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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 音楽科四年の諏訪(すわ)の腹には、蝶の刺青が入っているのだと聞いた。それは真っ黒な蝶だという。諏訪の噂は、ほかにも聞いた。片耳が聞こえないとか。それは小さいころに実父から暴力を受けていたせいだとか。ゲイであるとか。
 こんなことってあるのか、と煤臭く騒がしい周囲の中で、春見(かすみ)はただただ茫然としていた。
 二月、借りていたアパートが燃えた。夜間の火事で、隣の部屋から出火した。旧式のストーブから出火したと言い、木造の古いアパートはたちまち火に包まれた。死人どころかけが人すら出なかったのが幸いだったが、一年で最も冷え込む時期に、春見は焼け出され行き場を失った。
 かろうじて持ち出せた貴重品の類だけが春見の手元に残った。衣類、布団、家電、テキスト等は、すべて燃えてしまった。火事を聞きつけた友人の尾田(おだ)に「とりあえずこっちに来な」と誘われて、春見は尾田の暮らす大学の学生寮に待機することにした。ここも古い寮で、定員割れしているから部屋には余裕があるという。ひとまずは来客扱いで、尾田の部屋にやって来た。部屋の暖房は切られていたが、屋内にようやく来られて、春見はほっとする。
 それが明け方のことだった。尾田の案内で、湯場をつかわせてもらうことになった。身体中が煤臭くて仕方がなかった。湯船に湯が張られている時間は夕方六時から夜十時までと決まっているが、シャワーだけは二十四時間つかえるのだという。尾田から石鹸とタオルと着替えのジャージを借りて、浴場に向かう。こんな時間なのに、湯からあがって着替えている男がいた。下着と長袖のTシャツだけを身に着けて、髪を拭いている。春見に気が付くと、特になにも言わずに頭を軽く下げただけだった。
 浴場は広く寒々としていて、タイルの冷たさには参ったが、シャワーの出はよかった。熱い湯に打たれて春見はしばらくじっとしていた。身体を丁寧に洗い、温め、風呂からあがると朝の六時だった。尾田の部屋に戻ると尾田は起きて待っていてくれていた。とにかく身体の冷えていた春見に、温かいコーヒーを入れてくれた。ミルクがたっぷりと入り、ブランデーも垂らされていた。
「朝風呂してる誰かに会った」と話すと、尾田は「ああ」と頷いた。
「諏訪さんだろ。痩せてて、肌が白くて、黒縁眼鏡の」
「諏訪さん? 院生か?」
「いや、同期だよ同期。おれたちと同じ四年でこの春卒業。――だけどなんとなく取っつきにくくてな、同い年なんだけど、みんなさん付けで呼んでる。いつも朝風呂なんだ」
「寮の入浴時間っていうかさ、湯船に浸かれる時間って決まってんだろ? こんな明け方に入って、寒くねえのかな」
 タイルの冷たさを反芻しながら言うと、尾田はず、とコーヒーをすすってから言った。
「噂がある。諏訪さんの身体には小さいころの虐待を受けた痕が残ってるとか、刺青が入ってるとか。あとあの人はこっち側の耳が、悪いんだと」
 とんとん、と尾田は人差し指で自らの右耳を指した。
「聞こえないってこと?」
「聞こえるは聞こえるらしいけど、遠いみたい。たまに補聴器っぽいものつけてる、とか聞いた。俺は見たことないけどな」
「うーん」
 考えるに、あまり見られたくない身体である、ということなのだろうか。だから変な時間に人目を気にして入浴している。だが虐待されたの、傷が残っているの、刺青があるの、なんだのと、それらは悪質な噂に思えた。先ほど脱衣場で見た身体(露出しているのは足だけだったが)は、白くなめらかで、そのようには見えなかった。
「あとはゲイって噂」
「ゲイ、」
「なあ、今日、どうする?」
「――もうちょっと明るくなったら、アパートの様子見に行く、かな。大家さんに連絡取ってみる。バイトが夕方からあるけど今日は休ませてもらう。そうだ、服貸してくれないか?」
