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怒っているのか、歩く諏訪の足の速度は速かった。ほとんど駆け出すかのような速さで、春見の先をどんどん行く。春見は真剣に追いかける。帰ろう、と言った通り、諏訪がまっすぐ向かったのは学生寮で、そこだけは聞いてくれたんだな、と春見はほっとする。
寮は静かだった。春休み中であるので帰省している寮生もいるし、旅行に出かけているやつもいるし、昼寝している輩もいたりするのだろう。ぜいぜいと息をしながら寮の玄関をくぐる。諏訪が真っ先に飛び込んだのは、ピアノ室だった。
春見もピアノ室へ入る。諏訪は乱暴にピアノの椅子に腰かけ、鍵盤を一音叩いた。ボーン、と低音が響く。ボーン、とまた、鳴らす。
「尾田から大体は聞いたんだ」
諏訪が答えないことを承知で、春見は語りかける。
「あの、高野ってやつにあれこれ悪い噂流されたとか。それでもなんで、一緒にいるんだ」
一音だったはずの音が、いつの間にか和音になっている。
「あの人のことが、好きか?」
和音。単音。和音。単音。それは次第に大きくなっていく。心臓の音みたいに音を轟かせて、それは曲になっていた。出だしは聞いたことがあった。確かこれも、ラフマニノフだ。
信じられない手の指の動かし方で、諏訪はピアノを叩く。手を休めているときがない。高音から低音へと指はせわしく動き、曲をかき鳴らす。前傾姿勢で、ピアノしか愛せないみたいに。
春見はたまらなくなり、背後からその身体を強く抱きしめた。腕を動かせなくなった諏訪の身体がピアノに触れて、ガン、とめちゃくちゃに鍵盤が鳴った。いきなり鳴りやんだ曲と、耳に残る不協和音。諏訪は全身で春見に抗っていたが、春見の方が力強かった。
「――もう、好きじゃない」
絞るような声で諏訪が言った。
「でも、未練はある」
「……高野さんと、なにがあった?」
「別に、おれの片想いさ。高野さんは尊敬する先輩で、おれは話が出来るだけで嬉しかった。高野さんもおれのことをかわいがってくれた。かわいがってくれたから、勘違いしたんだ。……おれのこと受け入れてくれるんじゃないか、って」
諏訪はふるえていた。春見はますます腕に力を籠める。
「ゲイだってカムアウトして、好きだと言ったら、あの人はおれのことが気持ち悪かったんだろうな。一気に仲がこじれた。それで寮内で、いままで高野さんに喋ったことのあるおれの過去の話なんかを、ばらされた。別におれは平気だった。ただ、本当にこの人には好かれてないんだな、ということが、悲しかった」
「……それでなんでまた、まだ、一緒にいるんだ」
「おれが頼み込んだ。もう好きだなんて言わないから、嫌わないでくれって。好きだなんて言わないから、前みたいに戻りたい、って。あの人は、優しい人なんだ。困りながら、おれに付き合ってくれている。卒コンだって一緒に弾いてくれた。今日だって、一緒に出掛けて、」
「ばっか、なんで優しいやつが人の過去ばらすような卑怯なことするか!」
「……」
「そんなのは優しいって、言わない。弱いって言うんだ」
「二年かかったんだ!!」
いきなり諏訪は叫んだ。
「前みたいに先輩と元通りになるまで、笑えるようになるまで、二年かかった! それがついこの間知りあったばっかりのおまえに分かるかよ! これまでにおれたちのあいだに起こったこと全部! どうやって折り合いつけて徐々に距離を縮めていったかだなんて、おまえに分かるはずない! 放っておけよ!」
深い、ふかい傷が、と思った。あるいは深い悲しみが。諏訪を覆いつくしているのは、なんだろう、いろんなものだ。好きな人に好かれないこと。痛みをこらえて平気な顔をすること。心では散々泣いていて、それを表に出さないように必死でいること。自分に課したたくさんの枷。
「知るはず、ないな、確かに」
春見は愕然とする思いで頷いた。
「火事で住んでたところが全焼したって、処分が楽になったって、平気でいるようなおれだ。諏訪の痛いところは全然、分からない」
だが春見は手の力を緩めはしなかった。
「でも放っておけないよ」
「……」
「諏訪、」
触れている箇所が温かい。諏訪、と囁くと首筋に吐息が当たるのか、諏訪の肌に鳥肌が立った。春の斜陽が、ふたりの身体に当たりはじめる。諏訪は「痛い」と言った。「もう、放せ」
「おれ、どうすればいいかな」
春見はそれを無視して続けた。
「諏訪が抱えているいろんなもん、知らない方がいい? 知ってた方がいい?」
「……おれに訊くなよ、」
「諏訪は、どっちのおれなら楽なのかな、と思ってさ」
「楽」
と、諏訪は軽く笑った。腕の中の身体が、くつくつとふるえる。意外な反応に、春見はびっくりする。
「なんだよ」
「いや、あんたってそうだよな、と思って。楽な方へ流れる。楽天的、ってあんたのことさ。自分や他人のいろんなものを、許して生きてる」
