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早の家を辞して、ふたりは家路につく。途中、寄り道をして深夜営業している大型スーパーマーケットに寄り、生活に必要なものを買い込んだ。これは分担制で、樹生はトイレットペーパーやらシャンプーやら洗剤やらの生活雑貨を、暁登は食材を購入する役目だ。時間を決めて出口で待ち合わせている。樹生が戻ると暁登はすでに買い物を終えていて、寒そうにしながら樹生を待っていた。
「悪い、冷えるよな」
暁登を伴って駐車場に停めた車へと戻る。後部座席に荷物を押し込んでいる間に、暁登はカートを返しに行った。再び車に乗り込み、発車させる。樹生は暁登に断り、ウインドウを少し下げて煙草を吸った。
「今日、早先生のとこで何したの?」
と樹生が訊ねると、暁登は「いつも通り」と答えた。
「ご主人の部屋片付けてた。処分していい本とそうでない本の分別とか、資料まとめるとか」
「そういうの、どういう基準で決めるんだ?」
「まだ呼ばないけど、大方整理がついたら古書店を呼んで本は引き取ってもらうんだって早先生が言ってた。だから本の状態で仕分けしてる。あと、おれが読みたい本があったらそれは持ってっていい、って言われてるから、そういう本は別の場所にまとめたり」
「そんな本、ある?」
「結構あるよ。あるから困ってる。いろんな国の本がある。英語で書かれた小説とか図鑑とかは当たり前、哲学や思想書も揃ってる」
そんな本あったかな、と樹生はいつかの記憶を辿る。もっとも、あったとして、それを樹生が思い出せるはずもなかった。樹生はあの部屋にほとんど近寄らなかった。興味が持てなかったし、近寄るとすれば早に頼まれて夕飯の支度が出来ただの、風呂に入れるだのを呼びに行っただけで、思い出す記憶そのものがないのだ。
ただ、「惣(そう)先生」の記憶はある。ひげ面の強面で、叱られたことはなくむしろユーモラスで穏やかな人物であったのに、見た目の迫力でなんとなく苦手に思っていた、そういう記憶だ。
「もらうの、本」と訊ねる。暁登はしばらく考えて、「スペースとあの部屋の耐重量が許すなら」と答えた。
「引っ越さないと無理かも、てぐらいあるから」
「そりゃすごいな」
「どんな人だったんだろうな、早先生のご主人」
その呟きに、樹生は我ながらずるいと思いながら黙ることで応じた。車内に不自然な沈黙が出来るが仕方がない。
そんなに考え込まなくてもすんなりアパートには着いた。駐車場に車を停め、荷物を抱えて階段を上がる。広いが古い建物で、三階にある部屋までは階段しかない。冬場、雪が降ると踊り場に吹き込んで凍り、歩くのが怖い時もある。暁登が言ったように、引っ越しを考えてもいいのかもしれない。
部屋まで辿り着くと、早の家で多少は回復したと思っていた疲労がどっと押し寄せた。
生活雑貨や生鮮食品をしかるべき場所に押し込む元気さえない。ただただ体が淋しがっている。どさっと荷物を床に置くと、樹生のために真っ先に風呂を沸かしに行った暁登の後を追いかけて樹生もバスルームに向かう。
暁登は風呂に注ぐ湯の温度を確かめて調整していた。建物も古ければ水回りも古く、自動で湯を沸かしてくれるなんて便利な機能はないのだ。熱湯と水をうまく混ぜて適温にする。この部屋で暮らすと決めてから、暁登が最初に上手くなったことだった。
樹生の気配に気付いた暁登が振り向き、なにかを言いかける、そのタイミングで思い切り抱きしめた。暁登はバランスを崩し、細い体が崩れかかる。その重心の移動さえも樹生は予測していた。攫うように暁登の体を抱え上げ、そのまま居間を抜け自室に連れ去る。
「おい、風呂」
暁登は抵抗しながらなにかあれこれと口にしたが、ベッドに押し倒し肌を押しつけると、抵抗らしい抵抗もしなくなった。別に性衝動でこんなことをしているわけではない。その証拠に、樹生の手はただ暁登に触れて体温や感触を確かめているだけだ。
それは触れられている暁登も分かっているのだろう。彼は樹生の背に手をまわすと、ポンポンと、優しいリズムで樹生の背を叩く。
「なんか、あったんだろ」と暁登は訊ねたが、樹生は「んー」とはぐらかしただけだった。
