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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 所用で少し遠くの、ここ近辺ではいちばんの繁華街のある駅前に出ると、日曜日だったせいか、派手な格好をしたキャンペーンガールたちがそこここにいた。一堂に白いかつらをかぶり、白いシャイニーなミニワンピースを穿いて、やはり白のブーツ姿で、キャンディを配っていた。春先、花粉症の季節だ。花粉症に効くというキャンディの試供品を配布しているようだった。彼女らを見て、キャンペーンのテレビコマーシャルを思いだした。アイドルがイメージカラーの白いかつらをかぶって、シャイニーな白いワンピース姿で、「これで花粉症とはおさらば!」などと言っていた。
 風船を持っているキャンペーンガールもいて、彼女は子どもに社名ロゴの入った手持ち風船を渡していた。カラフルな色合いが、春の日差しの目に留まる。春先のぽかぽか陽気の日でよかったな、と思う。冬場のキャンペーンガールなどやったら大変だ。ユニフォームに防寒もへったくれもないだろう。ぺらっぺらの衣装で、真冬に試供品を配る彼女らを想像すると、気分だけで風邪をひきそうに思えた。
 さしずめ、キャンペーンガールというよりはキャンディガールと言ったところか。宇宙人みたいな格好のひとりから、飴をもらった。友山一路(ともやまいちろ)は、早速それを口に放り込む。花粉症ではなかったが、もらった手前、すぐに処理しないとぐずぐずに溶けるまで放置し結局は捨ててしまうと分かっていた。
 駅前から延びる商店街へと進む。ここの一角で一路の友人が衣料品店を営んでおり、そこに用事があるのだ。久しぶりに来た街だったので道をひとつ間違え、さらに修正を誤り、商店街を右往左往した。商店街の外れにもキャンディガールはいた。白く瞬いているからよく目立つ。駅前で見かけた子らより背が高いように思えた。彼女はにこにこ笑いながら、というよりも笑顔だけで、キャンディをぽんぽん配っていた。
 一路が通り過ぎようとすると、キャンディを持った手がさっと伸びる。一路はとっさに頬を指さし、「もらったよ」の合図をしようとした。普段ならこんな人懐こいことをしないのに、ついジェスチャーしてしまったのは、彼女の笑顔につられたからだ。キャンディガールはにこっと笑って、一路と目線を合わせた。途端、その瞳がひらかれる。一路はとっさに、脳の奥に衝撃のようなものを感じた。記憶がスパークしている。どこかで会ったことのある子。そんな気がした。
 キャンディガールはすぐ笑顔を取り繕い、もう動作を次の客へと向けていた。週末の晴れた昼下がりだったので、客はいくらでも通った。一路は茫然としながら、来た道を戻り、商店街へと引き返す。ここまで完ぺきに迷子になってしまったら、友人に電話するしか仕方がなかった。
 コールが鳴っているあいだ、彼女の見開いた目や、表情なんかを反芻していた。やはりどこかで会っているが、この違和感はなんだろうか。しばらくして友人が応答したので、それきり考えるのをやめた。帰りの電車で再び思いだしたとき、一路はその衝撃に、混雑する車内で思わず「あ!」と声をあげてしまった。
 ――穂積伯幸(ほづみたかゆき)。
 あの商店街外れのキャンディガールの正体は、女装した男だ。

