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ふーっと息を吐くと、同僚はますます驚いた顔をする。
「疲れてるね、岩永さん」
「かも。やっぱその弁当ちょっとくれない? つくねでいいよ」
「だめ、やらない」
同僚はきっぱりと言い放ったが、笑いなおして、弁当を樹生に寄越した。
「本当に食っていいの?」
「つくねだけな」
そう言われたので、同僚の箸も借りてそれを貰う。つくねには甘辛くタレが絡んでいて、ごまの風味がよかった。
「うまいな」と漏らすと、同僚は「だろ?」と言って樹生から弁当を受け取る。
「奥さん元気?」
「元気だよ」
「共働きだよな」
「まあね、子どももいないしね。いまは貯金、て感じだな」
子ども、と聞いて連想したのは水尾の事で、緒方の事で、婿の守脇の事だった。内心で樹生は舌打ちをする。
「結婚って、どう?」と同僚に訊くと、彼はきょとんとした目を向けてから、「うーん」と唸った。
「多分、人それぞれ。おれの場合はいまのところハッピー。めしは美味いし嫁さんはかわいいし」
子どもが出来ればまた変わっちゃうんだろうな、と同僚は息をつく。樹生はそれを自分と暁登に当てはめて考え、すぐに馬鹿らしいと自分を嘲った。樹生と暁登はどう頑張っても子を成せないし、結婚すらしない。方法がないわけではないが、そこまでするのは面倒だとも思っている。だから恋人のままで、夫婦や親という選択肢はない。
そうだと言って変わらないかと問えばそれは違う。感情は日々変化する。だから関係も変わってしまう。
同僚が「岩永さん、結婚考えてるの?」と聞いてきたので、樹生は「なんも」と言ってやった。
「彼女いるんでしょ、岩永さん」
「どこ情報、それ」
「中野(なかの)さんが言ってた。岩永はよく内緒で電話してたり雨の日は早く帰ったりするから、絶対に独り身とかひとり暮らしじゃない、って」
「中野か」
樹生は苦笑する。よく見られているものだ。だが同僚が続けて「婚約してるんでしょ?」と訊ねてきたので、樹生は思わず目を大きくして同僚を見返してしまった。
「――え?」
「違うの? 中野さんそう言ってたけど。中野さんと同期で入社した人が岩永さんの前の職場にいて、その人からそう聞いた、って」
言いながら同僚も根拠のない噂だと思ったようで、台詞の最後は自信がなさそうに窄んだ。
樹生は「昔な、昔」と言葉を濁す。その事について話す気は全くない。樹生の中でその事は既に終わっている。
同僚は困ったように眉尻を下げたが、やがて「今は?」と優しく訊ね返す。
「いま?」
「結婚はしないの?」
「どうだろ」
「また、そういう言い方ではぐらかす。秘密主義なところあるよね、岩永さんってさ」
と同僚に言われ、そういう訳ではないのだけどな、と心の中で考える。続けざまに「はぐらかしてばっかりだと離れてっちゃうよ」と痛い所を突かれ、樹生は思わず顔を顰めた。
参ったな、と樹生は頭を抱え、髪に手を差し込んでぐしゃぐしゃとかき回した。
「図星?」
「んー……」
樹生は黙る。同僚は言葉を待つでもなく弁当を腹に収めテレビに目を向ける。その距離感がいいなと思った。彼になら話しても他人事で済ませてくれると感じたのだ。
「秘密主義って訳じゃない」と答えると、同僚は顔をこちらに向けた。
「別に、特に。ただおれの中で過去は終わった話で、整理もついてるから。今更話すことなんてない、それだけ」
「秘密主義の理由?」
「秘密主義なんて主義もないけど。ただ、言う必要を感じてないから」
ふうん、と同僚は曖昧な返事をした。よく分からないのだが、突っ込む気持ちもないのだ。
「――結婚は、したかった」
そう言うと、同僚はさすがに聞く気になったらしい。テレビの音量を小さくして体をこちらに向けた。
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七.冬の華(二)
