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風呂を沸かしている間にシャワーを浴び、湯が溜まった浴槽に浸かった。引っ越しを考える。暁登はもう戻らないのだったら、ひとりにはこの部屋は広い。もっとコンパクトで綺麗で風呂は立派なところに引っ越すかな、と考えて、掌ですくった湯をざばりと顔に当てて頭を振った。
「……ひとりは、嫌だ」
呟いた言葉は浴室で少し膨らんだが、どこにも漏れず誰にも聞かれず床に落ちた。落ちて排水溝に流れる。ひとりは、嫌だ。だからってこれから新しく誰かを探す気にもなれない。恋がしたいんじゃない。樹生が守り、或いは樹生に寄り添ってくれる人が欲しいのだ。
これから先、暁登のいない生活を送ろうなんて、考えたくない。
――だったらもう、答えは出ている。
あまり長湯も出来ずに樹生は風呂を上がる。簡単に衣類を身に着け脱衣所から出ると、キッチンに背をもたせて暁登が立っていたので驚く。夢を見ているんじゃないかと思ったぐらいだ。暁登は腕組をし、樹生の姿を確認すると鋭い眼を向けて来た。
「あき、」
呼びかけると、暁登はもたせていた背を真っすぐにして、樹生を正面から捉えた。さっぱりと短くなった髪と、セミフォーマルみたいないでたちが慣れない。自分はといえば中途半端な格好で髪も濡れている。間抜けにもほどがある。
「鍵、返しに来た」と暁登は言う。ポケットから銀色の鍵を取り出すとそれをローテーブルの上にパチッと置いた。
「それだけ」
じゃあ、と去る背中に咄嗟に「あき」と声を掛けた。暁登は振り向く。思い切り睨まれたが、「なに?」と口をきいてくれたので、少しだけほっとする。
「……元気にしてるって、聞いた」
「誰から?」
「早先生」
暁登の目は醒め切っていたが、それでも「そう」とだけ彼は答えた。
いま。
いま言わなければならない。
樹生がいままで暁登に言わずにいたことを、全部。
秘密にしていたことを、全て。
「ちゃんと話そうと思うんだ。……けど、なにから話したらいい、」
声はこわばって震えた。こんなに震えてまで身を晒して誰かを引き留めようなんてばかみたいだと思ったら、心の底からこの秘密を告げることが嫌になった。
それでも言わねばならない。
「色々、あるんだけどまとまらない。だから何から話したら」
「あのさ、」
言葉の途中で暁登が口を挟む。「それ、おれが今日ここに来たから話そうとしてるんだろ」
「……」
「おれが今日ここに来なかったら、一生話さなかっただろ、おれには」
そんなことない、と言いかけて、口を噤んだ。うまく言葉を見つけられない。
「ここ何か月か、出て行った後なんの連絡も寄越さなかった」
「……」
「そういうことだろ」
「……」
「間際になって急に惜しくなって、ジタバタしてるだけだ、あんたは。本当はおれがいなくても、平気」
じゃあ、と暁登は背を向ける。だが数歩進んだ玄関で彼は振り返った。
「――おれの気持ちは変わんないよ。あんたを尊敬している。あんたを信頼している。あんたは、格好いい人だと思う。そういう人に、……おれも信頼されたかった。されなかったから、淋しくて、悲しい」
それだけ言って、暁登は靴を履いた。玄関のドアノブに手をかける、その背中に「平気じゃないよ」と樹生は言った。どうか留まってくれと思いながら言った。それは自分でも驚くぐらいの低く大きな音だった。
暁登は扉の方を向いたまま動作を止める。
「暁登の言う通りかもしれない。失う間際になって急に惜しくなってあがいている。……でも、平気じゃない。平気なわけ、ないよ」
「……」
「おれが話さなかったことを全部いま、暁登に話したら、暁登は満足するか? 信頼された、って、思える? 話さないからって、暁登のことを蔑ろにしているわけじゃない。むしろ知らないで欲しかったこともある。暁登は、……そうやってなんのことにも思い煩うことなく、ただ笑って傍にいて欲しかったんだよ」
心臓が痛い。