 *

 一路が社会人という身分でありながら大学で教鞭をとるようになったのは、去年の四月からだった。それまでは繊維を研究・開発する会社の研究員として勤めていた。その会社は大学と連携して研究を行っており、研究所の所長から、社会人講師の枠に欠員が出てしまったから大学に出向いて講義をしてくれないか、と直々に辞令がくだった。一路は大学生、院生、大学教授助手、と進んでいまの会社に来ていたので、学生への講義は慣れており、ゆえの辞令だった。
 穂積伯幸は、一路の講義を受ける側のひとりだった。学生ではなく、社会人聴講生というかたちで講義を聞きに来ていた。穂積は熱心な聴講生で、最前列に必ず席を取ったからよく覚えている。一路の話に頷いたり、ジョークを面白がってくれたりした。聴講生だからレポート提出は必要なかったのに、毎回真面目にノートを取り、それ以外のときは、一路を見つめていた。
 一方で物静かで、おとなしい性格をしていた。手を挙げて発言することは絶対になかったし、講義後に質問に来ることもなかった。出欠席は手を挙げるだけで済ませていたから、そういえば一路は彼の顔と名前をよく知っていても、声は知らない。
 いくつだろう。どういう身分で聴講生などやっていたんだろう。キャンディガールが穂積だと分かった途端、興味がもくもくと湧いてきた。見た目だけで言えば、女性に劣らない肌白さだったし、いつもシャツをだぼつかせているので、体格は華奢で小柄な方だろう。髪は真っ黒く長めで、眼鏡をかけていた。もしかするとカモフラージュだろうか。女装と、穂積とがばれないための。
 残念だったなあ、とも思う。大学から遠いところをわざわざ選んでの彼の地のキャンディガールだったに違いないのに、一路がのこのこと出かけてしまったおかげで、正体が知れてしまった。まさか女装していることを周知しているわけではあるまい。あったとして、親しい人に限るだろう。あの表情は、予想外の人に出会ってしまった、それそのものだった。
 しかし、と一路は思いなおす。穂積が聴講生として参加していた講座は、一月末をもってすでに今年度の講義を終えている。単純に考えれば、今後は会わないだろう。今回の件は、これで終わりそうだと思った。さよならキャンディガール。ちょっとだけ未練がましく思ったのは、笑顔が素敵だったからだ。

 *

 四月に入り、桜もあらかた咲き終わり、一路も再び社会人講師として忙しくなってきた。一路の受け持つ講座のいくつかに新顔が見受けられるようになり、そのなかのひとつに、ぽん、と穂積伯幸の姿があったので一路は驚いた。手元の名簿には穂積の名はない。穂積はいちばん奥の席に、静かな表情で、学生たちに紛れ込んでいた。奥の席だったが、一路の目には真っ先に映った。髪を多少切ったようで、いままでは髪で隠れていた目元や、耳が、はっきり露出していた。肌の白さが際立つ。少し暖かすぎる日だったけれど、シャツは襟元も袖口もかっちりとボタンを留めていた。
 あの目で一路を一心に見ている。
 一路の一挙手一投足を記録でもするかのように見つめている。
 こんな講義、集中できるはずもなかった。長すぎるほど長い九十分だった。「本日はこれまでとします」と、一路は五分早く講義を切り上げた。眠たいような雰囲気だった教室が一気にざわめく。穂積は立ちあがり、一路に目くばせをして、そっと部屋を出て行った。一路は慌てて追いかける。
 廊下を出ると、前進する穂積の後ろ姿があった。学生らに紛れて小さくなっていくのを、操られでもしたかのように、一路は追いかけずにはいられなかった。穂積は階段をずんずんのぼっていく。やがて屋上へ出た。途端に風に吹きあげられ、一路は一瞬目を細める。
 屋上まで来ると、穂積は一路を振り返った。まじまじと正面から一路を見つめた後、「ごめんなさい」と深く頭を下げた。はじめて聞いた穂積の声は、やわらかくか細く、ハスキーだった。
