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藍の感覚では、夏は三角形だ。
底辺は煮えたぎって焼けたアスファルト。斜辺に熱気をはらむ家並みや学校があって、空へ突き抜ける巨大な三角形がこの街を覆っている。そういえばこの時期の星座には夏の大三角形があるのだ。これはこと座のベガ、はくちょう座のデネブ、わし座のアルタイルだと言ったっけ。もくもくと湧く入道雲は円錐みたいに見える。と言ったら父には不思議な顔をされたのでもう二度と人には言わないと決めている。
いつか参加した大学主催のサマースクールで、偉い先生が「3、という数字は都合がいい」と言っていたことを思い出す。四点取るより三点取った方が安定するのだと言っていた。だからカメラの支えは「三脚」でしょう、と。3について考えると確かに面白い。時間の数え方がいい例だと思う。一時間は60分で、一分は60秒だ。60は割っていけば3にたどり着く。
藍の家族は四人だから、2の倍数だ。頂点が四つ存在する平面と言えば四角形だ。頂点が四つある立体は三角錐だが、それでも4という数字があまり好きではない。どうしてだろう。しっくりこないんだ。
底辺は煮えたぎって焼けたアスファルト。斜辺に熱気をはらむ家並みや学校があって、空へ突き抜ける巨大な三角形がこの街を覆っている。そういえばこの時期の星座には夏の大三角形があるのだ。これはこと座のベガ、はくちょう座のデネブ、わし座のアルタイルだと言ったっけ。もくもくと湧く入道雲は円錐みたいに見える。と言ったら父には不思議な顔をされたのでもう二度と人には言わないと決めている。
いつか参加した大学主催のサマースクールで、偉い先生が「3、という数字は都合がいい」と言っていたことを思い出す。四点取るより三点取った方が安定するのだと言っていた。だからカメラの支えは「三脚」でしょう、と。3について考えると確かに面白い。時間の数え方がいい例だと思う。一時間は60分で、一分は60秒だ。60は割っていけば3にたどり着く。
藍の家族は四人だから、2の倍数だ。頂点が四つ存在する平面と言えば四角形だ。頂点が四つある立体は三角錐だが、それでも4という数字があまり好きではない。どうしてだろう。しっくりこないんだ。
眞仲藍はその年、中学三年生になった。一般的には受験生だと言われるが、藍の場合、受験生だったのは小学校六年生の時だった。大学付属の中学校に合格できたので、ここから先は外への進学を望まなければ高校・大学とエスカレーター式に上がっていける。
だから周囲も割とのんびりしている。とはいえこの学校の偏差値自体は高く、授業もハイレベルだ。いままでいた公立小学校と比べてあまりにも授業に差があったので、入学当時の藍は勉強に追いつくのに必死だった。
本来なら小学校から受験出来る学校で、藍のように小学生時に受験をして入って来る生徒はあまり多くない。たいがいは幼稚園生の頃に受験を済ませており、藍は入学当時「外の子」と呼ばれたことがある。
友人が出来ればそういうことも言われなくなった。また、翌年には妹の茜も同じ学校に中学受験で入学したので、「眞仲姉妹は揃って頭がいい」というような評価も出来上がった。そしてそこには「ふたりとも美少女」と必ずくっつく。さらに言えば、「お母さんが美人だから当然だよね」となる。
確かに藍の母・茉莉は美しい人だと思う。妹も母によく似ており、将来は美人になるだろうと分かる。藍もそうだと言われる。言われるが、実はそうではないということを、藍自身はとっくに気付いていた。
母を思わせるようでいて、藍はどことなく違う。眉は太いし、目もなんとなく小さい。体の輪郭も、華奢な印象の母よりはわりとしっかり出来ている。手足のサイズが大きいことが悩みだ。母は「背が高くなる証拠」と言い、「叔父さんみたいにね」と付け加えたが、そんなのまっぴらごめんだった。藍の将来の目標はモデルでも女優でもない。一般の範囲に収まっていたい。
藍を見た目だけで言えば、母のフェイクだ。偽物、よく似せて作られた模造品といったところ。茜みたいに、似るなら完璧に似て欲しかった。茜は藍と違って運動神経がよく快活で、かつ天真爛漫で、どこからも文句がない。こんなに完璧な母と妹を持ってしまって、藍と言えばコンプレックスを抱えてばかりだ。臆病なところ、人見知りなところ、少し視力が悪いところ、なにもかもに不満をつけられる。
ケチばっかりつく人生だな、と十四歳にして藍は半ば諦めていた。
それもこれも、母が美しいばかりに、と。
→ 2
だから周囲も割とのんびりしている。とはいえこの学校の偏差値自体は高く、授業もハイレベルだ。いままでいた公立小学校と比べてあまりにも授業に差があったので、入学当時の藍は勉強に追いつくのに必死だった。
