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私と漠さんは、よく一緒に散歩に出る。え? 犬ならともかく、猫が一緒に散歩するだなんて聞かない? それは猫それぞれでしょ。とにかく私は、漠さんがふらっと外に出ると後を追っていくのよ。
ここは山がすぐそこに迫った、小さな集落よ。柚子が名産で、あちこちの畑や家の軒先に木が植えられているの。ひとりと一匹でうらうら歩いていると、向こうの道端で手招きする影があった。漠さんも私も目がいいから、それが誰なのかすぐに分かった。人影はここに住んでもう五十年になるという、エキさんだった。
「エキばあちゃん」
「今朝はよく冷えたなァ」
おいで、おいで、とエキさんは家に寄るよういう。古い家は丈夫で、エキさんがお嫁に来たときから変わらないという。私と漠さんは顔を見合わせる。「ちょっとだけ」と、漠さんは顔をくしゃっと笑顔に変えた。
エキさんは私のことを「美人さん」という。私もまんざらではない。エキさんの家では猫を飼っていないけれど、私がやって来たとき用の猫缶が、この家にはちゃんと揃っている。
こたつにあたらせてもらいながら漠さんは、「この間のりんごと、野沢菜の漬物、美味しかったです」とエキさんにお礼を言った。エキさんの長女はNの農家に嫁いだ。その季節で採れたNの特産を送って寄越す。漠さんはそれをおすそ分けしてもらったのだ。
「なァにな、ひとりじゃ食いきれんでェ。今日あんたをあげたのは、ほれ、餅食わせっと思ってな。こないだ話したろ、今年は餅を早くついた、って。今年は次男の家でお年取りだからな、年末に餅をついてる暇がねェからよ、時期早くしたんだ」
「息子さんは、Tでしたっけ」
「そォさァ。あんた、帰省は?」
「うーん、いまちょっと締め切りがキリキリで、」
「そうは見えねェなァ」
エキさんは笑う。私はあくびをした。そうね、猫とのんびり散歩してるぐらいだものね。
ひとしきりおしゃべりを楽しんでから、エキさんは餅を煮てくれた。この辺りは丸餅をみそ仕立てのお汁に入れて食べるのが一般的だけど、漠さんの故郷は違うそうだ。はじめこそ食べ方の違いに驚いていた漠さんだが、エキさんの手料理をなんべんも食べてきて、いまじゃ「これがおふくろの味だな」だなんて言うぐらい。
エキさんが、「最近の仕事はどうだ?」と訊いた。
「たまーにレンタカーが停まってんじゃねェか。ありゃ東京から来んのかい?」
「うん、そう。特急で来て、駅で車を借りて、来てくれるんです。……おれが人混み恐怖症で、人の多いところには出られない、ってわかってるから、わざわざ。ありがたいですよね」
「そりゃあんたの絵がいいからさァ」
エキさんの率直な言葉に、漠さんは複雑な表情を浮かべた。
「でも、もうじき来なくなりますよ。いまの仕事、この締め切りが明けたらようやく完了するんです。あとは細々としたことが残るけど、わざわざ足運んでもらわなくてもいいわけで。……静かになります」
「そうかい。でもさ、縁ってのはまた巡ってくもんだから、あんたの周りはなかなか静かにならんじゃないかと、思うんだけどね」
「そうかな」
「んな若いうちからあきらめたような顔せんでいいって話さ」
エキさんの意見に同意だったので、私も鳴いたわ。エキさんは缶詰のお代わりの催促だと勘違いしたみたいだったけど、漠さんは「そっか」と私の頭を撫でてくれた。
漠さんの淋しさは、私もよく分かってる。
淋しくなければきっと、私みたいな猫なんかかわいがらないでしょう。漠さんは対人恐怖症の気があるけれど、本当は誰かに寄り添ってみたい、寄り添われたい、って思ってる。でもそれは自分には向かない話だって諦めてもいる。絵を描くことで我を忘れたいの。
エキさんは五人子どもを産んだ。エキさんの時代だったらお嫁に行ったり婿に行ったりして、みんな家庭を持つことが当たり前だったかもしれないけれど、エキさんのいちばん上の息子さんといちばん下の娘さんはまだ独身だって聞いた。「無理して嫁婿行かんでもいいか、って気になったのは、最近だなァ」ってエキさん笑ってた。時代は変わる。在り方は変化するのよ。
エキさんからたくさんお餅を持たされて、私たちは来た道を戻る。いい天気だった。でもちょっと足が冷たいわ。早くおうちに帰ってストーブの前でぬくぬく眠りたい。
帰宅したら、留守電が入っていた。いまどきなら携帯電話で済ます人が多いけれど、漠さんは携帯を持たず、固定電話で連絡を取りあうの。おじいさんの代で引いた電話回線を、そのままつかっているんですって。ちかちか光るランプを見て、漠さんは電話機の操作をはじめた。さあっと顔色が変わる。そして大慌てで電話をかけなおした。
「――あっ、芦崎(あしざき)です。芦崎漠です」
『あーすみませんね、……』
電話は、当然ながら相手の喋っていることはよく聞こえなかったわ。でも漠さんが喋っている相手が、漠さんの緊張ぶりから、「深山くん」だってことは分かった。しばらく喋ったあと、電話は切れた。家の中を無音が支配する。
漠さんは電話機の前から動かなかったけれど、やがて私の方をゆっくり振り返った。
「――深山くんが、この締め切りが明けたら打ち上げしましょう、って」
〈よかったじゃない。嬉しいのね?〉
「人混みに出るのは緊張する、と言ったら、お、おれの、おれの家に来てくれるって。泊まっていくみたい――どうしよう、つっちゃん、」
〈落ち着きなさい。深呼吸するの、いい?〉
「ま、まずは締め切り――そうだ、締め切り片付けなきゃ……ああどうしよう、おれ、嬉しくて飛んでっちゃいそうだ」
漠さんはどもりながらも、とても嬉しそうだった。
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よく喋る同居人・漠(ばく)さんのおかげで、私までよく喋るようになってしまった。だって話しかけられたら、なにか答えてあげなきゃ、って思うじゃない。漠さんは普段は物静かで大人しいけど、私に対してはすごくおしゃべりになる。それも、から回った思考をしていることが多いから、やれやれ、って私が訂正してあげるのよ。これが不思議なことに、結構通じるの。
生まれた年は、もちろん漠さんの方がずっと上。早生まれでね、来年の二月で三十歳になるの。私と暮らし始めて五年だわ。
私、拾われたの。捨てられたから。十一月末のよく冷え込んだ夜、雑木林の脇にきょうだいたちと段ボール箱に入れられて、捨てられた。生まれたばかりで、まだ目もあいてなかったの。必死でお母さんを呼んだけどお母さんは来ない。きょうだいたちの身体はそのうちどんどんつめたくなっていった。すごく寒かった。そこに二晩いたの。五匹いたきょうだいは私を残してみんな死んだ。
漠さんの車が通りかかったのは偶然だった。漠さんは画家でありイラストレーターであり、とりわけ植物の細密画を描くことを生業としていた。漠さんはちょっとでも時間が出来るとすぐその辺の森や林に入って、スケッチなぞしながら、気に入った植物を収集する。それを持ち帰って色鮮やかな細密画を描くのだ。その朝も家から三十分の距離にある雑木林に向かって、散策を開始しようとした矢先に私たちの段ボールを見つけたのね。漠さんの指が私を探ったとき、私、みゃあああ、って声をあげた。漠さんはにっこりと微笑んで、「あったかいね」と言ったわ。
「どうやら生きてるのはお前さんだけみたいだね、運がいいやつだ。……こんな冷え込む時期に雑木林に捨てるなんて、」
漠さんは怒りをあらわにしたけれど、すぐに表情を戻して、車の中を漁り始めた。新品のタオルを積んであったらしく、それで私の体を包んで、シャツのボタンをみっつはずして、その温かいおなかに私を入れてくれた。それからきょうだいの段ボールも車に積み込む。漠さんのおなかの温かさにまどろみながら、私は漠さんの家までやって来た。
漠さんはひとり暮らしだった。高名な日本画家だったおじいさんが死んで、漠さんは辺鄙な土地にあるちいさな一軒家をもらえたの。おじいさんが夏場の別荘としてつかっていた家で、人とかかわりを好まない変わった孫にはこれがいいだろう、と生前から思っていたみたい。相続に困らぬように弁護士を立てて遺言を残してくれていた。いちばん近い街まで車で一時間半もかかるような土地にあったけれど、漠さんは喜んでこの家に来たそうよ。それが夏のことで、これからはじめての冬を迎える、っていうタイミングで私が来たわけ。
漠さんは懸命に私の世話をしてくれた。それから死んでしまったきょうだいたちを、庭の椿の木の下に埋めてくれた。いまでもそこには石が積んであるわ。私、たまにそこに行く。夏場はそこがいちばん涼しいの。
漠さんは私に名前を付けた。私、「月」っていうの。ちょうど胸元に三日月みたいな模様があるし、漠さんが言うには、「漠と月とで、『月の沙漠』だ」って。漠さんその歌をたまにお風呂で歌ってる。だから私その歌を覚えたわ。
