×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
電話対応に追われる一日だった。
配達員の誤配達による苦情の電話から始まって、郵便物が届かないのだがどうなっているのだ、という問い合わせ、挙句は他の集配局で起きてしまった交通事故の件で緊急の会議が開かれることにもなった。電話対応を同僚に任せ、会議へと出ようと準備をしていると、スマートフォンが鳴った。早からの電話で、とても珍しいと思いながらも樹生は出なかった。まだ就業中であったし、これから用事もある。
早は、丁寧に留守番電話にメッセージを残してくれた。よっぽどの用件があるようだと分かったので、ようやくスマートフォンを耳に当ててメッセージを聞いた。
『草刈です。暁登さんが梯子から落ちて手足を怪我してしまいました。ちょっと、いえ、だいぶ困っています。これを聞いたら早めに連絡をください』
それを聞いて、樹生の心臓がドッと冷たい北風を吹き込まれたように冷え込んだ。梯子から落ちて怪我、とはなんだ。早が「だいぶ困る」用件とは穏やかではない。慌ててかけなおした。早は着信の早さに驚いていたが、冷静に事の経緯を聞かせてくれた。
『足から落ちて頭を打っていないことは幸いでした。が、足はかなり腫れてきました。打撲と捻挫あたりだと思ってとりあえず冷やしていますが、医者に連れていきたいのです。落ちた時に手をついて、ついた先にガラスの破片があったので、掌を傷つけてもいます』
「出血がひどいですか?」
『まだ血は止まりません。ちょっと傷が深いようです。腱までいっていないといいのですが』
更に早は、いまちょうどガラスの処置をしに業者が来ているところであるので、早自身は家から出ることが出来ないとも添えた。
「――分かりました。とりあえず救急車というレベルではなさそうですので、足冷やして手を圧迫させたまんまで、タクシー呼んで市民病院まで暁登を寄越してください。おれもこれからそこへ向かいます」
『お仕事は?』
「仕方がないですよ、こういう時はね。もう病院の受付が締まりそうですので、病院にも急患が行く旨の連絡を入れておいた方がいいかもしれません」
『分かりました、すぐ手配します。……申し訳ありません』
「早先生が謝ることなんてないです」
通話を終え、さて、と樹生はまず大きく息をつく。リーダーを捕まえて急用が出来たので帰らせてほしい旨を伝えると、顔を渋くはしたが理由も聞かずに承諾してくれた。上着を羽織り、樹生は急いで病院に向かう。
市民病院に着く頃には、受付はもうすでに終了しており、夜間外来に切り替わっていた。ここに塩谷という若い男が運ばれてこなかったかと訊くと、看護師は「こちらです」とすぐに案内してくれた。
暁登は救急の処置室にいた。白く硬いベッドの上に転がされ、当直の医師に右足を診てもらっていた。右手には包帯が厚く巻かれている。
「塩谷暁登の身内です」と言うと、医師は頷いて樹生に椅子を促した。
「右の掌からの出血が酷かったので、まずはそちらの処置をしました。ガラスが深く食い込んだようですが、腱は繋がっていますので安心してください。洗浄をした後、縫いました。これから腫れて痛みも増してくるでしょうから、薬を出します」
「足の方はどうなんですか?」
「これはね、整形の先生に診てもらいたかったんですが、今日はもう閉まってしまったので明日また来てください。まあ、打撲と捻挫というところでしょう。今日のところは湿布を貼って固定して様子を見ます。明日改めて整形へかかってください」
それから暁登はされるままに右足を医師に任せた。あまり大事ではなさそうだったが、この手足では当分は自由に動けないだろう。話を聞けば充分だったので、暁登を処置室に残してひとまず部屋を出た。
待合室の傍にあった売店の横には自動販売機があった。そこで樹生は温かいミルクティーを買い、掌の中で転がしながら待合室のベンチに腰掛けた。診療時間を過ぎた病院は静かで、人の気配が酷く薄い。ようやくミルクティーのキャップを捻って甘い飲み物を胃に入れる。ぼんやりしながらも、暁登の家族には知らせるべきか、早には連絡をするべきだ、などと考える。
考えに浸っていたので、男が近付いて来た事に気付かなかった。
→ 45
← 43
PR
「誘ってみようかな。何がいいんだろう。相撲はこの間終わっちゃったしな」
「この時期ですので、ウインタースポーツなんかは結構あちこちで大会があるんじゃないですか? いつかの冬のオリンピックの時に、私は観戦に行ったことがあります」
「へえ。何を観たんですか?」
「あの時はスキーのジャンプを観ました。日本人選手が活躍していた時代でしたね」
「ジャンプ台に遊びに行ったことはありますよ。小さい頃に家族に連れていかれて、上まで登りました。あれはものすごい高さから飛ぶんですね。夏で雪なんかなかったけど、めちゃくちゃ怖かったです」
喋っているうちに暁登の声に張りが出て来た。やがて家の前までたどり着く。玄関の鍵を開けていると、不意に暁登が中庭の方へ顔を向けて「何か聞こえませんか?」と言った。
「何か?」
「なんだろう、鳥の羽音みたいな」
と、暁登は玄関前に荷物を降ろしてそちらへ歩いていく。早はその荷物を玄関の内側に運び入れてから後を追った。中庭は居間に面しており、居間の大きなガラス窓からバルコニーへと出られるようになっている。雑木林に囲まれた家だが、ここだけまめに枝を刈ってもらってあるので日当たりもよい。そのバルコニーに外から侵入すると、そこに何か動くものがあった。
「鳥だ。鳩?」
灰色の鳩が仰向けになり、バタバタと体を動かしている。動物にでもやられたのかと思いながら周囲を見渡せば、暁登が家の異変に気付く。「あそこ」と言って彼は居間のガラス窓の上部を差した。天窓が割れ、屋内にガラスが落ちている。
「窓ガラスに鳥がぶつかったんですね」と言うと、暁登は早を振り向いた。
