同じ地元なので、まったく会えなくなるわけじゃない。でも四六時中こうして一緒にいるのは、無理だ。
「――三番目の悪い魔女」
 唇を離して、唐突にアキが言った。
「なあ、女言葉つかうんだろ? そういうミツミ、ちょっと見てみたいなあ」
「見れるだろ、おまえ大道具係なんだから」
「どうせならひらひらっとした素敵な女物の衣装作ってもらえよ」
「……遊んでるだろ、おれで」
 演劇祭当日、僕は見事な「三番目の悪い魔女」を演じきった。
 ステージ袖で見ていたアキに言わせれば、「あの声と存在感で会場の温度が三度下がったね」ということらしい。労いに頭をぽんぽんとはたかれて、僕はこの上なくしあわせだった。



→ 後編



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 ◇


 そのまま結局は山頂を制覇してしまった。
 山荘は山頂にあるものと思い込みがちだが、ここの山荘の場合、山頂までは四十分程度かかるのだ。ここの従業員の健脚なら二十分ほどで行くらしいが、山荘まででへばっていた燕にはきつく、みんなに手加減してもらって登った。途中、鎖場では穣太郎に手を借りた。山で油断は禁物と分かっていて、力強い手指に、心臓が煮えた。
 ちょうど天気も良く、ガスの切れ間に見事な景色が見えた。自分の足もと以外は空、まるで天空に立っているその感覚は、束の間の浮遊感を味あわせる。
 みんなで記念撮影をして、それからは狭い山頂でめいめいに過ごした。女性陣はひょいひょいと岩場を進み、どうやって、と思うような突端ではしゃいだりしている。あそこから落ちたら命はないだろう。もちろん、いま穣太郎と並んで座っているこの岩場も、そうだ。怖い、けれど雄大で素晴らしい。少しだけ、こういうのは穣太郎そのものだな、と思った。
「そういえば、これ」
 シャツの胸ポケットから穣太郎はなにかを取り出した。四つ折りのそれは、原稿用紙らしかった。「なんですか?」と広げようとすると、「見るのは山を下りてからだ」と強引に紙をウエストポーチにねじ込まれた。
「なんですか」
「こないだまで、ここにな、寧が来てた。ホレ覚えてるか、やさっこい顔した男だ」
 やさっこい、という表現が、優しそうな、あるいはなよなよしい、という表現だということを、数秒遅れて理解した。
「覚えています。穣太郎さんの友達、ですよね」
「そうだ。あいつの正体はよく分からんが、物書きらしい。惚れたやつがいるらしくてな。それがまあ難攻不落で、もう何十年と片想いしているんだと」
「何十年は、……本当に?」
「ん、おれもよく知らんが」
 穣太郎も寧がここへ来てはじめて知らされた、という。
「忙しいから、話半分で聞いとったが、まあその惚れた相手から哲学的な宿題を出されたらしい。百ほしい、とかなんとか。どう答えたらいいかと言ったから、ラブレターを書け、とおれは言った。物書きだからな、文字操るのは得意だろう、と。それであいつは、ここで何十枚とせっせと書いたよ」
「ラブレターを?」
「そうだ、と思う。書き上がったら、とっとと下山してったからな。当然おれは読んでないんだが」
「……すごい情熱ですね」
「ああ、すごい情熱なんだ」
 ふ、と穣太郎の表情が緩む。言葉が続くのかと、燕は穣太郎を待ったが、それきりなにもなかった。
「――え、それで?」
「いや、それだけだ」
「いえいえ、それと、穣太郎さんがくれたこの紙と、なにか関係するんじゃないですか?」
「なんでもねえ」
「じゃあ、いま中身を見ます」
「あー、やめろやめろ、下りてからだ。絶対、下りてから」
 ウエストポーチにかけた手を、掴まれた。大きな手は燕の手首を簡単に包んでしまう。それでもじたばたと燕は抵抗した。なにがなんでも見てやろう、という気になった。
「やめろ、琢己」
 穣太郎の手が、燕の後頭部にまわる。
 視界がぽすっと塞がった。
 穣太郎の逞しい胸に抱かれている。
 燕は抵抗を忘れ、その心地よさに酔った。自分の吐いた息がそのまま穣太郎のシャツに浸みこんでいく。目を閉じる。思い切り息を吸い込むと、穣太郎の体臭が香った。
 時間にすれば、数十秒ほどだったと思う。肩を掴んで燕の身体を離した穣太郎は「とにかく」と仕切り直した。
「読むのは下りてからだ。分かったか」
「……はい」
「いい子だ、琢己」
 穣太郎はゆったりと微笑んだ。その笑みに、肩を掴んでいる手の力強さに、なによりも先ほどの抱擁に、燕はくらくらした。
「さあ、そろそろ夕飯の支度の時間だ。戻るか」
 と、穣太郎は立ちあがった。


