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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 目覚ましをかけておいて、と言ったのは現(げん)の方だ。自分でかけるとどうしても起きないから、僕の方でも設定しておいてくれ、と。その時は素直に従ってかけておいたが、空調の音で目が覚めてふと隣を見て、現の規則正しい寝息や半分あいた唇や、くっと突き出た喉仏なんかを眺めていたら気が変わった。携帯電話の電源はその時点で落とした。現の使っているスマートフォンも途中でアラームが鳴ったが、僕が触ると消えてしまった。
 眠れるのも才能だ、と思う。僕の場合、時に睡眠薬が必要になるほど眠りが浅く困っている。そんな人間がいる一方で、現はアルコールも薬も使わずよく眠る。電車の中でも公園のベンチでも構わず眠れるのは素晴らしいことだと、単純に感動する。
 そうは言っても、昨夜は明け方までセックスをしていた。眠れない方がおかしい。
 現の激しいやり方に、尻たぶが擦れて痛い。股関節は軋むし、腰は鈍く重い。それでも現を眺めているとまた欲しくなった。はみ出た足を毛布の中に戻し、現の身体に擦り付け、なめらかな胸板に頭を乗せた。
 ふ、と低く呟いて、現が目を覚ました。
「――いま何時」第一声は、掠れて息の音だけだった。
「ええと、十一時半」
「じゅういちじはん!!?」
 勢いよく起き上がるので、現の身体からずり落ちてしまった。自分のスマートフォンで時間を確認した現は「うっそだろ!!」と叫ぶ。僕は転がったまま、慌てふためく現を笑った。
「っつかアラーム止めただろ! 止めんなよ!」
「寝坊したらまずいの?」しらばっくれて訊ねる。
「まずいに決まってんだろ! またバイトくびになる。アパート追い出されたらあんたのせいだからな」
「そしたらまた僕のところへくればいいよ」
 そう言ったら、現は黙った。顔をしかめ、悲しそうな顔をする。ああこういう顔させるつもりじゃなかったのにな。いつも思う。現を苦しませるつもりはないのに、つい意地の悪いことを言ってしまう。
 「どうせ遅刻なんだからもう一回しよう」と言うと、現は困った顔をした。
「ばかだろ。今からでも行くんだよ。無断欠勤はまずすぎるって」
「ええー」
「ええー、じゃないだろ」
 現は僕より五つ下だが、僕よりしっかりしていて、社会常識を知っている。いや、僕が常識を知らないのか。どっちだっていい。僕は現とセックスがしたいので、着替えようと背を向ける現に後ろから絡んだ。
「こら、おい」
「現だって、こっちの方が楽しいだろ」
 現の肌は、触っていてとても気持ちがいい。硬くてさらりと乾いていて、熱くて、撫でていると手のひらに馴染む。現の肩や腕や指をしつこく触っていると、現はくるりとこちらを向いた。困り顔は一転し、怒っているような―欲情した―顔になっている。
 ベッドに僕を押し倒し、足首を掴んで乱暴にひらく。
「あんなにしたから赤くなってる」現の指が、ためらいなく後ろへ伸びた。「痛くねぇの?」
 訊ねながらも、指は奥へ侵入する。昨夜の行為でやわらかくほぐれたそこは、現の指を三本あっという間に銜え込んだ。現が残したものがとろりと伝って、淫猥な音が響く。「痛くないから、――現、」
 ねだると、現は小さく舌打ちをした。「あんた最悪」指が引き抜かれ、別の感触のものが入口にあてがわれた。「おれがあんたのそういうところに弱いって分かってて、そんな顔でそんな声、出すんだ」
「……どうなっても知らない、」
「――どうなったっていいよ」
 告げると同時にがつんと貫かれた。衝撃で呼吸が詰まって、苦しい。でも気持ちがいい。現が眉根を寄せて覗き込んでくるのが、愛おしい。
 どうなったっていいのは本当だった。僕の方は、まったくかまわない。構うのは現の方で、それが心の底から可哀想だった。