「以前にもこの居間の窓に鳥が飛んできてぶつかったことがあったんです。その時はガラスは割れなかったんですけど、ぶつかった鳥は骨を折って死んでしまいました。鳩ではなく、桃色の羽が綺麗なヒレンジャクでした」
「ああ、じゃあきっと今回も」
「ここの窓は大きく広いですから、鳥が勘違いするみたいなんです」
早は体をばたつかせている鳩の元へ屈み込んだ。暁登はしばらく窓ガラスの様子を確かめていたが、「他に家の周りに異変がないか見てきます」と言い、ひらりとバルコニーの柵を超えて雪の積もる地面へ着地すると、そのままザクザクと家の周りを進む。
鳩は思いのほか元気ではあったが、ガラスを破るくらいの衝撃をその体に受けたと考えると、このまま野生に帰り元通りの生を生きるのは難しい気がした。早がそっと手を伸ばすと鳩は身を捩る。そのままの勢いでくるりと態勢を立て直し、二本の足でトントンと跳ねる。そうしていきなり羽ばたいて雑木林の方へ消えたが、随分な低空飛行だったので、傷の深さを実感させた。この寒さであるし、まず助からないだろう。
暁登が戻って来る。「大丈夫みたいですので、とりあえず中に入りましょう」と言う。
「あれ、鳩は?」
「飛んで行ってしまいました」
「飛べたんですね」
「ええ。でも、重症のようでしたし……」
飛び散った羽毛を片付けなければなりませんね、と言うと、暁登も同意した。
家の中に入ると、外よりはずっと暖かかったが、思っていたよりは暖かくはなかった。天窓の破れから風が入り込んでいた。居間に飛び散ったガラスを拾い集めながら、暁登は「ガラス窓の修理などを決まって頼んでいるところはありますか?」と早に尋ねる。
「ええと、いつかトイレの小窓にひびが入ってしまった時に、夫の知人の修理工に頼んだことがありました」
「じゃあそこに連絡してください。こんな季節ですから早く来てくれると助かりますが、今日はもう夕方なので、難しいかもしれませんね。それでも一報をいれて、早めの対応をお願いしてください」
「分かりました。と、暁登さん、手袋を」
「ああ、ありがとうございます」
農機具を扱うときに使う革の手袋と、ガラスの破片を入れるためのバケツを渡す。言われた通りに修理工へ電話をかけると、急な呼び出しであるにも関わらずこれから来てくれると言った。
暁登にその旨を告げると「よかった」と言い、また天窓を見上げた。
天窓は、家の内側にくの字型に設置されている。広く明かりを取るための窓で、よって居間は陽が入りさえすれば冬でもあまり暖房を入れずに暖かい。多くの鉢植えの植物はここで越冬させていたが、業者が来るのであればひとまず片付けなければならない。
暁登が「脚立、ありましたよね」と言った。
「ええ、外の納屋に」
「ちょっと持ってきて、様子を見ます。すぐ来てくれるなら応急処置的に塞がなくても大丈夫だと思いますが、それでも一応」
そう言って彼はまた外へ出る。やがて脚立を肩にかけて、バルコニーの方から現れた。足元をしっかりと確認してから脚立を組み、天窓へ向かってひょいひょいと登り始める。早が大きな声で「気を付けて」と言うと、暁登はにこりと微笑んだ。
天窓をあらかた点検し終え、破れたガラスの間から暁登は早に声をかけた。「この窓、一枚だけみたいです」と他は異常ないことを早に伝える、
「他は割れたりひびが入ったりは、していませんか?」
「大丈夫みたいです。ですが場所が場所なので、はめ込むのに苦労するかもしれませんね。なので後は業者に任せます」
そう言って暁登は脚立を降り始める。と、突風が窓に吹き付けた。がたがたと音をさせて震え、脚立の上部にいた暁登が煽られてバランスを崩す。
「――暁登さん!!」
それはまるでスローモーションのように映る。ゆっくりと暁登はバルコニーの床に落ちた。
→ 44
← 42
「この時期ですので、ウインタースポーツなんかは結構あちこちで大会があるんじゃないですか? いつかの冬のオリンピックの時に、私は観戦に行ったことがあります」
「へえ。何を観たんですか?」
「あの時はスキーのジャンプを観ました。日本人選手が活躍していた時代でしたね」
「ジャンプ台に遊びに行ったことはありますよ。小さい頃に家族に連れていかれて、上まで登りました。あれはものすごい高さから飛ぶんですね。夏で雪なんかなかったけど、めちゃくちゃ怖かったです」
喋っているうちに暁登の声に張りが出て来た。やがて家の前までたどり着く。玄関の鍵を開けていると、不意に暁登が中庭の方へ顔を向けて「何か聞こえませんか?」と言った。
「何か?」
「なんだろう、鳥の羽音みたいな」
と、暁登は玄関前に荷物を降ろしてそちらへ歩いていく。早はその荷物を玄関の内側に運び入れてから後を追った。中庭は居間に面しており、居間の大きなガラス窓からバルコニーへと出られるようになっている。雑木林に囲まれた家だが、ここだけまめに枝を刈ってもらってあるので日当たりもよい。そのバルコニーに外から侵入すると、そこに何か動くものがあった。
「鳥だ。鳩?」
灰色の鳩が仰向けになり、バタバタと体を動かしている。動物にでもやられたのかと思いながら周囲を見渡せば、暁登が家の異変に気付く。「あそこ」と言って彼は居間のガラス窓の上部を差した。天窓が割れ、屋内にガラスが落ちている。
「窓ガラスに鳥がぶつかったんですね」と言うと、暁登は早を振り向いた。
「以前にもこの居間の窓に鳥が飛んできてぶつかったことがあったんです。その時はガラスは割れなかったんですけど、ぶつかった鳥は骨を折って死んでしまいました。鳩ではなく、桃色の羽が綺麗なヒレンジャクでした」
「ああ、じゃあきっと今回も」
「ここの窓は大きく広いですから、鳥が勘違いするみたいなんです」
早は体をばたつかせている鳩の元へ屈み込んだ。暁登はしばらく窓ガラスの様子を確かめていたが、「他に家の周りに異変がないか見てきます」と言い、ひらりとバルコニーの柵を超えて雪の積もる地面へ着地すると、そのままザクザクと家の周りを進む。