「俺のだとサイズがでかいだろ。もうちょっと待ってられるか? 二年の西岡(にしおか)あたりがおまえのサイズとちょうどいいような気がする。西岡には連絡しとくから」
「色々と悪いな、迷惑かけた」
「いいってことよ。さ、ちょっとは寝ろ、おまえまるっきり眠れてねえだろ。二段ベッドの上空いててさ。布団敷いといたから、寝ろ」
「布団、あるのか?」
「来客用のが。寮の備品さ。干してないから、臭いかも」
「いや、充分だ。ありがとう」
 梯子をのぼって二段ベッドの上に横になる。そうか、ふたり部屋だったのだな、ということが分かる。よっぽど定員割れしているのだろう。
 身体は温まっていたから、すぐに眠りに落ちた。落ちる間際に風呂上がりの諏訪の身体がぱっとよぎった。すらりと下に伸びた白い足。黒い髪。きついまなざし。


→ 2



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 思ったよりも電車は空いていたわ。どうやら人混みがだめな漠さんを気遣って、深山くんが遠回りでも空いていそうな路線を選んでくれたみたい。ゲージに入った私もいるしね。深山くんは都会になれない漠さんの保護者役だった。しきりに漠さんを気遣っていたわ。私のこともちょっとくらい気にしてほしいものだわ。
 三十分ぐらい電車に揺られて、降りて、深山くんの暮らす街まで来た。坂の多い街で、高いところからの景色は私たちの故郷の方がずっと良かったけど、谷間になる眺めはなんだかぞくっとしたわ。ビルとビルの合間にずしんと沈められたみたい。空へとにょきにょきのぼる高い建物の群れを下から見上げる。私が見るはじめての景色だった。
 慣れないエレベーターでぐーんって上昇して、たどり着いた部屋はさっきの都子さんのおうちよりずっと広かった。広くて、ものが中途半端になくて、がらんとしていた。私は目をぱちくり。玄関の扉をしっかり閉めてからゲージから放されたけど、家具も、雑貨も、家電も、なんだか必要最低限しか揃っていない、恋人同士が暮らしているだなんて思えないぐらいとっても淋しい部屋だったわ。
 私は後ろから漠さんに抱きあげられて、ヒトの高さで部屋を見渡す。漠さんはそのまま窓際に寄って、ベランダの向こうの景色を私に見せてくれた。
「倒れたんだよ、おれ」と漠さんが呟いた。「レセプションパーティーの直前に、画廊の事務所で吐いた。そのまま動けなくなっちゃってね。どうやら、緊張から来るストレスだったみたいで」
 やっぱり! どうかしちゃったんじゃないかと思ってたわ。漠さんは話を続ける。
「次の日帰る予定だったのにさ、起き上がるのもやっとで。見かねた深山くんが『無理に帰るのやめて、もう少し良くなるまで東京にとどまりませんか』って言ってくれたから、ホテルから移って、数日前からこの部屋にお世話になったんだ。もう胃も痛まない。身体に力が入る。大丈夫だよ」
〈よかったわ〉
「びっくりしたよね、この部屋」
 漠さんは振り返った。私も視線を窓の外から部屋の内側に向ける。物がすかすかのキッチンで深山くんが、お湯を沸かしていた。私たちの視線に気づくと困ったように笑って、頭を掻いた。
「恋人、出てったんだって」
 漠さんのその言葉は、私じゃなくて深山くんに向けられていた。事実を確認しなおすように、ゆっくり一音一音、発声していく。
「おれとの浮気がばれた、って」
「浮気、じゃないとおれは思ってるけどね。ばれたよ、ばれました。おれは漠さんとのあの夜があってからずっと上の空だったし、隠そうともしなかった。色々追及されて、白状しました。おれの心がもうとっくに離れていることも全部、話した」
 ピィーッと高く笛が鳴って、薬缶にお湯が沸いた。コンロの火を深山くんは消す。ティーバッグをスタンバイさせたカップにとぽとぽとお湯を注ぐと、ふたり分のカップを持ってローテーブルまで持ってきた。
「月さんは、牛乳飲む?」
 深山くんが私たちを見て訊いた。私が鳴くのと、漠さんが「ください」って言うのと同時だったわ。冷蔵庫からパックの牛乳を深山くんは取り出した。私は漠さんの腕からトッと降りると、傍へ寄ったわ。深山くんの足にすりすり擦りついて、牛乳をおねだり。