「それは、悪口か?」
「褒め言葉だ」
そうして諏訪はため息をつき、「そういうやつが社会に出てきちんと責任を果たせるんだろうな」とこぼした。
「……なんか真面目な話になってきたけど、……そういえば諏訪、卒業後は?」
「特別支援学校の教員だよ。あんたは?」
「おれは造園会社」
「ああ、あんた農学部だっけ。……どこの造園会社?」
「地元。帰るよ、実家に」
「実家どこ」
「H」
「遠いな」
「遠いよ。――でも山が綺麗なんだ」
春見は徐々に身体の力を緩めた。もう諏訪は逃げないだろう。
知らないままでいいのだと思った。諏訪のなにも、諏訪の口から語られるまでは。
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春見と諏訪は、次第にふたりでいることが多くなった。諏訪がピアノ室にいて音を鳴らしているとき、春見はそこへ訪れた。諏訪は春見に構わず耳をピアノに押し当て、一音だけを鳴らして遊んでいる。春見は脇のパイプ椅子に腰かけ本を読んでいる。そんな風にして、ふたりは時間を共有した。
三月も半ばに差し掛かろうというころ、春見は同室の尾田と出掛けた。映画のチケットをもらったのだが彼女とは都合が合わずに、公開期間が終わってしまうから、と言って、小説が原作のアニメ映画を見に行った。飛行機乗りの話で、ぶんぶん飛び回る戦闘機の速さは圧巻で、なかなか見ごたえがあった。帰りになにか食って帰ろうぜ、と尾田が誘い、でもあまり金がなかったので、ファーストフード店に入ることにした。
店はショッピングモールの一階にあった。向かう途中のカフェで、ウインドウ越しに春見は諏訪の姿を発見した。向かい側には見覚えのある男が座っていた。確か、高野という男だ。諏訪とピアノを弾いた。
尾田もそれを見て、顔をあからさまに顰めた。「なんで高野さんとつるむかな」と言う。春見にはその真意が分からなかった。
「なに? なんで高野さんとつるむのが悪いの」
訊ねると、尾田は眉根を寄せてはーっと息を吐いた。それから「言っていいもんか分からんが」と断りを入れ、「最近はおまえ諏訪さんとつるんでるもんな」と複雑な表情を浮かべて言った。
「なんだよ、」
「どうしておれや、おれたちが諏訪さんの腹の刺青だの、ゲイだの、虐待だのの話を知っていると思う? 全部高野さんが言いふらしたことなんだよ。高野さんは元・寮生でな。諏訪さんとは仲が良かったが、あるときを境に悪くなった。そのあとだよ。諏訪さんの噂が流れだしたのは」
「……仲が悪くなった腹いせに、諏訪のこと言いふらしたのか?」
「そういうことだと思う。……高野さんはそのあとすぐに退寮して、ひとり暮らしをはじめた。諏訪さんは漏らされた噂のせいで変な目で見られたり、あからさまな嫌がらせを受けたりしたもんだが、――あの通り、ほかの寮生とは慣れあわないで、涼しい顔で寮にいる。不思議なぐらいだ」
「仲が悪くなってそれでなんで? なんでまたつるんでいるんだ? 卒コンだってふたりで弾いて……」
「それが不思議なんだ。おれにも分からん。けど、高野さんの、諏訪さんへの陰口はひどかった。いまでも覚えているけど、……悪意があった、明らかに」
「どんな」
「……『知ってるか? 諏訪はゲイだってよ』って。おれたちは食堂に四人ぐらいでたむろしてて、めし食いながらあれこれ喋ってる最中だった。遠くの席に、諏訪さんも座ってた。それを高野さんはへらへら笑って普通の喋り声で言った。耳が悪いから聞こえない、とでも思ったのかもしれない。それから諏訪さんについて色々と喋り出したんだ」
「刺青が入ってるとか、暴行を受けたとか、を?」
「そう。高野さんの話は信用に足りなかったけど、とにかく諏訪さんは育ちの悪い、そういうきな臭い男だから、信用しない方がいいぜ、って。……ちょうどそのころ、寮生の部屋から金がなくなる、っていう盗難事件があってな。仲間同士が疑心暗鬼になっているころだった。案外、諏訪が盗ったのかもよ、って言われるとな。高野さんの噂話も、本当に思えた。それを高野さんは何人もの寮生に、話したらしい。あっという間に広まった」
「……」
「諏訪さんの態度もああだろ? 人を寄せ付けないっていうかさ。よく思ってないやつからすればさ、高野さんの噂話は自分の気持ちをさらに焚きつけるようなもんでさ。一度、衝突も起こった。寮生のひとりが諏訪さんの態度に腹を立てて、掴みかかったんだ。『おまえが金盗ったんだろ!』って」
どうしようもない怒りが、ふつふつと湧いてきた。そこまでしてなぜ諏訪は虐げられなければならないのか。「金を盗った犯人は?」と訊くと、尾田は首を横に振った。
「分かんないまんまだ。盗られたやつも、今回限りは警察沙汰にしない、と寮会議で話したからな」
