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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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2.松田


 七嶋がなにも言わなかったので、気付くのが遅れた。放課後の化学室で小規模の爆発が起きた。実験中の事故だった。
 松田の不在時に化学部の生徒が新入部員向けに行ったデモンストレーションで、実験自体は小学校でも行われるぐらいに基礎的なものであったが、規模が大きかった。光が散り、試験官が割れ、衝撃に驚いた生徒が尻もちをついて手首を捻挫した。大きく音が響いたため、放課後の校内はしばし混乱した。
 外出していた松田の代わりに監督をしていたのが新任の七嶋だったが、彼の過失ではなかった。実験に手馴れた生徒が独断で行ったものであり、七嶋が気付いて止めに入った直後に爆発事故が起きた。七嶋の対応そのものは良かった。生徒に異常がないか確かめ、上に報告し、怪我を負った生徒を養護教諭に頼んで病院に向かわせた。松田への報告もスムーズだった。手際の良さに感心さえした。
 翌日になって「病院へ行くので出勤が遅れます」と連絡が入り、ようやく発覚した。発光に右目を焼いたのは七嶋だった。捻挫の生徒など放り、自分こそが真っ先に病院へかかるべきだったのに、言わなかった。
 昼までには出勤するという話だったが、七嶋はなかなかやって来なかった。昼過ぎに事務へ電話が入り、欠勤となった。電話によれば、急激な視力低下で頭痛がひどいとのことだ。病院からは戻ったという話なので、見舞いも兼ね事情を訊くために仕事帰りに松田は七嶋の住むアパートへ向かった。
 正直面倒臭かった。月終わりの週末に挙式を控えている松田にとって、これ以上の仕事は増えてほしくなかった。とっとと終わらせてしまいたいが、怪我人が相手ではそうもいかない。下手をすると失明していたんじゃないか。事故の重さに肝が冷えた。
 インターフォンを鳴らし名乗ると、すぐに扉が開いた。右目に白い眼帯が痛々しい姿で、七嶋が立っていた。丸襟のセーターを着ていたが、こんな時期なので袖は捲っている。普段はシャツの襟で隠れている首筋の張った肌は瑞々しく、普段の落ち着きが落ち着きだけに、そうかまだ二十代もまんなかに届いていないのだ、と今更ながら実感した。
「――すみません、わざわざ」
「いいんだ、ついでだしな。七嶋さん、メシ食った?」
「まだ。頭痛で、今日はいいかと」
「ほうか。ま、これは明日の朝にでも食べたらいいから。ちょっと、あがらせて」
 途中で買い求めた弁当を七嶋に押し付け、狭い三和土で靴を脱いだ。単身者向けのアパートは一部屋しかなく、狭い。それでも七嶋がきちんと片づけているおかげで広く感じた。
 松田は自分にも弁当をひとつ買い求めてあった。ここで食べるつもりはなかったが、「食べながらで構わない」と七嶋が言うのでそうした。「――で、なにがなんだって」白米に箸を突っ込みながら訊ねる。
「目、大丈夫なんか」
「頭痛がひどいだけです。眼帯が大げさに見えますが、急にぼやけているのが気持ち悪くてつけているだけで」
「なんでもっと早く言わなんだ」
「時間が経てば戻ると思いました」
 病院の診断と事故の詳しい経緯を聞いた。視力を落としていると言うのに、七嶋の態度は淡々としていて重みがなかった。頭痛を感じるのは松田の方だ。責任者として、これからやらねばならないことが山ほどある。
「ま、目ぇ慣れるまでもうちょっと休んどき」弁当をすべて腹に収め終え、一服もして、松田は言った。「上には俺から言っとく。遅いのに悪かったな」
 これで帰るつもりでいたのに、「昨日はどうでしたか」と七嶋が唐突に言った。浮かせかけた腰をまた落とした。
「なにが?」
「披露宴の打ち合わせで少し出る、というお話でしたから。今回のことでご迷惑をおかけした上にお式にも影響が出ては、非常に申し訳ない」
「それは大丈夫だから、気にしないでいいさ。こっちこそすまなんだ。目ぇ、」
「はい、」
「けっこう、大事なことだぞ。多分あとから色んな不都合がやって来るから、…まあ、その時は頼って、ぜんぶ一人でやらんと、な」
「はい」
 松田先生は優しいですね、と七嶋は言った。少しだけ言葉に温みを感じて、なぜだか松田はうろたえた。たとえ松田が不在だったとしても事故は事故、今回のことは重い。視力を落としたとあっては罪悪感があった。七嶋が松田を優しいと思うのならば、そのせいだ。
 立ち上がり、今度こそ部屋を出た。あまり部屋に長くいたくなかった。七嶋は男を抱ける男だと耳にしたことがある。ただでさえ気まずい思いがこちらにはあるのに、こんな部屋に二人きりでいたら、意識する。アブノーマルな男は分からない。


