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「――え?」
「岩永、……なわけないよな。もしかして、息子か?」
「あの、」
「そうだそうだ、息子だ。すごいな、昔の岩永にうり二つだ。よく似ている。背の高いところも」
「……」
「身長いくつ?」
訊かれて戸惑ったが、「189cm」と答えると、中年男は笑う。
「あいつは190cmだとよく自慢していた。そこは負けたな」
誰なのか、なんなのか、父を知っているのか――あの男を。樹生が黙ったままでいるうちに老人を支えて、男は玄関を上がる。
「誰だ?」と老人が樹生に向き直った。小刻みに体が震えている。髭は豊かだがかなりの高齢のようで、耳も遠いようだった。中年男が大声で答える。
「岩永の息子だよ、息子。ほら覚えてるだろ? おれの大学の時の同期でさ、家にも何回か遊びに来てる。親父も会ったことあるだろ」
「息子? ああ、息子か」
老人が樹生を見上げる。皺だらけの目元の奥の瞳は、まるで品定めでもするかのようにぎょろりと開かれる。
「草刈が引き取った息子か。あの、かわいそうな」
「……」
「ふうん。でかくなったもんだ。おれが見たときは痩せて、肌も荒れててな。みすぼらしい少年だったが」
老人の手が樹生の腕に伸びた。
「たらふく食ったか、この家で」
「夏居さん、」早が咎める。
「でかくなったな。立派なもんだ」
腕を軽く叩き、老人は廊下の先へ進もうとする。中年男が慌てて老人の体を支えた。
「先に行っていてください」
と、男らに言い、早は棒立ちのままの樹生の手を取った。「樹生さん、あなたはお仕事へ行きましょう」と玄関の扉を開ける。
「夏居さんはものの言い方が悪いので、嫌な思いをさせましたね」と早は樹生を見上げる。
「……あの人たち、」
「言い方は悪いですが、根まで悪い人ではありません。どうか気にしないで」
「……」
「お仕事、気をつけて行ってらっしゃい。またお話しましょう。今日は嬉しかったですよ」
樹生の手をぎゅっと握って離し、早は家の中へ入った。
言い方は悪いが悪い人ではない。そう言われてもたったいま向けられた悪意を許す気になれない。老人の言葉がぐるぐると巡った。かわいそうな、みすぼらしい少年。
少年には家族がいた。父と母と十歳離れた姉と、四人で暮らしていた。
だが少年がものごころついた頃には、なぜか家の中には父の姿がなかった。母は「お仕事で遠くへ行っているのよ」と答えたが、それにしても帰ってこない。何日、何週間、何カ月、何年。さすがにおかしいのだと少年も気付いたが、父の不在に慣れきっていたので淋しいとは思っていなかった。
少年が小学校へ上がった頃には、家はすっかり荒れて貧しかった。母はずっと勤めに出ていて、帰宅するのは深夜だった。姉は学校に通いながらバイトをしていた。ふたりとも帰ってくると少年の世話を焼いてはくれたが、明らかに疲労しており、その姿が痛々しくて少年には苦痛だった。
ある雨の日、学校へ知らないおじさんが少年を迎えに来た。
病院へ行こうと言われた。強面のおじさんに連れられて少年は総合病院へ行く。廊下の長椅子に制服姿の姉がピンと背を伸ばして腰かけ、前を見ていた。前だけを、呆然と見つめていた。少年に気付くと姉は「お母さんが死んだ」と少年に告げた。
会っておいでと言われたが、白布をかけられたなにかに近寄る気にもなれなかった。少年にはなにか理解し難いことが起きていて、だが理解する努力を彼は放棄した。
ただ、少年の肩を強く掴んでいるおじさんのきつい瞳を見たとき、納得はした。母はいない。父もいない。姉はいるが、いままで通りの生活にはならない、と。
おじさんは「きみたちはたくさん食べよう」と言って、おじさんの家に姉弟を連れ帰った。家にはなんとなく見覚えのあったおばさんがいて、姉が「サキセンセイ」とおばさんを呼んだので、それを真似した。「サキセンセイ」はテーブルにたくさんの食事を用意して待っていた。
泣きはしなかった。何も悲しくはなかった。むしろ、もう疲れ切った母の頭を撫でてやらなくてもいいのだな、と思ったら、安心してしまった。
「少年」は「あの家」で「たらふく」食べて、よく寝て、遊んだ。そうして「立派」に成長した。なにも間違ってはいない。