「あんたのお姉さんって、どんな人?」
背を叩く手を止めず、暁登が訊ねる。暁登に触れて、樹生は本当に気持ちが良かった。目を閉じ、暁登の首筋にすり寄る。ここの体温が高いことを知っている。
眠くなりながら「魔女」とだけ答えた。
「え?」
「――みたいな人。怖えよ。おれ、あの人には頭上がんないし、反抗すら無理」
「……だからそんなに消耗して帰ってくるのか、毎回」
「んー……」
暁登の声は次第に遠くなり、近くなり、ぐらぐらと回る感覚がある。力が抜けてきた。とても眠い。
「なあ、聞いてんのか?」
その声ももはや遠い。やがてすとんと暗転した、その時に樹生は暁登の「ばか」を聞いた、気がした。
→ 11
← 9
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「夕飯にしましょう。暁登さんを呼んで来て下さい」
「はい」
ふたり揃って家に入る。早が台所で支度をする間に樹生が暁登を呼び、呼ばれた暁登が支度を手伝ってくれた。おこわといなり寿司、加えて樹生の買った中華と豪勢な食事だが、栄養バランスと自身の胃袋の調子を考慮して、早は蒸し野菜と簡単なスープも用意した。せいろで蒸した野菜は少しの塩で充分美味しいのが嬉しい。亡くなった夫は生野菜をあまり好まない人だったが、火を入れるとよく食べた。
三人揃って食事をする機会はもう幾度となくあったが、その度に早は不思議な気持ちになる。七十代のしなびた独居老人に、なんの縁なのか二十代・三十代の若い男が付き合ってくれているということ。ふたりとも嫌な顔などせず、むしろ早の手料理を旺盛に食べてくれることがたまにふっと、妙な心地になる。
今夜もふたりはよく食べた。とりわけ痩せ型の、というよりは痩せすぎの暁登の食が進むとなんだか安心した。用意したおこわやらいなりやら惣菜やらは食べ尽くされてしまった。
腹いっぱい、と言って、樹生は居間にあるカウチにごろりと横になった。しばらくして聞こえて来たのは寝息だ。早は微笑ましい気持ちになり、その大きな体によく使い込んで古くなったウールの毛布をかけてやる。幼い頃から変わらず、寝付きがいい。
「疲れたんですねえ」と早がこぼすと、食器を下げていた暁登が振り向いた。
「暁登さんも休んでいていいですよ。片付けは私がしますから」
「いえ、これぐらいは」
と言って、暁登は下げた食器を洗い始める。
早は暁登の隣に立ち、食器を拭いた。暁登はしばらく黙ったままだったが、やがて「岩永さんのお姉さんがどんな人なのかご存知なんですか」と質問を投げて来た。
「暁登さんはお会いしたことがないんですか?」
「ないです。岩永さんが『明日は姉貴に会ってくる』って言うのを毎月聞くだけで」
「そうですねえ。でも、わたしもあまり会ったことはないですし、ましてや直接話をしたことなんて、もしかするとないかもしれませんね」
「……そうですか」
「樹生さん自身にお聞きになるのがいいと思いますよ」
と言ったが、暁登は「あの人は、黙ります」と答えた。
「いつもはぐらかされる。なんていうのか、……多分おれは、大事なことをなにひとつ聞かされてはいないんです」
「まあ、確かに言葉の少ない人ですね、樹生さんは」
「少ないっていうか……言わない。『まあまあ、またな』とか、『いいじゃん』とか言って、……まるで、おれには聞かせる必要がない、って言われているみたいに感じます」
それだけ言って、暁登は蛇口をひねって水を止めた。タオルで手を拭い、早の拭いた食器を棚に戻す。それから寝ている樹生の元へ向かい、しばらくその寝顔を立って眺めていた。
「眠っている岩永さんが一番好きです」と暁登は言った。
「疲れていても、いなくても、すぐ眠りに落ちる。なんの夢見るんだか、安らかな顔してさ」
すう、すう、と規則的な寝息は確かに心地の良い音でもある。早はどう返事をしたものか、暁登の次の言葉を待つ。
「おれにないものばっかり持ってる。羨ましいし、憧れるし、自分のことがむなしくなります」
と宣言するかのようにきっぱりと言い放ち、次の瞬間に暁登は、樹生の顔を両手で勢いよく挟み込み、「起きろ!」と叫んだ。