「……掴みかかられた諏訪はどうなった?」
「喧嘩になる前に周りのやつらが止めたさ。大体、ゲイで刺青があって耳が不自由なら金を盗るのか? 理屈が合わないだろ。でもあのときはみんな、ピリピリしてたから」
「なんで、なんでそんな噂流したやつと一緒にカフェにいんだよ……一緒にピアノ弾いたり、」
「な、訳が分からないだろ。――いやな話したな。行こうぜ」
と尾田に肘を引かれて、春見は抗った。尾田が驚いた顔をする。春見は「先帰ってて」とだけ言って、走り出す。カフェに入ると、もう諏訪と高野しか見えなかった。ふたりのいるテーブルしか見えない。一直線に彼らの元へ向かい、テーブルの際に立った。
突然現れた春見に、諏訪は顔をあげる。「なんでこんなやつと一緒にいるんだよ」と言うと、諏訪は、分からない、という顔をした。
「なんであんなこと言われてんのに平気な顔して一緒にいるんだって聞いてるんだよ」
諏訪はじっと春見を見上げた。瞳がまた、しんと透きとおっている。向かいに座る高野が「なんだおまえは」と言ったのを遮って、春見は諏訪の腕を掴んで立ちあがらせた。
「――ちょっ」
「行こうぜ」
「どこへ、……春見、」
「寮だよ。帰ろう」
高ぶっている心を、努めて冷静に保つ。「帰ろう」と再び言うと、諏訪は少しだけうなだれてから、上着を羽織った。
「じゃあ、先輩」
「おい、諏訪!」
諏訪は振り返らず、春見の先を歩いて行った。
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卒業コンサートが終わった日のうちには、諏訪に会えなかった。部屋で隣の様子を窺いながら待っていたのだが、諏訪は帰寮しなかった。根負けして眠ってしまった春見は、明け方になって寒さで目が覚めた。足が冷たくてたまらない。それでも温い布団をなんとか剥がして起き上がってみると、カーテンの向こうはうす明るかった。
二段ベッドの梯子を下りる。尾田も帰寮していないのは、彼女のアパートに泊まりに行っているからだ。春見は窓辺へ寄って、カーテンを開ける。そこは、真っ白だった。ぼたぼたと雪が降り積もっている。春も近いこんな時期に、名残り雪だというのか、雪が降っていた。
これでは庭の梅の花は凍ってしまうだろう。せっかく咲いた。慌ててダウンジャケットを引っ張り出して、春見は部屋を出る。と、そこへ諏訪に出くわした。風呂の道具を持っていて、髪は濡れ髪だった。朝風呂からの帰りなんだろう。
諏訪はふい、と目をそらして春見の隣を通り抜けようとする。春見はその腕を不意に引いた。振り払われはしなかったが、諏訪はきついまなざしで春見を見た。
「――雪だよ」
「え?」
「雪が降ってる」
その台詞が意外だったのか、諏訪はしばらく沈黙した。それからぶっきらぼうに言った。
「知ってる。風呂場の窓から見えたから。雪が、なんだよ」
「せっかく咲いた梅が可哀そうだな、と思って」
「そうだな」
廊下から窓なんか、ましてや梅の花なんか見えないのに、諏訪は視線を遠くに向けた。と、くしゃみをする。雪が降るような陽気の中を、洗い髪のままで、立ち話をさせているのだ。着ている部屋着も薄い。春見は慌てて、諏訪を部屋に入るように促した。
「――部屋、来るか?」
ところが諏訪は、春見の度肝を抜くようなことを言い放った。
「今日この後予定がないなら。先輩からもらった日本酒がある。雪見酒と行こうじゃないか」
「……予定はない。……行く」
珍しく懐かれたことに驚いていた。
二段ベッドの梯子を下りる。尾田も帰寮していないのは、彼女のアパートに泊まりに行っているからだ。春見は窓辺へ寄って、カーテンを開ける。そこは、真っ白だった。ぼたぼたと雪が降り積もっている。春も近いこんな時期に、名残り雪だというのか、雪が降っていた。
これでは庭の梅の花は凍ってしまうだろう。せっかく咲いた。慌ててダウンジャケットを引っ張り出して、春見は部屋を出る。と、そこへ諏訪に出くわした。風呂の道具を持っていて、髪は濡れ髪だった。朝風呂からの帰りなんだろう。
諏訪はふい、と目をそらして春見の隣を通り抜けようとする。春見はその腕を不意に引いた。振り払われはしなかったが、諏訪はきついまなざしで春見を見た。
「――雪だよ」
「え?」
「雪が降ってる」
その台詞が意外だったのか、諏訪はしばらく沈黙した。それからぶっきらぼうに言った。
「知ってる。風呂場の窓から見えたから。雪が、なんだよ」
「せっかく咲いた梅が可哀そうだな、と思って」
「そうだな」
廊下から窓なんか、ましてや梅の花なんか見えないのに、諏訪は視線を遠くに向けた。と、くしゃみをする。雪が降るような陽気の中を、洗い髪のままで、立ち話をさせているのだ。着ている部屋着も薄い。春見は慌てて、諏訪を部屋に入るように促した。
「――部屋、来るか?」