普段は「つっちゃん」って呼ばれているから、自分の名前が「月」だってこと、あんまり意識したことないわ。でもたとえば秋の縁側で漠さんが「お月見」って言って慣れないお酒飲んでるときに、膝の上に行くと、漠さん「やあ、おれの膝にも月がのぼった」だなんて言って、私は自分の名前を思い出す。漠さんの、お酒に酔って真っ赤になった顔を私は見上げる。「つっちゃん、目がまんまるでお月さんみたい。綺麗だね」って、漠さんがあの歌をうたいだすの。
漠さんの仕事場だけは立ち入り禁止なの。私が入ると、毛が飛んで濡れた筆の穂先についたり、まだ乾いていない作品についたりするから、とか、作品の上で爪とぎするから、とか、絵筆をかじるから、とか、色々と理由があるわ。そりゃあちょっと好奇心旺盛なのは認めるわ。絵筆の、あのぼわっとした先っぽ見てるとむずむずするのよ。手でころころって転がしてみたらたまらなくなっちゃったの。ま、そんなわけで過去に一度か二度、激しくやらかして、私は漠さんの仕事場には入れなくなっちゃった。
漠さん、仕事中は無音で過ごしたいみたい。車の中じゃラジオ流してるけど、仕事のときはなんにもつけない。漠さんの仕事姿は見たことないわ。漠さんだって、私が野山を駆け回っているときの姿は知らないはずよ。
少し前から、悔しいことができた。スーツ姿の若い男が、漠さんの仕事場に出入りするようになったの。私のことは「だめ」っていうのに、その男ならいいのよ。私が猫だからだめで、男が人間だからいいのかしら。だとしたらなんだか不条理だわ。
スーツ男は、でも、サラリーマン、っていうわけでもないみたい。テレビでよく見かけるスーツ男たちよりも、ちょっとラフっていうか、軽めのスタイルで来るわ。私服に近い感じ。何者なのかしらね?
男が来るようになったのはちょうど一年ぐらい前から。二週間から一か月にいっぺんおきぐらいに来るの。その日も来て、男は「もうすぐですね、楽しみです」と言って、去っていったわ。男を玄関先で見送ったあと、私とうとうしびれを切らして聞いてみたのよ。あいつ誰なのよ、ふたりでなにしてるの、って。
びっくりしたことに漠さんそのまま玄関にうずくまるの。心配になって、頭を脛にこすりつけても漠さん動かないの。動かないっていうか、それで呻いたりなんかするのよ。
〈どうしたの? 具合が悪いの?〉
「あー、だめだ、もう、おれはだめだ」
そうしたら漠さん、苦しそうに目を閉じた。息をふーっと長く吐いて、ごろん、って玄関の廊下に体を投げ出したわ。私は漠さんの顔のところに行って、また聞いてみたの。なにがだめなの、って。
「つっちゃん」
〈なあに?〉
「深山くんのことどう思う?」
ミヤマくん、というのが誰のことなのか知らなかったけど、すぐにピンと来た。あのスーツ男ね。
「あの人ね、東京の画廊の人なんだよ。こんな辺鄙なところにわざわざ東京から、来てくれるんだよ」
〈どうして?〉
「今度、画集を出してもらえるんだ。美術書ばっかり扱うちいさな出版社からだよ。それに合わせて、その画廊で個展もひらく。彼はおれの担当で、作品の進行具合の確認とか、個展や画集の打ち合わせで、来るんだよ。……深山くんは、それだけなんだよな」
漠さんはつめたい廊下からようやく体を起こした。胡坐をかくと、私をわきの下から掴んで抱きあげた。
「あの人は、それだけ。ちょっと変なところに住んでるおれに興味はあるみたいだけど、それはおれの環境やおれの絵に対してで、おれ自身には興味なんかない」
〈そうなの? そう言われたの?〉
「おれ、……あの人が好きだ」
ぎゅうっと漠さんの腕に強く抱きしめられて、私は呻いた。漠さんの心臓の音がとことこ走っているのが聞こえて、それは心地よかったけど、力が強かったから、離して、と言ったの。手を突っ張らせていると、漠さんは私を放してくれたわ。「ちえ、つっちゃんもおれがいやか」と言う。だからそれ、言われたの? 私は言ってないわよ。
〈ねえ、美味しいものを食べたら元気が出るわよ〉
「はいはい、ごはんの催促だな」
〈私じゃなくて、漠さんのごはんよ。昨日、買い物に出て鶏肉を買ってきたでしょう? あれ美味しいから私、好きよ。鶏肉でごはん炊いたらいいわよ〉
「今夜は冷えるから、牛乳あっためてやるな」
〈私の話を聞いてってば!〉
「あーあ」
その夜、漠さんはごはんを食べる気がしない、と言って、私にごはんだけ用意すると、さっさと布団に潜っちゃった。なかなか寝付けなかったみたいだけどね。
恋の病ね。
→ 2
全6回です。お付き合いください。
生まれた年は、もちろん漠さんの方がずっと上。早生まれでね、来年の二月で三十歳になるの。私と暮らし始めて五年だわ。
私、拾われたの。捨てられたから。十一月末のよく冷え込んだ夜、雑木林の脇にきょうだいたちと段ボール箱に入れられて、捨てられた。生まれたばかりで、まだ目もあいてなかったの。必死でお母さんを呼んだけどお母さんは来ない。きょうだいたちの身体はそのうちどんどんつめたくなっていった。すごく寒かった。そこに二晩いたの。五匹いたきょうだいは私を残してみんな死んだ。
漠さんの車が通りかかったのは偶然だった。漠さんは画家でありイラストレーターであり、とりわけ植物の細密画を描くことを生業としていた。漠さんはちょっとでも時間が出来るとすぐその辺の森や林に入って、スケッチなぞしながら、気に入った植物を収集する。それを持ち帰って色鮮やかな細密画を描くのだ。その朝も家から三十分の距離にある雑木林に向かって、散策を開始しようとした矢先に私たちの段ボールを見つけたのね。漠さんの指が私を探ったとき、私、みゃあああ、って声をあげた。漠さんはにっこりと微笑んで、「あったかいね」と言ったわ。
「どうやら生きてるのはお前さんだけみたいだね、運がいいやつだ。……こんな冷え込む時期に雑木林に捨てるなんて、」
漠さんは怒りをあらわにしたけれど、すぐに表情を戻して、車の中を漁り始めた。新品のタオルを積んであったらしく、それで私の体を包んで、シャツのボタンをみっつはずして、その温かいおなかに私を入れてくれた。それからきょうだいの段ボールも車に積み込む。漠さんのおなかの温かさにまどろみながら、私は漠さんの家までやって来た。
漠さんはひとり暮らしだった。高名な日本画家だったおじいさんが死んで、漠さんは辺鄙な土地にあるちいさな一軒家をもらえたの。おじいさんが夏場の別荘としてつかっていた家で、人とかかわりを好まない変わった孫にはこれがいいだろう、と生前から思っていたみたい。相続に困らぬように弁護士を立てて遺言を残してくれていた。いちばん近い街まで車で一時間半もかかるような土地にあったけれど、漠さんは喜んでこの家に来たそうよ。それが夏のことで、これからはじめての冬を迎える、っていうタイミングで私が来たわけ。
漠さんは懸命に私の世話をしてくれた。それから死んでしまったきょうだいたちを、庭の椿の木の下に埋めてくれた。いまでもそこには石が積んであるわ。私、たまにそこに行く。夏場はそこがいちばん涼しいの。
漠さんは私に名前を付けた。私、「月」っていうの。ちょうど胸元に三日月みたいな模様があるし、漠さんが言うには、「漠と月とで、『月の沙漠』だ」って。漠さんその歌をたまにお風呂で歌ってる。だから私その歌を覚えたわ。
普段は「つっちゃん」って呼ばれているから、自分の名前が「月」だってこと、あんまり意識したことないわ。でもたとえば秋の縁側で漠さんが「お月見」って言って慣れないお酒飲んでるときに、膝の上に行くと、漠さん「やあ、おれの膝にも月がのぼった」だなんて言って、私は自分の名前を思い出す。漠さんの、お酒に酔って真っ赤になった顔を私は見上げる。「つっちゃん、目がまんまるでお月さんみたい。綺麗だね」って、漠さんがあの歌をうたいだすの。
漠さんの仕事場だけは立ち入り禁止なの。私が入ると、毛が飛んで濡れた筆の穂先についたり、まだ乾いていない作品についたりするから、とか、作品の上で爪とぎするから、とか、絵筆をかじるから、とか、色々と理由があるわ。そりゃあちょっと好奇心旺盛なのは認めるわ。絵筆の、あのぼわっとした先っぽ見てるとむずむずするのよ。手でころころって転がしてみたらたまらなくなっちゃったの。ま、そんなわけで過去に一度か二度、激しくやらかして、私は漠さんの仕事場には入れなくなっちゃった。
漠さん、仕事中は無音で過ごしたいみたい。車の中じゃラジオ流してるけど、仕事のときはなんにもつけない。漠さんの仕事姿は見たことないわ。漠さんだって、私が野山を駆け回っているときの姿は知らないはずよ。
少し前から、悔しいことができた。スーツ姿の若い男が、漠さんの仕事場に出入りするようになったの。私のことは「だめ」っていうのに、その男ならいいのよ。私が猫だからだめで、男が人間だからいいのかしら。だとしたらなんだか不条理だわ。
スーツ男は、でも、サラリーマン、っていうわけでもないみたい。テレビでよく見かけるスーツ男たちよりも、ちょっとラフっていうか、軽めのスタイルで来るわ。私服に近い感じ。何者なのかしらね?
