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ごしゅじんが、引越しを決めた。
いま私たちがすみかとしているアパートから二駅ほど離れる。ここよりも少しだけ郊外にあるアパートだ。部屋の広さがちがう。いわゆる2LDKだとごしゅじんは威張っていたが、私にはよく分からない。私目線からすればとにかく広い、これに尽きる。
一階の角部屋で、日当たりがよく、すぐ裏は緑化公園になっている。子どもが遊べるような小川も流れている。築年数が古いので家賃はそれなりで済むらしい。
高梨夫人のご紹介である。高梨夫人というのは、ごしゅじんのネコ愛好家仲間だ。三年前に愛猫を寿命で亡くしてからはネコを飼っていないが、ごしゅじんの都合で私が家にいてほしくない時に、私を快く預かってくれる優しい夫人だ。ご主人(間違えそうであるが、高梨夫人のご主人、である)も私を可愛がってくださる。今回ごしゅじん(これは、私の飼い主のことである)が出張で家を空けたので、私は高梨邸に預けられた。受け取りに来たごしゅじんに、高梨夫人が「私のお友達が経営しているアパートで空きが出てね」と、教えてくれたのだ。
「コムギちゃんと住める、広くて庭のあるようなお部屋がいいんですよね」
「そうなんですけど、なかなか見つからなくて、」
部屋を探している、という話を、夫人には以前話してあった。
「アパートだからお庭はあっても大したことないし、古いけれど、近くにコムギちゃんがかけまわれるような緑がたくさんあるお部屋なんですよ。決めるなら早くしてほしいと言っていたから、連絡先を聞いてきました。内見だけでも行かれたらどうかしらね」
「え、本当に?」
ごしゅじんは行動の早い男だ。これは同じ男として見習わねばならぬと私は常々思っている。私を高梨夫人から受け取り、キャリーケースを抱えたまま、ごしゅじんはアパートの管理人に連絡を取り直接下見に向かった。部屋の前で待ち合わせた老年の管理人はキャリーケースの私を見て「気の早いことだ」と眉尻を下げた。ネコ好き、と見た。
「急な引越しで空いてね。古いけれどリフォームはしてあるから住み心地はいいはずさ。そのネコさんにも」
管理人は部屋の収納や間取りを説明してくれる。ベランダへ出るために大きく開いた窓の外は、草木でいっぱいだった。木漏れ日が古い板間にきらきらと差し込んでいる。玄関を入ってすぐに大きな広間があり、奥にふたつ部屋があるみたいだった。ひとつはここと同じフローリングのハチジョーで、もうひとつがタタミのロクジョーマさ、と管理人が言う。
「ひとりにゃちょっと広すぎるが、友達と住むのも恋人と住むのも自由さ。節度を守って生活してくれりゃあね」
「ここにします」
「え」
「ここに決めます。な、ここいいよな、コムギ」
同意を求められ、私は返事をする。本当はキャリーケースから出してほしい、という意味も込めていた。(そして出してはもらえなかったが。)一応ここは知らない家なので、もっと鳴いて暴れたいのを大人しくしているのだ。私は節度の守れるネコなのである。
後日改めて契約に行き、いまいるアパートとお別れの日も決まった。引越しは来週、五月の日曜日である。
ごしゅじんからその話を聞いたごしゅじんの恋人・浅野氏は、複雑な表情を浮かべた。「タイミング、わる、」
「……え、おまえも引越しだぞ。一緒に暮らすんだ、ぞ、」
「わ、わかってる……。そうじゃなくて、いま引っ越しても、ぼくはあんまり家にいられない」
浅野氏の言葉に、ごしゅじんは絶句した。「なんで?」の顔に、浅野氏は「来週から忙しくなっちゃうんだ」と答えた。
先月、ごしゅじんは浅野氏に共同生活をしないかと申し出て、浅野氏は受諾した。先月は浅野氏の誕生月で、デートの際にそう言ったようだ。(ようだ、というのは、私は高梨夫人の元へ預けられており、不在だったためだ。)浅野氏は私たちネコのことを得意としない人種であるが、最近はかなり慣れて、少しの滞在なら私も部屋から追い出されなくなった。自分から関わってはこないが、前ほど怯えることもない。これを見てごしゅじんは決めたのである。
家を出るのは初めてで間取りも値段もよく分からないからと、浅野氏は部屋選びをごしゅじんに丸投げしていた。こんなに早く決まるとは思っていなかったと言った。