あの老人の言った通りだ。
「岩永、……なわけないよな。もしかして、息子か?」
「あの、」
「そうだそうだ、息子だ。すごいな、昔の岩永にうり二つだ。よく似ている。背の高いところも」
「……」
「身長いくつ?」
訊かれて戸惑ったが、「189cm」と答えると、中年男は笑う。
「あいつは190cmだとよく自慢していた。そこは負けたな」
誰なのか、なんなのか、父を知っているのか――あの男を。樹生が黙ったままでいるうちに老人を支えて、男は玄関を上がる。
「誰だ?」と老人が樹生に向き直った。小刻みに体が震えている。髭は豊かだがかなりの高齢のようで、耳も遠いようだった。中年男が大声で答える。
「岩永の息子だよ、息子。ほら覚えてるだろ? おれの大学の時の同期でさ、家にも何回か遊びに来てる。親父も会ったことあるだろ」
「息子? ああ、息子か」
老人が樹生を見上げる。皺だらけの目元の奥の瞳は、まるで品定めでもするかのようにぎょろりと開かれる。
「草刈が引き取った息子か。あの、かわいそうな」
「……」
「ふうん。でかくなったもんだ。おれが見たときは痩せて、肌も荒れててな。みすぼらしい少年だったが」
老人の手が樹生の腕に伸びた。
「たらふく食ったか、この家で」
「夏居さん、」早が咎める。
「でかくなったな。立派なもんだ」
腕を軽く叩き、老人は廊下の先へ進もうとする。中年男が慌てて老人の体を支えた。
「先に行っていてください」
と、男らに言い、早は棒立ちのままの樹生の手を取った。「樹生さん、あなたはお仕事へ行きましょう」と玄関の扉を開ける。
「夏居さんはものの言い方が悪いので、嫌な思いをさせましたね」と早は樹生を見上げる。
「……あの人たち、」
「言い方は悪いですが、根まで悪い人ではありません。どうか気にしないで」
「……」
「お仕事、気をつけて行ってらっしゃい。またお話しましょう。今日は嬉しかったですよ」
樹生の手をぎゅっと握って離し、早は家の中へ入った。
言い方は悪いが悪い人ではない。そう言われてもたったいま向けられた悪意を許す気になれない。老人の言葉がぐるぐると巡った。かわいそうな、みすぼらしい少年。
少年には家族がいた。父と母と十歳離れた姉と、四人で暮らしていた。
だが少年がものごころついた頃には、なぜか家の中には父の姿がなかった。母は「お仕事で遠くへ行っているのよ」と答えたが、それにしても帰ってこない。何日、何週間、何カ月、何年。さすがにおかしいのだと少年も気付いたが、父の不在に慣れきっていたので淋しいとは思っていなかった。
少年が小学校へ上がった頃には、家はすっかり荒れて貧しかった。母はずっと勤めに出ていて、帰宅するのは深夜だった。姉は学校に通いながらバイトをしていた。ふたりとも帰ってくると少年の世話を焼いてはくれたが、明らかに疲労しており、その姿が痛々しくて少年には苦痛だった。
ある雨の日、学校へ知らないおじさんが少年を迎えに来た。
病院へ行こうと言われた。強面のおじさんに連れられて少年は総合病院へ行く。廊下の長椅子に制服姿の姉がピンと背を伸ばして腰かけ、前を見ていた。前だけを、呆然と見つめていた。少年に気付くと姉は「お母さんが死んだ」と少年に告げた。
会っておいでと言われたが、白布をかけられたなにかに近寄る気にもなれなかった。少年にはなにか理解し難いことが起きていて、だが理解する努力を彼は放棄した。
ただ、少年の肩を強く掴んでいるおじさんのきつい瞳を見たとき、納得はした。母はいない。父もいない。姉はいるが、いままで通りの生活にはならない、と。
おじさんは「きみたちはたくさん食べよう」と言って、おじさんの家に姉弟を連れ帰った。家にはなんとなく見覚えのあったおばさんがいて、姉が「サキセンセイ」とおばさんを呼んだので、それを真似した。「サキセンセイ」はテーブルにたくさんの食事を用意して待っていた。
泣きはしなかった。何も悲しくはなかった。むしろ、もう疲れ切った母の頭を撫でてやらなくてもいいのだな、と思ったら、安心してしまった。
「少年」は「あの家」で「たらふく」食べて、よく寝て、遊んだ。そうして「立派」に成長した。なにも間違ってはいない。
あの老人の言った通りだ。
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アラームより先に電話で起こされた。
