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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 身長は思うようには伸びなかった。
 晩通孝(ばん みちたか)は十四歳で自分の限界を見た。身体測定の結果に目を通し、溜息をつく。そこに記されたグラフは入学当時から少しずつ伸びていたのだが、ついに止まり、定規で引かれた線はただの横棒になっていた。下降しないだけ正常だという程度。
 通孝の父も、祖父も、背はあまり高くない。だから自分が高身長になる夢は早くから諦めていたとはいえ、せめて165cmまで伸びたかったな、と通孝は溜息をつく。グラフに記された身長は161cm。あまりにも小さい。だがもうこれ以上伸びたりはしないだろう。
 野球部の齊藤は入学当時は一番前に立っていた程のチビだったのに、今では通孝を超している。剣道部の秦も、陸上部の前田もそうだ。運動部の方が伸びがいいんだろうかとも思ったが、吹奏楽部の竹中もぐんと背が伸びて、チューバなんて大きな楽器を吹きこなしている。生徒会書記の須田。あいつは特に部活動なんてしていないのに背が高くて羨ましい。
 あとはあいつ。同じクラスの岩永直生(いわなが なおき)。
 二学年から三学年に進級する際に、クラス替えがあった。そこで通孝は初めて岩永直生と接点が出来た。一学年だった頃にはあまり覚えがないのだが、二学年が終わる頃には直生はわりと有名人になっていた。とにかく背が高いのだ。先に挙げた野球部のうんたらとか吹奏楽部のどうたらとか、そやつらよりも更に高い。拳ひとつかふたつ分くらいはゆうに越えるだろう。
 だったら自分と比べてしまうとどれだけ違うのか。知るのが恐ろしい。拳ひとつかふたつ分くらいこちらにくれないだろうか。そうなったら平均化して、悩みがいくつも解消しそうだ。
 通孝の所属するクラス――三年二組、の名簿は「あ」の生徒がおらず、「い」で始まる。「いわなが」なので彼がいちばん前だった。座席のいちばん前を学年でいちばん背の高い奴が座るのだ。新しく担任になった鳥飼(とりかい)という若い女性教諭は、新年度が始まって最初の学活の時間、教室に入るやいなや、ふ、と笑った。笑って、「直生さん、さすがですね」と声をかけた。あれは教師の間でも直生の高身長が知れているということなのだろう。
 中学三年生という学年。義務教育課程の最終学年であり、大抵の者は受験生という身分になる。試験の結果と普段の素行がいよいよ重要視されてくる。学年順位がどうとか、課外活動での評価がああとか。そんなことよりも通孝はとにかく身体測定の結果の方が残念でならない。こんなところで止まりたくないのに、入学したときからの僅かな伸びは、とうとう通孝から消えた。
 結果の記された用紙を鞄に仕舞い、部室に行く。放課後、まだ新入生の部活動勧誘期間中なので、ぶかぶかの制服を着た一年生が校舎のあちこちでうろうろしていた。うちの部活の見学に来る物好きが今年はどれくらいるのかなどと思いながら、一応「部長」なので、通孝は部室として使う理科室へと歩いて行く。
 なんで山岳部が理科室なんだか。ふ、と通孝は心の中で笑う。理科室は天文部の部室でもある。というより、天文部が先に理科室を使って部活動を行っていたのに、後から出来た山岳部が間借りみたいな形で理科室を使っている。どちらも校外活動が主な部なので衝突しあわないだけだ。
