[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
不意に秋空のにおいを嗅いだ気がして夕は振り返ったが、そこは会社だったので秋空がいるはずはなかったのだ。秋空はコロンの類などつけないが、独特の、こうばしく奥に甘いような香りをまとっているときがある。多分、発情して心拍数があがり、発熱したとき、とりわけうなじや手首の裏から香るのだ。そのにおいはいま自分から発せられていると気づいて、夕はひとりうつむいて顔を赤く染めた。明け方までしっかりと秋空の腕に包まれて眠ったせいだろうか。自分の体が自分のものじゃないような気がした。
恋をするとはそういうことなのだろうな、と二十二年間生きてきてようやく実感する。この実感が、自分に訪れるとは想像だにしなかった。朝別れたばかりの体が、もう恋しい。秋空の力強い手指や、かたく触れた腹筋、情事にしか聞けないうめき声が体の奥底によみがえって、夕はしばらく窓辺に佇んだ。
秋だと思っていた空は冬に変わった。窓から見える街路樹はすっかり葉を落とし、しんと澄んだ空を白々と映している。もう暖房なしでは日を過ごせないし、通勤用のコートはウールのものに替わった。体温の高い秋空は晩秋まで薄着でいたが、いまは出掛ける際に厚手のカウチンニットを羽織って出てゆく。
会いたいな、と思う。会うためにはあと三時間、仕事をこなさねばならない。今日秋空はアルバイトが休みで、同じく詩子も休みを取っている。父親の命日なのだと聞いた。三時間後には駅前で待ち合わせているが、詩子も顔を見せるだろう。
付き合いはじめて二週間、まだ二週間だ。それでも恋に浮つく気持ちより、いやな感じがした。自分に似合わないことをしている、と思う。着慣れない服を着ているような。秋空が睦言を囁かないことも起因しているのかもしれない。彼は決して、好きだとか愛しているとか、そういう言葉を口にしなかった。最初の一夜を除いて、「来てよ」だなんて言わなかった。ただ無言で夕の体の愛撫にかかる。
恋とはこんなに静かに進行するものだろうか、と思うぐらいに深々とふかく静かで、音がしなかった。聞こえるのは自分の心音ぐらいだ。夕が鈍いせいかもしれない。ただ、心がざわめき、いつも緊張しているので、夕には歓迎しがたい事態でもあった。
今朝、秋空は静かなまなざしで「今夜は少し話をしよう」と言った。その話が、雑談などではなくなにか重要な事柄を含んでいることは、語られずとも知れた。夕にはその内容が推測できない。
待ち合わせ場所には、案の定詩子がいた。
三人は駅前を少し離れて、飲み屋街の一角に腰を据えた。秋空が飲まないと言ったから、夕も飲まない方がいいような気がして、結局アルコールを注文したのは詩子だけだった。話題の中に、詩子の夫、秋空の父のことが語られた。夕ははじめて聞く話だったのだが、登山家で冒険家で写真家で、紀行文を写真とともに山岳雑誌や旅雑誌に寄せていたようだった。
「ほんと、秋空はお父さんそっくりに育っちゃった」と詩子がぼやいた。
「定職には就かないわ、すぐ旅に出るわ、余計な心配ばかりさせるわ」
「そんな方と、詩子さんはどうして結婚されたんですか?」くすくすと笑いながら尋ねると、「目が澄んでいて綺麗だったから」と彼女は答えた。
「ちょっと変わった見方をする人でね、不思議な口説かれ方をしたわ」
「なんて?」
「人は星だから、いまぼくときみはこうして一緒に巡っているけれど、公転周期がずれれば離れるだろう、と。ふつう、恋をしたら会いたいとか一緒にいたいとか思ったり、伝えたりするでしょう? それがはじめから別れが前提なんだもの。頭きて、ならどこまでその周期が一緒になるか試しましょう、と言ったのよ」
それは、秋空から聞いた話とそっくりだった。彼は夜空の星を見上げて、夕に「おれたちは星だと思う」と、つい先日語ってくれたばかりだった。
「それで結局、結婚四年目に死んで終わっちゃった。変な人だった」
「変な人」
これに笑ったのが秋空だった。「じゃあそっくりなおれも変かよ」
「変人よ」
「変人と結婚して子どもまで産んだんだからおふくろもよっぽど変人だな」
「ま、そうね。友達みたいに大学で遊びつくして男をみんな従えて、でも結婚する人は堅実な公務員か銀行員がいい、っていう人生はいやだったのよ」
「おふくろらしいな」
「ありがと」
夕は彼らの話をぼんやりと聞いていた。夕は詩子のように前向きになれない。別れが前提と考えている秋空に対して、じゃあどこまで添えるか試そうよ、だなんて挑発的なことは言えなかった。それを言うには、あまりにも自分に対して自信がなさすぎた。
急激に心臓が冷えた。今夜秋空がなにを言いたいのかはまだ分からないが、「人は星だから」と言って唐突に別れを切り出されるのではないだろうか、という不安が渦を巻いた。夕は膝の上でぎゅっと手を握り締める。