 ◇


 一泊二日はあっという間に過ぎてしまった。あの後山荘に戻った燕は、昼寝をして、穣太郎の作った夕飯を食べ、穣太郎の寸法はきっちり測らせてもらい、星を観察して、早く寝た。翌日は御来光を山頂で見るべく、早起きした。これも穣太郎と見た。まったく、山の男はタフだと思いながら。
 そして惜しみながら、山を下りた。反芻するのは穣太郎の体温ばかりで、しかし滑落せぬようしっかりと気を引き締めて下りた。バスターミナルに行く前に、周辺に建つリゾートホテルのティーラウンジに寄った。もしかしているかもしれない、と思って覗いたのだが、案の定いた。寧は煙草をふかしながら、熱心にノートパソコンのキーボードを叩いていた。
「寧さん」
「あれ、こんにちは。来てたんだ。もしかして、穣太郎んとこ?」喋りながら寧は煙草を灰皿で揉み消す。
「はい。帰り道です」
「そりゃ淋しいよなあ。あ、ケーキ食べる?」
 いつの間にか傍にウエイターが立っていた。以前もここのティーラウンジで燕に良くしてくれた、仕草が綺麗なウエイターだ。「静可さん」と寧が彼を呼んだ。ウエイターはにこりと微笑み、メニューを渡してくれる。
「今日はアップルパイがお勧めです」
「あ、でもおれ、山下りる前に穣太郎さんからお菓子もらって、食べたんです」
「いいんだいいんだ、食べなさい。山くだってカロリー消費しただろうし、それにね。きみや静可さんみたいな身体の人は、過剰摂取ぐらいでちょうどいい」
 と寧が言った。ウエイターはすました顔で燕を待っている。「じゃあ、アップルパイのケーキセット、アイスティーで」と頼むと、「かしこまりました」と恭しく、ウエイターは下がって行った。
「寧さん、ラブレター書いたんですってね」と言うと、寧は吹き出した。
「そんなことまできみに喋ったのか、あいつは」
「超大作を書いた、と伺いました」
「きみもちゃんともらったんだろうな、ラブレター」
「はい?」
「穣太郎からの、ラブレターだよ。帰り際に残った原稿用紙押し付けて、おまえもツバメくん宛てに書け、と言って下りたんだけど……」
 喋っているうちに、寧はまずい、と思ったらしい。語尾が詰まる。「……もしかして、もらってない?」
「いや、もらった、っていうか、」ウエストポーチの中身を意識する。
「ていうか、あいつからなんか、言われた?」
 言われてはいない。行動なら起こったかもしれない。訳が分からなくなり、燕は真っ赤になって首を縦に振ったり横に振ったりした。
「ええと、……僕は先に余計なことを言ってしまったのかな」
「わ、分かりません……」
「そうか、……」
 早くウエストポーチの中身を確認したくてたまらなくなった。


 ◇


 バスターミナルから最寄駅まで移動し、街へ戻る私鉄の電車内で、燕はようやく手紙を取り出して眺めた。


『十一月には閉山するので、小屋を閉めます。
 街に戻ります。
 そのとき迎えに来てください。


 クマダ』


 そんなの到底待てない、と思った。いますぐ引き返したい気持ちがはやる。
 ああだけど、その時までに絶対に、セーターを仕上げるのだ、と燕は決意する。今度はアラン模様にしよう。穣太郎の風体に、絶対に似合うはずだ。
 色は白がいい。冬の熊に、きっとぴったりだ。


End.