男が来るようになったのはちょうど一年ぐらい前から。二週間から一か月にいっぺんおきぐらいに来るの。その日も来て、男は「もうすぐですね、楽しみです」と言って、去っていったわ。男を玄関先で見送ったあと、私とうとうしびれを切らして聞いてみたのよ。あいつ誰なのよ、ふたりでなにしてるの、って。
びっくりしたことに漠さんそのまま玄関にうずくまるの。心配になって、頭を脛にこすりつけても漠さん動かないの。動かないっていうか、それで呻いたりなんかするのよ。
〈どうしたの? 具合が悪いの?〉
「あー、だめだ、もう、おれはだめだ」
そうしたら漠さん、苦しそうに目を閉じた。息をふーっと長く吐いて、ごろん、って玄関の廊下に体を投げ出したわ。私は漠さんの顔のところに行って、また聞いてみたの。なにがだめなの、って。
「つっちゃん」
〈なあに?〉
「深山くんのことどう思う?」
ミヤマくん、というのが誰のことなのか知らなかったけど、すぐにピンと来た。あのスーツ男ね。
「あの人ね、東京の画廊の人なんだよ。こんな辺鄙なところにわざわざ東京から、来てくれるんだよ」
〈どうして?〉
「今度、画集を出してもらえるんだ。美術書ばっかり扱うちいさな出版社からだよ。それに合わせて、その画廊で個展もひらく。彼はおれの担当で、作品の進行具合の確認とか、個展や画集の打ち合わせで、来るんだよ。……深山くんは、それだけなんだよな」
漠さんはつめたい廊下からようやく体を起こした。胡坐をかくと、私をわきの下から掴んで抱きあげた。
「あの人は、それだけ。ちょっと変なところに住んでるおれに興味はあるみたいだけど、それはおれの環境やおれの絵に対してで、おれ自身には興味なんかない」
〈そうなの? そう言われたの?〉
「おれ、……あの人が好きだ」
ぎゅうっと漠さんの腕に強く抱きしめられて、私は呻いた。漠さんの心臓の音がとことこ走っているのが聞こえて、それは心地よかったけど、力が強かったから、離して、と言ったの。手を突っ張らせていると、漠さんは私を放してくれたわ。「ちえ、つっちゃんもおれがいやか」と言う。だからそれ、言われたの? 私は言ってないわよ。
〈ねえ、美味しいものを食べたら元気が出るわよ〉
「はいはい、ごはんの催促だな」
〈私じゃなくて、漠さんのごはんよ。昨日、買い物に出て鶏肉を買ってきたでしょう? あれ美味しいから私、好きよ。鶏肉でごはん炊いたらいいわよ〉
「今夜は冷えるから、牛乳あっためてやるな」
〈私の話を聞いてってば!〉
「あーあ」
その夜、漠さんはごはんを食べる気がしない、と言って、私にごはんだけ用意すると、さっさと布団に潜っちゃった。なかなか寝付けなかったみたいだけどね。
恋の病ね。
→ 2
全6回です。お付き合いください。
◇
披露宴は十二時半からだった。親族のみで挙式を行ってから、友人知人らを招いた披露宴だという。温の家で温の礼服に着替えた後は、自宅に戻り、すぐ自分の車で家を出た。市街へ出るのにわざと遠回りをして、高速道路を無駄に走った。
三年ほど前、しふみが自動車の免許を取ってすぐのころ、「運転の練習だ」と言って温とよくドライブをした。怖がりのシホは断固行かないと言ったが、無理やり乗せたこともある。あのころはまだ車も古かったから、加速の度に唸るエンジン音が尻の下から響いた。
いろんなところへ行ったが、よく覚えているのは、ある夜間のドライブだ。高速道路を跨ぐようにして新幹線の線路が渡っており、タイミング良く、暗闇を割いて一列に並んだ光がすうっと駆けた。空の上からなら、地上を流れ星が走ったように見えたかもしれない。猛スピードでそれは視界から消えたが、残像が焼き付いた。隣に座っていた温は新幹線の名前を口にして、「あんなに早いんだな」とこぼした。
「一瞬だった」
「なんかさ、ちょっと色々考えちゃうな。地球の一生にすれば、おれたちが生きているのなんか、さっきの新幹線よりもっと早く消えてく光、なんだよな。一瞬も一瞬。こんなに必死で、働いたり、眠ったり、恋したりなんか、してるのにな」
「……今夜は語るね、温ちゃん」好きな人がいるのか、とは怖くて聞けなかった。
「いや、今日は星も綺麗に見えてるからさ。……壮大な宇宙にちっぽけな自分、てのを思ったりしてるんだ。笑うなよ」
「笑わないよ。シホなら鼻で笑いそうだけど」
しばらく沈黙が出来た。しふみは運転に集中しつつ、口をひらく。
「一瞬の出来事だって言うなら、おれたちがすることに意味はあるのかな……」
しふみの胸中に浮かんでいたのだ、温への恋心だった。叶わず報われもせず、いつだってむなしい気持ちでいるこの恋を、続けていていいのか。恋は自分の意志でどうこうできるものではないがしかし、もういい加減につらかった。温とのいまのこの時間だって、しふみの胸は塞いで苦しく、時折つかえる。
温はしばらく唸って、「意味ってのは、ないかもな」と答えた。
「意味なんてものは、どんな生き物にだってない気がする。探れば探るほど、雲を掴むような話に思えてくる。……ただ、いま瞬いている星は綺麗だろ。夜景の光もさ。さっき流れた新幹線の光も、目を奪われた。なんか、そういうことでいいんだと、おれは思う」
「……いまを生きているだけでいいんだ、的な?」声が少しふるえた。
「視点を変えれば、いまおまえが走らせているこの車のライトだって、誰かにとっての星なのかもな」
そのときしふみは、この恋をしてよかったのだと思った。この人を好きになってよかった。これ以上の喜びはもうないのだ、と悟った。鼻がつんと痛んで涙を予感させたが、こらえた。
そのときのことを思い出しながら、高速道路を走らせて、戻り、式場に向かった。
◇
元はシホの座席だったので、温とシホの同級が集まるテーブルにしふみは着いた。「シホの弟?」「シホには似てねえなあ」などとからかわれながらも、あまり口数の多い性分ではないのでうまく受け答えられず、やがて彼らはお互いの思い出話に没頭し始めた。話題の矛先が自分からずれてほっとした。料理はどれも凝った味付けで美味しかったが、給仕がせわしく、落ち着いて食べられはしなかった。
偉い人のスピーチ、友人からのビデオレター、衣装替え。ウエディングケーキ入刀と余興の歌。カメラを向ける人々、スポットライトに照らされた温と花嫁の姿。時間は瞬く間に過ぎてゆき、最後に温の父親がスピーチし、温自身が挨拶をして、酒宴はおひらきになった。最後の挨拶で温は、「まだまだ未熟な私どもではありますが、これからは夫あるいは妻として、そして一社会人として、幸福で温かな家庭を築いてまいります」と言った。そうか、温は人の夫になったのだな、とそのときはじめて実感した。不思議なもので、涙は出なかった。
新郎新婦の両親そして新しい夫婦に見送られて、式場を出る。帰り際に温はしふみを見てにやりと笑い、「クリーニングして返せよ」と礼服の胸をとんと指した。その一点の突きで、心臓をふかく刺されたような気になり、しふみは子どもみたいな態度でぷいっとその場を去った。宴の終わりは始まりと地続きで、温にとってあたらしい人生のスタートだ。温の隣で慎ましやかに微笑んでいた花嫁は温の家に引っ越してくる。シホもしふみも暮らすあの静かな街で、徒歩五分の距離で、しかし温自身の生活は変化する。
温の両親がにこにこしていたこともまた、いまこの瞬間が門出であることを示していた。幼いころから知っている顔なのに、おじさんもおばさんも知らない表情で笑っていた。しふみは茫然と会場を後にして、駐車場に向かう。と、そこでシホからメールが届いていたことに気付いた。
腹痛の治まったシホは、バスと電車をつかって近くまで来ているようだった。駅前のカフェにいる旨が書かれていたので、そこまで迎えに行った。一緒に、無言のままカフェで一時を過ごし、暗くなり始めたころ、車に乗り込んで家へと向かう。
「車の運転、うまくなったね」