会計は、きっちり三等分だった。同じ方向の電車に三人で乗り、詩子が先に降りた。目的の駅で電車を降り、秋空のアパートまでの道をふたりで歩く。そういえば最近はろくに家に帰っていない。歩く先に星が見えて、秋空が「星」と指さした。
「おれがWに行って見た星の話をした?」
「ん、……聞いてない」
「すごかったんだよ、星が。島を案内してくれた知人が南十字星を教えてくれた。天の川もくっきり見えた。この街に住んでいると、星はあんまり見えないな、やっぱり」
恋人は瞳を煌めかせて旅の話を語る。Wからあらゆる国々へ話題は飛んだ。カナダで見たオーロラの話。パリの曇り空。タイの屋台で食べたバナナの揚げもの。ハワイのフラ。
「たくさん、いろんな国へ行っているんだね」
「いや、おれなんかまだ全然行ってない方さ。本当はもっといろんなものを見たいんだ。たとえばオーストラリアの砂漠は夜になると星で影ができるって聞いたし、あとアイスランドは憧れだな。氷河があって火山があって間欠泉もある。ボリビアの塩湖も行ってみたい。鏡みたいに空と地平線を映して、どこに立っているのか分からなくなるような不思議な光景が……」
滑らかに唇から紡がれる夢は、秋空の心そのものだった。ああ、と夕は直観する。恋人は外へ出たがっている。それを夕に伝えたいのだ。夕は恋人の夢を聞きながら、悲しくなっていた。嘘でもいいから夕が一番だと言ってほしかったのだと気づく。なんという浅ましさ。そんな魅力もないくせに、そんな人間でもないくせに。
恋をしてずるくなったり、身勝手になったりすることの、醜さを噛みしめる。こんな思いをするくらいだったら恋はいらない、とさえ思う。それでもこの恋を手放す気にはなれない。一度心に熾った炎はちいとも消えず、勝手に油を継ぎ足しては煙をあげて燃え盛ってゆく。波立つ心のまま、今夜このまま恋人のもとにいたら夕は壊れると思った。だから「僕、今日はやっぱり家に帰るよ」と努めて冷静な声で言った。会話のタイミングとしては最悪だったが、構えやしなかった。
秋空は目を丸くし、「なんで」と言いかけて、首を打ち振った。これだけの態度で荒立つ人ではなかった。そして彼から出てきたのは謝罪の言葉だった。「ごめんな」
「おれ、旅のことになるといつも人の気持ちを考えられなくなる。――いや、もう今夜はこれ以上喋るのやめるよ。……送って行こう」
「――いや、ひとりで歩きたい」
「そうか」
「うん」
じゃあ、気を付けて、と言って恋人はアパートの方向へ歩いてゆき、夕はしばらくその場に佇んでから、くるりと向きを変えて駅へと戻る。この街では星はあまり見えないと秋空は言ったが、それでもどうして、澄んだ夜空だった。白く吐いた息が天へとのぼっていく。
家に帰りつき、風呂を済ませて横になってもなかなか寝付けなかった。そうかこれが眠りに苦労するということなのだな、と夕は秋空の不眠を思う。今夜秋空は眠れているだろうか。そう考えつつもうつらうつらとし出したころ、秋空からメールが届いた。はっと飛び起きて内容を確認する。長いながいメールだった。
『今夜話そうと思っていたことはまた後日改めて、対面で話そうと思っていたんだけど、うまく眠れないので、ごめん、メールを送ります。
人は星だ、という話は、親父がしていた理屈をそっくりおれが受け継いだ。と言っても親父はおれが三歳のときに死んでいて、おれは彼のことをほとんど覚えていない。おふくろが、後からよく話してくれたせいだと思う。いつの間にかおれもそう思うようになっていた。人は星、巡り合わせの公転周期、いつか離れる。
そうやって考えていたから、いままでどの恋人の、誰とも長続きしたことがなかった。おれ自身も旅にとらわれすぎて、半年間音沙汰なしとか頻繁にあったから、そりゃ向こうもなんだよって話だ。自然消滅っていうパターンがほとんどだった。一度だけきっぱりと振られたことがある。明日からトルコへ入るっていう日で、向こうひと月日本には帰ってこない予定だった。恋人は、『いますぐここで航空券を破るか僕にひっぱたかれるかどっちか選んで』と言った。おれはどちらも選べなかった。恋人はパンとおれの頬を強く張って、『ばか、死んでしまえ』と吐き捨ててそれきり連絡が取れなくなった。
どうして旅にこんなにもとらわれるのか、おれも知りたい。知りたいから旅をしているのかもしれない。はじめて旅に出たのは十五歳の夏だった。夏休み、ひとりで自転車で旅に出たんだ。はじめて自分の足で到達した岬は、感動だった。この街からは海が見えないからな。それから高校生のうちにこの国は大体まわった。それでも欲が尽きなくて、大学で英語を専攻していたこともあって、はじめは短期留学というかたちで海外へ出たけど、それじゃ全然物足りなくて、同時に知れた。おれがしたいことは誰かとのコミュニケーションじゃなくて、この星を隅々まで見て回ることなんだな、って。
