×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
茉莉と樹生は無言のままいったんは車に乗り込む。とにかく一刻も早くこの場を立ち去りたかった。茉莉に「シートベルト締めて」とだけ言い、樹生はあてもなく車を発進させる。
「――びっくりした」
しばらくして茉莉が口を開く。
「あんたが暴力ふるってるところなんか、見たことなかったから」
「おれだって驚いてるよ。……よく知らないけど、あの男も茉莉や母さんにはそうだったんだろ。親子ってことなんじゃない」
そう言って自嘲すると、茉莉はそう、とも、違う、とも取れるように曖昧に頷いた。
「あんたが横っ面叩いてくれたから、びっくりしちゃって、私が怒り損ねた」
「それでいいんだよ」
「大切な人には絶対にしないでね」
「うん、……しない」
自分の中の激しい暴力に身を委ねてみたものの、それはとても気分の悪いものだった。もしかしたら岩永直生もそうだったんじゃないかと想像する。そしてそれを先ほどの樹生と同じようにうまく制御できず、それの繰り返しで自分を責めたのではないかと。
「おれは岩永直生じゃない。だから、しない」
「――そうね」
闇雲に走らせていた車も、次第に落ち着きを取り戻す。ふと、茉莉が「湖がある」と言った。
「え?」
「ほら、これ湖じゃない?」
そう言って茉莉はカーナビの地図を指す。ここからそう遠くないところに、確かに水場があるようだった。
「行く?」と訊くと、「うん」と答える。
「湖岸を歩けるのかな。だったら少し歩きたい」
「じゃあ、そっち行こうか」
ナビゲーションをチラリと確認し、樹生はウインカーを出して真っすぐ行くはずの道を外れた。
湖には割とすぐに着いた。周回しながら適当な駐車スペースを探す。陽光がそろそろ頼りなくなる時間だった。「あの辺り停められそう」と茉莉がカーナビと道の先を照らし合わせて言う。その通りに湖の傍にあった広場に車を停めて降りた。風は冷たく、染みた。
小さな湖だった。所々に氷が残るが、鴨は湖面をすいすいと泳いでいく。湖の周りをゆっくり歩くことにした。樹生は何度か口元に手を当ててはジャケットのポケットに手を戻す動作を繰り返したが、茉莉は淡々と歩く。
ふと、茉莉が「あんたが羨ましいと思ってる」と言った。
「――え?」
「母親が死んで、父親は行方知れず。残された姉弟二人、私の唯一の理解者。そういう思いでいたけど、実はそうじゃないってこと」
と言われるのでますます分からない。ただ、茉莉の言い口にむなしさが滲んでいたので、慎重に聞き直した。「そうじゃない、ってのは?」
「さっきのあいつに言ってたじゃない。両親がいないことで不利益がなかったって。――あんたは良くも悪くも、親のことをほとんど覚えてないからね、ってこと」
「……」
「十年の差って大きいね。私は、母さんとあの男との記憶がある。家族が三人だった頃よね。初めはね、母さん笑ってて、あの男も笑ってて、私も笑ってたわ。小学校の入学式に二人とも来てくれたことを、覚えている。……そのうちあの男が安定しなくなって、母さんに当たったりしているのも、覚えている。あんたはそういう記憶が全くない。仕方がないよね。生まれる前の話だから」
茉莉は下を向き、ブーツの先で小石を蹴った。コンコンコン、と何度か跳ねて小石は湖に落ちる。
「どっちにも転べない。母さんやあの男と一緒にいて幸せだったんだ、とか、人生は最低で不幸だとか、……今日の話を聞いて、思えなくなっちゃった。あの男以上のエゴイストがいたんだ、ってこともよく分かったし」
「……今日のあいつは、最低だったよな」
「ホントよね」
「最低」
「うん、最低……」
言葉の最後はか細く、そのままその場で茉莉はしゃがみ込んでしまった。樹生はそっと手を伸ばし、背に触れる。
「――茉莉、」
「どうすればいいの、」
声は湿気をはらんでいる。やがて姉は肩をふるわせて泣き始めた。
「これから、どうしたらいいの……――」
樹生には答えられない。
→ 60
← 58
PR
「――離して! 樹生!」
「茉莉、やめな」
「うるっさい!」
「それで僕を殺すかい?」
微動だにせず、晩は茉莉を見上げた。
「きみたちには残念だけど僕は簡単には殺されない。直生の遺体を探すために生きているからね。でも、最近は見つからなくてもいいかなって思うんだ。見つからなかったら、直生は一生、僕のものだから。直生への想いはそう、なんていうのかな。あの滑落事故で直生が死んでから、永久に凍結してしまったんだ。ずっと、もうずっと、融解を知らない」