本来なら小学校から受験出来る学校で、藍のように小学生時に受験をして入って来る生徒はあまり多くない。たいがいは幼稚園生の頃に受験を済ませており、藍は入学当時「外の子」と呼ばれたことがある。
友人が出来ればそういうことも言われなくなった。また、翌年には妹の茜も同じ学校に中学受験で入学したので、「眞仲姉妹は揃って頭がいい」というような評価も出来上がった。そしてそこには「ふたりとも美少女」と必ずくっつく。さらに言えば、「お母さんが美人だから当然だよね」となる。
確かに藍の母・茉莉は美しい人だと思う。妹も母によく似ており、将来は美人になるだろうと分かる。藍もそうだと言われる。言われるが、実はそうではないということを、藍自身はとっくに気付いていた。
母を思わせるようでいて、藍はどことなく違う。眉は太いし、目もなんとなく小さい。体の輪郭も、華奢な印象の母よりはわりとしっかり出来ている。手足のサイズが大きいことが悩みだ。母は「背が高くなる証拠」と言い、「叔父さんみたいにね」と付け加えたが、そんなのまっぴらごめんだった。藍の将来の目標はモデルでも女優でもない。一般の範囲に収まっていたい。
藍を見た目だけで言えば、母のフェイクだ。偽物、よく似せて作られた模造品といったところ。茜みたいに、似るなら完璧に似て欲しかった。茜は藍と違って運動神経がよく快活で、かつ天真爛漫で、どこからも文句がない。こんなに完璧な母と妹を持ってしまって、藍と言えばコンプレックスを抱えてばかりだ。臆病なところ、人見知りなところ、少し視力が悪いところ、なにもかもに不満をつけられる。
ケチばっかりつく人生だな、と十四歳にして藍は半ば諦めていた。
それもこれも、母が美しいばかりに、と。
→ 2
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いま、女王は酷く落ちこんでいる。
ことの顛末は聞いた。聞いたが曜一郎にはどうしようもない。それよりも彼女と今後をどうすべきかを、真剣に悩んだ。何度も別れを決意しておいてそれは決意などではなく、ほんの僅かな揺らぎでまたはじめに戻っていた。転んでは白紙に戻るの繰り返し。
本当は共にいたかった。それはなにごとにも代え難い本音で、だが手の指の攣る癖が、痛みが、曜一郎を竦ませる。
この指でいる限り彼女の全てを満たすことは出来ない。
曜一郎が別居を解いてようやく家で眠りつくようになって、半年ほど経過した。茉莉とは表面上はなだらかで、だが彼女は明らかに元気がなかった。生来の気の強さ、激しさがごっそり抜け落ちていて怖いぐらいだ。娘たちがいる場でもなんとなく反応が遠い。物思いにふけって、呼びかけても返事がないことがままあった。
曜一郎と茉莉は、寝室を共にしない。茉莉は茉莉の部屋を持ってそこで眠るし、曜一郎は曜一郎で部屋があった。もう彼女とはずいぶんと長いこと一緒に眠っていないな、とベッドに体を横たえたときに思いがよぎった。もう十何年も夫婦をしている。だと言うのに彼女との距離を誤る。どうしていいのかよく分からない。
熱帯夜で寝苦しかった。空調を効かせたまま眠ると喉を痛めるので夜間の睡眠のあいだは窓を開けて眠るのだが、今夜はちっとも風が入らない。こういう日はいっそ眠ることを諦めて、居間にでも行って寝酒を煽ろうかな、と考えていると、部屋の扉が控えめにノックされた。「入っていい?」妻の声はか細い。
起き上がり、曜一郎から扉を開けた。パジャマ姿で茉莉が立っている。もっとも今夜は、この家にはふたりしかいない。長女の藍も次女の茜も、学校主催のサマーキャンプに出掛けている。
「こんばんは」と妻は夜の挨拶をした。
「どうしたの?」
「寝苦しいから、こっちで寝ようと思って」
この台詞にはとても驚いた。
「いいけど、僕の部屋も暑いよ。暑いから居間で酒でも飲もうかと思ってたところ」
「じゃあ、私もそうする」
ふたりで居間へ向かい、茉莉は冷房を入れ直し、曜一郎はアルコールを用意した。茉莉ははっきり言って酒豪だが、曜一郎はほとんど下戸に近い。飲酒のペースが合ったことはなかった。
水で割ったごく薄い梅酒を自分に、茉莉にはロックの梅酒を渡した。これは茉莉の弟・樹生からもらってきたものだ。正確に言えば彼の育ての親・草刈早が漬けたもので、この梅酒をはじめて飲んだ時の美味しさが忘れられなかったので彼女にお願いして毎年梅酒を分けてもらっている。
広いカウチに、ふたり並んで座る。梅酒をひとくち口にすると、茉莉は「もう他の誰とも寝ない」と言った。
「もし誰かと寝たら、私を殺していいよ」
「いやだよ、そんなの。……ごめんだ、」
滅多なことを言わないでくれ、と言うと、彼女は大人しく「ごめんなさい」と言った。
「でも、本気よ」