ロッカールームで着替えていると、同僚もやって来た。彼の今日のシフトは夜勤で、樹生と違ってまだ仕事が終わらず、帰れない。樹生の隣に据えられた個人ロッカーから弁当を取り出したので、これから休憩に入るのだと察しがついた。
樹生よりひとつ年下にあるが、既婚者だ。結婚して一年か二年になるとかで、まだ子どもはいない。持参する弁当はいわゆる「愛妻弁当」だ。色味は地味だがどれも手の込んだ品を弁当に詰めているので、いつ見ても「うまそうだ」と思う。
ロッカールームに隣接している休憩室へと移動する時、同僚は「あれっ?」と立ち止まった。
「岩永さんどしたの、首」
「え?」
「ここら辺」
とんとん、と自らの右手で耳下の首筋を指す。樹生もつられて自らのそこに手を当て、そこが傷ついている事を自覚して、「ああ」と気のない返事をした。
暁登がつけた傷はあれから数日が経って治りつつあったが、傷の痛みよりは治りかけの痒みの方が樹生の気に障り、よくそこを搔いた。普段は制服で隠れるからと、隠そうともしていない。
同僚はのんびりと「痛そう」と言った。
「赤紫に盛り上がってる」
「あ、そうなんだ」
「そうなんだって、自分の傷っしょ?」
同僚は苦笑したが、傷の理由までは尋ねなかった。樹生はロッカーの内側に掛けられた小さな鏡に首筋を映してみる。確かに搔いたせいで傷口が膨れ、しっかりとケロイドになっていた。
これは痕が残るかもしれないと思う。
暁登が樹生と暮らす部屋から出て行って、一週間が経過しようとしていた。本当に実家に帰ったのかどうか確かめていない。その後を樹生は追おうともしていなかった。早の元へは通っているのだろうか。怪我を理由に行っていない可能性は充分あるが、その先を考えることを、樹生の脳は拒否した。
今頃なにをしているんだかな、と浮かんだが、それを想像はしない。すればするだけ辛くなる。出来るだけ空っぽの頭でいたかった。感情に身を任せて身の捩れるような想いでいるのは、嫌なのだ。
休憩室から総菜の香りが漂った。同僚が電子レンジで弁当を温め、休憩し始めたのだ。着替え終えた樹生はそのまままっすぐ帰ればよかったのに、なんだかその温みに惹かれてしまい、同僚のいる休憩室へと顔を出した。テレビを点けて夕方の情報番組を見ながら、同僚は弁当を食べていた。
そこへ寄って、樹生は背後から同僚の弁当の中身を覗き込む。しばらく黙々と食事をしていた同僚だったが、樹生のその行為に首を傾げて、「なに」と苦笑気味に振り向いた。
「弁当が美味そうだったから」
「あげないよ」
「いや、いらない」
「なんだよ」
と同僚は笑った。それから「どしたの」とまた訊いた。
「岩永さんがこんなことするなんて珍しいね」
「あー、まあ、うん、」
日ごろなら同僚の弁当を適当に茶化して帰るのだが、なんとなく今の気分でいたくなくて、樹生は休憩室の小上がりに腰を下ろした。
→ 49
← 47
樹生よりひとつ年下にあるが、既婚者だ。結婚して一年か二年になるとかで、まだ子どもはいない。持参する弁当はいわゆる「愛妻弁当」だ。色味は地味だがどれも手の込んだ品を弁当に詰めているので、いつ見ても「うまそうだ」と思う。
ロッカールームに隣接している休憩室へと移動する時、同僚は「あれっ?」と立ち止まった。
「岩永さんどしたの、首」
「え?」
「ここら辺」
とんとん、と自らの右手で耳下の首筋を指す。樹生もつられて自らのそこに手を当て、そこが傷ついている事を自覚して、「ああ」と気のない返事をした。
暁登がつけた傷はあれから数日が経って治りつつあったが、傷の痛みよりは治りかけの痒みの方が樹生の気に障り、よくそこを搔いた。普段は制服で隠れるからと、隠そうともしていない。
同僚はのんびりと「痛そう」と言った。
「赤紫に盛り上がってる」
「あ、そうなんだ」
「そうなんだって、自分の傷っしょ?」