鳩は思いのほか元気ではあったが、ガラスを破るくらいの衝撃をその体に受けたと考えると、このまま野生に帰り元通りの生を生きるのは難しい気がした。早がそっと手を伸ばすと鳩は身を捩る。そのままの勢いでくるりと態勢を立て直し、二本の足でトントンと跳ねる。そうしていきなり羽ばたいて雑木林の方へ消えたが、随分な低空飛行だったので、傷の深さを実感させた。この寒さであるし、まず助からないだろう。
暁登が戻って来る。「大丈夫みたいですので、とりあえず中に入りましょう」と言う。
「あれ、鳩は?」
「飛んで行ってしまいました」
「飛べたんですね」
「ええ。でも、重症のようでしたし……」
飛び散った羽毛を片付けなければなりませんね、と言うと、暁登も同意した。
家の中に入ると、外よりはずっと暖かかったが、思っていたよりは暖かくはなかった。天窓の破れから風が入り込んでいた。居間に飛び散ったガラスを拾い集めながら、暁登は「ガラス窓の修理などを決まって頼んでいるところはありますか?」と早に尋ねる。
「ええと、いつかトイレの小窓にひびが入ってしまった時に、夫の知人の修理工に頼んだことがありました」
「じゃあそこに連絡してください。こんな季節ですから早く来てくれると助かりますが、今日はもう夕方なので、難しいかもしれませんね。それでも一報をいれて、早めの対応をお願いしてください」
「分かりました。と、暁登さん、手袋を」
「ああ、ありがとうございます」
農機具を扱うときに使う革の手袋と、ガラスの破片を入れるためのバケツを渡す。言われた通りに修理工へ電話をかけると、急な呼び出しであるにも関わらずこれから来てくれると言った。
暁登にその旨を告げると「よかった」と言い、また天窓を見上げた。
天窓は、家の内側にくの字型に設置されている。広く明かりを取るための窓で、よって居間は陽が入りさえすれば冬でもあまり暖房を入れずに暖かい。多くの鉢植えの植物はここで越冬させていたが、業者が来るのであればひとまず片付けなければならない。
暁登が「脚立、ありましたよね」と言った。
「ええ、外の納屋に」
「ちょっと持ってきて、様子を見ます。すぐ来てくれるなら応急処置的に塞がなくても大丈夫だと思いますが、それでも一応」
そう言って彼はまた外へ出る。やがて脚立を肩にかけて、バルコニーの方から現れた。足元をしっかりと確認してから脚立を組み、天窓へ向かってひょいひょいと登り始める。早が大きな声で「気を付けて」と言うと、暁登はにこりと微笑んだ。
天窓をあらかた点検し終え、破れたガラスの間から暁登は早に声をかけた。「この窓、一枚だけみたいです」と他は異常ないことを早に伝える、
「他は割れたりひびが入ったりは、していませんか?」
「大丈夫みたいです。ですが場所が場所なので、はめ込むのに苦労するかもしれませんね。なので後は業者に任せます」
そう言って暁登は脚立を降り始める。と、突風が窓に吹き付けた。がたがたと音をさせて震え、脚立の上部にいた暁登が煽られてバランスを崩す。
「――暁登さん!!」
それはまるでスローモーションのように映る。ゆっくりと暁登はバルコニーの床に落ちた。
→ 44
← 42
「最近、おかしい」
「おかしい?」
「はい。ずっと黙っていて、話しかけても難しい顔をしているから話すのを諦めます。なにかあるのかあったのかだと思うんです。でもそれをあの人は、おれには話してくれません」
何か知っているか、と訊かれたが、早には分からない。樹生には会っていないし、連絡もなかった。
ただ、何も思い当たらないかと訊かれれば、答えは違う。大雪の日に不意に訪れた茉莉のことが引っかかっていた。秋に「茉莉は復讐に向かっている」というようなことを樹生は漏らしている。あの姉弟の、とりわけ姉の、長年の望みが叶うことを早は危惧していた。
「お仕事で疲れているんじゃないですか?」と言ってみたが、暁登は納得しかねる、という顔で鼻から息を漏らした。
「仕事自体はいま、そんなに忙しくないと思います。年末年始はばかみたいに働いてましたけど、いまはゆるゆると休みもあるみたいだし」
「そうなんですね」
「ちょっと隙があると、重たい顔して溜息なんかつくんです。明らかになにかあると思うんですが、訊くと『別に』ってはぐらかされます」
確かに、と早は遠い昔のことを思い出す。何か憂鬱なことがあると、樹生という男は黙する。不満を口にしたり、おしゃべりに興じるタイプではないのだ。
「あんまり食べないで煙草ばっかりふかして。テレビなんかろくに見てもないのに点けっぱなしでぼーっとしてて。ふらっと出かけたと思ったら財布を空にして帰って来るから、多分パチンコかスロットかその辺なんだろうな、と思っているんですが」
その姿は容易に想像がついたので早は苦笑した。
「……おれも口うるさかったんだと分かってるんですが、その、……そういうのやめろよ、と言ったら、『おまえには関係ない』と言われてしまって。……おれは岩永さんから信用されていないんだな、と思ったら、辛くて」
ああ、それなのだな、と早は納得した。
暁登の、樹生に対する絶大な信頼は、見ていてストレートに伝わる。暁登は岩永樹生という人間のことを心から敬愛している。ともに暮らす仲であればその信頼はいつ失望に変わってもおかしくないと思うのに、暁登にはそれがなかった。むしろその思いは日を追うごとに強くなっているとさえ感じる。
塩谷暁登という男は自分に自信のない男だ。それでも、初めて早の元へやって来た時のことを思えば、随分と明るく朗らかに笑うようになった。仄暗く瞳だけを血走らせていた力のない青年だったのに、こうして早の気まぐれの外出にも付き合ってくれるようになった。雨の日の頭痛や倦怠感も、以前と比べれば随分と減ったようだ。
樹生との暮らしの中で少しずつ得て来た「自信」なのだと思う。それを与えてくれた相手から「関係ない」と言われれば、暁登でなくても落ち込む。
