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シーズンオフの期間中は、事務所を置いているKに直生をとどまらせた。雇用というかたちで、電話番や伝票の整理などといった雑務をさせた。家族の元に帰ってよいのかどうかを直生は迷っていたので、あの手この手で不安をあおらせ、直生の意思を「帰るのはまだ早い」に結び付けさせた。支配というよりはちょっとした話術で、操縦だ。職業柄、通孝が身に着けたことだった。
ただ、ちょっとした合間に電話をかけたり、「一時間だけ美藤に会って来る」と出掛ける男を、止めることは出来なかった。早く春が来てまた山荘の営業が始まらないかと通孝は焦れる。そうしたら簡単には帰れない。
帰るな、帰るなと、何百何千何万回も願い、それは最終的には叶ってしまった。
ただ、ちょっとした合間に電話をかけたり、「一時間だけ美藤に会って来る」と出掛ける男を、止めることは出来なかった。早く春が来てまた山荘の営業が始まらないかと通孝は焦れる。そうしたら簡単には帰れない。
帰るな、帰るなと、何百何千何万回も願い、それは最終的には叶ってしまった。
連日連夜、雨が続いて億劫になる。直生を山荘暮らしにさせて八年という月日が流れようとしていた。雨に客足を取られて山荘全体がひどく静かだった日、空き時間に窓の外をぼんやり眺めていると、背後から男の近づく気配があった。足音だけで分かる。直生だった。
「通孝、」と声をかけられる。「なにぼんやりしてるんだ?」
「これからシーズンオフになるから、閉山後の山荘のこと」
「ああ……。これ、有起哉さんがコーヒー淹れてくれたよ」
「ありがとう」
直生が差し出してくれたステンレスのマグカップを受け取る。熱く濃く淹れられたブラックコーヒーは通孝の好みだったが、隣に佇んだ男のマグカップに同じものは入っていない。直生は甘党で、砂糖と牛乳を加えないとコーヒーが飲めない。
「山の様子、どう?」
「山頂はどこももう、雪だな」
「そっか。……今度晴れたら、その日はおれに休みをくれないかな」と直生は言った。
「閉山する前に、山に登ろうと思って」
「どこ?」
「H岳連峰。通孝も一緒に登らないか?」
「いつ晴れるかにもよるかな。天気予報じゃ来週が天気よくなるみたいだけど、その週は団体の宿泊予約があるから」
「じゃあ、タイミングが合えば」
それきり黙り、ふたりで窓の外の雨を眺めながら佇む。
ここへ直生が来て、山にはもう何度も登った。大抵はふたりで登った。はじめこそ初心者登山で直生の足元は覚束なかったが、いまでは岩場も雪渓もコツを得てひょいひょいと登れる。健康な肉体は、健康な精神をもたらした。ここへ来たばかりのころは「家族に申し訳ない」と泣いた男だったが、ここ最近は癇癪を見ていなかった。
通孝はそれを喜べなかった。健康であることは嬉しい。けれど体力と精神力が戻ってしまったら家族の元へ帰ると言い出すのではないか――それが気がかりだった。
険しい顔をしている通孝をよそに、直生はぽつぽつと喋り出す。H岳連峰のルートの話を、通孝は上の空で聞いていた。「結局、ジャンダルムは踏破できなかったな」の台詞がようやく耳から脳を刺激して、通孝は直生の顔を見あげた。
「いつか越えたいと思ったけど、無理だった」
「……直生、」
「うん。……おれ、今シーズンの営業が終わったら、山を下りようと思って」
それはつまり、Kにある事務所にもとどまらないということだ。つまり、……とうとう帰るのだ、妻と子の待つ家に。
ドッと背筋に冷汗が沸いた。
「すこし、話してもいいかな」
と言うので、心臓をうならせながらも平気なふりで「いいよ」と言った。
「ここを下りたらまず早先生のところに行く。長いことご迷惑をおかけしましたって言って、……美藤と子どもとの再会に、出来れば同行をお願いする。多分、第三者がいる方がいいんだ」
具体的な予定がつらつらと出てくる。通孝は耳を塞ぎたい気持ちになった。
「茉莉は専門学校に進学が決まったって聞いた。樹生ははじめて会うようなもんだから、どう反応していいのか分かんないな、」
「僕には子どもの扱いなんて想像もつかないよ」
「……おれ、どうして通孝が嫁さん貰わないのか、ずっと気になってた。見合いの話が来ても先から断ってたじゃん。山荘の跡継ぎのこと考えなきゃいけない立場だってのに、『僕は向かないんだ』とか言って、……。どうしてなのか、付きあいの長い有起哉さんなら知ってるかなって、聞いたんだ」
「……なんて、」
「有起哉さん、笑いたくて笑えない顔して、『知ってるよ』って言って。『知ってるけど言わない、自分で訊くか気付け』って言うんだ。……通孝が彼女を連れているところは見たことがないなとか、色々考えた。でも、前に風呂場で気付いた、ここにあった、痣」
とん、と直生は首筋を指した。
「あれは、鬱血痕だったな、って。……自分でそんなところ吸えるわけないよね。てことは誰か、恋仲ぐらいはいて、……多分、男なんだろうなって」
「……」
「きみは、ゲイ?」
→ 12
← 10
「通孝、」と声をかけられる。「なにぼんやりしてるんだ?」