あまりに歪な台詞に、ぐっと茉莉の体に力が入るのが分かる。彼女は歯を食いしばって樹生の腕から逃れようとする。それを渾身で押さえながら、樹生は「違う」と言った。
「あなたの、おれたち姉弟の父親に対する好意は分かりました。酷いエゴイズムだってことも」
「そうだ。間違ってるなんて百も承知さ。でも僕ぐらい自分の愚かさを正当化しておかないと、僕が可哀想じゃないか。僕は僕の人生しか生きられないからね。直生は直生の人生を生きた。僕も僕の好きに生きている。きみたち姉弟のことは哀れに思うよ。いろんなことに囚われて好きに生きられない……こんなところまで僕を追っかけてきて、復讐も成しえない、かわいそうな子たち」
瞬間、樹生は確かな意思を持って、茉莉の体を抱えたまま右腕を振り上げて晩の横っ面を思い切り叩いた。衝撃に晩はバランスを崩し、椅子ごと床に倒れる。一瞬の出来事に驚いたのは姉で、小さな悲鳴のような吐息の漏れが伝わった。
「いまのは、茉莉の分」
晩が崩れた先から埃が上がった。晩は体を丸めて小さく呻く。だがその呻きには、微かな笑いも含まれていた。
「おれの分はないです、残念ながら。おれには両親がいなかったことによる不利益がなんにもないから」
「樹生、」腕の中で茉莉が名を呼んだが、樹生はそちらを見なかった。
「これでおしまいです。もう一切あなたには関わらないし、会いもしません。姉が張った罠に引っかからせて申し訳ないと初めは思っていましたが、いまはそれも思わない」
行こう、と茉莉の肩を抱いて立ち去ろうとすると、晩はかろうじて起き上がり、「ジャンダルムだね」と言った。
「――え?」
「樹生くん、きみが生まれて少ししたころに直生が言ってたんだよ。『この子はジャンダルムみたいに強く立派で、守る人になってほしい』って」
晩は壁に貼られた写真を指で示した。早からもらった年賀状と似たような構図に収まった山の写真が貼ってある。
「直生が、直生自身から、あるいはありとあらゆる災厄から、美藤さんや、茉莉さんや、これからきみが愛する人を守る人になってほしいと、ジャンダルムの写真と子どもらの写真を見比べながら、そう言っていた。……まさにそうだな。きみはそういう人だ」
晩はもう立ちあがる気すらないようだった。床に手をついて、樹生を見上げる。
「きみたちをここに招いて全部を話す気になったのは、樹生くんがあまりにも直生にそっくりだったからだ」
「……」
「僕もあさましいな。きみがここへ来てくれたことを喜びだと思っているんだから。……ようやく会えたな、ってさ」
その台詞になにも返答せず、ただ姉の腕を引いて樹生は事務所を出た。
→ 59
← 57
「茉莉、やめな」
「うるっさい!」
「それで僕を殺すかい?」
微動だにせず、晩は茉莉を見上げた。
「きみたちには残念だけど僕は簡単には殺されない。直生の遺体を探すために生きているからね。でも、最近は見つからなくてもいいかなって思うんだ。見つからなかったら、直生は一生、僕のものだから。直生への想いはそう、なんていうのかな。あの滑落事故で直生が死んでから、永久に凍結してしまったんだ。ずっと、もうずっと、融解を知らない」
あまりに歪な台詞に、ぐっと茉莉の体に力が入るのが分かる。彼女は歯を食いしばって樹生の腕から逃れようとする。それを渾身で押さえながら、樹生は「違う」と言った。
「あなたの、おれたち姉弟の父親に対する好意は分かりました。酷いエゴイズムだってことも」
「そうだ。間違ってるなんて百も承知さ。でも僕ぐらい自分の愚かさを正当化しておかないと、僕が可哀想じゃないか。僕は僕の人生しか生きられないからね。直生は直生の人生を生きた。僕も僕の好きに生きている。きみたち姉弟のことは哀れに思うよ。いろんなことに囚われて好きに生きられない……こんなところまで僕を追っかけてきて、復讐も成しえない、かわいそうな子たち」
瞬間、樹生は確かな意思を持って、茉莉の体を抱えたまま右腕を振り上げて晩の横っ面を思い切り叩いた。衝撃に晩はバランスを崩し、椅子ごと床に倒れる。一瞬の出来事に驚いたのは姉で、小さな悲鳴のような吐息の漏れが伝わった。
「いまのは、茉莉の分」