 どちらの部も顧問が同じなのだ。橋本という理科教諭は天文部だけの顧問だったのだが、登山が趣味で、よく機材を抱えて星の写真を撮りがてらの一泊二日の登山に出掛けている。歴代の天文部は「星の観察」と称して橋本引率の下に登山をさせられていたという。そのことを通孝はよく知っていた。どれくらい詳しいかというと、この中学校に入る前から知っていたほどだ。
 通孝の家は、K高地に山荘を開いている。祖父が開き、今は父が経営の中心だ。K高地に山荘があるだけで家族が暮らす家はこの街にある。だが当然、K高地の山荘に行き来がないわけではなかった。
 その山荘に橋本はよく出入りしていた。客として来ていた橋本は土日のみ接客に連れ出される晩家の長男とも自然と面識が出来、さらにその長男が今度入学する学校が自らが勤務する学校だと分かったときには、えらく嬉しい顔をして「よし!」と手を打った。「じゃあ山岳部を創設しよう!」と。「天文部で山登るのも良かったんだけどな、さすがに重たい機材持って高山というのも限界があってな」と言う。そんな私的な理由から、通孝の入学と同時に山岳同好会が出来、橋本の勧誘が上手かったおかげで部員も増えていつの間にか部活動として認められてしまった。
 今年も新入部員が入るんだろうか。新入部員よりも、山に興味を持った教員らがハイハイと自ら率先して顧問に就きたがることの方が問題だ。山岳部の部員は現在五人だが、顧問は橋本を含め七人いる。主顧問が橋本で副顧問がその他の六人。教員らのサークル活動という体もあり、名を連ねてはいないが校長まで校外活動に付いてくる事もある。一部の人間に非常に人気の高い部で、おそらく家を継ぐ事になる身としては将来性の高さに安心すべきなのだが、そう呑気にも笑いたくない。通孝の性質はどちらかと言えばあまのじゃくだ。
 理科室の扉をガラリと開けると、体操着に着替えた部員らが「部長」と手を振った。紅一点・二年の伏見が近寄ってきて、「あたしたちこれから走ってきますんで」といつもの練習メニューをいくつか挙げる。
「新入生来てないの?」
「今日は来てないです。でも、部長に用事のあるような人は来てます」
「え?」
 通孝は周りを見渡す。体操着姿の山岳部員の他には、教室の半分を使って天文部がわらわらと群れているだけだと思っていた。
 伏見が「部長来ましたよー」とその群れに声を掛けると、中からひとり、男子学生がスッと立ち上がった。
 その上背を見て、通孝は用件のある人間が誰なのかを瞬時に悟る。大きいとはいえ、床に膝を突いて仲間と群れている分には背は目立たず、少年の大きさも紛れてしまうのだのその時理解した。
 立ち上がった岩永直生は、天文部に「ありがとう」と手を振り、真っ直ぐに通孝の元へやって来た。伏見が「じゃ、行ってきまーす」と他の部員を伴って教室を出て行く。
 対峙した直生を見て、やはり大きいな、と改めて思い、自分の背の小ささに劣等感を抱く。ここまで違うと滑稽だ。晩は僅かに目を逸らす。
「晩くんが部長だったって知らなかった」と直生は言った。
「晩、でいいよ。それか通孝」
「じゃあ、晩。おれは」
「岩永直生だろ。同じクラスになった奴のことなら分かるよ。とりわけ岩永くんって有名人だし」
 そう言うと直生は照れくさそうに頭の後ろをカリカリと掻いたが、「おれも岩永、か、直生、でいいよ」と言った。