ふと、シホが言った。
「おせっかいな誰かのおかげでな」
「私が免許取った時も、そういえば温はドライブに付き合ってくれたわ。そのうち私は完ぺきなペーパードライバーになっちゃったけど」
「今日、やつは幸せそうだったよ」
「うん。さっきメール来た」
「え、温ちゃんから?」
「そう。……『おまえたち姉弟はどうにもこうにも不器用そうだから、おれが先に上手くやっとくよ、安心して前進め』だって」
自信満々にそう言ってのける温の姿が思い浮かんだ。温には姉弟の気持ちがお見通しだったのだろう。恋を上手に伝えられない姉弟を、温はこんな日でもちゃんと、気にかけてくれている。
踏切で車は停まる。目の前をがたんがたんと電車が通り過ぎた。各停のゆっくりした電車で、乗客の姿が確認できた。扉にもたれて本を読む人、音楽を聴く人、寝こけている人。すっかり暗くなっていた辺りを照らして、列車は進む。
とてつもなく壮大な時の流れの、たった一瞬を生きている自分。隣に座る姉。温の家のにおいのする礼服。
夜を駆け抜ける電車の、幾束にもなる光の筋。
いま自分が放っているはずの光のこと。
「おれ、家を出てひとり暮らししてみようかな」
思い付きを音声にしてみると、それは鼓膜を伝って逆流し、心の中に打ち響いた。この街まで出なくてもいい。無理にひとりにならなくていい。けれどしふみもなにかあたらしい状況に身を置いてみたくなった。
「いいんじゃない?」シホが頷く。
「シホは?」
「私はしばらく、この街で、あの家かな。――あっという間だよ、きっと」
「ん?」
隣のシホを振り向く。
「力を溜めて、溜めるだけ溜めたら、弦から放れた矢みたいに、すごい速さで走れるから。光の速さだよ」
「……」
「私たちは確かに、不器用よ。だけど若い、若いんだ。ものごとを振り返るのはもうちょっと先でいい。――これも温の受け売り」
「あいつはいったい、おれたちのなんなんだろうな」
「そうね、……本当に」
そう言って微笑んだ姉もまた、「この街、あの家」で、力を溜めていくのだろう。
遮断機のバーが上がり、車が動き始める。しふみもギアを入れ替えて、丁寧に車を発進させた。
End.
← 前編
披露宴は十二時半からだった。親族のみで挙式を行ってから、友人知人らを招いた披露宴だという。温の家で温の礼服に着替えた後は、自宅に戻り、すぐ自分の車で家を出た。市街へ出るのにわざと遠回りをして、高速道路を無駄に走った。
三年ほど前、しふみが自動車の免許を取ってすぐのころ、「運転の練習だ」と言って温とよくドライブをした。怖がりのシホは断固行かないと言ったが、無理やり乗せたこともある。あのころはまだ車も古かったから、加速の度に唸るエンジン音が尻の下から響いた。
いろんなところへ行ったが、よく覚えているのは、ある夜間のドライブだ。高速道路を跨ぐようにして新幹線の線路が渡っており、タイミング良く、暗闇を割いて一列に並んだ光がすうっと駆けた。空の上からなら、地上を流れ星が走ったように見えたかもしれない。猛スピードでそれは視界から消えたが、残像が焼き付いた。隣に座っていた温は新幹線の名前を口にして、「あんなに早いんだな」とこぼした。
「一瞬だった」
「なんかさ、ちょっと色々考えちゃうな。地球の一生にすれば、おれたちが生きているのなんか、さっきの新幹線よりもっと早く消えてく光、なんだよな。一瞬も一瞬。こんなに必死で、働いたり、眠ったり、恋したりなんか、してるのにな」
「……今夜は語るね、温ちゃん」好きな人がいるのか、とは怖くて聞けなかった。
「いや、今日は星も綺麗に見えてるからさ。……壮大な宇宙にちっぽけな自分、てのを思ったりしてるんだ。笑うなよ」
「笑わないよ。シホなら鼻で笑いそうだけど」
しばらく沈黙が出来た。しふみは運転に集中しつつ、口をひらく。
「一瞬の出来事だって言うなら、おれたちがすることに意味はあるのかな……」
しふみの胸中に浮かんでいたのだ、温への恋心だった。叶わず報われもせず、いつだってむなしい気持ちでいるこの恋を、続けていていいのか。恋は自分の意志でどうこうできるものではないがしかし、もういい加減につらかった。温とのいまのこの時間だって、しふみの胸は塞いで苦しく、時折つかえる。
温はしばらく唸って、「意味ってのは、ないかもな」と答えた。
「意味なんてものは、どんな生き物にだってない気がする。探れば探るほど、雲を掴むような話に思えてくる。……ただ、いま瞬いている星は綺麗だろ。夜景の光もさ。さっき流れた新幹線の光も、目を奪われた。なんか、そういうことでいいんだと、おれは思う」
「……いまを生きているだけでいいんだ、的な?」声が少しふるえた。
「視点を変えれば、いまおまえが走らせているこの車のライトだって、誰かにとっての星なのかもな」
そのときしふみは、この恋をしてよかったのだと思った。この人を好きになってよかった。これ以上の喜びはもうないのだ、と悟った。鼻がつんと痛んで涙を予感させたが、こらえた。
そのときのことを思い出しながら、高速道路を走らせて、戻り、式場に向かった。
◇
元はシホの座席だったので、温とシホの同級が集まるテーブルにしふみは着いた。「シホの弟?」「シホには似てねえなあ」などとからかわれながらも、あまり口数の多い性分ではないのでうまく受け答えられず、やがて彼らはお互いの思い出話に没頭し始めた。話題の矛先が自分からずれてほっとした。料理はどれも凝った味付けで美味しかったが、給仕がせわしく、落ち着いて食べられはしなかった。
偉い人のスピーチ、友人からのビデオレター、衣装替え。ウエディングケーキ入刀と余興の歌。カメラを向ける人々、スポットライトに照らされた温と花嫁の姿。時間は瞬く間に過ぎてゆき、最後に温の父親がスピーチし、温自身が挨拶をして、酒宴はおひらきになった。最後の挨拶で温は、「まだまだ未熟な私どもではありますが、これからは夫あるいは妻として、そして一社会人として、幸福で温かな家庭を築いてまいります」と言った。そうか、温は人の夫になったのだな、とそのときはじめて実感した。不思議なもので、涙は出なかった。
新郎新婦の両親そして新しい夫婦に見送られて、式場を出る。帰り際に温はしふみを見てにやりと笑い、「クリーニングして返せよ」と礼服の胸をとんと指した。その一点の突きで、心臓をふかく刺されたような気になり、しふみは子どもみたいな態度でぷいっとその場を去った。宴の終わりは始まりと地続きで、温にとってあたらしい人生のスタートだ。温の隣で慎ましやかに微笑んでいた花嫁は温の家に引っ越してくる。シホもしふみも暮らすあの静かな街で、徒歩五分の距離で、しかし温自身の生活は変化する。
温の両親がにこにこしていたこともまた、いまこの瞬間が門出であることを示していた。幼いころから知っている顔なのに、おじさんもおばさんも知らない表情で笑っていた。しふみは茫然と会場を後にして、駐車場に向かう。と、そこでシホからメールが届いていたことに気付いた。
腹痛の治まったシホは、バスと電車をつかって近くまで来ているようだった。駅前のカフェにいる旨が書かれていたので、そこまで迎えに行った。一緒に、無言のままカフェで一時を過ごし、暗くなり始めたころ、車に乗り込んで家へと向かう。
「車の運転、うまくなったね」
ふと、シホが言った。
「おせっかいな誰かのおかげでな」
「私が免許取った時も、そういえば温はドライブに付き合ってくれたわ。そのうち私は完ぺきなペーパードライバーになっちゃったけど」
「今日、やつは幸せそうだったよ」
「うん。さっきメール来た」
「え、温ちゃんから?」
「そう。……『おまえたち姉弟はどうにもこうにも不器用そうだから、おれが先に上手くやっとくよ、安心して前進め』だって」