「忙しいって、なんで? これで夏休み前のテスト期間まではちょっと余裕あるんじゃねえの?」
「いつもなら、そういう予定なんだけどさ。――N県にある遺跡の発掘許可が下りて、教授が行くことになった。講義もあるからずっと行ってるわけじゃないけど、しばらく往復生活」
「……まじか、」
「ちょっと大々的にやるんだよ、今回の調査。国の補助も出て、学生も学者もたくさん集まる。手続きとか準備とか色々、タイヘンでさ」
浅野氏は大学の研究室に勤めている。助手という立場で、講義は持たないが講義の補助及び事務仕事全般が彼の仕事である。薄給の身で多忙、ゆえに実家から通っている。今回のように教授のお伴で遠征したりもする。
夏ぐらいまでいまの生活が続きそうだ、と浅野氏は言った。
「夏までお預けなの、」
ごしゅじん、たいそうご不満な声である。
「ちょっと忙しいだけ。全く会えないわけじゃないしさ」
「――……すぐ一緒に暮らせると思ってたから」
そう言ってごしゅじんは、浅野氏の肩にこつんと頭を落とした。
「あてが外れて、さびしい」
しんみりした空気が部屋に流れる。だが私は大人しく寝ているのにいささか飽きてきた。遊んでほしいのだが。二人の背後にまわり、浅野氏の背中に手をかけて伸びをすると、浅野氏が「ひゃあっ」と悲鳴をあげた。
「おおっと、忘れてた」
緊張でかたまる浅野氏から私を剥がし、ごしゅじんは「まーこいついるしなー」と呟く。
「もうちっと仲良くならないと、暮らしにくいかもな」
そういうわけで、浅野氏の引越し及び同居は夏まで延期となった。
→ 2/2
この二人といっぴきの前のお話 「きみとぼくと猫の話」
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昼飯を一緒に作って食べた。冷蔵庫に余っていた野菜を刻みまくって嵩増ししたチャーハンだ。実家暮らしの浅野は、料理をしない。一緒に作ると言ってもあまり役に立たない。調味料の瓶を背の順に並べて喜んでいたぐらいだ。
一息つくと、ふらっと浅野は立ち上がり、僕のベッドへ勢いよく倒れ込んだ。昼を過ぎて日差しがダイレクトに部屋に入り始めた。ベッドの場所は、日当たりがいい。差し込む光に浅野は目を固く瞑った。
「美味かった。はらはちきれる。ねむい」
「寝るのは構わないけど、それじゃ眩しすぎるだろ」
傍へ行き、窓のブラインドを下げた。薄い緑色の綿地越しにも日光の強さが感じられる。ベッドの上でころんと寝返りを打った浅野は、ふと何かをつまみ上げた。「ネコの毛」
「今朝、掃除機もコロコロもかけたんだけど、残ってたか」
「……毎晩ここで一緒に寝てるんだよな、」
「……なんかそういう言い方だと、本妻の留守中に逢瀬に来た愛人、みたいだな、浅野」
「そういう話が好きだよな、宋ちゃん」
「見ちゃうね、昼ドラとか」
ちょっと眉間にしわを寄せて、ネコに本気で嫉妬を見せる恋人が、かわいい。乗り上げて顔を近付ける。一瞬だけためらい、僕を受け入れた。こんな時でもコムギを警戒しているのだ。
以前、夏場に僕の部屋でセックスをして、ネコのおかげで中断したことがあった。二人して夢中になっていたから、物音に気が付かなかった。浅野がいきなり「うわっ」と身体をこわばらせ、ぎょっとした。裏だからいいと思ってあけていた風呂場の窓から、どうしても中に入りたいコムギが侵入して、僕らの情事へ踏み込んだのだ。
反り返らせた爪先にあたたかい猫毛が触れて、浅野はパニックに陥った。よりにもよってこのタイミングで侵入を図る辺りさすがは僕の飼い猫である。ようやく浅野の中に入り込み、馴染むまでキスをして、いよいよ動こうかという頃だった。委縮した身体にきつく締め上げられ、僕は呻いた。
ここで止まるのは無理、と思ったのに止めざるを得なくなった。ケージに餌を置きコムギを閉じこめても、浅野の身体は警戒心でかたい。鳴き声に反応しては切なく僕を見上げるので、欲情していいんだかわるいんだか、僕も大変だった。再び沸騰状態へ持ち上げるのにかなり時間がかかった。
今日は大丈夫だから、と言い聞かす。どれだけ用心しているか、家じゅうの窓を示して聞かせた。腕に抱え込んで囁いているうちに、浅野の緊張がほどけてきた。「あー」と大きく息を吐く。
「ネコぐらいで情けないな、ぼくは」