→ 2



拍手[10回]

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「雄大、お疲れ。慰労会終わったか?」
「いや、抜けて来た」
「いいのかよ、今日いちばんの主役がさ」
「いいんだよ。ここ座っていい?」
 雄大、と呼ばれた青年が仁科の隣に座る。樹生はふたりのやり取りを眺めていたが、仁科が改めて「速水雄大(はやみ ゆうだい)」と青年を紹介したので、頭を下げた。
「今日走ってた張本人」
「すげー速かった人」
「そう。今日は区間新記録でびりっけつから三位に返り咲いたんだよ」
「え、まじですごい」
 パチパチと拍手をすると、速水は照れるでもなくごく自然に「ありがとう」と答えた。今日どのくらい走ったのか分からないが、疲れを感じさせない物言いに若さを感じる。だが年齢を聞いて驚いてしまった。樹生より年上だったからだ。
「えー、嘘でしょう? 絶対にまだ二十代ですって」
「変わんないんだよな、こいつ。怖いぐらい」
「でも現役でいることはそろそろやめるよ」
「……おまえ、そういう進退の話を、おいそれとするんじゃないよ」
 仁科は速水をたしなめる。樹生はふたりの会話についていけなかったが、速水の左手薬指はまった指輪を見て、同じだ、と分かった。
 揃いの指輪をつけている。
(仁科さんが異動になったときの理由、客からしつこいクレームがあったせいだって聞いた)
 速水は仁科から割り箸をもらうと、仁科が口をつけていたカレイの煮つけを食べ、「美味いな」と言って同じものを単品で注文した。それからソフトドリンクも。
(「仁科朗はゲイだから配達をさせるな。気持ち悪い。」確か、そういうクレームだった)
 仁科と速水、ふたりでいる姿は、こんなにもありきたりで、自然だ。ふたりともくつろいでいる。
(この人が、そのクレームの原因か)
 そしてすとんと納得する。仁科は確かに転勤になったが、ちゃんと年月を経ていまに至っている。
 ふたりで至っている。


 帰宅すると部屋の中に暁登がいて驚いた。テレビを見ている。ちょうどローカルニュースが放映されている時間で、昼間の市町村対抗駅伝の様子を放映していた。
「おかえり」と暁登はテレビを見たまま言った。
「早先生がおかず作りすぎちゃったからって、弁当に詰めてくれたから持って来た。明日温め直してどうぞって」
「さんきゅ」
 暁登は熱心にニュース番組を見ている。そこには速水雄大の力走する姿もあった。綺麗なフォームで、しなやかな筋肉を動かして速攻で駆け抜ける。
「この人、陸上の元・日本代表なんだって」と暁登は画面を注視しながら言った。
「なんか格好いいよな。フォームが綺麗で軽やかで、人ってこんな風に走れるんだなって思っちゃう。見惚れる」
「うん、格好良かったよ」
「え? 見たの?」
「ん、」
 イエスともノーともつかない返事で、樹生はテレビを消す。「あ?」と暁登が顔を上げた。その体を思い切り抱きしめる。
 きっと痛いだろうと想像しながらも容赦せず抱きしめながら床に押し倒す。
「おい、」
「他の男に夢中になってるなんて面白くないからとにかくやらせて」
「ちょ、意味が」
 じたばたと抵抗する体を抑え込み、うるさい口を口で塞ぐ。舌を絡ませると抵抗は収まったが、隙をついて背中を拳で思いきり叩かれた。
「いって、」
「なにがっついてんだ、ばか」
「うるさい」
「はあ?」
「いいからやらせろ」
「なにが『やらせろ』だ、こら、樹生!」
 床に転がり、力と力で苦戦しながらも、互いの境界を埋めていく。昼間見た、速水雄大の加速していくスピード。あんなふうにふたりで落っこちる。


End.


← 中編



7月12日19時追記:
明日も更新の予定でいましたがちょっと諸々間にあっていません。
次回、7月14日(土)より再開したいと思います。よろしくお願いします。



拍手[17回]


