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温泉宿は温泉だけの利用も出来るようで、階下はわりと人がいて賑わっていた。花の時期でもあるし、これから大型連休も控えている。稼ぎ時でもあるだろう。その人と人との間をすり抜け、樹生は玄関から庭に出る。東屋みたいな庇のついた建物の下にベンチと灰皿が置かれている。そこへ腰掛け、煙草を取り出して火をつける。
最近は電子タバコが流行りで職場で使う人間も増えたが、樹生は導入していない。疲れたな、と唐突に思う。父親のこと、母親のこと、茉莉のこと、晩のこと、水尾のこと、暁登のこと、そして夏居巌――ここ数ヶ月、いっぺんに色んな事が押し寄せた。
暁登、元気かな。
今まで考えないようにしてきたことが、ごく自然に浮かぶ。早から聞いた話では、暁登は就職したのだという。実家に戻った彼は新しい生活に挑戦している。それはとても喜ばしいことで、ちっとも喜べない。こんなんじゃ、樹生は過去だ。樹生を振り切って家を出た恋人は、ぐんぐん前進している。やはりこれが別れというものなのかなと思うと、心臓がひやっとした。
樹生は違う。暁登に未練を残したまま、なんにも進まない。勤めを変える気はないし、引っ越しも煩わしくて考えていない。かと言って現状を打破しようなどとも思わない。暁登を迎えに行き、話し合い、自分の全てを根こそぎ話せば暁登は帰ってくるのか。到底、そう思えない。
いや、そうしようと思う自分がすっぽりと抜け落ちている。この虚ろな感覚はなんなのだろう。
やっぱり疲れてるんだな、と頭を掻く。煙草を深く吸い込み、陽光に当たって白く光る桜の花を眺める。不意に「おれにもひとつくれんか」と言われたので驚いた。夏居巌がいつの間にやら近くに来ていた。
「……メンソールですけど、」
「なんでもいいわ」
そう言われたので煙草をひとつ渡し、火も渡した。巌は馴れた手つきで煙草に火をつける。吸い込み、ふーっと吐く。
「煙草、吸うんですね」
「おれはヘビースモーカーだった。いまはあまり吸わないがな。草刈なんかに言わせれば『ガンの元』だそうだが、まだ生きている。草刈の方が非喫煙者だったのに先に死んだな」
歳は取るもんじゃねえ、と巌は言う。樹生は二本目の煙草に手を伸ばしかけて、やめた。花を眺めながらただベンチに座る。
老人も隣に座った。煙草をゆっくりと吸いながら、巌は「ちょっと歩かんか」と言う。
「この旅館の庭の花もいいんだがな、川沿いの柳もいいんだ。早緑に芽吹いて」
「……早先生は、」
「草刈の連れ合いなら、部屋でゆっくり花を見たいと言っていた。大方、花を見ながら草刈との思い出にでも浸るんだろう。草刈とあの人は花見だの紅葉狩りだのによく行っていたな」
「ああ、」
樹生にも思い当たる節がいくつもあった。花を見に行こうとか、渓谷の紅葉が綺麗だよとか、早と惣はよく話題にしては出かけていた。引き取られて初めの頃は樹生も連れ出されたが、どうしても興味を持てなかったのでそのうち断るようになり、留守番ばかりしていた。
巌は「あの人は変わらんな」と言った。
「見た目はもうしわくちゃのばあさんだが、気持ちがいつも新しい。そういう人だから草刈も気に入ったんだろう。あの二人以上に夫婦らしい夫婦をおれはいまだに知らない。お互いにお互いを尊敬し合ってた。なかなかなもんだ。簡単なことじゃない」
「……それはよく、知っています」
「ふん」
そうか、と言って巌は煙草を灰皿に潰すと、杖を使って小刻みに震える体で立ちあがった。支えた方がいいのか、かえって迷惑なのか。判断に迷っていると巌が杖で先を示して「ほら行くぞ」と言うので、樹生も立ちあがった。
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あらかじめインターネット上で外観を検索していたとはいえ、その古さと大きさには驚いた。夏居旅館は実に立派な建物だった。