「なんで謝るの、」
「気分の悪いものを見せたかと。……気づいていらっしゃいますよね。三月の、S商店街にいたキャンペーンガール」
「謝るためだけにあの講義に紛れ込んでいたのか?」
「……いえ、先生には、ちゃんと知ってほしくて。……おれ、普段からああなんです」
「ん?」
「女装するのが、趣味。あのキャンペーンガールは正式に雇われているものじゃなくて、嘘っぱち、偽物なんです。ネットだったらなんでも手に入りますから、好みの衣装買って、女装して、化粧して、ああやって便乗して、っていうのが、好きなんです。キャンペーンガールって、注目されるでしょう。それが、……普段のおれは地味だから、そういうの、たまらなくて」
 一路は言葉が出なかった。穂積はさらに続ける。
「正直、先生には憧れていました。偶然取ってみた講義だったけど、先生の声聴けるの、毎回嬉しかったです。……気持ち悪いですよね、こんな話されても。もう大学には来ませんから――本当にすみませんでした」
「待った、待った。だからどうして謝るんだ」
 一路は慌てる。気分の悪いものを見せられたとか、気持ち悪い思いをさせられたとか、そんなのはちっとも思っていなかった。好意のようなものを寄せられているという部分においても、同じだった。
「確かに僕はきみの女装姿を目撃してしまったわけだけれど、それでなにか被害を被ったわけでもないだろう? 謝るのは、変だ」
「でも、気分の悪い思いをさせたのは」
「そりゃきみの思い込みだ。僕は別に、気分なんか悪くしていない。むしろあのキャンディガールは、とても素敵だったよ。こっちまで春の気分で、つられて笑顔になったぐらいだ」
「……」
 穂積は恥ずかしそうにうつむき、身じろいだ。伏せがちの睫毛が長い。頬がぱあっとばら色に染まったのを見て、一路にまた衝撃が走った。今度は脳ではなく、心臓の方が、ずきっと痛む。
 ちゃんと言わねばならないと思った。言わなければあのキャンディガールはもう、二度と一路の前には現れまい。
「あのさ、あのキャンディガール。あの子に伝えてよ。笑顔がとてもよかったから、また会えないかな、って」
「……それは、」
「どんな格好で現れても、多分素敵だと思うから、ぜひ一緒にお茶でもして、きみの話を聞いてみたいって、伝えてくれないか。いくつなのか、とか、普段はどうしているんだ、とか、色々」
「現れたのが、ださいシャツとズボンの、そこらへんにいるような野暮ったい男でも、ですか」
「うん、それはそれで、いいんじゃないかな。なんでも、どっちでも」
「……」
「僕はね、穂積くん。もう一度あの子の春みたいな笑顔を見てみたいんだ」
 そう言ったら、穂積は笑い出した。腹に軽く手を当て、くつくつと可笑しそうに。顔をあげると、そこにはとびきりの笑顔があった。目尻にはうっすらと涙が滲んでいたが、それがかえって、瞳を怪しい煌めきにしていた。
「伝えておきます、その、『キャンディガール』に」
「ああ、ありがとう」
「きっとその子、嬉しくなっちゃって。とびきりの服装で来るから、覚悟しておいた方がいいですよ」
 穂積は「ふふ」と意地悪く笑った。その笑顔もやはり素敵だと思った。いまきっと穂積は、肯定されて、その喜びが溢れている。だから彼をそんな魅力的な顔にする。
 コーン、とチャイムが鳴って、しまった、と一路は慌てた。次の時間も講義があるのだ。それを穂積に告げると、「あ、すみません」と言って彼はまた深く頭を下げた。「おれ、これでもう行きます」
「じゃあ、また」
「うん」
 さよならキャンディガール、と心の中で一路は呟く。また会おう。またがあるのだから、さよならじゃない。でも去っていく穂積には、そう挨拶して、それから大きく伸びをした。次の講義は始まるが、心地よい春の屋上から、なかなか去れなかった。