 終業するかしないかの頃に仁科がやって来た。「他の局は勝手が違うから分からないな」と頭を掻いている。
「仕事終わるならめし行かない?」
「あー、いいっすよ」
 仕事が終われば早の家で夕飯を食べる予定でいたが、連絡を入れてキャンセルにしてもらう。電話の向こうで早は「楽しんでいらしてください」と穏やかに言った。また行きますから、と告げて電話を切ると、傍で仁科はにやにやしていた。
「彼女?」と訊かれ、樹生は苦笑する。
「違いますって。親です、親」
「なんで敬語なのよ」
「色々あるんですよ」
 ふうん、と仁科は答え、「そういや結婚はまだなんだな」と言った。
「付き合ってる彼女いたじゃん」とずばり指摘された。水尾とのことだ。
「昔の話です。別れました」
「いまは?」
「まあ……仁科さんこそ、」
 と、目にちらつく銀の指輪を指して言うと、仁科も苦笑した。
「結婚したんすね」
「いや、してない。けど、してる」
「どっちですか」
「パートナーシップ協定」
「はい?」
「って言ってる。ま、色々あるんだ、おれにもね」
 お互い煮え切らないまま、職場から近いところにある店に決めて適当に入った。
 和定食の店で、ビールを飲みたいところではあったが車で来ているので我慢した。カウンター席に陣取る。出されたおしぼりが冷たくて最高に気持ちが良かった。
 ふと隣の仁科を見て、この人こんなんだっけな、と白いものが混じりはじめている頭髪や、目尻のしわを見て思う。
 年齢を訊ねると、「もう四十一だわ」と言われた。
「――えっ、四十越えた?」
「おまえだって三十路街道をひた走ってんだろ? そんなもんだよ。あーあ、懐かしいねえ。新人でおまえ入って来たころ。十代の岩永、おれもまだ二十代」
 くつくつと仁科は愉快そうに笑った。「やったら図体でかいやつが入って来たと思ってたな」
「ま、第一印象それで決まりますよね。『でかい』」
「そうそう。実際に仕事させてみたら要領はいいし覚えは異様に早いし、なんだコイツ? って」
「頼もしい後輩だったでしょう?」
「まーな。……あの集配局は職場の雰囲気良かったよな。上司の人望だよな、あれは」
「仁科さん、そろそろ昇進したりしないんですか?」
「どうだろうな。おれは自分が楽しいようにのらくらやってるだけだから、出世はまあ、特に期待してない。おまえこそあっという間に昇進しそうだけど。集配のリーダーよりもっと上のやつ」
「金は欲しいですけど、勘弁願いたいですね」
 誰それは退職したとか、どこそこのあいつは転職しただとか、そんな内輪の話をしているあいだに料理が運ばれてきた。仁科はカレイの煮つけの定食で、樹生はミックスフライ定食だ。食べながらまだ話は尽きない。楽しい席だったが、ひとつ引っかかっていることがあった。
(確か、仁科さんって)
 それを訊ねようかやめるか迷っているとき、カウンターの内側から女将が「いらっしゃいませ」と新規の客をもてなす。つい振り向いてしまったのは、隣の仁科が振り向いて手をひらひらと振ったからだ。
 カウンター席へまっすぐやって来た男は、「朗」と仁科を呼んだ。Tシャツにジーンズといういでたちだったから気付くのが一瞬遅れた。
 昼間、道路をものすごい速さで駆け抜けていった、あの青年だった。


→ 後編

← 前編



拍手[16回]