同僚は苦笑したが、傷の理由までは尋ねなかった。樹生はロッカーの内側に掛けられた小さな鏡に首筋を映してみる。確かに搔いたせいで傷口が膨れ、しっかりとケロイドになっていた。
これは痕が残るかもしれないと思う。
暁登が樹生と暮らす部屋から出て行って、一週間が経過しようとしていた。本当に実家に帰ったのかどうか確かめていない。その後を樹生は追おうともしていなかった。早の元へは通っているのだろうか。怪我を理由に行っていない可能性は充分あるが、その先を考えることを、樹生の脳は拒否した。
今頃なにをしているんだかな、と浮かんだが、それを想像はしない。すればするだけ辛くなる。出来るだけ空っぽの頭でいたかった。感情に身を任せて身の捩れるような想いでいるのは、嫌なのだ。
休憩室から総菜の香りが漂った。同僚が電子レンジで弁当を温め、休憩し始めたのだ。着替え終えた樹生はそのまままっすぐ帰ればよかったのに、なんだかその温みに惹かれてしまい、同僚のいる休憩室へと顔を出した。テレビを点けて夕方の情報番組を見ながら、同僚は弁当を食べていた。
そこへ寄って、樹生は背後から同僚の弁当の中身を覗き込む。しばらく黙々と食事をしていた同僚だったが、樹生のその行為に首を傾げて、「なに」と苦笑気味に振り向いた。
「弁当が美味そうだったから」
「あげないよ」
「いや、いらない」
「なんだよ」
と同僚は笑った。それから「どしたの」とまた訊いた。
「岩永さんがこんなことするなんて珍しいね」
「あー、まあ、うん、」
日ごろなら同僚の弁当を適当に茶化して帰るのだが、なんとなく今の気分でいたくなくて、樹生は休憩室の小上がりに腰を下ろした。
→ 49
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鍵を開け、部屋に入る。ひんやりと冷たい部屋には早の家のようなやわらかな温かみはない。暖房を入れてもそれは得られないだろう。早の家は早ひとりしかいないのに温かく、この部屋はふたりでいるのにいつまで経っても冷たく、慣れない。緒方の台詞がぽこぽこと腹の底から湧き出る。それは延々とこだまし、消えない。
暁登を部屋まで連れて行き、リビングには暖房を入れて樹生はその温風の前で制服を脱ぐ。社員証まで丁寧に身につけたままで、それを忘れていたので、上着を脱ぐときに引っかかった。そんな些細なことにも苛ついた。
その背中に「みお」と声が掛けられて、樹生はギクリとして振り向いた。包帯も痛々しく、暁登が部屋から出てそこに立っていた。
きつい眼差しは、あの雨の日の再会で見た瞳の色、そのままだった。濃く透き通っていて、光を宿して、強い。
その目にただただ戦くばかりで、鳥肌が立った。
「――って、誰」
「……」
「結婚相手?」
「……」
「母親を奪った女の息子、って、何?」
「聞いてたのか、」
と問い返したが、暁登は頷きもせず、否定もしない。ただ目の色を深くするだけだ。
「あんたには母親がいないのか?」
重ねられた問いの語尾は、怒りか何か巨大で激しい感情で震えていた。
「そういやあんたの家族のことは、聞いたことがない。月一で姉に会うって言うけど、その姉貴のことだって聞いてもはぐらかす。母親がいないなら、父親は? 『みお』は?」
追及に、樹生は口を噤む。暁登だって樹生が素直に答えるとは思っていないだろう。思わないまま、苛立ちをぶつけずにはいられない。
暁登は「おれは知らないままは嫌だ」と言った。
「あんたの事だから知りたいと思うのに、あんたはおれには絶対に言わない。親のこと、姉弟のこと、『みお』のこと、……本当は早先生の事だって不思議だったんだ。早先生とあんたは明らかに先生と教え子とは別の、もっと深い関係だ。あの家に出入りしているから、うっすらと分かる。あの家には『男の子が住んでいた』。二階の六畳間には、小・中学生向けのテキストがあって、箪笥があって、古いゲーム機があって、椅子と机もある。不思議だよ。早先生には子どもがいないはずなのにな」
