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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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5.慧介


 祖父の葬式の時、東京から来た友隆小父はなんだか落ち着かなかった。法要の途中にどこかへ電話をかけ、終了後の会食は最初の三十分を付き合っただけですぐに出て行った。その日のうちに帰る予定だと聞いていたが、帰らなかったのだと思う。どこに泊まったのか翌日になってひょこっと顔を出し、借りた傘を失くしてしまったことを詫び、新品の傘を置いて帰って行った。
 見目の良い人だけに、気にしている人間は多い。おまけに独身であるので、周囲が放っておかない。友隆小父の行動は、一部でちょっとだけ噂になった。ぼくの妹や従姉妹のアリサは友隆小父が姿をくらませたことを心底残念がったし、祖母や友隆小父の母親の千賀子おばちゃんなんかは「こっちにも愛人がおるだわね」「だといいんだけど」と喋っていた。
 友隆小父の帰り際にちょうど会えたので、受験で上京する際の宿を頼んだ。話のついでのように「なんで昨夜帰らなんだ?」と訊いた。友隆小父は、こちらがうっかり見惚れる笑みで「ちょっと用事が出来たから」と言った。
「会食の時も、最初しかいなかった」
「みんな集まるところってのが苦手なんだよ。どうして結婚しないのかしか、言われないしな」
「どうして結婚しないの?」
「好きな奴がいるから」
 それが、衝撃だった。そういう言葉は友隆小父ぐらいの年齢の人は言わないものだと思っていたからだ。そんなに当然のように口にできる言葉だったろうか。かえって照れてしまったぼくの頭を軽く突いて、友隆小父は「またな」と言って帰って行った。
 この時の友隆小父が忘れて行った白い無地のハンカチに、友隆小父が書いたメモ書きが紛れ込んでいた。それを丁寧に広げて、大事に取ってある。このメモは葬儀の途中、抜け出した電話の際に書いたものだ、というのが妹の情報だ。走り書きでどこかのアパート名と部屋の号数が記されている。いちばん最後に漢数字で「七」と書かれてあり、これだけ漢数字で離れているのが、よく分からない。
 ともあれ、この住所地に出かけたのだろうと、見当はつく。住所のM町はここからそう遠くなかったが、訪ねるには至っていない。訪問の理由がないし、あったとすれば完全に興味本位だ。友隆小父に知られたらあの涼やかな目で鋭く蔑まされるだろうと想像できる。―想像で身震いした。
 これが友隆小父の、祖父の葬儀での謎だ。