← 2‐1


拍手[54回]

 昔から身体の大きな人間に弱い。はじめて好きになった人も、その次に好きになった人も、その次に好きになった人もそうだった。確かな筋骨、分厚い胸板、太い首や腕。大概はパワー系スポーツが得意な人種だ。線が細く、筋肉もぜい肉もつきにくい、ゆえにスポーツの類はてんで不得意という燕琢己(つばくら たくみ)からすれば、憧れの塊みたいなものだった。
 そういう人間こそ、ニットは似合う。
 昔から冬季オリンピックの中継を眺めるのが好きだった。各国揃いのニットウェアを身に着け入場行進などされるとたまらない。憧れの体格をした男女が、燕が最も好きだと思うファッションで登場するのだ。これに興奮しない訳がない。いつかそういう人に最高のニットを編んであげたいと思っていた。それを着てほしい。アラン模様もいいし、編み込みでもいい。もちろん、自分が最も得意とするフェアアイルだって最高だ。
 元からそういう趣味嗜好があって、燕は熊田穣太郎(くまだ じょうたろう)に出会ってしまった。ひと目ぼれだった。山荘の厨房で腕を振るう大きな熊。その巨大な熊もまた、燕が気になるらしかった。「細っこいの見ると食わせたくなるんだよなァ」と言い、空き時間に手招かれては、厨房からおやつをもらった。
 それが去年の夏だ。一年過ぎて、ようやく帽子をプレゼント出来た。また山荘に来いと言われたから、日ごろ家にこもってばかりの身体を頑張って山荘のある尾根へ引っ張り上げた。今度は客として、一泊二日を山荘で過ごす予定でいた。
 八月も終わろうかというころだ。尾根に吹く風はとうに秋風だ。