暁登に目を合わせるのが辛くて、ついに樹生は固く目を瞑った。
「あんたの事が知りたい。ちゃんと知っていたい」
「……」
「だけどあんたはだんまりを決め込む。おれは、あんたの、何?」
「……」
「あんたは近いけど、あんたほど遠い奴はいない……むかつく」
それでも樹生は、話そうとは思わなかった。
樹生の身の上話などして、どうしようと言うのか。樹生の過去は樹生の人生で、樹生の悩みはこれから自分で解決すればいいし、出来る、とも思っている。暁登に話したから悩みが軽くなるとか、そんなことは考えない。暁登にとってそれは他人事に過ぎない。
樹生の黙秘に、暁登は頭をがりがりと搔いた。それから足を引き摺ってシンクへ向かうと、洗って伏せてあったマグカップを取り、それを思い切り壁――樹生の脇から背後へと、投げつけた。
壁に投げつけられた陶器は派手で不快な音を立て、割れて、落ちた。
暁登は続け様にもう一つカップを取ったので、樹生は瞬時に動いてその手首を取った。細い体を押さえつける。
当然ながら暁登は嫌がり、暴れた。
「あき、暁登、」
「うるさい!」
「いいからやめろ。傷が開くから、」
「うるさい! 話す気もないくせに、」
「あき、」
「おれは……おれはなんなんだよ」
暁斗の両手首を取り、壁に押さえつけた。その体の細さからは想像もつかないような力強さには驚いたが、かろうじて樹生の方が勝った。
「……あき、」
手を押し返す力が抜けたその隙をついて樹生は暁登の体を思い切り抱きしめた。
暁登は細かく震えている。
どうすればいいのか、痺れた頭で考えるにはもう余力もなかった。この面倒なことから解放されたい。暁登を休ませて、自分も休みたい。今日なら夢も見ずに深く眠るだろう。それだけ疲れている。
暁登が脱力したので、発作的な暴力が治まったのだろうと解釈した。腕の力を緩めると、暁登が顔を上げた。
樹生の目を覗き込むようにまっすぐ捉えてくる。深い黒い目。それに背筋を粟立たせていたから、油断した。樹生の肩に手を添えると、暁登は樹生の首筋にスッと顔を寄せ、そこを思い切り噛んだ。
「――ってぇ、」
樹生は咄嗟に暁登の肩を掴んで体を剥がし、距離を取った。びりびりと噛まれた首筋が痛く、そこに手を当てた。
暁登は鋭い眼差しで樹生も見る。
「――おれ、実家に戻るわ」
と暁登は言った。「帰る」ではなく「戻る」。それは「別れる」と同じ響きがあり、――体中にドッと冷や汗が吹き出した。
「あき」
「あんたの傍にいたくない。自分が――こんなに嫌いになる」
そう言って暁登は自室へと戻った。樹生が呆然としているうちにとりあえずの荷物をまとめ、足を引き摺りながら樹生の脇をすり抜けて、部屋から出て行った。
ガチャン、という重い扉の音を聞いて、樹生は我に返った。
首筋に当てていた手をようやく外す。手指には血がうっすらと付いていた。
「……は、」
色んな事が馬鹿馬鹿しくなる。制服を雑に脱ぐとそれを片付けもせず、自室のベッドへ潜り込んで眠った。
→ 48
← 46
病院を出た後は、暁登が「先生の家に行きたい」と言うので、早に一報を入れてからそちらへ車を向かわせた。
早の家は明るく暖かで、だが割れた天窓のガラスはまだ直ってはいなかった。業者は応急処置だけ施して明日出直してくるという。
室内は綺麗に掃除されていた。ひょこひょこと足を引きずりながら廊下を進む暁登を見て、早は表情を曇らせた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃなかったら多分帰れてないです。明日また行きますけど、大丈夫なんだと思います」
「傷みは?」
「鎮痛剤が効いているみたいでそんなに。掌の方が大事だったみたいで」
包帯の巻かれた手を見せると、早はますます顔をしかめる。
「夕飯、召し上がりました?」
と早は暁登の手に優しく触れながら樹生に訊ねた。
「――あ、そういや、まだだ」
「簡単なものですけど、ありますので良ければ召し上がっていきませんか」