 深山くん、小さな器に牛乳を注いでくれた。私が牛乳に夢中になっているあいだに、深山くんと漠さんは向かい合わせで座る。お茶を飲みながら、お互いを見つめあっていた。
「ごめんね、おれは一度この恋を諦めた」と深山くんは言った。
「恋人と別れることになっても、恋人がこの家から引っ越しても、漠さんには知らせなかった。これから漠さんとどうこうなろうっていう気持ちより、しばらくひとりで考えたいっていう気持ちの方が強かった。済んだことを蒸し返してどうしろって言うんだと思った。だから知らなかった、全く考えなかった……こんなに痩せて、」
 深山くんの指が漠さんの方へそっと伸びた。漠さんの、痩せて尖った顎を取る。漠さんは「みっともないだろ」と苦笑した。
「上京した漠さん見て、驚いた。痩せてしまったことも衝撃だったけど、自分の中に、こんなにあなたをいとおしいと思う気持ちが起こっているということ」
「忘れないでいてくれた?」
「正直、忘れたいと思う夜が何度もあった。でも、……無理だった。ずっと心臓痛かったんだ」
 深山くんはテーブルの向かい側からすっぽりと漠さんの両頬を手で覆った。ごちん、と額と額をくっつける。
 ふたりは目と目を見合わせて、とても幸福そうに笑ったわ。
「――明日、月ちゃんと帰るよ、おれ」と漠さんが言う。
「今夜も泊めてくれる?」
「勿論」
「明日見送ってくれる?」
「勿論」
「そっか。じゃあ、淋しくない」
「おれは、淋しいな……」
 深山くんが漠さんの頬にキスをした。
「淋しがるくせにひとりでいたがる。熱しやすく冷めやすい。少し、きみのこと分かって来たよ」漠さんは目を閉じてキスを受けながら言う。
「分かったら、嫌いになる?」
「それは、違う話だな」
 ふたりの声がだんだん囁き声に近くなる。私は牛乳を舐め終わって、眠たくなってきた。
 ふたりを置いて部屋を出歩いてみると、隣に寝室を発見した。広いベッドが置いてある。丸くなった毛布のくぼみが魅力的で、私はそこへぴょいっと上がる。
 大あくび、それから目を閉じる。うとうとしていると、でも扉が大きく開いた。深山くんが漠さんをすっかり抱えあげて、部屋をせわしく進む。私のことなんにも気にせずに漠さんをベッドに落とすのよ。私はつぶされるかと思って、さっと逃げた。
 私のことなんか男ふたりはちっとも気にせず、この世の終わりみたいに熱い抱擁を交わしている。もう、勝手にして頂戴、よ。
 
 冬のあいだに、深山くんは引っ越しをしたみたい。都内って言っていたけれど、職場に近いことよりも、この田舎への交通の利便性を重視した引っ越しだったらしいわ。漠さんと深山くんはお互い離れて暮らすことを選択したけれど、そこに悲壮感は漂っていなかったから安心よ。深山くんはいまの仕事が楽しいんだって。漠さんもこの田舎暮らしを気に入っている。一日の報告は電話でし合う。そして深山くんは仕事がお休みの日に、遊びにやって来る。
 二月に漠さんは誕生日を迎えた。深山くんの誕生日プレゼントは、なんと猫だった。私と違って明るいオレンジの毛並みをしたその猫は「金星(きんぼし)」と大層な名前をもらっていたわ。通称「キンちゃん」。まだ子猫、やんちゃで怖いもの知らずだから、私に本気でじゃれついてくるのを、私は適当にあしらってやるの。そして物事を色々と教えてやっている真っ最中よ。爪とぎの適切な場所とか、人の言葉の訳し方、とかね。
 ねえねえおねえちゃん、ってキンが私に訊く。私はなあに? って答えてあげる。キンは深山くんのところから来たくせに、漠さんにすっかりなついてしまったおかげで、時折やって来る深山くんと漠さんの関係性がよくわからないみたい。
〈どうして深山くんが来ると、漠さんとふたりで部屋に閉じこもっちゃうの?〉
 あの、漠さんの仕事場の話ね。さあね、なにをしているんだか、そんなの訊くのは野暮よって、私は教えてあげるの。


End.