 やっぱ恋人とか、言うんだろうか。夏休み明けの九月初旬、二つ目の謎を後輩の鞠子に語って聞かせている。鞠子というがこれは苗字で本名は「鞠子裕貴」という。ぼくの「清己」という姓といい、「鞠子」といい、苗字だけだと女に間違われる。間違われて困るという悩みを共有できる後輩が鞠子だ。
 鞠子の通う県立F高校に放課後の時間をつかってやって来ている。鞠子の所属する写真部の活動が行われている、生徒会室横の空き教室だ。ジュースを飲みながら「新盆の法要に友隆小父が来なかった話」をした。
「忙しかったんでしょ」あっさりと鞠子はそう言った。「夏休みも休めないぐらい忙しい人だって前に言ってたじゃないですか」
 ぼくがあんまりにも友隆小父のことを話すので、鞠子は「東京にいるかっこいいおじさん」として友隆小父のことをすっかり把握してしまっている。
 鞠子の意見に、ぼくは「どうかなあ」と唸った。
「夏休み前に電話した時は、顔出すって言っとったし」
「予定が変わったんでしょ」
「なあんか最近、よそよそしいんだよな」
「元々そういう人なんでしょ。他人に興味ないって」
 面倒臭そうに鞠子は答えた。中学で同じクラブ活動に所属していただけの鞠子とぼくは、何故か馬が合って、それ以外でも仲がいい。進学先は別なのにこうして押しかけてしまうぐらいだ。
 七ってなんなんだろ。そう呟いたぼくに、「清己先輩は東京のおじさんのことが好きですよね」、と鞠子が言った。
「おう、お気に入り。かっこいいもんな。おれも絶対に東京行ってああいう風に暮らす」
「そういう意味で言ったんじゃないですけど……。そんなに気になるなら電話でもなんでも聞けばいいなじゃないですか。どこ行ってたの、とか、好きな人って誰、とか」
「ばっか聞けるかよ。かっこいいってことはつまり、怖ぇんだ、友おじさんは」
「はあ」
「凄みって言うの? すげえ目で見っからな。まあ、そういうとこがもう憧れなんだけど」
「はあ」
 気のない返事をして、鞠子は読んでいた写真雑誌を放り投げた。椅子に深く沈み込み、すっかり天井を仰ぐ体勢で「課題やんなきゃ」と呟いた。
 鞠子は、真面目だ。受験生のくせに鞠子のところへ来て勉強を怠るぼくと違って、毎日の予習復習は欠かさない。その上部活動は写真部と生物部と、掛け持ちしている。週末は塾にだって行っている。家業の手伝いだってする。だらだらと無駄に時間を過ごすことは、鞠子にはないらしい。
 そんなに勉強が好きなら替わって欲しい。替え玉受験って、ちょっと前にどっかでニュースになったよなあなと呟くと、真面目な鞠子は面倒臭そうでも相槌を打ってくれる。そのまま喋っていると、教室の扉が開いた。一人の教師が顔を覗かせ、「まだ残っていたのか」と険しい声で言った。
「もうこの教室は閉めるよ」
「――あ、すみません帰ります」
 教師の方を向くと、目が合った。黒縁眼鏡の真面目で硬そうな教師だ。年齢は友隆小父と同じぐらいに見えた。ぼくを見ると一瞬だけ目を大きくして、わずかに身を引いた。「その制服はT学園か」と上から下までぼくを眺める。
「来校者のスリッパを穿いていないな。学年と名前は」間髪入れず鋭く問われ、全身に緊張が走った。
「――あっ、T学園三年の、清己です」
「――三年、清己、」
「はい、あの」
「部外者は許可なしに校内へ入ってはいけない。次からはきちんと事務室を通って来るように」
「すみません、おれが入れました」
「鞠子、よそでやりなさい」
「すみません」
 ずいぶんと厳しい教師だ。鞠子に教室の戸締りを念押しし、隣の教室へ行ってしまった。「ああー、七嶋きびし、」と鞠子は唸りながら窓を閉めた。しちしま。七? ぎくりとした。
「――いまの、シチシマ先生、っていうのか?」
「そう。生物の先生すよ。もう一個の部活の方で世話になっています。厳しいけど、悪い先生じゃないです――けど、厳しい」
「シチシマってどう書くん」
「七つの、嶋はやまへんに鳥、だったかな。変な噂の多い人でさ。右目、見えてないとか」
「――え」ぞわりと冷感がこみあげた。「なにその、サスペンスホラーみたいな」
「だから噂です。試しにこないだ本人に訊いてみたら、見えてるよ、と笑われました」
 行きましょうか、と鞠子はぼくの分のかばんも自然に取って、寄越す。揃って学校を出てからも、考えていた。あの漢数字が苗字や名前の一部ということは、ありそうだ。
 数日間考えて、埒があかなくなり友隆小父に電話を入れた。
 そのことを直接聞くつもりではなく、名目は「東京でひらかれる講習会に参加するかもしれないから」にした。友隆小父は人に興味を持たないが、その代わり怒りもしない。うるさがったりもしない。大人でも子どもでも平等に接してくれる。
「――母さんがいいって言えば、だけど」
『それは自分で説得しろよ』
 友隆小父はそう言って笑った。明るい笑い声はあまり聞きなれない分、胸にじわっと来る。
 友隆小父が田舎を嫌がっていることは知っている。都会的でスマートな友隆小父に憧れて、ぼくが一方的に懐いているだけだ。田舎の高校生のぼくに親しくしてくれたり、怖い顔で葬式を抜け出したりと、色んな面を持っている。
 知らないことは――友隆小父のことならば、知りたかった。欲が口をついた。「なあ、好きな人って、どんな人」
『――いきなりなんだ』電話の向こうで息を吐く音が聞こえた。
「――いや、なんか、今後の参考に」
『参考になんかなるか』低い声で笑っている。
「いいじゃん、興味あるんだよ」
『――興味、ね。――んん、真面目で神経質で、許せないものには徹底的に厳しい』
 とっさに思い浮かんだのが、鞠子の高校で見た七嶋という教師だった。続けて小父は『でもおれは嫌じゃない』と答えた。
 心臓がどくんと大きく唸った。
『美意識が高すぎてだいぶおかしい』
「眼鏡かけてる?」
『さあ』
「片目の人とか」
『変な本でも読んだか、慧介』
「その人と付き合ってるんでしょ?」
『これ以上は言わない。もう、寝ろよ』
 早々に電話を切られた。電話機を片手に持ったまま考え事にふけった。似ている、気がする。偶然だろうに、少しずつ符合してゆく。
 机の引き出しに手を伸ばし、小父のメモを再び眺めた。鉛筆で書かれているから、日が経つにつれ炭素が削れて文字が薄くなってしまった。
 この住所にもしあの教師がいたら。そう考えると、鳥肌が立った。
 小父の秘密が知れるだろうか。