「場所変えようか」
「いや、ここがいい」
起き上がり、浅野はTシャツを脱いだ。僕のシャツをたくし上げ、心臓の真上に耳を置いた。
「シーツから宋ちゃんのにおいがするから、ここがいいんだ」
もちろん、僕の心臓はとび跳ねる。全部どうでもよくなる。
*
浅野のいいところは、一度眠るとなかなか起きない点だ。ぐっすりとよく眠る。ネコもよく寝るから「寝子」なんだぞー、と小声で言ったが起きない。
外から聞こえたわずかな物音で、僕は起き上がった。
コムギの夕飯の時間は決まっている。夕方のちょっと早い時間に必ず戻ってくる。今日も庭石にちょこんと座り僕が家に入れてくれるのを待っていた。浅野が寝ているのをもう一度確認して、家に入れた。飯だけ食わせたらまた外へ出すか、ケージへ入れるかすれば、大丈夫だ。不意打ちがなければ、浅野が以前ほど極端にネコを怖がることは少なくなった。
今夜浅野は泊まっていくのか聞き損ねていた。僕らの夕飯はどうしようか。結局午後は寝たなあなどと思いつつ、流しに放っておいた食器を洗った。シャワーを浴びようかとか、コムギが家にいるなら外で飯を食おうかとか、あれこれ考えていたらコムギを見失った。慌ててベッドを覗く。コムギは、布団を巻きつけて寝入っている浅野の足もとで、手足を投げ出して毛づくろいをしていた。
ネコが、苦手な人間の傍ほど行きたがる話は有名だ。仲いいなあ、と笑みがこぼれる。テレビの横に置きっぱなしのコンパクトデジカメを取って来て、そっとシャッターを切った。浅野は起きず、コムギはつまらなそうにあくびをする。調子に乗って二・三枚撮った。
彼らにはぜひとも和解して頂きたい、と僕は思っている。いずれ僕は浅野と暮らしたい。どうしても無理だと言うなら諦めるが、どちらかを選べと言われても、かなり真剣に迷う。双方が仲良く僕の元で暮らしてくれるのが理想だ。両手に花、っていうのか。楽しい毎日になるともくろんでいる。
冷蔵庫に向かい、今夜のメニューをひねり出した。実家からせしめてきた蕎麦がある。桜エビと玉ねぎもあるからかき揚げがいい。ビールも冷えている。
そのうち匂いにつられて浅野が目を覚ます。足元にいるネコにぎょっとして、おそらく悲鳴をあげる。耳をすませながら支度を始めた。人が悪くて申し訳ないが、ちょっとわくわくしている。
End.
← 1/2
午前十一時に恋人が遊びに来る約束だ。窓を開け換気をし、家じゅうに掃除機をかける。今日は天気が良いから洗濯もあらん限りでしたし、風呂もトイレも磨いた。別にちょっとぐらい散らかっていたり汚れていたりしても文句は言われないが(むしろ「あんまりきちんとされるのもつまんない」と文句を言われるが)、性分というやつだ。恋人にかこつけないと、掃除なんかまともにやらない。
ぶみゃあ、と不細工な声で鳴きながら飼い猫のコムギが足へすり寄って来た。掃除機をかけまくっていたせいで、やつは落ち着かなかったのだ。オレンジに近い明るい茶色の、縞ネコだ。なんの雑種だか毛にボリュームがあり、そこらのネコよりふわふわ感をお楽しみいただけるのが自慢だ。しかし残念ながら本日は構えない。
「もうじき浅野が来るから、おまえ今日は外だよ」
ベランダの窓を開け、尻を手のひらで押しやる。不服申したい、顔をして僕を見上げる。抱き上げてベランダの縁に腰かけ、頭を撫でた。
「文句言ってもだめなんだ、浅野だから」
「天気が良くて、絶好の散歩日和だろう。春だし、男でも女でもデートに誘ってこいよ」
「のど鳴らしたってだめだぞ」
僕の手に頬をすり寄せ、ごろごろと甘えてみせる。最高にかわいく、和む。会社勤めのすさんだ生活を癒す、僕の大事な相棒だ。このままベランダでコムギとぼーっとしている一生も悪くない。
背後でインターフォンが鳴り、浅野の到着を知らせた。時間より五分早い。僕はコムギをベランダのコンクリートに下ろした。
「おら、行け。お帰りは遅めを希望する」
立ち上がりベランダの窓を閉めた。飼い主の一方的な都合で追い出された飼い猫は、外でしばらく鳴いたが、やがてどこかへ行った。後ろ姿を確認して、急いで玄関へ向かう。外に出したコムギと浅野が鉢合わせてはまずい。
恋人はネコが大の苦手なのである。
*
そーっと顔を出し、そーっと部屋の様子を窺った後、浅野は僕の顔を見た。「さっき外へ出したから大丈夫だよ」と言うと、浅野は慌てて中に入り扉を閉めた。