 二回ずつ果てて、小一時間ぐらい眠り、ホテルを出ると夕方だった。現とセックスをした後は、なんとなく甘いものを買ってやることにしている。本当は小遣いぐらい渡したいのだが、それは現が嫌がるので、こういうものを買って僕と現とのおさまりをつけている感じだ。
 現は好き嫌いをしない。八十八円のチョコレートでも千三百円のタルトでもなんでも喜ぶ。今日は時期だからと言って、コンビニで個包装されているマロン・グラッセを選んだ。時期だと言っても保存の効く菓子であるから、去年の栗だったりするんだろう。それでも現は「季節感ってやつだよ」と言ってこだわる。
 そんなの売ってんだなあ、と感心した。五つ買って三つすぐ食べて、二つは僕に寄越した。
「僕は食べないよ」
「食ってみろよ。美味いんだ」
「うーん」
 僕は苦笑した。甘いものは、あまり好きではない。付き合いでも食べない。現があまりにもあんまりな顔をするので包装をひらいてみたが、ねっとりとした甘さがどうもだめで、齧り残しを現に返した。「ごちそうさん」
「こんなのじゃ腹は満たせないよ」
「あまいもんは別腹だろ。飯替わりって言ってんじゃないぜ」
「現とやるセックスなら、飯替わりになるかな」そう言うと、現は黙った。
「そうだ、その残った一個は遥花さんにお土産にしよう」
 思いつきを、僕は口にした。
「今日はさ、僕が飯の当番なんだ。デザートだって言えば」
「やめろよ」
「良かったら現も一緒に食おう。今夜は炊き込みにしようと」
「やめろってば、」
 現は本気で嫌がった。怒る、ではなく、呆れる、でもない。悲痛、という言葉がぴったりくる表情をする。
しまった、と思っても遅い。またやってしまった。現の心を引っかく言葉ばかり口にしてしまう。自分自身で止めることが出来ない。
「悪かった。現といるとだめなんだ。…帰ろうか」
「あんた、あんまりそういうこと、言うなよ」
「悪かった」
「なあ、義兄さん、」
 僕を呼んだ現の口調は重い。関係を自分に言い聞かせているのだ。
「おれ、どうすればいい?」
 僕には答えられない。
 現は、僕の妻の弟だ。僕らは義兄弟に当たる。義兄弟で恋に落ちていることを、現はとても悲しく思っている。
「おれは姉貴のことが本当に好きなんだ。責任感があって優しくて格好良くてさ。おれには甘いところも、美人じゃないところも。姉貴に比べたら、あんた最低だろ。浮気性でふらふらしてて思い付きだけで行動して。…でも、どうしてもあんたが好きだ」
「現、」
「はじめっからもう、行き止まりだろ。どうしたらいいんだ」
 このやり取りがこんな街中ではなく二人きりの場所で行われていたら、現を抱きしめてやれたのに、と思う。
 妻とは、良くやっている。セックスレスな夫婦だが、却って友達のように暮らせている。同居人として、一生涯のパートナーとして、これ以上の人はいない。
 現とは、はじめから恋だった。弟だと紹介されて、一目見てお互いに恋に落ちた。妻には沸かない欲が、現にはいくらでも湧く。激しい情熱が渦巻いて息が出来なくなるぐらい。姉弟だからどことなく似ているのに、妻と現とでは欲の矛先がまるで違う。
 妻と別れる気はない。最高の人だからだ。
 それに妻と別れなければ、現とは兄弟でいられる。恋は恋、曖昧で不明確で、感情が一度冷めたらそれでおしまいだ。明日には嫌いになれるかもしれない関係は、しかし妻と別れなければ、確固としたつながりを持ち続ける。結果的に現が誰と連れ添っても、現の一生涯を僕は愛したい。現と血を分けない僕は、紙の上の関係が、とても重要だ。
 現はそう思っていない。姉を裏切っていると思い込み、それでいて僕以外の誰かに恋も出来ない。可哀想だ。現状を受け入れられない現が、可哀想だ。
「本当はおれ、あんたと手をつないで歩きたい」沈黙の後に、現はきっぱりとそう言った。
「姉貴のとこへなんか、帰したくない」
「うん」
「他愛もないこと喋って、飯食って、触ったり、キスしたり、……ずっと一緒にいたい――」
 言葉に詰まって、現は下を向いた。うつむいて浮き出た首の後ろの骨に、歯を当てたいと思った。
 愛しているよ、と僕は言った。心からそう思っている。誰よりも現の幸せを願っておいて、手ひどく傷つけてしまうぐらい、愛している。
「義兄さんなんか、嫌いだ」うつむいたまま現は言った。
「嘘。好きだ」
「知ってるよ、現」
「じゃあもっと思い知って。好きで好きで好きで、苦しいよ。愛してる」
 僕の上着の裾を、現はそっと掴んだ。それ以上のなにを出来ずに。