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4.杣谷


 夏休み初日、会社へ出向くと先客がいた。社の通用口を抜けて研究部署へ向かう途中の喫茶スペース、ソファに清己が腰かけていた。朝のうちだからと西側の窓を大きく開け放ち、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいる。
 相変わらずどんな姿でも様になっているなあ、と半分呆れて、感心した。同期入社の清己は入社当時から目立つ男ではあったが、歳を経るごとに男としての凄みというか、艶やかさというのか、深みなのか、一言ではまとめきれない魅力を増している。
理工学系研究所の所員にありがちな野暮ったさはどこにもない。ノータイでもだらしなく見えないのは、姿勢がいいからだ。薄いブルーのシャツはきちんとプレスしてある――はずだが、今日は少しよれている。無精ひげも少々見える。これでも印象は至って涼やかなのだから、同じ人間に思えない時が多々ある。
 僕に気が付いて新聞から顔を上げた。「泊まったのか」と訊くと、清己は新聞を折りたたみながら「今日から夏休みだからな」と答えた。
「今年はなにがなんでも休むつもりで色々片付けてたら夜が明けた――ああ、」
 コーヒーを一口飲んでから大きく息を吐いた。それから「ちょうど良かったよ」と僕の方を向いた。
「杣谷に聞きたいことがあったんだ。おまえ、嫁さんの実家がY区だって言ってたな。Y美術館、分かる?」
「分かるよ。あの辺は散歩コースだ」
「ちょっと道が入り組んでるみたいだけど、どう行くのがいちばんいい」
「行くの」
「今日これから」
 へえ、と思った。清己は高校時代、美術部に所属するぐらい美には親しみがあると聞いてはいたが、会社の休みをきっちり守ってまで行くような人間だとは思わなかった。清己は人と揃うことを嫌う。世間が休暇になれば自分はずらして休みを取るのが通常の清己だ。
 いまY美術館で行われている展示は評判が高く、連日にぎわっていると聞いた。展示は十月までやっているので、いつもならば日を延ばし、人の落ち着いた隙を狙って行くはずだ。誰かと一緒なのかもしれない。聞いてみると案の定で、「午後一で駅まで迎えに行く」と言う。
「清己が駅まで? 人を迎えに?」
「なんだその言い方」
「いいか人ってのはな、みんながお前みたいに完璧なわけじゃないんだよ。疲れるし汗かくし眠くなるし腹も減るの。話もしたいし休みたいしトイレにだって行きたい。そのためにはな、喫茶店や自動販売機やベンチや、おまえの興味以外の場所も必要なんだ」
「人をロボットみたく言うなよ。おれだって疲れるし汗かくし腹も減るよ」
「一緒にいる相手を気遣って歩け、って言ってんだ」
 清己は基本的に他人に興味を持たない。よって一緒に歩く際には、自分の欲求や都合を簡潔に分かりやすく伝えないとタイミングを逃す。変に気後れしたり遠慮してはいけない。僕は「同性」の「同期入社」の立場で気楽にやれているが、女性や後輩は困惑するようだ。デートだとしたら尚更だ。
 僕の心配をよそに、清己は笑った。笑うとまたいい男なのだ。徹夜明けとは思えないほど清々しい。
「駅までってことはJR?」と僕は聞いた。「Y美術館なら地下鉄の出口がいちばん近いよ。もっとも地上に出るまでがちょっと長いから、子どもや年寄りと一緒ならJRを勧める。南口、かな」
「いや、大丈夫かな。地下鉄、降り口どこ?」
「A3てとこ」
 カバンに入れて常に持ち歩いている文庫サイズの地図帳を取り出し、清己に場所を教えてやった。子どもが喜ぶし僕も楽しいので、休みの日は地図帳を片手によく電車に乗るのだ。ついでに馴染みの喫茶店や天ぷら屋、歩いて楽しいと思う路地をいくつか紹介した。清己は熱心に聞き、僕から地図帳を奪って一通りチェックした後、「ふうん成程」と頷いて僕に地図帳を返した。
「やっぱ杣谷は歩いてるんだな。聞いてよかったよ。ありがとうな」
 こちらが照れるほどストレートに感情を伝え、清己は立ち上がる。大きく伸びをした。
「――よし、帰る」
「おう、お疲れさん。楽しくやれよ」
「杣谷もな」
 ふっと笑い、清己はさっさと行ってしまった。涼しげな後ろ姿を見送りながら、ひとつ余計なことを思った。清己の同行者が淋しい思いをしなければいいな、と。
 清己の隣を歩くのは、とても勇気がいる。背筋を頑張って伸ばしながら、清己に必死でついていく。自分に精一杯ながら清己の気を引きたいし、周囲の目も気になる。期待したり淋しくなったり自分が嫌いになったり、清己といると人は様々なことを考えてしまうようだ。耐えられない人は本当に耐えられない。
 だから清己は、常に相手に裏切られている。本当に一人なんだと思う。
 清己自身も、同行者も、お互いに満足し充実する。清己とそういう関係になるのはとても難しいが、そうだといいなと思う。肉親でも恋人でも犬でもネコでもなんでも。



 夏休み明け、僕のいる部署までわざわざやって来た清己が、梨をひとつくれた。
「この間のお礼」
 そう言われてしばらくなんのことだか分からなかったが、清己の楽しそうな顔を見て、美術館への道順を教えた礼だと思いついた。どうして梨なのか訊くと、「たくさん買って余ってるから」と清己は答えた。
「休みの間だけじゃ食い切れなかった」
「梨かあ。こういうのは子どもや嫁さんが喜ぶなあ」
「――はは、そうだよな。あまい果物は子どもが好きだ」
 なにか思い出したのか、いきなり清己は笑った。僕には理解できぬ次元で、ひとりで笑っている。それが本当に愉しそうで嬉しそうで、僕もつられた。清己を前にこんな気持ちになることがまた新鮮だ。
「天ぷらの店も良かったよ」笑ったまま清己が言った。
「――へえ、行ったか」
「とうもろこしと魚のすり身が合うなんて思わなかったなあ」
「あ、それ嫁さんが好きだ。美味かったろう」
「うん。また来ようかって、話したんだ」
 え、と思わず声が出そうになり、首を横に縦に振って頷き返した。清己の言葉の向こうに誰かがいる。それは入社以来十四年の付き合いでも、僕の全く知らない清己だ。
「夏休みは楽しかった?」
「楽しかったよ」
 またそのうち飲もう。ひらひらと手を振って清己は持ち場に戻った。その後ろ姿を追わずに、僕は手のひらの梨をふと眺める。
 鼻を近付けると、あまい香りがした。帰ったら子どもの手のひらに載せてやろう、と思った。


 
End.