 配達に出た矢先に、通行止めにぶつかった。
 市町村対抗駅伝だとかで、そういえばこの時間からこの時間まではどこそこの道路が通行止めになると前もって知らされていたが、日々の忙しさにかまけてそのことをすっかり忘れていた。もっと直前に指示されていたら覚えていたのにな、と頭の中で改めて今日の配達の道順を組み立てなおす。配達する家の順番でバイクの荷を組んであるので、あまりにもこの通行止めが長引くようなら一度集配局に戻った方がいいだろうか。
 情報収集が先かと思いつく。ちょうどよく車の影がなかったので通行止めの道路のぎりぎりまで近づき、先で交通整理をしている警察官にこの通行止めがどのくらいかかるものなのかを訊ねた。
 警察官は「一時的に止めているだけですよ」とにこやかに教えてくれた。
「ちょうど選手が通過するので止めているだけで、ある程度選手が去ったら順番に道を通します」
「選手の通過に時間がかかりますか?」
「そんなには。いまこの集団が通り過ぎたら、通すと思います」
 ならばさほどのロスにはならないだろうと踏む。そのまましばらく待つことにした。
 沿道はそこそこの人出で賑わっており、時折「がんばれー」という声や拍手が聞こえた。樹生自身も時折、ストレス発散の意味合いで走ることはあるが、生身の人間が走る、それを客観的にはあまり眺めたことはなかった。興味深い気がして、選手を観察する。結構な速度で走っていることに驚く。ここの道路はわずかだが傾斜があり、選手からすれば上り坂だが、ものともせず駆けて行く。
 テレビなどで大学駅伝や都道府県駅伝などを見る機会はあった。わりと好きで、やっていれば見てしまう。あれはずっと中継車が選手を追いかけてくれるからドラマを見ている感覚に陥る。沿道で旗を振りながら声援を送る行為自体は、選手の通過は一瞬で終わるので、なにが楽しくて応援に行くのかね、ぐらいに思っていた。
 だがいま目前を走っている生身の体は、しなやかに逞しく、アスファルトを蹴り飛ばしてびゅんびゅん進む。案外、重たい音がすることに気付いた。テレビではさほど音声を拾わないので気付かないことだ。選手が何キログラムの体で走っているのかまでは知らないが、それでも肉の塊が地面を蹴り出し、前進し、着地してまた進む。それに音が伴わないわけがないのだと分かる。テレビの画面の中ではまるでぽんぽんと弾む毬みたいに軽やかに見える選手たちも、実は体重があること、筋力を使って前を進むことを、確かな迫力で知らされて軽く衝撃を受けた。
 選手があらかた通り抜けた。警察官が目でサインを寄越したのでこれで通すかと思いきや、後方から凄まじいスピードで駆けてくる選手がひとりいた。先ほどまでこの付近を通過していた選手らと明らかに速度が違う。「羽根が生えているかのような」軽やかさで、でもきちんと量感を伴って、やって来る。警察官が樹生にもう少し待て、のサインをした。沿道の皆がみな、この選手に釘付けになっているような、そういうアトラクティブな選手だった。
 沿道からひときわ大きな声で「ゆうだいーっ!」と声援が響く。呼ばれた選手はそちらを見て、ふっと笑ってみせた。その笑みがあまりにも爽やかだったので、どきりとして樹生は笑みの方向を見た。誰が叫び、誰に笑顔を向けたのか、気になったのだ。
 そこには知っている顔があった。笑みを向けられた本人も同時に樹生に気付き、ふたりで「あ」と声をあげた。
「――仁科さん、」
「相変わらずでっかいなあ、岩永」
 人混みをかき分けて男が樹生の傍までやって来る。樹生がまだ非正規雇用社員だった頃に世話になった人で、いまは別の集配局で配達員をしているはずの男、名を仁科朗(にしな ろう)と言う。
「いま叫んだの、仁科さんでした?」と訊くと、仁科は一瞬だけ顔を素にしてから、やわらかく笑った。
「そうだ。あいつ、知りあいでさ」
「ひとりだけ猛スピードで行きましたね」
「前のたすきを持ってた中学生が途中で転倒して順位を大幅に落としちゃってさ。それを挽回するって腹積もりなんだろうな。ま、あいつにはたやすいでしょう。熱いけど、冷静だから」
 よっぽど熱心に応援しているのか、仁科の言い方に特別な親しさが滲んだ。それを聞いてなんだか腹の奥にずしんと重たい温みが沸いた。ぼんやりしていると、交通整備の警察官が「もうじき通します」と言うので、樹生は慌ててバイクのハンドルを握りなおす。
「あ、悪い、仕事中だったな」
「仁科さん、良ければうちの職場に顔出してきませんか?」
「あー、そうだな」
 仁科は腕時計を見る。
「じゃあ、終わったら寄るわ。えっと、この辺の集配区ってW局だったよな」
「そうっす」
「気をつけて配達に行きな」
 お疲れさん、と仁科は樹生に軽く手を振る。警察官が道をあける。樹生は沿道を歩く人に注意を払いながら、バイクを発進させた。