End.


 



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7. 青に金銀

 明るい場所から暗い場所へいきなり飛び込んでも、一分も数えればちゃんと目は暗闇に馴れる。目を開けてじっとしていると、瞳孔がひらく瞬間が分かる。急に視界が動き、闇だと思っていたものに、わずかな光や影を見出せる。世界の正体が少しずつ明かされて、安心と失望を一度に思う。
 夜は走ることにしている。トレーニングコースと称して行き先は学校だ。朝になればまたここへ来るというのに、夜中の学校をただ眺めて帰ってくる。そういうのを気まぐれに繰り返していたらいつの間にか高校二年も終わる。
 学校の表門も裏門も閉まっているが、門扉を超えるのは簡単だ。学校で折り返すのがいつもだが、たまに侵入する。外灯の下を素早く抜け、中庭へ向かう。第一校舎と第二校舎の間にある中庭は外灯が届かず、本当の夜(に近いもの)を感じられるのが好きだ。しばらく目を開けてぼうっとしている。やがて瞳孔が開いて闇の中に微かな光や影が見え出す。
 世界が急に煌き出す瞬間に、毎度ため息が出る。
 暗く重く空へ突き抜けるような校舎の天に、星がある。町中じゃ屑としか思えない光もここまで来れば星座になる。足元の芝生が凍っている。誰かが投げ捨てたごみも分かる。暗い教室のカーテンや、壁に描かれた落書きまで見える。バカ、とか、スキ、とか、死ね、の文字。
 みんな好き勝手で、鬱屈していて、力があって、そのくせ自分だけじゃどうにもならない物事だらけの、ばかになって騒ぐしか出来ない時代をまとまって過ごす場所。
 お喋りで人に干渉しすぎる町も、学校も嫌いだ。だから夜、わざわざこうして大人しい時間を見計らってやって来る。



 小さい頃のおれは、家の明かりがついていれば消してまわるような奴だったそうだ。
 普通、子どもなら逆だ。明かりがついている方が安心する。一人で留守番させていると真っ暗闇でごはん食べているんだからびっくりしたわよ、と母親はよく語る。暗いところにじっと目を開けて過ごしているので、この子は霊感が強いんじゃないか、云々と。
 おれにそんなものはない。死んだ人の魂どころか生きている人間の思うことだって分からないし、未確認飛行物体を発見するには、昼間の飛行機にも興味が薄い。現代人の範囲内で生きている。
 暗がりの、瞳孔がひらく瞬間とひらいてから見える部屋の様子が好きで、家の明かりを消していたのだ。
 それに気付いたのはいつだったんだろう。わりと早くから、暗い場所では黒目の大きさが変わることは知っていた。闇で目を開けていることは、おれにとってとても楽しい一人遊びだった。
 ぼんやりと浮かんでくる、物々の輪郭。外で誰かがやっている花火の閃光と閃光で出来る影。夜も深くなれば今日も誰かが寝て、電気を消す。消した分の明かりは空に灯るんだと、本気で信じていた頃もあった。
 窓を開け放してみること。大気は深々と響き身体と同じ音を出すこと。車が通って遠ざかること。空気が冷え込んできて、肺が痛くて咳が出ること。指先に血が逆流して、寒いのに急に火照りだす限界があること。
 小さな事実が感動として迫ってくる。だがこれは夜に限る。昼日中、日常生活でこんなことに心を奪われていては到底暮らしてゆけない。