「これからシーズンオフになるから、閉山後の山荘のこと」
「ああ……。これ、有起哉さんがコーヒー淹れてくれたよ」
「ありがとう」
直生が差し出してくれたステンレスのマグカップを受け取る。熱く濃く淹れられたブラックコーヒーは通孝の好みだったが、隣に佇んだ男のマグカップに同じものは入っていない。直生は甘党で、砂糖と牛乳を加えないとコーヒーが飲めない。
「山の様子、どう?」
「山頂はどこももう、雪だな」
「そっか。……今度晴れたら、その日はおれに休みをくれないかな」と直生は言った。
「閉山する前に、山に登ろうと思って」
「どこ?」
「H岳連峰。通孝も一緒に登らないか?」
「いつ晴れるかにもよるかな。天気予報じゃ来週が天気よくなるみたいだけど、その週は団体の宿泊予約があるから」
「じゃあ、タイミングが合えば」
それきり黙り、ふたりで窓の外の雨を眺めながら佇む。
ここへ直生が来て、山にはもう何度も登った。大抵はふたりで登った。はじめこそ初心者登山で直生の足元は覚束なかったが、いまでは岩場も雪渓もコツを得てひょいひょいと登れる。健康な肉体は、健康な精神をもたらした。ここへ来たばかりのころは「家族に申し訳ない」と泣いた男だったが、ここ最近は癇癪を見ていなかった。
通孝はそれを喜べなかった。健康であることは嬉しい。けれど体力と精神力が戻ってしまったら家族の元へ帰ると言い出すのではないか――それが気がかりだった。
険しい顔をしている通孝をよそに、直生はぽつぽつと喋り出す。H岳連峰のルートの話を、通孝は上の空で聞いていた。「結局、ジャンダルムは踏破できなかったな」の台詞がようやく耳から脳を刺激して、通孝は直生の顔を見あげた。
「いつか越えたいと思ったけど、無理だった」
「……直生、」
「うん。……おれ、今シーズンの営業が終わったら、山を下りようと思って」
それはつまり、Kにある事務所にもとどまらないということだ。つまり、……とうとう帰るのだ、妻と子の待つ家に。
ドッと背筋に冷汗が沸いた。
「すこし、話してもいいかな」
と言うので、心臓をうならせながらも平気なふりで「いいよ」と言った。
「ここを下りたらまず早先生のところに行く。長いことご迷惑をおかけしましたって言って、……美藤と子どもとの再会に、出来れば同行をお願いする。多分、第三者がいる方がいいんだ」
具体的な予定がつらつらと出てくる。通孝は耳を塞ぎたい気持ちになった。
「茉莉は専門学校に進学が決まったって聞いた。樹生ははじめて会うようなもんだから、どう反応していいのか分かんないな、」
「僕には子どもの扱いなんて想像もつかないよ」
「……おれ、どうして通孝が嫁さん貰わないのか、ずっと気になってた。見合いの話が来ても先から断ってたじゃん。山荘の跡継ぎのこと考えなきゃいけない立場だってのに、『僕は向かないんだ』とか言って、……。どうしてなのか、付きあいの長い有起哉さんなら知ってるかなって、聞いたんだ」
「……なんて、」
「有起哉さん、笑いたくて笑えない顔して、『知ってるよ』って言って。『知ってるけど言わない、自分で訊くか気付け』って言うんだ。……通孝が彼女を連れているところは見たことがないなとか、色々考えた。でも、前に風呂場で気付いた、ここにあった、痣」
とん、と直生は首筋を指した。
「あれは、鬱血痕だったな、って。……自分でそんなところ吸えるわけないよね。てことは誰か、恋仲ぐらいはいて、……多分、男なんだろうなって」
「……」
「きみは、ゲイ?」
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直生との生活がはじまった。それは通孝にとっては青春のやり直しみたいで、とんでもなく楽しく嬉しい日々のはじまりだった。
父親から山荘の経営を引き継いでいた通孝は、従業員らに直生のことを説明した。療養が必要な、大切な友人であると。父の代から勤めてくれている従業員もいて、彼らは「懐かしいな」と直生を出迎えてくれた。中には有起哉もいた。はじめでこそ直生の変わりっぷりに驚いていたが、本当にはじめのうちだけで、やがて慣れ親しんだ態度で直生を呼び捨てにし、かわいがった。あまりにも有起哉が「直生、直生」と呼ぶので、自然と通孝もそう呼ぶようになっていた。
直生はあてがわれた部屋に閉じこもる日々を送っていたが、やがて食事のときだけ出てくるようになった。あまり食は進まないようだったが、有起哉が「懐かしいだろ」と出してくれたシチューは、ゆっくりとだが食べ切った。食事の場に出てこられるようになると、部屋を出て散歩する姿を見せることも多くなった。山荘の周辺を、気ままに歩いていたようだった。「よければ案内してくれないかな」と通孝を頼ってきたときは心から嬉しかった。せっかくだからとカメラを出して、通孝も共に歩いた。
通孝にとってはよく慣れ親しんだ道でも、久しぶりに訪れたK高地の山道は直生にとって珍しく映るようだった。「懐かしいけれど」と直生は言った。「でも色々変わったんだな。こんな木道、なかった」と湿原に設置された木道を歩いて周囲に視線をめぐらす。