「どうも、毎度お手数をおかけいたしまして」
「別にいいよ。別れよう、って言わない恋人にむしろ感謝しているんだ」
「前よりはかなり克服したんだけどな、不意打ちは、どうもだめで」
靴を脱ぎながら手にしていたスーパーの袋を僕に寄越した。アイスクリームとペットボトルのサイダーが二つずつ入っている。「今日はあっつい」と言って、帽子も脱いだ。
部屋に上がってもまだ用心深くきょろきょろとあちこちを見渡す。グラスを持ってきて土産のサイダーを注ぐと、ようやく座った。ここへ来る途中、どこかの民家の塀でネコが派手に喧嘩していてびびったと、苦笑しながら話してくれた。
「子どもが泣いているかと思ったらネコだったんだ。すげえ怖くて、その道は通れなかった」
「春だからな」
「コムギも、オスだな。ああなんの?」
「なるなる。派手な喧嘩してぼろくそになって帰って来たこともあったよ」
飼いはじめて一年目の春、二日帰ってこないと思ったら目も開かないほど傷だらけになって帰宅したことがあった。頭のてっぺんで血が固まって、洗おうにも傷を嫌がって触らせてくれなかったので、しばらく小汚いままだった。その話をすると、浅野は「うええ」と嫌な顔をした。この男はネコも苦手だが、血の出る話も嫌いだ。任侠ドラマとサスペンスは絶対に見ない。
浅野曰く、存在が怖いという。音もなく忍び寄ってくるあたりが特に嫌だと言った。姿を認めたら、出来る限り遠くへ離れたい。付き合い始めの三年前、そんなにネコが苦手でどうしようか本気で悩んだ。これでは部屋には絶対に連れ込めない。
浅野は実家暮らしなので、緊急に二人きりになりたい時には浅野の部屋はつかえない。天敵がいては僕の部屋もつかう訳にいかないから、ホテルぐらいしか行き場所がない。お互いに働いているから金に特別困っている訳じゃないが、頻繁には利用できない。コムギを実家へ返すことまで考えた。悩んでいると、浅野は勇敢にも僕の部屋へ行きたいと言い出した。
結果は惨敗で、浅野は落ち着かずすぐにアパートを飛び出した。それでも部屋に行きたいと言い張る。仲良くなりたい意志はあるのだ。
「兄弟みたいなもんなんだろ。生まれるとこから面倒見て、大学進学で離れて淋しいからってわざわざこっちに連れてきたネコじゃないか。ぼくとよりも長い」
コムギは、僕が実家にいた頃に飼い猫のムギが産んだネコだ。全部でみっつ生まれて、ふたつはよそへ貰われていった。残ったコムギはしばらく実家で飼われていたが、二十歳の頃猛烈に淋しくなって連れてきて、いまに至る。学生の身分でネコを飼えるアパートを探すのはなかなか大変だった。いまの大家は寛大なので、助かっている。
「だから離すことないよ。ぼくさえネコを克服すれば解決する話なんだ」
そう言いながら克服できないでいるのだが、言い切った恋人に惚れ直したのは言うまでもない。僕はコムギと暮らし、浅野が来る時だけ外へ出したり友人へ預かってもらったりするのが、いつの間にか定着した。
→ 2/2
深谷にじっと見つめられるだけの時間が、もうどれぐらい過ぎただろう。今日が六日目、よく集中力が続く。いや、深谷曰くこれは「愉しんでいる」時間なのだから、集中力がどうとかこうとか、そういう話ではないのか。ソファに深く座ったきり動かないから寝ているかと勘違いしそうだが、目はずっとこちらへ傾けられている。微笑んでさえいる。
奇妙なバイトを引き受けたのは、報酬がやたらと高額であったからだ。一週間で十万。男に「鑑賞される」仕事だ。話を持ち込んだのは兄で、「世話になった人が若くて暇で口の堅い男を欲しがっているがおまえやらないか」という話に、詳細も聞かず食い付いた。一月に会社のリストラに遭い、職を探すもなかなか見つからず、実家で寝てばかりいる日々だった。断る理由なんかなかったし、一週間で十万は破格だ。
兄が世話になった人は、名を深谷と言った。四十代を超えるか超えないかぐらいで、痩せ型の身体に、ブルーグレイのセーターが似合った。すっと伸びた背が好印象だ。挨拶を交わした際の、温和な声も良かった。
その深谷の家で、一日を深谷の傍で好きに過ごすのがこのバイトだ。本を読もうがゲームをしようが、飯を食おうが寝ようが構わない。ただその間、おれはずっと深谷に見つめられ続ける。鑑賞される仕事、はそのままの意味だった。