液晶を確認すれば姉からの着信だった。眠気に負けて、出るのが面倒で、一度は鳴動するスマートフォンを握ったまま眠りに落ちかけた。だが留守番電話サービスに切り替わった途端に切れた着信は、間髪入れずに再び鳴った。さすがに目が覚めて、樹生は電話に出る。
「――なに?」
『あんたいま仕事?』
いきなり本題に入った自分も自分だが、応える姉も姉だ。「いまは仕事じゃないけど」と答えると、茉莉は『ちょっと出てこれない?』とさらに質問を投げる。
「これから仕事なんだよ。ええと、だから、なに?」
『今日はKまで行く予定だったの。けど、熱が出て』
「茉莉が?」
『この家に私以外いないわよ』
相変わらず別居が続いているらしいが、そんなのは樹生の知ったことではなかった。ただ、電話の向こうの姉の声は確かに普段より乾いているように聞こえた。
「何度か測った?」
『三十九度五分』
「おい、」
すぐに医者にかかるべきレベルの話だ。夫に連絡したかと聞けば、していないという。
『休日診療の病院を探すのも手間だから、とりあえず寝てる。だからあんたにお願いがあるの。Kに行ってくれない? 私の代わりに』
「なんで」
『あの男に関わる人の場所が特定できた。これから向かえばそいつをうまく捕まえられるだろうって。そしたらあの男も引きずり出せる。だからお願い、すぐ行って。お願い』
と言うので、瞬間的に頭に血がのぼる。これから仕事と言う弟に頼む話ではない。そのことも腹立たしかったが、一番は自分を蔑ろにする、その神経だった。
そんなにまでしたい復讐だろうか?
「ばかっ」と樹生は電話口で叫ぶ。台所に移動して繕い物をしていた早が驚いて顔を上げた。
「自分の心配をしろ、自分の。いいか、茉莉の熱が下がるまではなにがあってもおれは一切動かないからな」
電話の向こうで姉は『でも』と弱々しく反論したが、その後は続かなかった。
「曜一郎さんに連絡しろよ。いいね? 病院も絶対に行って。熱が下がったら付きあってやるよ。下がるまではなにも聞いてやらない。いいな? 家族と、病院だ」
煮えた頭のまま、自分から電話を切った。早が立ち上がる。カウチの上で樹生はあぐらをかき、ガリガリと頭を掻いた。
「茉莉さん?」と早が訊ねる。
「はい、熱出したって」
「まあ。でもご家族が」
「いないんです、いま、あいつには誰も。――っくそ、」
時計を確認すると、もうこの家を退出する時間が迫っていた。
「いいや。おれ、とりあえず仕事行きます」
「いいんですか?」
「いいんです。あ、洗面台借ります」
樹生は部屋を出てトイレを済ませ、手を洗うついでに顔も洗った。冬の水が冷たく痺れるが、それでも湯ではなく水がよかった。
荷物を取りに居間に戻ると、早はいなかった。なにやら玄関の方から声がする。上着を羽織りながらそちらへ向かうと、玄関の扉の前には白い髭を蓄えた老人と、老人を支える中年の男の姿があった。老人の方は着物姿で、中年男の方はたっぷりとしたモスグリーンのセーターを着ている。
モスグリーンの中年男と目が合う。早の背後に見えた背の高い樹生を見て、早に笑いかけていた表情があっという間に変わった。
「岩永?」と中年男が言うので、樹生も驚いた。
→ 35
← 33
翌朝は日の出前には起きた。よく晴れて晴れた分だけ冷え込んだ朝で、群青色の空にはまだいくつか星が残っていた。防寒だけはきっちりとして、アパートを出る。車の表面には霜がびっしりと降りていたのでそれを削り、エンジンをしばらくアイドリング状態にして暖め、ゆっくりと車を発進させた。
出迎えてくれた早は和装だった。それを見て、そうだ正月だったな、と昔の記憶が呼び起こされた。この家の住人は正月の三が日やなにかの祝いごとには決まって着物を着たのだ。いまは夫も亡くしてひとりだと言うのに、早の決まり事は変わっていないようだった。
おそらくウールなのだろう。灰色に近い、密に織り上げられた地厚の着物だった。着物自体は地味であるが、締めている帯は新雪そのものの白で、帯揚げと帯締めは染液にたっぷりと浸して濃く染められた藍色だった。先ほどの夜が明ける前の空の色を思い出す。