End.





拍手[49回]

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 春見がHに帰る日は、諏訪は新しい勤め先となる特別支援学校を訪ねることになっていて、見送りはできない、と言った。それを聞いて、その方がいいかもしれないな、と春見は思う。Hは、遠すぎた。見送られたらそのまま連れ去ってしまいたくなる。
 諏訪はこのMという街で暮らしてゆくし、春見はHに帰る。もう別れが迫っていた。
 諏訪のアパートに、春見は夕方までとどまった。これからのことなどなにも相談せず、ずっと肌を求めあって過ごした。本当は話すべき事柄がたくさんあったのに、知らないふりをした。ようやく求めあえた喜びに浸っていたかったし、この先のことなんか、考えたくもなかった。
 シャワーを浴び終えて、またシャツとスラックスを身に着ける。これしか着るものがなかったし、諏訪の衣服はサイズが合わなかった。上着を着てしまえば、あとは帰るだけだ。寮に戻って、明日の準備をしなければならなかった。いくら持ち物が少ないとはいえまとめるべきものはあるし、記入すべき書類もある。
「――じゃあ、帰る」
 諏訪は春見が帰る支度をしているのを横目に、ベッドにただ横になっているだけだった。いまも動こうとしない。ベッドに突っ伏して、春見を見ようともしない。
 春見は、その肩にそっと触れた。あまり触れると名残り惜しくなるので、とんとん、と軽く叩く。諏訪は顔をあげて、諏訪を見る。いまにも泣きそうな、ひどい顔をしていた。
「帰るよ、諏訪。――元気で、」
「……」
「じゃあな」
 春見は諏訪の髪をくしゃっと撫でて、部屋を出た。出た途端に、ああまた連絡先を聞き損ねた、と思いだす。それでも後ろの扉をもう一度開ける気になれない。街はそろそろ夕暮れで、春靄のおかげで遠くまで見通すことが出来なかったが、星が瞬いているのが見えた。しばらく佇んでから、春見は勢いよく一歩を踏み出す。鉄階段を下り、駅への道のりを歩いていく。
 未練だ。諏訪のことがこんなにいとおしいのに、今日で終わりということが、せつなかった。これからはじめよう、という気にならないのは、春見と諏訪がごく短期間でしか恋をしてこなかったせいだ。出会ったのが二月、こんなことを思うぐらいなら、出会わないで卒業した方がずっと良かった。火事なんか起こらなければ、もしくは起きても実家に帰っていたとしたら。もし、たらればの話なんかいくらでも湧いてくる。
 アパートから少し歩いた先に、緑化公園があったので、春見はそこに立ち寄った。整備の行き届いていない公園だったが、桜の木があって、これはじきに咲くだろう、というふくらみと色合いをしていた。せめてこのことだけでも諏訪に教えてやりたい、と思った。教えてやったら、あの冷たく不愛想な顔でも、花を見あげるだろうか。
 不意に、背後から手が伸びて、その手は春見の身体に巻き付いたので驚いた。ぎょっとしながらも振り向くと、それは諏訪だった。すっかり着替えて、洗い髪で、ぎゅうぎゅうと春見に身体を押し付けてくる。春見はそれをなんとか振りほどいて、向かいあった。顎を掴んで上を向かせると、諏訪の瞳はいまにも泣きそうに、潤んでいた。
「あんな簡単に、あっさり帰るな、馬鹿!」
 諏訪は春見の手を振り払って、どん、と春見の胸をひとつ叩いた。
「あんたは、一時の相手でいいかもしれないけど、おれは、……おれは、」
「……そんなこと思ってねえよ」
 春見は、絞り出すように言った。声が震えている。胸に置かれたままの手を、上から握る。「続けて、いいんだな」
「明日からも諏訪のこと好きだ、って思ってて、」
「誰がだめだって言ったんだよ」
「……おれの方が泣きそうで、崩れそうで、……怖かったんだ」
 うなだれると、諏訪の腕が頭に絡みついて、ポンポン、と春見の頭をはたいた。諏訪の肩先に顔を埋める。片手は握りあったまま、春見は体重を諏訪に預けた。
 こうしていると安心すること。本当は離れがたいこと。それでもHに帰らねばならないこと。
 話しあうべきたくさんの事柄が、クリアに見えてきた。
「いまさらだけど、連絡先、交換しよう」
 春見は目を閉じて諏訪に言った。諏訪は顔をゆがめた。笑おうとしたのかもしれない。「いまさらだよな」
「それで、諏訪もいつかHに来いよ。――ああ、五月がいいな。風がいいから。きっと諏訪も、気に入ると思う」
「五月か。――先だな」
「すぐだよ、すぐ。うまくすれば、桜が残っているかも。――今年の冬は冷え込んだから」
「そうか」
「ああ」
「じゃあ、次は五月に」
 駅まで送ろう、と諏訪は言ってくれた。ふたりは歩き出す。これから歩く道は別であるけれど、それはきっと、決して、後ろ向きではない。ふたりがふたりでいるための一歩。
 アドレスを交換し、駅で別れ、電車に乗る。諏訪から届いたはじめてのメールは、脇腹の黒い蝶を自撮りした画像が添付されていた。
 マイ・ブラック・バタフライ、と春見はそれを眺めながらちいさく呟く。そういう歌があった。もうこの先、諏訪につらい思いなんかさせない。そういう決意で、返信ボタンを押した。なにを書こうか、なにから書こうか。話すべきは、たくさんある。


End.


← 9



拍手[50回]