黙って鑑賞を楽しんでいた深谷が、深く息を漏らして身じろいだ。「顎、少しあげて」
「……こうですか?」
深谷の向かいにあるカウチに寝転んで本を読んでいたおれは、深谷の命じるとおりに顔を持ち上げた。深谷が「もうちょっと」と言って、手を伸ばし顎先に触れてくる。喉仏をぐっと突き出すような体勢になった。
「くるしい?」
本を読むにしてはおかしな体勢を、深谷が訊いた。
「いや、平気」
「顎と喉の線が見たい」
再びソファに沈みながら、「いいよ」と満足げにため息をついた。深谷のために、しばらくその体勢でいてやる。鑑賞用の魚にでもなった気分だ。残念ながら、おれはごく平凡な顔と身体で、目を惹くカラーも造形もない。どこが楽しいのか分からない。こうやって深谷に見つめられ続けていると、身体の頼りなさを意識せざるを得ない。
兄の話では、深谷は独身で一人暮らしということだった。三十代で一度結婚をしているが、間もなく母親に介護が必要となり、薄情な妻とは数年の別居生活の末に別れたそうだ。その母親も今年のはじめに亡くなった。子どもはいない。古くこぢんまりとした住宅に今まで通り暮らし、会社に通っている。
真面目な人だと言うが、そんな真面目な人間が、こんなおかしな嗜好を楽しんでいる。抑圧され続けた生活から解放された反動、と言うだろうか。おれをうっとりと眺めては、満足の深い息を漏らす。おれの中になにかを見つけてはひっそりと笑う。
昼ごろから始めて、夕方には終わる仕事だ。たっぷり見つめられた後は夕飯を馳走になる。決まって宅配で、とびきり豪華なものをおれと自分のために用意した。うなぎだとか江戸前寿司だとかふぐだとか、食おうとも考えないような豪華なものばかりだ。
初日は緊張と強い羞恥でなにも食えなかった。じっと深谷に見つめられることが、恥ずかしくてたまらなかった。なにをしてもどう動いても熱のある視線が常におれに貼りついている。服なんか脱いじゃいないのに……――緊張しすぎた結果、二日目は早退した。疲労と緊張で熱を出した。
それでも三日目以降は順調で、深谷がいても自由にふるまえるようになった。大抵は深谷の家の本棚から一冊より抜き出して、それをめくっている。たまに深谷に命じられたり、或いは視線を意識したりして、顔を上げる。目が合っても、深谷はうすく笑うだけだ。はじめこそ恥ずかしくて目を逸らしてばかりいたが、逆に見返すようにしたら、おれも楽しくなった。そうやってほとんどなにも喋らず互いを見つめながら、時間を過ごしている。
日が暮れかかった頃、玄関のチャイムが鳴った。深谷が「今日はおしまいだ」と言って立ち上がった。デリバリーが届いたのだ。六日目の夕飯は中華で、深谷が器のふたを取る前に匂いで腹が鳴った。とろとろに煮込まれた豚肉や餡でとじられた海老、粽など、いつもより品数が多いのが嬉しい。早速箸を受け取り、食べる。
この仕事も、明日で終わる。一日早退してしまったが前金で渡された十万はそのままでいいと言われている。ほとんど喋らないから、深谷のことは兄から聞いた話の範囲でしか知らない。普段はどんな仕事をしているのか、こんな時期に一週間も休みを取れるような立場なのか。なんでこんな趣味なんか持ってしまったか、これは初めてなのかいつもこうして若い男を呼んでいるのか。おれが辞めたら、また新しいだれかを呼ぶのか。そこまで考えるとつまらくなり、おれは自分から口をひらいた。「次は、どんな人が来るんですか」
「――ないよ、ない。誰も来ないよ。こんなことするのは初めてだし、これから続けるつもりもないさ」
最初で最後だから、と深谷は笑った。鑑賞の際の恍惚とした笑みとは違う、人に向けられた豊かで朗らかな笑みだ。胸がくるしくなった。
「……なんで男を鑑賞ですか? おれなんか見てて、一日中それだけで、楽しい?」
「楽しいよ。あなたに来てもらえて正解だったから、あなたのお兄さんにはとても感謝している。ずっと夢だった。夢というか、野望だな、もう」
鑑賞の時間が終われば、深谷の目は驚くほど穏やかだ。あの目に見られすぎて、通常の深谷の方におれはうろたえた。