晩が崩れた先から埃が上がった。晩は体を丸めて小さく呻く。だがその呻きには、微かな笑いも含まれていた。
「おれの分はないです、残念ながら。おれには両親がいなかったことによる不利益がなんにもないから」
「樹生、」腕の中で茉莉が名を呼んだが、樹生はそちらを見なかった。
「これでおしまいです。もう一切あなたには関わらないし、会いもしません。姉が張った罠に引っかからせて申し訳ないと初めは思っていましたが、いまはそれも思わない」
行こう、と茉莉の肩を抱いて立ち去ろうとすると、晩はかろうじて起き上がり、「ジャンダルムだね」と言った。
「――え?」
「樹生くん、きみが生まれて少ししたころに直生が言ってたんだよ。『この子はジャンダルムみたいに強く立派で、守る人になってほしい』って」
晩は壁に貼られた写真を指で示した。早からもらった年賀状と似たような構図に収まった山の写真が貼ってある。
「直生が、直生自身から、あるいはありとあらゆる災厄から、美藤さんや、茉莉さんや、これからきみが愛する人を守る人になってほしいと、ジャンダルムの写真と子どもらの写真を見比べながら、そう言っていた。……まさにそうだな。きみはそういう人だ」
晩はもう立ちあがる気すらないようだった。床に手をついて、樹生を見上げる。
「きみたちをここに招いて全部を話す気になったのは、樹生くんがあまりにも直生にそっくりだったからだ」
「……」
「僕もあさましいな。きみがここへ来てくれたことを喜びだと思っているんだから。……ようやく会えたな、ってさ」
その台詞になにも返答せず、ただ姉の腕を引いて樹生は事務所を出た。
→ 59
← 57
いま聞いたことが、欠けたパズルのピースを埋めるように、樹生の脳内にはまっていく。樹生の父が不在の理由、茉莉が父を憎む理由。
「さっき」と樹生は口を開いた。
「父が山で滑落死して、それが母の死と関連すると言いましたが、そもそも母は交通事故死でした」
そう言うと、晩は「うん」と言って、樹生に先の話を促した。
「なぜここが繋がるんですか?」
途端、晩は眉根を寄せ、やるせない、苦しそうな顔をした。腕組をして、低く唸る。
「――あの日、直生は山荘の仕事を休んで、山に登っていた。H岳連峰だよ。秋雨の続いた中にひょっと出た晴れ間の日でね。歩くのにとてもいい日だった。……けれど途中の岩場で足を滑らせて、滑落した。目撃者の話だと、山の谷間へ真っ逆さまだった、って」
ふ、と晩は息を吐く。聞いているこちらも不快だが、晩もあまり話したくないのだろう。
「連絡が来た時には、目撃者から山岳警備に救助要請がされた後だった。僕はしばらく迷って、……美藤さんに連絡を入れた。彼女は『すぐそちらへ行きます』と言ってね。子どもたちは連れずに、ひとりで車を出した。その頃にはまた雨が降り始めて、道中、視界も悪かった。そこで彼女は向こう側からやって来た乗用車に気付かず、事故を起こした。あっけなく逝った。……こういうのを二次災害、と言うのかな」
最後のピースがはまり、樹生は身震いした。心臓が痛む。母の死の理由も、その後に付随した出来事も、胸にひたひたと迫り、苦しい。
結果的に親をふたり同時期に失って、高校卒業を間近に控えた姉は自立し、弟は「早先生と惣先生」に引き取られたのだ。
それが自分たちの境遇だった。
「それで遺体が、見つかってないのですね」と茉莉が言う。その声は小さく震えていて、哀れだった。
「そうだ。見つかったのは、岩場に引っかかっていたジャケットと腕の一部。まあ、山の事故なら、こういうことはそんなに珍しいことじゃない。……残された人間には、辛いだけだけどね」
晩はまた段ボールを探って、ジッパーのついた透明のビニール袋を取り出した。その中にはぼろぼろの赤い布が入っていた。黒ずみ、ちぎれ、穴が開いたり、繊維がほつれていたりする。
「これが、……遺品だ」
「……」
「僕はね、毎年H岳連峰に登って、直生の遺体を探している」
そう言った晩の目は、強かったが、淋しかった。直感的に樹生は、この人のよりどころはまだ父親にあるのだと知る。
とっくに死んだ人間の遺体を探し続けている。親や兄弟でもないのに。
「ただ、まあ、……僕も年を取った。体力的にはあと数年のトライで終わりそうだと思う。生きているということは、そういうことだね。直生も美藤さんも亡くなったけど、僕は違うから、年を取る。……きみたちも一緒に探すかい?」