ところが諏訪は、春見の度肝を抜くようなことを言い放った。
「今日この後予定がないなら。先輩からもらった日本酒がある。雪見酒と行こうじゃないか」
「……予定はない。……行く」
珍しく懐かれたことに驚いていた。
同じ間取りであるのに、諏訪の部屋は閑散としていた。ものがない。寮の備品である二段ベッドと事務机、棚のほかは、諏訪所有のものらしきものがあまり見当たらなかった。寮の規則では、家電や暖房器具の持ち込みが制限されている。ちいさな石油ストーブがひとつあるだけで、諏訪は「寒いから羽織れ」と言って、毛布を寄越した。
諏訪は事務机の脇に置いてあったサイドテーブルを引っ張り出して、その上に酒瓶を載せた。カーペットが敷いてあるわけではないから、じかに座るには床は冷たすぎた。毛布を身体に巻き付け、諏訪がグラスに注いでくれた日本酒を煽る。グラスはひとつしかないらしく、諏訪自身はマグカップに日本酒を注いでいた。
静かだった。耳をすませば雪の舞い散る音さえ聞こえそうなほど、音がない。諏訪に「髪乾かさなくていいの?」と訊くと、諏訪の答えは「勝手に乾くだろ」とのことだった。もし髪に触れることが出来れば、それはとても冷たいだろうと想像する。シャワーで温めた身体は簡単に冷えそうだ。こちらが身震いしてしまいそうだった。
「ピアノ、聴いたか?」
諏訪が訊ねた。
「聴いた。ピアノが二台あったから驚いた。てっきりひとりで弾くかと思ってたから」
「簡単な話だよ。ピアノの数が増えれば、振動の、ふるえの幅も広がる。ラフマニノフは重低音が響くから好きだ。おれの耳にも、届く」
「……あの人、誰?」
「あの人?」
「もう片方のピアノを弾いてた人」
諏訪は複雑な表情を、一瞬だけ浮かべた。そしてすぐに冷笑した。「おれが慕ってる院生だよ。仲がいいんだ。――今回もピアノを引き受けてくれた」
くい、と諏訪は酒を煽る。それから窓の外を見て、春見を正面から見て、「あんたはあんまり悲壮感がないな」とこぼした。
「悲壮感?」
「アパート、燃えたんだろう? 全部焼失したって聞いたけど、その割にはケロッとしてるように見えるから」
「ああ……実際、あんまり痛手だと思ってない」
春見は苦笑した。
「卒業間際だったせいかな。整理しようと思ってたもの、全部燃えた。幸い、貴重品だけは持ち出せたから、……まあ、買ったばっかりだったパソコンが燃えたとか、衣類が全くないとか、布団も燃えたとか、そういうのは困ったけど」
「そんなもんか?」
「そんなもんだよ。ああ、後片付けが大変だったな。あとは……んん、でも、寮に入れてもらえて助かった。寮費安いし、規則はあるけどどうせあと一か月程度だしな。寝場所もある。めしも食える。風呂も入れて、服も、なんとかなってる。自分はきっとラッキーだったんだと思ってる」
「……」
「よくさ、言うじゃん。不幸中の幸い、ってやつ。おれはそれなんだ」
「……そう、」
諏訪が黙ったので、春見も黙った。時間を確認すると、朝の五時だった。これではまだ寮の人間は休んでいる最中だろう。
諏訪が顔をあげた。薄い虹彩の瞳にまっすぐに見つめられて、どきりとした。諏訪はマグカップをサイドテーブルに置くと、ゆっくりと春見に近づいた。春見はどうしてよいやら、ただ目を離せない。春見の肩先に諏訪の毛先が触れた。体重が徐々に預けられる。
「――蝶、見るか?」
諏訪が春見の耳元で囁く。かすれていた。
「……近い間柄の人にじゃないと見せないんじゃないの?」
「淋しい」
その一言に、春見ははっと顔をあげる。諏訪は笑っておらず、泣きそうにも見えた。なにか壮絶な淋しさを、苦しみを、抱えているように思えた。
春見は「蝶は、見ない」と答えた。
「淋しいだけで、誰でもいいんだろう? だから、蝶は見ない。その代わり、抱いててやる」
と、春見は腕を広げ、諏訪を抱きしめた。上から毛布でしっかりと覆う。
「これで淋しさが紛れるもんかわからんけど、いまはこうしていよう」
「あんた、ひどい男だな」
「いつかちゃんと見るよ、蝶。きっと今日は――その日じゃない」
室内なのに、吐く息が白かった。諏訪を抱いたまま、春見はゆっくりと床に背を落とす。諏訪を抱いて、目を閉じた。人肌は安心で、徐々に身体は温まっていった。
← 3
→ 5
諏訪は事務机の脇に置いてあったサイドテーブルを引っ張り出して、その上に酒瓶を載せた。カーペットが敷いてあるわけではないから、じかに座るには床は冷たすぎた。毛布を身体に巻き付け、諏訪がグラスに注いでくれた日本酒を煽る。グラスはひとつしかないらしく、諏訪自身はマグカップに日本酒を注いでいた。
静かだった。耳をすませば雪の舞い散る音さえ聞こえそうなほど、音がない。諏訪に「髪乾かさなくていいの?」と訊くと、諏訪の答えは「勝手に乾くだろ」とのことだった。もし髪に触れることが出来れば、それはとても冷たいだろうと想像する。シャワーで温めた身体は簡単に冷えそうだ。こちらが身震いしてしまいそうだった。