自信満々にそう言ってのける温の姿が思い浮かんだ。温には姉弟の気持ちがお見通しだったのだろう。恋を上手に伝えられない姉弟を、温はこんな日でもちゃんと、気にかけてくれている。
踏切で車は停まる。目の前をがたんがたんと電車が通り過ぎた。各停のゆっくりした電車で、乗客の姿が確認できた。扉にもたれて本を読む人、音楽を聴く人、寝こけている人。すっかり暗くなっていた辺りを照らして、列車は進む。
とてつもなく壮大な時の流れの、たった一瞬を生きている自分。隣に座る姉。温の家のにおいのする礼服。
夜を駆け抜ける電車の、幾束にもなる光の筋。
いま自分が放っているはずの光のこと。
「おれ、家を出てひとり暮らししてみようかな」
思い付きを音声にしてみると、それは鼓膜を伝って逆流し、心の中に打ち響いた。この街まで出なくてもいい。無理にひとりにならなくていい。けれどしふみもなにかあたらしい状況に身を置いてみたくなった。
「いいんじゃない?」シホが頷く。
「シホは?」
「私はしばらく、この街で、あの家かな。――あっという間だよ、きっと」
「ん?」
隣のシホを振り向く。
「力を溜めて、溜めるだけ溜めたら、弦から放れた矢みたいに、すごい速さで走れるから。光の速さだよ」
「……」
「私たちは確かに、不器用よ。だけど若い、若いんだ。ものごとを振り返るのはもうちょっと先でいい。――これも温の受け売り」
「あいつはいったい、おれたちのなんなんだろうな」
「そうね、……本当に」
そう言って微笑んだ姉もまた、「この街、あの家」で、力を溜めていくのだろう。
遮断機のバーが上がり、車が動き始める。しふみもギアを入れ替えて、丁寧に車を発進させた。
End.
← 前編
実に煩わしげに、姉は爪を手入れしていた。先をラウンドに切りそろえ、やすりをかけ、マニキュアを塗る。淡いパールがかったベージュのマニキュアだった。憂鬱な顔で、それを黙々とこなしていく。
姉の背後にテレビが置いてあった。しふみはそれを点ける。賑やかなバラエティ番組がぱっと場を白々しく、騒々しくする。姉は振り返り、それを鬱陶しそうにしばらく眺め、指先に視線を戻した。
「面倒くさいね、女ってのは」と言うと、姉は大仰にため息をついてみせた。
「そうよ、面倒くさいのよ。まずはワンピース。ワンピースを選んだら、靴とかばん。革物はNGよ、殺傷だと思われるからね。エナメルのパンプスを選ぶの。かばんはクラッチバッグかな。そしたらアクセサリーを考える。首、手首、指、耳。そうすると髪型だわ。美容院に行って、自分でもアレンジのできる髪型にしてもらうか、当日美容院に駆け込むか。髪飾りも用意して、……あとはネイルに、メイク。メイクやヘアアレンジは普段どれだけ見てくれを気にして触っているかで、化粧崩れや髪のほつれの具合が変わってくる。お式の最後まで保っていられる人が女として正しいんだわ。――わたしみたいな引きこもりには、無理な話。気鬱だわ」
と、またため息をつく。
姉はおとなしく内向的な性格で、その性分が災いして現在は休職中だ。そんな中で出掛けねばならぬ場がある。姉の幼馴染の男・温(ゆたか)の結婚披露宴が明日、執り行われるのだ。
温とは、しふみも親交があった。姉の後ばかりくっついて歩いていた幼少期、温の家で温の母がふるまってくれたホットケーキやジュースの、あの乳臭い記憶を、いまでもありありと思い出せる。
姉しかいなかったしふみにとって、温は兄同然だった。少年期を経て青年期へと年齢の移り変わったいまも、親交は続いている。
「本当ならしふみが出席していいのよ」と姉は言った。「私より仲いいんだし」
「結婚式なんてきらびやかなとこ出んの嫌だよ。知り合いもいねえし」
「いいじゃない、男は楽よ。衣装と靴さえあればOKでしょ、」
「簡単に言うな」
「あー、行きたくない」
慣れないドレス、ヒールにメイク。おまけに温の小学校時代の同級生(つまり、姉の同級生)も同窓会かのように何人か集まると言ったから、彼女にはそれが気が重いのだろう。
(おれだって行きたくねえよ)
心の中で、しふみは呟く。
(ずっと好きだった男がほかの女のものになる日なんて、最悪だ)
◇
翌日になって、姉のシホは腹痛を訴えた。仮病ではなく本当に痛い、と真っ青な顔で脂汗をかいていて、母から間接的に告げられたのは、生理痛とのことだった。つくづく女って面倒くさいな、としふみは思う。
冬の冷える季節の披露宴出席は、つらいと言った。会場までの送り迎えを担当するはずだったしふみは、じゃあどうすんだよ、と姉に当たり口調で尋ねる。姉は「しふみが行って」と答えた。冗談ではなかった。
「服がねえよ」
「お父さんのを借りればいいじゃない」
「あの人、恰幅がいいからおれにはオーバーサイズすぎる」
「じゃあお願い、ご祝儀だけでも届けて」
「後で届ければ。家、近所なんだし」
「……しふみが行ったら、温は喜ぶよ、」
「……温(おん)ちゃんに会えるとは、限んねえだろ、……」
姉はつらそうにベッドに横たわっている。その目尻がうっすらと涙ぐんでいるのを見て、しふみはそっとため息をついた。シホもまた、温のことが好きだったのだ。彼にとっては気安い幼馴染でも、シホにとって温はそうではなかった。女として見てもらいたくて、それは叶わなかった。
面倒くさい、憂鬱、人前は緊張する、などと言いながらも結婚披露宴への出席準備を進めていた姉の心中を思う。整えていた爪に必要がなくなってしまう。なんだか思いを汲んでやらねばならないような気になったのは、シホとは姉弟であると同時に、報われない恋の同士でもあったからだ。しふみはシホのベッドにのろのろと近づくと、「行きたくねえけど」とシホの肩先をぽんぽんと叩いた。細い肩だった。
「ご祝儀だけ渡してくる」
「――ありがとう、しふみ」
手に少しだけ力を込めて、離す。ベッドから腹をさすりながら起き上がったシホは、クローゼットの下にまとめてあった荷物の中から、ご祝儀袋を取り出した。クローゼットの中には普段は地味なシホから思いもつかないような、鮮やかなサーモンピンクのドレスが下がっていて、しふみはむなしくなる。
◇
披露宴会場に行くよりも温の家に直接行く方が早いだろう、と踏んだ。家は歩いて五分の距離にある。まだ朝早いから、おそらく家にいるだろうと思った。温自身がいなくても、両親や祖父母、親戚、ともかく誰か留守は残しているだろう。ちょっとお使いの気分で、しふみは温の家へと行く。家の前には親族のものと思しき遠方ナンバーの車が停められ、家自体の雰囲気を異常にさせていた。
マイクロバスも停まっていた。これで親戚を引き連れて式場へと向かうのだろう。ひょいと家を覗くと、はいはい、と出てきたのは驚いたことに温自身だった。
「さっきシホからメール貰ったところ。今日は行けないからしふみを寄越す、って」
「ご祝儀渡しに来ただけだよ」
「参列してけよ」
それは、嫌だと思った。しふみは首を横に振る。
「服、ないし」
「おれのを着ればいいよ。今日のおれは主役装備だから、普段着るお呼ばれ用の礼服は必要ないからな。ここで着替えて、親族用のマイクロバスで一緒に式場に向かえばいい」
「……」
「自分のことなんだけどさ、慶び事だ。祝ってくれる人が多い方が、嬉しい。シホの分の料理も無駄にならなくて済むし。そう、あの式場に決めたのは、料理が美味いからなんだ。しふみにとっちゃタダでフルコース食えるようなもんだろ? 頼むよ、いてくれよ」
「温ちゃん?」
「シホの臆病がうつったかな、緊張で吐きそうだ。……安心する顔が並んでてくれると、おれも、気が楽になる」
温はうつむき気味に、二の腕をさすった。ただならぬ緊張の度合いが伝わってくる。シホと言い、温と言い、強引なやつらばかりだと思う。誰もしふみの気持ちを察してはくれない。
そしてきっぱりとNOと言えずに、結局は従ってしまう自分の意志の弱さにも呆れる。
「……しょうがねえやつらばっかりだよな、」
「来てくれるか?」