「いや、」
と、咄嗟に言ってしまったのは、あまり食欲を感じていなかったからだ。腹は減っているのだが、胸の辺りが重たい。食事よりも煙草の気分で、煙草よりは風呂で、眠りたかった。
それでもと暁登を見ると、目が合った。眼鏡の奥の瞳が黒く静かで、鋭い。あまりの強さに、樹生は反射的に目を逸らしてしまった。
暁登は「せっかくですが」と早に告げた。
「家の窓の様子を確かめたくて寄っただけなので。岩永さんも仕事上がりで疲れているみたいですし。帰ります」
「そうですか」
「すみません」
「謝ることではありません。こちらこそ気を遣わせてしまいましたね。明日、病院に行ったら結果はどうだったか、経過がどうなるのか、教えて頂けますか?」
「はい、それは」
「その怪我ではアルバイトもしばらくお休みせざるを得ないですよね……本当に、申し訳なく」
「おれがうっかりしていただけです。心配をかけて、こちらこそ申し訳ない」
謝り合戦のふたりを、樹生はどこか遠い場所に心を置いたまま眺めていた。
暁登が使っていたバイクはしばらく早の元に置かせてもらう話でまとまり、樹生の運転で家を発つ。車内で樹生は煙草を吸ったが、気が乗らずにすぐに消した。暁登は何も喋らない。
「家には連絡したの、」とかろうじて樹生から語りかける。
「何を?」
「怪我のこと」
「してない。でも、バイトを休むことになるから、しなくても伝わるだろうな」
「明日の病院の予約、何時?」
「とりあえず十時半、でも混んでるから朝一番で来られれば来て下さい、って」
「なら、仕事行くタイミングになるけど送ってくよ。帰りは分かんないけど、診察終わったら連絡くれれば」
「いい」
「え?」
「送り迎えはいらない。ひとりで行く」
その台詞に硬さを感じた。樹生も今夜ばかりは広い心を持ち合わせていない。「ああ、そう」とだけ答えて、後のことは何も聞かなかった。
アパートの駐車場に車を停めて降りる。暁登はあくまでもひとりで歩くつもりでさっさと歩を進める。しかし部屋までの道はところどころ凍っているし、階段もあれば段差もある。見ていられなくて腕を取った。
そのまま腰を屈めて背中を暁登に差し向けた。
「ほら」
暁登は「いい」と歩き出そうとする。
「いい、とかなんとか言ってる場合じゃないだろ。介助が必要なんだから、素直に頼ってよ」
ほら、と腕を引っ張ると、暁登は観念したように大人しく樹生の背に体を乗せた。
「もっとちゃんと体重預けて」
「……」
「……そう。動くよ」
暁登の腕を顔の前にまわし、足をしっかりと抱え込んで暁登を背負う。階段はさすがにきつかったが、それにしても恋人の体は軽かった。
不意に暁登の頭が肩先から離れた。ずっと隠すようにして伏せていた顔を上げて、暁登は樹生の後頭部に口先を押しつける。と、つむじより少し下の辺を噛まれて驚く。噛みつく、というよりは歯を当てる、という表現の方が正しい力加減であったが、頭を噛まれるなんてことは過去一度もなく、その意図が全く読めない。
「あき?」
と言うと、暁登はあっさりとその行為を止めた。樹生の肩にまたすがるように顔を埋める。
階段を上りきると同時に、樹生はわずかに窪んだコンクリートに出来た水溜まりに張った氷を踏んだ。滑りはしなかった。砕かれた薄氷の音がやけに耳に障った。
→ 47
← 45
「――岩永くん、」
声をかけられて顔を上げる。そこには還暦を過ぎたぐらいの歳の男が立っていた。初めは誰なのか本気で思い出せなかったが、「まさかこんなところで会うなんて」と耳を引っ張って搔く、その仕草で思い出した。思い出した途端に舌打ちしたくなった。
「――お久しぶりです、緒方(おがた)さん」
「ああ、うん……」
緒方は険しい顔をして耳を搔いていたが、ややあって「どこか悪いのか」と訊いてきた。
「私ではないです。知り合いが怪我をして治療を受けているので、様子を見に」
「そうか」