「そうだな。この辺は国が整備事業計画を進めてくれたから、綺麗に整ったんだ。それで一気に客も増えたな」
「そうか。……でも前の方が好きだった。ちょっと危ないところもあるのが、冒険みたいで」
「いまのきみにはこのぐらい安全な道の方がいい」
「……あの山、」と直生は前方に見える山の頂を指し示した。
「ああ、Y岳?」
「あれにきみは登ったことがあるの?」
「あるよ、もちろん。あの峰も、あそこも、あっちの尾根も、そうだな、ここから見える稜線はすべて歩いている。仕事が仕事だからね」
直生は少し黙り、山の山頂を見つめ、「おれも登れるようになるかな」と呟く。
「いますぐは無理だろうな。けど、きちんと体力が戻れば、きみにはたやすいんじゃないかな」
直生の身体能力の異常さは、中学校のころに間近で見ていたからよく分かる。ぽーんと窓枠を蹴って飛び出していった、あの放課後。
その日は小一時間ほど歩いた。次第に直生は部屋から出て散策する回数が増え、伴えれば通孝も付き添って案内した。体力は少しずつ戻っていき、宿の簡単な作業――掃除や、ルームメイキングなど、は自然とやるようになった。山荘の従業員らとも距離を縮め、やがて「直生さん」と慕われるようになった。
こんなに穏やかな男が、まさか家庭内暴力を起こしていたなんて信じられないだろうな、と通孝は従業員らとくつろいでテレビを見ている直生を見て思った。緩やかではあったがそれぐらいに、直生は回復していった。
だが直生が家族に暴力をふるっていた話を聞いた有起哉だけは、「分かる気がする」と言った。
「まあ、脆いんだろうな」
「……僕もそう思う」
「よく嫁さんもらって子どもも作ったもんだな。……いや、そういうのは勢いだけだったりするか」
「それ、自分のこと?」
含める台詞で有起哉に問うと、有起哉は背後を振り返って部屋の鍵がかかっていることを確かめてから、「そうだな」と通孝に顔を近づけた。
そのころ、有起哉と通孝は不倫の関係にあった。
はじめから不倫だったわけではない。ふたりが肉体関係に至ったのは通孝が高校を卒業して本格的に家業を継ぐべく山荘の仕事に入ったころだった。有起哉は二十代のはじめの年齢で、独身だった。
直生を好きになった時点で、通孝は自分の性癖を知った。男に抱かれたい男なのだと自覚したときの足元の覚束なさは、例えようがないぐらいの不安と失望だった。それを助けたのが有起哉だったと言える。有起哉はバイセクシャルで、直生のことを好きな通孝をとうに見抜いていた。「一生初恋こじらせたまま童貞でいいってんならそれはそれで構わないけど、性衝動だけで言うなら、おれはおまえを抱けるよ?」と有起哉に誘われて、至った。それは自己肯定につながり、同時に、肉体の快楽を教え込まれた。有起哉はどこで覚えてきたんだか、上手かった。
心は直生にあったので、いっそう有起哉とは長く続いているのだと思う。有起哉が欲しい、心まで支配したいという気持ちがあればとうに関係は壊れていただろうが、あくまでも求めるのは体で、体温で、肉の重さで、性衝動の解消だった。有起哉は三十代のはじめに妻を娶り、子をなして父となったが、山荘での料理人の職を手放さなかったので、シーズンオフのみ妻子の元に帰りあとは山荘で暮らすという生活をしている。
頬と頬を合わせ、耳元で有起哉は「もしかして誘ってる?」と囁いた。
「直生がここに来てから全然してない」
「これでも遠慮してたんだぜ。初恋相手が傍にいる生活をおまえはずいぶんと楽しんでるみたいだったからさ」
そう言いながら、有起哉の手が背後にまわってくる。するすると簡単にズボンのウエストから手を入れ、シャツをたくし上げると胸の先を引っ掻いた。
「――んっ……」
深夜で自室とはいえ、従業員寮の壁は防音に優れているわけではない。漏れてしまう声を有起哉は口で封じた。胸の先を指で弄られ、口腔を舌でかき回されば、性感にぞくぞくと背がしなった。這いまわる手で体が熱くなっていく。有起哉の股間も熱く硬くなっていた。
「これ、欲しい……」とキスから逃れて熱っぽく訴えると、有起哉は「声出すなよ」と言って通孝を畳の床に押し倒す。ズボンをひと息におろし、むき出しになった性器を口に含まれて、通孝は慌ててシャツの袖を噛んだ。
後ろには指を入れられた。前と後ろを同時に弄られ、通孝はあっけなく有起哉の口内で果てる。それを有起哉は背後に足して、泡立てるように指の動きを速める。性急に有起哉のもので後ろをひらかれて、そのタイミングでも通孝は精液を漏らした。
「すげー感じてんじゃん」
有起哉は声を顰めて言った。興奮で音程が上擦っている。
「久しぶりだからか? それとも、大事な初恋相手が同じ屋根の下で寝てるって、興奮してる?」
「んっ……どっちも……っ」
「つくづくいやらしいね、おまえ」
素直さがかわいいよ、と本気にしようもない台詞を甘く吐いて、有起哉は腰をつかう。揺さぶられながら必死で声を殺す。やがて有起哉は通孝の中に当たり前のように出した。久しぶりなのは有起哉もそうで、濃く、量も多かった。
事後の始末をして有起哉は自室に戻ろうとしたが、通孝はそれを引き留めた。
「――なに?」