樹生は暁登のことをどう思うか考えているのか知らないが、早が受け取る感覚としては「溺愛」だ。
暁登のことがかわいくてかわいくて仕方がない。樹生と暁登は年が離れているはずだが、その年下の暁登に対して樹生が見せるのは「甘え」だ。樹生は体こそ大きいがその中身は淋しがりで甘えたがりの部分がある。それに暁登が気付いているのかいないのか、とにかく暁登に対しては、樹生は甘えている節がある。
大事に思う存在ほど、大切に、手の中で温めたいと思うのが樹生という男の性質だ。外の風雨から守り、徹底的にかわいがり、自身も甘えすがる。信頼とか信用ではないのだ。
「あまり暁登さんは気にしない方がいいと思いますよ」と早は答えた。
「樹生さんの自立する力はすさまじく揺るぎないと、よくご存知だと思います。何かに直面していたとして、それをひとりで解決しようとして黙り、実際、解決してしまいます。それだけの自己回復力の強い人なので、きっと今回もそのうちけろっとして笑うようになるんじゃないですか?」
と言いながらも、こんなのは慰めにもならないだろうと思ってはいた。実際、樹生が今どんな状況に追い込まれていて、どれほど思い悩んでいるのかを早は知らない。それを傍らで見ながらも歯がゆい思いをしている暁登のことはいまなんとなく伝わってきたが。
優先順位ならば、いま目の前で怒っている青年の気持ちをなだめる方だろう。
「ですが、暁登さんのような方にとっては、気に病まない方が難しいということも分かります。そうですね……何か樹生さんの気分が晴れそうなことにお誘いしてみてはいかがですか? あまり言葉を介さない発散の仕方の方がよさそうですので、例えば一緒にスポーツをしてみるとか。観戦でもいいかもしれませんね。樹生さんはお風呂が大好きですので、ドライブがてらちょっと辺境の温泉へ行ってみるのも、気分が変わっていいかもしれません」
と話しているうちに降車が迫って来たので、暁登がボタンを押した。硬貨を入れてバスを降りる。ここから家までは五分ほどだが、先日の大雪で地面が凍結している個所もあるので、ゆっくりと歩いた。
暁登は早の荷物を当然のように持ち、早の隣を同じ速度で進む。もっと早く歩けるだろうに、早に添ってくれている。こういう心配りの出来る青年を樹生がかわいがるのも無理はない気がした。暁登の本質は、誠実なのだ。
ザクザクと硬い路面を踏みながら、やがて暁登が「スポーツ観戦、いいと思います」と呟いた。
→ 43
← 41
「おかしい?」
「はい。ずっと黙っていて、話しかけても難しい顔をしているから話すのを諦めます。なにかあるのかあったのかだと思うんです。でもそれをあの人は、おれには話してくれません」
何か知っているか、と訊かれたが、早には分からない。樹生には会っていないし、連絡もなかった。
ただ、何も思い当たらないかと訊かれれば、答えは違う。大雪の日に不意に訪れた茉莉のことが引っかかっていた。秋に「茉莉は復讐に向かっている」というようなことを樹生は漏らしている。あの姉弟の、とりわけ姉の、長年の望みが叶うことを早は危惧していた。
「お仕事で疲れているんじゃないですか?」と言ってみたが、暁登は納得しかねる、という顔で鼻から息を漏らした。
「仕事自体はいま、そんなに忙しくないと思います。年末年始はばかみたいに働いてましたけど、いまはゆるゆると休みもあるみたいだし」
「そうなんですね」
「ちょっと隙があると、重たい顔して溜息なんかつくんです。明らかになにかあると思うんですが、訊くと『別に』ってはぐらかされます」
確かに、と早は遠い昔のことを思い出す。何か憂鬱なことがあると、樹生という男は黙する。不満を口にしたり、おしゃべりに興じるタイプではないのだ。
「あんまり食べないで煙草ばっかりふかして。テレビなんかろくに見てもないのに点けっぱなしでぼーっとしてて。ふらっと出かけたと思ったら財布を空にして帰って来るから、多分パチンコかスロットかその辺なんだろうな、と思っているんですが」
その姿は容易に想像がついたので早は苦笑した。
「……おれも口うるさかったんだと分かってるんですが、その、……そういうのやめろよ、と言ったら、『おまえには関係ない』と言われてしまって。……おれは岩永さんから信用されていないんだな、と思ったら、辛くて」
ああ、それなのだな、と早は納得した。
暁登の、樹生に対する絶大な信頼は、見ていてストレートに伝わる。暁登は岩永樹生という人間のことを心から敬愛している。ともに暮らす仲であればその信頼はいつ失望に変わってもおかしくないと思うのに、暁登にはそれがなかった。むしろその思いは日を追うごとに強くなっているとさえ感じる。
塩谷暁登という男は自分に自信のない男だ。それでも、初めて早の元へやって来た時のことを思えば、随分と明るく朗らかに笑うようになった。仄暗く瞳だけを血走らせていた力のない青年だったのに、こうして早の気まぐれの外出にも付き合ってくれるようになった。雨の日の頭痛や倦怠感も、以前と比べれば随分と減ったようだ。
樹生との暮らしの中で少しずつ得て来た「自信」なのだと思う。それを与えてくれた相手から「関係ない」と言われれば、暁登でなくても落ち込む。
樹生は暁登のことをどう思うか考えているのか知らないが、早が受け取る感覚としては「溺愛」だ。
暁登のことがかわいくてかわいくて仕方がない。樹生と暁登は年が離れているはずだが、その年下の暁登に対して樹生が見せるのは「甘え」だ。樹生は体こそ大きいがその中身は淋しがりで甘えたがりの部分がある。それに暁登が気付いているのかいないのか、とにかく暁登に対しては、樹生は甘えている節がある。
大事に思う存在ほど、大切に、手の中で温めたいと思うのが樹生という男の性質だ。外の風雨から守り、徹底的にかわいがり、自身も甘えすがる。信頼とか信用ではないのだ。
「あまり暁登さんは気にしない方がいいと思いますよ」と早は答えた。