「傍から見れば相当に壮絶で最低で可哀想なやつなんだってさ、おれは。一晩じゃ終わんない話だ。そういうのと暁登を、切り離しておきたかった。暁登を離しておくことで、……おれもそういう過去から、離れたかった」
「……」
「一から全部根絶丁寧に、過去の話を蒸し返せって言うなら、そうするよ。ただそれは、おれの本意じゃない。ほんと、……どうしたらいいのか分かんないんだ」
そう言って、樹生は全身に疲労を感じて、思い切りよくソファに沈んだ。情けない。格好悪い。みっともない。最低で最悪だ。
暁登に嫌われても仕方がないのに、暁登はまだ樹生に信頼を置いてくれている。それが嬉しくて、辛い。
暁登はしばらく立っていた。出て行く気配がない。樹生は泣きたいような気持でいて、涙は出なかった。煙草を吸いたい。
「樹生、着替えろ」
そう言っていつの間にか玄関を上がって来た暁登に腕を取られた。樹生はその行動が意外で顔を上げた。
「着替えて、おれのうち、行こう」
「え?」
「実家」
樹生に選択の余地はないようだった。暁登は強い瞳でこちらを見る。
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それからはもう照れも臆面もなく、朝も昼も夜も暁登に情をアピールした。仕事があれば朝と夜の挨拶をスマートフォンのメッセージで、休みの日は暁登を誘ってあらゆる所に出掛けた。とりわけよくしたのはドライブで、行き先は様々だった。天候に悩まされた時は近所のカフェや食堂に行った。会う度に暁登を愛しく思う気持ちが募り、心の中では毎回パレードでもしているような高揚した気分だった。
春になる前に、二回目のセックスをした。樹生の部屋だった。寒くて家から出たくなくて、なによりも恋しくて、肌を求めた。
火が熾れば炎が上がる。とぼっていた情熱は燃えさかり、二度目が終えると飽きず懲りず、すぐに三回目をした。覚えたての中学生のような貪欲さで耽る。四回目で挿入に至った。暁登は痛いと言って身を捩ったが、やめろとは言わなかった。
春が来て雪が解けた頃、遠出をした。樹生の運転で海を見に行った。春の行楽シーズン、どこも混雑していたが、かろうじて見つけたパーキングに車を駐めて、モノレールに乗った。モノレールの中からは海がよく見えた。
モノレールの終着駅は海が近かったので、降りて浜辺を歩いた。その時、樹生はようやく「付きあいませんか」と言った。
暁登は鋭い眼差しを向けたが、樹生はもう怯まなかった。
「おれのところに来て、一緒に暮らしませんか」
「……」
「抵抗があるかもしれないけど、おれはきみといたい」
しばらく黙った暁登は、考えてから「金がない」と言った。
「定職っていう職には就いてないし、貯金もろくにない。家を出られるのは嬉しいけど、岩永さんと暮らすのは、なんか、キセイみたいになると思う」
「キセイ?」
「寄生。寄生虫の寄生」
そういうのはもっとふてぶてしい奴がなれるものだ、と思ったが口にはしなかった。それに樹生にとってそれはどうでもよいことでもあった。暁登に求めているのは単なるルームメイトじゃなく、友達でもなく、恋人だったからだ。
「おれと暮らすのは嫌?」と訊くと、暁登は細い目を少し大きくして、目線をそっと逸らした。
「……分かんない。誰かと暮らしたことがないから、」
「嬉しい気持ちには、ならない?」
「……」
暁登は立ち止まり、海の方向を向いた。春の凪いだ海が光っている。「塩谷くん」と呼ぶと、暁登はくるりと踵を返して元来た道を辿り始めた。
砂の上をすたすたと足早に歩く。樹生は追いかける。暁登の名を何度も呼ぶが、暁登は振り向かないし止まらない。
歩幅を大きくして暁登に近付き、その腕を取った。力の差は樹生の方が体が大きい分だけ勝っていた。「待って」と言って立ち止まらせる。
「なあ、逃げるな」
「……」
「逃げないでよ……」
祈りを捧げるように、樹生は暁登の手を掴んだまま上体を折った。ふ、と強張っていた暁登の力が抜ける。顔を上げると、暁登の真っ直ぐな視線とぶつかった。瞳が赤く滲んでいた。
ぷい、と暁登はそっぽを向いた。小さくか細い声で何か言うが、波音と風音にかき消されてうまく聞き取れない。