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3.七嶋


  母親からの電話を切るのに十五分かかった。いま忙しいから明日かけてくれと再三頼んでも聞かず、飼いはじめた文鳥が非常に愛らしい話や通い始めた書道教室の先生が私と同い年であった話、今度職場の仲間と登山に行く話などをヤマもなくオチもなく延々と喋った。十五分で済んだのならば早い方だったろう。しかし今日は特に一分一秒が惜しかった私にとって、電話を鳴らす行為自体がすでに許せないことであった。
 もうええな、と半ば放るように電話を切り、大きく息を吐いてから隣の和室へ戻った。八帖のダイニングキッチンと寝起きする八畳の和室とは曇硝子をはめ込んだ引き戸で仕切られているが、夏の盛りである現在は開け放している。南西の方角にベランダが据えられ、ここにはどちらの部屋からも出られるようになっている。現在はよしずをかけ、さらに朝顔や糸瓜のプランターで塞ぎ、日が入らないようにしてある。
 畳に敷いた布団の上に、清己がうつぶせで寝転んでいる。私に足を向ける格好で、持参した本をめくっている。肩甲骨の凹凸や引き締まった尻がまぶしい。裸である。
「ごめん」私は声をかけた。「かあさんからだった」
 美しいラインを見せる背中に、私はおおいかぶさった。くりかえし当たる扇風機の風で、肌の表面が冷たくなっている。さっきまでとても熱かったのに、乾いてしまった。うなじの髪を分け、くちびるを寄せた。
 ぱたんと本を閉じ、清己は私を振り返った。「長かった」と十五分ほったらかしの感想を述べる。
「七嶋が訛ってるところなんて久々に聞いたな。ちょっと面白かった」
 清己はそう言い、微笑む。私が地元の言葉をつかうのは肉親の前だけである。それは高校時代から綺麗な標準語をつかっていた清己に憧れてのことだ。清己は同郷であるくせに頑として方言をつかわなかった。清己の母親は横浜の出身で、父親も大学時代は東京へ出ていた。家でもあまりつかわなかったのだろう。
 電話が来て中断していたことを、ようやく再開した。先ほどまで私はずっと、清己の身体にあるほくろを探し出しては舐めていた。目立つものも小さいものも、清己の知らない場所にあるものもひとつ残さず辿りたかった。キスをし、舌でなぞり、息を吹きかける。清己がびくりと身体をふるわせ、荒い息を吐くたびにぞくぞくした。
 右裏のふくらはぎで途中になっていたので、そこから始めた。この辺りはあまり多くなく、くるぶしのすぐ下にひとつ見つけただけだった。「今度、まえ」と言って、清己の身体を表に返す。足先を丹念にしゃぶり、少しずつ位置をあげて探してゆく。ちなみに私は、好物は最後に残しておくタイプだ。
 清己以外の誰かでは、しつこいと言ってこんな時間のかかることはさせてもらえない。もっとも、私だってする気はおきない。高校の頃から清己は私に甘いというか、好きなことを好きなだけやらせる男だった。私の好奇心をくすぐり、満たし、さらに上を覗かせる。そういうことがいちいち上手かった。
 画家の図版をめくるのに夢中になって下校時刻を忘れても、清己は傍らで待っていてくれた。校外学習で行った昆虫の博物館でもそうだったし、二学年の修学旅行では集団を嫌い行くのを渋った私をなだめ連れ出し、旅行中に宿を抜け出して夜遊びを教えてくれた。
 清己の腰元まで戻って来た私は、足の付け根にほくろを見つけて嬉しくなった。喜んで唇を寄せると頭上から「楽しいか」と清己が訊いた。私は顔を上げて頷く。満足そうな清己の表情は、高校の頃に私の下校を待っていてくれた時と変わらない。
 愛おしい気持ちが身体の内側で爆発し、キスがしたくなった。
 清己の腿に手を置いたまま、顔を近付ける。私がなにをしたいのかが分かって清己は笑った―のだと思う。それでいて意地悪く、「そういえばおばさん何の用事だったんだ」と言った。
 いまこのタイミングで。鼻と鼻が触れ合う距離で、私は面食らった。
「――いや、きみが聞いて面白いと思う話は、なにも」
「だから、何を?」清己は息を漏らして笑っている。
「別に、……飼い出した文鳥とか、書道教室の話とか、」
「ふうん。ほかに」
「今度トレッキングに行くのに派手な色の合羽を買ったとか」
「へえ、何色」
「なんだっけ、……ムラサキに近いピンク、って言った、な」
「目立っていいじゃないか」
「……きみ、本当にぼくの母さんの話をしていたい?」
 私はキスがしたいのだし、舌を吸いたいし、もう、入れたい。焦らす清己に困っていると、清己は声をあげて笑いながら私の首の後ろに手をひっかけた。
「だって電話、長すぎ」と言い、すぐにくちびるを塞いだ。清己の指が私の股間に触れ、先端同士がこすれ合う。もっと密着できるよう清己の両膝のあいだに身体を押し込み、清己を向こう側へ押し倒した。
 入れていいか尋ねると、清己は顔の位置をずらし、私の右まぶたにキスをくれた。
「もうあちこち舐めないでいいのか」
「いや、……続きは、する」
「は、好きだな」
 そう言いながら、私の背中を抱いて力を込めてくる。入れる瞬間の清己の表情が本当に良かった。