「樹生さんの自立する力はすさまじく揺るぎないと、よくご存知だと思います。何かに直面していたとして、それをひとりで解決しようとして黙り、実際、解決してしまいます。それだけの自己回復力の強い人なので、きっと今回もそのうちけろっとして笑うようになるんじゃないですか?」
と言いながらも、こんなのは慰めにもならないだろうと思ってはいた。実際、樹生が今どんな状況に追い込まれていて、どれほど思い悩んでいるのかを早は知らない。それを傍らで見ながらも歯がゆい思いをしている暁登のことはいまなんとなく伝わってきたが。
優先順位ならば、いま目の前で怒っている青年の気持ちをなだめる方だろう。
「ですが、暁登さんのような方にとっては、気に病まない方が難しいということも分かります。そうですね……何か樹生さんの気分が晴れそうなことにお誘いしてみてはいかがですか? あまり言葉を介さない発散の仕方の方がよさそうですので、例えば一緒にスポーツをしてみるとか。観戦でもいいかもしれませんね。樹生さんはお風呂が大好きですので、ドライブがてらちょっと辺境の温泉へ行ってみるのも、気分が変わっていいかもしれません」
と話しているうちに降車が迫って来たので、暁登がボタンを押した。硬貨を入れてバスを降りる。ここから家までは五分ほどだが、先日の大雪で地面が凍結している個所もあるので、ゆっくりと歩いた。
暁登は早の荷物を当然のように持ち、早の隣を同じ速度で進む。もっと早く歩けるだろうに、早に添ってくれている。こういう心配りの出来る青年を樹生がかわいがるのも無理はない気がした。暁登の本質は、誠実なのだ。
ザクザクと硬い路面を踏みながら、やがて暁登が「スポーツ観戦、いいと思います」と呟いた。
→ 43
← 41
六. 薄氷を踏む
揃って汁粉を頼むと、店員は「お待ちくださいね」と言ってパタパタと足音をさせて下がっていった。一枚板の大きなテーブルが贅沢だと思う。思わず鼻歌でも出てしまいそうな気持ちになっているのは、これが本当に久しぶりの外出であるからだった。
市街地に昔からある甘味処で、買い物に来ればここへ寄って甘いものを食べて帰った日が懐かしい。外出だからと、久々に指に指輪を嵌めた。老いて細くなった手には不釣り合いな指輪だったが、向かいに座る暁登はそれを褒めてくれた。
「赤が綺麗ですね」
「この赤い石はガーネットです」
「名前を聞いたことはありますが、あんまりこういうことには、興味がなくて」
暁登は申し訳なさそうな顔をしたが、早はふふ、と笑う。
「久しぶりの外出ですから、これでも少し張り切ったんですよ。こんな指輪はね、もう似合わないと分かっているんです。若いころに母からもらったものです。たまにはお洒落でもしなさいと、あの時はこれに合うようなワンピースも一緒に仕立ててくれて」
「そのワンピースは?」
「さすがにもう着られません。いつかのタイミングで処分しました。でも、真っ白い襟が素敵なワンピースでした。よく覚えています」
派手なデザインではなかったので、結構な年齢になるまで大事に着ていた。それを着て夫と出かけた記憶もある。あの時も指にはこの指輪を嵌めた。
いま、こうして早と外出に付き合ってくれるのは、なんの縁なのか、若い男だ。夫が聞いたらどんな顔をするだろう。「早さんやるじゃないか」と唸る夫の表情が見えた気がして、早はくすりと笑う。
二月の初旬で、よく晴れている。今日の外出はつい先ほど決めた。いつものようにやって来た暁登があまりにも浮かない顔――というよりは、なにかに苛立っている刺々しい空気感、でいたので、「甘いものでも食べに行きませんか?」と暁登を誘った。ちょうどよくバスがあったので、それを使って市街地までやって来たのだ。
暁登という男は、定期的に「陥る」。自分の不甲斐なさを歯がゆく思い、落ち込み、食欲をなくしたり眠れなくなったりしている。ただそれは暁登自身にかかわることだった。だからそのたび、「また内側に落っこちている」と心の中で思っていた。
だが今日の暁登は違った。どうも「外側に苛立っている」のだ。暁登にしては珍しく、何かに怒っている。それは自分自身のことではなくて、外側にあるものに対してだ。怒りの対象がはっきりと存在する。それが何であるかを暁登は明らかにしていないが、とにかく彼は怒っている。
冬も終わりが見えそうで、まだ終わらない。陽光は日に日に強くなっていくのを感じるが、風は冷たいし、朝晩は冷え込み、地面は硬い。いつか「この時期が一番消耗する」と言っていたのは、夫の友人だった。彼は農業を営んでいて、冬のこの時期は畑に出られないのだから農閑期なのではと思い込んでいた早には意外な台詞だった。
『そろそろ春の畑の準備をしたいですからね、外へ出るでしょう。風は冷たいけれど陽は長くなり始めているから、外での活動時間が自然と長くなります。ですが体は冬のまま。なまっている体にはきつい、冬の日ですよ』
なるほどな、と思ったものだ。
そういう、季節的なことをこの青年に当てはめていいのか迷うが、無きにしも非ず、といったところだろう。早自身も家にこもる日が続いていたので、正直飽きていた。外へ出てますます消耗するという例もあるが、疲れたら早めに帰って風呂にでもゆっくり浸かればいい。ただちょっとおやつを食べに街へ出てみた。気分転換の散歩の上級版。暁登は嫌がらずについてきてくれたので、楽しい気分になっていた。
やがて店員が盆に椀を乗せて戻って来た。焼いた餅が熱い小豆の汁に浮いている。こうばしく甘い匂いを嗅いで、急激に胃が動いた。「いただきます」と手を合わせて箸を取ったが、暁登は一緒に運ばれた豆皿の上に乗った青菜の漬物を不思議そうに眺めている。
「どうしましたか?」
「なんで漬物が出て来るんだろう、と思って」
頼んでいないものが出て来たので首をひねっている。「お汁粉を外で食べたことはありますか?」と訊くと、暁登は首を横に振った。