訊ね返すと、耳を真っ赤にしながらも暁登は「嬉しい」と答えた。
「おれは岩永さんを尊敬してて、あんたみたいになりたいと思ってるから」
「……」
「そんな人とこんなに近くにいて、っていうのが異常なのに、まだ近くにいられるって思ったら」
嬉しい、と言って暁登はうなだれた。まるで絶望してるかのような仕草に胸が絞られる。この青年は喜びながら悲しんでいる。その事がいじらしくて、息が詰まって苦しかった。
それで、その日から二人で探せる住居を探した。その住居が今のアパートだ。一刻も早く、と焦って探した物件だったのであまり数を選んで検討せず入居した。結果、不都合は後から多数出たが、暁登は笑っていたのでいいと思った。
そう、ここで暮らし始めたころ、暁登は嬉しそうだった。いつも笑っているのがよかった。
→ 74
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十. 秘密
暁登の痕跡は、ある日唐突に部屋から消えた。どうやって知るのか、樹生の留守の日を狙って自分のものを持ち出したらしい。元々、多くのものを暁登は持たなかった。暁登の持っていたもので一番大きなものは寝具一式だっただろうし、大半を占めていたのは本だった。その他で衣類や食器類が少しあるだけ。当面に必要なものだけ持って出て行ったはずの暁登だったが、ようやくというのか、帰宅したら綺麗になくなっていた。五月のはじまりの日だった。
こういう風に人が離れることもあるんだな、と思ったがそこに感傷は含まれなかった。現実を見た、という方が正しい。当たり前だ。樹生からはなんの行動も起こしていない。引き留める努力もしていないのに去るなという方がおかしなことだ。
ただ、そこに樹生が納得しているかどうかは別の話だ。
テーブルの上に封筒が置かれていた。封筒の中を見ると、いままで折半で出し合っていた生活費がきっちり入っていた。手紙のひとつもない。離婚届みたいだなと思ったら笑えて、即座に虚しくなった。スマートフォンを手にし、暁登に電話をしようとして、やめた。出ない気がした。
暁登は樹生との仲を清算した。彼なりのけじめをつけて出て行った。そんなに簡単に人と人との仲を割り切れるものかな、と思ったが、こうなっている以上はそうなのだろう。暁登の方に樹生への未練はないということだ。
服を脱ぎ、風呂に入る準備をしながら樹生は暁登と再会した頃のことを思い返した。再会の頃、というよりはその後のこと。体を交じらわせて逃げられた、その後のことだ。
あの時、さっといなくなった体が惜しくて惜しくて、樹生は起きてすぐに暁登のスマートフォンに電話をかけた。はじめ、暁登はなかなかすぐには出てくれなかった。しつこくかけ直してようやく暁登が電話に出たのは、日もとうに暮れて月が中天にかかる頃だった。
いまどこ、と訊くと、実家の自室だという。安堵してから、いないから焦った、と伝えた。
「――平気?」
『何が?』
「……その、体とか」
訊いてみたものの、その質問は自分でも意図が分からないなと思った。適当に訊いたことを詫び、本心を伝えた。樹生は、淋しかった。
『――おれは、全然淋しくないです』
暁登の答えは冷ややかだった。
『元々、一人の方が好きだし、』
だがそのうち言葉は窄む。言い詰まった暁登に、いますぐ会いたいと思った。無性に会いたい。会ってどうするのかはその時の感情が衝動を起こすだろう。とにかく会いたかった。
「お互いさ、言葉遊びみたいなことは、やめよう」
そう言うと、暁登は電話の向こうで『言葉遊び』と怪訝に聞き返して来た。
「言葉だけじゃ伝わらない感情はたくさんあるってこと」
『……よく分かりません、』
「うん。会いたいよ」
脈絡もなくストレートに伝えた言葉は、きちんと暁登に伝わったと、その後に続いた暁登の無言で察した。
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こういう風に人が離れることもあるんだな、と思ったがそこに感傷は含まれなかった。現実を見た、という方が正しい。当たり前だ。樹生からはなんの行動も起こしていない。引き留める努力もしていないのに去るなという方がおかしなことだ。