皮肉にも、死んだ親父といまほとんど同じ道を辿っている。
年内は日本にいる。かろうじている。年が明けたら、おれはポリネシアの島々を旅しようと思っている。いや、思っている、じゃない。行くんだ。もう決めたことだ。どれくらい行っているかはまだ分からないけれど、ビザが許す限りで行きたい。最低でもたぶん三か月は、行っていると思う。
おれはあなたのことが好きだ。その好きは、いとおしいとか、大切にしたいと思う気持ちの総称だ。でも旅には出る。夕が傍にいてくれたらと思う一方で、旅はやめられない。多分、一生こうなんだと思う。親父がそうだったように。
そういうおれがいやなら、別れてほしいと言われても無理はない。おれは頷くだけだ。でもわがままなことに、おれは別れるつもりは全くない。あなたはきっと、――こんな強欲、呆れるね。
明日はバイトのシフトが夜間だから、会えない。明後日は土曜日だ。もし夕さえ良ければ、デートしよう。
クリスマスだって騒いでる日本のこと、おれは結構嫌いじゃないんだ。
長話してごめん。おやすみ。」
夕はほっとした。ほっとしたと同時に、猛烈に淋しくなった。肌が、恋しくなった。
これをメールで言うのはずるいと思った。
← 3
→ 5
おれたちは、人はみな星なのだと秋空は思う。まわり、巡り、かがやき、光りを放つ星。それぞれがそれぞれの特性を持ち、それぞれの尺度で公転周期している。誰かと出会ったとき、秋空はああいまこの人と周期が同期した、と思う。同じ周期だったらこのまま巡るかもしれない。しかしそんなことはほとんど起こらない。やがて星と星との距離があいて、人は離れゆく。運が良ければまた巡りあう。そのときまで、どうかお元気で。秋空は常にそういう意識を持ちながら、他人と接している。
たとえば夕とはどこまで添えるだろう。どこまでともにまわれるだろう。いまはぴたりと重なっている公転周期が、いつ離れるのだろう。
体育すわりでテレビを見て、母と談笑を交わす夕を少し離れたところからぼんやりと見つめながら、秋空はそう思う。
夕と母との奇妙な会合がはじまったのは十一月の初めごろ、それ以来、三週連続でこうやって夜を共にしている。夕個人とも二回会った。フリーターの秋空は短期のバイトを繰り返し、金が貯まったら旅に出る、という生活をしていて、いまはじっと旅の路銀を貯めている最中だ。その日は夕とは昼食を共にしたのだ。バイト先が夕の職場に近い、という理由で秋空から誘った。夕は嫌がらずに、むしろ喜んで応じてくれた。
穏やかで静かで、こんなにも熱い人、と夕のことを思う。無口であまりしゃべらない。いつも静かに、凪いでいる印象だ。しかしそれは表面上の、見た目の話で、一度蓋をあけてしまえばするすると自分のことを語りだす。その口調には、つたないながら、熱を感じた。どうして自分は他人と同じようにうまくできないのだろう、どうして、どうして、という苛立ち、焦り、悔しさ。夕のよいところは、諦めていないところだと思った。自分にまだ見切りをつけていない。信じている。人は自分を許したとき、傲慢になる。そういう人間を秋空は何度も見てきたから、夕の気の張り方はある意味で痛々しくも感じたけれど、おおむね好意的に見ていた。
――いや、おおむねどころじゃない。この熱量をどうしたらいいのだろう。
週に一度の飲み会は、初回だけ母の部屋で、以降は秋空のアパートで開催されている。そのほうが駅に近く、スーパーやコンビニにも近く、便利だ、と母が言い出したからだ。母の部屋だと気兼ねしているふうに見えた夕だが、秋空の部屋だとくつろげるらしく、先週はついに秋空の部屋に泊まっていった。布団がひとつしかないからと、同じベッドで眠った。背を向けて眠っても、触れた肩甲骨のあたりからじわじわと伝わる熱に、ただでさえ入眠障害をかかえている秋空は、寝つけなかった。
今日も夕は泊まっていく。先ほど、風呂に入って持参した寝巻に着替えた。くつろいだ体、ボーダーのTシャツの袖口に覗いた手首の骨を見て、そこを齧る自分が容易に想像できた。手を取り、目を見あって舌を這わせてやったらどんな顔をするのだろう。噛んだら、痛い、と抵抗するだろうか。
「秋空?」と笑いながら振り向いた母と夕に、秋空ははっとした。
「私、そろそろ帰るから駅まで送って」
「はいはい」
「あ、僕も一緒に送ります」
「いいのいいの、さっきお風呂入ったでしょ、湯冷めしちゃう。秋空のベッドばーんと使ってくつろいでればいいのよ。気にしないで、また会社で会いましょう」
「……じゃあ、ここでお見送りします」
夕は申し訳なさそうにうつむいていたが、母がコートを着、ブーツを履くと顔を上げて見送りをした。表は寒く、息を吐くと白かった。よく晴れあがった夜空を見上げ、母は「もう冬が来るのねー」と精一杯大きく深呼吸した。