「あまりこういう店ってないですし、あっても入ったことはないです」
「そうでしたか」
「この漬物は食べていいんですよね」
その尋ね方がおかしくて、早は微笑みながら頷いた。
「汁粉を頼めば、たいていはこういうものがついてきます。地域で様々なようですが、しその実や塩昆布のところが多いでしょうか。梅干しのお店もありました。このお店はその季節の漬物ですね」
「どうしてですか?」
「汁粉は口が甘くなるから、口直しという意味合いなのだと思いますよ」
「へえ、……知らなかった」
それから暁登は改めて汁粉に口をつける。食べているうちに青白かった頬には赤みが戻ってきて、早は安心した。
店は程よい時間で切り上げた。途中のスーパーで少しだけ買い物をして、またバスに乗って戻る。車内で暁登がようやく口を開く。発せられたのは樹生に対する不満だった。
→ 42
← 40
市街地に昔からある甘味処で、買い物に来ればここへ寄って甘いものを食べて帰った日が懐かしい。外出だからと、久々に指に指輪を嵌めた。老いて細くなった手には不釣り合いな指輪だったが、向かいに座る暁登はそれを褒めてくれた。
「赤が綺麗ですね」
「この赤い石はガーネットです」
「名前を聞いたことはありますが、あんまりこういうことには、興味がなくて」
暁登は申し訳なさそうな顔をしたが、早はふふ、と笑う。
「久しぶりの外出ですから、これでも少し張り切ったんですよ。こんな指輪はね、もう似合わないと分かっているんです。若いころに母からもらったものです。たまにはお洒落でもしなさいと、あの時はこれに合うようなワンピースも一緒に仕立ててくれて」
「そのワンピースは?」
「さすがにもう着られません。いつかのタイミングで処分しました。でも、真っ白い襟が素敵なワンピースでした。よく覚えています」
派手なデザインではなかったので、結構な年齢になるまで大事に着ていた。それを着て夫と出かけた記憶もある。あの時も指にはこの指輪を嵌めた。
いま、こうして早と外出に付き合ってくれるのは、なんの縁なのか、若い男だ。夫が聞いたらどんな顔をするだろう。「早さんやるじゃないか」と唸る夫の表情が見えた気がして、早はくすりと笑う。
二月の初旬で、よく晴れている。今日の外出はつい先ほど決めた。いつものようにやって来た暁登があまりにも浮かない顔――というよりは、なにかに苛立っている刺々しい空気感、でいたので、「甘いものでも食べに行きませんか?」と暁登を誘った。ちょうどよくバスがあったので、それを使って市街地までやって来たのだ。
暁登という男は、定期的に「陥る」。自分の不甲斐なさを歯がゆく思い、落ち込み、食欲をなくしたり眠れなくなったりしている。ただそれは暁登自身にかかわることだった。だからそのたび、「また内側に落っこちている」と心の中で思っていた。
だが今日の暁登は違った。どうも「外側に苛立っている」のだ。暁登にしては珍しく、何かに怒っている。それは自分自身のことではなくて、外側にあるものに対してだ。怒りの対象がはっきりと存在する。それが何であるかを暁登は明らかにしていないが、とにかく彼は怒っている。
冬も終わりが見えそうで、まだ終わらない。陽光は日に日に強くなっていくのを感じるが、風は冷たいし、朝晩は冷え込み、地面は硬い。いつか「この時期が一番消耗する」と言っていたのは、夫の友人だった。彼は農業を営んでいて、冬のこの時期は畑に出られないのだから農閑期なのではと思い込んでいた早には意外な台詞だった。
『そろそろ春の畑の準備をしたいですからね、外へ出るでしょう。風は冷たいけれど陽は長くなり始めているから、外での活動時間が自然と長くなります。ですが体は冬のまま。なまっている体にはきつい、冬の日ですよ』
なるほどな、と思ったものだ。
そういう、季節的なことをこの青年に当てはめていいのか迷うが、無きにしも非ず、といったところだろう。早自身も家にこもる日が続いていたので、正直飽きていた。外へ出てますます消耗するという例もあるが、疲れたら早めに帰って風呂にでもゆっくり浸かればいい。ただちょっとおやつを食べに街へ出てみた。気分転換の散歩の上級版。暁登は嫌がらずについてきてくれたので、楽しい気分になっていた。
やがて店員が盆に椀を乗せて戻って来た。焼いた餅が熱い小豆の汁に浮いている。こうばしく甘い匂いを嗅いで、急激に胃が動いた。「いただきます」と手を合わせて箸を取ったが、暁登は一緒に運ばれた豆皿の上に乗った青菜の漬物を不思議そうに眺めている。
「どうしましたか?」
「なんで漬物が出て来るんだろう、と思って」
頼んでいないものが出て来たので首をひねっている。「お汁粉を外で食べたことはありますか?」と訊くと、暁登は首を横に振った。
「あまりこういう店ってないですし、あっても入ったことはないです」
「そうでしたか」
「この漬物は食べていいんですよね」
その尋ね方がおかしくて、早は微笑みながら頷いた。
「汁粉を頼めば、たいていはこういうものがついてきます。地域で様々なようですが、しその実や塩昆布のところが多いでしょうか。梅干しのお店もありました。このお店はその季節の漬物ですね」
「どうしてですか?」
「汁粉は口が甘くなるから、口直しという意味合いなのだと思いますよ」
「へえ、……知らなかった」
それから暁登は改めて汁粉に口をつける。食べているうちに青白かった頬には赤みが戻ってきて、早は安心した。
店は程よい時間で切り上げた。途中のスーパーで少しだけ買い物をして、またバスに乗って戻る。車内で暁登がようやく口を開く。発せられたのは樹生に対する不満だった。
→ 42
← 40
古い掛け時計がボーンと鳴って、早は我に返る。毛玉を取り終えたセーターを畳んで紙袋に押し込み、ゆっくりと立ち上がる。窓の外を見ると雪があっという間に積もり、どこもかしこも真っ白く覆われていた。
ポーン、と呼び鈴が鳴らされた。