ただ、そこに樹生が納得しているかどうかは別の話だ。
テーブルの上に封筒が置かれていた。封筒の中を見ると、いままで折半で出し合っていた生活費がきっちり入っていた。手紙のひとつもない。離婚届みたいだなと思ったら笑えて、即座に虚しくなった。スマートフォンを手にし、暁登に電話をしようとして、やめた。出ない気がした。
暁登は樹生との仲を清算した。彼なりのけじめをつけて出て行った。そんなに簡単に人と人との仲を割り切れるものかな、と思ったが、こうなっている以上はそうなのだろう。暁登の方に樹生への未練はないということだ。
服を脱ぎ、風呂に入る準備をしながら樹生は暁登と再会した頃のことを思い返した。再会の頃、というよりはその後のこと。体を交じらわせて逃げられた、その後のことだ。
あの時、さっといなくなった体が惜しくて惜しくて、樹生は起きてすぐに暁登のスマートフォンに電話をかけた。はじめ、暁登はなかなかすぐには出てくれなかった。しつこくかけ直してようやく暁登が電話に出たのは、日もとうに暮れて月が中天にかかる頃だった。
いまどこ、と訊くと、実家の自室だという。安堵してから、いないから焦った、と伝えた。
「――平気?」
『何が?』
「……その、体とか」
訊いてみたものの、その質問は自分でも意図が分からないなと思った。適当に訊いたことを詫び、本心を伝えた。樹生は、淋しかった。
『――おれは、全然淋しくないです』
暁登の答えは冷ややかだった。
『元々、一人の方が好きだし、』
だがそのうち言葉は窄む。言い詰まった暁登に、いますぐ会いたいと思った。無性に会いたい。会ってどうするのかはその時の感情が衝動を起こすだろう。とにかく会いたかった。
「お互いさ、言葉遊びみたいなことは、やめよう」
そう言うと、暁登は電話の向こうで『言葉遊び』と怪訝に聞き返して来た。
「言葉だけじゃ伝わらない感情はたくさんあるってこと」
『……よく分かりません、』
「うん。会いたいよ」
脈絡もなくストレートに伝えた言葉は、きちんと暁登に伝わったと、その後に続いた暁登の無言で察した。
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ふと思いついて、樹生は巌に嘉彦のことを尋ねた。
「知ってるんですか? 父親によそで作った子どもがいること。その子どもが大学の同級生と結婚して、子どもを産んでいること」
「さあな、知らんだろうとは思う。おれの妻はうすうすは知っとったとは思うが、ちゃんと話したこともない」
ふたりでゆっくり歩いていると、前方から男が歩いてきた。嘉彦だ。「親父」と呼ぶ。
「部屋覗いたら草刈さんひとりだったから驚いたよ」
「ちょっと散歩がしたくなったんだが、あのばあさんには足が痛いからおふたりでどうぞと断られてな」
巌がしれっとついた嘘に、樹生は内心で狸め、と思う。いや、狡猾なのだから狐か。よく知らないけれど。
「まあいいよ」と嘉彦が言った。
「ジュニアが来たら見せてやろうと思って、花見客に手間取られて忘れてた。写真を見るか?」
「え? おれですか?」
「おまえだよ、岩永ジュニア。岩永がうちの旅館に遊びに来た時の写真があるんだ。学生時代だから、もうン十年前だけどな。見ろよ、おまえにそっくりだから」
「……父の昔の写真って、他にもあります?」
「あー、探せばあるかな?」
「なら、見たいです」
と嘉彦に告げる。嘉彦は「お」と目を丸く開いたが、すぐににやりと笑って「いいぜ」と答えた。
「両親のこと、おれはあんまりよく知らないんです。あと、早先生と惣先生のことも実はそんなに。だから、よければ話してもらえませんか? 部屋に戻って、みんなで、花でも見て」
そう言ったら、巌が大きな声で笑いだした。よく響く快活な声で、こいつあと何十年は元気なんじゃないかと樹生は思った。自分の方が早死にしそうだ。
「じゃあおまえ、嘉彦と一緒に『みよし』に行って団子でも買って来い」