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 静かな冬がやって来た。
 雪が降って、積もったわ。犬は喜び庭駆けまわる、なんてよく歌ったものだと思う。新年も明けて改めて遊びに行ったとき、エキさんちの柴犬・マメは庭をはふはふと息を弾ませて転げまわっていた。もちろん私は猫だから、それを雪見障子の向こうから眺めながら、こたつで丸くなっていた。
 漠さんの調子は相変わらずよ。定期的にため息をついては、ぼんやりとしている。個展の開催まで日がないってのに、「もう展示作品は全部描けてるからいいんだ」なんて言って、寝てるか、落書きをしているか、とにかく自堕落に過ごしてた。
 深山くんからは個展が近づいてますます頻繁に連絡が来ているみたいだった。あっちは忙しそうよ。でもぎこちなく、事務的な電話で終わるみたい。物理的な距離が出来ると心にも距離が出来るって本当かしら? でもふたりはそれをかたくなに信じて恋を収めようとしているように私には見えた。
 個展が始まれば、漠さんも上京する。死ぬほど苦手な人混みの中へ、死ぬほど苦手な注目を浴びに出掛けるのよ。レセプションパーティーがあるとか言っていたわ。憂鬱そうにしていた。深山くんともきっと“なんでもないふう”を装うんだわ。そんな器用なことが漠さんに出来るのかしらね。
 上京までの日が近づくにつれて、漠さん、行きたくない、行きたくないって口にするようになった。真っ青な顔してうずくまっている時だってあったわ。つっちゃんと家にいたいよ、だなんて言って、私のおなかに顔をうずめるの。だから私言ってあげたわ。本当は深山くんに会うのが気まずいからそんなこと言ってるんでしょう、って。せっかく都会に行くんだから、ドキドキを楽しんでみるのはどう? 都会はなんでもあるから、漠さんの心に触れるものだってひとつやふたつあると思うわ。
 上京の予定は二泊三日だった。私はエキさんのところに預けられた。漠さんは最後までいやだいやだと言いながらも、信じられないぐらい小さな荷物をちょこんと提げて出掛けて行った。一張羅のスーツ姿は、まるで吊られている洗濯物みたいに頼りなく、ぺらぺらだった。
 エキさんのおうちは好きよ。はじめのうちはちょっとマメがうるさいけど、外犬のマメは家にあがってこないし、もう老犬の域に差し掛かっているから、最初の挨拶代わりのひと吠えが済んでしまえばおとなしい。エキさんは自分の食べる分の魚を三等分して、茹でて塩を抜いて、私とマメにもくれた。普段は食べられないおなかの部分のやわらかいところは、とっても美味しかったわ。
 漠さんは三日経てば帰ってくるはずだったけれど、四日目になっても五日目になっても姿を見せなかった。エキさんは電話をもらっていたみたいで、訳知り顔で、「漠さんはちーっとしばらく帰らんが、じき帰って来るでなァ」と私を撫でてくれた。私はごろごろと喉を鳴らしながらも、ちょっと不安になっていた。なにかあったから帰ってこないのよね。まさか倒れただなんて言わないかしら? 漠さん、深山くんとの一件があって急激に痩せた。元から薄い人がさらに薄くなって、更なるストレスに晒される場所に行くって、やっぱり酷だったのかしらって。楽しめばいいじゃない、だなんて軽々しく煽っちゃったけど、大丈夫かしらね。
 でも私がどうしようもないのも知ってる。私猫だから、待っているだけよ。かつて人の勝手で捨てられた私には、それが身に染みて分かっている。
 一週間目の早朝にエキさんの息子さんがやって来た。Tに住んでいる次男で、いちばん下の娘だという中学生を連れて来た。娘さん、私にべたべた触ろうとするから嫌よ。おうちに遊びに来たのかと思えばそうじゃないの。私はあっという間にキャリーケースに入れられて、車に乗せられた。
 どこ行くの、って鳴いた。どこに連れて行かれちゃうの? 私。なあなあ鳴いているとエキさんの曲がった指がキャリーケースの隙間から入ってきて、私の鼻をちょんと突いた。「これから漠さんとこ行くでなァ、安心せい」って言う。本当? ってことは私、東京へ連れて行かれちゃうのかしら?