 ◇


 シャワーを終えた清己は、なにも身に着けず頭にタオルをかぶっただけの状態で机に備え付けた椅子に腰かけた。和室の壁際に置いてある机は、小学生の頃からずっと使っている。引き出しが一段しかない木製の机で、小学生の私にはシンプルすぎて不満だったのだが、おかげで大人の今でも使えている辺り両親を評価している。さすがに就職してから椅子は替えた。裸に樫材の座面は硬くて痛そうだが、清己は平気な顔で座りこんでいる。
 流しに水を張って冷やしておいた桃を剥いて、持って行く。「なにも着ないの」と訊くと、清己は「おまえも脱ぐか」と笑った。清己と違い私は裸でうろつく癖はないので、Tシャツと下着を身に着けている。清己がそうしろと言うならば再び脱ぐのだが、清己はそれ以上なにも言わず桃を食べ始めたので、私も傍に座った。椅子はひとつしかないので、清己の足もと、畳の上だ。
 清己は瑞々しい桃が気に入ったようだった。美味い、とこぼし、立て続けに三切れ食べた。買ったのかと訊かれ、私は首を横に振る。これは先日、大叔父を見舞う際に母が買い、ついでにと置いて行ったものだ。
「桃か。今年初めてだ。向こうじゃ果物はいちいち高くて、あまり買わない」
「こっちでも桃は高いけどね。まだあるよ。剥こうか」
「うん」
「葡萄もあるよ」
「桃がいい」
 傷む果物ばかりあるのは母がお節介を焼いて寄越したからだが、私の好物でもあるせいだ。昔からそうだった。夏場は果実ばかりで、おまえの前世は虫だなと父によくからかわれた。おかげで私は、果物に包丁を入れるのがとても上手い。
 私が桃を剥いている隙に、清己は机の上に置いてあった私の眼鏡をかざして遊んでいた。レンズを近付けたり遠ざけたり、弦を内側に曲げたり外側に曲げたりして確かめている。清己を真似て買った黒縁眼鏡は、仕事の際にしか使わない。休日は裸眼で過ごす。高校の頃の私は至って目が良かったので、いま私の右目があまり良くないことを、再会直後の清己は信じなかった。
 フレームを選んだ際、私には黒縁しかあり得なかった。高校時代の清己がかけていた眼鏡が赤縁だったら赤だったし、銀縁だったらそうした。清己が高校時代に私に与え教えたものが、いまの私の基礎である。悪いことも良いことも、清己がすればすべて正しい。
 清己の足もとへ再び座した私は、清己の膝頭へ頬を載せた。清己の片足を抱え、甘えるようにすがる。「なんだよ」と清己は笑ったが、私を好きにさせてくれた。また一切れ桃を咀嚼し飲みこんでから、ふと「夏休みか」と呟く。
 窓の外から、昼間でも賑わしい若者の声が響いている。
 清己の夏休みはあるようでない、という。私の夏休みは、盆の三日間だけは好きなことを自由にしようと決めている。「だったらこっちへ来い」と清己が言った。「おれの部屋なら、好きにつかっていい」
「実家になんかいつでも帰れるだろう。帰るな」
「――うん、」清己の言うことは、私にとって絶対だ。
「そういえば、おまえの好きな絵がどこかの美術館に来ていたな。ターナー」
「それ、行きたいと思っていたんだ」
 おまえの好きな、と清己は言うが、これも清己が私に教え込んだものだ。こんな色が描けたら最高だろうな、と感じ入りながら図版を示してくれた。あの時の清己の立ち姿は感動そのもので、未だに忘れられない。
 潔く凛と張って、見惚れるぐらい美しかった。そしてその感動はまだ続いている。一生囚われる。
「一緒に行こうよ」清己の膝に額を押し付け、私は言った。「きみも、行こう」
「夏休みなんだよ」
「――そうだな、夏休みだ」
 清己の右手が私の髪に差し込まれる。強くかきまわされ、私は目を閉じた。


End.