「次はいつどこに旅に出るの」
「……まだ決めてない、けど、このあいだ行ったWが良かったから、今度はその周辺の島々を巡りたいかな。南半球、これから夏だし」
「何か月くらい?」
「さてね」
ちらりと夕のことが頭をよぎった。いずれ星は離れる。
「年内はいるでしょ」
「多分、な」
「あなたこのあいだの誕生日でいくつになったんだっけ」
「二十三歳」
「そう、もうそんな歳なのね。――白髪が増えるわけだわ」
そこで母は急に立ち止まると、びしっと人の顔を指さして、「まあ三十歳ぐらいまでよ」と言った。
「そうやってフラフラできるの。そのうち、落ち着いちゃうから」
「そうかな。親父は?」
「あの人は、結婚しても落ち着かなかったわ」
父は、秋空が三歳のときに亡くなった。登山家で、冒険家で、写真家という肩書で、その通りの人生を生きた。一か所にとどまれる性分ではなかったのだ。秋空が大きくなったら一緒に旅に出たいといっていて、それは叶わなかった。海外の山で滑落死したのだ。
「おれもそうかもよ」と言うと、母はぷうっとわかりやすいかたちで頬を膨らませた。
駅前の大通りまで来ると、母は「ここでいい」と言った。
「早く夕くんの相手してあげて。――おやすみ」
そうしてスタスタ歩いてあっという間に見えなくなった。さすが女手ひとつ二十年もひとり息子を育ててきただけあって、怖いものはないらしい。母の台詞に少々困惑しつつも、秋空はもと来た道を戻る。
アパートまでたどり着くと、部屋はきちんと片付いていた。
「別によかったのに、片付けなんて明日で」と言うと、夕は「ひとりで手持無沙汰だったから」と答える。それからぽつぽつ話して、明日があるから、と寝ることにした。秋空がシャワーから戻ってくると部屋は薄暗く、夕はベッドの端っこに、そんなに隅に寄らなくてもいいだろうというぐらい端に詰めて横になっていた。
隣に潜り込んで、おやすみ、を言う。今夜は薬を飲んでいない。あの薬は時限爆弾を投下するようなもので、飲んでしばらくは効き目を感じないのだが、十五分、三十分と経つと猛烈な眠気を感じて、すとんと眠りに落ちてしまう。これが苦味との代償だ。
背を向けて、なかなか寝付けなかったが夕のいる夜に薬を飲むのは惜しい。一晩中起きていて構わないから夕の気配を嗅ぎ取っていたかった。
こほん、とひとつ夕は咳ばらいをした。秋空は息を吐く。「起きてる? 夕」と聞くと、ややあって「起きてる」と声がした。
「ええと、……」
夕の気持ちは、なんとなく気づいていた。自分の気持ちも、夕には明らかであると思う。
「来ないか、夕」
「……」
夕は黙っていたが、数十秒の沈黙の後に「おかしい、と、思う」とつかえながら言った。
「友達同士でも、こんな風に同じ布団で寝たり、しない。……少なくとも僕には、そういう友達は、いない」
「うん」
「僕は、……僕は、」
夕は言葉を一生懸命に探している。だが見つからない。秋空は起き上がり、ぎしりとベッドを軋ませた。
「おれだって、旅先は除くとしても、他人とベッドを共有するなんてそうあることじゃない」
語りかけながら、夕の肩にそっと触れる。
「あることじゃないんだ」
「……」
「来てよ、夕」
あくまでも、夕のほうから来てほしかった。夕が殻をやぶるところを見たいと思ったのだ。夕は顔を見せないまま起き上がり、それからゆっくりと向き合って、顔を上げた。眉根が寄って、それは眼鏡をはずした夕がものをじっくり見るときの癖だったのだが、泣きそうにも見えた。
そっと秋空の手に触れる。と、勢いよくしがみついてきた。それを秋空はしっかりと抱きとめる。
「きみが好きだ」と夕は言った。「ごめんなさい」
「なんで謝る」
「僕は、僕なんかが好きになっていい人はいないと思って生きてきた。好きになってくれる人もいないと思ってた。全部自分で完結させて生きていくんだ、……って、」
ひくりと夕の肩が跳ねた。夕のこめかみに、秋空はキスをする。夕はかたくなに秋空の肩に顔を押し当て、キスをさせてくれない。赤子をあやすようなリズムで、夕の背をたたいてやる。
星が近づいた。いまふたりは一緒に公転している。このあとはどこへ行くんだろう。――それでもいまは、と思うと、もちろん夕の体を離せるはずがなかった。
← 2
→ 4
その秋、夕は彼女に「うちにご飯食べに来なさいよ」と誘われて、終業後に彼女の家を訪ねた。はじめて行くアパートだったから土地勘がない、と言ったら、息子を駅まで迎えによこす、との返事で、夕はその日いちにち上の空だった。あの写真の主に会える、と思ったら緊張して吐き気がこみ上げた。いつもこうなのだ。ひどい人見知りで、それは警戒心の表れではなく、他人によく思われたい裏返しの姿だった。耳鳴りがひどい、けれど一目会いたい。期待と不安とで、電車の中で倒れそうだった。