「おっちゃんおばちゃんらとバス乗るのは気づまりでいやだから、おれは自分で車を運転してくけどな」
温は笑った。
→ 後編
姉の背後にテレビが置いてあった。しふみはそれを点ける。賑やかなバラエティ番組がぱっと場を白々しく、騒々しくする。姉は振り返り、それを鬱陶しそうにしばらく眺め、指先に視線を戻した。
「面倒くさいね、女ってのは」と言うと、姉は大仰にため息をついてみせた。
「そうよ、面倒くさいのよ。まずはワンピース。ワンピースを選んだら、靴とかばん。革物はNGよ、殺傷だと思われるからね。エナメルのパンプスを選ぶの。かばんはクラッチバッグかな。そしたらアクセサリーを考える。首、手首、指、耳。そうすると髪型だわ。美容院に行って、自分でもアレンジのできる髪型にしてもらうか、当日美容院に駆け込むか。髪飾りも用意して、……あとはネイルに、メイク。メイクやヘアアレンジは普段どれだけ見てくれを気にして触っているかで、化粧崩れや髪のほつれの具合が変わってくる。お式の最後まで保っていられる人が女として正しいんだわ。――わたしみたいな引きこもりには、無理な話。気鬱だわ」
と、またため息をつく。
姉はおとなしく内向的な性格で、その性分が災いして現在は休職中だ。そんな中で出掛けねばならぬ場がある。姉の幼馴染の男・温(ゆたか)の結婚披露宴が明日、執り行われるのだ。
温とは、しふみも親交があった。姉の後ばかりくっついて歩いていた幼少期、温の家で温の母がふるまってくれたホットケーキやジュースの、あの乳臭い記憶を、いまでもありありと思い出せる。
姉しかいなかったしふみにとって、温は兄同然だった。少年期を経て青年期へと年齢の移り変わったいまも、親交は続いている。
「本当ならしふみが出席していいのよ」と姉は言った。「私より仲いいんだし」
「結婚式なんてきらびやかなとこ出んの嫌だよ。知り合いもいねえし」
「いいじゃない、男は楽よ。衣装と靴さえあればOKでしょ、」
「簡単に言うな」
「あー、行きたくない」
慣れないドレス、ヒールにメイク。おまけに温の小学校時代の同級生(つまり、姉の同級生)も同窓会かのように何人か集まると言ったから、彼女にはそれが気が重いのだろう。
(おれだって行きたくねえよ)
心の中で、しふみは呟く。
(ずっと好きだった男がほかの女のものになる日なんて、最悪だ)
◇
翌日になって、姉のシホは腹痛を訴えた。仮病ではなく本当に痛い、と真っ青な顔で脂汗をかいていて、母から間接的に告げられたのは、生理痛とのことだった。つくづく女って面倒くさいな、としふみは思う。
冬の冷える季節の披露宴出席は、つらいと言った。会場までの送り迎えを担当するはずだったしふみは、じゃあどうすんだよ、と姉に当たり口調で尋ねる。姉は「しふみが行って」と答えた。冗談ではなかった。
「服がねえよ」
「お父さんのを借りればいいじゃない」
「あの人、恰幅がいいからおれにはオーバーサイズすぎる」
「じゃあお願い、ご祝儀だけでも届けて」
「後で届ければ。家、近所なんだし」
「……しふみが行ったら、温は喜ぶよ、」
「……温(おん)ちゃんに会えるとは、限んねえだろ、……」
姉はつらそうにベッドに横たわっている。その目尻がうっすらと涙ぐんでいるのを見て、しふみはそっとため息をついた。シホもまた、温のことが好きだったのだ。彼にとっては気安い幼馴染でも、シホにとって温はそうではなかった。女として見てもらいたくて、それは叶わなかった。
面倒くさい、憂鬱、人前は緊張する、などと言いながらも結婚披露宴への出席準備を進めていた姉の心中を思う。整えていた爪に必要がなくなってしまう。なんだか思いを汲んでやらねばならないような気になったのは、シホとは姉弟であると同時に、報われない恋の同士でもあったからだ。しふみはシホのベッドにのろのろと近づくと、「行きたくねえけど」とシホの肩先をぽんぽんと叩いた。細い肩だった。
「ご祝儀だけ渡してくる」
「――ありがとう、しふみ」
手に少しだけ力を込めて、離す。ベッドから腹をさすりながら起き上がったシホは、クローゼットの下にまとめてあった荷物の中から、ご祝儀袋を取り出した。クローゼットの中には普段は地味なシホから思いもつかないような、鮮やかなサーモンピンクのドレスが下がっていて、しふみはむなしくなる。
◇
披露宴会場に行くよりも温の家に直接行く方が早いだろう、と踏んだ。家は歩いて五分の距離にある。まだ朝早いから、おそらく家にいるだろうと思った。温自身がいなくても、両親や祖父母、親戚、ともかく誰か留守は残しているだろう。ちょっとお使いの気分で、しふみは温の家へと行く。家の前には親族のものと思しき遠方ナンバーの車が停められ、家自体の雰囲気を異常にさせていた。
マイクロバスも停まっていた。これで親戚を引き連れて式場へと向かうのだろう。ひょいと家を覗くと、はいはい、と出てきたのは驚いたことに温自身だった。
「さっきシホからメール貰ったところ。今日は行けないからしふみを寄越す、って」
「ご祝儀渡しに来ただけだよ」
「参列してけよ」
それは、嫌だと思った。しふみは首を横に振る。
「服、ないし」
「おれのを着ればいいよ。今日のおれは主役装備だから、普段着るお呼ばれ用の礼服は必要ないからな。ここで着替えて、親族用のマイクロバスで一緒に式場に向かえばいい」
「……」
「自分のことなんだけどさ、慶び事だ。祝ってくれる人が多い方が、嬉しい。シホの分の料理も無駄にならなくて済むし。そう、あの式場に決めたのは、料理が美味いからなんだ。しふみにとっちゃタダでフルコース食えるようなもんだろ? 頼むよ、いてくれよ」
「温ちゃん?」
「シホの臆病がうつったかな、緊張で吐きそうだ。……安心する顔が並んでてくれると、おれも、気が楽になる」
温はうつむき気味に、二の腕をさすった。ただならぬ緊張の度合いが伝わってくる。シホと言い、温と言い、強引なやつらばかりだと思う。誰もしふみの気持ちを察してはくれない。
そしてきっぱりとNOと言えずに、結局は従ってしまう自分の意志の弱さにも呆れる。
「……しょうがねえやつらばっかりだよな、」
「来てくれるか?」
「おっちゃんおばちゃんらとバス乗るのは気づまりでいやだから、おれは自分で車を運転してくけどな」
温は笑った。
→ 後編
*
土曜日はよく晴れていて寒かった。隣にいる夕は分厚いセーターを着ていたが、寒そうだった。よりにもよってデートの先は遊園地なのだから自分のベタさ加減に笑ってしまう。十二月で盛り上がる頃かと思えば、それはイルミネーションの点灯する夕方以降の話みたいで、土曜日の昼間だってのに人影はまばらだった。
あまりにも夕が震えるから、秋空は夕に自分の羽織っていたカウチンカーディガンを着せてやった。もとから体温の高い体質で、暑さには困っても寒さには困ったことがない。このセーターは二十歳の誕生日に詩子から与えられたものだ。ものは古いけれど虫食いもないし毛玉も取った、あんたが着なさい、と言って渡されたそれは肘の擦り切れた部分にだけパッチの当てられた、父のおさがりのセーターだった。いつの間にかこんな大きなセーターが似合う年頃になっちゃったのねえ、とそのときの母は微妙な表情で憂いたものだった。
「夕、似合うよその色」と言うと、夕は顔をぽうっと赤くした。
「きみのほうが似合ってた」
「おれはパーカー一枚で十分だからさ。……なに乗る?」
と聞いてとりあえずジェットコースターを目指したが、一発目で断念した。夕が、案の定というかなんというか、乗り物酔いをしたのだ。コーヒーカップでも見ているだけで酔いそう、というので、あれこれ乗り回るのは諦めて、散歩をした。休日なので人は少なくとも親子連れが多かった。夕の酔いが治まったころにフードコートのくたびれたハンバーガーを食べて、コーラを飲んで、夕を置いてけぼりに一度だけアトラクションを楽しんで、そのあとはふたりで観覧車に乗った。