「きみにそんなことが出来るのか、僕は思えないな。実行できたとして、……僕はきみを満足にしてあげられない。なんてったってへたくそだからね」
「知ってる。仕方がないよね、指が攣るんだから」
その台詞にハッとして隣にいる妻を見た。誰にも、親にも、兄弟にも、妻にさえ言ったことのない曜一郎の癖を、彼女は気付いていた。
「分からないとでも思ってたの?」と言われる。
「はじめてデートしたときにもう気付いてた。指、痛い?」
「痛いわけじゃないんだ。痛いときもあるけど、……びっくりした」
茉莉は曜一郎の手を取って、中指をやさしく撫でる。こういうことは過去の誰にもされたことがなく、安心感と心地よさと、少しの申し訳なさを曜一郎にもたらす。
そのまま指とゆびを絡めて手をつないだ。つないだまま酒をちびちびと舐める。
「子どもが欲しい」と茉莉が呟く。曜一郎は再び驚く羽目になった。「え?」
「なんて声出すの。それとも私とのことをもう、嫌だと思う?」
「そうじゃない、そうじゃないんだ。えっと、……これから産もうって話?」
「そう。今度は男の子を育ててみたいなって」
「いまから産むのは、大変だろう? 高齢出産になるんだし、」
「確かにそうだけど、初産じゃないならなんとかなるでしょう」
茉莉はふっと笑った。心から穏やかな顔をしていて、彼女のこんな表情を曜一郎はいままで見たことがなかった。
彼女の中で、なにかが変化した。
笑顔を見て、曜一郎は泣きたくなるような、嬉しいような、複雑な気持ちになる。胸が熱くて鼻の奥がキンと痛む。少しうなだれてから、「きっと大変だよ」と妻に告げる。
「そうかな。楽しいと思うわ」
「藍や茜の頃みたいな体力が僕にはないなあって」
「藍や茜を巻きこんじゃえばいいのよ」
「家族みんなで育てる?」
「私はよく分からないんだけど、そういうものなんじゃないの、家庭って」
その台詞が辛かった。彼女の身の上に起きた話を、もうこれ以上彼女に重ねたくなかった。
「男の子なら、樹生くんみたいに背の高い格好いい子になるかな」と、努めて明るく言った。
「まさか。曜一郎との子なのに、なんであの子みたいな子どもになっちゃうの。あなたに似るわ」
妻はきっぱりと言い放つ。つないだ手は汗ばんで来ていたが、離そうとは思わない。
「男の子、いいね」
「でしょう?」
「女の子ももちろん」
「ね。なかなか素敵なアイディアだと思わない?」
「思うよ」
その日は夜じゅうふたりで喋っていた。くだらないことも真剣なことも全て巻き込んで。
手はつないだまま、けれど曜一郎の指はその夜、攣らなかった。
End.
← 前編
麻痺と言うにはやや違う。眞仲曜一郎(まなかよういちろう)の右手の中指には「攣る」癖がある。
大事なときに限って攣る指のことを、誰にも話したことはない。原因は分からないが、ここは慎重に行いたいと思うときに、指はぴきっと、曜一郎にしか聞こえない僅かな音をさせて、棒のようになってしまう。時に痛みを伴うから、竦む。図画工作の授業の、大事な一筆を入れる瞬間。技術の授業の数ミリの位置にのこぎりを当てたとき、はじめて出来た彼女の背を抱き寄せたいと思ったとき。肝心なところで攣るのは極度のあがり症だからだろうか。原因はよく分からない。分からないが、このことは黙っていようと決めた。欠点は隠し通したかった。勉強は出来たので、技術職に就かなければいいだろう、そう考えた。
妻に関しては、申し訳ない、の言葉に尽きる。曜一郎の指が攣るから。力加減を誤るから、彼女を満足にさせてあげられない。ずっとそう思って来たし、いまでも思っている。
だからよその男と寝るのは仕方がない、と諦めてもいた。結婚している他の同僚や友人らから話を聞けば、「妻」といつまでもセックスできるなんて変態だ、と豪語するやつもいたので、夫婦とはそういうものなのだろうとも思った。
ただ、彼女が曜一郎ではない男とホテルに入っていくところを目撃してしまったときは、目の前が真っ赤になった。足元からじんと痺れ、曜一郎を支配した感情は「怒り」だった。妻のことを自分の所有物のように思っており、それを取られた、と思った。相手の男に怒り、妻に怒り、自分に対して怒った。
感情のままに別居を告げ、娘ふたりを連れて実家に一時的に戻った。だが娘たちは家に、妻の元へ帰ることを望み、離縁しようかどうしようかの踏ん切りもつかずにいた冬の終わりに、別居生活は解けた。
妻の方から「一緒に暮らしたい」と連絡があったとき、嘘だろ、と思ったものだ。
彼女は曜一郎を望んだ。望まれるなんて思ってもいなかったから、単純に嬉しかった。