「ピアノ、聴いたか?」
諏訪が訊ねた。
「聴いた。ピアノが二台あったから驚いた。てっきりひとりで弾くかと思ってたから」
「簡単な話だよ。ピアノの数が増えれば、振動の、ふるえの幅も広がる。ラフマニノフは重低音が響くから好きだ。おれの耳にも、届く」
「……あの人、誰?」
「あの人?」
「もう片方のピアノを弾いてた人」
諏訪は複雑な表情を、一瞬だけ浮かべた。そしてすぐに冷笑した。「おれが慕ってる院生だよ。仲がいいんだ。――今回もピアノを引き受けてくれた」
くい、と諏訪は酒を煽る。それから窓の外を見て、春見を正面から見て、「あんたはあんまり悲壮感がないな」とこぼした。
「悲壮感?」
「アパート、燃えたんだろう? 全部焼失したって聞いたけど、その割にはケロッとしてるように見えるから」
「ああ……実際、あんまり痛手だと思ってない」
春見は苦笑した。
「卒業間際だったせいかな。整理しようと思ってたもの、全部燃えた。幸い、貴重品だけは持ち出せたから、……まあ、買ったばっかりだったパソコンが燃えたとか、衣類が全くないとか、布団も燃えたとか、そういうのは困ったけど」
「そんなもんか?」
「そんなもんだよ。ああ、後片付けが大変だったな。あとは……んん、でも、寮に入れてもらえて助かった。寮費安いし、規則はあるけどどうせあと一か月程度だしな。寝場所もある。めしも食える。風呂も入れて、服も、なんとかなってる。自分はきっとラッキーだったんだと思ってる」
「……」
「よくさ、言うじゃん。不幸中の幸い、ってやつ。おれはそれなんだ」
「……そう、」
諏訪が黙ったので、春見も黙った。時間を確認すると、朝の五時だった。これではまだ寮の人間は休んでいる最中だろう。
諏訪が顔をあげた。薄い虹彩の瞳にまっすぐに見つめられて、どきりとした。諏訪はマグカップをサイドテーブルに置くと、ゆっくりと春見に近づいた。春見はどうしてよいやら、ただ目を離せない。春見の肩先に諏訪の毛先が触れた。体重が徐々に預けられる。
「――蝶、見るか?」
諏訪が春見の耳元で囁く。かすれていた。
「……近い間柄の人にじゃないと見せないんじゃないの?」
「淋しい」
その一言に、春見ははっと顔をあげる。諏訪は笑っておらず、泣きそうにも見えた。なにか壮絶な淋しさを、苦しみを、抱えているように思えた。
春見は「蝶は、見ない」と答えた。
「淋しいだけで、誰でもいいんだろう? だから、蝶は見ない。その代わり、抱いててやる」
と、春見は腕を広げ、諏訪を抱きしめた。上から毛布でしっかりと覆う。
「これで淋しさが紛れるもんかわからんけど、いまはこうしていよう」
「あんた、ひどい男だな」
「いつかちゃんと見るよ、蝶。きっと今日は――その日じゃない」
室内なのに、吐く息が白かった。諏訪を抱いたまま、春見はゆっくりと床に背を落とす。諏訪を抱いて、目を閉じた。人肌は安心で、徐々に身体は温まっていった。
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諏訪のピアノを聴く機会は、思いのほか早く巡って来た。音楽科に在籍する学生による、卒業コンサートの開催だ。「金取るぞ」の言葉通り、チケットを買わされた。いわゆる「卒コン」と呼ばれているもので、毎年開催されていたが、なにぶん分野が遠くて興味もなかった。大学が所持している音楽ホールを利用してのコンサートだという。音楽科に在籍する今年度の卒業予定者二十名程度が、ピアノなり声楽なり器楽なりを演奏するという。
行ってみて驚いた。大学の施設といえど足を踏み入れるのははじめてだったが、本格的な音楽ホールだったのだ。そして来ている客も、年齢の幅が広かった。中には蝶ネクタイやワンピース姿の客もいた。これじゃまるで本物のコンサートじゃないか、と春見は思う。学生がやるのだから、もっと気楽なものなんだと思い込んでいた。
春見の隣には、尾田が座った。尾田の交際相手も音楽科で、フルートを専攻しているという。開演前に、プログラムに目を通す。尾田の彼女は中ごろの順番で、諏訪の演奏はいちばんはじめだった。
諏訪の曲目は、ラフマニノフ。「2台のピアノのための組曲第2番作品17より 第4楽章 タランテラ」と書かれていた。諏訪の名前の隣に知らない名前――高野悟、が並んでいた。2台のピアノのための組曲、というからにはピアノが二台登場するということか。考えていると、尾田がぽそりと「高野(たかの)さんと弾くんだな」と呟いた。
「たかのさん?」
「あ、いや、諏訪さんの曲目のこと」
「誰? 高野さん」
「……音楽科の院生で、いま一年」