夕方に近づくにつれて、イルミネーション目当ての客が増えてきていた。観覧車は二周した。二周目に「こんな街だったんだね」と夕が言うから、秋空は「こんな街だったんだ」と答えた。
「いつ、行くの」
夕が聞いた。
「新年あけて五日目」
「じゃあ年末年始はいるんだ」
「いるよ。準備でばたばたしてるかもしんないけど」
「よかった。――新しい年は一緒だよね」
それは、心底うれしそうな微笑みだった。てっきり夕は怒っているか、呆れているかしていると思っていたから、夕のこの態度は秋空にとってとても不思議なことだった。
「怒ってないのか」
おそるおそる尋ねる。夕は首を横に振った。
「うらやましいと思う」
「――」
「どこへでも、好きなタイミングでいつでも飛び立てる。背中が軽い。僕はできない。怖くて、自信がなくて、タイミングも計れない。だからうらやましい。憧れる。僕にとってきみはそういう人だから、……一生きっと、片思いみたいなもんなんだ」
眼下に広がる街を見つめて、夕はそう言った。そんなことを言う恋人ははじめてだったから、秋空は驚く。みな、僕を見てよとか、置いていくのかとか、我儘や恨み言を吐いて終わった恋ばかりだった。
夕は近くにいるのに遠い。ふたりの距離は一生埋まらない、とさえ思う。夕はおそらくそのコンプレックスや、劣等感を離さないだろうし、秋空はフリーであることを望む。
「詩子さんに聞けばわかると思うんだけど、……会社に、三か月で辞めた人がいて」
夕はぽつりぽつりと語り始めた。
「歳は僕らよりも五歳年上で、離婚歴があった。その人とは、少しだけ仲が良かった。辞める少し前に、ちょっと飲みにいかないかと誘われて、駅前で飲んだ。そのときに、彼は『気が遠くなる』と本当につらい顔で言ったんだ」
「気が遠くなる?」
「うん。短期の雇用だったらまだいいらしいんだけど、長期雇用だと、一生このままここで働くのかと、それでいいのかと、心がざわめくんだって言ってた。不安で仕方がなくなるって。だからどの企業に就職しても長続きしなかったし、嫁をとっても同じだったって。彼はつらい顔のまま退職して、それっきりになった。きみといると彼の台詞をたまに思い出す」
「……少し、分かるな。同じ場所にとどまることへの恐怖みたいなもの」
「そっか」
「ああ」
「僕にはそれがよくわからない。同じ場所にとどまれるのは安定の証拠だと思ってしまう。明日も生きていていいよっていう保障。……きみはなんていうのかな、いまを楽しむことに夢中に見える。わがままで勝手で、ずるい人だよ。でもその軽さがいいんだ。僕はと言えば、とても重い。いろんなしがらみがある。抜け出せないトンネルで、自分に勝手に重しを載せて、がんじがらめで生きている。そういうヘビーな僕は変わらないし、吹けば飛んでくきみも変わらないだろう。それを辛くも思ったけれど、」
がたん、とゴンドラは降り場へ到達し、言葉はそこで途切れた。自然と出口へ向かって歩いていた。
夕が再度口をひらいたのは、遊園地の出口を出たところだった。
「たとえば地球でいう、太陽。太陽の周りを、僕ら回っているんだ。圧倒的な存在。月にとっての地球でもいい。――きみにとってのそういう星に、僕はなれるかな」
「――」
「……詩子さんみたいにはなれないけど、なろうとする努力はしてもいいんじゃないかって……きみの家になったらいいんだ、と、思ったんだ」
自信なさそうにうつむいた恋人の肩を秋空はとっさに抱いた。頬を寄せる。これまでこんなことを言ってくれた人はいなかった。
「――必ず戻る」
そう言うと、夕はそっと頷いた。
「旅先からは、はがきを送ろう。少し珍しい切手を貼って、送る。夕に会いたいと思いながら旅をするよ。それで帰ってきたら旅の話をたくさんするから、聞いてくれる?」
「写真、たくさん撮って帰ってきて」
「ああ、いいね」
不意にこわばっていた夕の体の力が抜けた。秋空は抱きとめきれずに、ふたりでぐらりと傾がる。アスファルトにへたり込んだ体を、どうしたのかと擦る。夕は「今日はこれを喋ろうと思って緊張していたから、力が抜けたんだ」と情けない笑顔を見せた。
「本当は旅に出てほしくなんかないんだ。淋しいし、不安だ。……そういう駄々をこねようとか、色々考えて」
「考えて、喋ってくれたんだ。――夕はいい子だな」
「……」
「おれにとって最高のいい子。そういう夕が好きだよ。家だって言ってくれて、嬉しかった。ありがとう」
夕は照れていたが、くつくつと笑い始めた。それはそれは最高に愛らしい笑顔だった。
土曜日はよく晴れていて寒かった。隣にいる夕は分厚いセーターを着ていたが、寒そうだった。よりにもよってデートの先は遊園地なのだから自分のベタさ加減に笑ってしまう。十二月で盛り上がる頃かと思えば、それはイルミネーションの点灯する夕方以降の話みたいで、土曜日の昼間だってのに人影はまばらだった。
あまりにも夕が震えるから、秋空は夕に自分の羽織っていたカウチンカーディガンを着せてやった。もとから体温の高い体質で、暑さには困っても寒さには困ったことがない。このセーターは二十歳の誕生日に詩子から与えられたものだ。ものは古いけれど虫食いもないし毛玉も取った、あんたが着なさい、と言って渡されたそれは肘の擦り切れた部分にだけパッチの当てられた、父のおさがりのセーターだった。いつの間にかこんな大きなセーターが似合う年頃になっちゃったのねえ、とそのときの母は微妙な表情で憂いたものだった。
「夕、似合うよその色」と言うと、夕は顔をぽうっと赤くした。
「きみのほうが似合ってた」
「おれはパーカー一枚で十分だからさ。……なに乗る?」
と聞いてとりあえずジェットコースターを目指したが、一発目で断念した。夕が、案の定というかなんというか、乗り物酔いをしたのだ。コーヒーカップでも見ているだけで酔いそう、というので、あれこれ乗り回るのは諦めて、散歩をした。休日なので人は少なくとも親子連れが多かった。夕の酔いが治まったころにフードコートのくたびれたハンバーガーを食べて、コーラを飲んで、夕を置いてけぼりに一度だけアトラクションを楽しんで、そのあとはふたりで観覧車に乗った。
夕方に近づくにつれて、イルミネーション目当ての客が増えてきていた。観覧車は二周した。二周目に「こんな街だったんだね」と夕が言うから、秋空は「こんな街だったんだ」と答えた。
「いつ、行くの」
夕が聞いた。
「新年あけて五日目」
「じゃあ年末年始はいるんだ」
「いるよ。準備でばたばたしてるかもしんないけど」
「よかった。――新しい年は一緒だよね」
それは、心底うれしそうな微笑みだった。てっきり夕は怒っているか、呆れているかしていると思っていたから、夕のこの態度は秋空にとってとても不思議なことだった。
「怒ってないのか」
おそるおそる尋ねる。夕は首を横に振った。
「うらやましいと思う」
「――」
「どこへでも、好きなタイミングでいつでも飛び立てる。背中が軽い。僕はできない。怖くて、自信がなくて、タイミングも計れない。だからうらやましい。憧れる。僕にとってきみはそういう人だから、……一生きっと、片思いみたいなもんなんだ」
眼下に広がる街を見つめて、夕はそう言った。そんなことを言う恋人ははじめてだったから、秋空は驚く。みな、僕を見てよとか、置いていくのかとか、我儘や恨み言を吐いて終わった恋ばかりだった。
夕は近くにいるのに遠い。ふたりの距離は一生埋まらない、とさえ思う。夕はおそらくそのコンプレックスや、劣等感を離さないだろうし、秋空はフリーであることを望む。
「詩子さんに聞けばわかると思うんだけど、……会社に、三か月で辞めた人がいて」
夕はぽつりぽつりと語り始めた。