大事なときに限って攣る指のことを、誰にも話したことはない。原因は分からないが、ここは慎重に行いたいと思うときに、指はぴきっと、曜一郎にしか聞こえない僅かな音をさせて、棒のようになってしまう。時に痛みを伴うから、竦む。図画工作の授業の、大事な一筆を入れる瞬間。技術の授業の数ミリの位置にのこぎりを当てたとき、はじめて出来た彼女の背を抱き寄せたいと思ったとき。肝心なところで攣るのは極度のあがり症だからだろうか。原因はよく分からない。分からないが、このことは黙っていようと決めた。欠点は隠し通したかった。勉強は出来たので、技術職に就かなければいいだろう、そう考えた。
妻に関しては、申し訳ない、の言葉に尽きる。曜一郎の指が攣るから。力加減を誤るから、彼女を満足にさせてあげられない。ずっとそう思って来たし、いまでも思っている。
だからよその男と寝るのは仕方がない、と諦めてもいた。結婚している他の同僚や友人らから話を聞けば、「妻」といつまでもセックスできるなんて変態だ、と豪語するやつもいたので、夫婦とはそういうものなのだろうとも思った。
ただ、彼女が曜一郎ではない男とホテルに入っていくところを目撃してしまったときは、目の前が真っ赤になった。足元からじんと痺れ、曜一郎を支配した感情は「怒り」だった。妻のことを自分の所有物のように思っており、それを取られた、と思った。相手の男に怒り、妻に怒り、自分に対して怒った。
感情のままに別居を告げ、娘ふたりを連れて実家に一時的に戻った。だが娘たちは家に、妻の元へ帰ることを望み、離縁しようかどうしようかの踏ん切りもつかずにいた冬の終わりに、別居生活は解けた。
妻の方から「一緒に暮らしたい」と連絡があったとき、嘘だろ、と思ったものだ。
彼女は曜一郎を望んだ。望まれるなんて思ってもいなかったから、単純に嬉しかった。
岩永茉莉をはじめて見たときの衝撃が凄まじかった。大学生活も最後の年で、他校の女子学生と飲み会をするから来ないかと仲間に誘われてついて行った、その席に彼女はいた。曜一郎はただの人数合わせだということは分かっていた。自分の取り柄といえば仲間らよりは勉強が出来ることぐらいで、見目は地味だし、運動もだめで、女の子を喜ばせてあげられるような気の利いたひと言も言えない。そんな自分に興味を持つ人間などいないだろう、と思っていた。
けれどその飲み会の席について行って、曜一郎は茉莉を見て恋に落ちてしまった。彼女は美しかった。とてつもない美人のくせにちっとも笑わず、周囲を拒んだまま食事を淡々と続けた。そこが素敵だった。孤高の女王様に出会えて、曜一郎はこの飲み会をセッティングしてくれた友人に感謝すらした。ひと言も話せなかったけれど、話す必要も感じなかった。謁見出来て光栄。そういう気持ちだった。
飲み会は誰ひとり収穫なく終え、プレイボーイで名をはせる友人も茉莉の連絡先すら得ることは叶わなかった。さようなら女王様。そういう、ある意味満足した気持ちで帰宅したのに、一週間後、彼女と再会した。
曜一郎はいつもの仲間と街中を歩いていて、女王様はひとりだった。ばったりと出くわしたことに仲間は喜び、先日のリベンジとばかりに彼女を食事に誘った。
だが女王様の返事は「誰?」だった。
「えー、こないだ一緒に飲んだじゃん」
「覚えてないわ。覚える必要もなかったのかしらね」
「じゃあ今日これから覚えることにしてさ、食事にでも行かない?」
「結構よ。ひとりでいい」
一向になびかずつれない態度を取る女王様に、仲間が苛立ち始めた。まあまあ、もう行こうよ、と仲間をなだめようとすると、ふと女王様の視線が曜一郎に止まった。
きつい、つんと澄んだ美しい瞳。透けるような黒目が曜一郎に向けられて、曜一郎は落ち着かない気持ちになった。
「――あなたは覚えてる」と彼女は目を見たまま言った。
「眞仲曜一郎」
「えっ」
「あなたとだったら食事に行ってもいい」
仲間内から動揺の声が上がる。なんで眞仲? おれのことは? ひとりでいいって言ったのに? 口々に仲間が不満を訴えたが、曜一郎の耳には入ってこなかった。雲の上にいる人に手を伸ばそうとも思わないように、岩永茉莉に対して曜一郎が抱く気持ちは、そういうものだった。同じ時代に生きてはいても、暮らしは決して同期しない。次元が違う、宗教が違う、国が違う。同じ言語を介しているだけ奇跡とさえ思っていた。
女王様の視線がいま、曜一郎に向けられている。好奇心かもしれない。食事に行ってもいいだなんて……――曜一郎が「なにが食べたい?」と照れも恥じらいもなくストレートに訊ねられたのは、「きっとこれ一度きりだから、やらない後悔よりやる後悔だ」という潔い気持ちからだった。
「あなたに任せる。私に好き嫌いはないから」
「じゃあ、そこの角のパン屋のタイムセール品でも文句言わない?」
「言わない。美味しいよね、あそこの惣菜パン」
話はそれで充分だった。
そんなわけで僕は行くから、と茉莉を伴って仲間から離れる。普段だったら仲間を見返してやれたようで、優越感が最高に気持ちいい、と感じたかもしれない。けれどこの時の曜一郎は、全くそんなことを感じていなかった。ただ茉莉と共に過ごせる時間に舞い上がっていた。