 三月の屋外は、特に夜間は、まだ冷える。足元から冷気が浸み込んできて身震いし、後ろを振り返った。背後には黒々と巨大な校舎がそびえ立っている。
 暗闇の学校を抜け、また走り出す。途中、町の中心部を流れる川を渡る橋の袂で七嶋と出くわした。画塾を遅くまで使わせてもらったのだろう。厚手のウールジャケットを着て、画材を入れる帆布材の鞄を下げていた。
 白い外灯の下に黒い上着だと、七嶋にはまったく色味が見えなかった。時代の分からない白黒写真のようだ。身体の輪郭に光が追いついていない。半分ぐらいはたっぷりと闇に溶け込んでいるその姿に、背筋がぞくぞくして鳥肌が立つ。
「――キヨ、お帰り」ほとんど表情を変えずに七嶋は言った。「今夜はちょうどいいものがあるよ」
 明日学校で渡すつもりだったという紙袋を受け取る。中には手のひらに乗るようなサイズのりんごがみっつ入っていた。「デッサンの課題だったやつ」と七嶋は教えてくれた。「ちょっと古くなってるかも。輸入ものだから、すっぱいかな」
「ほんとだ、少しやわらかい」受け取って、意外と重みがないことに気付く。「また果物か、おまえは」
「明日、部活へ来るだろ、清己」
「――ああ、行く」
「先生から包丁とまな板借りて、みんなで食べよう」
 七嶋に合わせて歩きながら、ぽつぽつとりんごや画塾や部活動の話をした。不意に七嶋は立ち止まり、空を見上げてからこちらを見て、「引越しの準備は進んでいるのか」と訊いた。
 現在は三学期の終わりかけで、三学年の生徒はすでに卒業している。テストも終了し、ろくな授業らしい授業はない。二日後の終業式後すぐ、おれは東京へ引っ越す。父親に転勤について行く。編入先の試験も受け終え、通う学校もすでに決まっている。
 町を去ることに未練はまったくなかった。きっと東京という場所は、ここよりもはるかに水が合うだろうと思っている。この土地のことが本当に嫌いだ。遅かれ早かれ、大学進学でここを出ることは決めていた。
 唯一七嶋のことだけが辛いと思える。目が。瞳孔がひらいた後で分かる星空みたいな光の目が、おれをずっと見ていると知っている。しつこく追いかけられて、背中の後ろの毛が逆立つ感覚をいつも味わっている。この目にもう見られないかと思うと、身体が急に頼りなくなる。
 つむじの周辺ばっかり癖毛で巻く後ろ頭や、絵具が付きやすい左腕の内側の肉。名前を呼んで振り向かせたときの無防備にあく唇や、インクを飛ばして染みをつけてしまった背中の骨筋や。
 そういうものがもう一切触れない場所へ行ってしまうことがどれだけ日々のダメージになるだろう。まるで半身が欠け落ちたような涼しさを、引越しを決めてからずっと感じている。
「明日、部室の片付け手伝えよ」七嶋にそう告げた。「ロッカーや倉庫や、全部片付けて引き上げるからさ」
 七嶋がきつい目でこちらを見たが、気付いていない振りをした。
 七嶋がりんごをくれるなら、おれにだってあげたいものがある。
 ロッカーには、絵具がある。いつか使おうとして結局使わないでいた油絵具だ。好きな画家を真似てイエロー系とブルー系の絵具をいくつか揃えたのに、絵は描かなかった。使う予定もないのに惹かれて買ってしまったシルバーの絵具も混ざっている。これらを、七嶋にやろう、と。七嶋が絵を描けばそれだけで良かった。
「明日から暖かくなるらしいよ」七嶋が言った。「空、そろそろ霞んじゃうかな」
「七嶋さ、星座って分かる? おれあんまり知らないんだよね」
「そんなわけないだろ。キヨの方が詳しいよ。いつも見てんだろ」
 夜の学校へ忍び込んで空を見上げていることさえ、七嶋は知っているんだろうか。こいつと離れるなんて、おれは本当にどうかしている。
 離れたくない、でも行くんだ。
 星座はオリオンと北極星しか分からない、と七嶋が空を指す。その白い指先を、三秒見つめて目を閉じた。そして息を吸い込みながら目蓋をひらき、紺地に微かな金や銀の星々を数えはじめた。


End.