こんな日に誰がやって来るだろう。もう夕方になろうかという時刻だった。早が玄関へ向かう途中で、再び鳴らされる。「どちら様ですか?」と大きな声で内側から訊ねると、「ごめんください」と女の声がした。
声で誰なのか分かったが、あまりにも意外な声だったので早は驚く。鍵を開けるとそこに立っていたのは樹生の姉・茉莉だった。
漆黒のダウンジャケットに柔らかく仕立ての良さそうな灰色のマフラーを巻き、そこに鼻先を埋めている。ブーツには雪がまとわりついていた。庭先に積もった雪に点々と茉莉の足跡だけが残っている。
風に長い髪がなびいた。こんなに冬そのものみたいな日に現れた茉莉を見て、早の頭にぽっと浮かんだのは「雪女」だった。人ならざる雰囲気を感じたのだ。
「……ごめんなさいね、雪かきをきちんとしていなくて」雪まみれの靴を見ながらそう言うと、しかし茉莉は首を横に振った。
「上がりますか?」
「……いえ。あの、最近樹生に会っていますか?」
茉莉は酷く疲労しているように見えたが、瞳だけは強く光る。ただ、縋り付くような色もあったから、彼女のこんな表情は珍しいと思った。
「最近……と言っていいのか分かりませんが、年始にこちらへ顔を出してくれましたよ。その後、電話も」
「あの子、元気ですか?」
「ええ、おそらくは」
「ならいいです」
と言って、茉莉は早に頭を下げる。そのまま足早に去ってしまった。相変わらずどういう行動を起こすか分からない女性だと思う。
樹生の様子が知りたいなら、本人に直接電話なりなんなりをすればよいのだ。今まで定期的にそうやって連絡を取り合って来た姉弟だ。いまは違う、とでもいうのだろうか。姉弟の関係がどうなっているのかが分からない。
雪の降りしきる中をひとりで消えていった女に、早の胸はざわめく。だからと言って追いかけはしないし、これから樹生に連絡を取ることもしないだろう。
早はこの家にいて、あの姉弟のすることに何も干渉はしない。それはあの姉弟が探し物を始めた時に決めたことでもあった。
ポーン、と呼び鈴が鳴らされた。
こんな日に誰がやって来るだろう。もう夕方になろうかという時刻だった。早が玄関へ向かう途中で、再び鳴らされる。「どちら様ですか?」と大きな声で内側から訊ねると、「ごめんください」と女の声がした。
声で誰なのか分かったが、あまりにも意外な声だったので早は驚く。鍵を開けるとそこに立っていたのは樹生の姉・茉莉だった。
漆黒のダウンジャケットに柔らかく仕立ての良さそうな灰色のマフラーを巻き、そこに鼻先を埋めている。ブーツには雪がまとわりついていた。庭先に積もった雪に点々と茉莉の足跡だけが残っている。
風に長い髪がなびいた。こんなに冬そのものみたいな日に現れた茉莉を見て、早の頭にぽっと浮かんだのは「雪女」だった。人ならざる雰囲気を感じたのだ。
「……ごめんなさいね、雪かきをきちんとしていなくて」雪まみれの靴を見ながらそう言うと、しかし茉莉は首を横に振った。
「上がりますか?」
「……いえ。あの、最近樹生に会っていますか?」
茉莉は酷く疲労しているように見えたが、瞳だけは強く光る。ただ、縋り付くような色もあったから、彼女のこんな表情は珍しいと思った。
「最近……と言っていいのか分かりませんが、年始にこちらへ顔を出してくれましたよ。その後、電話も」
「あの子、元気ですか?」
「ええ、おそらくは」
「ならいいです」
と言って、茉莉は早に頭を下げる。そのまま足早に去ってしまった。相変わらずどういう行動を起こすか分からない女性だと思う。
樹生の様子が知りたいなら、本人に直接電話なりなんなりをすればよいのだ。今まで定期的にそうやって連絡を取り合って来た姉弟だ。いまは違う、とでもいうのだろうか。姉弟の関係がどうなっているのかが分からない。
雪の降りしきる中をひとりで消えていった女に、早の胸はざわめく。だからと言って追いかけはしないし、これから樹生に連絡を取ることもしないだろう。
早はこの家にいて、あの姉弟のすることに何も干渉はしない。それはあの姉弟が探し物を始めた時に決めたことでもあった。
その寒波がもたらした積雪は、結局50cmほどになった。雪への備えはある程度してあるからさほど騒ぐことでもなかったが、その後の晴れ間の方が樹生には恐怖に感じた。晴れれば雪が溶ける。溶けて乾いてくれれば道路が開くので結構なことなのだが、乾かないと厄介だ。晴れた分大気は温度を放出して、今度は一気に冷え込む。濡れた地面は凍って固まり、路面はスケート場のようになる。
凍結防止剤を撒くのだが、要するに塩なのでこれも厄介だ。車の腹側につくとそこから錆びていってしまう。生活にも仕事にも車を使わないことは考えられないので、気を遣う分、面倒に感じる。
凍って溶けてまた凍る。そういう悪路の中、樹生は仕事に出る。バイクで郵便を配るか、車に乗って荷物を配るかを樹生が今いる集配局ではシフトでまわしており、その日の樹生は車で荷物を運ぶ役割だった。荷物には時間指定があるので郵便と違って少し面倒くさい。配りながらもあちこちに設置されたポストを開けて郵便物を取り集めて来る役割もあるので、道順をうまく組み立ててから出発しないと時間に追われることになる。
市内の大きな総合病院も配達区域内に入っている。病院の前には小さなポストが設置されていた。車を脇に止めてそこから郵便物を集めていると、視界の端からキラッと光りが飛び込んで来た。
光った方向へ顔を向けると、そこには腹の大きな女性がいた。女性はカバンに車の鍵を仕舞うところだったので、その鍵が反射して樹生に光を届けたのだと察した。
この病院は産婦人科があるので、こういう光景は珍しくない。腹を大きくした女性は病院の入口、樹生のいる方へゆっくりと歩いてくる。樹生はポストを再び施錠すると、軽く会釈だけして傍らの車へ乗り込んだ。女性は樹生の方を向かなかったが、車を発進させようとしたとき、その白い顔が視界に映り、樹生は思わず目を見開く。