 運転席に息子さん、助手席に娘さん、後部座席に私とエキさんが乗ったわ。車は滑らかに発進して、私たちの集落からどんどん離れていく。
「全く、おふくろは唐突だよなあ」と運転しながら息子さんが喋った。
「東京の画廊に行きたいから、車出してくれ、だなんてな。いつから画廊で絵を見る趣味が出来たんだ?」
「だから話したでねェかよォ。近所のな、この美人さんの飼い主が画家で、いま東京で個展をやっとるんだと。いっぺんでいいから絵をちゃんと拝んでみたくてねェ。あとはほれ、スカイなんとかってやつに、のぼってみてェ。あたしももうじきそんなに動けなくなる。いまのうちに、見ておきたいもんがたくさんあるんだ」
「おばあちゃん、私がしっかり案内してあげるから大丈夫よ。東京は友達とよく行くの」
「そりゃ心強いねェ」
 そういうことだったのね、と私は合点した。高速道路は途中でちょっとだけ渋滞したけれど、おおむねスムーズに動いた。普段、漠さんの車に乗りなれているから、車に乗ること自体に抵抗はないけれど、さすがに高速道路はびっくりしたわ。ぶうううんってエンジンが唸るの、聞いてられなくて私ぐったりよ。
 東京にはエキさんの末の娘さんが住んでいて、まずは彼女の家にみんなで押し掛けた。あまり広くない部屋だったけれど、車の中よりはずっとマシだったわ。やっと解放してもらえて、ちょっとだけ落ち着いた。
「じゃあ都子(みやこ)、ちょっとだけその美人さんを頼むなァ」とエキさんが末の娘さんに言い出したときは、だから私びっくりしちゃった。てっきり連れて行ってもらえるものだと思っていたの、漠さんのところに。それがこんなところに預けられるだなんて。
 私、鳴いて抗議よ。エキさんは「美人さんはちょっと待ってておれ。画廊に動物連れてくわけにいかんからなァ」と、取りあわない。
「それに漠さんにはここに来るように言ってあるからな、待て、待て」
 そう言ってエキさんは息子さんとお孫さんと、出掛けて行ってしまった。
 私、とっても疲れてしまって、ソファでうとうとしたわ。もうなんて日なの! 丸くなる私を都子と呼ばれた末娘さんは放っておいてくれた。彼女のそのさっぱりとした交流は気持ちの良いもので、私はなんだか安心する。
 漠さんは来る。それを信じたわ。

 二・三時間ほどして、ポーンとインターフォンが鳴った。パソコンをいじっていた都子さんが表を覗きに行く。まもなくして、人の声が聞こえてきた。エキさんの言ったとおりにちゃんと、漠さんが迎えに来てくれたのだ。
 私はいてもたってもいられなくて、扉が開くのをそわそわ待った。廊下から足音がする。がらがらと居間の引き戸が開けられて、姿を見せたのは都子さんと、後ろからついてきた漠さん、そして深山くんがいた。
「――つっちゃん!」
 漠さんは膝をついて私へと腕を伸ばした。私は駆け寄っていく。細く長い腕にぎゅうっとしてもらえて、私は久しぶりに漠さんのにおいを嗅いだ。もう、もう、なんで全然帰ってこなかったのよ、ばかばか。ばか。私はしきりに額をこすりつけて、漠さんに甘えたわ。
 漠さんは元気そうだった。とりあえずここに私を迎えに来てくれるぐらいには。都会の真ん中でアスファルトにばったりと倒れこんでいるんじゃないかと思い込んでいた私には、意外な姿だったわ。まったく、元気だったらさっさと帰って来なさい、って話よね。もう、もう、なんでよ、ばか、ばか。
 私は鳴いて、漠さんの頬や顎をざりざり舐めた。漠さんがくすぐったそうに身をよじる。「ごめんな、ずっと預けっぱなしにして、それからこんなところまで連れてきて、心細かったよな」と漠さんは言う。その通りよ。私、心細かったの。
 その間に深山くんと都子さんはなにやらビジネスライクな話をしていた。都子さんは、在宅でグラフィックデザイナーの職を持っているんですって。名刺交換を済ませた後で、深山くんは「お騒がせしてすみません」と都子さんに謝った。
「一応このアパートは動物だめで、近所にうるさいおばあさんも住んでいるので、そうっと帰ってくださいね」と都子さんは眼鏡を押し上げながらきっぱりと言った。私は漠さんに抱えられて、またゲージ。
 今度はどこなの? 帰るんでしょうね?? と思いきや、漠さんは「深山くんのおうちに行くよ」と言った。
「こっちにいるあいだ、深山くんとこにお世話になってたんだ」
〈それどういうこと? だって深山くんには一緒に暮らしている恋人がいるのよ? そもそも元気なのになんで帰って来なかったの? 深山くんとはどうなっちゃってるの?〉
「積もる話はあとでするから、しー、静かにね。ここは田舎じゃないんだから、人目があるんだ」
 漠さんに鼻を突かれて、私はしぶしぶ口を閉じたわ。それから都子さんにぺこぺこ頭を下げて、私たちは静かに退散した。