尾田は少々言いにくそうに声を顰める。なんだ、と問いかけようとして開演を知らせるブザーが鳴った。慌ててスマートフォンの電源を落とす。いつの間にかステージにはちょうど互い違いにうまくはめ込んで、二台のグランドピアノが置かれていた。
舞台袖から諏訪が出てきた。拍手が起こる。せっかくの卒業コンサートなのに、諏訪ときたらシャツにセーターを重ねただけの格好で、かろうじてネクタイは締めていたが、いつもと変わりなかった。諏訪に続いて長身の男が出てくる。向かって右側のピアノに高野が座り、左側のピアノに諏訪が腰かけた。傍には楽譜をめくる係の学生もスタンバイしている。
ふたりは目くばせをした。重厚な低音が右側から響き、弾けるように左側の諏訪の指が鍵盤を滑る。ふたつのピアノは音階をあげながら重なりあって、強く鍵盤を叩きつける。間。また叩く。間。
高野の指から低音がガンと鳴り渡ると、応えるように諏訪の指がテンポを踏んだ。八分の六拍子で奏でられる音楽は、日ごろ一音で遊んでいる諏訪からは想像もつかないほどの激しさだった。二台のピアノは絡みあい、分離し、引き立てあう。とりわけ重厚な低音は、こちらにまで振動が伝わって来るかのようだった。なるほどな、と春見は思う。諏訪の鼓膜を震わせる振動を求めた結果が、ラフマニノフなのだろう。
高野と諏訪はお互いの鍵盤に夢中で、はじめの目くばせを除けば一向に顔をあげない。ふたりとも前かがみに、超絶技巧に夢中になっている。それでもぴったりと一致し、乱れないテンポ。
親しい誰かなのだ、という気が、ふっとよぎった。諏訪にとって、高野はきっと親しい。腹にあるとされる蝶を知っている人物かもしれない。二台のピアノを奏でるふたりからは、熱意、気迫、それ以上に信頼や親密さが伝わって来た。
クライマックスに向かうにつれて、春見は見ていることが辛くなり、目を閉じた。はじめの衝撃を失わないまま、失速を知らずに、音楽はエンディングを迎えた。春見はようやく目を開ける。拍手が鳴り渡っていた。
この気持ちをどう表せばよいだろうか。嫉妬かもしれないし、衝撃であるし、とにかく心はざわめき、波立っていた。春見は思わず席を立つ。それから尾田の制止にもかかわらず、ホールを後にした。
春見は走る。なんだかめちゃくちゃな気分だった。走って忘れたい、あの低音。眉間にしわを寄せながらも、音を愛し、見事な演奏を披露した諏訪に会いたい。
あてもなく走った。
行ってみて驚いた。大学の施設といえど足を踏み入れるのははじめてだったが、本格的な音楽ホールだったのだ。そして来ている客も、年齢の幅が広かった。中には蝶ネクタイやワンピース姿の客もいた。これじゃまるで本物のコンサートじゃないか、と春見は思う。学生がやるのだから、もっと気楽なものなんだと思い込んでいた。
春見の隣には、尾田が座った。尾田の交際相手も音楽科で、フルートを専攻しているという。開演前に、プログラムに目を通す。尾田の彼女は中ごろの順番で、諏訪の演奏はいちばんはじめだった。
諏訪の曲目は、ラフマニノフ。「2台のピアノのための組曲第2番作品17より 第4楽章 タランテラ」と書かれていた。諏訪の名前の隣に知らない名前――高野悟、が並んでいた。2台のピアノのための組曲、というからにはピアノが二台登場するということか。考えていると、尾田がぽそりと「高野(たかの)さんと弾くんだな」と呟いた。
「たかのさん?」
「あ、いや、諏訪さんの曲目のこと」
「誰? 高野さん」
「……音楽科の院生で、いま一年」
尾田は少々言いにくそうに声を顰める。なんだ、と問いかけようとして開演を知らせるブザーが鳴った。慌ててスマートフォンの電源を落とす。いつの間にかステージにはちょうど互い違いにうまくはめ込んで、二台のグランドピアノが置かれていた。
舞台袖から諏訪が出てきた。拍手が起こる。せっかくの卒業コンサートなのに、諏訪ときたらシャツにセーターを重ねただけの格好で、かろうじてネクタイは締めていたが、いつもと変わりなかった。諏訪に続いて長身の男が出てくる。向かって右側のピアノに高野が座り、左側のピアノに諏訪が腰かけた。傍には楽譜をめくる係の学生もスタンバイしている。
ふたりは目くばせをした。重厚な低音が右側から響き、弾けるように左側の諏訪の指が鍵盤を滑る。ふたつのピアノは音階をあげながら重なりあって、強く鍵盤を叩きつける。間。また叩く。間。
高野の指から低音がガンと鳴り渡ると、応えるように諏訪の指がテンポを踏んだ。八分の六拍子で奏でられる音楽は、日ごろ一音で遊んでいる諏訪からは想像もつかないほどの激しさだった。二台のピアノは絡みあい、分離し、引き立てあう。とりわけ重厚な低音は、こちらにまで振動が伝わって来るかのようだった。なるほどな、と春見は思う。諏訪の鼓膜を震わせる振動を求めた結果が、ラフマニノフなのだろう。
高野と諏訪はお互いの鍵盤に夢中で、はじめの目くばせを除けば一向に顔をあげない。ふたりとも前かがみに、超絶技巧に夢中になっている。それでもぴったりと一致し、乱れないテンポ。