← 10(平林)





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 数日後の夕方、レジを打っていて店の窓の外がオレンジ色をしているのに気が付いた。少しだけ手を止めて空を見る。一瞬飛んで客に向かい直し、こなし、また次の客を迎える。客は「ラッピングをお願いします」と本を寄越しながら言った。
 声に驚いて顔を上げる。七嶋だった。
「――閉じ込められていたのに黙ってなかったことにしては、いけませんよ」
「――……あ、なんで、……」
「鍵を閉め忘れたことに気が付いて引き返したら、平林さんが階段を下りてくるところを見ました」
 屋上での一件は、誰にも気付かれずに終息した。あの後七嶋は電話を終え、屋上を出て行った。鍵を閉めて行かなかったので再び閉め出されることもなく平林は屋上を出ることが出来た。七嶋に気付かれてしまったのは、そういうことだ。ということは電話を聞かれていたかどうか気にしているだろうかと、「盗み聞きしてすみませんでした」と謝る。
 悪いのはこちらです、と七嶋は穏やかに言った。
「平林さんが黙っていらっしゃるのでまだ報告はしていませんが、閉じ込められてしまった、でいいんですよね。きちんと確認もせず、本当に申し訳ありませんでした」
「いえ、いえ。私もすぐ誰かに連絡をすれば良かったのに、つい、というか、なんというか、」
「すごい空でしたよね」
「――はい、すごい空でしたね」
 七嶋の言葉をおうむ返しにするしか答えられない。それでも七嶋は責めず、穏やかな顔でいる。
 ラッピングのリボンの色を訊くと、少し迷った後に七嶋は金色を選んだ。白地に星がプリントされた包装紙に金のリボンでは安っぽくて申し訳ない。七嶋が買う本は印刷の鮮やかなポストカード集だ。星や旅先の風景ばかり撮っている写真家が最近出したもので、コントラストの出し方が上手く、ぱっと見て人目を惹く。シリーズとしては古い。この写真家を選ぶ辺りが、七嶋だと思わせた。
 電話で喧嘩をしてあれきりなので貢いでやるんです、と七嶋が言った。誰と喧嘩をしたのかは当然、分かる話だった。
「――あの、本当に電話、聞いてしまってすみませんでした」
「いえ、あまりお気になさらず。――ぼくも、鍵がかけてあった屋上だからと油断してつい電話に夢中になりましたが、職場からする電話ではないですね」
「電話のお相手は、恋人ですか? 贈るには子どもっぽい包装で……」
「いえ、それは大丈夫です。こういうきらきらしたのは好きなんです。きっと喜ぶ」
 発言に驚いて顔をあげる。緩みきって惚気るならともかく、七嶋はあくまでも静かに語る。その淡々とした口調が発言の中身とまるで合わない。つい「恋や恋人は、いいものですかね」と聞いてしまった。
「――や、皮肉や妬みではなく。その、私はあまり、そういうことに関心がないので、」
「平林さんはちょっと遠慮しすぎなんじゃないですか」
 屋上での一件を言っているのか。代金を渡しながら七嶋は笑ったが、ふと真面目な顔をしてものを考え始めた。
「――恋や恋人では、ないかもしれませんね」
「え?」
「そういえば、好きだと言われたことはないし、愛してるとも言ったことがないです。付き合おうと決め合ったわけでもない。恋というと、少し違うような」
 釣銭を財布に収め、受け取った本をじっと眺めてから、答えた。「ぼくの場合は、情熱、と思います」
「執着、夢中、信望、そんなのです。向こうに言わせればまた違うんでしょう。ぼくは、どんな手を使ってでも気を引いておきたい。だからなんでもします、ぼくにとって彼は絶対的なものなんです」
 本、ありがとうございました、と結んで七嶋は去って行った。「彼」と言ったがそこはどうでもよかった。「情熱」の言葉にずしりと痺れていた。