← 1(篠宮)
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1.篠宮


 七嶋は右目が悪いらしい。眼鏡の度が片方だけ強いんだ、と誰かが言っていた。レンズ越しに見える輪郭の歪みで分かるものらしいが、それを確かめようと思うほど七嶋に興味がない。
 俺たち二年Bクラスの副担任で、生物の担当だ。神経質で真面目でなんの面白みもない。にこりとも笑わないし、気配が薄い。授業は単調、つまらない。
 きちんとプレスしたシャツに紺色のベスト、ネクタイは常にきっちり締める。たまに白衣。髪は後ろへ撫でるように整えてあり、まだ三十代だという話だが、ふけて見えた。黒縁の眼鏡がまた笑えた。なにを考えているか全く分からない宇宙人。向こうも俺たちのことはそう思っていただろう。
 後ろの席の女子が「七嶋って死体にしか興奮しないんだってよ」と笑っていた。七嶋には色んな噂がある。駅前で出た変質者は七嶋だったとか、夜な夜な生物室で標本を作っているとか。右目は自分でくりぬいて解剖に使ってしまったとか、ホルマリン漬けにして自宅に飾ってあるのだとか。
 そういう危険な噂の似合う教師だ。どれも根も葉もないデマだと分かっていて、俺たちは噂をした。楽しいからだ。
 その七嶋に俺はいま呼び出されている。生物準備室の椅子に腰かけ、成績簿をめくる七嶋の神経質そうな横顔を、何の喜びもないのに眺めている。
「篠宮」七嶋が俺を呼んだ。こんな噂の立つ男でも一応は教師だ。声が通る。名前を呼ばれると背筋が緊張して、伸びる。
「こういうことをされると、さすがに屈辱だ」
「……」
「生物に限って点数が悪いとはね。いつも寝ているな。ぼくの授業はつまらないか」
 七嶋が先日のテストの答案を僕に差し出した。かろうじて名前だけ書いて提出した、努力のかけらもない答案用紙だ。今回のテストはすべての教科で復習範囲が広く、生物までは手をつけなかった。七嶋のことだから、赤点でも一回の補習を受ければ落第にはしないだろうと見当をつけていた。
 他教科の成績はそれなりに良かった。特に今回は英語の出来がよく、あと3点で学年トップと並んだ。勉強が嫌いなわけではない。生物の成績が悪いのは、七嶋がつまらないからだ。
 はあ、と俺は気のない返事をした。「つまらないです。興味がありません」
「興味のあるなしに関わらず、やっていかなければならない」
「七嶋先生と同じです。先生が学校とか生徒に興味がないのと同じように、俺も生物には興味ないんです」
 七嶋がファイルから顔を上げた。眼鏡のレンズが反射して、ますます表情が分かりにくくなる。
「――なかなか見ているじゃないか。寝てると思ったのに」
「……分かるしそんくらい。ねえ、先生。学校とか仕事とか、人生とか生活とか社会とか、つまんなくない?」
「つまらなくはないな」
「つまんなさそうに見える。から、俺もつまんない」
 喧嘩を売っているつもりはなくとも、言葉が口から飛び出た瞬間に思わぬ棘が現れた。七嶋はこんなことで逆切れするような教師でもないはずだが、それでも一応、「すいませんでした」と謝っておく。
 面倒事は嫌いだ。こういうことは大人しくしおらしい態度でさっさと済ませるのがいい。次は頑張ります、と頭を下げて帰ろうとしたら、七嶋は「まだ終わっていない」と俺を呼び止めた。
 ファイルを閉じ、眼鏡を外し、ふーっと長く息を吐いた。眉間を揉む。
「つまらなく見える態度で接したことは、ぼくが悪かった。確かに面倒臭い。勉強のやる気のない生徒の指導なんて特に」
 仕返しのように七嶋は喋り出した。「でも、つまらなくはないよ」七嶋は顔を上げる。
 眼鏡を外した顔は、普段よりもずっと若かった。目がすきとおって見えた。
「ぼくは毎日楽しいよ。思いがけないことが起きたり、些細なことに喜びを感じられる。きみらの年齢よりもずっと許されることが多くなったから、楽しみが増えた」
「はあ、」
「大人になって良かったと思う。きみらの世代は窮屈だからな。でもその世代の楽しみは分かる。だから早く大人になれなんてことは言わないが」
 初めて七嶋と目が合った。瞳は鋭く、迫力がある。思わず身体が引いた。
「そんな若いうちから要領よくやって社会とか生活とか考えていると、ぼくの歳になる頃きみはもう人生に退屈し切っている」
 そう言って、七嶋は口端をわずかに上げた。言い切られたことに俺はたじろいだ。こんな強い発言が出来る教師だったろうか。こんなに根気強く俺たちコドモに向き合おうとする人間だったろうか。俺たちと同じく、厄介ごとは嫌いだったんじゃないのか。
 補習の日程を告げ、七嶋は帰宅を許した。準備室から去る間際、もう一度七嶋の顔を見ると目が合った。
「ぼくは美術部だった」と七嶋が言った。
「高校の頃。毎日夢中で過ごしたな。楽しかった」
「……」
「暗くなる前に帰りなさい。さようなら」
「さようなら、」
 有無を言わさず準備室から追い出された。廊下を歩いていると、落ち着かなくなった。七嶋はアレ、笑ったんだ。喋った。眼鏡を外した。
 同時にとても悔しくなった。なに一人で熱くなってんだよ、だせぇ。そう悪態をつきながらも、七嶋の台詞や表情を繰り返し思い出した。