家の中は早朝だというのにきちんと暖められていた。居間まで来ると、座卓には質素ながらも丁寧に食事が整えられていた。お重には樹生の好きな黒豆の煮物とだて巻き、栗きんとんが揃っていることを確認して思わず微笑んだ。子どもだと言われようがなんだろうが、正月の楽しみはいつもこれだった。
「さあ、頂きましょうか」
早から熱い吸い物の椀を受け取り、樹生は手を合わせて食事にありつく。樹生の好きな甘味の他には、紅白のかまぼこに海老や昆布巻き、松前漬けなども並ぶ。茶碗に盛られた炊きたての白米が、感動するほど美味かった。暁登もいればよかったのにな、と思う。
「相変わらずまめで丁寧な暮らしをしていますね」と言えば、早は「張り切りましたから」と答えた。
「樹生さんが帰ってくると思ったら、わくわくしてしまって」
「ありがとうございます」
「ですが、昔よりはかなり簡単に済ますようにもなったんですよ。ひとりは淋しいですが、気楽ですね。一日中自分のことだけして暮らせます。……まあ、これは私がまだ、元気に動くことの出来る体でいられていることが大きいですが」
早は「豆は煮ましたが、松前漬けは買いました」と器を見ながら言った。
「昔は材料を買ってきて、自分で漬けましたけどね。だんだん端折るようになってきました。ひとりならひとりに見合った大きさがある、ということですね」
その言い方があまりにもさっぱりとしていたので、樹生は安心した。早のこういうところが好きだし、だから自分はこの家に寄りつくのだと実感する。早は早で、個で、自分の時間をきちんと持っている。この人が持つ精神的な強かさなのだろう。
「元旦の配達、お疲れさまでした」と言われ、樹生は苦笑した。
「ほんと、疲れました。今年はリーダーが変わって最初の繁忙期でしたから、リーダーのやり方に不満のある社員からの苦情が半端なくて」
「あら」
「前任者がリーダーとして優秀な人だったので皆信頼を置いていて、だからこそ余計にだったんですよね。さすがにこれはと思う部分もあったのでリーダーに言ったんですが、聞く耳持たずで」
「それは別の疲労がありましたね」
「そうですね」
「樹生さんも立派に中間管理職になってきましたね」
と、早は小さく笑った。
「暁登さんがね、前に言っていました。『自分は岩永さんのことを心から尊敬しているんです』って。『絶対にいい上司になる、岩永さんはそういう人だ』って」
「……買いかぶりすぎですね」とは言ってみたが、暁登の揺るぎない信頼っぷりを、樹生はよく分かっていた。
「だからこそ暁登さんは苦しい」
「……」
「彼に足りないのは自信です。……どうにか、ならないかと思うのですが」
難しいですね、と言い置いて、早は樹生の湯呑みにほうじ茶を入れてくれた。樹生は頭を下げる。
それからはさして大したことは話さなかった。食べているうちに樹生は眠気を感じ、食べ終える頃、早が「少し休んでから出社されては?」と言ったので、ありがたく横になった。睡眠に困ったことはなく、むしろ寝過ぎなぐらいに寝る性分だ。早の家だろうが自分の部屋だろうが職場の休憩室だろうが、樹生はどこでも、すぐに眠れる。
→ 34
← 32
『山岳用語でジャンダルムと言えば、ルート上の障害物の意味でしょうかね。このH連峰にあるジャンダルムは垂直の岩壁で、縦走ルートの難所です』
「ジューソー」
『山の尾根から尾根を渡り歩く登山です。尾根へ上がってしまえばてっぺんをずっと歩き続けますので、爽快感がたまらなく気持ちがいいですよ』
そう言われても樹生は山にそそられない。とことん興味がないのだ。
構わず早は続けた。
『岩壁ですから、当然普通に歩いては越えられません。越えるならば相応の装備が必要になりますし、体力ももちろん、テクニックや、運もいるかもしれません。残念ながらここで命を落とす登山者もいます。近年では、ここに山岳救助のヘリコプターがぶつかって死亡事故が起きたことでも話題になりました』
「……重いですね」
事故は嫌なものだと、つくづく思う。職業柄、安全にはとても気を遣うし、会社の方も口を酸っぱくして注意喚起する。しかしある特定の頻度で事故は起きるし、その度に事故事例を取り上げてミーティングも行う。面倒だし、気鬱になる時間だ。それを思い出した。
『それでも皆、あの門番に憧れるんです』と早は言った。