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 アパートで七嶋に抱かれた。男として、同じ男に咥えさせるのも尻を弄られるのも挿入されるものどうかと思って始めたが、流されてしまえばそんなのは大したことではなく、すんなりと出来てしまった。婚約者とのセックスとは完全に別物で、とにかく性の快感しかなかった。七嶋は上手い。触れ方もそうだが、心の掴み方が。
 冷たい目で見下ろされ、「はじめてなのにいいなんて淫乱ですね」と蔑まされるのがたまらなかった。深い場所を抉られて、目の前に星が霞む。毛布を必死で掴み、布団を唾液で汚しながら、腰を振った。痛いのも苦しいのもすぐ良くなる。七嶋に征服されている喜びを感じた。
 これまでの三十二年間は一体なんだったんだろうか。人生を顧みてしまうぐらいのセックスだった。婚約者への罪悪なんてものは全く感じなかった。それよりもこんなことを覚えて一度きりで済むのだろうか、という不安が胸の奥で膨れはじめる。
 事が済むと、七嶋はさっさと離れた。疲れすぎて声もかけられない。終わって冷静になった頃の方が、心臓の高ぶりをリアルに感じ取れた。身体をめぐる音に聞き入りながら布団の上に寝転んでいると、戻って来た七嶋に「水と煙草、どっちがいいんですか」と訊ねられる。
 右手にグラスを、左手に封のあいた煙草のパッケージを持っている。ここへ来て緊張を紛らわすために吸って、そのままテーブルへ置いていたものだ。松田は「タバコ」と答えた。
「ぼくにも一口ください」
 そう言って七嶋はライターを擦った。自らの口に咥えた煙草に火を点け、深く肺に吸い込み、吐く。吐き出された煙がゆるゆると天井へのぼって行った。七嶋は本当に一口だけ吸ってから、松田の口元へ煙草の吸い口を差し出した。先ほどまで散々自分を弄り回した指が唇に触れると、身体にぴりっと電流が走った。
「――吸わない人だと思ってたわ」同じように吸い込んで吐き出してから、松田は呟いた。煙が肺に浸みて、目が覚める。
「学生の頃ちょっと覚えただけで、普段は吸いません。これぐらいのことは誰でもやるでしょう」
「まあ、な」
 誰でも、の部分に七嶋が当てはまることを意外に思いつつ、頷いた。そういえばどんな学生だったと言うのか。七嶋の身体を知ったいま、もっと内側の部分に興味が沸いた。
「七嶋さんて、趣味、なに」
「唐突ですね」
「この部屋じゃ休日なにしてんのか、想像つかないからさ」
 相変わらずきちんと片づけられた部屋だ。上着やカバン、おそらくは学生の頃から使っていると見える一枚板のデスク、本や書類。必要最低限の生活しかこの部屋では探せなかった。
 松田の視線の先を読んで七嶋は静かに微笑んだ。「多趣味なんで色々やっていますよ」と言う。
「片付けないと気が済まない性質なので、押し入れに仕舞い込んであるんです」
「なに入ってんの」
「イーゼルや油絵具や、スケッチブック。……最近は見る専門になってきたので、雑誌や画集。船の模型。望遠鏡と星座版。箱庭は作りかけで、ああ、旅行鞄も入っています」
「へえ、旅行すんのか」
「東京によく行きます」
 意外な台詞だった。家に閉じこもって本ばかり読んでいるようなイメージがあったので、どこかに出かける七嶋を想像したことがなかった。それも東京とは。また。
「遠いとこ出かけるんだな」
「それでも一日で充分行って帰って来れます。交通の便がいいですから」
「どっか行くとこがあんの?」
「んー……散策するエリアを決めて、ひたすら歩きまわる、だけです。途中、美術館や博物館を見つけると立ち寄ってしまいますが、特に明確な用事があるわけじゃないんです」
「わざわざ行くのにか?」
「行くだけです」
 七嶋はそう言い切り、片膝を抱えた。気だるげに髪を掻く。肘や上腕部の裏側、腋の窪みや胸筋があっさりと示され、同じ男であるのに身体が疼いた。ここまでぞくぞくする色香を放つ男だと知らなかった。
 そのまま肘をついてそっぽを向いた横顔を、また食い入るように眺める。七嶋は二・三度瞳を瞬かせ、「高校の頃から、好きなものや憧れは全部そこにあるので」と大きく息をついた。
「行きたかった大学とか、見たい絵の飾ってある美術館や、転校してしまった友人、そういうのが全部あるのが、東京です。……――どんなところか、見たいだけなんです」
「見たいだけ、っていう割には思い入れが深そうだけど」
「散歩するにはちょうどいい街ですよ」
 適当に松田を躱し、七嶋は再び立ち上がった。服を着始めたので、松田も灰皿代わりの空き缶に煙草を押し潰す。
 シャワーを借りて早々に部屋を立ち去った。長くいると、つい「次は」と訊ねてしまいそうだった。もっとも七嶋は、松田のそういう浅ましい心をすっかり掌握していた。「結婚式は来週末でしたね」と松田に確認し、「じゃあ、それまで」と、含みのある言葉で松田を帰した。
 一度覚えてしまうと意識はそこにばかり向かう。七嶋を思うと身体が昂ぶり、尻奥がむず痒くなり、刺激がほしくなった。披露宴までのわずかな期間に、松田は何度も七嶋を求めた。学校でした時は最高に興奮して、突っ込まれている最中は漏らしっぱなしだった。
 放課後の空き教室で、尻を淫らに剥き出している自分。突っ伏している机には生徒の落書きやカッター傷が彫りこまれ、背徳感で足がふるえた。鍵をかけてあっても、学校だ。七嶋を受け入れながらも尻を強く張られ、「生徒が見ているかもしれませんね」と耳の傍で囁かれる。じんと脳髄まで痺れた。
入口から奥から激しく突かれ、何度目か分からない射精をする。それから松田の中ではいかなかった七嶋の性器を口に咥えた。男の性器なんか初めて咥えた。もう夢中だった。
 生物室に顔を出す野上の無垢な笑い顔を見るたびに、本当のところ七嶋はおまえなど眼中にない、と優越感に浸れた。いまは澄ました顔で野上に応じる七嶋が、眼鏡を外し服を脱ぐとどうなるか。小僧が泣いて逃げ出すような性癖を共有していると思うと、鳥肌が立った。被支配の喜び、秘め事と圧倒的な快楽。恐怖にも似ていた。