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 翌朝、漠さんはなかなか起きてこなかった。一方で深山くんはかっちりとシャツを着こみ、元の涼やかさに戻ってしまっていた。それでも深山くんの表情に影が差しているのを私見逃さなかったわ。げんなりと、疲れている風に見えた。
 私が足元へ寄ってきたのを見て、深山くんは「きみってさ」と私に声をかけた。
「人の言葉がわかるって本当?」
 漠さんがそう言ったのかしらね。確かに分かるわ。でもそれは漠さんの前だけの話にしているの。深山くんの言葉に、私は知らんぷりよ。
 深山くんは困った風だったけれど、コートを着こみ始めた。帰るのかな、と思いきや、なにか書き置きを残している。散歩に出かけるみたい。荷物はそっくり残したままだった。
 私はついていく。足が冷たいわ。後からてってってってとついてきた私を見て、深山くんは「ついてくるんだ、」と表情をほころばせた。今回は特別よ。あなたが淋しそうだったからね。
 歩きながら、深山くんは「おれ、恋人がいるんだ」と語りはじめた。
「付き合ってもう十年だよ。一緒に暮らし始めて四年。結婚、という道は男同士だからないんだけど、一緒に暮らしていればさ、見てくれはもう同じようなもんだよ。おれはあいつの分のめしまで一緒に作る。食器洗いはあいつがする。ふたり分の布団を干しておいて、同じ部屋で眠る。夜中にあいつのいびきで起きる。暮らし始めの最初はそんなことさえ微笑ましくて、うるさいなって苦笑して、わざと鼻をつまんで起こしてみたりしたけど、最近は腹立つだけだから、枕を投げたり、蹴とばしたり、耳栓をしたりでまた眠る」
 ここがどこなのかを深山くんは分かっているのか、途中の林道を折れて山道へと入っていった。ざくざくと枯れ葉の折れる音が響く。
「これを幸せというんなら、おれはひとりでいいやって思った。それぐらい、飽き飽きしてしまった。……あんなに好きだった相手なのにな、どうしてこんな気持ちになるんだろう。
 向こうはそろそろ両親におれのこと話したい、って言ったんだ。それをおれは拒んでいる。逃げちゃいたい気持ち。おれの気持ちはとっくに離れていて、向こうは諦めずにこれからやって行こう、と思っているのが、とても重い。ああ、このままだと一生この気持ちのままあいつと添うんだって。気が遠くなった。そうやって腐ってたころ、漠さんに会った。人馴れしなくて、不器用で、でもすごい絵を描いて、……惹かれるのはあっという間だった。おれは、あの人がかわいい。すごく、かわいい人だ」
 深山くんはそこで立ち止まって、空を仰いだ。葉を落とした木々の枝の向こうに、青空がちらついている。冷たい空の色をしている。
「漠さん、そういうの全部聞いて、でもおれに抱かれてくれた。今夜だけだっていう約束。……漠さん、薄い体でおれにいいように扱われて、すごく苦しそうだったし、痛そうだった。今日だって起き上がれてないし。なんで、なんでセックスなんかしたかな。気持ちよくなきゃ、一晩だけの相手だなんて全然意味ないのに――」
 深山くんは手で顔を覆い隠すと、そのまま枯れ葉の上に膝をついた。上等なスラックスの膝が汚れてしまうのも構わずに。
 彼はう、と呻いた。泣いているのかもしれないわ。
「――たとえばあいつと別れて、漠さんと一緒になった先にあるものがいまのおれと同じだとしたら、漠さんに飽き飽きしてしまったら、おれは漠さん以外の人とまた恋をするんだろうか?」
 どうかしらね。そういう場合もあるし、そうでない場合だってたくさんあるわ。
「そう思ったら、――踏み出すのが怖い。いまのままがいいんじゃないかと、」
 そのとき、向こうからがさがさと葉っぱを踏み分ける音が聞こえてきた。「ああ、いた、いた」とそれは漠さんだった。深山くんはぱっと立ちあがる。慌てて涙をぬぐって、漠さんの元へ軽やかに駆けていった。
「――大丈夫? 体」
「心配するなよ。確かにきみほど頑丈じゃないけど、軟にも出来てないんだ」
「ごめん」
「なにがだよ」
「目が覚めたときには傍にいてあげたいと思っていて、……怖くなって、逃げた」
 深山くんの正直な言い分に、漠さんは苦笑した。
「深山くんは、誠実だね」
「違う」
「帰らないでいてくれた。わざわざ書き置きまで残してくれた。充分だよ」
 不意に漠さんはしゃがみ込むと、私を抱きあげた。
「つっちゃんは、散歩のいい相棒になっただろう」
 喉をごしごし撫でられて、私は目を細める。
「ああ、確かに」
「……最後のお願い、聞いてくれるかな」
「……なに、」
「なんでもいいよ、小さいころの話をして」
「小さいころ?」
「うん。幼かった深山少年の話を聞きたい」
 漠さんのリクエストに、深山くんは息を吐くと、「じゃあ、冬の話」と言った。