「大学の頃、教授にそういう噂が流れていた。自分の奥さんを夕食後に毎晩眺めているんだ、とか言って。そういうおかしな話が本当のことみたいに似合ってしまうような教授だったからな……ぼくだったら、っていうことをいつの間にか考えるようになった。ぼくだったら、若い男だ。好みに合う男を傍に置いて、一日中好きに眺められたらいいと、よく想像しては夢中になっていた」
箸を置き、茶を一口飲んで深谷は息を吐く。
「思ったって心の中で思う範疇の話で実行は出来なかったさ。真面目に働いて、母親の面倒を見て、妻とは顔も合わせない、つまらなくて最悪な日々をずっと過ごしてきたんだけど、それが今年になって急に自由になった。解放されたと思った。今までしたくても実行できなかったことをしようと決めたが、どこにどう頼んだらいいのかさっぱり分からなかった。それで、あなたのお兄さんに相談したんだ」
「……おれで良かった? 若いっても、おれもう二十七歳とか…」
もっと若いのとか、かわいいのとか、スタイルがいいとか見た目がキレーなやつとか、街に出ればその辺にたくさんいる。インターネットの掲示板でも使えば簡単に引っかかる。おれは本当に普通で、鑑賞に適しているようには思わない。
言いかけて、それ以上は口をつぐんだ。単に深谷がおれに満足している事実を確かめたいだけだ。「なんでもないです」と打ち消したが、深谷はほほ笑みながら首を横に振った。
「あなたは最高だ」
望む言葉を望んだように口にされて、充実感が身体中を巡った。顔から火が出るぐらいに熱い。身体をぴりぴりと駆ける熱で興奮して、つらいのに心地が良くて、目がまわる。
深谷の言葉に酔いながらおれは思う。このままこのバイトを続けていたら、いつか全部見せる日が来る。服を脱ぎ、全裸になる。深谷が望めば、自慰だってきっと見せる。
七日目も変わりなく終え、バイトは終了した。最終日の食事は高級料亭の仕出し料理で、重箱に入っていた。普段じゃありえないほど豪華な飯を食いながら、まだこの家に通いたい、と思っていた。深谷に見られたい。最高だと言ってほしい。料理の味はよくわかんなかった。
ボーナスだと言って三万円余計にもらって、帰宅した。深谷は明日からまた仕事に行くようだ。今回のことは他言しない約束である。虚しくて、淋しい。あの目を押し隠し、世間に合わせて顔を繕い、会社へ通う深谷の姿を想像する。残念でたまらない。
むなしさを抱えた三月の終わりに、再就職先が決まった。やけくそで受けたのに、タイミングが良かった。新入社員として仕事が始まってしまえば、深谷のことは次第に薄れる。そういう日々でなければいけない。夢中で働いて、新しいことを無理やり身体に詰め込む。
深谷はなかなかおれの頭から去ってくれなかった。夢に見る。どこかでおれを見ているじゃないかという妄想にも駆られて、本当に気が狂いそうだった。家に押しかけてしまいたくなる衝動を抱えため息をついていた五月、前触れなく深谷と再会した。
駅へ向かう路地で偶然出くわしたのだ。目が合ったら、離せないのは当然だった。向こうの動揺は見て取れたが、深谷もおれの心情なんかお見通しだったと思う。
街路樹のハナミズキが風を受けて終わりかけの花を散らしている。
「――びっくりした」
「それおれの台詞、」
思いがけない場所で会えて、声を聞けば戸惑いよりも嬉しさの方が先に沸いた。深谷は出先から会社へ戻る途中だと言い、おれは会社から出先へ向かう途中だった。お互いに会社員らしくネクタイを締めていて、そういえばこの姿を見るのは初めてだと、気付いたのも同時だったと思う。
就職が決まったことを深谷は喜んでくれた。シャツが薄いせいで深谷の肩の骨や肘が透けて見えた。きちんと上げた前髪がよくいる会社員のようで腹が立つ。憮然としたまま、ありがとうございます、と礼を言った。
「なんだかこういう格好だと雰囲気が違って、照れるもんだね」
「深谷さん、毎日同じセーター着てたな。おれもテキトーだったし、」
「うん、あの時はまだ寒くて」
袖を無造作に捲った腕にちらっと視線を落とし、再びおれの顔を見て「にあうよ」と深谷は笑った。艶を含んだ、時間を忘れる目だ。アスファルトに膝をつきそうになるのを必死でこらえる。
傾きかけた身体に、さっと深谷の手が伸びる。添えただけのわずかな体温でだめになる。
「――その目は、ここでしないでくれ。……いまこんな場所で崩れるわけにはいかないんだ」
絞るように言うと、深谷はぱっと手をあげておれから距離を置いた。面食らった顔をしている。「すまない」の言い方が本気で弱り切っていた。