 夏休みに入ってすぐ、たった一日で補習は終わった。
 くそ暑い中わざわざ学校へ出向いたのに、七嶋が用意した補習はプリント一枚だ。提出し終わった者から帰って良し、と黒板に書いてあり、内容はめちゃくちゃ難しかった。悪意を感じ、同時に笑えた。意地の悪い顔をしながらこれを作成したに違いない。なにがなんでも空欄はすべて埋めてやった。
 夏休みも折り返しの八月中旬、新幹線のホームで七嶋を見た。
 大きな肩掛けの鞄を背負い、いつもよりラフな格好で新幹線を待っていた。前髪は降りているし、ポロシャツのボタンは二つとも外れている。ネイビーのチノパンは爽やかで若々しく、似合う似合わないよりもそんな色の服を持っていたことが驚きだった。
袖から伸びる腕は白く、引き締まっていた。痩せ形のイメージがあったが意外とそうではなかったらしい。俺たちの世代とは違う、大人の筋肉のつき方だと思った。
 俺はと言えば新幹線でやって来る叔母を迎えに来ただけだったので、切符は持っていなかった。叔母が来るより先に七嶋を見つけてしまい、じっと見ていた。学校で会ったらこの件で話しかけられるかもしれない。先日の一件で七嶋に興味が沸いていた。ひょっとすれば応えてくれるかもしれない、期待があった。
 七嶋は立ったまま文庫本に目を落とし、俺には一向に気付かなかった。
 眼鏡をしていない横顔は、通った鼻筋がはっきりわかった。睫毛まで見える。ぱし、ぱしと瞬きをする、その右目の視力の真相が気になった。ひょっとして俺は七嶋の右側にいるから気付かれないのか、と思いつく。
 向こうへまわろうとした時、列車が到着して、人波が動いた。叔母が乗って来たはずの新幹線に、降車客の後、七嶋のいた列も動き出す。歩き出してから七嶋がふとこちらを向いた。
 目が合うと同時に、七嶋は笑った。目元にかかった前髪が風で揺れる。
 唇に人差し指を当て、しい、の仕草をした。笑うと目尻が下がり、きつい顔が和らいだ。瞬間、心臓が強く鋭く痛む。痛みを痛みと思わないうちに俺は走り出していた。
 だが急に腕を引かれ、すぐに止まった。叔母が俺を見つけて「良かった見つけたわ」と安堵の表情で立っている。振り返ると新幹線は動き出していた。もう追いかけられない。
 この新幹線の行き先は東京だ。七嶋はどこへ行くんだろう。あんな楽しそうな顔で、なにをしに行ったんだろう。
 夏休みが終わって学校で会えても、この件は問えない気がした。七嶋にすら告げず、内緒にしたかった。