 披露宴直前の金曜日、校門の前で婚約者が待っていた。仕事が終われば七嶋の部屋を訪ねるつもりだった松田は、婚約者の思いがけない登場を煩わしく思った。彼女も教員で、隣の区の公立小学校に勤めている。多忙な中やって来た婚約者を無下には出来ないと分かっていて、内心面倒臭かった。
「――なに、どうしたの」婚約者とは昼間に電話をしたばかりだった。「なんかあった?」
「このままじゃちょっと……乗って?」
 促され、婚約者の乗って来た乗用車に乗り込んだ。家まで来られるとさらに面倒臭い。式を挙げた後、夏休み以降は同居となるのだから、それまでは一人を楽しませてくれないか、という勝手な思いがあった。
 同僚の紹介で知り合い、特に不可はなかったので付き合いはじめ、付き合いが長くなったので結婚に至っただけ、というのが松田と婚約者だ。ある程度の年齢に達した者が社会に示すけじめや体制、役割、とも言える。とても都合が良かったのだ。それを婚約者も承知しており、披露宴を前にして二人はとても淡々としていた。
 目前だからと言ってマリッジブルーで泣き出すような女ではない。演技ですらそういうことは出来ない真面目な女なのだ。それでもいきなり泣かれたらどうやって車を停めればいいだろうかと考えながら、行き先も告げず黙って運転する彼女に声をかけた。「なあ、どうしたんだ」
「なにか不安に思うことでも出てきた?」
「不安ていうか、確認」
「うん?」
「あたしたち、明後日結婚するのよね」
「どうした、今更」
 まさか本当にマリッジブルーか、と驚いた。今更取りやめようと言われても出来ない事柄だ。続けて彼女は「婚姻届はお式が終わって出しに行く、私があなたのところへ引っ越すのは夏休み中、子どもが出来るまでは共働き、よね」と手帳でも読んでいるかのように二人の予定を述べ上げる。
「うん、そうや。どうした?」
「いえ、なんでもないの。ただあなたに聞いておきたかったの。なんだか最近急に、よそが楽しいみたいだから」
「――」
「独身でいたいからやっぱり、ってなるのは私もあなたも困る。それを確認したかっただけ」
 身体中を冷や汗が伝った。
 どこでどう知ったのか、松田の不貞に婚約者は気付いている。極めてドライな結婚とはいえ、妻になる人間は鋭かった。根拠は全くないが、絶対に気付かれやしないさと高をくくっていた。どう言ったものか言葉がさっぱり思いつかず、汗で濡れる手のひらをしきりにシャツの裾で拭う。
 婚約者は海沿いの国道をすっ飛ばし、途中のパーキングで折り返して松田を家まで送ってくれた。今夜は大人しく寝ていろという意味か。別れ際に「お式は予定通りよ」ときっぱりと言い放ち、松田の両親には挨拶はせず、帰って行った。松田は途方に暮れた。
 落ち着かない心を落ち着かせようと、縁側で煙草を吸った。彼女の「予定通り」の台詞がぐるぐるとめぐり、ちっとも冷静になれない。吐き気がするほどうんざりした。こんな女と一生は過ごせない。結婚後の生活がおぞましいものに思えてくる。
 これが死ぬまで続くんだろうか、と思うと気が遠くなった。
 身体が勝手に七嶋へ向いた。七嶋がめちゃくちゃに抱いてくれれば、このさむしさは一時でも紛らわせると思った。実家を飛び出し、走って七嶋のアパートへ向かう。学校近くにある七嶋の部屋にはほんわりと明かりが灯っており、松田の心をいっそう淋しくさせた。
 インターフォンを鳴らす指が、ふるえている。走ったせいで気管支が痛い。ほどなくして姿を見せた七嶋は、松田を見てわずかに瞳を大きくした。
「今夜はもう来ないと思いましたが」
「……」息が切れて声が出ない。
「最後ですね。どうぞ」
 これで終いにはしたくなかった。嫌だいやだと駄々をこねて、どうにかして来週からも関係を続けるつもりで、部屋に上がった。二人で裸になってしまえば、支配してくれれば、救いがあると思った。
 息を切らし汗まみれでいる松田のために、七嶋は風呂を沸かし直してくれた。待っている間に冷茶も出してくれる。どうやろう、と考えながら部屋を見渡していると、机の脇に小さなボストンバッグが用意されているのを見つけた。
「――ああ、ちょっと出かけようと思いまして」視線に気付いた七嶋が答えた。「目もだいぶ慣れて来たので、久しぶりに」
「週末に、か」
「松田先生の披露宴に、ぼくは出席しませんので」
「来ればいいのに」
「まさか。同僚とはいえ、ぼくほど場違いに思われる人間もいませんよ。ろくな余興も出来ませんから、いても役には立ちません」
 松田は黙った。薄情な言い方に胸が痛くなったが、事実は(世間一般が七嶋に抱くイメージは)その通りだ。それに七嶋がもし来たら、きっと意識してしまう。舞台裏でひどいことをされたくなる。出席者や親類縁者や花嫁の前で七嶋と痴態を繰り広げる自分を思い、身震いした。あってはならないことなのに、そうされる自分を想像している。
 七嶋が洗面所へ引っ込んだ隙に、旅行鞄を探った。いけないことだという意識はなかった。松田がつまらないイベントをこなしている間に七嶋はどこへ行こうというのか。行き先を、降りる駅を知りたかった。旅行鞄の外側のポケットに古い文庫本が入っていて、切符はそこに挟んであった。東京、と掠れた黒インクで印字してある。
 同じ文庫本には、切符の他にもう一枚、写真が挟んであった。四隅がよれて丸くなっている。写真の中には少年が笑って立っていた。修学旅行のスナップ写真にありがちな縦長のアングル、有名な寺社を背景にしてスラックスのポケットに手を突っ込み、こちらを振り返っている。黒縁の眼鏡の向こうの瞳は自信満々に弧を描き、煌くような存在感を放っている。
 うちの学校の生徒ではない。制服は七嶋の母校のものだ。写真自体にも月日が感じられる――瞬間、松田は分かった気がした。七嶋がなぜ黒縁の眼鏡を選んだのか。なぜ東京へ行くのか。憧れているものはみな東京にあると言っていたじゃないか。
 結局おれは、誰からも必要とされていなかった。
 写真と切符を一緒に握り潰し、ズボンのポケットに突っこんで七嶋の部屋を出た。猛烈な寂しさが、埋められない。