「歳は僕らよりも五歳年上で、離婚歴があった。その人とは、少しだけ仲が良かった。辞める少し前に、ちょっと飲みにいかないかと誘われて、駅前で飲んだ。そのときに、彼は『気が遠くなる』と本当につらい顔で言ったんだ」
「気が遠くなる?」
「うん。短期の雇用だったらまだいいらしいんだけど、長期雇用だと、一生このままここで働くのかと、それでいいのかと、心がざわめくんだって言ってた。不安で仕方がなくなるって。だからどの企業に就職しても長続きしなかったし、嫁をとっても同じだったって。彼はつらい顔のまま退職して、それっきりになった。きみといると彼の台詞をたまに思い出す」
「……少し、分かるな。同じ場所にとどまることへの恐怖みたいなもの」
「そっか」
「ああ」
「僕にはそれがよくわからない。同じ場所にとどまれるのは安定の証拠だと思ってしまう。明日も生きていていいよっていう保障。……きみはなんていうのかな、いまを楽しむことに夢中に見える。わがままで勝手で、ずるい人だよ。でもその軽さがいいんだ。僕はと言えば、とても重い。いろんなしがらみがある。抜け出せないトンネルで、自分に勝手に重しを載せて、がんじがらめで生きている。そういうヘビーな僕は変わらないし、吹けば飛んでくきみも変わらないだろう。それを辛くも思ったけれど、」
がたん、とゴンドラは降り場へ到達し、言葉はそこで途切れた。自然と出口へ向かって歩いていた。
夕が再度口をひらいたのは、遊園地の出口を出たところだった。
「たとえば地球でいう、太陽。太陽の周りを、僕ら回っているんだ。圧倒的な存在。月にとっての地球でもいい。――きみにとってのそういう星に、僕はなれるかな」
「――」
「……詩子さんみたいにはなれないけど、なろうとする努力はしてもいいんじゃないかって……きみの家になったらいいんだ、と、思ったんだ」
自信なさそうにうつむいた恋人の肩を秋空はとっさに抱いた。頬を寄せる。これまでこんなことを言ってくれた人はいなかった。
「――必ず戻る」
そう言うと、夕はそっと頷いた。
「旅先からは、はがきを送ろう。少し珍しい切手を貼って、送る。夕に会いたいと思いながら旅をするよ。それで帰ってきたら旅の話をたくさんするから、聞いてくれる?」
「写真、たくさん撮って帰ってきて」
「ああ、いいね」
不意にこわばっていた夕の体の力が抜けた。秋空は抱きとめきれずに、ふたりでぐらりと傾がる。アスファルトにへたり込んだ体を、どうしたのかと擦る。夕は「今日はこれを喋ろうと思って緊張していたから、力が抜けたんだ」と情けない笑顔を見せた。
「本当は旅に出てほしくなんかないんだ。淋しいし、不安だ。……そういう駄々をこねようとか、色々考えて」
「考えて、喋ってくれたんだ。――夕はいい子だな」
「……」
「おれにとって最高のいい子。そういう夕が好きだよ。家だって言ってくれて、嬉しかった。ありがとう」
夕は照れていたが、くつくつと笑い始めた。それはそれは最高に愛らしい笑顔だった。
◇
最も冷え込む季節に頼りたい人がいないというのはどういうことか。そんなことを幾度も思ってはやるせない溜息をついていたせいだろうか、夢は鮮やかに何度も見た。秋空が夕に覆いかぶさり、愛を囁く夢だ。その度に恋しさを増幅させては、秋空が残したカーディガンのにおいなどを嗅いだりしてやり過ごした。日を一日、一日と数える。帰国まであと何日か。楽しみで、楽しみな分いまが辛くて、また溜息をつく日を繰り返した。
はがきは、何十枚と届いた。日を空けずに送られてくる。地元で買ったと思われるポストカードだったり自前で撮った写真そのものだったりと様々で、「元気です」のたった一言しか書かれていなくても、夕を励ますには十分だった。
冬もだいぶぬるくなった三月、夕は詩子と梅の花を見に有名な観光地を訪れた。
詩子は息子の不在をぶつぶつ嘆いていたが、夕が相手をしてくれるから淋しくない、と言った。詩子には秋空との関係を告げていない。出国の前に秋空は「言っておこうか?」と言ったのだが、夕は首を横に振った。急がなくていいと思ったのだ。秋空との関係は変わるかもしれないし、一生このままでいられるかもしれない。ふたりには夫婦や親子と言った枷がない分、分離も自由だ。
「まあ、大丈夫だと思うけどね、うちのおふくろなら」と秋空が軽やかに言ったから、夕も大丈夫なんだと思っている。いずれ期を見て秋空が言うだろう。夕はそれを待つ。
そこで詩子との関係が変わってしまうかもしれない。それこそ「星が離れる」だ。だが夕は思う。人は意思を持つ。持つから、関係は自らの意志と努力で変えられる。かつて詩子が秋空の父に言い放った言葉のように。どこまで添えるかは、自分とその人次第なのだろう、と夕は思う。
「春が来るのねえ」と梅の花を眺めながら詩子が呟いた。少し高台まで歩いたので、山の裾へ向かってぱっぱっと赤く萌ゆる梅の花がよく見える。いい風が吹いている。梅の香を運ぶ。
「春が、来ます」
詩子の呟きにきっぱりと返すと、それが意外だったのか詩子は夕を見たが、やがて微笑んだだけだった。春が来る。秋空が帰って来る。風に花が薫る。
そうして星は渡る。
End.
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最も冷え込む季節に頼りたい人がいないというのはどういうことか。そんなことを幾度も思ってはやるせない溜息をついていたせいだろうか、夢は鮮やかに何度も見た。秋空が夕に覆いかぶさり、愛を囁く夢だ。その度に恋しさを増幅させては、秋空が残したカーディガンのにおいなどを嗅いだりしてやり過ごした。日を一日、一日と数える。帰国まであと何日か。楽しみで、楽しみな分いまが辛くて、また溜息をつく日を繰り返した。
はがきは、何十枚と届いた。日を空けずに送られてくる。地元で買ったと思われるポストカードだったり自前で撮った写真そのものだったりと様々で、「元気です」のたった一言しか書かれていなくても、夕を励ますには十分だった。
冬もだいぶぬるくなった三月、夕は詩子と梅の花を見に有名な観光地を訪れた。
詩子は息子の不在をぶつぶつ嘆いていたが、夕が相手をしてくれるから淋しくない、と言った。詩子には秋空との関係を告げていない。出国の前に秋空は「言っておこうか?」と言ったのだが、夕は首を横に振った。急がなくていいと思ったのだ。秋空との関係は変わるかもしれないし、一生このままでいられるかもしれない。ふたりには夫婦や親子と言った枷がない分、分離も自由だ。
「まあ、大丈夫だと思うけどね、うちのおふくろなら」と秋空が軽やかに言ったから、夕も大丈夫なんだと思っている。いずれ期を見て秋空が言うだろう。夕はそれを待つ。
そこで詩子との関係が変わってしまうかもしれない。それこそ「星が離れる」だ。だが夕は思う。人は意思を持つ。持つから、関係は自らの意志と努力で変えられる。かつて詩子が秋空の父に言い放った言葉のように。どこまで添えるかは、自分とその人次第なのだろう、と夕は思う。
「春が来るのねえ」と梅の花を眺めながら詩子が呟いた。少し高台まで歩いたので、山の裾へ向かってぱっぱっと赤く萌ゆる梅の花がよく見える。いい風が吹いている。梅の香を運ぶ。
「春が、来ます」
詩子の呟きにきっぱりと返すと、それが意外だったのか詩子は夕を見たが、やがて微笑んだだけだった。春が来る。秋空が帰って来る。風に花が薫る。
そうして星は渡る。
End.
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プロフィール
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粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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