End.


→ 2(松田)





関連:「+18」


拍手[48回]


 地元の大学でも、農学部、というところが肝心である。私の実家からH大本学へは通学圏内にあるが、農学部のみキャンパスが離れている。実習用の農林地を必要とするためだ。県内へ進学だなんて親孝行ねと言われつつ、親元から離れて暮らせた。清己と同じく、私もあの町を離れたかった。田舎でも都会でも、なんでも。
地価が安いので学生向けアパートでも比較的広い部屋で暮らせた。念願のひとり暮らしは楽しくて、非常に淋しかった。淋しい、という衝動はとてつもなく強大だ。清己がいれば他人を必要としなかったこの私が、ありとあらゆる性格の人間と交友した。恋人も作った。
 ただ、私には清己が最上であった。すべてのものは清己を超えない。よってどの恋にも男にも本気になれぬまま、当然ながら長続きはしていない。清己が手に入るか、入らねば私一人か。私にはこの二択だ。
 十八年はあっという間だった。
 いま私は生物学の教師として地元の公立高校に勤めながら、一人で暮らしている。結婚はもちろんしていない。ただ、周囲の環境は学生の頃よりも変化した。あの頃よりも年老いた両親は息子の性癖にどうやら気付き、放っておいてくれている。たまに顔を出しても、不義理に文句を言うだけで嫁がほしいという話はしなくなった。おまえは教師という職業で顔もそれなりなのだから嫁は必ず来る、と説き続けた祖母は一昨年亡くなった。
 あれだけ目立つ男でも、清己の噂は全く聞かなくなった。
 東京へ出た清己は、こちらへ戻ることはなかった。同窓会にも顔を出さない。結婚したのかしていないのか、仕事はなにをしているのか、生きているのか死んでいるのかも分からない。
生きていれば結婚でもして、家庭を持ち、いい生活を送っていそうな男だ。私と正反対を行ける人間だった。家族がいることがいいと言い切れないが、一人が唐突に辛い夜は、たまにやって来る。守るべき存在の温かみは、二択しか許せない私でも想像がつく。
 そんなことを考えるのは、梅雨で憂鬱になっているせいだと思った。青とも赤ともつかぬ異常な夕方に胸がざわめく。清己といた頃は、この色が好きだった。美術室の窓から見るこの色は、清己という男の美しさを悪質に際立たせたものだった。
 思い出した清己のせいでなんだか気が急いて、気晴らしに外へ出た。散歩をして、電器屋でプリンターのインクを買い、スーパーで買い物をした。雨は降るか降らないか微妙な際を行き、今日もきっとアカムラサキ色の夕方が来る。
 コーヒーでもどこかで飲んで来ればよかったと思いながらアパートまでの道を歩いていると、国道を渡る歩道橋で懐かしい後ろ姿を見た。痩身でピンと張った背筋。喪服姿で、傘は差していない。
 まさかと思いぼんやりと眺めていると、男が振り返った。清己である。
 歳を取った。相変わらず男前だった。見惚れて声が出なかった。
「――キヨ」
「おまえのアパートへ行くところだった」
 早く連れて行け、と清己は私の傘の中に入って来た。冷たい手が傘の柄を掴みとり、二人にちょうど良いよう傘を持ち上げる。濡れた喪服、清己の匂いが立ち上った。あの頃と変わらぬ匂いに眩暈がした。
「傘は」
「タクシーに忘れてきた」
「なんでぼくがここだって」
「おまえの家に電話して訊いた」
「……誰か亡くなったのか」
「父方の伯父が。実家はこっちなんだ」
 淡々とした言い口に、むなしさが滲んでいる。ものが言えない私をちらりと見て、清己は「七嶋が先生だなんてな」と息を吐きながら呟いた。