→ 中編


いまさらですがカウンター100万歩達成のお礼(のつもり)です。



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十一.嫌いじゃない



 梅雨寒の日がある。他地域であまり暮らした経験がないので分からないのだが、この辺の気候では、梅雨入りした中で雨がざあざあと降りしきって寒い日がある。肌寒いで済めばいいが、耐えかねて灯油の芯出しストーブを焚いてしまうぐらいの寒さの日だ。
 梅雨の日にストーブを焚くのはメリットもある。何日も雨続きで乾かない洗濯物を乾かせるし、かび臭く湿気た室内を乾燥することも出来る。小さなストーブでも効果大だ。冬の残りの灯油をこの梅雨寒に使う。
 早は台所のテーブルに裁縫道具を広げて繕い物をしていた。広い家の中に作業台として使えるテーブルはいくつかあるのだが、なんだかんだここのテーブルが一番コンパクトで使いやすい。ブラウスのボタンが取れてしまったのでそれをつけ直す。上から二番目のボタンで、取れたボタンは紛失してしまったのだが、廃棄する衣類から外したボタンを入れている缶からちょうどよさそうなガラスのボタンが出て来た。ファッションのアクセントになるかなと思い、それをつけている。あとは少し前にやって来た樹生にズボンの裾上げを頼まれていたのでそれもする。いわく「制服のスラックスが傷んだので新しく交換してもらったんだけど、若干裾が長くて」ということだ。測ってみたら本当に若干だったが長かった。長身の樹生はむしろ裾が短い方が当たり前だったので、制服の幅の広さに感服する。どんな体格の人が身につけても対応出来るようデザインされているのだろうか。
 岩永樹生は最近、甘えてくるようになった。
 以前だったら一刻も早く家を出て、早たち夫婦の手を煩わせたくないというどこか借り物の気持ちが見えていた。出来ることは自分でやったし、出来なければ聞いて自分で出来るようにする、それが岩永樹生という男だった。要領がよく理解力もよかったので大抵のことは出来てしまっていた。樹生が十八歳でこの家を出たとき、もしかしたら彼は今後あまり関わりを持とうとしないのかもしれない、と予感したぐらいだ。
 それは少し当たって、少し外れた。連絡はくれたしこの家にもやって来たが、それでも頻繁という訳ではなかった。それが最近は違う。意識が変わったのか、なんなのか、早の元を以前よりは頻繁に訪れるようになった。訪れては昼寝だけして帰る時もあるし、買い物に付きあってくれる時もある。
 早にとっては嬉しいことでもあった。ひとり暮らしは気ままで楽しいが、誰かにいて欲しくない訳ではない。人の存在は安心する。とりわけ、夫と苦労して育てた子ならば尚更だ。
 スラックスの裾上げをしていたら廊下の奥の方でドサッと何かが崩れ落ちる音がした。大方、積み上げた本が崩れたのではないかと察する。放置しようか迷ったが、それでも立ち上がって、そちらへとゆっくり歩いて行った。暁登が整理を請け負ってくれている部屋の本が、一部だけ崩れていた。
 それらを拾い、また積み重ねていく。あまり高く積まないように暁登に言うべきかもしれない。
 一冊の本を拾い上げた時、それはアルバムであることに気付いた。中を開くと強面の夫と小柄の早が正装で並んで写っている写真が真っ先に出て来て懐かしくなった。写真だけ撮った結婚の際のものだ。
 パラパラとそれをめくる。行った旅行の時のもの、夫の学会の際に学生と撮ったもの。夏居巌との写真も出て来た。夫が個人的にまとめた、自らに関する写真のアルバムであるようだった。
 捲っていくとひらりと一枚の写真が落ちた。貼り付けてはいなかったようだ。よっこらせと腰を屈めて拾う。写っていたのは家の前でぎこちなく並ぶ早と樹生だった。
 自分も樹生も今より若い。樹生は身長だけは恐ろしく高かったがまだ少年の顔立ちで、なぜ、どのようなタイミングで撮った写真なのかをまるで覚えていない。樹生の着ているシャツには覚えがあった。上背のあった樹生には体に合った衣類が見つけ辛く、この辺の量販店ではなかなか揃わなかった。それを気にした夫が樹生の体をきちんと採寸してから洋裁の得意な知人にオーダーをして、シャツを何枚か誂えてもらった。既製品を手直ししただけのものもあれば、生地から選んで作ったものもある。そのうちの一枚で、この深緑色のスタンドカラーのシャツを樹生はとりわけ気に入ってよく着ていた。
 ふと、柔らかい気持ちが押し寄せる。今日は雨だ。制服を取りに来がてら、樹生が夕飯を食べに来る。仕事が終われば暁登も合流すると聞いている。暁登の新しい仕事は順調なようだ。
 シェア生活を解消しても、二人はよくつるんでいる。いつか「前よりいい」と暁登が言っていた。「離れて分かることがありました。前より岩永さんのことを少し嫌いになって、好きになりました」と。
 それぞれがそれぞれの暮らしを営んでいる。その中で都合をつけてそれぞれの時間を、空間を共有する。とても素敵なことだと思う。私達はあくまでも個であるけれど、誰かと接せずにはいられないことを、きちんと認識出来る。
 私の人生は私のもので、貴方の人生は貴方のものだ。どう生きるかは自分で決めていい。一人で過ごしても、暮らしを持ち寄っても、いい。
 アルバムを元に戻そうとして、気が変わって持ち出した。今夜、樹生に見せたい。どんな反応をするだろうか。興味なさげにふうん、と言うのを、暁登が何かコメントする。そういう想像をした。
 写真はいい。写っていなくても誰かが撮っているという事実がある。この写真には不在でも、これを撮ったのは惣先生だ。並んで、もうちょっと寄って、ふたりとももっと笑ってよ。強面でも柔らかくそう言う、かつての夫の声が聞こえた気がした。