早は勝手を知っているのだろう、旅館の広い玄関へゆっくり歩いて行く。樹生はその後ろを物珍しく見渡しながらついていった。高い天井の高いところに色ガラスが填まっているのが珍しい。ステンドグラスというほど細かな造作がしてあるわけではないが、陽を透かして赤や黄色の光を飴色の床に所々落としていた。
前を行く早が立ち止まる。「草刈さん」と早を出迎えたのは夏居巌の息子、夏居嘉彦だった。
「――と、岩永ジュニア」
樹生をそう呼ぶ。
温泉旅館の跡取りなのだから相応の格好でいるのかと思えば、嘉彦はシャツにチノパンを穿くだけのごくラフな格好だった。これをどうやって見ても死んだ母には似ないのだが、半分は母と同じ血が流れていると思うと、嘉彦への見方が変わる。あまり歓迎すべき事柄ではないと思ったが、茉莉以外の血縁者に会ったことなどほぼなかった。
「いつ到着するかって、親父が珍しく気を揉んでましたよ。草刈さんから出向いてくれるなんて久しぶりだからかな?」
「そうかもしれませんね。私がここへ来るのは十年は前になりますから」
「あの時はご夫婦でいらしてくださいましたね」
「ええ、そうでした」
こちらへ、と嘉彦の案内に続いて長い廊下をスリッパで進む。大きな階段を上り、さらに廊下の奥へと進んだ。先には一等室があるのだと嘉彦が説明する。
「そこに親父もいますんで。食事の用意は出来ています。すぐに運ばせますね。――さあ、どうぞ」
そう言って突き当たりの部屋、「さくら」と書かれた札のついた部屋の引き戸を嘉彦がすらりと開けた。部屋の入口は二重になっている。「父さん、草刈さんだよ」と声を掛けながら嘉彦はその扉も開けてくれた。
まず初めに目に飛び込んで来たのは、大きな窓だ。その窓いっぱいに白っぽいソメイヨシノが満開に咲き乱れていた。
二階にある部屋なので、桜の枝振りを間近で見ることが出来た。部屋の窓際に豪奢なテーブルと籐椅子が置かれ、そこに夏居巌が和装で座っている。傍らには同じく和装の女性が立ち、茶を淹れていた。女性の着る淡い黄色の着物は、座る夏居巌の紺色のパリッとした着物と対照的で、それが桜の前にあるのだから絵になった。高価な日本画でも眺めている気になる。
おっとりと微笑む女性は、よく見ればそう若くもない。嘉彦の嫁だということを、その後の話の流れで察した。いわゆる「女将」だ。
早と樹生をちらりと見て、巌は「来たか」とぶっきらぼうに言った。
「お言葉に甘えまして、花見に来ました」
と早が言う。女性が椅子を勧めてくれた。巌の隣に早は腰掛ける。樹生はどうしてよいやら、ぼんやり立っていた。桜に見とれる振りをする。
「すぐにお食事お持ちしますね」と女性が言って部屋を出る。早と巌は花の話を始めた。年々白化が進む花はそろそろ寿命なのだとか、それでもこうして今年も見事な花をつけてくれたとか、そんな話だった。
「岩永樹生」
と、巌が唐突に発声した。
「座らんか。食事が来るからな」
そう言われて樹生はようやく椅子に腰掛ける。それでもまだ花を見る振りをした。なかなか巌の顔を正面からは見られない。どう見ていいのかよく分からなかった。
運ばれて来た食事は、三段重ねの弁当だった。
夏居旅館は依頼があれば仕出しもしており、この弁当は花見のシーズンにだけ提供する、特別なものなのだという。一段目には色とりどりの野菜の惣菜が品良く詰められ、二段目には肉や魚の焼き物が、三段目にはころんと丸い手毬寿司が入っている。どれもこれも手が込んでいる。飾り付けを見て早は「まあ、かわいらしい」と嬉しそうに微笑んだ。
早と、巌と、樹生とで花を眺めながら弁当を食べた。主には早と巌が喋るだけで樹生は一向に口を挟めなかったし、話す事柄も思い付かなかった。この人が自分の祖父である、という事実に実感が湧かない。当たり前だ。交流は全くなかった。
弁当は美味かったのだが、食べ終えて樹生は煙草が吸いたくなった。さすがに部屋は禁煙だろう。そのことを早と巌に申し出ると、階下に降りれば喫煙スペースがあると言った。
「……じゃあ、まあ、吸いながらちょっと散歩でもしてきます」
そう言って逃げるように部屋を出た。
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車内で早はもう少し喋った。どうでもいいことも大事なことも、あれこれ混ぜた。早のおしゃべりに頷く樹生の仕草が、夫のそれとどことなく似ていたので、途中で少しだけ動揺した。泣きたいような気持ちになる。