「起きろ樹生! 帰るぞ!! この後買い物して帰るんだろ、店閉まっちまうぞ!!」
樹生の頬をばちばちと叩く。早も驚いたが、樹生もさすがに寝ていられなくなったのだろう。起きた。
「……ん、あー」
呆然としながら体を起こす樹生と、拗ねたような、怒ったような表情を見せる暁登。この二人の関係はよく分からない。友人なのか、元・上司と部下のままなのか、もっと違う何かなのか。分からないが、いまこの表情を私には決して見せないな、と早は思う。樹生も暁登も。
そのことがなんだか優しいと思い、可笑しくて、小さく笑ってしまった。
→ 10
← 8
「はい」
ふたり揃って家に入る。早が台所で支度をする間に樹生が暁登を呼び、呼ばれた暁登が支度を手伝ってくれた。おこわといなり寿司、加えて樹生の買った中華と豪勢な食事だが、栄養バランスと自身の胃袋の調子を考慮して、早は蒸し野菜と簡単なスープも用意した。せいろで蒸した野菜は少しの塩で充分美味しいのが嬉しい。亡くなった夫は生野菜をあまり好まない人だったが、火を入れるとよく食べた。
三人揃って食事をする機会はもう幾度となくあったが、その度に早は不思議な気持ちになる。七十代のしなびた独居老人に、なんの縁なのか二十代・三十代の若い男が付き合ってくれているということ。ふたりとも嫌な顔などせず、むしろ早の手料理を旺盛に食べてくれることがたまにふっと、妙な心地になる。
今夜もふたりはよく食べた。とりわけ痩せ型の、というよりは痩せすぎの暁登の食が進むとなんだか安心した。用意したおこわやらいなりやら惣菜やらは食べ尽くされてしまった。
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「疲れたんですねえ」と早がこぼすと、食器を下げていた暁登が振り向いた。
「暁登さんも休んでいていいですよ。片付けは私がしますから」
「いえ、これぐらいは」
と言って、暁登は下げた食器を洗い始める。
早は暁登の隣に立ち、食器を拭いた。暁登はしばらく黙ったままだったが、やがて「岩永さんのお姉さんがどんな人なのかご存知なんですか」と質問を投げて来た。
「暁登さんはお会いしたことがないんですか?」
「ないです。岩永さんが『明日は姉貴に会ってくる』って言うのを毎月聞くだけで」
「そうですねえ。でも、わたしもあまり会ったことはないですし、ましてや直接話をしたことなんて、もしかするとないかもしれませんね」
「……そうですか」
「樹生さん自身にお聞きになるのがいいと思いますよ」
と言ったが、暁登は「あの人は、黙ります」と答えた。
「いつもはぐらかされる。なんていうのか、……多分おれは、大事なことをなにひとつ聞かされてはいないんです」
「まあ、確かに言葉の少ない人ですね、樹生さんは」
「少ないっていうか……言わない。『まあまあ、またな』とか、『いいじゃん』とか言って、……まるで、おれには聞かせる必要がない、って言われているみたいに感じます」
それだけ言って、暁登は蛇口をひねって水を止めた。タオルで手を拭い、早の拭いた食器を棚に戻す。それから寝ている樹生の元へ向かい、しばらくその寝顔を立って眺めていた。
「眠っている岩永さんが一番好きです」と暁登は言った。
「疲れていても、いなくても、すぐ眠りに落ちる。なんの夢見るんだか、安らかな顔してさ」
すう、すう、と規則的な寝息は確かに心地の良い音でもある。早はどう返事をしたものか、暁登の次の言葉を待つ。
「おれにないものばっかり持ってる。羨ましいし、憧れるし、自分のことがむなしくなります」
と宣言するかのようにきっぱりと言い放ち、次の瞬間に暁登は、樹生の顔を両手で勢いよく挟み込み、「起きろ!」と叫んだ。
「起きろ樹生! 帰るぞ!! この後買い物して帰るんだろ、店閉まっちまうぞ!!」
樹生の頬をばちばちと叩く。早も驚いたが、樹生もさすがに寝ていられなくなったのだろう。起きた。
「……ん、あー」
呆然としながら体を起こす樹生と、拗ねたような、怒ったような表情を見せる暁登。この二人の関係はよく分からない。友人なのか、元・上司と部下のままなのか、もっと違う何かなのか。分からないが、いまこの表情を私には決して見せないな、と早は思う。樹生も暁登も。