『ジャンダルムは、登山者側からすれば確かに障害物です。あの難所がなかったら、もっと多くの人が縦走登山の楽しさを気軽に楽しめることでしょう。ですが、あの黒々とした突端に惹かれるのも確かです。H岳の頂上に登って、その尾根沿いの先にあれが聳えているのを見て、なんて格好いいのだと感動する』
「その感動を新年の挨拶に込めた、と?」
『樹生さんに送った場合ですと、意味合いはまた少し違ってきます。ルート上の障害ですが、でも、門番ならば守っているんです』
「? なにを?」
『その先にあるものを、です。もしくは攻撃を留めている』
意味がよく分からない。
『内にあるものを外に出さないように押し戻したり、外のものから守ったりしています。障害物ですが、見方を変えれば、いかがでしょう?』
と言われても樹生にはさっぱりだった。想像を巡らす気もない。「難しいですよ、先生」と言うと、早は『そうですね』と答え、特に気にした風もなくあっさり話題を手放した。
『分からない話はやめましょう。今夜はどうして電話をくださったんですか?』
「淋しかったからです」
『暁登さんは?』
「実家に帰省しました」
『まあ』
ふふ、と早は電話の向こうでおっとりと笑った。その吐息を聞いて、樹生の中で一日の疲労がドッと膨れる。年末までは大量の信書を間違いのないようにひたすら区分していて、年始になった途端に一軒一軒それを配る。紙の束なので、集まれば当然重い。重いものをバイクに載せて家と家の間をはぎ合わせるように走る。疲れない訳がなかった。
早が『私も淋しいです』と言うので、余計に堪えた。
「先生、明日の予定は、」
『お昼頃、主人の古い友人がみえる予定です』
「じゃあ、朝飯食いに行っていいですか?」
『構いませんが、お仕事、朝早いのでは?』
「明日は仕事ですけど、配達自体は休みなんですよね。だからいつもより出勤時間が遅くて。昼からの出勤なんです」
『あら』
「朝が遅いのは久しぶりなんで寝てようかと思ったんですけど、たまには新年に帰省するのも」
『ええ、いいと思います。大歓迎ですよ』
早は嬉しそうにくすくす笑う。それが耳に心地よく、樹生は深く静かに息をついた。
「じゃあ、明日の朝」
『お待ちしています』
おやすみなさい、で電話を切る。湯船の外に長いこと腕を出していたので、そこだけひやりと冷たくなっていた。さぶりと音を立てて思い切り体を浴槽に沈める。熱い湯が浸みた。
→ 33
← 31
「ジューソー」
『山の尾根から尾根を渡り歩く登山です。尾根へ上がってしまえばてっぺんをずっと歩き続けますので、爽快感がたまらなく気持ちがいいですよ』
そう言われても樹生は山にそそられない。とことん興味がないのだ。
構わず早は続けた。
『岩壁ですから、当然普通に歩いては越えられません。越えるならば相応の装備が必要になりますし、体力ももちろん、テクニックや、運もいるかもしれません。残念ながらここで命を落とす登山者もいます。近年では、ここに山岳救助のヘリコプターがぶつかって死亡事故が起きたことでも話題になりました』
「……重いですね」
事故は嫌なものだと、つくづく思う。職業柄、安全にはとても気を遣うし、会社の方も口を酸っぱくして注意喚起する。しかしある特定の頻度で事故は起きるし、その度に事故事例を取り上げてミーティングも行う。面倒だし、気鬱になる時間だ。それを思い出した。
『それでも皆、あの門番に憧れるんです』と早は言った。
『ジャンダルムは、登山者側からすれば確かに障害物です。あの難所がなかったら、もっと多くの人が縦走登山の楽しさを気軽に楽しめることでしょう。ですが、あの黒々とした突端に惹かれるのも確かです。H岳の頂上に登って、その尾根沿いの先にあれが聳えているのを見て、なんて格好いいのだと感動する』
「その感動を新年の挨拶に込めた、と?」
『樹生さんに送った場合ですと、意味合いはまた少し違ってきます。ルート上の障害ですが、でも、門番ならば守っているんです』
「? なにを?」
『その先にあるものを、です。もしくは攻撃を留めている』
意味がよく分からない。
『内にあるものを外に出さないように押し戻したり、外のものから守ったりしています。障害物ですが、見方を変えれば、いかがでしょう?』