また沈黙が出来た。そしてやはり緒方の方から「相変わらず、勤めは変わっていないんだな」と樹生の格好を見て言った。着替える手間を惜しんで飛び出したので、ダウンジャケットの下は職場のユニフォームそのままだった。
樹生は笑いもせず、「そうですね、変わりません」と答える。
「相変わらず、非常勤雇用でか」
「……いえ、数年前に正社員になりました」
と言うと、緒方はふん、と鼻から息を漏らした。こういう男だったな、と思い出す。社会人とはすなわち正社員のことを指し、アルバイトやパートタイム、非常勤雇用など立場の弱い働き手の事を認めようとしなかった。
隣いいか、と言うなり緒方は樹生の返事も聞かずに隣に座った。樹生に用はなかったので、帰りたくなった。
仕方がないので、「水尾さんの付き添いか何かですか」と訊いた。緒方は驚いた顔で樹生を振り返る。
「……水尾と連絡を取っているのか?」
「取っていません、全く。ただ、結婚した事は耳にしたので知っています。子どもが出来たことも、先日知りました」
臨月が近いのか、あの時見た水尾の腹はパンパンに膨れていた。緒方は渋い顔をして、「そうだ」と答えた。
「産気づいて、今日の昼からここに入院している。まだ生まれてないが、」
「こんなとこにいていいんですか」
「娘のこんな時に、母親ならともかく男親の出来ることなんかないさ」
その台詞に責められているような気がした。被害妄想も甚だしい、と自分を一蹴する。
緒方は「きみには悪いことをしたのだとは、思っている」と言うので、余計に腹立たしくなった。「悪いことは何もしていない」などと開き直って自分を正当化してくれた方がまだマシだと思う。
「きみと水尾が結婚して家庭を築いて……そういうことが本当に耐えられないと思った。きみはおれの妻を奪い、水尾から母親を奪った女の息子だ。そんなやつに……どうして娘をやれるか、と」
「……」煙草が吸いたい。この場から立ち去りたい。
「だが、事故のあったとき、きみはまだ十歳にも満たない少年だった。その責はきみには問えない。きみも母親を失ったからな。……今日か明日には、水尾は子どもを生んで母親になる。もう関わらないでくれ。ようやく……ようやく当たり前の幸せを手に出来た水尾やおれの為にも、どうか」
それを聞いて、樹生の目の前が真っ赤になった。怒りで視界がぶれることがあるのだ、と知った。
『おまえには誰も幸せには出来ない』と言われているも同然だ。
この男とこれ以上いると怒りでこいつを殴り殺しそうだと、瞬時に想像が巡る。離れなければと思って腰を浮かせかけると、病院の長い廊下の方から「お義父さん!」と若い男が駆け寄って来た。
丸い眼鏡をかけた、どこか剽軽な印象のある男だった。
「どこまで飲み物買いに出かけてるんですか。携帯も置いてくし。生まれちゃいますよ」
「すまん、いま行く」
緒方は男に引っ張られて立ち上がった。この眼鏡の男が水尾の夫なのだろう。スーツがよく似合っていたから、緒方も望む「まっとうな職」に就いた、「まっとうな男」なんだろう。
緒方と水尾、親子に「当たり前の幸せ」をもたらした幸福の使者。
若い男は樹生に気付くと、くりっとした目をこちらに向けた。
「お義父さんのお知り合いですか?」
「まあな」
「初めまして、婿の守脇(もりわき)と申します。すみませんね、お話に割り込んじゃって」
「大した話はしてないから」
緒方は娘婿の背を叩き、「行こう」と促す。娘婿はにこにこしながら「郵便屋さんなんですね」と樹生に言った。
「僕の勤め先は印刷会社のデザイン部門なんですが、郵便屋さんにはよくお世話になっていますよ。サンプルを送ったり、冊子の発送を定期的にしますし」
「そうですか、ありがとうございます」
「おい、行こう」
緒方はよっぽど娘婿を樹生に引き合わせたくないようだった。もっともそれは樹生も同じだ。もう二度と緒方には会いたくない。
すみませんね、と頭を何度も下げて守脇は緒方を伴ってエレベーターホールへと消えた。