その問いには答えられなかった。樹生には父に対するそこまでの執着がなかったし、茉莉も父親のことは「見つけ出す」と言ったが、「復讐」を成し遂げられないなら、意味がない。
姉弟が黙っていると、晩は「そうだね」と言った。
「きみたちにとって直生はそういう存在だ。残念ながらね。けれど、僕は違う。……違うんだ」
しばらく場に間が出来た。やがて樹生は口を開く。
「なんでそんなに、父に親身になるんですか」
「単純な理由だよ」
晩は疲労を滲ませた顔を、だがしっかりと樹生に向けた。
「僕は直生が大好きだったんだ」
「……」
「正直なことを話すよ。僕は初め、直生が僕を頼ってくれたことがとても嬉しかった。奥さんと子どもを置いて山荘にやってきてくれた時に、この時間が永遠だといいなと思ったものだよ。彼を二度とあの家庭に帰したくない、とも思った。本当に、彼のことが好きなんだよ。だから、」
晩は言葉を区切り、自嘲する笑みを浮かべた。
「直生が事故に遭った時、そのことをほとんど周囲には知らせなかった。美藤さんにさえ知らせたくなんかなかったよ。美藤さんを殺したのはある意味、僕だったのかもしれないね。あなたがたをこんな境遇にしたのも、僕。直生の子どもたちのことは気にしなかった。どうでもよかったんだ。直生じゃないなら、僕の人生に意味がないから」
「――あなた、」
瞬時に茉莉が怒りで震えたことが分かった。事務机の上に転がっていたボールペンを咄嗟に掴み、そのペン先を晩に振り下ろそうとしたので、樹生は慌ててその腕を取り体を羽交い絞めにした。
→ 58
← 56
「ああ、そうだね。中学のクラスが一緒だった。高校で分かれてしまったけど、それでも頻繁につるんでいた」
「――私は、なぜあの男が私たち家族の元から離れたのか、母を捨てたのか、知りたいんです」
きっぱりと茉莉は晩に言ったが、晩は「うーん」と唸って苦笑するだけだった。
「あの、」と樹生は口を挟む。「右腕だけって、どういうことですか」
「ああ、そうかそれが途中だったな。あなたがた家族には衝撃的な話になってしまうけど、……直生は山で死んだんだ。滑落死」
「……」
「そしてそのことがきっかけで美藤さんも亡くなってしまった」
晩は椅子の下に置いた段ボールを探り、中から一枚の写真を取り出した。
角が取れたぼろぼろの写真に写っていたのは、赤子を抱いた女性だった。髪がほつれていたが肌は滑らかで美しく、茉莉によく似ていた。赤子は頬を真っ赤にして、ふくふくと抱かれている。目はまだ開かない、新生児のようだ。傍にはすらりと手足の長い少女が立っていて、カメラを睨んでいた。
「これは、美藤さんとあなたがただね」
と、晩はこの写真を茉莉に渡す。
「直生は繰り返し何度もこれを眺めていた。だからもうぼろぼろでね。これ以上ぼろぼろにさせないためにも額に入れたらと僕は言ったんだけど、すると携帯できなくなるからと、直生は拒んだ」
樹生は晩の言葉を頭の中で咀嚼しながらも、姉の手の中にある写真を眺めた。この新生児は樹生だということだ。母に抱かれて写っている写真など樹生は一枚も持っていないし、見たことがない。そういう意味で自分を客観視するのは、とても新鮮に感じる。
そしてこの写真を撮ったのが若き父だったのだろう。
「順を追って初めから説明するよ」と晩が言った。
「僕のところへ直生から連絡があったのは、樹生くん、あなたが生まれて間もない頃だったかな。直生は病んでいた。精神的な病で、『このままだとおれは妻や子どもを殺してしまう』と言っていた。原因はよく分からない。昔のことを思い出せば彼は基本的には物静かな男だったけど、たまにひどく攻撃的になったり、気分が高揚するところがあった。それを僕は思春期だからかな、とか思っていたんだけど、大人になっても鬱や躁の状態を繰り返していたから、彼本来の性質がそういうものだったんだろうね。
就職先があまり良くなかったこともあると思う。大学を出て彼が就職したのは大きな百貨店だったんだけど、彼の配属先はお客さんからのクレームを取りまとめる部署でね。毎日ありとあらゆる苦情の対応をするんだ。彼の性分にそれは全く合わなかったけど、やるしかなかった。美藤さんのおなかの中には茉莉さんがいて、とにかく働かねば、という気持ちがあったんだね。真面目で、責任感のあるやつだった。