親しい誰かなのだ、という気が、ふっとよぎった。諏訪にとって、高野はきっと親しい。腹にあるとされる蝶を知っている人物かもしれない。二台のピアノを奏でるふたりからは、熱意、気迫、それ以上に信頼や親密さが伝わって来た。
クライマックスに向かうにつれて、春見は見ていることが辛くなり、目を閉じた。はじめの衝撃を失わないまま、失速を知らずに、音楽はエンディングを迎えた。春見はようやく目を開ける。拍手が鳴り渡っていた。
この気持ちをどう表せばよいだろうか。嫉妬かもしれないし、衝撃であるし、とにかく心はざわめき、波立っていた。春見は思わず席を立つ。それから尾田の制止にもかかわらず、ホールを後にした。
春見は走る。なんだかめちゃくちゃな気分だった。走って忘れたい、あの低音。眉間にしわを寄せながらも、音を愛し、見事な演奏を披露した諏訪に会いたい。
あてもなく走った。
寮にはピアノがあった。これが意外で仕方がなかったが、置いてあった。ピアノ室なる部屋があり、そこにグランドピアノがあった。ピアノだけでいっぱいになるような部屋の狭さだったが、たまにぽろぽろと、部屋から音が漏れていた。
春見が所属するこの大学は、十の学部が存在する大きな総合大学だ。おんぼろの学生寮には様々な学部の学生が集っていた。その中には芸術学部があり、映像や音楽、舞台芸術を学べる学科もあったので、ピアノが置いてあるのは必然だったのかもしれない。だが日ごろ音楽とは遠い生活をしていた春見には、寮にピアノがあるということが、不思議に思えた。
ピアノ室から音が漏れている。ポーン、ポーンと一音だけが間隔を置いて鳴らされている。いまこの寮の中でピアノを常習的に弾くのは、音楽科の諏訪だけだという。だがそれにしても一向に曲が鳴らされない。調律でもするかのように、一音ずつしか鳴らないのだ。
尾田に聞くと、「諏訪さんはいつもそうだな」と答えた。
「曲を弾いているところは、あんまり聞いたことがない。音を鳴らして遊んでいる感じだ」
その姿も、意外に思った。諏訪は固く真面目で、いつも眉間にしわが寄るような、きつい顔立ちを崩さない。だから「遊び」などという言葉がほとほと似合わないのだ。
卒業までの残り一か月半を、春見は学生寮で過ごすことにした。
後期の授業はすでに終了していて、卒業論文も提出し終えたし、あとは卒業式を待つだけだ。だから実家に帰ってしまうのも手だと思ったが、なにぶん実家は遠すぎた。雪の多い町なので、冬場だけは帰りたくないと思っている。そこへ帰るよりも、もう少しアルバイトを続けて、仲間たちの暮らすこの街にいたいと思った。
尾田がこの寮を出ていくのは三月最終日だと言った。もともと、一部屋につきふたり入ることが基本となる寮はいま、定員割れしているおかげでひとり一部屋ずつもらえている。ふたり部屋をひとりで使うと寮費は少し割高になるが、ふたり部屋をふたりで使うとなんとひと月五千円で暮らせるという。尾田に訊けばあっさりと「いいぜ」と言ったので、尾田と同室扱いにしてもらって入寮した。最低限の家電は揃っているし、布団もある。誰かと暮らすことに抵抗はない性質だった。寮の規則は守らねばならないが、門限があるとかそんな寮ではなかったので、卒業までの思い出作りのような気持ちだった。
尾田の部屋は諏訪の隣で、だから諏訪にはよく出くわした。週に一度の寮生ミーティングで「卒業までのあいだだけどよろしく」とあいさつをしてみたが、諏訪の反応は薄かった。それからコンパに流れたのだが、諏訪は不参加と言って、すぐ部屋に閉じこもってしまった。
諏訪は徹底的に無口で、言葉を発しなかった。たとえば朝起きて炊事場で出くわしても、おはようの一言さえない。よくこんなコミュニケーション不足で寮生活を四年も送れたな、と思うぐらいだ。誰に対してもそうなの? と尾田に訊けば、尾田は「そうだな」と言う。「諏訪さんのことはあんま気にすんなよ。気にするだけ割食っていやな思いするだけだから」と助言も受けた。どうにも寮生のあいだでの諏訪の評価は低すぎたが、春見はむしろ諏訪のことが気になった。出会いの素肌の記憶が生々しく残る。触れたわけではないのに、触覚を強く意識した。指が勝手に諏訪を求め、空を叩いている。
その気持ちをはっきりと恋だと自覚できたのは、まもなく三月、というころだった。諏訪のピアノを聴いたのだ。正確には、見た、と言う方が正しい。いつものようにアルバイト先から帰寮して、ふと寮の門をくぐると、梅の花が綻んでいるのを見つけた。その先には寮の建物があり、ちょうど一直線で、ピアノ室の窓が見えた。窓の向こうには諏訪がいた。右耳をグランドピアノに押し当て、眠るように目を閉じて、ポーン、ポーンと一音一音を鳴らしていた。