ほんの少し見たり触れようとしただけでお互いこれほどまでやわくなってしまうのだから、会ってはいけなかったのかもしれない。
「――深谷さん、お休みはいつですか」
「ぼくはカレンダー通りで……あなたは、」
「良かった。おれも一緒だ」
土曜日、行きます。街の雑音に紛れながら、おれは深谷に伝える。深谷は答えなかったが、笑った。猫のように細くなった瞳に、ほの暗い官能が宿っている。
ざあっと風が吹き、花が荒れる。駅のホームに電車が滑り込むのが見えた。
これから季節は夏に向かう。薄着になってゆく。深谷はおれの身体をどう見るだろう。ごく平均的で、深谷の目に好ましいかどうか分からない。日焼けせず色が白いのが悩みだ。それから、鎖骨の下に目立つほくろがある。
どう見せようか、そればかり考えている。
肌を見た深谷が、目をさまよわせればいい。ため息をつけばいい。悩ましげに顔を歪めながらも、また目を輝かせて、おれを見ればいい。
早く週末になればいい。
おれに夢中になればいい。
End.
「前からずっと希望出してて、多分決まるって昨日上司が教えてくれた。実質的には来月からこっちに出向く羽目になるから、準備しとけ、って」
「……帰ってくんの?」
「来るよ。だからあっちゃん、嫁さんも見合いも婚活も全部だめだ。俺がもらうから」
あっちゃんは面食らっている。口をあけたまま、閉じ忘れている。
「当分実家だけど、いいとこ見つけたら部屋借りたい。そしたらあっちゃん、一緒に住まねえかなって思ってる」
「……思ってるって、おまえ」
「あ、違うか。一緒に住もう」
「……」
「で、いっぱいキスしてやる。酔っぱらった勢いの変なやつじゃない、ちゃんとしたやつな。えっちもすっからな。あっちゃんが一生独身で童貞っていう美味しいのは、俺がもらう。心配しなくていーよ」
「ばっ……」
「まいんち一緒にメシ食おうな。風呂も一緒に入ろう。あー、あっちゃんに新しい原付買ってやるよ。ここまで通うのに、もっとびゅんびゅん走れる格好いいやつ」
あっちゃんが普段おつかいで使っている深緑色のカブは、おじさんの代から使っていて故障が多い。スクーターより同じカブがいいだろうか。だったら水色のやつがいい。
あっちゃんは絶句したまま、固まっている。俺のプランはだめか? そんなわけないよな。最高の人生だぜ、あっちゃん。
「待たせてすいませんでした。俺と一緒になってください、あっちゃん」
「――」
「大丈夫。俺次男坊だからそこは婿的な扱いでOKだし、会社が休みの日は店番も――ぶっ!!」
ばこん、と何かが顔面に飛んできた。もろにヒットして、俺は一瞬気が遠くなる。顔を押さえつつ床に落ちたそれを拾う。チョコレートだ。陳列してあるのと同じ、3つ入りの赤い箱。さすがピッチャーやってただけのことはある、コントロール抜群だ。
「もっと早く言っとけ!」と叫んだあっちゃんの顔が、真っ赤だ。
「……あっちゃん、これ俺にくれるよな?」
「いちいち確認がうるっさいんだよおまえは!」
「だったら茶も欲しい。口説きすぎて喉かわいた。梅こぶ茶しかねえの? コーヒーは?」
チョコレートと食べるなら、せめて緑茶ぐらいがいい。そういえばこの店はなんで毎回梅こぶ茶しか出さないか。桜茶とか、番茶とか、夏は冷えた麦茶とか。俺が晴れて「しだ屋」の一員になれたら進言してみようか。
進言と言えば、あっちゃんの金髪にももの申しておきたい。
「なあ、そのアタマさあ」
「似合わない、ってばかにしたいんだろ」
「違うって。あっちゃん、卑屈になるのかわいいけど俺の前だけにしときな? だから髪型さぁ、変えるなら色じゃなくて、ちょっと伸ばすとか」
「衛生上、そこはあんまりいじれない」
「だめか」
「いい、黒に戻す。こういうことは俺には似合わねえなって分かったし、お客にも言う人はいたし、おまえの好みが黒いスポーツ刈りっていうのも、知ってるし」
「うおうっ」
「サッカー選手みたいなの目指したんだけどな。おまえは野球より実はサッカーが好きだっての、言わねえけど知ってる」
短い髪をつまみながら、あっちゃんはちょっとだけ笑った。だめだその仕草と笑顔は反則だ。これはくらった。心臓が痛い。
もうこれから先、しあわせなことしか待ってないからな、あっちゃん。
End.