ふたりきりになってから曜一郎は財布を取り出して所持金を確かめた。こんなのは女性のいないところで確認すべきなのだろうが、格好つけるなんて頭はなかった。だってこれ一度きりだ。取り繕っていい格好しようとも、彼女には見透かされるような気もしたし、そんなに器用なタイプでもないのでぼろが出るだろう。
本当に角のパン屋のタイムセール品になってしまうな、とぼやいたら、茉莉はきょとんとして「パン食べないの?」と訊ねてきた。
「いや、冗談のつもりだったんだ。ちょっと待っててくれればお金おろしてくるよ」
「そうなの? 私はすっかりパンを食べるつもりになってた」
その言い方があまりにもがっかりしていたので、曜一郎の方こそ驚く。
「本当になんでもいいんだ」
「あんまりお金がないから、選り好みしてると食い逃すの。あなたの提案で充分よ」
「タイムセール50円のパンで、公園のベンチでお茶とか、そんなナンパは聞いたことないしされたこともないんじゃない?」
「あなたがそれでもいい? って聞いたのに?」
可笑しい、と茉莉は笑う。あ、笑顔を初めて見るなと思った。氷で閉ざされた国の女王様は、ほころぶとこんなに愛らしく素敵で、曜一郎はころっと恋に転げる。
魅力的な人だと思った。そんな人と時間を共にできる喜び。
「茉莉さん、て呼んでいい?」と訊ねると、彼女は首を横に振った。
「茉莉、でいい」
「いいの?」
「いいの。私も曜一郎、って呼ぶわ」
ごく自然に手が二の腕に添えられる。その手を取って、腕を組んで歩いた。指は攣ったが、手を離したりはしなかった。離したくなかった。
パン屋のタイムセールは売り切れで、結局自販機のコーヒーを買って公園でお茶をした。一度で終わることが惜しくて、次回こそ、と次をねだったら、茉莉は「いいよ」と曜一郎には甘かった。
けれどその飲み会の席について行って、曜一郎は茉莉を見て恋に落ちてしまった。彼女は美しかった。とてつもない美人のくせにちっとも笑わず、周囲を拒んだまま食事を淡々と続けた。そこが素敵だった。孤高の女王様に出会えて、曜一郎はこの飲み会をセッティングしてくれた友人に感謝すらした。ひと言も話せなかったけれど、話す必要も感じなかった。謁見出来て光栄。そういう気持ちだった。
飲み会は誰ひとり収穫なく終え、プレイボーイで名をはせる友人も茉莉の連絡先すら得ることは叶わなかった。さようなら女王様。そういう、ある意味満足した気持ちで帰宅したのに、一週間後、彼女と再会した。
曜一郎はいつもの仲間と街中を歩いていて、女王様はひとりだった。ばったりと出くわしたことに仲間は喜び、先日のリベンジとばかりに彼女を食事に誘った。
だが女王様の返事は「誰?」だった。
「えー、こないだ一緒に飲んだじゃん」
「覚えてないわ。覚える必要もなかったのかしらね」
「じゃあ今日これから覚えることにしてさ、食事にでも行かない?」
「結構よ。ひとりでいい」
一向になびかずつれない態度を取る女王様に、仲間が苛立ち始めた。まあまあ、もう行こうよ、と仲間をなだめようとすると、ふと女王様の視線が曜一郎に止まった。
きつい、つんと澄んだ美しい瞳。透けるような黒目が曜一郎に向けられて、曜一郎は落ち着かない気持ちになった。
「――あなたは覚えてる」と彼女は目を見たまま言った。
「眞仲曜一郎」
「えっ」
「あなたとだったら食事に行ってもいい」
仲間内から動揺の声が上がる。なんで眞仲? おれのことは? ひとりでいいって言ったのに? 口々に仲間が不満を訴えたが、曜一郎の耳には入ってこなかった。雲の上にいる人に手を伸ばそうとも思わないように、岩永茉莉に対して曜一郎が抱く気持ちは、そういうものだった。同じ時代に生きてはいても、暮らしは決して同期しない。次元が違う、宗教が違う、国が違う。同じ言語を介しているだけ奇跡とさえ思っていた。
女王様の視線がいま、曜一郎に向けられている。好奇心かもしれない。食事に行ってもいいだなんて……――曜一郎が「なにが食べたい?」と照れも恥じらいもなくストレートに訊ねられたのは、「きっとこれ一度きりだから、やらない後悔よりやる後悔だ」という潔い気持ちからだった。
「あなたに任せる。私に好き嫌いはないから」
「じゃあ、そこの角のパン屋のタイムセール品でも文句言わない?」
「言わない。美味しいよね、あそこの惣菜パン」
話はそれで充分だった。
そんなわけで僕は行くから、と茉莉を伴って仲間から離れる。普段だったら仲間を見返してやれたようで、優越感が最高に気持ちいい、と感じたかもしれない。けれどこの時の曜一郎は、全くそんなことを感じていなかった。ただ茉莉と共に過ごせる時間に舞い上がっていた。