「僕が直生に抱かれる未来って、来ると思う?」
尋ねると有起哉は腕組をして、うーんと唸った。
「ないだろうな。直生にその気はないし、おまえだって誘うつもりもないだろ?」
「そうだね」
直生に欲望を告げて関係がわるくなるのだけは嫌だった。山荘の従業員寮、というある意味閉ざされた空間であればなおさらだった。
「でも」と通孝は続ける。
「直生を奥さんや子どもの待つ家に帰す気は、さらさらないんだ」
「怖いね」
有起哉は肩を竦める。「おやすみ」と言って部屋を出て行った。
→ 11
← 9
三十代に入って、岩永直生からまめに連絡が入るようになった。
中学三年生という一年間を共にしたが、そして通孝は恋心を抱いていたが、直生に告げることはなかったし、むしろ離れる道を選択した。直生は勉強が出来たので当たり前のように県内屈指の進学校へ進んだし、通孝は早く親の経営を支えなければと考えていたので、手っ取り早いかと思って商業高校へ進学したのだ。以降、音信は途絶え、初恋は初恋のままで終わるのだと思っていた。
直生の結婚披露宴に招かれたときに久しぶりに直生に会った。直生の隣で微笑む女性のことは、少々複雑な想いで見ていた。綺麗な女性だったので嫉妬の対象にはならなかった。ああ、結局はこういうのを望んだんだな、と思うと、男の自分は逆立ちしたって無理だから、仕方がないと思う。直生との恋が叶うなんてことは、端から諦めていたのだ。
披露宴の席に鳥飼がいたことは、とても驚いた。度胸があるなと思ったのだ。かつて恋心を抱いていた人を自分の結婚披露宴に呼ぶ、その意図はなんだろうか、と。ましてや鳥飼は四十歳に届こうかというころでも未婚であったから、そういう女性を招くのはどういう心境かと問いたかった。もちろん訊きはしなかったが。
直生は幸せそうに笑いながら、「すぐに子どもが産まれるからそのときは見に来てくれ」と言った。大学を出て就職して一年かそこらだ。よっぽどセックスに励んだかと鼻白んだが、直生は直生の人生で、通孝とは関係がないことだと思いなおした。
道は分かれたまま、交わることはない。そう思っていたから、ぽつぽつと便りが届きだしたころは意外に思った。他愛もないことからはじまった交信。ある日強く「会いたい」と要請があったときは、だから、正直戸惑った。
実際に会ってみて驚く。直生はひどく痩せていて、目ばかり血走らせていて、幸福そのものの披露宴からすっかり様変わりしていた。
昔通った、昔からある喫茶店で、直生の妻・美藤も同席していた。美藤にはあざがあり、明らかに暴力を振るわれていることが見て取れた。そして直生自身の手も生々しく腫れていた。妻を殴って出来たあざだと言った。
入院しかないと思うんだと、直生は覇気のない声でぼそぼそと喋った。
「――どうしても美藤や、子どもを、殴ってしまう」と。
「家庭内暴力、」
「そう、それ……」
なぜ、と問う前に直生は顔を手で覆い隠して震えだした。美藤が「直生さん、」と言って背に手を添える。直生は泣いていた。「ごめんなさい」と後悔から来る謝罪の言葉は、間違いなく自分自身のことを責めていた。「ごめんなさい、ごめん……」言葉はむやみに繰り返される。
それを聞いて、通孝の体に衝撃が走った。こんなにも苦しんでいる。こんなにも追い詰められている。
――全く知らなかった。ただ幸福に在るのだと思い込んでいた。
直生と美藤のことを、自分のことから切り離して考えられるくらいには、初恋から逃げ切っていた。けれどこの直生の切実な嗚咽を聞いてしまえば、それは途端に怪しくなった。
一から全て話せ、と促した。直生が渋ることも苦しがることも容赦せず語らせた。そこから分かったのは大したことではなかったが(例えば自身に当てはめるなら、そんなのは少し考え方を変えるだけで解決出来そうなことだった)、直生にとっては大問題で、その根本はすべて直生の精神の弱さにあるように感じた。少なくとも通孝はそう結論づけた。
中学生のころのことを思い出せば、晴れたり曇ったり、こころのうつろいは岩永直生という男にさほど遠いものには感じなかった。
自分に対して悔しく、憎らしく思うんだ、と直生は歯を軋ませながら言った。
「――美藤を、子どもらをこのままでは、殺す」
ギリ、と奥歯を噛みしめる音を耳にして、通孝はやるせなくなった。
どうして直生の性質を分かってやれないのだろうと、美藤を責める気持ちがあった。どうしてここまで追い詰められてしまったのだろう、と。それはおまえの、おまえたちのせいではないのか、と。安心して一家を支えてくれる役目にあるとでも思ったのか、この弱い男を。
むせぶ直生の背を優しく叩きながらも、疲労した目で通孝を見つめてくる女に無性に腹が立った。
「……そういえば今日、娘さんと――息子、だったか。は、どうしたんだ?」
と訊くと、美藤は目を伏せ、直生は「早先生のところだ」と言った。
「――早? もしかして鳥飼早?」
「そう。いまは結婚して、草刈早、だ」
「結婚した?」
「うん、……おれの大学時代の恩師と結婚したんだ」
ざっくりと鳥飼早の話を聞いた。彼女は変わらず岩永直生にとっての「聖母」として、交流があるらしかった。