 始発より一本遅い電車に乗って、諏訪のアパートへ向かった。通勤時間にはいささか早いようで、人はさほど多くなかった。電車の中で、諏訪は昔話をしてくれた。父親にされた、ひどい暴力の話だ。
「三、四歳のころかな。叩かれるのは、当たり前だった。煙草を押し付けられたり、泣き声がうるさいからってクローゼットに突っ込まれたり、余計なことをしないように縛られたりもしたらしい。あんまり覚えていないけど、切れぎれには思いだす。だからいまだに暗いところが怖かったり、人と喋るのが得意じゃなかったり、する。五歳のころに両親は別れて母親と母親の実家に戻って来た。けど、そのころにはもう右耳は聴こえなかった。何度もぶたれたから。
 あんたが見たがっている刺青は、高校生のときに入れた。そのころ通っていたピアノ教室の先生が好きだった。その先生は昔ロックバンドを組んでいて、そのときに刺青を入れた、と言って見せてくれた。右の上腕だ。青い蝶だった。それが綺麗でね……先生とお揃いになりたくて、繁華街の店紹介してもらって、入れた。蝶の色は、先生が決めた。おれの名前が『玄(しずか)』だから。玄は、明かりの届かない黒、という意味だから。黒が似合うよ、と先生が言ったから、そうした」
 タタンタンタンタン、タタンタンタンタン、と電車が規則的に鳴る。その告白はとても穏やかで、春見を不思議な気持ちにさせた。怒っていいはずなのに、叱っていいはずなのに、言葉が浮かばない。それどころか凪いでくる。幼いころの壮絶な暴力、果ての人間不信、それでも好きになった人、振り向いてほしいが故の刺青。愛情が欲しい、と一心に訴えられているようにも聞こえた。
「玄(げん)、って読むんだと思ってた」
「え?」
「名前。寮の事務室前に在寮生の名札がかかるじゃん。あれ見て、諏訪は『ゲン』さんなんだと思い込んでた」
「よく間違えられる」諏訪は静かに笑う。それから少し身体をずらして、春見の肩に頭をもたせた。
「たくさん喋ったから、眠い」
「寝てけ。まだ先だろ、駅」
「んん……」
 やがて静かな寝息が聞こえてきた。電車は次第に乗客が増えてくる。春見も目を閉じた。