と言われても樹生にはさっぱりだった。想像を巡らす気もない。「難しいですよ、先生」と言うと、早は『そうですね』と答え、特に気にした風もなくあっさり話題を手放した。
『分からない話はやめましょう。今夜はどうして電話をくださったんですか?』
「淋しかったからです」
『暁登さんは?』
「実家に帰省しました」
『まあ』
ふふ、と早は電話の向こうでおっとりと笑った。その吐息を聞いて、樹生の中で一日の疲労がドッと膨れる。年末までは大量の信書を間違いのないようにひたすら区分していて、年始になった途端に一軒一軒それを配る。紙の束なので、集まれば当然重い。重いものをバイクに載せて家と家の間をはぎ合わせるように走る。疲れない訳がなかった。
早が『私も淋しいです』と言うので、余計に堪えた。
「先生、明日の予定は、」
『お昼頃、主人の古い友人がみえる予定です』
「じゃあ、朝飯食いに行っていいですか?」
『構いませんが、お仕事、朝早いのでは?』
「明日は仕事ですけど、配達自体は休みなんですよね。だからいつもより出勤時間が遅くて。昼からの出勤なんです」
『あら』
「朝が遅いのは久しぶりなんで寝てようかと思ったんですけど、たまには新年に帰省するのも」
『ええ、いいと思います。大歓迎ですよ』
早は嬉しそうにくすくす笑う。それが耳に心地よく、樹生は深く静かに息をついた。
「じゃあ、明日の朝」
『お待ちしています』
おやすみなさい、で電話を切る。湯船の外に長いこと腕を出していたので、そこだけひやりと冷たくなっていた。さぶりと音を立てて思い切り体を浴槽に沈める。熱い湯が浸みた。
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「だってこれ、日本の山なんだろ、」
「山用語って結構いろんな言語入ってるよ」
「そうなの?」
「そもそもが、えーと例えば『日本アルプス』って言うけど、『アルプス』自体は英語だし。これがドイツ語になれば『アルペン』」
「ふうん」日ごろ気にしないのでそれを言われてもどこにある何なのか思い浮かばない。
「カールとか、キレットとか。乗越(のっこし)……は、日本語か」
「わけわからん」
「あんたはそうだろうな」
と暁登は笑った。それから「よし」と言って立ち上がり上着を着始めたので、樹生は首を傾げる。「どこか行くの?」
「実家に顔出してくる」
「これから?」
「今朝方までは温泉旅行に出かけてたんだよ、実家一族みんなで。帰って来るならみんなが温泉から戻ってからにしなさい、って言われて」
「そうなんだ。暁登も行けばよかったのに」
「おれはいいよ。バイトもあったしな」
元旦にも新聞配達の仕事はあるが、元旦の新聞製作を休むため二日の配達は休みになる。「今夜は泊まって来るから」と言って暁登は原付のキーを手にする。
「送ってこうか?」と言ったが、いい、と断られてしまった。
「あんたは疲れてるんだから休んどけ」
「そんなに派手に疲れてるわけでもないけど」
「嘘つけ。昨夜も遅くて今朝も早かっただろ。寝ろ。寝ないと縮むぞ」
あっち行け、みたいな手の振り方をされた。樹生は頭をかりかりと掻く。
「風呂沸かしといたし、めしも鍋にあるから。じゃあ、行ってきます」
そう言って暁登は風のように行ってしまった。部屋の中が急に静かになる。暁登は決して賑やかな性格ではなかったが、それでもいればそれなりに音がしていたんだな、と思う。
鍋の中を覗くと、鍋焼うどんが煮えていた。樹生の帰宅に合わせて作ってくれていたようで、鍋からは湯気が上がる。ありがたくそれを食べ、風呂に浸かった。ひとり暮らしだったら、明かりのついた暖かな家に帰り、風呂が沸いていて、温かな食事もできている、なんてことはない。暁登と暮らしているからこそのささやかな贅沢が嬉しい。
ふと思いつき、樹生はいったん湯船から上がって脱衣所に置いたスマートフォンを取った。こういう時のために防水性のよい機種を使っている。再び湯船に戻り、浸かりながらコールする。もう休んでいる時間かもしれないと思ったが、電話は数回で繋がった。
『――はい、草刈です』
「あけましておめでとうございます、早先生」
『おめでとうございます、樹生さん』
ふふ、と電話の向こうから明るい微笑みが伝わってきた。
「なにか楽しいことしてましたか?」