 梅雨寒の配達は辛いが、雨の日は嫌いじゃない。外回りで雨具を身につけるのが面倒でも、顔に雨が当たっても、運転には最大の注意を払わなくてはいけなくても、雨の日はなんだか心が優しくなれるように思う。
 郵便物を濡らさぬように気を配りながら、樹生は家と家の間を縫い綴じるようにバイクを走らせ、停め、郵便受けに郵便物を投函し、またバイクで走る。広く真っ直ぐな道に出て、少しスピードを上げる。今日は早く仕事を終えて定時で帰る。雨だから。
 不意に、さっと明るくなった、と思った。雨は当たっているが雲が割れたのだろう。右斜め前方に虹が現れた。あまりにも大きな虹だったので、樹生はバイクを止めてそれを見る。
 しばらく見とれてから、またバイクを走らせた。この虹のことを今夜早や暁登に話すかもしれないし、忘れてしまうかもしれない。
 今日は雨だ。雨の日は嫌いじゃない。雨の日は早く帰る。会いたい人がいる。


End.



→ 84



当初の予定よりも長く更新日を取りまして、これにて本編は完結となります。
ここまでお付き合いいただきましてありがとうございました。
明日は更新をお休みいたしますが、明後日からまた、今度は番外編などを予定しております。
まだまだ樹生や暁登や早、その周辺のことなどを語りたいと思います。
こちらもぜひお付き合いくださると嬉しいです。

これを書いている時点では、全国あちこちで災害が起きているようです。
どうかご無事で、そしてこのブログが、読んでくださる方にとっての味方のようなものであればいいなと願っております。






拍手[17回]

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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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