そのことがなんだか優しいと思い、可笑しくて、小さく笑ってしまった。
→ 10
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樹生が再び顔を見せたとき、早は庭に出て家庭菜園の手入れをしていた。本格的な冬が来る前に畑を片付けて、出来れば耕運機をかけてしまいたかった。今日は萁(まめがら)の片付けで終えてしまった。今年の菜園は天候の良さと適切な気温のおかげで、植物の育ちが良かった。
夫が結婚前から住んでいた家で、どれくらい広いかと言えば周囲の雑木林まで含めた面積が敷地であるぐらいだ。この家にやって来たとき、畑はなかった。夫に畑を耕す趣味はなかったのだが、早が望むと、木を根から抜き花壇を移して、土地を空けてくれた。申し訳ない気でいたのだが、夫は「こういうのでいいんだよ、家は住む人で変わるのだから」と優しい笑みを浮かべて言ってくれた。
早の家庭菜園には夫も興味を持ち出し、亡くなる前の何年かはふたりで畑を耕すことに精を出した。育てたものは色々あるが、夫は「宝物を掘り当てる楽しみがある」と、根菜類を好んで収穫していた。早はベリー類が好きだったので、イチゴやアカスグリが採れると嬉しかった。
いま、この菜園はひとりでは広すぎると感じるが、それでも早は体力が続く限り手を入れて作物を育てている。暁登が定期的にやって来るようになってからは、彼に家事や雑務を任せて畑に出ることも出来るようになった。なんとなくこの畑を暁登には関わらせてはいない。畑はひとりで黙々と手入れをしたい、という思いがあった。
樹生がこの畑に顔を見せるのは本当に久しぶりだと思った。樹生の出現に、早は「おかえりなさい」と声をかける。作業用の手袋を外し土埃をエプロンの裾で拭いながら樹生に近寄った。
「早かったですね。お墓参りは無事に?」
といつものように訊ねたが、なかなか返答が得られないので早は顔を上げた。そこでようやく、この背の高い青年がとても疲れていることに気付いた。気付くと同時に、なぜ配慮を怠ったのだと早は後悔した。あの姉に会ったのだ。
樹生の姉のことはあまりたくさんのことを知らないが、印象は「疲れてしまう」だった。対峙すると、あまりにもマイナスのエネルギーを受け取ってしまい、早の場合はその後頭がぼんやりして、言葉を上手に発せなくなる。弟でもそれは同じなのだろう。もしくは弟ゆえに、もっとなのか。
樹生は暗い顔を見せながらも、手にしていたビニール袋を軽く持ち上げた。
「惣菜、買ってきました。夕飯には早い時間ですが食べませんか?」
「ありがとうございます。そうですね、わたしもお腹が空きました。きっと、暁登さんも」
語りかけながら早は惣菜の袋を受け取る。樹生はぼんやりとしていたので、樹生の頬に軽く手を当てた。
「大丈夫ですか」
「……」樹生は答えない。
「あまりにも疲れているなら、料理は持って帰って、家で食べてもいいんですよ。それともここで少し休んで行きますか?」
早の提案に、だが樹生は首を横に振った。「大丈夫です」と言う。「ただ、だいぶ、疲れました」
「樹生さん、あなたは疲労がたまると熱を出しやすいですから、やっぱり今夜はなしにして、帰りましょうか」
「いえ、……大丈夫です。ちょっと、……色々考えてしまって、まとまらなくて」
「なにを考えましたか?」
「……復讐に生きることについて」
「樹生さんが?」
と訊いてから、それはない、と早は瞬時に思い至った。樹生は「まさか」とそこでようやく表情を変えた。皮肉るような笑みで「姉です、姉。茉莉」と答えた。
「おれは、多分幸せなんです。母親が死んだとき、そんなに大きな感情の揺れはなかったし、具体的な困惑もなかった。それぐらい母親と過ごした記憶ってのがないんです」
「……でも、そのせいであなたもその後、何年も経ってから、辛い思いをしたでしょう」
と言うと、樹生は苦い笑みに変えた。「それはでも、過ぎたことですから」と言う。
「もうなんともない。過去のことをおれはあまり気にしないので、大丈夫なんです」
「……」