『久しぶりにお酒をいただいています。なんだか楽しくなってしまって』
「おひとりで?」
『ええ、ひとりですよ。去年と同じお正月です』
届いた年賀状を眺めながらひとりで酒を飲んでいたという。
「早先生のところは年賀状の届け甲斐がありますよね」と、樹生は思い出しながら喋る。早の家から出す年賀状の枚数もすごいが、届く枚数もすごいのだ。
『そうかもしれません。たくさんの方から色んな図柄の年賀状を今年もいただけました』
そこでまた早は「ふふ」と笑いを漏らしたので、相当酔っぱらっているのではないかと樹生は危惧する。早も亡くなった夫も、滅多に酒をたしなむことのなかった家だった。
しかし樹生の心配とは裏腹に、早は「そんなに飲んではいませんよ」と答えた。
『ちょうど暁登さんからの年賀状を眺めていたところに樹生さんから電話があったので、なんだか楽しくなってしまったんです』
「暁登、年賀状なんか出したんですか?」
『ええ。葉書は普通の絵葉書で、切手も普通の切手ですが。あけましておめでとうございます、ってありますよ』
そんなマメなことをしている男だとは思いもしなかったので、これはとても意外だった。
樹生の驚きを早はさして気にせず、「暁登さんの字はいいですね」と言った。
「字?」
『ええ。鋭角でキリッとした字を書かれますね。勇ましいというか、芯の強さを感じます』
「そうですか」
『樹生さんの字もわたしは好きですよ。まんまるで、あなたの本質がよく出ていると思いながら見てました。樹生さんは、優しい人です』
と早ははっきり言った。樹生は曖昧に笑い、「早先生からの年賀状も届きました」と話題を少しずらす。
「山の絵、格好よかったです。けど、あれは暁登の方に出した方がよかったと思いますが」
樹生は山に興味を持ったことがないのだ。多趣味な暁登と違い、自分はつい暇を持て余してしまうつまらない人間だな、と思う。定年を迎えたらどう生きて良いのか迷うのではないかといまから危惧するくらいだ。
早は『そうでしょうか?』と言った。
『あの葉書の中心にある黒っぽい突き上がり』
「ああ、なんだっけ、暁登も言ってました。えーと、ジャングル、みたいな」
『ふふ、外れです』
「シャングリラ?」
『違います』
「シンデレラ」
『ロマンティックな回答ですが、それも外れです』
間違いを承知で適当なことを喋ると、なかなか楽しくて早も笑った。
『ジャンダルム』
「ジャンダルム」
『そう、ジャンダルム。フランス語で、門番という意味です』
「門番?」
『もしくは、武装警察官とも』
と言われてしまえば、厳めしい顔をした男の姿しか思い浮かばない。新年の挨拶状だというのにおめでたい気分にはならないな、と思った。
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「山用語って結構いろんな言語入ってるよ」
「そうなの?」
「そもそもが、えーと例えば『日本アルプス』って言うけど、『アルプス』自体は英語だし。これがドイツ語になれば『アルペン』」
「ふうん」日ごろ気にしないのでそれを言われてもどこにある何なのか思い浮かばない。
「カールとか、キレットとか。乗越(のっこし)……は、日本語か」
「わけわからん」
「あんたはそうだろうな」
と暁登は笑った。それから「よし」と言って立ち上がり上着を着始めたので、樹生は首を傾げる。「どこか行くの?」
「実家に顔出してくる」
「これから?」
「今朝方までは温泉旅行に出かけてたんだよ、実家一族みんなで。帰って来るならみんなが温泉から戻ってからにしなさい、って言われて」
「そうなんだ。暁登も行けばよかったのに」
「おれはいいよ。バイトもあったしな」
元旦にも新聞配達の仕事はあるが、元旦の新聞製作を休むため二日の配達は休みになる。「今夜は泊まって来るから」と言って暁登は原付のキーを手にする。
「送ってこうか?」と言ったが、いい、と断られてしまった。
「あんたは疲れてるんだから休んどけ」
「そんなに派手に疲れてるわけでもないけど」
「嘘つけ。昨夜も遅くて今朝も早かっただろ。寝ろ。寝ないと縮むぞ」
あっち行け、みたいな手の振り方をされた。樹生は頭をかりかりと掻く。
「風呂沸かしといたし、めしも鍋にあるから。じゃあ、行ってきます」