――なんで水尾(みお)がここにいる。
とっさに思ったのは、それだった。ドドッと心臓がテンポを乱して暴れはじめるのを、呼吸を大きくすることで抑え込む。
――そりゃ、いてもおかしくないか。
冷静に頭は分析を始めた。女性は赤い車の脇をすり抜け、病院の中へ吸い込まれていく。
――実家から一番近い、産婦人科のある病院って、ここか。
ふ、と大きく長く息を吐く。
――結婚、したとは聞いた。子どもが生まれるのか。
瞬間、ありとあらゆる記憶とそれに伴う感情に襲われて、樹生は身動きが取れなくなる。もう過去になったはずで、心は痛まないはずで、――それでもやはり動揺している自分がいる。
コンコン、と車の窓ガラスを叩かれて本当に驚いた。見れば病院のスタッフらしき格好をした女性が立っている。樹生はこわばった体を瞬時に動かして車のウインドウを下げた。
「すみません、この郵便物って預かってもらえますか?」
スタッフが手にしているのは切手の貼られた封書だった。
「普通郵便でよろしいですか?」
「あ、はい。ポストに投函しようと思っていて忘れていて。赤い車が集めに来たのが見えたからいま慌てて」
「大丈夫ですよ。お預かりしますね」
樹生は封書を受け取り、ようやく車を発進させた。体中から汗が噴き出ていて、無性に煙草が吸いたいのを、ラジオを点けることでやり過ごした。
水尾は、綺麗だった。昔も綺麗だったが、今はもっと綺麗に見えた。
かつての婚約者のことを樹生はそう評価する。やりきれない気持ちになるのを無理やりこらえる。
幸せそうだから、自分とは別れてよかったのだと、そうこじつけた。
→ 41
← 39
凍結防止剤を撒くのだが、要するに塩なのでこれも厄介だ。車の腹側につくとそこから錆びていってしまう。生活にも仕事にも車を使わないことは考えられないので、気を遣う分、面倒に感じる。
凍って溶けてまた凍る。そういう悪路の中、樹生は仕事に出る。バイクで郵便を配るか、車に乗って荷物を配るかを樹生が今いる集配局ではシフトでまわしており、その日の樹生は車で荷物を運ぶ役割だった。荷物には時間指定があるので郵便と違って少し面倒くさい。配りながらもあちこちに設置されたポストを開けて郵便物を取り集めて来る役割もあるので、道順をうまく組み立ててから出発しないと時間に追われることになる。
市内の大きな総合病院も配達区域内に入っている。病院の前には小さなポストが設置されていた。車を脇に止めてそこから郵便物を集めていると、視界の端からキラッと光りが飛び込んで来た。
光った方向へ顔を向けると、そこには腹の大きな女性がいた。女性はカバンに車の鍵を仕舞うところだったので、その鍵が反射して樹生に光を届けたのだと察した。
この病院は産婦人科があるので、こういう光景は珍しくない。腹を大きくした女性は病院の入口、樹生のいる方へゆっくりと歩いてくる。樹生はポストを再び施錠すると、軽く会釈だけして傍らの車へ乗り込んだ。女性は樹生の方を向かなかったが、車を発進させようとしたとき、その白い顔が視界に映り、樹生は思わず目を見開く。
――なんで水尾(みお)がここにいる。
とっさに思ったのは、それだった。ドドッと心臓がテンポを乱して暴れはじめるのを、呼吸を大きくすることで抑え込む。
――そりゃ、いてもおかしくないか。
冷静に頭は分析を始めた。女性は赤い車の脇をすり抜け、病院の中へ吸い込まれていく。
――実家から一番近い、産婦人科のある病院って、ここか。
ふ、と大きく長く息を吐く。
――結婚、したとは聞いた。子どもが生まれるのか。
瞬間、ありとあらゆる記憶とそれに伴う感情に襲われて、樹生は身動きが取れなくなる。もう過去になったはずで、心は痛まないはずで、――それでもやはり動揺している自分がいる。
コンコン、と車の窓ガラスを叩かれて本当に驚いた。見れば病院のスタッフらしき格好をした女性が立っている。樹生はこわばった体を瞬時に動かして車のウインドウを下げた。
「すみません、この郵便物って預かってもらえますか?」
スタッフが手にしているのは切手の貼られた封書だった。
「普通郵便でよろしいですか?」
「あ、はい。ポストに投函しようと思っていて忘れていて。赤い車が集めに来たのが見えたからいま慌てて」
「大丈夫ですよ。お預かりしますね」
樹生は封書を受け取り、ようやく車を発進させた。体中から汗が噴き出ていて、無性に煙草が吸いたいのを、ラジオを点けることでやり過ごした。
水尾は、綺麗だった。昔も綺麗だったが、今はもっと綺麗に見えた。
かつての婚約者のことを樹生はそう評価する。やりきれない気持ちになるのを無理やりこらえる。
幸せそうだから、自分とは別れてよかったのだと、そうこじつけた。
→ 41
← 39
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
カウンター
カレンダー
| 04 | 2026/05 | 06 |
| S | M | T | W | T | F | S |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | |||||
| 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
| 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
| 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
| 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
| 31 |
フリーエリア
最新コメント
[03/18 粟津原栗子]
[03/16 粟津原栗子]
[01/27 粟津原栗子]
[01/01 粟津原栗子]
[09/15 粟津原栗子]
フリーエリア
ブログ内検索