息子は、名を秋空(あきたか)と言った。今日はよく晴れて空が遠かったから、たとえばこんな日に生まれたのかな、と夕は暮れゆく空を眺め、思う。しばらく駅前で待っていると、携帯電話が鳴った。知らない番号からで、しかし誰なのかすぐに分かった。出ると、電話の主は「こんばんは、宮間詩子(みやまうたこ)の息子です」と名乗った。
「――あ、秋空、さん」
『さん、いらないよ。ええと、いま駅に着いたところ。ロータリーに車停めているから、来てくれるかな?』
と、車種とカラーを告げられたが、目の悪い夕にこの時間帯はつらく、しかも車に乗らないので車にてんで詳しくないのだ。どもりながらそう告げると、秋空はさも思いつかなかったという風に「そうか」と言った。そして「じゃあ音鳴らしたらわかるか」と言い、次の瞬間背後からパン、と鋭く短いクラクションが聞こえた。
『分かった?』
「うん、後ろだった。……もう一回鳴らしてくれる?」
また、パン、と音が鳴る。今度ははっきりと車を認識できた。おずおずと近づくと、気づいた秋空がドアをわざわざ開けてくれた。「こんばんは」
「はじめまして」
「こんばんは……」
「悪いね、おふくろが巻き込んで。月に一度は必ず一緒に食事を、ってうるさいんだけど、今夜はゲストがいるって言われておれも驚いた」
「いえ、僕は別にその、……いやでは、ないので」
「よかった」
秋空は、ふっと笑った。短い髪がよく似合っている、と思った。夕はますます緊張してしまった。写真を見てはいたけれど、実物はどうしたって、魅力的だった。
詩子の部屋につくと、出汁のよい香りが漂ってきた。「今夜は鍋よ、鍋!」と詩子は腕まくりをし、張り切って調理スペースに立っていた。秋空は知った部屋をひょいっと渡ると、冷蔵庫に向かいながら「なに飲むー?」と尋ねた。
「お酒弱いんだって? まあ今夜はおれ飲まないし、送ってけるから、好きなの飲んでよ。なんでも揃ってるから」
と秋空は冷蔵庫を指した。覗き込むとビールからハイボールからチューハイからウーロン茶まで確かに揃っていた。秋空はノンアルコールビールを取り出し、プルタブを引き上げる。せっかくなので夕は度数の弱いチューハイを出してみる。いかにも甘く、女子が好みそうだった。
詩子が用意したのはもつ鍋だった。ぴりっとした辛みがアルコールの摂取を進めた。テレビのくだらないバラエティ番組をBGMに流しながら、場は和やかに過ぎた。もとより話好きな詩子に、秋空が辛辣な突っ込みを入れ、詩子が拗ねるか反論し、それを夕が笑う、という図式で、とても心地よく過ごせた。
次第に瞼の下がってきた夕を、秋空が家まで送ってくれた。酔っぱらっていてもどこかで覚醒していたのは、秋空と離れがたかったからだ。車の中で、夕は一生懸命に喋った。今日はとても楽しかったこと、日ごろから詩子にはとても世話になっていること、秋空のことは散々聞かされていたこと。秋空は「おれも聞かされてた」と酔いがさめるようなことを言った。
「み、宮間さんから?」
「そう、職場にどんくさい子がいてかわいい、って」
「……」
「女の子に生まれてたら天然とか鈍ちんとか言われながらもそこがいいとか言ってかわいがってもらえたんだろうけど、男だから、風当たりがきつくて辛そうだ、って言ってた。すぐ『僕なんか』っていうのが痛々しい、って」
そんなことを詩子は思って接していたのか、と、思わず秋空の横顔を見る。秋空も一瞬だけ目線を投げよこした。その瞳には哀れみや、侮蔑、諦め、そういうものは含まれなかった。夕を肯定する瞳だった。
「……実際会ってみて、おふくろの言ってることが分かった。ひとより少しだけ欠けが大きくて、そう、なんていうかな、あらゆる能力の値が平均に達せなくて、カバーできる特技や長所も表面上にはなくて、そういうことを気にしてもがいている、……そんな感じ」
秋空はできるだけ夕を傷つけないよう、丁寧に慎重に言葉を選んで喋ってくれているのが、よくわかった。一語一語がとても沁みるのは、秋空が夕を対等に扱ってくれているからだ。夕をばかにする人が多い中で、この親子だけはどうやら、自分を気に入ってくれているらしかった。それが不思議だ。どうして、と思っていると、秋空は「ちょっと長くなりそうだから」とコース変更して、実家より少し先にある飛行場のパーキングに車を停めた。
脇の自動販売機で温かいお茶を買ってきてくれた。自分の手には缶コーヒーが握られている。
「おれね、軽い味覚障害なんだわ」
唐突に秋空は切り出した。
「味覚障害には、理由があるんだ。夜、眠れないわけさ。どういうわけだか知らないけど、たぶん生まれつきの体質で、入眠に苦労してる。そういうとき、薬に助けを借りる。その薬がすごく苦いんだ。胆汁の分泌を促すとかで、薬自体が苦いんじゃなくて、薬を飲んだ後で口の中に苦味がこみ上げてくる。朝起きると口の中がっちゃがちゃだったりしてな。それで、水や果物とか、冷たいものが苦い。熱すぎるものも苦く感じるかな。本来の味がよくわからない」