そう言って暁登は風のように行ってしまった。部屋の中が急に静かになる。暁登は決して賑やかな性格ではなかったが、それでもいればそれなりに音がしていたんだな、と思う。
鍋の中を覗くと、鍋焼うどんが煮えていた。樹生の帰宅に合わせて作ってくれていたようで、鍋からは湯気が上がる。ありがたくそれを食べ、風呂に浸かった。ひとり暮らしだったら、明かりのついた暖かな家に帰り、風呂が沸いていて、温かな食事もできている、なんてことはない。暁登と暮らしているからこそのささやかな贅沢が嬉しい。
ふと思いつき、樹生はいったん湯船から上がって脱衣所に置いたスマートフォンを取った。こういう時のために防水性のよい機種を使っている。再び湯船に戻り、浸かりながらコールする。もう休んでいる時間かもしれないと思ったが、電話は数回で繋がった。
『――はい、草刈です』
「あけましておめでとうございます、早先生」
『おめでとうございます、樹生さん』
ふふ、と電話の向こうから明るい微笑みが伝わってきた。
「なにか楽しいことしてましたか?」
『久しぶりにお酒をいただいています。なんだか楽しくなってしまって』
「おひとりで?」
『ええ、ひとりですよ。去年と同じお正月です』
届いた年賀状を眺めながらひとりで酒を飲んでいたという。
「早先生のところは年賀状の届け甲斐がありますよね」と、樹生は思い出しながら喋る。早の家から出す年賀状の枚数もすごいが、届く枚数もすごいのだ。
『そうかもしれません。たくさんの方から色んな図柄の年賀状を今年もいただけました』
そこでまた早は「ふふ」と笑いを漏らしたので、相当酔っぱらっているのではないかと樹生は危惧する。早も亡くなった夫も、滅多に酒をたしなむことのなかった家だった。
しかし樹生の心配とは裏腹に、早は「そんなに飲んではいませんよ」と答えた。
『ちょうど暁登さんからの年賀状を眺めていたところに樹生さんから電話があったので、なんだか楽しくなってしまったんです』
「暁登、年賀状なんか出したんですか?」
『ええ。葉書は普通の絵葉書で、切手も普通の切手ですが。あけましておめでとうございます、ってありますよ』
そんなマメなことをしている男だとは思いもしなかったので、これはとても意外だった。
樹生の驚きを早はさして気にせず、「暁登さんの字はいいですね」と言った。
「字?」
『ええ。鋭角でキリッとした字を書かれますね。勇ましいというか、芯の強さを感じます』
「そうですか」
『樹生さんの字もわたしは好きですよ。まんまるで、あなたの本質がよく出ていると思いながら見てました。樹生さんは、優しい人です』
と早ははっきり言った。樹生は曖昧に笑い、「早先生からの年賀状も届きました」と話題を少しずらす。
「山の絵、格好よかったです。けど、あれは暁登の方に出した方がよかったと思いますが」
樹生は山に興味を持ったことがないのだ。多趣味な暁登と違い、自分はつい暇を持て余してしまうつまらない人間だな、と思う。定年を迎えたらどう生きて良いのか迷うのではないかといまから危惧するくらいだ。
早は『そうでしょうか?』と言った。
『あの葉書の中心にある黒っぽい突き上がり』
「ああ、なんだっけ、暁登も言ってました。えーと、ジャングル、みたいな」
『ふふ、外れです』
「シャングリラ?」
『違います』
「シンデレラ」
『ロマンティックな回答ですが、それも外れです』
間違いを承知で適当なことを喋ると、なかなか楽しくて早も笑った。
『ジャンダルム』
「ジャンダルム」
『そう、ジャンダルム。フランス語で、門番という意味です』
「門番?」
『もしくは、武装警察官とも』
と言われてしまえば、厳めしい顔をした男の姿しか思い浮かばない。新年の挨拶状だというのにおめでたい気分にはならないな、と思った。
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粟津原栗子
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成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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