「似合わねぇ。生物学なんて本当に知っているか?」
「そっちこそいまなにやっているんだ」
「研究員。建築材の開発。独身だ」
「え」
「先に言っておかないと、七嶋は黙る気がしたんだ」
 ホラ、と言って清己は左手をかざして見せた。骨ばった長い指には何もはまっていない。うん、と私は曖昧に頷いた。清己は一体なにをしに来たのか考える前に、指だけで体が痺れる。
 部屋の鍵を開け、清己を中に通す。急な来客に困るような部屋の使い方はしていない。部屋干しの洗濯物も、清己相手では今更どうでも良かった。
「東京には来なかったな」
「……きみの方こそ、美大には行かなかった」
 清己の言葉に、私は少々乱暴に答えた。「おまえだって行かなかったじゃないか」と言われ、言い返せなくても、悪いのは百パーセント清己だと思う。
 もっとも、どちらが悪いとか良いとか、そんなことを問い詰めたいわけではない。清己も同じ思いで、「まあ、どうでもいいわ」と投げやりに呟いた。
 また沈黙に支配された。外からわずかに雨音がする。ふと私は眼鏡のことを訊ねた。いま清己は裸眼だ。あの鬱陶しい黒縁が顔にかかっていない。
「またそんな古い話題を」清己は自嘲気味に笑った。「東京行ってから、してない。自分を隠す必要がない」
「いまそんなのかけたら、一気に老けそうだな」
「かけなくても老けたよ、清己」
「おまえだって同じだ七嶋」
「もう三十六歳とか言うんだ、ぼくら。十八だったぼくときみがさ」
「でもまだ、人生はあと半分も残っているらしいぜ」
 そう言って清己は喪服の上着を脱いだ。「濡れた」
 あの頃、触れたくても触れられなかった身体が、私の目の前にある。どういう訳だか、私の暮らす部屋の畳の上に座っている。白いカッターシャツと黒いネクタイ。透ける肩甲骨の魅力は変わらず顕在した。
 視線に気付いた清己は、タイを緩めながら、「もっと中まで見せようか」と笑った。
「鍛えているから、オヤジとかジジイとか老けたとか、悪いが無縁だ。そこらの中年になんかならないよ、おれは」
「相変わらず自分が好きだな。すごい自信だ」
「おまえに散々そういう目で見られたからな。おまえにとっておれは他より美しく特別でなきゃ意味のないもんらしいから、努力している」
「え?」
「なあ、おまえのその美意識の高さに応えられる人間なんて、おれぐらいなもんだぞ」
 清己は指で私の眉間を突き、そのまま私の手を取った。私はふるえた。
 高校の頃に戻れるなら、清己をあけすけな眼差しで追っていた私にこそ、眼鏡を与えたかった。そんな目じゃ、バレバレだった。清己を見ることばかりに夢中で、自分が見られていることは思惑の外だった。
 同時に、ああ道理で、と私は思った。歳を経てもなお、私にとって清己が魅力的であるわけだ。
「東京でなくたって、あの町じゃなきゃどこだっていい。おれを欲しがれ、七嶋。おまえがおれに狂うところを、おれは見たい」
 とんでもないことを言っておいて、手は思春期のようにぎこちなく握り合っていたりするのだ。清己のてのひらも温度も力の込め具合も、気持ちが良かった。触れていると頭がぼうっとした。
 私もまたなにかおかしなことを口走ったはずだが、私の脳へは届かなかった。清己は笑いながら畳に背を落とした。



 私が読んだ通りに、あやうい色の夕方が来た。
 私は清己の肌に歯や爪を立てている。清己は「いい」と答えた。私の見たことのない顔で。


End.