黙ったままの美藤が口をひらいた。
「この人を、失いたくないんです」
「ええ、」
「だから、主人と話して決めました。治療に専念しましょう、って」
「それは……つまり、」
「主人のかかる病院には、急性期の患者が入る病棟があります。そこに入院しよう、と」
「ばかなこと」
「それしか……いまは考えられないので、」
それはつまり、閉鎖病棟に閉じこめられる日々を送ることを意味していた。
病棟、病気療養、といえばまだ聞こえとしては充分だ。哀れみと同情の目を傾けられることに馴れればどうってことはない。けれど精神科の閉鎖病棟は違う。キチガイのかかるところであるし、医師は匙を投げたも同然の意味だ。
おまえは社会にとって触れてはいけない狂気だから隔離する。一生そこで暮らして、とっとと死ね、と言われているようなものだ。
通孝の背筋がぶるりと震え、強張った。
「――そう、それで、入院する前にきみに会っておこうと思って」と直生は言った。
「……どうして僕なの、」
「おれはもう肉親を亡くしている。いたとして、関わりたくもない間柄だった。美藤も同じような境遇で、おれたちには頼れる人がいないんだ。だから、美藤や子どもらをきみや早先生らに頼めたら、という甘えと、あとは……きみなら受け入れてくれると、思った。これも甘えだ」
「なにを、受け入れればいい?」
「……おれが存在すること、」
そう言って直生はまた顔を伏せ、美藤に背をさすられていた。だがそれもうっとうしいのか、「触るな!」と妻に吠えた。
怒鳴ってからはっと顔をあげ、通孝を見て目を逸らした。「ごめんなさい」
通孝は、辛くなった。どうして、という思いが募る。どうしてこんなに責められなきゃならないのか、この弱い人が。なぜ周囲はここまで放置したのだ。なぜ、どうして。答えは出ないが、ただ直生を取り囲む環境に対しての憤りと怒りがあった。
僕なら直生のいちばんの理解者になる、と通孝は根拠もなく自信を漲らせた。
彼をゆっくり休ませてやれるのは、自分だけだろう、と。
「うちにおいで」と通孝は言った。
「うちの山荘の従業員寮のひと部屋きみにあてられる。外界と隔てられるという意味じゃ、入院や療養生活と変わりないよ。なんせ周囲は山しかないからな。自然環境は多少厳しいけれど、空気と水がいいのが自慢だ。きみにきっと、合う」
ひゅ、と直生の喉が鳴ったのが聞こえた。
「いいか岩永、きみは他人よりすこし繊細に作られてしまっただけだ。おかしいところはなにもないし、ましてや謝る必要もない。きみは、治る。元気になる。そうすればまた、……暮らしていける、」
そう思う、と結ぶと、直生は目からぼろぼろと涙をこぼして頷いた。
「そうしても、いい?」
直生は泣きじゃくりながら訊ねる。
「きみに甘えても、いい?」
「甘えるために連絡寄越したんだろう?」
そう言うと、直生はようやく笑った。ぎこちなく頬の筋肉を動かした。久々にそうしたから忘れてしまった、そんな言い分を聞いた気がして、目の前の痩せた背の高い男を憐れに思った。
すぐに来い、という話でまとまり、当面の必要な荷物だけ持って直生をその場で預かることにした。
去り際、美藤は通孝に深く頭を下げた。なにからなにまで、という慣用句を、通孝は最後まで言わせずに一蹴した。
「岩永のためです」
そう言うと美藤は疲れた顔を少し緩ませた。諦め、不安、安堵、そういったあらゆる感情が垣間見える。
「なぜ、ここまで、……」と美藤は疑問を口にした。その疑問には「友人なので」と答える。
「岩永が幸福に暮らせることを考えただけです」
「……」
そこには「おまえには無理だ」の誹りも含まれていた。美藤は黙って頭を下げた。
→ 10
← 8
有起哉にそう言われてから、通孝は自然と直生の行動を追うようになった。直生が鳥飼と共に話しているのを見ては勝手にドキドキしたし、橋本といるときは冷や汗をかいた。
表向き、直生の態度はどちらの教師に対しても変わらなかった。心の中でなにを考えているかまでは、心を読めないので分からない。ただ、直生の視線の先には確かに鳥飼がいるな、というのは少し観察すればすぐ分かることだった。
ある放課後、通孝は職員室に用事があって廊下を歩いていた。教室から職員室までのルートは美術室の前を通る。岩永、いるのかな、と思って美術室の前を通った際に覗くと、美術室には鳥飼と直生のふたりしかいなかった。
直生は椅子に腰かけ、鳥飼と話している。あまり大きな声で話していないので聞こえてくる会話は途切れ途切れで、だが東京で開かれている展覧会の話をしているのだ、ということは分かった。
鳥飼は画布を引っ張り出して木で組んだ枠に画布を張る作業をしながら、直生の相手をしていた。鳥飼の顔つき、喋り方は普段と変わりなかったが、直生の方はいままで見たことのない、甘く幼い顔をしていた。
先生、と直生が鳥飼を呼ぶ。
なんですか、と鳥飼は作業する手を止めずに答える。
先生、と直生はまた鳥飼を呼んだ。
――特に用事はないんですね。
――うん。
――最近おうちの様子はどうですか?
――……別に、変わりありません。
――お母さんの様子は?