End.


 


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 週明け、七嶋が出勤した。眼帯の代わりに黒縁の大きな眼鏡をかけていた。週末に作って来たと言う。誰の奨めなのかよりにもよって黒とは。地味な印象に影が加わり、七嶋を陰鬱に見せていた。
 不慣れな眼鏡は憐れでもあった。よく眼鏡を外しては右目の眉根を揉んでいた。辛いと目を閉じる癖が現れるようになり、移動中でもうつむき加減に歩き、ぶつかることがしばしばだった。転びそうになったところをとっさに腕を引いてやったこともある。危なっかしくてはらはらした。
 そんな七嶋の様子を、三年の野上がよく見に来るようになった。生物部の一人で、今回の事故で左手を捻挫した生徒だ。若いと治りが早いのか七嶋が学校に出て来られるようになった頃にはほぼ完治しており、けろりとしていた。
「センセ、ほんとに大丈夫なん?」
「慣れないだけだ。野上は気にしなくていい」
「これ、お見舞い。うちの庭に成ったすもも」
「もう成るのか。美味そうだな」
 やたら親しい。そんなに仲の良い生徒がいたかと、松田は驚いた。言葉が少々訛るのも珍しかった。授業でも松田たち同僚の前でも、どこでも、出身が違うかと思うほど七嶋は綺麗な標準語しか話さない。
 日に必ず一度、野上は七嶋の元へやって来た。七嶋にジュースをねだったり将来の話をしたり肩を揉んだりして、なにやら楽しんでいる。よく笑う七嶋が、松田には新鮮に見えた。近い距離感が、くつろいだ表情が。松田の前ではこんな顔しない、と思うと癪に障った。
 披露宴まであと十日だ。松田の意識は、そこに向かわなかった。式当日の段取りやその後の生活を考えねばならなかったのに、気が散る。その日準備室にやって来た野上を松田は呼び止めた。七嶋は席を外していて、その場にいなかった。
「おまえ、まいんちここ来るはいいけどベンキョ大丈夫か、ベンキョ」
「え、やってるよ。七嶋センセに分からんとこ聞いて、こんなに熱心じゃん」
「おまえに理数の心配はしてねえぞ阿呆。国語と英語な。必須科目じゃろうが」
「うえ」
「長田センセも村山センセも気にしてらしたぞ」
「もー、いいし。生物と数学で満点取るから」
 朗らかな声色で、話題がぽんぽんと出てくる。こういう可愛げが七嶋のツボを突いたりするのだろうか。つい「七嶋センセもそれどころじゃないんだからな」と厭味のような台詞が出た。野上は途端に顔をしかめ、「分かってる」と神妙に頷く。
「でも、七嶋センセといると楽しいんよ。好きなことなんでも話せて、質問にもぜんぶ答えてくれて、分かってくれて」
「そんなにいいか」
「んー、静かに笑うとことか、キレーな言葉で喋るとことか、好き」
 すき、の台詞が思いがけず衝撃だった。そんなことを照れながらも教師に明かす野上の屈託のなさやプライドの低さ、若さ、なんでもに苛々した。まるで恋でもしているかのように頬を赤くする野上を、厭らしいと思った。
我に返った野上は慌てて「内緒、」と付け加え、準備室を出て行った。入れ違いで七嶋が戻って来たが、野上にはすれ違わなかったようだった。
 机の上に野上が置いて行った飴玉を見て、七嶋は小さく笑った。最近は眼鏡にもだいぶ慣れ、松田が気にするほど誰かの手を必要としなくなった。だからなのか。俺はこの男に気にされたいのか。七嶋を睨むように眺めていると、目が合った。
 ビニール袋から弁当を取り出しながら、七嶋は「ぼくになにか用事がありますか」と訊いた。弁当は、いつか松田が七嶋の家に差し入れたものと同じ弁当屋のものだった。
「それ、弁当、」
「ああ、そうです。前に松田先生が買ってきてくれたところの」
 あれ以来気に入っているんです、と七嶋は静かに答えた。
「ブリの照り焼きが美味くて、食べたくなります」
「――ほうか、」
「松田先生は最近ぼくのことが気になりますね?」
 いきなり直球を投げられ、松田はうろたえた。事実でも、野上のように素直な肯定が出来ない。七嶋の訊ね方にも幅がある。答えられずにいると、七嶋はさらに「野上が来るから?」と問うてきた。
「それとも男を抱けるぼくが珍しいですか」
「……」
「ぼくが男しか好きにならないっていうのは、知っていますね」
「……、噂で」
「こんなところでも、おおらかになったなと思います。高校の頃は性癖を他人に明らかにしようなんて思いもしなかった。色々覚えて大人になって、あれだけ熱心に隠していたことをどうでもいいと思えるような日が来るなんてね」
 普段から自分にも他人にも興味の薄い七嶋が、自分のことを他人に話すのは奇妙な気がした。同時に嬉しかった。自分は七嶋にとって許せる人間なんだと思えた。
 思いがけず心が緩んだところを、さらわれた。七嶋はあっさりと「ぼくは野上の素直さよりも松田先生のすれたところの方が好みですよ」と言った。
「――なんて、もうすぐ結婚を控えている人に言うことじゃないですね」
「……」
 がっぷりと掴み取られて、松田は止まらなくなった。呆けたように七嶋を見つめる松田に、七嶋は笑いかけた。
「――今日、ぼくのアパートへ来ますか」
 松田は数秒ためらった後に、首をがっくりと折って「行く」と答えた。汗が止まらない。


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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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