春が近い。窓から差し込んだ日差しの下に、諏訪の肌が白く発光するかのように存在していた。グレイのTシャツに、カーディガンを羽織っている。首筋はなまめかしく、脊椎が浮いているのが分かった。
音と視覚。それは強烈な感情を伴って、春見を襲った。打たれたまましびれ動けないでいる。いつまでも眺めていたかった。あるいはいますぐ部屋を訪れて、諏訪に触れたかった。
呆然と立っている春見の視線が、どこで分かったのだろうか。ふと諏訪は身体を起こし、窓の外を見た。梅の花越しに視線がぶつかる。
諏訪の表情は、いつもと変わらないように思えた。きつく、人を拒絶するようなまなざしだ。しばらくふたりは視線を合わせたままでいたが、諏訪の方から目をそらした。それからピアノの蓋を閉めると、おもむろに立ち上がり、部屋を出て行ってしまった。
まるで人に慣れない獣のようだと思う。その逃げ足を、追いかけてみたくなった。玄関へまわり、靴を脱ぐのももどかしい思いで、春見は寮の内部へ入る。廊下を駆ける。食堂を抜けて階段をあがると、自室には向かわず、その隣の諏訪の部屋の扉を叩いた。
「諏訪さん、諏訪、おい、諏訪っ」
ドンドンと扉を叩き続けると、根負けした諏訪が煩わしげな顔で扉を開けた。対面して、近くで視線を合わせて分かった。諏訪は瞳の色が薄い。透き通る茶色い虹彩越しに、諏訪という人柄が分かる気がした。――人を拒絶するようでいて、実は怯えている、ということ。
「あ、のさ」
「……なに、」
諏訪は視線を逸らした。それでも発した言葉には、硬さはあれど拒む響きは感じられなかった。春見はほっとする。その安心感は自分でも分かるほど顔に出た。春見の唐突な笑顔に、諏訪は面食らったようだった。
「腹に刺青があるって本当?」
質問には、さらに面食らっただろうと思われる。春見自身もまさかこんな直球を投げようとは思いもしなかった。諏訪はまるくひらいた目を瞬かせた。怒られると思ったのに、諏訪はため息をついただけだった。
「――確かめてみるか?」
「えっ」
「おれがゲイだってことも聞いているんだろう? おれは親しい人間にしか身体を見せないことにしている。親しいってのは、心もそうだけど、身体の距離の話だ。見たところあんたはゲイって感じじゃないけど、おれのことは、気になってる。違うか?」
あからさまな挑発だった。思いがけない展開に、春見はうろたえる。つまり、諏訪の腹が見たいなら身体の付き合いをしろ、というところか。わずかなためらいが伝わったのだろう。諏訪はそら見ろ、という風にうすく笑って見せた。
「その気がないならおれに興味なんか持つな。ちょっと噂があるぐらいで、面白がりやがって」
「そういうわけじゃ、」
「じゃあなんだよ」
「……ごめん、さっきの質問は、配慮が足りなかった。おれが悪かった。ただ、諏訪が、……ピアノを鳴らしている姿は、単純に好きだと思った」
好き、と言語化してはじめて、そうか恋だと自覚できた。こうして話が出来ることが嬉しい。たとえ諏訪の方は、その気がなくても。
好きだ、という言葉に諏訪はピクリと反応した。睨みつけてくる。その人馴れしない仕草が、春見には微笑ましく思えた。
「どうして曲を弾かないんだ?」
尋ねると、諏訪は「振動を楽しんでいる」と答えた。
「振動」
「音には振動が付きものだ。おれの右耳はあんまりよくないから――なんでもいいから鍵盤叩いて、音のふるえに浸ってるんだ」
「ピアノ、好きか?」
「あんたよりは確実に」
「はは」
春見は笑った。笑いながら、どうやったらこいつも笑うかなあと考えていた。醒めた瞳が、弧を描くさまが見たい。
「今度、ピアノ聴かせて」
甘えた声が出た。こんなのは、恋人にだってそうそう聞かせない、という甘さだ。諏訪はそれが嫌なのか、困るのか、またきゅうっと眉根を寄せた。なかなか笑ってくれない。
「金、取るぞ」
「それぐらいすごいんだ?」
「超絶技巧」
「へえ、聴きたい」
諏訪はますます表情を険しくする。でも春見をそんなには厭ってはいないと分かる。そのもの慣れない感じが、やはりいいなと思った。
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プロフィール
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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
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お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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