――特に、……もう、慣れてるし。ねえ先生、母さんの話はいいですから、展覧会の話、もっと聞きたいです。この間の休みに行ったっていう、S県はどうだったんですか?
――そうですね。庭が広くて、ばらが綺麗でしたよ。
そのふたりの様子を見ていられなくて、通孝はそっと教室から離れる。
直生が鳥飼を慕っているのは明らかで、それがなんだか、通孝の心をざりっと引っ掻いた。
表向き、直生の態度はどちらの教師に対しても変わらなかった。心の中でなにを考えているかまでは、心を読めないので分からない。ただ、直生の視線の先には確かに鳥飼がいるな、というのは少し観察すればすぐ分かることだった。
ある放課後、通孝は職員室に用事があって廊下を歩いていた。教室から職員室までのルートは美術室の前を通る。岩永、いるのかな、と思って美術室の前を通った際に覗くと、美術室には鳥飼と直生のふたりしかいなかった。
直生は椅子に腰かけ、鳥飼と話している。あまり大きな声で話していないので聞こえてくる会話は途切れ途切れで、だが東京で開かれている展覧会の話をしているのだ、ということは分かった。
鳥飼は画布を引っ張り出して木で組んだ枠に画布を張る作業をしながら、直生の相手をしていた。鳥飼の顔つき、喋り方は普段と変わりなかったが、直生の方はいままで見たことのない、甘く幼い顔をしていた。
先生、と直生が鳥飼を呼ぶ。
なんですか、と鳥飼は作業する手を止めずに答える。
先生、と直生はまた鳥飼を呼んだ。
――特に用事はないんですね。
――うん。
――最近おうちの様子はどうですか?
――……別に、変わりありません。
――お母さんの様子は?
――特に、……もう、慣れてるし。ねえ先生、母さんの話はいいですから、展覧会の話、もっと聞きたいです。この間の休みに行ったっていう、S県はどうだったんですか?
――そうですね。庭が広くて、ばらが綺麗でしたよ。
そのふたりの様子を見ていられなくて、通孝はそっと教室から離れる。
直生が鳥飼を慕っているのは明らかで、それがなんだか、通孝の心をざりっと引っ掻いた。
それから通孝の行動は早かった。元々が思いつくと熟考の出来ない、せっかちな質だ。行動力が自慢ともいえる。へまをして誤解を招くことだけは避けたかったのでそこだけは慎重にことを進め、裏を取り、確証が持てる段まで来たので、得た情報を公開することにした。
「――岩永、いる?」
通孝が放課後の美術室を訪ねたのは、あのハイキングから十日後のことだった。美術室には直生とほかに数名の美術部員がいたが、鳥飼の姿はなかった。
「ちょっといい?」
直生を廊下に連れ出す。開け放った廊下の窓から中庭が見える。その日は暑いぐらいの陽気で、傾きかけた陽の光はまだ強くふたりを照射していた。
「あのさ、あの件なんだけど」と切り出すと直生は意味が分からなさげに首を傾げたが、「鳥飼と橋本」と言うと、はっと不安げな表情を見せた。
「あれ、勘違いだから」
「――え?」
「鳥飼と橋本の間は、男女関係とかそんなのは、ない。どうして言い切れるかっていうと、ちゃんと聞いたから」
「えっと、……そういう関係のあるなし、を?」
「うん。橋本に確かめて、それだけじゃ片手落ちかなと思ったから、鳥飼にも聞いた」
というと、直生は途端に顔を赤く染めた。
「いや、誰が気にしてたとか、そういうことは言ってないよ。最近鳥飼先生と仲がよろしいようですがと、突っついてみただけ」
橋本のことだから単刀直入に切り出せば素直に答えるだろうと予想はしていたが、案の定なんにも包み隠さず話してくれたので、そんなことも聞けずにやきもきしていた直生のことは、ばかだな、と思った。
「橋本は、お見合い相手とうまくいってんだよ」
「え、お見合い?」
「うん。したんだって、この前の春休みに。会ってみてよい人で、向こうもわるくない返事だったから連絡を取ってる、って。けど、豪快に見えてあいつは奥手だからな。その年頃の女性がなにに喜ぶものなのかが分からないって言って、鳥飼に相談に乗ってもらってるそうだ。お相手さんがちょうど、鳥飼と同い年くらいだからって」
そう告げると、直生は絶句した。黙り込んだままただ目をまんまるにひらいている。
「鳥飼にも聞いたよ。そうなんですか? って。鳥飼も笑ってた。同い年の女性みな一同に同じものが好きだとは限らないんですけどね、ってさ」
「そうなの?」
「そうらしいよ。橋本の照れ笑いと鳥飼の呆れっぷりを見てたらもう、間違いないよ」
「すごい、すごいな、晩は。おれがもたもたしているあいだに、あっという間に解決させた」
「行動力が自慢なんだ」
「すごい、本当にすごい。すごい、」
直生の体が次第に震えだす。このあいだ、山荘で過ごした夜のときのようなこわばりからではなく、むしろ体が跳び跳ねたがっているような、そういう震えだった。「すごい、すごい」と直生は子どものように繰り返す。いつも大人しいイメージがあったから、この高揚感を通孝は異常に感じた。
「そうなんだ、――晩、すごいよ、すごい――――!」