樹生くんが生まれるころには、何度目かの鬱の後の、躁の状態だった。何日も眠らず平気で活動して、目を血走らせてね。体はがりがりで、でもどこからそんなエネルギーを漲らせるんだかね。怖かった。彼は悩んでいたよ。ちょっとしたことで感情にスイッチが入ってしまって、怒りに支配されてしまう、って。産後で疲労している美藤さんに何度か暴力をふるったと言って、とても悔いていた。きっと、……茉莉さん、あなたの記憶によく残っているのは、この頃の直生じゃないかな」
晩の言葉に、茉莉はため息をついて返事をした。
「確かにあの男が母に暴力をふるっているところを、私は何度も見ている。私も一度突き飛ばされて、テーブルの脚に頭をぶつけて、怪我をしたことが」
「え」と樹生は思わず茉莉を見た。「そんなことあったの、」
「あんたが知らないのは仕方がないわ。……傷はまだ残ってる。後頭部を触るとね、そこだけ少し膨れているのよ」
そう言って茉莉はその場所に自分の指で触れた。晩が「うん」と頷く。
「そう、……そのことも直生は気にしていた。なんてことをしたんだろうって、うろたえていたな」
晩はコーヒーを口にした。それから両手を膝頭で組んで、しばらく上を向いた。
「母に暴力をふるっていたと思ったら、ある日突然ぱたっと消えた」と茉莉が言う。
「それにあなたが絡んでいるのね?」
「そうだ。僕へ連絡を寄越した直生と、ひとまず会って話した。美藤さんも一緒に、三人で。元々直生は精神科へ通院していたんだけど、そこへ入院して、しばらく家族から離れようと思うと、言った。それを聞いて僕は、精神科の閉鎖病棟なんかやめろと言った。ストレスを薬でコントロールされて、身も心も本当にぼろぼろになって、生きているのに死んでいるみたいな、そんな風になると思った。今はもっと医療が進んでいるからね、そんな風には思わなくなったけど、あの頃、あの時代、精神科にかかる奴なんてきちがい、そういうイメージだったよ。
だからその時僕は、僕の山荘へおいでと言った。家族と離れて療養するのにちょうどいいよって。実際、そういう雰囲気の客もいなくはなかったしね。K高地の僕の山荘の、従業員寮にひとつ部屋を当てて、直生をあなたたちから離した。直生は最初のうちは部屋で横になっているだけだったけれど、調子のいいときは山荘の雑務を手伝ってくれるようになってね。調子が悪いとまた部屋にこもったけど、まあ、そんなこんなでゆっくり治っていった、と僕には見えたよ。何より僕自身が、直生が傍にいる生活が楽しかった」
そこで晩は息をつき、少し淋しそうに「調子のよいとき、彼は美藤さんに会いに山を下りた」と言った。
「――え?」
聞き返したのは茉莉だった。
「母さんに会ってた?」
「うん。あなたがたには会わなかったみたいだけど、美藤さんには会っていた。僕の方から、山荘を手伝ってくれた分に関しては労働の対価として賃金を渡していたから、それを美藤さんには渡していたようだよ」
「……」
「それから子どもたちの様子を聞いて、また山荘に戻って来た。そういう生活の繰り返し」
それきり、晩は黙ってしまった。
→ 57
← 55
「――私は、なぜあの男が私たち家族の元から離れたのか、母を捨てたのか、知りたいんです」
きっぱりと茉莉は晩に言ったが、晩は「うーん」と唸って苦笑するだけだった。
「あの、」と樹生は口を挟む。「右腕だけって、どういうことですか」
「ああ、そうかそれが途中だったな。あなたがた家族には衝撃的な話になってしまうけど、……直生は山で死んだんだ。滑落死」
「……」
「そしてそのことがきっかけで美藤さんも亡くなってしまった」
晩は椅子の下に置いた段ボールを探り、中から一枚の写真を取り出した。
角が取れたぼろぼろの写真に写っていたのは、赤子を抱いた女性だった。髪がほつれていたが肌は滑らかで美しく、茉莉によく似ていた。赤子は頬を真っ赤にして、ふくふくと抱かれている。目はまだ開かない、新生児のようだ。傍にはすらりと手足の長い少女が立っていて、カメラを睨んでいた。
「これは、美藤さんとあなたがただね」
と、晩はこの写真を茉莉に渡す。
「直生は繰り返し何度もこれを眺めていた。だからもうぼろぼろでね。これ以上ぼろぼろにさせないためにも額に入れたらと僕は言ったんだけど、すると携帯できなくなるからと、直生は拒んだ」
樹生は晩の言葉を頭の中で咀嚼しながらも、姉の手の中にある写真を眺めた。この新生児は樹生だということだ。母に抱かれて写っている写真など樹生は一枚も持っていないし、見たことがない。そういう意味で自分を客観視するのは、とても新鮮に感じる。