「今日、茉莉がね、あの男の居場所を突き止められそう、って言ってたんです」
それは早にとっても驚くべきことであった。思わず樹生の顔を正面から捉えると、樹生は「おれはどっちだっていいんですけどね」と言う。
「あの人が生きてようが死んでようがどこにいようが。おれにあの人の思い出はほとんどないし。でも茉莉は違う。あの人に対して恐ろしい感情が波立っていて、家族がいる身でありながら、それを一番の優先事項にしてしまうぐらい」
そこで樹生は目線を家の方に向けた。だいぶ暗くなってきていたところに、屋内にポッと明かりが灯った。暁登が点けたのだ。
「やめろと言っても聞くような姉ではないですからね。でもおれは、茉莉の意志に同調出来ない。茉莉の方は、おれを唯一の同志みたいに思ってるみたいだけど」
「……樹生さんはそれでいいと思いますよ」
早はそう言った。この青年に復讐の気持ちがないことを改めて知れて、よかったと思う。
「あなたはそれでいいんです。恨みや怒りなんてものは、持たない方が絶対にいい。……持ってしまったら、手放すのは難しいものです。それに手にそんなもの持っていたら、色んなものを取りこぼしてしまう」
早は慎重に言葉を選びながら語る。
「樹生さんの手は、誰かを励ましたり、いたわったり、抱きしめることに使ってください」
早の言葉に樹生はわずかに目を開いた。それから目を細め、「抱きしめ損なってばっかりですよ」と言った。その台詞の真意は分からなかったが、早はそれ以上を訊かないことにした。樹生も語る気はないようで、「腹減った」と大きくあくびをしながら言った。
→ 9
← 7
樹生の車にふたりで乗り込む。今日、茉莉は自家用車を家に置いて駅まで公共交通機関を使って来ていた。付き合って、というからにはまっすぐ駅に送っていい訳ではないのだろう。「どこ行くの」と訊ねると、繁華街に最近オープンしたショッピングモールの名を出した。
「お店が色々と入ってるみたいだから、覗こうと思って」
「こういうのは藍(あい)や茜(あかね)と来た方が楽しいんじゃないの?」
と、樹生はふたりの姪の名前を出した。しかし姉は「いま私にその権利はないからね」と答えた。
「え?」
「出て行ったの、曜一郎(よういちろう)。藍も茜も連れて実家に帰ったわ」
「いつ、」
「もうけっこう前よ。先月あんたと会った、そのすぐ後ぐらい」
樹生は黙るほかなかった。思い当たる節ならいくらでもあるからだ。
傍目に見て、茉莉の生活は実に順調で幸福だ。若いうちに結婚し、ふたりの愛らしい娘を生み育て、稼ぎのよい誠実な夫のおかげで街からあまり離れない一等地に一軒家を持ち、家族四人で暮らしている。夫はこの辺りでは一流の企業に勤め、いまでは若いながらも多数の部下を束ねる立場であるし、娘たちはまた、入学が難しいとされる大学附属の学校に通っている。また、茉莉自身も専門学校時代からの仲間と店を構えていた。ドライフラワーとアンティークの小物を置く店で、店舗は小さいがその手のことが好きな婦人たちには絶大な人気を誇る店だ。その店で、茉莉は主にアンティークの買い付けを担当している。
誰もが羨む暮らしぶりである。だがその裏で、茉莉には酷い悪癖があった。曜一郎というパートナーがいながら、茉莉はこれまで幾度となく不貞を繰り返してきた。「浮気という言葉通りのことはしていない。浮ついた心じゃないから」と平気で言うほどなのだから質が悪い。
茉莉の言い分によれば、曜一郎との間に子どもが欲しいと思ったが、結婚するしないはどちらでもよかったらしい。結婚というかたちの方が子どもをより安全に育てられると思ったからそうしたという。けれど茉莉いわく、「曜一郎は下手」だ。夫とのセックスは苦痛でしかなく、しかし「たまるものは女だってたまる」。そういう時に会って発散させてくれる男が茉莉には幾人かいる。「向き不向きは誰にでもある。上手い人を求めるのは当然でしょう」といつか茉莉は平然と言い放った。「子どもは曜一郎との間にしか欲しくない。だからそんなヘマはしない」とも。
このことは、曜一郎も知っている。知っていてよくここまで家庭を保っていられるものだと、義兄に対して樹生は申し訳ないやら感心するやら、複雑な思いでいた。出て行った事は「ようやく」と言えるかもしれなかった。義兄の堪忍袋の緒は、ようやく正常に切れたのだ。