瞬間、直生は窓の桟に手をかけて、外へ向けて思いきり吠えた。わー、だったのか、あー、だったのか、とにかく大音量で、通孝はとっさに耳を押さえた。叫んだだけでは足りないのか、直生はその場でぐるぐるとまわり出す。そして思いきり通孝の背を叩き「ありがとう」と言うと、また叫んで――同時に窓枠にひょいと足をかけて外へ飛び出した。
「えっ――!!」
声が出たのは、ここが一階ではなく二階だったからだ。ぽーん、と直生の体は宙を舞い、しなやかに反り、地面に綺麗に着地した。飛び降りた! と通孝の心はざわめく。本人はそのままの勢いで庭を猛然と走って行ってしまった。目撃したのか、階下の窓から教員が即座に顔を出した。
「こらっ! なにをしている!!」
共犯でいたずらでもしていると思ったのだろうか、通孝に向かって教員は叫ぶ。すぐさま別の教員が直生の後を追うのが確認できた。通孝は慌てて窓から顔を引っ込め、美術室に逃げ込む。
すごい、と思った。あの身体能力もそうだし、ありがとう、と通孝に告げたときの表情もそうだし、人間ってあんなに素直に感情を爆発させる瞬間があるんだな、とも思った。信じられないぐらいの躍動感に、通孝は衝撃を受ける。
急いでやって来た教員にまんまと見つかって職員室へ連行されても、通孝はすっかり惚けてうわのそらだった。
人がきらきらと輝いて見える、そういう瞬間があるんだな、と。心臓が爆発しそうに痛かった。
このとき間違いなく恋に落ちた。
→ 9
← 7
「――岩永、いる?」
通孝が放課後の美術室を訪ねたのは、あのハイキングから十日後のことだった。美術室には直生とほかに数名の美術部員がいたが、鳥飼の姿はなかった。
「ちょっといい?」
直生を廊下に連れ出す。開け放った廊下の窓から中庭が見える。その日は暑いぐらいの陽気で、傾きかけた陽の光はまだ強くふたりを照射していた。
「あのさ、あの件なんだけど」と切り出すと直生は意味が分からなさげに首を傾げたが、「鳥飼と橋本」と言うと、はっと不安げな表情を見せた。
「あれ、勘違いだから」
「――え?」
「鳥飼と橋本の間は、男女関係とかそんなのは、ない。どうして言い切れるかっていうと、ちゃんと聞いたから」
「えっと、……そういう関係のあるなし、を?」
「うん。橋本に確かめて、それだけじゃ片手落ちかなと思ったから、鳥飼にも聞いた」
というと、直生は途端に顔を赤く染めた。
「いや、誰が気にしてたとか、そういうことは言ってないよ。最近鳥飼先生と仲がよろしいようですがと、突っついてみただけ」
橋本のことだから単刀直入に切り出せば素直に答えるだろうと予想はしていたが、案の定なんにも包み隠さず話してくれたので、そんなことも聞けずにやきもきしていた直生のことは、ばかだな、と思った。
「橋本は、お見合い相手とうまくいってんだよ」
「え、お見合い?」
「うん。したんだって、この前の春休みに。会ってみてよい人で、向こうもわるくない返事だったから連絡を取ってる、って。けど、豪快に見えてあいつは奥手だからな。その年頃の女性がなにに喜ぶものなのかが分からないって言って、鳥飼に相談に乗ってもらってるそうだ。お相手さんがちょうど、鳥飼と同い年くらいだからって」
そう告げると、直生は絶句した。黙り込んだままただ目をまんまるにひらいている。
「鳥飼にも聞いたよ。そうなんですか? って。鳥飼も笑ってた。同い年の女性みな一同に同じものが好きだとは限らないんですけどね、ってさ」
「そうなの?」
「そうらしいよ。橋本の照れ笑いと鳥飼の呆れっぷりを見てたらもう、間違いないよ」
「すごい、すごいな、晩は。おれがもたもたしているあいだに、あっという間に解決させた」
「行動力が自慢なんだ」
「すごい、本当にすごい。すごい、」
直生の体が次第に震えだす。このあいだ、山荘で過ごした夜のときのようなこわばりからではなく、むしろ体が跳び跳ねたがっているような、そういう震えだった。「すごい、すごい」と直生は子どものように繰り返す。いつも大人しいイメージがあったから、この高揚感を通孝は異常に感じた。
「そうなんだ、――晩、すごいよ、すごい――――!」
瞬間、直生は窓の桟に手をかけて、外へ向けて思いきり吠えた。わー、だったのか、あー、だったのか、とにかく大音量で、通孝はとっさに耳を押さえた。叫んだだけでは足りないのか、直生はその場でぐるぐるとまわり出す。そして思いきり通孝の背を叩き「ありがとう」と言うと、また叫んで――同時に窓枠にひょいと足をかけて外へ飛び出した。
「えっ――!!」
声が出たのは、ここが一階ではなく二階だったからだ。ぽーん、と直生の体は宙を舞い、しなやかに反り、地面に綺麗に着地した。飛び降りた! と通孝の心はざわめく。本人はそのままの勢いで庭を猛然と走って行ってしまった。目撃したのか、階下の窓から教員が即座に顔を出した。
「こらっ! なにをしている!!」
共犯でいたずらでもしていると思ったのだろうか、通孝に向かって教員は叫ぶ。すぐさま別の教員が直生の後を追うのが確認できた。通孝は慌てて窓から顔を引っ込め、美術室に逃げ込む。