それは、いかに自分のコンプレックスに苦しんでいるとはいえども、夕にはない経験だった。秋空はさして気にしている風でもなく、「だからさ」と続けた。
「あなたは、とりあえず今日の鍋美味しく食べただろう?」
「うん、美味しかった」
と言った後で秋空にとってはそうではなかったのかもしれないと思い、「ごめん」を付け加える。秋空は「違うちがう」と朗らかに笑ってみせた。
「ちょっと味が変に感じるだけで、おれも腹いっぱい食った。いやまあ、だからさ、ごはんが美味しく食べられるっていうのも、特技や才能や長所に入れてもいいのかもしんないよ、ってこと」
「……」
「おふくろがさ、あなたを引き合いに出しちゃあよく言うわけ。秋空、あんたはまあ早食いで表情も乏しいからごはん食べさす喜びが見いだせないけど、夕くんは違うのよ、ゆっくりゆっくり、かみしめて食べているのがわかるのよ! って」
秋空は言いながらおかしかったのか、苦笑した。
「あんなおふくろだけど、あなたのことすごく気に入っているから、しばらくかわいがられてやってよ。次回の日取り、もう決まってるんだ。来週の今日だって」
「……いいのかな、」
「いい、いい。次はおれも飲みたいな」
暗い車内で話しているのが、表情はあまりわからずとも、距離の近さにほっとした。夕はうれしかった。泣きたいぐらいだった。こんなにも肯定されて、好きにならないほうが無理な気がした。
「秋空くんは、穏やかなんだね」
そういうと、秋空は不思議そうに首を傾げた。
「僕は、早口で喋られたり、大声で話されたりするのは苦手だから、……ちょうどいい、」
「よかった」
「……」
「また来週、迎えに行くよ」
「……じゃあ僕は、手土産をなにか持っていく。なにがいいかな」
「駅ビルの地下で売ってる焼き栗、あれが美味いの知ってる?」
「し、知らない」
「じゃあそれを」
秋空は車を発進させた。今夜は淋しくない、と夕は思う。すごく楽しかったし、美味しかったし、秋空とはまた来週も会えるのだ。眠りづらいという秋空には申し訳ない気もするが、アルコールも入っている。すっと深く、心地よく眠れるだろう。
← 1
→ 3
兄がいけなかった。二卵性双生児で生まれた光一(こういち)と夕(ゆう)は、たった数時間しか生まれが違わなかったにもかかわらず、兄の光一がなにもかもをさらって持って行ってしまった。両親祖父母のよいところを結集させたのが光一で、残った寄せ集めが夕。兄とは、似る箇所などなかった。見目麗しく、冷静で公平で、水泳が得意で、屈託なく誰からも愛された兄。兄が光なら、夕はそこに出来た影だった。
おまけに思春期の多感な時期に、自分は男が好きな人間なのだと気づいてしまった時の、なんだろうか、絶望、やるせなさ、諦め。
今後誰とも添うことなく生きる人生なのだと思った。とりわけ思春期に感じた猛烈な体の飢えも、こころの淋しさも、全部自分で癒して生きる。所詮その程度の人間で、生まれ落ちただけありがたいのだ。生を与えられたことがもう素晴らしいのだ。
そう思って二十二年間生きてきた。
会社の事務部門は受付のすぐ傍に構えられており、夕はその出来の悪さゆえに、受付のパート社員にかわいがられていた。彼女には夕と同い年の息子がいて、これがまた親の心子知らずで、ひとり旅にふらっと出ては母親の肝を冷やすようなことをやらかしているのだという。けれども本人はいたって平気で、母の手を煩う。もっと甘えてほしいのに、手がかからない子というのは淋しいもの、と彼女はよく言っていた。だから夕がかわいいという。弁当ひとつ食べるにも時間のかかる夕の傍に昼休憩の際にやってきては、ジュースだのみかんだのをくれた。
「うちは早くに旦那亡くしちゃったから、母と子ふたりだけでね。でも男の子なんか生むもんじゃなかったわ。すぐ大きくなっちゃって、全然構わせてくれないの。かわいくない」
夕の向かい側でみかんを剥きながら、彼女はそう愚痴をこぼした。早くに親離れした息子は家を出て、彼女はいま、ひとり暮らしだという。いっそわたし再婚しようかなあ。でももう面倒くさいのはごめんだなあ。彼女の愚痴に、夕は上手に答えられない。
「夕くんは好きな子や彼女いないの」
そんなの、いるはずがなかった。夕が好きになっていい人はこの世に存在しないし、好きになってくれる人がいるわけがない、と思っていた。しかしそうとも答えるわけにはゆかず、夕は目を伏せる。
「あはは、いいのいいの素直に答えなくても。かわいいなあ、夕くんは。素直でいいなあ。うちの息子ったらね……」