「楽よ」と茉莉は言った。
「深夜に帰宅する夫を待って遅くまで起きていなくていいし、脱ぎ散らかした娘の衣類を片付けなくていい。食事も洗濯も睡眠も仕事も、全部自分の為にある。そういう生活はあと十年は先だと思っていたから、思いのほか早くやって来て、こんなに楽かと驚いているわ」
「……」
樹生は家庭を持ったことがない。持ったとして、妻や母としての茉莉の立場に男の樹生は立てない。だから想像も難しい。難しいが、不快に思った。
「茉莉」と樹生は車を発進させながら言った。
「元は他人だからさ、夫婦間のことはこの際どうでもいいよ。けど、子どもに対して『楽』とか言うのは」
「母親は常に母親であれ、と? 子どもを持ってしまったら子どもが第一で自分は常に二の次でいい、そういう事? そういうの私は大嫌い。母親なんだからとか、子どもの為に正しくいろとか、反吐が出る」
と、樹生の台詞をばっさりと切り捨てた。樹生はまた黙り込む。この感情の激しい、突飛な発想をする姉に対して樹生はいつも戸惑う。なにか意見しようと思っても、言っても無駄である、と結局は諦めてしまう。姉が激しい性格なら、弟の樹生は事なかれ主義だ。それはきっとこんな姉を持ってしまったが故かな、と思う。
ショッピングモールは平日でも混んでいた。適当なフードコートに入って軽食を取り、あとは並ぶ店を覗きながらぼんやりと歩いた。デパートの地下ではないが、それに似た食品を売る店の集まりがあり、樹生はその一角に出店していた中華の惣菜店で春巻きと焼売を買った。
茉莉は主にスイーツの店舗を覗いていた。その中から結局はチョコレートを売る店で買い物をした。ひとりの家に帰るにしてはかなりの大箱で買う。チョコレートなので少しずつ消費するつもりかもしれなかった。
歩き疲れて、ふたりはカフェに腰を据えた。茉莉はコーヒーを、樹生は甘いカフェラテを頼んだ。子どもみたいだなんだと言われても、樹生はこういう甘い飲み物が好きだ。
コーヒーを口にしてから、茉莉は「ひとりだから、進捗状況もいいのよ」と言った。
「あいつの居場所が掴めそう」
「……まじで?」これには、樹生は前のめりになって訊ね返してしまった。茉莉はうっすらと微笑む。
「多分Kにいるわ。あいつの昔からの馴染みがそこにいて、身を寄せてるっぽい。これから厳冬期に入るのに、あんな避暑地に誰も来ないでしょ? 冬場のKなんか極寒なんだから、それを利用してそんなところにいるのかも」
「Kか……」ここからさほど遠くない、冬の深い街だ。割合と近くにいるだろうことに樹生は驚く。
「絶対見つける……」と茉莉は樹生に対してではなく、自分に言い聞かせるように呟いた。
カフェには、あまり長居はしなかった。再び駐車場に戻り、茉莉を駅に送るべく樹生は車を出す。運転しながら、ふと思い立って樹生は茉莉に疑問を投げた。「あの男見つけ出して、茉莉はどうする?」
茉莉は「殺す」と即答した。あまりにも感情が込められていない、そっけない「殺す」だったので、却ってストレートに殺意を樹生に伝え、樹生は思わず身震いした。
「茉莉、」
「まさか、殺さないわ。殺すぐらいなら死ぬよりもっと苦しい生き地獄を味わわせる。母さんをあんなにした男よ。生きる価値はないけど死ぬ価値もないのよ」
と、茉莉は前を向いたまま言い放った。樹生は適切な答えを見失う。車内ではラジオがかろうじて最新ポップスを流していた。
駅のロータリーへ車を滑らせる。送迎用のスペースへ停車させた。茉莉は「じゃあね樹生」と扉を開ける前に言った。
「進捗はまた連絡する。その時が来たら付き合ってくれる約束よね」
「……まあ、」
「次はまた一ケ月後かしら。風邪引くんじゃないのよ。元気でね」
一方的にそう言い、茉莉は車を降りる。だが車のドアを閉める前に、「今日はこれから曜一郎と娘たちに会うのよ」と言った。
「曜一郎が話がしたい、て言うから会うの。私ね、別に曜一郎や娘たちが嫌いな訳じゃないのよ」
「……」
「むしろ好きだわ。愛してる」
茉莉はそう言って微笑んだ。そして扉を唐突に閉め、さっさと歩を進めて雑踏に紛れて消えてしまった。