樹生は重く長くため息をつく。ついてから頭を天井に向けた。
ここのところ、こんなことばかりだ。過去の出来事を樹生自身はもうなんとも思っていないのに、周囲が騒ぎ立て、道をぬかるませる。
ただ自分は静かに、恋人と安らかに暮らしていたいだけだというのに。
長いことそうしていた。だから処置を終えた暁登がとっくに処置室を出て、乗せられた車椅子でじっとしたままそれを聞いていた事には、全く気付いていなかった。
→ 46
← 44
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本日、ブログに設置しているカウンターの数が100万に達しました。
構想上の樹海では、カウンターの数=ひとりの方の1回の訪問数、ではなく、ページビューの数になります。
この忍者ブログを利用し始めて8年になりました。途中お休みも頂きましたが、私が書き続けて来たことへの純粋なアンサーなのだと思っています。
とても嬉しいです。どうもありがとう。
なにかお礼的なことを考えているようないないような。時間が許せばやりたいです。
ブログの記事投稿数も、あと少しで1500に達します。
よく書いたものだと感慨深いです。
100万というキリ番を踏んだ(ことに気付いた)方。おめでとうございます。
もしよければメッセージをください。リクエストにおこたえ出来たらと思います。
本当にありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
栗
声をかけられて顔を上げる。そこには還暦を過ぎたぐらいの歳の男が立っていた。初めは誰なのか本気で思い出せなかったが、「まさかこんなところで会うなんて」と耳を引っ張って搔く、その仕草で思い出した。思い出した途端に舌打ちしたくなった。
「――お久しぶりです、緒方(おがた)さん」
「ああ、うん……」
緒方は険しい顔をして耳を搔いていたが、ややあって「どこか悪いのか」と訊いてきた。
「私ではないです。知り合いが怪我をして治療を受けているので、様子を見に」
「そうか」
また沈黙が出来た。そしてやはり緒方の方から「相変わらず、勤めは変わっていないんだな」と樹生の格好を見て言った。着替える手間を惜しんで飛び出したので、ダウンジャケットの下は職場のユニフォームそのままだった。
樹生は笑いもせず、「そうですね、変わりません」と答える。
「相変わらず、非常勤雇用でか」
「……いえ、数年前に正社員になりました」
と言うと、緒方はふん、と鼻から息を漏らした。こういう男だったな、と思い出す。社会人とはすなわち正社員のことを指し、アルバイトやパートタイム、非常勤雇用など立場の弱い働き手の事を認めようとしなかった。
隣いいか、と言うなり緒方は樹生の返事も聞かずに隣に座った。樹生に用はなかったので、帰りたくなった。
仕方がないので、「水尾さんの付き添いか何かですか」と訊いた。緒方は驚いた顔で樹生を振り返る。
「……水尾と連絡を取っているのか?」
「取っていません、全く。ただ、結婚した事は耳にしたので知っています。子どもが出来たことも、先日知りました」
臨月が近いのか、あの時見た水尾の腹はパンパンに膨れていた。緒方は渋い顔をして、「そうだ」と答えた。
「産気づいて、今日の昼からここに入院している。まだ生まれてないが、」
「こんなとこにいていいんですか」
「娘のこんな時に、母親ならともかく男親の出来ることなんかないさ」
その台詞に責められているような気がした。被害妄想も甚だしい、と自分を一蹴する。
緒方は「きみには悪いことをしたのだとは、思っている」と言うので、余計に腹立たしくなった。「悪いことは何もしていない」などと開き直って自分を正当化してくれた方がまだマシだと思う。
「きみと水尾が結婚して家庭を築いて……そういうことが本当に耐えられないと思った。きみはおれの妻を奪い、水尾から母親を奪った女の息子だ。そんなやつに……どうして娘をやれるか、と」