彼女の長話は、それでも嫌いじゃなかった。夕をこんなにかわいがってくれる人はほかにいなかったから、母親がみんなこうならいいなと、ぼんやりと思っていた。
彼女のおかげで、彼女の息子についてはやたらと詳しくなっていた。誕生月は十一月で、どこの大学を卒業して、いまどこに住んでいるのか。いまどこを旅しているのか。南半球のWという島に行っていると聞いた時は、心からすごいな、と思った。夕は海外へ出たことがない。パスポートを持っていないし、持とうという意思すらなかった。家業を継がなかっただけで実家暮らしは相変わらずで、幼いころから暮らすこの街から、出たことがない。
彼女が一度、息子の写真を見せてくれたことがある。正月に息子を伴って夫の実家へ顔を出した際に、義父母がふるまう度の強い酒に、珍しく酔いつぶれた息子の写真をスマートフォンに収めたのだという。「こうしてるとかわいいんだけどね」と彼女が見せてくれた写真に写っていたのは、大きな体を毛布の上に丸めて眠る青年の姿だった。彼女の話からは想像つかなかった、幼い姿だった。とくとくと心臓が血を送り出す。うらやましいと思った。こんな風に誰かにいとおしく思われ、写真に写されること。彼女がなんのかんのと言いつつも愛情を持って息子に接しているのがわかる。
好きに旅に出て、母を心配させ、それでも愛されている。
顔を合わせたこともないのに夕の心を占めてしまった青年の、あの寝姿が、いつまでも焼き付いた。
→ 2
10月はついぞ更新が出来ずほったらかしになってしまいました。忙しすぎた……。
全5話です。お付き合いください。
サマーニットに細身のチノパン、という格好は、辰巳さんによく似合いました。しかしそれでは少しだけ寒そうでしたので、わたしの上着を貸してあげます。これはユニセックスデザインの薄手のPコートで、春先によく着ていましたが、秋でも差支えないようです。辰巳さんは驚いた風に、「意外と普通の服もあるんですね」と言いました。
「ママは、店でこそ極端に男がする女装、って感じですけど、私服は、そうしていると女性ですね」
「あら、褒められているのかしら」わたしのいまの服装は、薄手のニットに、タータンチェックの巻きスカート、厚手の靴下にヒールのないサンダルです。長い髪はラフにバレッタでまとめて、背中に流してあります。
「センスがいい。ファッション系の学校でも通ったとか?」
「高校に被服科はあったけど、あたしは普通科だったわ。興味はあったし、被服科に友達も多かったけどね。あ、モデル、そういえばやらされたわ。文化祭でファッションショー」
「へえ。なにを着た?」
「なんだかよく分からない服だったわ。ガチャガチャしてた。ひらひらしたのが着たかったのにねー」
「がちゃがちゃ、って」
辰巳さんは笑いました。ようやく見せてくれた笑顔に、ほっとします。わたしと辰巳さんは駅前まで出て、電車に乗り、三駅離れた繁華街で降りました。ランチの時間を少し過ぎていましたが、狙っていたお店では「二名様ぶんならなんとか」と仰っていただき、ランチプレートをいただくことが叶いました。
少しエスニックの入った、クリームパスタのランチでした。食べ出したら急に食欲が湧いたのか、あるいは泣いておなかが空いたのか、辰巳さんは旺盛な食欲でそれを平らげました。とても良いことです。わたしは微笑みを浮かべながら、ゆっくりとランチを楽しみます。
窓の外では、繁華街らしく人がひっきりなしに通り過ぎます。急ぎ足で行く人が多いです。みな秋物衣類でしたが晴れの日にふさわしく中には袖を捲った人やハーフパンツ姿の人もいました。辰巳さんに上着は必要なかったかもしれません。わたしもこの格好では、少し暑いと感じました。
「いい日ねえ」
そう言うと、辰巳さんは黙って頷き、お水のお代わりを頼みました。
食事はきっちりワリカンで、わたしたちは店を出ます。買い物をしたいと言ったのはもうじき弟の誕生日が近いからです。なにがいいかしらね、と辰巳さんに相談するでもなく聞いてみると、「家族仲いいんですね」と意外な方向からの返答がありました。
「そうね、いいわ。でも大変だったのよ、ここに至るまでにね。母は泣くし父は怒るし、弟は変な目つきで見てくるし。あたしがゲイだってことで、誹謗中傷もあったみたいだし。本当、あたしひとりさえいなければ、って思ったわ。あたしが存在しなければ。彼らは『まとも』だから」
あえて辰巳さんの言葉を模してつかうと、辰巳さんは濃く凛々しい眉をしかめました。
「でもなんとなかった。いま田舎の家は弟が面倒見ててくれてるの。あたしも、少しだけど仕送りしてるのよ。父は膝が悪くてね。家をバリアフリーにしたら、お金がかかって。少しでも足しになってくれたら、と思って送ってるけど、弟からは笑いながら『足りない』なんて言われるような、そんな家よ」
「……いい家族だね」
「女の格好で帰省してくるな、と言われるのよ? だからお正月だけは、男装するの」