 アパートに到着してまずはじめにしたことは、風呂に浸かることだった。諏訪が「あんた酒臭い」と言い、一晩分伸びた髭を剃ったり、歯を磨いたり、洗髪をするためにも、風呂に浸かった。ふたりで入った。アパートの風呂釜はちいさくて大人の男ふたりが入るには充分ではなかったが、入れないこともなかった。
 諏訪の身体が陽に晒された。へその右横、脇腹の位置に確かに蝶が入っていた。思ったよりちいさい蝶だった。黒いと聞いていたからカラスアゲハを想像していて、しかしその蝶はモノクロで描かれたモンシロチョウ、といった風だった。
 触ろうと手を延ばしたら、制された。なんでだよ、と春見は不満を顔に表す。それでも諏訪はそしらぬ顔でいた。
「まだ触るな」
「なんで」
「ここじゃ、いやだ」
「まあ、……狭いしな」
 互い違いに風呂に浸かる格好で、太ももと太ももが触れている。地黒で筋肉質の春見と違って、華奢で色白の諏訪の身体。その太ももに手を突いて、諏訪が立ちあがった。そのまま浴室を出ていく。
 ひとりになって、息をついた。風呂を広くつかって天井を見あげる。湯気が水滴となり、ぱたぱたと床へ落ちていた。
 しばらくして、春見も風呂からあがる。下着と長袖のTシャツだけ身に着けた姿で脱衣所から出ると、諏訪も同じような格好で、キッチンに立っていた。湯を沸かしてコーヒーを入れてくれていた。春見はおとなしく狭い部屋の、ベッドに腰かける。
 ふたり分のマグカップを持って、諏訪がやって来た。ローテーブルにそれを置き、自分は床に座る。コーヒーをすする。春見も倣ってコーヒーを飲んだ。薄く酸味のあるコーヒーだった。
 コーヒーを半分残して、春見はベッドに思い切り沈み込んだ。目を閉じて、息を吸い吐きする。無言の中で、濃厚な気配を感じ取っていた。性のエネルギーが高まっていく感覚。お互いの求めがぴたりと一致している心地よさみたいなもの。
 ベッドに横たわる春見の元へ、諏訪がするりとやって来た。春見を上から覗き込む。
「いいか?」
 春見は諏訪の頬に触れながら尋ねる。諏訪は「いい」と言った。
 諏訪の方から唇を寄せてきたので、キスをした。口をあけて諏訪の舌を迎え入れる。コーヒーの味が、苦かった。キスをしながら諏訪のシャツの裾をまさぐった。諏訪に鳥肌が立ったのが分かる。浮いた背骨を撫で、腹を擦っているうちに、肌に凹凸があるのが分かった。態勢を入れ替えて諏訪を組み敷く。改めてシャツをめくると、刺青の付近に集中して、無数の傷跡があるのが知れた。先ほどは湯に揺られて、気づかなかった。
 傷は、やけどの痕に見えた。丸く、そのかたちがなにか分かった途端にぞっと鳥肌が立った。春見の瞳に走ったすさまじい怒りを、諏訪は聡く感じたようだ。あえて彼は笑ってみせた。
「煙草の痕だよ。煙草を吸い終わるたびに、あいつは灰皿代わりにおれの腹をつかったから」
「父親?」
「そう」
「……そりゃ、」
 刺青を入れたくもなる、と思った。こんな傷があったら、隠したい。寮生活で風呂の時間をずらして入っていたのも、よく分かる。到底見せられるものではない。腹に手を置いたまま、春見はうなだれた。春見の様子を見て、諏訪はシャツの裾を下げる。
「萎えたろ。いやなもん見せたな」
「……」
「……やめるならやめるで、いいけど」
 起きあがろうとする諏訪の身体を、春見はとっさに抱きしめた。歯を食いしばり、怒りを全身に閉じ込めながら、出来うる限りで優しく春見を抱く。それでも放出される怒りが、諏訪の身体に沁みていく。諏訪は「いてえよ」と春見の肩を叩いた。
「――こんなのないだろ!」
 諏訪を抱いたまま、春見は唸った。「なんでこんなこと、されなきゃなんないんだ!!」
「――なんで、っていうのはさ、」
 諏訪の答え方は、諦観に満ちていて、その苦しみがいかほどだったかを、瞬時に春見は悟る。
「多分、理由なんかないんだ。なんでっていうのは、問うだけ無駄だ」
 諏訪は、ちいさな声で「怒ってくれてありがとな」と言った。その身体に、今度は乱暴に力を込めた。そのまま諏訪を押し倒す。
「――やめないのか、」
「なんでやめるんだ」
「そっか、」
 うれしい、と舌ったらずに呟く。その口を春見は自分の口で塞いだ。
 傷のひとつひとつを、春見は丁寧に追った。くちづけて、舌で弄り、吸いあげる。何か所も何十か所もあった。背中の方にまであったので、諏訪をひっくり返して、ただそれを繰り返す。
 じれったいだろうに、諏訪は春見の気の済むようにさせてくれた。腹や腰回りは春見の唾液と諏訪の汗でべたべたになった。それでも諏訪がシャツを脱がないのは、やはり自信がないからだろうと春見は思う。なにかに包まっていれば人は安心する。隠したいほどの傷を晒しているなら、なおさらすがるものが欲しいだろう、と。
 傷をあらかた触り終えた後、春見は自分のシャツを脱いだ。下着も取り払って、全裸になる。諏訪の上気した瞳がさらに潤み、ごくりと唾を飲んだのが分かった。諏訪の手を、春見は自身の硬くなった性器へと導く。諏訪も起きあがり、二・三度春見自身を擦った。
 諏訪の性器にも、下着の上から触れる。まだやわらかかったが、全く反応していないわけではなかった。諏訪の足を広げさせ、性器と性器を触れあわせる。束ねて扱くと、諏訪の性器も完全に硬く勃起した。そのまま擦るのをやめないでいると、次第に濡れてきた。
 手の指のあいだから覗く性器は真っ赤に充血し、視覚で興奮した。諏訪にもそれを握らせた。諏訪は頭を春見の肩に預けると、はっはっは、と息を吐きながら、春見と手の動きを同じにする。
 夢中になっているあいだは、なにもかもを忘れられた。諏訪の身に起きたひどいことだとか、境遇だとかを。まもなく春見はHに帰ることを。こんなに寄り添っておいて、すぐ離ればなれになることを。
 玄、と左耳に囁くと、諏訪はきゅうっと眉根を寄せて頂きを迎えた。手や腹に白いものが吐きだされる。春見も限界で、まもなく、あっけなく達した。
 ふたりで荒い息を吐きながらも、キスをやめられなかった。


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拍手[26回]