巌は笑いながら樹生に言った。
「『みよし』?」
「すぐ近くにある和菓子屋だ。ここの団子は美味い。花見なら、団子だろう。嘉彦、連れてけ」
「よし、じゃあ行くか、ジュニア」
それで老人とは別れて嘉彦とふたりで別の方向へ歩き出した。もし父親が生きていて樹生の隣を歩く機会があったとすればこんな感じかと思ったが、その想像はすぐに消した。樹生にとって父は亡くなった早の夫、惣先生。それだけでいい。
嘉彦が「ジュニアは聞く気がないんだと思ってた」と言ったので、なんのことか分からなかった。
「え?」
「岩永のことだよ。岩永は病気で死んじまって、おまえさんはほとんど草刈さんところで育った、っていう境遇なんだろ? だから教えてやろうと思ったのに、草刈さんがやめとけって言うから」
「いや、……別に、」
樹生は今更だけど、暁登のことを思う。
「話したいと思う人がいるんですよ」
「親のことを?」
「そうですね。色々と」
嘉彦は「ふうん」と頷いたが、それだけだった。やがて古い材木に「みよし」と書かれた看板を目線の先に見つけた。
「知ってるんですか? 父親によそで作った子どもがいること。その子どもが大学の同級生と結婚して、子どもを産んでいること」
「さあな、知らんだろうとは思う。おれの妻はうすうすは知っとったとは思うが、ちゃんと話したこともない」
ふたりでゆっくり歩いていると、前方から男が歩いてきた。嘉彦だ。「親父」と呼ぶ。
「部屋覗いたら草刈さんひとりだったから驚いたよ」
「ちょっと散歩がしたくなったんだが、あのばあさんには足が痛いからおふたりでどうぞと断られてな」
巌がしれっとついた嘘に、樹生は内心で狸め、と思う。いや、狡猾なのだから狐か。よく知らないけれど。
「まあいいよ」と嘉彦が言った。
「ジュニアが来たら見せてやろうと思って、花見客に手間取られて忘れてた。写真を見るか?」
「え? おれですか?」
「おまえだよ、岩永ジュニア。岩永がうちの旅館に遊びに来た時の写真があるんだ。学生時代だから、もうン十年前だけどな。見ろよ、おまえにそっくりだから」
「……父の昔の写真って、他にもあります?」
「あー、探せばあるかな?」
「なら、見たいです」
と嘉彦に告げる。嘉彦は「お」と目を丸く開いたが、すぐににやりと笑って「いいぜ」と答えた。
「両親のこと、おれはあんまりよく知らないんです。あと、早先生と惣先生のことも実はそんなに。だから、よければ話してもらえませんか? 部屋に戻って、みんなで、花でも見て」
そう言ったら、巌が大きな声で笑いだした。よく響く快活な声で、こいつあと何十年は元気なんじゃないかと樹生は思った。自分の方が早死にしそうだ。
「じゃあおまえ、嘉彦と一緒に『みよし』に行って団子でも買って来い」
巌は笑いながら樹生に言った。
「『みよし』?」
「すぐ近くにある和菓子屋だ。ここの団子は美味い。花見なら、団子だろう。嘉彦、連れてけ」
「よし、じゃあ行くか、ジュニア」
それで老人とは別れて嘉彦とふたりで別の方向へ歩き出した。もし父親が生きていて樹生の隣を歩く機会があったとすればこんな感じかと思ったが、その想像はすぐに消した。樹生にとって父は亡くなった早の夫、惣先生。それだけでいい。
嘉彦が「ジュニアは聞く気がないんだと思ってた」と言ったので、なんのことか分からなかった。
「え?」
「岩永のことだよ。岩永は病気で死んじまって、おまえさんはほとんど草刈さんところで育った、っていう境遇なんだろ? だから教えてやろうと思ったのに、草刈さんがやめとけって言うから」
「いや、……別に、」
樹生は今更だけど、暁登のことを思う。
「話したいと思う人がいるんですよ」
「親のことを?」
「そうですね。色々と」
嘉彦は「ふうん」と頷いたが、それだけだった。やがて古い材木に「みよし」と書かれた看板を目線の先に見つけた。
腰を屈めて歩く老人の隣を行くことにした。旅館は川沿いに建っているので、川に並行する遊歩道まではすぐだ。確かに柳の木が芽吹いていたが、樹生はその新しい若葉に興味が持てない。黄緑色だなと思う程度だ。