「うん、……いい家族だよ」
辰巳さんは目を細めます。それから少し上を向いて、青空を見あげました。
「綺麗な青ね」
「ああ」
「あたし、思いは告げた方がいいと思うわ。それが叶っても叶わなくても、言わないでなかったことになるより後悔がない」
これはわたしの経験から言うのです。わたしの台詞に、辰巳さんは上を向いたまま静かに「そうかな」と言いました。
「いまならまだなかったことに、」
「ならないでしょ、キスしちゃったんだし。それよりも以前に、愛おしいと思ってしまったんだし。恋をしてしまったんだし。いいことなのよ。誰に恋したって、本当は。ちゃんとあなたの想いを伝えるべきよ。そして話しあいなさいな。いままでのこと、これからのこと、ふたりともいちばん前向きになれる方法で結論が出たら、最高じゃない?」
「……ママは前向きなんだね」
「そういう思考になるようトレーニングしてきたの。自分と長い長い対話をして。どうせ生きるなら誰よりも楽に、自分が楽しいように、フリーに生きたいじゃない? 自分勝手、というのとはちがう意味でね。――あなたは違うかしら?」
「……おれは、ある程度の責任はきちんと背負うべきだと、思う。逃げたらいけない」
「辰巳さんは、そうね、そういうところが魅力だわ」
「固い、真面目、ってよく言われるよ」
「辰巳さんの好きな人がどんな人が知らないけど、そこが好きだ、と言うと思うわ」
あ、この色いい色ね、とわたしは通りがかった店先のワゴンに目を留めます。冬もののマフラーが並んでいました。
「辰巳さんには深い赤が似合うわね。こっちのグレイも素敵だけど」
「そうかな、」
「似合うわ」
濃い赤い色のマフラーを首元に当ててあげると、辰巳さんは少しだけ照れて、身を捩りました。けれど、
「おれが赤なら、」
と、赤いマフラーの隣にあったやわらかなグリーンのマフラーを、あなたは手に取りました。
「渡部にはこれだと思う」
やさしく微笑んで、そう言いました。
数週間して、冬はもうすぐというころ、お店に鳥居さんが顔を出しました。おひとりです。「辰巳のやつ、実家継ぐって言って会社辞めたわ」と席につくなり言いました。
「ママ、辰巳となんかイイコトしたろ、」
「あら、言いがかりもいいところよ」
「だっておれ、見たもん。あいつが会社休んだ日、ママとあいつとでデートしてるところ」
「手すら握っちゃいないわよ」
「あーあ、なんだよおれだけ仲間外れで。淋し、」
と鳥居さんのつぶやきがあまりにも悲しげだったので、ああ、あなたはよっぽど可愛いがられていたのね、とわたしは嬉しくなります。
連城辰巳くん。わたしがかつて大好きだった男の子。
偶然とはいえ、あなたがわたしを頼ってくれたこと、嬉しく思います。最後にわたしに買ってくれたマフラーを、わたしは死ぬまで離さないでしょう。
あなたはあの後、どうしたでしょうか。意中の彼と思いを遂げたでしょうか。実家へ帰ったということは、結局言わなかったのでしょうか。
それは分かりません。あれきりあなたは姿を見せませんでした。
ですがわたしのことを覚えていてくれた、気持ち悪がらないでくれた、渡部、と呼んでくれた、様々な幸福をあなたはわたしにくれたから、わたしは祈ります。あなたの幸福を、前途を。どうかどうかとすがる気持ちではなく、ゆったりとしたあの微笑みに返すような、ふくらみのある感情で思います。
もうじき冬が来ます。わたしたちの田舎はとても冬が深いので、都会暮らしに馴れたあなたは、凍えるかもしれません。それを温める誰かが、あなたがいちばん望む誰かであるようにと、祈ります。
「ね、鳥居さん。今夜は一杯おごるから、辰巳さんのお話しましょ。好きな人とどうなったかしらねえ?」
「知らねえよ。なんだよ気になるのかよ、ママ」
「鳥居さんの恋のお話でもいいのよ」
「最近は大人しくしてるぜ、おれ。ママの方こそ、どうなんだよ」
「ふふ、どうかしらね」
ただ、祈ります。
End.
← 5
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
| 05 | 2026/06 | 07 |
| S | M | T | W | T | F | S |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | |
| 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
| 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
| 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 |
| 28 | 29 | 30 |