所詮、樹生は他人の子だ。それを借りて育てていた、という感覚が、早にはあった。子どもを産まず育てない選択をしたのに、思いがけず子を育てることになって、当然ながら戸惑いもあった。この子はいつか返さねばならない子なのだと思っていた。
なのにその子は、亡き夫と同じ仕草で早の話に相槌を打つ。血の繋がりはどこにもないのに、夫と似たようなリアクションとものの言い方をする。
私たちは確かにこの子を育てたのだと思い、夫に無性に会いたくなる。
そう、惣先生がいなくて私はとても淋しいです。
この子のことであなたと話したいことがたくさんあります。
淋しいです。――とても。
「――夏居さんとお話してください」
早が言うと、樹生は嫌そうに「ええ?」と言い返した。
「おれあんまりあのじいさんをよく思ってないんです」
「では一緒に花を見にその辺をまわるだけでもいいと思います。……夏居さんは、それを喜ぶと思います」
樹生は黙っていたが、観念して「分かりましたよ」と言う。
「あなたの人生は傍から見れば散々なものかもしれません。けれど、前にもお話しましたが、あなたはジャンダルムの使命を果たしました」
「ジャンダルム、」途端、樹生は顔を曇らせる。晩に会った話は一通り聞いていたし、早自身も、樹生の父親から「ジャンダルム」のくだりは聞いていた。
「茉莉さんの攻撃を止められる、もしくは攻撃から守れるのはあなただけだと思って、あなたのお父さんの願い通りに育ちますようにと、惣先生と懸命に育てた子が、あなたです。あなたは立派に育った、とても魅力的な、ひとりの大人です」
早はひとつ息を吐いて、また吸った。
「だからなにも僻んだり、憎らしく感じたり、そんないらぬ感情を持つ必要はありません。自信を持って、生きてください」
泣きそうになりながらも、涙を堪える。惣先生に会いたい。心から会いたい。
「自信がないわけじゃないんです」と樹生は言った。
「おれは立派な両親のおかげで、マイナスの感情を持たずに育ちました。本当に――感謝しているんです。この人たちに引き取られてよかったな、って」
あ、あれが旅館ですか、と樹生が前方を顎で示す。
春のうららかな日差しの下に、重厚な建物が現れた。
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早がそれを告げてまず樹生が取った行動は、近くにあったコンビニエンスストアの駐車場に入ることだった。駐車場の隅に車を停め、エンジンはアイドリングのままでふーっと息を吐くと、改めて早の顔の方を向いた。
「ちょっとあの、話を整理したいです」
と樹生は言った。無理もないと思う。早は頷き、「どうせなら休憩にしましょうか」と申し出た。樹生を車に残し、コンビニでトイレを済ませると緑茶のペットボトルとシトラス系の甘い紅茶のペットボトルを選び、車に戻った。紅茶の方は樹生に渡す。
受け取った紅茶を、樹生は喉を鳴らして飲んだ。ひと息に半分ぐらいは飲んでしまったので驚く。そうして喉の渇きを潤して、樹生は「ええと」と早に改まった。
「あのじいさん」
「はい、夏居さん」
「……が、おれのじいさん、ですか?」
「そうです。いつか話した方がいいのではと思っていましたが、夏居さんに固く口留めされていたので黙っていました。ですが年始に思いがけずあなたの姿を見て、気が変わったようです。死ぬ前にちゃんと会っておかないとと言って、よかったら旅館に来てくれと誘ってくださったのは夏居さんです」
早もペットボトルのキャップを開けようとしたが、手にうまく力が入らなかった。それを見た樹生がごく自然な動作でキャップを外してくれた。
「母は、……両親がいない人だった、と茉莉が言ってました。父には父親がいないと聞いています。身寄りのないもの同士の結婚だったんだ、って」
「直生さんの担任をしていたころ、直生さんはすでにお母さまだけの家庭でした。直生さんのお母さまを私が最後に見たのは直生さんと美藤さんの結婚披露宴の時です。茉莉さんが幼いころに亡くなりましたから、樹生さんに父方のおばあさまの記憶はないでしょう。