 ◇


 数週間ぶりに会った穣太郎は、トレードマークの髭がなくなっていた。燕があげた帽子をかぶっていなければ、彼と分からなかったかもしれない。早朝にふもとを出発して、昼ごろようやく山荘に到着したのだが、数時間山道を歩いてへばった身体と精神に、髭なし穣太郎の姿はなかなかに衝撃だった。
 昼のピークを過ぎて、人の少なくなった食堂でようやくゆっくりと穣太郎と話が出来た。
「ひ、髭」
「ああ、これなァ」
 つるりとしてしまった頬を穣太郎は撫でた。「今朝、やむ得ず剃った」と答える。
「朝起きたらガムが髭に絡んでたんだ。多分、従業員が噛んでちゃんと捨てなかったのが、布団に紛れたんだろうな。犯人を誰とは探す気ねぇけどよォ、朝礼の時にきちっと話したわ。ごみはだめだ、ごみは」
 山荘には当然ながらごみ収集車はやって来ない。基本的に登山客個人が出したごみは個人が持ちかえる。山荘で出たごみは、荷上げのヘリコプターの復路で下ろす。おいそれとそこらに捨てられないのだ。
 極地だからこそ、ごみの管理は徹底している。分かっていることだ。なんとなく燕は、しょぼんとしてしまった。
「ま、あんたが気にすることねぇわな」
「いえ、気にします。……穣太郎さんの髭、好きだったので」
「そおかァ?」
「でも、髭ないのも、新鮮ですね、」と気を取り直す。
 髭がないと、顔の輪郭線がはっきりと分かった。意外とシャープな輪郭をしている。つぶらだと思っていた瞳も、案外に険しい。それが優しげに緩んで、燕はどきどきしてしまった。
「そういやあんた、したいことがあるって言ってたな」
「あ、そうなんです。……寸法、測りたいと思って」
「おれのか」
「はい。今度はセーターか、ベストか、カーディガンか迷ってますけども、編みたい、と思っていて」
 冬までに必ず仕上げたいと思っている、穣太郎のためだけに編むとっておきの一枚だ。
「また編んでくれるのか」
「……それはもう、おれのライフワークですから。……迷惑じゃないですか?」
「あんたの編み物は好きだ。色がいいし、なんかな、ここまであったかくなる」
 親指で自身の胸を指して、穣太郎は言った。燕にとってそれはもう飛びあがるぐらい嬉しい言葉だった。つい照れてうつむいてしまったが、顔をあげる。
 ウエストポーチからメモ帳と巻き尺を取り出し、「では失礼します」と穣太郎の肩に触れる、そのときだった。
「ツバメくん来てるって?」
「あーほんとだ、いるいるー」
「レース王子!」
 と賑やかにやって来たのは、ここの女性従業員たちだった。きゃあきゃあとはしゃぎながら、久々の再会を歓迎する。
 彼女らは、休憩時間のたびに黙々とレースを編む燕のことを、「レース王子」と呼んでかわいがってくれていた。総じて体育会系だったが、そこは女子、かわいいものは好きなのだ。
「相変わらず細いねー」
「ね、まだ編み物してるの?」
「こんな熊と一緒にいるより、お花畑に散歩に出ない?」
 ちなみにお花畑とは、高山植物の群生地を指す。はじめて「お花畑」と聞いたときは、なんてメルヘンでドリーミーな言葉だと思ったのだが、実際のお花畑はもっとリアルで、シビアで、素朴な花々が咲く。
「おれと琢己は真面目な話してたんだよ」吠えるように穣太郎が言う。
「じゃあジョーさんも一緒に散歩する?」
「……おうよ」
 それでみんなでお花畑へ出かけることになった。


→ 2‐2


拍手[39回]

 ◇


 夏の街を、干からびないように日陰と日陰を渡り歩きながら、二十分ほどは歩いた。先ほどから静可はなにも喋らない。黙々と歩いている、という感じだ。
 もうそろそろ駅に戻っておかないと、電車の時間が危うかった。静可は明日からまた仕事だ。今日中には寮へ戻ってなくてはならない。
「ねえ、そろそろ戻ろう。駅ビルで買い物もしたいし」
「……」
「静可さん?」
「――気持ち悪い」
 と静可はその場でうずくまった。寧はぎょっとする。すっかりうなだれている静可の首筋、白いうなじに頸椎が浮かぶのが見える。背に触れると、熱い。そういえばあんなに涼しい顔をしていたじゃないか。汗をかいていなかった。脱水? 貧血? 熱中症? 昼に食べたものが悪かったか?
 ばさ、と静可が手にしていた紙袋が落ちる。寧の書いた本の入った袋だ。寧は静可の額に手を当てた。
「気持ち悪い? 吐く?」訊ねても静可から返事がない。
「静可さん、OKなら返事して――静可さん、」
 しずかさん、と何度も呼ぶ。なんだなんだ、と通りすがる人が気にしていく。人のよさそうな婦人が「どうしましたか?」と声をかけてくれた。
「気持ち悪い、って言うんですよ」
「あら、熱中症かしら。気持ち悪いだけ? 大丈夫?」
「……大丈夫です」
 と、静可はようやく返事をした。顔をあげたが、真っ青だった。
 そのままふらふら歩いて行こうとするので、慌てて静可の腕を取った。
「大丈夫じゃないでしょう、」
「ちょっと気分が悪いだけ」
「待って待って、少し座ろう」
 だが静可は歩こうとする。