ゆっくり地面を踏む。言葉をもう、探さないとこにした。何か用件があったら巌から話すだろうと思った。樹生は確かに両親を亡くしたが、それが不幸だったわけではない。淋しいことに、むしろラッキーだった。いい人達に育てられて、とりあえずなんとか食いっぱぐれないように生きている。
巌は「すみれ、と言ったんだ」と、川縁に咲いた紫色の花を見て言葉を漏らした。
「――え?」
「おまえのばあさんの名前。知ってるかどうか分からんが、うちは女には花の名前を貰うんだ、と言っていた」
「すみれ?」
「そうだ。生まれた女児には初め『藤』と名付けたが、おれが『美』の字を当てさせた。だから、美藤」
あそこにもうじき咲く、と巌は杖で指し示す。先は家の軒先で、鉢植えの藤が立派な幹を見せていた。
「おまえの姉は『茉莉』と言ったな」
「ええ」
「くさかんむりの女の子で、おれは嬉しかった」
「……茉莉の娘二人は、それぞれ『藍』と『茜』と言います」
「美人か?」
「そりゃもう。魔女の血が濃いので」
そう言うと、老人はくつくつと愉しそうに笑った。「すみれの血だ」と言う。「あいつは恐ろしく綺麗な女だった」
「写真とか、ないんですか」
「ない」
「藍や茜の写真、見ます?」
「あるのか」
「ずっと前に撮ったやつが多分、スマホに。二人とも今はもううんと成長して、大人びましたが」
藍の七五三の祝いの時に皆で撮った写真があったと思う。樹生はスマートフォンをポケットから取り出そうとして、それを忘れて来たことに気付いた。上着のポケットに入れたまま、早のいる部屋にある。
巌は「いい」と言った。
「今度はみんなで来い」
「……」
「おまえも、茉莉も、藍も、茜も、草刈のばあさんも、みんな連れて来い」
「……それは、夏居さんが会いたいからですか、」
「そうだな。会いたいと思うようになった。いまは昔よりずっと死に近い所にいるからか。おれも脆くなった」
「今まで散々放っておいたのに、」
「そうだな」
悪びれずに老人は言った。それを聞いて樹生は、この老人に遠慮はいらないのだと悟る。
「そんなの、おれも茉莉もお断りです」
巌が立ち止まったので、樹生も立ち止まった。
「特に茉莉なんか、一番嫌いでしょうね。あの人は嫌なことは嫌、とばっさり捨てます。死ぬ前に一目見たいとか冥途の土産に会っておきたいとか、そういう『情』は残念ながらおれにはないし、姉にはもっとないです。おれたち姉弟が一番嫌いなやつ」
樹生はその場にしゃがみ込み、そこらに生えている草に触れた。ハコベやオオイヌノフグリ、タンポポもある。
「同情するのもされるのも嫌なんです。関わってこなかったんだから最期まで関わるな、勝手にどうぞと、姉ならもっと酷い言葉で言うでしょうね」
「そうか」
「はい」
樹生はしゃがんだまま空を仰いだ。老人は遠くを見ていて、樹生の方は向かなかった。
「茉莉は、あなたのことは知らないんですよね」と確認しなおす。巌はそっぽを向いたまま「草刈が言ってないなら知らんだろう」と答えた。
「おれは草刈からよくおまえたち姉弟の話を聞いていたが、草刈には口止めをした」
「だったらそのまま放っておいてください」
「……」
「茉莉はいま、微妙な境地にいます。おれ以上に彼女の生い立ちは不幸なんだと思う。やっと復讐が果たせたってところで、でもそれも後味の悪い果たし方だったんで、彼女の今後は気になる。これ以上混乱を与えることは避けたいわけです。でないと、今度はあなたが茉莉の標的になりかねない」
「ほったらかしの祖父だと言って、か」
「そもそもの不幸はおまえにある、とでも、茉莉は平気で言いそうです」
樹生は立ち上がり、伸びをする。いい風が吹いている。少し汗ばむぐらいの陽気だ。
「戻りますか」
そう聞くと、老人は諦めたように頷く。そうして道を引き返し、しばらく無言でゆっくりと歩いた。
→ 71
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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