同じように美藤さんも母子家庭でしたが、直生さんのお母さまよりもっと早くに亡くなっています。頼る親類縁者もなくて、だから美藤さんは十代の大半を児童養護施設で過ごしました」
「……知らなかった、」
「茉莉さんがあなたに話していなかったら、それは仕方がないことだと思います。……その、美藤さんのお父さまが、夏居さんです」
「なんだっけ、あの、……嘉彦さん、でしたっけ。あの人と母さんはきょうだいとか、そういうことですか?」
「そうです、半分だけ。美藤さんのお母さんは、いわゆるお妾さんでした」
「夏居さんの?」
「ええ。夏居さんがよそで産ませた子どもが、美藤さんです。その経緯はよく知らないのですが、夏居さんは旅館経営者という立場で、それなりにお金も地位もあったんでしょう」
樹生は黙り込む。この青年には酷なことをしていて、無理もないと思いながら、早は続ける。
「本当は美藤さんのお母さんが亡くなった時、美藤さんを家に引き取りたかったそうです。ですがまあ、体裁の悪い娘さんですし、美藤さん自身も窮屈な思いをすると分かっていたので、施設に預けました。それでその後、美藤さんと直生さんが出会って、結婚に至り、子どもが生まれて、夏居さんには外にも孫が出来ました。茉莉さんにはお子さんがいますから、ひ孫もいますね。それは本筋から外れるのでちょっと置きますが、……その美藤さんが事故で亡くなり、孫ふたりが路頭に迷っていると知った時も、夏居さんは相当悩んでおられました。私の主人があなたを引き取ると決めた時に、夏居さんはすぐに挨拶に来ましたよ。孫をどうかよろしく頼みます、と」
「……母さんはそのことを知ってたんですか、」
「美藤さんはご存知なかったと思います。知らないまま、あっという間に逝ってしまいましたね」
車内に沈黙が下りた。樹生は大きく伸びをして肩を上下に動かすと、「なんだ」と言った。
「なんだよ」
「……」
「これからおれは、じいさんに会いに行く、ってことなんですね」
その口調には皮肉が混ざっていた。早は言葉を誤らぬよう、丁寧に選んで発する。
「まだ引き返せます。行くの、やめますか? それはそれで樹生さんの選択です。夏居さんはきちんと受け入れてくださると思います」
「行きますよ」
樹生は即答した。
「行って、……どうすんのかわかんないですけど、まあそうだな、うまいもんでも食わしてもらお」
じゃあ行きます、と言い、樹生は再び車を走らせた。
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S温泉郷へ行くには、ここより南下するルートを取る。三十分も走らせればもうそこは気候が異なり、早や樹生の暮らす街よりずっと春の進んだ花や緑が増える。気の早い家の庭にこいのぼりが泳いでいた。途中の川の水面はきらめき、道行く人の服装も軽く、色合いも華やいでいる。
二時間半ほどの道のりの中のほとんどはラジオを聞いていたが、ラジオニュースに切り替わった時に樹生はボリュームを下げた。下げて、「知っていましたか」と早に聞いた。
「何を?」
「親が、……岩永直生が、死んでいたこと」
「いいえ」
早は即答した。
「知りませんでした。私はずっと、……直生さんは病院に隔離されて、療養しているのだと思っていたので」
樹生は黙る。黙って早の言葉を待つ。
「だからそもそも、病院へ入院していなかったことに驚きました。直生さんはね、入院する前に私と夫の元へ来たんです。これから家族の元を離れるので、妻と子どもをよろしくお願いしますと、そういう内容でした。直生さんには頼れる親類縁者がいませんでしたから、私も夫もそういう意味で、その役を引き受けました」
「……晩、という男のことは?」
「知っていますよ。私は彼らを担任として指導したわけですから」
「あ、そっか」
「彼らの仲がよかったことは、知っていました。けれど晩さんの山荘へ直生さんが匿われていたことは、思いもよらないことでした」
また間が出来る。車は信号の切り替え待ちで止まった。