← 前編






拍手[116回]


 六月に入ると同時に梅雨入りが発表された。厚く低い雲と、その向こうに無理やり押し込められた太陽とで、大気の色が変わる。アカムラサキ色の夕方が多くなった。その短い時間に、私は清己(きよみ)を思い出している。
 元気なのか。あれから十八年過ぎた。私もきみもそろそろ若くない。
 いまどうしている。



 清己は私にとってパーフェクトに美しかった。伸びやかな背、髪は黒く真っ直ぐで、端正な顔立ちをしている。口数は多い方ではなかったが、求められれば的確な発言をした。頭の回転が速い。声も佳い。低すぎず高すぎない。
私と同じく美術部に属してはいたが、運動も出来た。高校一年の頃は、校内でひらかれた強歩会で男子四位だったと記憶している。ちなみに私は、二百五十七位という記憶になにも残らない記録だった。
 当然のように誰からも好かれたが、本人はそれを嫌い黒フレームの眼鏡をかけていた。その下にどんな顔立ちがあろうと、第一印象では黒フレームしか覚えられないような強烈なアイテムだ。それでももてた。生徒会に属するような優等生タイプでもなく、笑顔の爽快なスポーツマンタイプでもなかったのに、いつの間に誰彼に告白されて、つきあっていた。
 誰も長続きはしなかった。女の方から寄って来て、女の方から去る。「孤独でいる姿がいい」とはじめは言うのに、「彼は理解できない」と言って終わる。私が思うに、清己は誰にも心をひらいていない。常に己が一番のとんだナルシストが清己だ。そしてそんな清己は、私の大の好物であった。
 ほしい、と思う彼女たちの気持ちが私には分かった。絶対的に美しいものは、手中に収めておきたい。しなやかな体、飽きず感動を呼び起こす存在感。特に六月あたま、冬服から夏服に変わる頃が良かった。カッターシャツの下、かたちよい肩甲骨が浮かび上がる。
 クラスが遠いせいで、体育も一緒にならないのが残念でならない、と思っていた。
 高校二年の頃、私は美大への進学を希望していた。校外で画塾に通っており、そこの講師がT美大の出身だったので、同じくT美大油彩科への進学を考えていた。T美大、と聞いて清己は「いいな」と言った。普段私の話をうすく笑って訊くのが清己という男なので、からかい半分でそう言ったのだと思った。
「いいじゃないか、T美大。美大なんておまえらしいよ。それに、Tは東京にある。家を出るんだな」
「ぼくに一人暮らしなんかできないって、ばかにしている顔だな、」
「そうだな、鈍感でぼんやりとしているから、一人暮らしはしない方がいい。おれも行こうか、T美大」
「……来るのか?」
「一緒に暮らしてやるよ」
「――それは、すごい毎日になりそうだ」
 清己の言葉を深く考えるよりも胸がざわめいた。美術部に所属してはいるが、清己は理系の男だと思っている。そちらの方がはるかに出来が良いし、正直、清己のデッサンは筆致が豪快なだけで上手くはない。この会話は冗談だと分かっていて、嬉しかった。
「清己と暮らしたらきみしか描けなくなるな」と私は笑った。冗談に包んでほとんど本心だ。清己は私を眺めてから、「ばぁか」と悪態をついた。
「――そうそう、そうやってさ。こんなせまっくるしくて噂ばっかり早い町なんか、早く出るんだ。東京がいい。人が多すぎて、他人に関心が向かない。好奇心なんて誰にでもあるものでいちいち騒いだりしない」
「そういうものかな」
「おまえだって同じだ。なにを想ってなにを言っても、七嶋(しちしま)の自由だぜ」
 清己はきっぱりと言った。いつもと変わらぬ声音だったが、清己の本心を聞いたように思った。狭く閉鎖的な環境にうんざりする清己の気持ちは、ちがう立場ながら私も同じことを感じていた。
 まるでいけないことのように囁かれるから、私は本心を押し隠している。清己が欲しくても言わないし、分からないよう十分注意して暮らしている。本当は清己に触れたい。もうずっと秘め込んだ思いは、煮詰まって心臓の底に焦げ付き、ずぶずぶと真っ黒い。
 間もなく高校三年に進級し、清己は転校した。父親の転勤について行ったのだ。どうせあと一年で卒業するのだからどこかに下宿でもすれば良かったのに、わざわざ転校を決めたのは、転勤先が東京だったからだ。清己はこの町を早く出たがっていた。私はとても淋しかったが、淋しいと言わなかった。ここは自由でないので、私が清己に抱く気持ちは言葉にしてはならない。
 引っ越す前日、美術室へ荷物の整理にやって来た清己は、買ったきり使わないでいた油絵具を「寄付」と言って私にくれた。この時点で清己はT美大へ進学しない気がした。「先に行っている。元気でやれよ。」
 私の予想通りに、清己はT美大には進まなかった。同じ年度の二月、有名私大の理工学部に合格したことを清己の元担任から聞いた。落胆しつつも、美大よりも清己らしい進路選択だと思った。
 実技講習で講師より酷評を受けていた私は、そこで美大進学に見切りをつけた。後期選抜で地元のH大農学部を受験し、ぎりぎりで合格通知を受け取った。東京には行かなかった。