「……」煙草が吸いたい。この場から立ち去りたい。
「だが、事故のあったとき、きみはまだ十歳にも満たない少年だった。その責はきみには問えない。きみも母親を失ったからな。……今日か明日には、水尾は子どもを生んで母親になる。もう関わらないでくれ。ようやく……ようやく当たり前の幸せを手に出来た水尾やおれの為にも、どうか」
それを聞いて、樹生の目の前が真っ赤になった。怒りで視界がぶれることがあるのだ、と知った。
『おまえには誰も幸せには出来ない』と言われているも同然だ。
この男とこれ以上いると怒りでこいつを殴り殺しそうだと、瞬時に想像が巡る。離れなければと思って腰を浮かせかけると、病院の長い廊下の方から「お義父さん!」と若い男が駆け寄って来た。
丸い眼鏡をかけた、どこか剽軽な印象のある男だった。
「どこまで飲み物買いに出かけてるんですか。携帯も置いてくし。生まれちゃいますよ」
「すまん、いま行く」
緒方は男に引っ張られて立ち上がった。この眼鏡の男が水尾の夫なのだろう。スーツがよく似合っていたから、緒方も望む「まっとうな職」に就いた、「まっとうな男」なんだろう。
緒方と水尾、親子に「当たり前の幸せ」をもたらした幸福の使者。
若い男は樹生に気付くと、くりっとした目をこちらに向けた。
「お義父さんのお知り合いですか?」
「まあな」
「初めまして、婿の守脇(もりわき)と申します。すみませんね、お話に割り込んじゃって」
「大した話はしてないから」
緒方は娘婿の背を叩き、「行こう」と促す。娘婿はにこにこしながら「郵便屋さんなんですね」と樹生に言った。
「僕の勤め先は印刷会社のデザイン部門なんですが、郵便屋さんにはよくお世話になっていますよ。サンプルを送ったり、冊子の発送を定期的にしますし」
「そうですか、ありがとうございます」
「おい、行こう」
緒方はよっぽど娘婿を樹生に引き合わせたくないようだった。もっともそれは樹生も同じだ。もう二度と緒方には会いたくない。
すみませんね、と頭を何度も下げて守脇は緒方を伴ってエレベーターホールへと消えた。
樹生は重く長くため息をつく。ついてから頭を天井に向けた。
ここのところ、こんなことばかりだ。過去の出来事を樹生自身はもうなんとも思っていないのに、周囲が騒ぎ立て、道をぬかるませる。
ただ自分は静かに、恋人と安らかに暮らしていたいだけだというのに。
長いことそうしていた。だから処置を終えた暁登がとっくに処置室を出て、乗せられた車椅子でじっとしたままそれを聞いていた事には、全く気付いていなかった。
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本日、ブログに設置しているカウンターの数が100万に達しました。
構想上の樹海では、カウンターの数=ひとりの方の1回の訪問数、ではなく、ページビューの数になります。
この忍者ブログを利用し始めて8年になりました。途中お休みも頂きましたが、私が書き続けて来たことへの純粋なアンサーなのだと思っています。
とても嬉しいです。どうもありがとう。
なにかお礼的なことを考えているようないないような。時間が許せばやりたいです。
ブログの記事投稿数も、あと少しで1500に達します。
よく書いたものだと感慨深いです。
100万というキリ番を踏んだ(ことに気付いた)方。おめでとうございます。
もしよければメッセージをください。リクエストにおこたえ出来たらと思います。
本当にありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
栗
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
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