←中編
「……帰ってくんの?」
「来るよ。だからあっちゃん、嫁さんも見合いも婚活も全部だめだ。俺がもらうから」
あっちゃんは面食らっている。口をあけたまま、閉じ忘れている。
「当分実家だけど、いいとこ見つけたら部屋借りたい。そしたらあっちゃん、一緒に住まねえかなって思ってる」
「……思ってるって、おまえ」
「あ、違うか。一緒に住もう」
「……」
「で、いっぱいキスしてやる。酔っぱらった勢いの変なやつじゃない、ちゃんとしたやつな。えっちもすっからな。あっちゃんが一生独身で童貞っていう美味しいのは、俺がもらう。心配しなくていーよ」
「ばっ……」
「まいんち一緒にメシ食おうな。風呂も一緒に入ろう。あー、あっちゃんに新しい原付買ってやるよ。ここまで通うのに、もっとびゅんびゅん走れる格好いいやつ」
あっちゃんが普段おつかいで使っている深緑色のカブは、おじさんの代から使っていて故障が多い。スクーターより同じカブがいいだろうか。だったら水色のやつがいい。
あっちゃんは絶句したまま、固まっている。俺のプランはだめか? そんなわけないよな。最高の人生だぜ、あっちゃん。
「待たせてすいませんでした。俺と一緒になってください、あっちゃん」
「――」
「大丈夫。俺次男坊だからそこは婿的な扱いでOKだし、会社が休みの日は店番も――ぶっ!!」
ばこん、と何かが顔面に飛んできた。もろにヒットして、俺は一瞬気が遠くなる。顔を押さえつつ床に落ちたそれを拾う。チョコレートだ。陳列してあるのと同じ、3つ入りの赤い箱。さすがピッチャーやってただけのことはある、コントロール抜群だ。
「もっと早く言っとけ!」と叫んだあっちゃんの顔が、真っ赤だ。
「……あっちゃん、これ俺にくれるよな?」
「いちいち確認がうるっさいんだよおまえは!」
「だったら茶も欲しい。口説きすぎて喉かわいた。梅こぶ茶しかねえの? コーヒーは?」
チョコレートと食べるなら、せめて緑茶ぐらいがいい。そういえばこの店はなんで毎回梅こぶ茶しか出さないか。桜茶とか、番茶とか、夏は冷えた麦茶とか。俺が晴れて「しだ屋」の一員になれたら進言してみようか。
進言と言えば、あっちゃんの金髪にももの申しておきたい。
「なあ、そのアタマさあ」
「似合わない、ってばかにしたいんだろ」
「違うって。あっちゃん、卑屈になるのかわいいけど俺の前だけにしときな? だから髪型さぁ、変えるなら色じゃなくて、ちょっと伸ばすとか」
「衛生上、そこはあんまりいじれない」
「だめか」
「いい、黒に戻す。こういうことは俺には似合わねえなって分かったし、お客にも言う人はいたし、おまえの好みが黒いスポーツ刈りっていうのも、知ってるし」
「うおうっ」
「サッカー選手みたいなの目指したんだけどな。おまえは野球より実はサッカーが好きだっての、言わねえけど知ってる」
短い髪をつまみながら、あっちゃんはちょっとだけ笑った。だめだその仕草と笑顔は反則だ。これはくらった。心臓が痛い。
もうこれから先、しあわせなことしか待ってないからな、あっちゃん。
End.
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プロフィール
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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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