「おれの故郷はばかみたいに雪ばっかり降る町で、冬はいつも、いますぐ雪の降りそうな曇天、っていうイメージなんだ。小学校も高学年のころ、引っ越しで離れてしまった幼馴染がいた。そいつとは仲が良かったから、親の携帯電話借りてメールのやり取りをしたり、たまに手紙を書いた。そいつが引っ越した町は全然雪が降らなくて、冬でもぴかっと晴れるそうだ。それが見てみたくてね……ひとりで電車に乗って、会いに行った」
「どれぐらいの道のりを?」
「さあ、どれぐらいあったのかなあ。隣県を超えてさらに進む、みたいな……すごいんだよ、ちゃんとそいつの住む町まで着いたんだ。駅前で空見あげたら、星が遠くに光っていた」
「友達には、会えた?」
「会えたよ。会えて、絆を深くして、色々経て、おれたちは恋人同士になったんだ」
「そう……」
「そんな時期があったのに、いまじゃこんな気持ちで、それで、おれは――」
 その口を、漠さんは塞いだ。もう喋るな、という風に、両手で深山くんの口を塞いだ。深山くんはびっくりして目を丸くしたけれど、少しだけ目を伏せて、漠さんの手首を取った。その指に深山くんはくちづける。唇を押し当てるだけの、やさしいキスだった。
「――もう、帰りなよ、深山くん」
 漠さんはふるえながらそう言った。
「恋人と暮らす街に、帰るんだ。帰って、シャワーを浴びてたっぷり寝たら、きっと忘れる。もし忘れなくても、どうでもよくなる」
「……」
「おれのことが、……」
 私には、漠さんが必死で「忘れないで!」って叫んでいる声が聞こえたわ。深山くんにも聞こえていたと思う。
 だけど深山くんはこらえて、「分かった、帰る」と、言った。
「帰るけど、どうでもよくなんかならないよ」
 もう一度、深山くんは漠さんを抱きしめた。漠さんはやっぱり腕を絡ませなかったけれど、深山くんの腕の中で、子どもみたいに泣きじゃくっていた。


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拍手[25回]

 深山くん、という人のことについて、私が知っている限りのことを話すわ。彼は背が高い。漠さんも長身の方だけど、もう少し高い。去年、はじめて家に来たときは、ダークグレイのウールコートを羽織っていた。背が高いせいかしらね、ミドル丈のそれはとても似合っていた。漠さんは年がら年中おんなじような格好をしているけれど(大体が薄手のタートルネックに、ワークパンツよ。冬場はそこにダウンを羽織るだけなの)、深山くんはきっとおしゃれさんなのね。いつ来てもシャツの柄が違った。そしてセンスが良かったわ。
 多分、朝いちばんの列車で市街の駅まで来て、そこからレンタカーを借りてやって来るの。到着はいつもお昼ごろよ。「これが楽しみなんです」と言って、駅中で買ってきた駅弁をたいていは持参している。漠さんの分もあるわ。それでふたりでお弁当を食べながら、まずは居間で、ああだこうだと話をする。仕事の話ね。
 たっぷり時間をかけて打ち合わせをしてから、深山くんは漠さんの仕事場に入っていく。大きなカメラを持っているときもあるから、深山くんはカメラマンも兼ねているのかもしれないわね。そこから先はなにが起きていようと私は分からないわ。私が行っちゃいけない場所っていうのはよく分かっているから、たとえ夏場の扉が開いている時期だとしても、私はそこへ立ち入らないしね。(物わかりのいい猫なのよ、私は。)
 時折、楽しそうに弾む声が聞こえるときもある。かと思えば、しんと静まっているときもある。深山くんの声は、漠さんより低いわ。見た目は漠さんより幼い感じがするのにね、とてもいい声をしているの。それが時折響く。やさしい声だと思うわ。
 深山くんは私を見るといつもぎょっとした顔をする。猫が苦手なのかしら、と思ったけれど、どうやらそうじゃないみたい。私の存在を忘れている、って感じかしらね。それからぎこちなく「やあ」って手をあげるけど、私に触れようとはしない。やたらめったら甘ったるい声で触ろうとしてくる人よりもずっといい、とは思うけどね。私たち慣れないもの同士よ。
 借りたレンタカーの車中で、深山くんがなにか物思いにふけっているのを、私知っているわ。
 漠さんの家に着いてすぐには、車の中から出てこないの。クラクションを鳴らさないように上手にハンドルにうなだれて、しばらくじっとしている。それからよしって顔をあげて、車から出てくるの。漠さんは深山くんに対して緊張感を持っているけれど、深山くんもまた漠さんに対して緊張しているのかもしれないわね。どんな緊張かは知らないけれど。
 その日も深山くんはいつもの儀式のように、ハンドルにうなだれてから、車を降りた。
 私は外にいて、深山くんを待っていた。だって家の中じゃ漠さんがあっちうろうろこっちうろうろ、落ち着かないから。車を降りた深山くんはまさか降りたそこに私がいるだなんて思わなかったみたいで、私を見てたいそう驚いていた。