そしてこの写真を撮ったのが若き父だったのだろう。
「順を追って初めから説明するよ」と晩が言った。
「僕のところへ直生から連絡があったのは、樹生くん、あなたが生まれて間もない頃だったかな。直生は病んでいた。精神的な病で、『このままだとおれは妻や子どもを殺してしまう』と言っていた。原因はよく分からない。昔のことを思い出せば彼は基本的には物静かな男だったけど、たまにひどく攻撃的になったり、気分が高揚するところがあった。それを僕は思春期だからかな、とか思っていたんだけど、大人になっても鬱や躁の状態を繰り返していたから、彼本来の性質がそういうものだったんだろうね。
就職先があまり良くなかったこともあると思う。大学を出て彼が就職したのは大きな百貨店だったんだけど、彼の配属先はお客さんからのクレームを取りまとめる部署でね。毎日ありとあらゆる苦情の対応をするんだ。彼の性分にそれは全く合わなかったけど、やるしかなかった。美藤さんのおなかの中には茉莉さんがいて、とにかく働かねば、という気持ちがあったんだね。真面目で、責任感のあるやつだった。
樹生くんが生まれるころには、何度目かの鬱の後の、躁の状態だった。何日も眠らず平気で活動して、目を血走らせてね。体はがりがりで、でもどこからそんなエネルギーを漲らせるんだかね。怖かった。彼は悩んでいたよ。ちょっとしたことで感情にスイッチが入ってしまって、怒りに支配されてしまう、って。産後で疲労している美藤さんに何度か暴力をふるったと言って、とても悔いていた。きっと、……茉莉さん、あなたの記憶によく残っているのは、この頃の直生じゃないかな」
晩の言葉に、茉莉はため息をついて返事をした。
「確かにあの男が母に暴力をふるっているところを、私は何度も見ている。私も一度突き飛ばされて、テーブルの脚に頭をぶつけて、怪我をしたことが」
「え」と樹生は思わず茉莉を見た。「そんなことあったの、」
「あんたが知らないのは仕方がないわ。……傷はまだ残ってる。後頭部を触るとね、そこだけ少し膨れているのよ」
そう言って茉莉はその場所に自分の指で触れた。晩が「うん」と頷く。
「そう、……そのことも直生は気にしていた。なんてことをしたんだろうって、うろたえていたな」
晩はコーヒーを口にした。それから両手を膝頭で組んで、しばらく上を向いた。
「母に暴力をふるっていたと思ったら、ある日突然ぱたっと消えた」と茉莉が言う。
「それにあなたが絡んでいるのね?」
「そうだ。僕へ連絡を寄越した直生と、ひとまず会って話した。美藤さんも一緒に、三人で。元々直生は精神科へ通院していたんだけど、そこへ入院して、しばらく家族から離れようと思うと、言った。それを聞いて僕は、精神科の閉鎖病棟なんかやめろと言った。ストレスを薬でコントロールされて、身も心も本当にぼろぼろになって、生きているのに死んでいるみたいな、そんな風になると思った。今はもっと医療が進んでいるからね、そんな風には思わなくなったけど、あの頃、あの時代、精神科にかかる奴なんてきちがい、そういうイメージだったよ。
だからその時僕は、僕の山荘へおいでと言った。家族と離れて療養するのにちょうどいいよって。実際、そういう雰囲気の客もいなくはなかったしね。K高地の僕の山荘の、従業員寮にひとつ部屋を当てて、直生をあなたたちから離した。直生は最初のうちは部屋で横になっているだけだったけれど、調子のいいときは山荘の雑務を手伝ってくれるようになってね。調子が悪いとまた部屋にこもったけど、まあ、そんなこんなでゆっくり治っていった、と僕には見えたよ。何より僕自身が、直生が傍にいる生活が楽しかった」
そこで晩は息をつき、少し淋しそうに「調子のよいとき、彼は美藤さんに会いに山を下りた」と言った。
「――え?」
聞き返したのは茉莉だった。
「母さんに会ってた?」
「うん。あなたがたには会わなかったみたいだけど、美藤さんには会っていた。僕の方から、山荘を手伝ってくれた分に関しては労働の対価として賃金を渡していたから、それを美藤さんには渡していたようだよ」
「……」
「それから子どもたちの様子を聞いて、また山荘に戻って来た。そういう生活の繰り返し」
それきり、晩は黙ってしまった。
→ 57
← 55
八.凍土
――岩永直生は死んでいる。