 卒業式に向けて、スーツを新調した。就職活動時のリクルートスーツは火事で焼失したからだ。母親がわざわざHからやって来て、選んで買ってくれた。もっともこのスーツは、今後あまり活躍しそうになかった。春見も春から会社員とはいえ、仕事の内容からして作業着ばかりを着る生活なのだということは、ありありと分かった。というよりも、そう望んだ結果の就職先なのだ。
 ダークグレイのスーツには、濃い赤のタイを選んだ。卒業式の会場となった大学のホールは、ありとあらゆる人間でごった返していた。スーツ姿や、女子は着物、袴姿が多かった。その中で諏訪の姿を探したが、うまくゆくはずがない。待ち合わせをしているわけでもなかったし、そういえば春見と諏訪は、メールアドレスさえ交換していないのだった。諏訪と学部が違うこともまた、ふたりをすれ違わせる要因だった。結局、卒業式、謝恩会、後輩による卒業生送り出しの会、二次会、と深夜を過ぎても帰れず、帰寮したのは朝の五時だった。
 春見の退寮日は、明後日の予定だった。尾田も同日だ。もうとうに酔いも醒めた頭の中で、奥底で考えるのは、諏訪のことだった。会いたくて、会えずに終わった。諏訪のアパートの場所は分かるが、いますぐ行ける場所ではないし、日を改めて出直すことも、なんだかためらわれた。縁というものが存在するなら、これでぷちりと切れてしまったように思った。せめて挨拶ぐらいしたかったが、叶わないだろうか。元気で、とか、またな、とか、そういう他愛ないことですら。
 玄関の鍵を開け、うす暗い廊下を進む。もう夜明けだ。廊下のいちばん奥に、ピアノ室がある。暗いその部屋に、春見は入った。部屋の明かりを探り、スイッチを押す。蛍光管がパラパラと音を立て、やがて白々と部屋が明るくなった。
 部屋に堂々と置かれるグランドピアノ。その椅子に誰かが座っていた。ピアノの蓋にうまく腕を載せて、突っ伏している。見慣れた、もしくは焦がれた艶やかな黒髪がまず目に入った。それからスーツ。こげ茶色のチェックのスーツ姿は、春見が初めて見る姿だった。
「まぶしい」
 諏訪は突っ伏したままそう言った。それが壊れそうなぐらい繊細に聞こえたので、春見は慌てて部屋の電気を消す。目が慣れてくれば、室内は青っぽく映った。そうしてようやく、起きあがる諏訪の姿を確認できた。
「なんでここに」
「確かに、おれはもうとっくに退寮した身だからな。これは不法侵入だ」
 諏訪は茶化す。
「そうじゃなくて、」
「あんた待ってた。ぜんっぜん帰って来ねえし。尾田にも訊いたけど、農学部の卒業コンパは派手で有名だから遅いんじゃねえ? って返事だった。案の定、朝帰りとか」
「おれを、待ってた?」
「そうだよ」
「なんで?」
「卒業式で会おう、って言ったのは、どこの誰だよ」
 それは欲しい言葉であって、そうではなかった。まるで春見ばっかり諏訪を求めているように聞こえるからだ。それをどう言ってやろうか迷っていたが、諏訪がふと微笑んだので、春見はきょとんとした。
「高野先輩と話した」
 微笑みながら諏訪は言う。うす明るくなってきた室内で、その顔は清々しく映る。
「もう困らせません、いままでありがとうございました、って、おれなりにさようならを言ってきた。高野さん、頷いて、このあいだカフェで出張って来たあいつと付き合ってるのか? って、訊いた」
 どくっ、と心臓が鳴った。
「さあどうなりますかね、と答えたら、そうか、と笑ってくれた。ひどいことをした、すまなかった、とも言っていたけど、……おれは別にそのことはどうでも、よかった」
「そうか、」
「もう会わない、と思ったらここが、ぽっかりと空いた感じがする」
 と諏訪は、自分の胸をとんと突いた。
「あんた、埋められるか」
 目と目が合う。諏訪は睨みつけるように、挑発的に言った。
「おれは高野さんじゃないから、同じようには埋められない」
 少しずつ距離を詰める。春見は腕を伸ばして、諏訪の頬に触れる。つめたい頬だった。諏訪はすり寄るように、目を伏せる。
「相変わらずひどい男だな」
「違う人間だ。全くおんなじには、ならない。おれはおれのやり方で、諏訪の刺青が見たい」
「……」
「キス、していいか?」
「……いい、」
 春見は屈み、諏訪に顔を近づける。吐息が触れ合う距離で、いったん瞬きをした。お互いの瞳を底まで見通すかのようにして見つめあい、唇を重ねた。諏訪の眼鏡が当たる。その硬い感触よりも、唇の温かさ、湿っぽさ、やわらかさに夢中になる。
 唇を離し、諏訪の左右を確認してから、左耳に唇を寄せた。「諏訪が好きだ」
「――聞こえてる?」
「ああ」諏訪が笑う。「そっちならちゃんと、聞こえるよ」
「刺青、見たい」
「ここじゃだめだ、不法侵入者だからな」
「諏訪の部屋行っていいか?」
「聞くな、馬鹿」
 もう一度キスをしたら、諏訪は「ん」と腕を突っぱねて、春見の身体を離した。
「――夜明けだ」
 朝という名の音が聴こえてくるような、静寂だった。