「でも、」と樹生は前方の青信号と同時に口を開いた。
「岩永直生が病院に入院する、ってことは知ってたんですね」
「そうですね。どこか遠いところだということだけ聞いていましたが、本人が言おうとしなかったこともあって、どこの病院にいるのかまでは知りませんでした。……精神病棟への入院というのは、やはり言いたくなかったと思いますよ」
「……茉莉が、」
車は再び停止した。信号機のない横断歩道で、道を渡りたそうにしている子どもに道を譲ったのだ。
「茉莉が父親を殺したいほど憎んでいて、その所在を知りたがっていることを、先生は知っていたはずです。どっかの病院にいるっていうヒントを、……まあ結局岩永直生は病院にはいなかったわけですけど、でも、どうして、……教えてくれなかったんですか、」
「……」
「おれたちはただ家族を捨てて家を出て行った父、だと思ってたんです。それが精神を壊して入院となれば事情は違う。もっと早く教えてくれていたら、違ったかもしれない、……特に茉莉の復讐の芽は、育たなかったかもしれない。そう、思って、」
「……」
「先生は、ずるいです」
それは早がはじめて樹生の口から聞く、「非難」の言葉だった。早を責めるような台詞を、この青年ははじめて口にした――甘える音の響きに、早の心が熱くなる。
親しい間柄でないと、こんな口はきいてくれない。そう思ったのだ。
だが喜んでいる場合ではない。早は息をしっかりと吸った。
「あなたがた姉弟のやることに何も口出しはしない、と決めたからです」
答えると、樹生は前を向いたままだったが、口を僅かに引き結んだ。
「この件に関しては、徹底的に傍観者を貫こう、と惣先生と決めたからです」
「おれを引き取ったのに?」
「あなたを引き取ることとは別の問題と捉えました。私と夫は、あなたのお父さんには残念ながら親の務めを果たせない、という結論を出していました。お母さんや茉莉さんに暴力をふるっていたような人ですからね。……そこを繋げてしまうと、私たちはあなたをどっちつかずで育ててしまうことになった。それは、避けたかったんです」
「……」
今度こそ樹生は黙った。感情の整理がつかないのに、運転はぶれない。樹生のよいところだと思う。
早はようやく、今日の目的を語ることにした。実はこれを話すのにタイミングを計っていたし、緊張もしていたのだ。心臓がばかみたいに痛い。思春期の胸の高鳴りみたいに、痛い。
「直生さんのことではなくて、あなたのお母さんのことを、話します」
樹生は「え?」と助手席の早を見遣り、慌てて視線を前に戻した。
「早先生は、母を知ってるんですか?」
「小さい頃のことは知りませんよ。私があなたのお母さん――美藤さん、を知ったのは、あなたのお父さんの披露宴の式のことでしたし、その後惣先生と結婚に至ったころぐらいでしょうかね、まともに話すようになったのは。惣先生と結婚する時にね、美藤さんからsomething fourになぞらえて白いレースのハンカチを借りて、それをポケットに忍ばせて写真を撮ったんですよ。幸せな人から借りたものを身に着けると幸せになれる、という習慣を真似たんです。言い出したのは、美藤さん」
そのハンカチはきちんと洗ってアイロンをかけ、返した。事故当時、美藤の鞄の中からそれが出て来たことも思い出す。美藤の遺体を焼くとき、棺に一緒に入れた。
「縁、というのは、奇妙なものだと思います」
早は少しだけ窓を開けた。穏やかに温んだ風が車内に滑り込んでくる。
「私が惣先生と知り合って結婚したのは偶然です。惣先生の教え子にあなたのお父さんがいたことも偶然です。お父さんが夏居さんの息子さん――嘉彦さん、と同級生だったことも偶然です。いろんなことが重なった縁だと思ってください」
窓の外からふわっと春が香った。南風の匂いだ。
「夏居嘉彦さんのお父さん――巌さんは、あなたの母方のおじいさんです」
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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