ふたりきりになってから曜一郎は財布を取り出して所持金を確かめた。こんなのは女性のいないところで確認すべきなのだろうが、格好つけるなんて頭はなかった。だってこれ一度きりだ。取り繕っていい格好しようとも、彼女には見透かされるような気もしたし、そんなに器用なタイプでもないのでぼろが出るだろう。
本当に角のパン屋のタイムセール品になってしまうな、とぼやいたら、茉莉はきょとんとして「パン食べないの?」と訊ねてきた。
「いや、冗談のつもりだったんだ。ちょっと待っててくれればお金おろしてくるよ」
「そうなの? 私はすっかりパンを食べるつもりになってた」
その言い方があまりにもがっかりしていたので、曜一郎の方こそ驚く。
「本当になんでもいいんだ」
「あんまりお金がないから、選り好みしてると食い逃すの。あなたの提案で充分よ」
「タイムセール50円のパンで、公園のベンチでお茶とか、そんなナンパは聞いたことないしされたこともないんじゃない?」
「あなたがそれでもいい? って聞いたのに?」
可笑しい、と茉莉は笑う。あ、笑顔を初めて見るなと思った。氷で閉ざされた国の女王様は、ほころぶとこんなに愛らしく素敵で、曜一郎はころっと恋に転げる。
魅力的な人だと思った。そんな人と時間を共にできる喜び。
「茉莉さん、て呼んでいい?」と訊ねると、彼女は首を横に振った。
「茉莉、でいい」
「いいの?」
「いいの。私も曜一郎、って呼ぶわ」
ごく自然に手が二の腕に添えられる。その手を取って、腕を組んで歩いた。指は攣ったが、手を離したりはしなかった。離したくなかった。
パン屋のタイムセールは売り切れで、結局自販機のコーヒーを買って公園でお茶をした。一度で終わることが惜しくて、次回こそ、と次をねだったら、茉莉は「いいよ」と曜一郎には甘かった。
交際を始めたが、体を繋ぐ関係には、けれどなかなか至らなかった。半年ぐらいは会っても食事ばかりした。茉莉の生い立ちは交際直後に聞いていて、ゆえに彼女がいつも腹を空かしていることが分かったから、余計にそうだったのかもしれない。
初めて体を重ねた日は、雪が舞っていた。寒さに耐えかねてしたキスが深くなり、肌を合わせた。だが曜一郎の指は攣る。寒いと余計に強張り、痛みも増した。竦みながら最悪なセックスをした。ことが済むと茉莉は一言、「下手ね」と言った。
男としてのプライドというものは、彼女に対しては元よりない。だから砕かれるものはなかったのだが、曜一郎はこの時ほど強張る指に腹が立ったことはなかった。
だが茉莉は「下手でも、目的は果たせるからね」と言った。
「――え?」
「私の卵子と、あなたの精子が、結びついて受精すれば、成功。子どもが出来る」
「……きみ、僕の子どもを産んでくれるの?」
「あなたの子どもじゃないわ。あなたと私の子どもよ」
曜一郎は驚いて声も出なかった。
「曜一郎、顔が真っ白」茉莉のたおやかな手が頬に伸びる。
「寒いんだ」
「雪、降ってるね」
「うん」
「積もるかな」
「どうだろう」
「静かなのは、いい。賑やかなのは嫌い」
「そうなんだ? 僕はわりと好きだよ、人が集まってざわざわしているところにいるの」
思うに、彼女とは体を交わすより言葉を交わす時間の方が圧倒的に濃密だった。
春、曜一郎は大学を卒業し、就職した。交際は続いた。茉莉も学校を卒業し、しばらくの後にプロポーズをして、結婚した。言ったとおりに茉莉は「あなたと私の」子を産んでくれた。
幸福な家庭だと思った。
茉莉が男遊びをする、ただその一点を除いては。
→ 後編
初めて体を重ねた日は、雪が舞っていた。寒さに耐えかねてしたキスが深くなり、肌を合わせた。だが曜一郎の指は攣る。寒いと余計に強張り、痛みも増した。竦みながら最悪なセックスをした。ことが済むと茉莉は一言、「下手ね」と言った。
男としてのプライドというものは、彼女に対しては元よりない。だから砕かれるものはなかったのだが、曜一郎はこの時ほど強張る指に腹が立ったことはなかった。
だが茉莉は「下手でも、目的は果たせるからね」と言った。
「――え?」
「私の卵子と、あなたの精子が、結びついて受精すれば、成功。子どもが出来る」
「……きみ、僕の子どもを産んでくれるの?」
「あなたの子どもじゃないわ。あなたと私の子どもよ」
曜一郎は驚いて声も出なかった。
「曜一郎、顔が真っ白」茉莉のたおやかな手が頬に伸びる。
「寒いんだ」
「雪、降ってるね」
「うん」
「積もるかな」
「どうだろう」
「静かなのは、いい。賑やかなのは嫌い」
「そうなんだ? 僕はわりと好きだよ、人が集まってざわざわしているところにいるの」
思うに、彼女とは体を交わすより言葉を交わす時間の方が圧倒的に濃密だった。
春、曜一郎は大学を卒業し、就職した。交際は続いた。茉莉も学校を卒業し、しばらくの後にプロポーズをして、結婚した。言ったとおりに茉莉は「あなたと私の」子を産んでくれた。