晩の言葉はとても静かに響いた。それを聞いた瞬間に樹生の耳から周りの雑音が消えてしまった。
この場には樹生と、茉莉と、晩しかいないような。
嘘、と茉莉が呟く。晩はそれ以上何も言わなかったが、瞳の色を深くして姉弟を見つめ返してきた。それは恐ろしく澄んだ目で、樹生は瞬時に悟る。樹生を問い詰めた時の暁登のまなざし、これも強い深度だったと思い出す。
この男は本当の事しか言っていない。
トーストと温かい飲み物が運ばれたが、三人ともそれを口に出来なかった。隣に座る茉莉の肩が震える気配がして、樹生はそちらを向く。茉莉の顔は血の気がなく真っ白で、咄嗟に樹生は姉の背に手を添えた。
「違うでしょう。あなたは嘘を言っている」
口を開いたのは茉莉だった。
「嘘じゃないよ。……断定は出来ないけれどね」
「どういう事ですか、」
「直生の遺体は見つかってないからさ」
晩はようやくコーヒーカップを持ち上げ、一口飲んだ。春間近の光線がガラス戸を透かして晩に降り注いでいる。
「遺体がなくてどうして死んだと言えるの?」
「遺体の一部なら見つかっているから」
「どういう、」
「見つかったのは直生が着ていたジャケットの一部と、腕。右腕だ」
と、晩は手を上げて店員を呼んだ。「申し訳ないけれど、これを持ち帰りにしてもいいかな?」と聞き、トーストやコーヒーをあっという間に手提げ袋に収めさせた。
「話が長くなりそうだし、ここじゃ落ち着いて話せない。僕の事務所に行こう」
そう言い、晩は会計を済ませて店を出た。
店の駐車場から、晩の運転する四駆を追いかけて車を出す。五分程で着いた晩の事務所は中心市街地にほど近い所にあった。こじんまりとした建物で、入口に山荘名が掲げてあった。
鍵を開けて、晩は屋内に入る。茉莉、樹生と続いた。中は事務机や電話機が据えられた、いかにも事務所という造りで、壁にはたくさんの写真が貼られていた。
「このストーブは性能がいいからすぐに暖まるよ。どうぞ」
そう言って晩は椅子を二つ、ストーブの傍に出してくれた。だが茉莉は座らない。茉莉が座らないので樹生も座らず、立ったまま壁に貼られた写真を眺めた。
山の写真ばかりだった。登頂記念に山頂で撮ったもの、山荘の前で撮ったもの。従業員らしきメンバーと山荘の前に並んでいる写真もあった。
その中の一枚に目がとまる。赤や青の色味がきついそれに写っている人物のうちのひとりを、樹生ははじめ「自分だ」と勘違いした。
よく晴れた日の川と山を背にこちらに微笑んでいるのは、赤いジャケットを着た長身の男と青いジャケットを着た小柄な男。
茉莉もそれに気付く。二人して言葉なくそれを眺めている間に、晩は事務所の奥に消え、今度は段ボール箱を一つ抱えて戻ってきた。
「その写真、いいでしょう」と晩が言う。
「僕と直生だよ。二十五年ぐらい前になるかな。この時の直生は調子がよかったんだ。こうやって笑顔で写真に写ってくれるなんてのはね、これ一枚しかない」
晩は壁から写真を外し、樹生にそれを渡した。
「本当によく似ているね」
「……」
「座ろう」
再度椅子を促され、今度こそ姉弟はそこに座った。
紙袋からコーヒーやココアを出し、晩はそれを二人に渡す。「食べるかい?」と紙袋に入ったパンを指して訊かれたが、樹生は食べる気がせず、首を横に振った。
「じゃあ、土産に持って帰るといい。僕はもらうね」
そう言って晩は自分でオーダーをかけたトーストを紙袋から取り出し、残りの紙袋自体を樹生に寄越す。樹生は手の中のココアをすすった。ぬるく、甘く、舌に残った。
晩はトーストだけさっさと食べ終え、コーヒーを飲んで息を吐いた。
「さて、何から話そうかな」
晩は顎を撫でる。先ほどから黙ったきりの茉莉がようやく口を開き、「あなたはあの男の同級生だったと聞きました」と言った。
→ 56
← 54
晩の言葉はとても静かに響いた。それを聞いた瞬間に樹生の耳から周りの雑音が消えてしまった。
この場には樹生と、茉莉と、晩しかいないような。
嘘、と茉莉が呟く。晩はそれ以上何も言わなかったが、瞳の色を深くして姉弟を見つめ返してきた。それは恐ろしく澄んだ目で、樹生は瞬時に悟る。樹生を問い詰めた時の暁登のまなざし、これも強い深度だったと思い出す。
この男は本当の事しか言っていない。
トーストと温かい飲み物が運ばれたが、三人ともそれを口に出来なかった。隣に座る茉莉の肩が震える気配がして、樹生はそちらを向く。茉莉の顔は血の気がなく真っ白で、咄嗟に樹生は姉の背に手を添えた。