樹生は呆然としていた。そういえば茉莉は甘いものを好まない。チョコレートなどもってのほかであることに、そのときようやく気付いた。
→ 8
← 6
姉の茉莉(まつり)がくしゅっとくしゃみをした。何度か立て続いたので樹生は「風邪?」と訊ねる。茉莉は鼻にハンカチを当てながら「埃かなんかでしょ」と答えた。
「風が強い。空気も乾燥してるし、今日はお線香はやめた方がいいかもね」
「そうだな。じゃあ、掃除だけ」
と樹生は言ったが、墓掃除なんてものを真剣に心を込めて行うつもりはなかった。形骸的な儀式みたいなもので、せいぜいこの墓の前にいる時間は十五分にも満たないだろう。茉莉も同じ気持ちでいるはずだ。もしくは樹生よりも今日この儀式を煩わしく思っているかもしれなかった。
強い風に流されて、茉莉の長い髪がなびく。その一筋の艶やかな黒髪を見て、まるで魔女だな、と樹生は思う。手入れが良いというよりは茉莉の場合は元からの素質で、歳を重ねても髪にはハリがあり、白髪の一本も知らない。これで今年は四十歳になった女とは思えなかった。顔立ちも、どことなくほうれい線や目尻のしわなどが分かるが、そうでなければくすみなくただただ美しい。
老いを知らない姉に対して、同時に樹生は母のことを連想する。茉莉は母に生き写しだった。どこにも血を混ぜた形跡がなく、進化を忘れたかと思うぐらいだ。もしくは細胞からクローンでも育てたか。だから姉に会う度に樹生はその面影を追想する。
そんなことをぼんやりと考えていた樹生を知らずか、茉莉は「水を汲んできて」と指示を出した。樹生は大人しくそれに従う。霊園の入口に据えられた水道は、凍結防止の為に元栓が締められていた。それをひねって開け、水を手桶に汲む。まだ十一月であると言うのに凍結の心配をするのは、それだけこの霊園のある場所が繁華街から離れた田舎の高台にあるせいだし、今年は寒波がやって来るのが早く、ここの管理人が気を遣ったからに違いなかった。
樹生が手桶を提げて墓の前に戻ると、墓前には茉莉の手で花が並べられていた。献花用に購入した花束をまたばらして、花瓶に生けなおしているのだ。樹生は墓の背後にまわり、柄杓で水を掬って墓にかける。持参したブラシで軽く擦って苔や泥を落とす。姉は花を、弟は掃除を。この分担はあまりにも長いこと墓に通ううちにいつの間にか出来てしまった役割であった。
花を生けながら、茉莉は「今日あんたのかわいい子は?」と訊ねてきた。樹生には同居人がいて、かつわりない仲であることをこの姉にだけは告げてあった。
「先生のところ」と樹生は答える。
「まだ通ってるんだ」
「まあな」
「そうね……。あんたにとってはあの人がほとんど親だものね」
茉莉は花を生け終え、墓前に菓子を供えると、手をパンパンと叩く。樹生も墓の前にまわった。ふたりで掌を合わせて静かに頭を垂れる。樹生が顔を上げると茉莉はまだ目を閉じていたので、顔が上がるのを待つ。
「樹生、この後なんかある?」
と頭を上げた茉莉が言った。
「ないならちょっと付き合って」
「夕方までなら」
「そんなにかかんないわ。なに、用事?」
「んー、先生の家に迎えに行きがてらめし食うだけ」
「そう」
「茉莉こそいいのか? 家事とか子どもの迎えとか」
と、樹生は茉莉にいる家族のことを訊ねた。茉莉は十四年前に三歳年上の男と結婚し、翌年には長女を、その翌年に次女を出産している。子どもたちが幼い頃は月一の姉弟の会合に伴うこともあったぐらいだが、ここ数年は樹生も義兄や姪には会っていない。義兄は仕事が忙しく、姪たちは学校に通いながら塾や習い事に精を出していると聞いていた。
樹生の問いに、姉はそっけなく「そうね」と答えただけだった。供えた菓子を引き上げると、墓と墓の間を抜け、入口の水道で手を洗い桶を返し、駐車場へと歩いていく。先をずんずんと進む姉に、樹生は声をかけられない。
→ 7
← 5
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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