後編






拍手[57回]


 それから三か月の間、私は新居及びその周囲をらんらんと駆けまくった。前の住居よりも私の野性を刺激する場所がそこらにあり、トカゲを捕まえたり鳥を追い回したりバッタをいたぶったりするので本当に忙しかった。なわばりを主張するボスネコとも決闘したし、近所のマドンナにアピールもした。ごしゅじんの引越しは、私からすれば正解だ。前のアパートよりも格段に楽しい生活だ。
 一方、ごしゅじんはヒマそうである。休日は寝ているか、庭の草むしりをするか、えらく手の込んだ料理を作り、一人でだらだらと食べる。ご友人と出かける日もあったが、浅野氏がいないのでつまらなそうだ。
 浅野氏は五月の引越しにちょっとだけ顔を出したきり、一度も部屋に来ていない。
 外では、浅野氏とごしゅじんは会っているようである。ごしゅじんがいつもと違うにおいをさせて深夜に帰宅する日もある。だがその回数も、そう多くはない。
 部屋は中途半端に広いまま、ごしゅじんのベッドの枕元には浅野氏のパンツが畳んでおいてある。「なんかせめておまえの私物のひとつふたつは置いてってよ」とごしゅじんが淋しがった結果、なぜだかパンツである。取りこんだ洗濯物には頭から顔を突っ込んで引っ張りまわすのが好きな私にとっては格好の餌食で、じゃれていたら、ずいぶんと怒られた。ごしゅじんはたまに、寝起きにそれを頭上で広げ、見つめ、物憂げにためいきなどついて、また畳んで元に戻す。恋人を想う男としてその姿どうだろうか、と私は思っている。
 八月、自慢の毛並にもうっとうしさを感じていた夏の盛り。窓の外の真っ青な空を眺めていると、玄関の向こうから物音がした。朝の涼しいうちに買い物をする、と言ってごしゅじんは出かけているが、帰って来た足音ではない。むしろ知らない誰かではないかと私は警戒した。鍵がまわり、ためらいがちに「こんにちは、」と声がする。
 久しぶりすぎる浅野氏である。久しぶりすぎて顔を忘れていた私は危うく毛を逆立て威嚇しそうになった。私の姿を見て浅野氏はぎょっとし、同時に私は、その表情で浅野氏のことを思い出した。浅野氏は「おお、コムギ」と力のない声で呟く。鳴くと、後ずさった。
「――すれ違っちゃったかな、宋ちゃんと」
 こわごわと靴を脱ぎ、部屋にそっと上がる。荷物を抱えたままぐるっと部屋を見渡した。「暑いな」
 浅野氏の目線は、常に私から外れない。警戒しまくっている。手にしていたスーパーの袋から缶詰を取り出すと、かぱっ、と私の大好きな音をさせて、それをあけた。
「た、べるか」
 もちろん食べる。元気よく返事をし、浅野氏の足もとへ駆け寄る。浅野氏は情けない声をあげた。床に缶詰を置き、ささっと私から離れる。
 缶詰に夢中になっている途中で、私のひげが揺れた。浅野氏がベランダの窓を開けたのだ。わずかに風が通る。外からやかましい蝉の声と、日向に温められた水や土のにおいがしてくる。
 浅野氏はやけに大人しい。振り向いたら、浅野氏は床の上に大の字で転がっていた。以前見かけた時よりも日焼けをしたようだ。ふー、と長く息を吐き、腕で顔を覆う。腹が満たされ、私は構ってほしくなった。近付くとびくりとしたが、指先がためらいがちに耳に触れた。私は喉を鳴らす。
 浅野氏が自分から私に触れたのは、これが初めてである。私は少々感動した。さあ腕に抱いてくれないかと指にすり寄っていると、また外から物音がした。今度こそごしゅじんである。駆け寄った私と、床に寝転んでいた浅野氏を見て、ごしゅじんは「おおお!!?」と変な声をあげた。