「違うでしょう。あなたは嘘を言っている」
口を開いたのは茉莉だった。
「嘘じゃないよ。……断定は出来ないけれどね」
「どういう事ですか、」
「直生の遺体は見つかってないからさ」
晩はようやくコーヒーカップを持ち上げ、一口飲んだ。春間近の光線がガラス戸を透かして晩に降り注いでいる。
「遺体がなくてどうして死んだと言えるの?」
「遺体の一部なら見つかっているから」
「どういう、」
「見つかったのは直生が着ていたジャケットの一部と、腕。右腕だ」
と、晩は手を上げて店員を呼んだ。「申し訳ないけれど、これを持ち帰りにしてもいいかな?」と聞き、トーストやコーヒーをあっという間に手提げ袋に収めさせた。
「話が長くなりそうだし、ここじゃ落ち着いて話せない。僕の事務所に行こう」
そう言い、晩は会計を済ませて店を出た。
店の駐車場から、晩の運転する四駆を追いかけて車を出す。五分程で着いた晩の事務所は中心市街地にほど近い所にあった。こじんまりとした建物で、入口に山荘名が掲げてあった。
鍵を開けて、晩は屋内に入る。茉莉、樹生と続いた。中は事務机や電話機が据えられた、いかにも事務所という造りで、壁にはたくさんの写真が貼られていた。
「このストーブは性能がいいからすぐに暖まるよ。どうぞ」
そう言って晩は椅子を二つ、ストーブの傍に出してくれた。だが茉莉は座らない。茉莉が座らないので樹生も座らず、立ったまま壁に貼られた写真を眺めた。
山の写真ばかりだった。登頂記念に山頂で撮ったもの、山荘の前で撮ったもの。従業員らしきメンバーと山荘の前に並んでいる写真もあった。
その中の一枚に目がとまる。赤や青の色味がきついそれに写っている人物のうちのひとりを、樹生ははじめ「自分だ」と勘違いした。
よく晴れた日の川と山を背にこちらに微笑んでいるのは、赤いジャケットを着た長身の男と青いジャケットを着た小柄な男。
茉莉もそれに気付く。二人して言葉なくそれを眺めている間に、晩は事務所の奥に消え、今度は段ボール箱を一つ抱えて戻ってきた。
「その写真、いいでしょう」と晩が言う。
「僕と直生だよ。二十五年ぐらい前になるかな。この時の直生は調子がよかったんだ。こうやって笑顔で写真に写ってくれるなんてのはね、これ一枚しかない」
晩は壁から写真を外し、樹生にそれを渡した。
「本当によく似ているね」
「……」
「座ろう」
再度椅子を促され、今度こそ姉弟はそこに座った。
紙袋からコーヒーやココアを出し、晩はそれを二人に渡す。「食べるかい?」と紙袋に入ったパンを指して訊かれたが、樹生は食べる気がせず、首を横に振った。
「じゃあ、土産に持って帰るといい。僕はもらうね」
そう言って晩は自分でオーダーをかけたトーストを紙袋から取り出し、残りの紙袋自体を樹生に寄越す。樹生は手の中のココアをすすった。ぬるく、甘く、舌に残った。
晩はトーストだけさっさと食べ終え、コーヒーを飲んで息を吐いた。
「さて、何から話そうかな」
晩は顎を撫でる。先ほどから黙ったきりの茉莉がようやく口を開き、「あなたはあの男の同級生だったと聞きました」と言った。
→ 56
← 54
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
カウンター
カレンダー
| 04 | 2026/05 | 06 |
| S | M | T | W | T | F | S |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | |||||
| 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
| 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
| 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
| 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
| 31 |
フリーエリア
最新コメント
[03/18 粟津原栗子]
[03/16 粟津原栗子]
[01/27 粟津原栗子]
[01/01 粟津原栗子]
[09/15 粟津原栗子]
フリーエリア
ブログ内検索