 ◇


 数歩歩いてはまたうずくまり、数歩歩いてはうずくまり、していた静可だ。歩き続けられるわけがない。さいわい、少し歩いた先にビジネスホテルがあった。入浴施設があり、日帰り入浴だけでも可だという。そこの畳敷きの休憩室に静可を運び込んで、ようやく横たわらせた。自販機でペットボトルのお茶やスポーツドリンクを数本買い、一本は静可に飲ませ、残りは腋下や首筋に当てた。
 しばらくして、静可は目をあけた。瞳の焦点が定まってきている。脈も収まってきたし、なにより汗をかきはじめた。水分がまわってきた証拠だ。
「――軽い熱中症だと思うんだけど」
 そう言うと、静可は「私は貧血だと思いました」と答える。
「どっちにしろ、歩きまわれる状態じゃないね、……どうしてそんなに歩きたがったの?」
 行きたいところでもあったのだろうか。静可は頭を乗せている座布団を自力でどかすと、寧の膝に頭を乗せ替えた。寧はびっくりする。
 休憩室には、おじさんがひとりいるだけで誰もいない。彼は背を向けて、高校野球のテレビ中継を観戦中だ。静可と寧には気付かない。
 静可は「入道雲がすごかったから」と答えた。
「ビルとビルの合間に入道雲を見るなんて、久しぶりだと思って。……入道雲の下はどうなっているのか、気になっていた少年時代を思い出しました」
「そこまで歩くつもりだった?」
「さあ」
「ばかだな」
 膝に乗った静可の髪を梳く。静可は身を捩って、横向きに寝転んだ。楽な体勢を選ぶ。痩せて細い腕、長年使い込んだ腕時計が、視界に映る。
「――あっ」
 寧は思わず声をあげた。十五時をとうに過ぎている。予定していた電車にはもう間に合わない。今日中に帰らねばならないのに、時間を逃してしまった。
 それを告げると、静可は「いい」と言った。いや、良くないだろう。
「今夜はこのままここに泊まって、明日帰りましょう」
「うーん、……仕事は、大丈夫?」
「事情を話せば、替わってもらえるはずです」
 ならば、ゆっくりできる方が静可の身体のためにもいいだろう。寧は後ろ手を突き、「そうか」と笑った。「なら、休もう」
しかし「抱いていいですよ」と静可が言うので、笑いが止まる。
「――はっ?」
「今夜。あなたの好きにしていいですよ」
「ちょっとちょっとちょっと待って、待って、……待って、」
 寧は思わず周囲を見渡す。テレビ前に陣取っていたおじさんは、いつの間にか横たわり寝息をかいていた。静可に顔を近付け、小さな声で、寧は「いきなりなにを言い出すんだ」と抗議する。
 静可は「街へ出るからには、まさか健全なデートで終わると思っていなかったですけど?」と答えた。
「ホテルにでも直行するかと思ったのに、あなた本当に本屋に行くし」
「あのねえ、僕はあなたと違ってけっこう、かなり、すごく、健全なんだよ。好きな相手とはじっくりやりたいんだ。好きです、はいセックスします、ってのじゃなくって」
「まさか童貞じゃないでしょうに」
「そりゃ、そうなんだけど」
 だが寧にとって、好きな相手とこうなるのは人生生きてきてはじめてのことなのだ。「それに」と付け加える。「あなたは気分悪かったんだし、このホテルじゃなんにも準備がなさそうだし」
「そんなもの、いくらでも代用はきくし、ここは街なんですから、なんでも揃うでしょう」
「……そんなこと言って、本当にどうなっても知らないぞ、」
「ええ、お好きにどうぞ、と言っています」
 そう言って静可は、そっと寧の耳たぶを引っ張った。まったくこの人にはかなわない。
「……チェックインできるか聞いてくる」
 顔が火照るのを感じながら、寧は静可の傍を離れようとしたが、静可にしがみつかれた。
「どっちなんだよ、もう」
「ふふ」
 もう少しこのまま、と静可は言う。寧はとても困ってしまった。困る寧が、静可は嬉しいらしい。
 静可は目を閉じる。静かな休憩室に、野球中継のアナウンスが響く。



End.


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プロフィール
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粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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