すごい、と思った。あの身体能力もそうだし、ありがとう、と通孝に告げたときの表情もそうだし、人間ってあんなに素直に感情を爆発させる瞬間があるんだな、とも思った。信じられないぐらいの躍動感に、通孝は衝撃を受ける。
急いでやって来た教員にまんまと見つかって職員室へ連行されても、通孝はすっかり惚けてうわのそらだった。
人がきらきらと輝いて見える、そういう瞬間があるんだな、と。心臓が爆発しそうに痛かった。
このとき間違いなく恋に落ちた。
→ 9
← 7
直生の話をきちんと聞いて、ようやく事情を把握した。風呂から上がった後、部屋に戻って話を聞いた。なぜだか料理人の有起哉も酒をちびちびと舐めながら混ざっていた。
直生いわく、橋本は鳥飼のことが好きなのだという。
「根拠は?」
「見てれば分かるよ。用事もないのにやたら美術準備室に橋本先生が顔を出すから。理科準備室と美術準備室なんて階が違うのにわざわざ」
「用事があるんじゃないの? ほら、同じ学年でそれぞれ担任持ってるし」
「ないよ、用事なんて……多分。この間は美術準備室で関係ないこと喋ってた。星の話とか」
話ながらも、直生の頬が紅潮していく。
「今日だって……鳥飼先生に対して橋本先生はすごく、親身で、」
「そりゃ企画した本人だからさ、足の遅いやつのこと面倒見るのは当たり前だと思うけど」
そんなことを喋っていると、それまでずっと静かに酒を舐めていた有起哉が「独身?」と口を挟んだ。
え、とふたりして有起哉を見る。
「その、ハシモトとトリカイは、独身なの?」
「あ、えーと、そうです。鳥飼先生も、橋本先生も、独身……」
「歳は?」
「橋本先生は分からないです、……でも多分、三十代半ばくらい。鳥飼先生は、今年、二十九歳」
「ふうん。じゃああり得るな」
と、有起哉はあっさり言った。直生は瞬時に傷ついた顔をして、通孝はそれを見ていられなくて「どうしてさ?」と聞いた。
「年頃の男女で、話も合うなら『いいお友達』同士の方がおかしいだろ?」
「そんなの一般論じゃないか。あのふたりに当てはまると思えないけどな、僕は」
「大多数に当てはまるから一般論なんだろ」
「よく知ったふうに言うけど、有起哉さんだってまだ十代じゃないか」
「ばか、経験値なめんなよ。おまえらみたいに童貞じゃねえんだよ、とっくにな」
それを聞いて俯いたのは直生だった。照れている、というよりは怯えて青白い。ぽんぽんと身内の気安さでつい言い合ってしまったが、話があからさま過ぎたかもしれない、と通孝は反省する。
謝ったが、直生の表情は硬い。次第にはカタカタと震えだすので「あー、悪かった悪かった」と有起哉も謝った。
「大丈夫か? おい、えーと、」
「岩永直生だよ」
「直生、悪ふざけが過ぎた、ごめんな」
有起哉は直生の肩に手を当て、さする。しばらくそうしていたが、有起哉はふと手元にあったコップ酒に気付くと、「ほら」と直生の口元に無理に寄せた。
「――有起哉さん、」
「別に、ちょっと飲ますぐらいいいだろ。本当は温かい牛乳にちょっとブランデー垂らしたやつがいいとか言うけど、まあ、要は一緒だろ」
「そんなざっくり」
「ひと口舐めるだけでいいから。直生、」
言われて直生は顔を上げ、有起哉から渡された酒を一口舐める。みるみる顔が赤くなり、倒れるように布団の上に横たわった。
「そうそう、寝ちまいな」と有起哉は言った。直生に布団をかぶせ、目元を掌で覆う。
「そう、そうだよ直生――いい子」
そうして直生が大人しくなり、やがて規則正しい寝息を吐き出すようになった頃、通孝と有起哉はそっと部屋を出た。
部屋を出て廊下を降り、従業員一同がつかう談話室にひとまず腰を据える。もう深夜のような時刻で、朝早くから始まる仕事だということもあって起きている人間は誰もいなかった。
明かりを点け、椅子を引っ張り出すと有起哉は「なんだありゃ」と呟いた。
「え? 岩永?」
「ああ。あいつ結構、なんていうかな――『揺らぐ』な」
有起哉の言っていることの意味が分からず、通孝は首を傾げた。
「揺らぐ?」
「そう、……ぶれる、とでも言うんかね。落ちる、かもしれない。とにかく、安定しない。ここが」
とんとん、と有起哉は親指で自分の胸を指した。
「思春期ってそんなもんなんじゃないの、」と通孝は知ったようなふりで言ったが、実際いま自分の年齢がそうであるのに、遠くの噂話みたいに思えた。
有起哉は「は」と息を吐く。
「それにしちゃあな。生理前の女と相対してるみてぇだ」
「……有起哉さん、そういうことばっかり言うから」
「分かってるって。これでも言うやつは選んでるんだぜ。共同生活の節度ってやつ」
有起哉は頭の後ろで手を組むと、後ろにふんぞり返って「まあ、あれだな」と言った。
「直生は本気でその、トリカイが好きなんだろうよ」
ままなならんもんだな、と有起哉は呟いた。
→ 8
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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