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拍手[27回]


 その後、諏訪と高野がどうなったのかは分からない。ただ、ふたりでいるところは見なくなった。三月も終わりに向けて、卒寮生は引っ越しの準備に追われることになった。諏訪は寮規定の卒寮日より前倒しで引っ越すという。同じく引っ越し、と言ってもほぼすべてを焼失してしまった春見はほかの寮生に比べて圧倒的に手持ち無沙汰で、だから尾田や諏訪の引っ越しを手伝った。
 諏訪の引っ越し先はMという街で、ここからだと電車で一時間、というところだ。諏訪は物持ちではなかったから、春見が借りてきたレンタカー一台、一往復で引っ越しは済んでしまった。諏訪の新居はちいさくて狭いアパートだった。春見がもともと住んでいたような、古い木造建てだ。火事には気をつけろよ、というと、諏訪はにやりと笑って「説得力があるな」と言う。
 諏訪はこのアパート暮らしのために、中古の冷蔵庫と洗濯機と、電子ピアノを買った。ヘッドフォンをつなげられるので、壁の薄いアパートでもピアノが弾ける、というわけだ。「はじめて自分の楽器を持った」と諏訪は言った。いままで、学校や寮の共有のものしかつかってこなかったという。
「記念になんか弾いて」
「隣がうるさいだろう、あんたに聴けるように弾いたんじゃ」
 それで、ヘッドフォンではなく春見が持っていたイヤフォンをつなげて弾いてくれた。諏訪の左耳にイヤフォンの片方を、もう片一方を春見の右耳に当てて。諏訪が弾いたのはやはり超絶技巧の曲で、右耳が痺れるようだった。
 電子ピアノは、諏訪の技巧についていけずに鍵盤を押すたびにカクカク鳴った。春見はそれに微笑む。いつか諏訪に本物のピアノを買ってあげたらどんな顔をするだろうか、と想像する。
 今日から諏訪は、ここでひとりで暮らすのだ。もう寮には戻らない。そういう実感は寮で引っ越しの手伝いをしているあいだには不思議となく、いまこうして引っ越しを終えてひと段落ついて、急激に押し寄せてきた。淋しい、と思った。諏訪がとてつもなくいとおしい。思ったが口にはせず、努めて明るい声で、「じゃあおれは帰るかな」と膝を叩いた。
 ピアノが鳴りやむ。諏訪が瞳を濃くして、「帰るのか」と訊いた。
「引っ越し、済んだろ。もうおれは用がない」
「そうだな」
「卒業式には出るよな? 次は、そこで会おう」
「ああ……」
 イヤフォンを耳から外し、ジャックから抜く。諏訪はそのまま電子ピアノの電源を落とした。なんとなく離れがたい雰囲気がふたりのあいだにはあり、だが春見は帰ろうとした。傍にいる理由がなかった。諏訪が語らない限り、諏訪から求められない限り、春見はそれ以上踏み込まない。そう決めていた。
 諏訪の謎は解けない。本当に腹に刺青はあるのか。だとしたらなぜ入れたのか。幼いころの暴力は本当か。卒業したら、おれたちは会えなくなる――それはいいことなのか、悪いことなのか。
「今日はありがとうな」
 玄関で諏訪は春見の目を見ないままそう言った。
「後でレンタカー代請求してくれ」
「いいよそんなもん。おれからの卒業祝いだ」
「あんただって卒業するだろうに」
「今日、曲聞かせてもらった。充分だ」
 じゃあな、と出来るだけ未練がばれないように、部屋を出た。


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プロフィール
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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
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短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
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長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
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