「――おお、えーと、月さん」
 私はつんとおすまし。
「今日はお世話になります。よろしくお願いします」
 と深山くんはきちんと頭を下げてから、後部座席に乗せた荷物を降ろしはじめた。私は先に玄関へ向かう。そしてひと鳴きして、漠さんを呼んだ。
 どかどかと廊下を走る音が中から響いた。勢いよく玄関の扉があく。私の後ろには深山くんがすっと立っていた。漠さん、その姿を見て言葉に詰まったみたいだった。深山くんが「こんにちは」と言う。
「先生、おめでとうございます」
「えっ?」
「個展開催と、画集出版と。ちょっと気が早いけどお祝いに、これをどうぞ」
 そう言って深山くんが漠さんに花束を渡す。あら、いつの間にそんなの用意していたの? 花束は、緑色を基調にしていた。この辺ではまず見かけない、なんだか珍しいかたちの花や実が束ねてある。
「あ、グリーンシャムロックだ。……これクリスマスローズかな? すごいね、花びらが何重にもなってる、」
「さすがお詳しいですね。僕は花の種類がよくわからないから、花屋に全部お任せでした。……先生、漠さんなら、花束をいちばん喜びそうだな、と思って」
 漠さんは照れ笑いを浮かべた。
「色々買ってきたんですよ。お惣菜とか、アイスクリームとか。お酒は苦手だとお伺いしていたので、ジュースをあれこれ、とか」
「ありがとう。実はちょっと心配していたんだ。昨夜雪が舞ったから、日陰は凍っていないかな、車で来るのに、と思って」
「僕の故郷は雪国です。大学卒業までそこにいましたから、慣れっこですよ」
 緊張同士だと思っていたけれど、会話をはじめたら、彼らは滑らかに打ち解けた。もう慣れっこになった家の廊下を、深山くんは漠さんと進む。私はとっくに先に行って、居間のこたつに潜り込んだ。
 深山くんが用意したお惣菜を温めなおして、ふたりは宴会をはじめた。深山くんもお酒が苦手だとかで、アルコールなしの宴だったわ。よく喋るな、っていうぐらいにふたりは喋った。夕方からはじまった宴会は、深夜までゆったりと、途切れることはなかった。私はすっかり眠くなっていて、こたつを出たり入ったりしながら、ゆらゆら寝ていたわ。
 ボーン、と古い時計が鐘を鳴らして、私は目が覚めた。十二時をまわったみたい。居間につながる客間で、漠さんが布団を敷いていた。深山くんの分ね、とはじめは思ったのだけれど、漠さんの様子はなんだかおかしかった。ため息ばかりついている。深山くんの姿が見えない。
 声をかけようとして、やめた。私はこたつ布団の上にしゃんと座りなおして、漠さんを見ていた。がらりと扉があいて、深山くんが部屋に入ってくる。お風呂に入っていたらしかった。漠さんがまとわせている石鹸と同じにおいがしたわ。
 お風呂からあがった深山くんは、におい立つ夜の花だった。寒いのに、薄いシャツ一枚で漠さんの前に現れると、漠さんがまた大きく息をついた。ふたりから同じにおいが立ちのぼっているように見えた。私は直観する。このふたりはいま、同じ方向を向いている。お互いの淋しさに惹かれあっている。
 ぎこちなくふたりはお互いの体を抱きしめあった。
「――寒い」と深山くんは呻くように言った。
「そんな格好でいるからだ」
「言い直します。淋しい」
「……」
「この淋しさは一体なんなんでしょうね」
「……わかるもんか、おれに」
「キスしていいですか、」
 深山くんの求めは漠さんの求めで、ふたりは唇を重ねる。布団に倒れる寸前に、漠さんがなんとか身をよじって、部屋の明かりを消した。
 私はじっと動かず、それを見ていた。

 痛い、と漠さんは呻いた。腕で顔を覆い隠して、「痛い、痛い」とすすり泣いた。
漠さんの上に覆い重なった深山くんが、「ごめん」と謝る。
「いい。痛い、でもやめないで」
「漠さん、」
「やめるな……」
 漠さんの体を深山くんは必死であやした。漠さんの腕は深山くんの体に絡まない。深山くんはそれに困っている風だった。ふたりは体をこんなにも密着させておいて、距離を埋められないでいる。
 漠さんは辛そうだった。深山くんも辛そうだった。



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プロフィール
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粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

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お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
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