「――ごめん勝手に入った。ただいま、宋ちゃん」
「お、おおかえり」
 やけにびっくりしている、と思ったら、「浅野がコムギと普通にしてる」とごしゅじんは呟いた。浅野氏は苦笑する。普通にしているわけではないが、ごしゅじん抜きで同じ空間にいたことは、確かに驚くべき進歩である。
「メール見て慌てて帰って来たのにさ、損した。おまえとコムギが鉢合わせたらまずいと思って急いだから、アイス買い損ねた」
「これから同居人になるっていうのに、そんなに緊張するのもね。お近づきのしるしに、ネコ缶で仲良くなる作戦に出てみたんだけど、」
「おお」
「すげえ緊張する。触るまでは、やっぱ無理」
「いや、進歩だ。偉い」
 台所の床に置かれた缶詰を見て、ごしゅじんは嬉しそうに笑った。笑いながら浅野氏の元へ寄り、床にダイブするように、浅野氏を強く抱きしめる。全身で喜びを示すごしゅじんに浅野氏は「痛い」「暑い」と、やはり笑いながら抗議する。
「――でさ、いつ引っ越してくれんの」
「いつがいいかな。宋ちゃんが手伝ってくれる日がいい」
「任せろよ。なんかご馳走でも作るか。なに食いたい」
「宋ちゃん作ってくれんの?」
「浅野がいなくて暇すぎて、すげえ腕あがってんだ。期待していい」
 床に転がりながら、二人してそんなことを話している。いよいよ浅野氏がここへ来るようである。ごしゅじんはずいぶんと嬉しそうだ。部屋の家具の配置から近所のパン屋の話まで、浅野氏の髪を梳きながら熱心に語っている。浅野氏もそれを楽しそうに聞き、頷いている。
 構ってほしくなり、私はごしゅじんの元へすり寄った。踏み踏みと肉球でマッサージでもするようにごしゅじんの背中に前足を置き、少しだけ爪を立てる。本当は二人の間に行くのもいいかと思ったのだが、二人は暑さも構わず密着して転がっており、隙間がない。ごしゅじんは私を振り向いてはくれない。仕方がなくご主人の背中を背もたれにして私も寝転んだ。
 しばらく二人と一匹で床にいた。やがて二人は、立ち上がった。いつの間にか浅野氏は半裸で、立ち上がる際にごしゅじんのTシャツも浅野氏が取り去った。お互いがお互いに絡みつくようにしてベッドが置いてある部屋へ向かう。
 これから午後、この家の中でいちばん涼しいのがごしゅじんの部屋の窓のすぐ下であることを、私はすでに知っている。腹もいっぱいであるし、私もくつろごうかと二人の後へ続いたら、ごしゅじんが「おっと」と私を足で制した。
「悪いなコムギ、ちょっと外で遊んで来いよ」
 そう言って寝室の扉をぱたんと閉めた。なんてことだ、いつも昼下がりはここで過ごす私を知っているくせに!! 鳴いて訴えたがごしゅじんは開けてくれない。
 私は諦めの悪い男だ。扉を爪で引っかき、ここを開けて入れてくれ、と催促する。五分おきに一鳴きするのも忘れなかった。だがごしゅじんと浅野氏は中で何を夢中になっているのか、扉は絶対にあけてくれないのである。


End.


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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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