幸福な家庭だと思った。
茉莉が男遊びをする、ただその一点を除いては。
→ 後編
今年もまたK高地は開山を迎え、山荘の営業がはじまって一か月ほどが過ぎた。
標高が高いために木立にはまだ葉がつかず、山々にも残雪がたっぷりあるのがよく見える。この時期は野鳥観察を目的とする客がよく入る。葉が茂らないため、梢に鳥が止まっていれば発見しやすく、バードウオッチングには最適なのだと客から聞いた。
最近は、山荘の経営を後進に譲りつつある。妹の息子、つまり甥っ子が根っからの山好きで、学生時代からちょくちょく山荘に来ては手伝っていた。妻も子どももいないのであればちょうどいいのではないかと妹と話し合い、本人も乗り気だったので、ゆくゆくは彼にここを継いでもらう前提で、いまは色んなことを教えている。
甥は今年で三十歳になる。歳をとるはずだよな、と甥や若い従業員らを見て思う。調理場を覗いてももう有起哉はいない。何年か前にここを辞めて山を下りた彼はいま、妻と子どもと孫に囲まれて豊かな老後を過ごしているはずだ。
冬の終わりに会った姉弟のことを思い出す。美藤にそっくりだった娘、直生にそっくりだった息子。確かな意思で殴られた箇所はあの後けっこう腫れた。従業員らに「社長、どうしたんですか?」と訊かれるたび、嘘の答えを述べるのは面倒くさかった。
可哀想な孤児たち。あの後彼らはどうしただろう。すこし考えて、だが自分の知った事ではないなと通孝は思いなおす。よく似ていても、別人だ。通孝が望む男ではない。
ザックに食料や防寒具、雨具などを詰め込んでいると、甥が顔を出した。
「あれ? どこか登ります?」と彼は訊いた。
「うん、K高地の観光センターからの依頼で、この時期の山の写真を撮りにね。ホームページに載せたり、パンフレットを新しくしたりするそうだ」
「あ、なんだ。おれはてっきりまたH岳に行くのかなって。でもまだ雪が残ってるから大丈夫かなって」
「違うんだ、今回はH岳には行かない。D沢へ行くだけだよ。夕方には戻る」
「分かりました」
と言って甥は一度下がったが、「違うちがう」と言って再び顔を覗かせた。
「お客様お見えになってます。社長にお会いしたいと言って、アポなしだそうですが」
甥が受け取ったという名刺を見せられる。旅行会社の営業のようだった。
「不在だと言ってくれ。これで出てしまうから。きみが話を聞いておいてくれればいいよ。対応に困ったら支配人に聞くか、僕に電話をくれ」
「はあい」
甥は下がる。通孝は荷物を背負うと、裏口からそっと抜け出した。甥が本格的に経営に携わるようになってくれたので、自由時間が増え、好きに行動できるようになった。いわゆる隠居の生活が見えている。もっとも体力は年々落ちていくばかりだから、いつまで好きに動けるかは分からない。
D沢の湿原を歩き、写真を撮りながら徐々に高度を上げていく。時折、忘れぬようにメモを取る。歩いていくと雪渓に出くわしたので、さてどう超えたものかな、としばらく考える。雪の様子を見て、アイゼンを履いた。一歩一歩慎重に踏んで、雪渓を登っていく。
途中、振り返ると素晴らしく晴れた春の街並みがはるか遠くに見えた。街は様々なものを反射してきらきらと光っている。通孝は目を細め、やがて決意してまた雪渓を登り始める、その時だった。
留め方が甘かったのか、片足のアイゼンが外れ、靴底が滑った。バランスを崩して転び、そのまま数メートルほど斜面を滑り落ちた。岩に強かに体を打ち付けて止まる。背から打ったので背負っていたザックがうまくクッションとなったが、手袋やサングラスは滑っている途中で外れ、雪の斜面に点々と散った。
衝撃に、しばらく体を丸めて呻いた。たいしたことはない。衝撃が薄れて来ると通孝は半身を起こして、その場に座り込んでザックを下ろした。頬がひりひりする。降って溶けてを繰り返し硬くザラメ状になった雪で擦った。
――ああ、生きているな、と思った。
生きているから痛いと感じる。直生はとっくに死んだというのに、自分は直生のいないこの世界をもう何十年と生きてしまっている。こんなめに遭ってもピンピンしている。あとどれくらい生きるだろう。どんな死に方をするだろう。出来れば――あの日、来客なんか放って直生と共に山に登り、共に滑落して、死にたかった。
ザックを枕にしてごろりと寝そべる。信じられないぐらいに澄んだ青空だった。通孝は眩しくて目を閉じる。生きているから眩しいと感じる。
目尻から涙が一筋だけこぼれた。頬に流れて沁みて痛い。むなしさが心の内側にこんなに切々とあるのに、山は、空は、森は、木々は、こんなにも美しい。
ああ、生きているなと、再び思う。それは喜びとほぼ同一の、深いふかい悲しみだった。
End.
← 12
通孝は気づけば舌打ちしていた。有起哉は情事の痕跡を残したがらなかったが、確かに自分でせがんで噛んだり吸ったり、そういうことをさせて遊んだ時期があった。出来るだけ人に見られぬよう注意をはかっていたつもりだったが、直生に対しては鈍いから気付くまいと油断もしていた。
舌打ちに、通孝は直生に対して怒ったのだと勘違いしたようで、直生は即座に「怒らせてごめん」と謝った。
「違っていたら、」
「いや、違わない。自分の行動の甘さに腹が立っただけだ。そうだよ、僕はゲイだ。……気持ち悪いよな」
と言ったが、直生はやわらかく微笑んで顔を振った。
「気持ち悪くはないよ。びっくりはしたけど、でも、その、……きみはそんなに、なんていうのかな、がつがつしてないっていうか、」
そこで言葉を区切り、考え、また発言を続けた。
「セクシュアルな部分を、少なくともおれは見たことがなかったから」
「……」それは出さないように最大限注意を払っていたからだった。直生にだけは嫌われたくなかったし、蔑まれたくなかったし、ホモで気持ち悪いなどと思ってほしくなかった。
「うん、……きみのこと全然知らなかった。きみの秘密を探って当てちゃって、だからの交換条件ってわけじゃなくて、おれももう白状するんだけど、……中学生のころ、おれは、母親と関係してた」
それを聞いて、通孝は目を見開いた。わん、と耳の奥でいま聞いた台詞がおかしなふうに増幅される。
――母親と関係してた。
「驚くよね。……でもこれはずっと、きみには言いたい、と思ってたんだ。ようやく言えた、こんな歳になってさ」
「直生、それ、もしかして鳥飼は、」
「いや、早先生には言わなかった。言えなかったよ。毎晩母親にレイプされてますとかさ、……。母子家庭ってことで、色々と気にかけてはもらったけど、」
「……そういえば母親のこと、話してたな、きみは」
直生の母親は直生の父のことが大好きで、だが直生の父はアルコール依存で早世した。残された息子を見ると夫の面影を重ねて辛い、だからひっぱたいたり、急に抱きしめて来たり――。
『親が子どもを食っちゃうんだなって、思って』と、いつかの直生の台詞が不意に蘇る。あの真意。
「中学になって急に背が伸びて父に似て来た、……息子が『男』だと意識してしまった。地獄だったよ。寝てるあいだに布団に潜りこまれて、しゃぶられて、……泣きながら父親の名前、呼ぶんだ。拒絶すれば叩かれた。だから学校が終わっても家に帰らないようにしてた。もしくは押入れに閉じこもって内側からつっかえ棒して眠ったり。夏は暑くて何度も気を失ったな。
中学三年生できみと知り合えて、すぐ家に招いてくれただろ? ここにも呼んでくれた。安心できる逃げ場が出来て、心底ありがたかった。きみという存在は、本当に、本当に、おれにとっての救世主だったんだ。だから……結婚して子どもが出来てまた追い詰められてったときに、きみのところに逃げよう、って、逃げなきゃだめだって、そう思ってここへ来た。そしてまたきみはおれを助けてくれた。スーパーヒーローだよ。きみにどれだけ恩を返しても返せない。感謝、……それしか、ない」
通孝は知らずに涙を流していた。告白は、衝撃だった。驚き、悲しんだし、でも喜びが体を貫いていて、やはり辛かった。この男にとって自分はなにかかけがえのないものになれていること。けれどそれは自分が望んだ関係ではないこと。こんなときでもエゴイズムが顔を覗かせて、いやになる。
泣くなよ、と直生は情けなく笑った。それはいつもおれの役割じゃないか、と。手を伸ばしかけて彼はそれを引っ込めた。「不用意に触らない方がいい?」
ああそうか、ゲイである友人を気遣ってくれたんだなと、そのやさしさが腹だたしかった。
「いや、ゲイにだって好みはある。男だったらだれかれめっぽう構わず好きだってわけじゃないんだ」
「はは」
「そういうやつもいるけどな」
「……握手、してもいいかな」
「……いいよ、」
直生の大きな手が通孝の手を包む。はじめて好きな男にまともに触れたな、という感動に立っていられなくなるほどだった。固く握手をしてからは、どちらからともなく手を伸ばして体を引き寄せ、抱きしめあった。あくまでも友情がもたらすそれとして。心臓の音が伝わりませんようにと願いながら、間近で嗅ぐ男の体臭や、豊かな肉の質感に、狂喜していた。
同時に、これ以上の喜びはこの男からはない、と悟る。
「きみはヒーローだ。本当に、ありがとう」
「まだ、すぐここを下りるわけじゃないだろ、」ず、と鼻水をすする。
「そうなんだけどね。きみにきちんと、話したかった」
ドン、と荒っぽく背、というより腰の辺りを叩いてやる。「辛くなったらいつでも逃げて来いよ」
「いつか、きみの恋人の話も聞かせてくれ」
「そんなの、いないけどな」
「嘘言うなって」
「本当だよ」
ひと通り言い合って、体を離す。
その翌週、晴れを予感させる早朝。直生は「行って来ます」と言ってH岳連峰に入った。そしてついに「ただいま」は聞けず、だから「おかえり」も言えなかった。
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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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