 それは恋じゃないのかと思ったが、言わなかった。七嶋のことよりも、自分自身のことを考える。誰かが絶対だなんて、宗教さえ持たない平林に想像は難しかった。だと言うのに、羨ましいと思う。夢みたいな現実が、いまさっきまで目の前にいた男に起こっている。
 今夜はもう閉店時間で、いつも通り閉店作業をこなしメールをチェックして、母親の作った食事を食べ風呂に浸かって、読みたい本は眠気に負けて読めないまま、眠ってしまうのだろう。眠ったまま明日目覚めなければどれだけいいかと思いながら、朝になったら起きてしまう。慌ただしくも静かでなんの事件もない今日と同じような明日を送ってしまう。
 そんな毎日で、大丈夫なんだろうか。
 大丈夫ですか、と後ろから声をかけられた。あたたかい手が背中に触れている。従業員の時田が不思議そうな顔で平林を見ていた。「表、もう閉めましたよ」
 背中に添えられている手に、ふるえが来るほど安堵した。
「具合悪いですか」
「――いや、ちょっと考え事してた」
「しっかりしてくださいよ。店長このあいだから上の空ですよ」
 明るく笑う時田に救われた気分だった。いてくれて良かったと心の底から思った。そういえば時田とは一緒に仕事をしているくせに、通りいっぺんの情報しか知らない。ほっとしたまま、「今度飲もうか」と誘っていた。時田が勤務し始めてすでに五年近く、平日に誘うのはじめてのことだった。
 驚いた顔をして時田が振り向く。誘った平林本人も驚いている。
「今日飲もう、とは言わないんですか」少しして時田は表情を崩した。「部下に遠慮しすぎ」
「……いや、今日はもう、おふくろが夕飯をつくっちまってるからなぁ、と考えて」
「おれはいつでもいいですよ。暇で楽しい独身生活を満喫中ですから」時田も平林と同じく三十代を過ぎてまだ、独り身だ。
「満喫、してんのか」
「楽しいですよ。メシに凝ってみたりいきなり遠出してみたり怒られないで延々と本が読めたり。一人の楽しみを覚えた、っていう言い方をしちゃうと淋しいですが」
「……そうか」
 ここにも羨ましいと思える奴がいて、平林はついに笑ってしまった。
「うちで良ければ、メシ食ってかないか。少し窮屈だけど、ビールもあるよ」
「はは、喜んで」
「でさ、この間、おれが高校の屋上に締めだされた話を聞いてよ」
「ええ!?」と時田は声をあげた。「だから遅かったんですか? 言ってくださいよ、もう!」
 真剣に叱られた。それがなんだか、嬉しかった。


End.


← 9(平林)
→ 11




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6.平林

 暮れてゆく空がとても綺麗で、ああこんなの忘れていたなあと思った。こんな風に、空を見上げたのは学生ぶりかもしれない。
 普段、この時間は建物の中にいるから空の色など気付かないで過ごす。商店街の書店経営は、夕方の客が重要だ。従業員だけでは対応しきれないのを手伝い、諸々の業務をこなす。空なんか見上げる暇がない。
 それにしても見事だった。青からオレンジ、オレンジから黄色。青の隅には紫も混ざる。何色と言えない色が頭上いっぱいに広がっていると、確かにドキドキする。いつか従業員の時田が「夕方の空見ると怖くて好きです」と言っていたことを思い出す。
 ――いや、思考を止めている場合ではないのだ。頭をぶるぶると振る。この状況からどうやって脱出するか、いい加減に肚を決めなくては。
 高校の屋上に閉め出されてから、一時間が過ぎた。



 県立F高校は、平林の経営する書店のある商店街のすぐ裏手にある。駅の東口を出て北へ進み、十五分ほど歩いた先の比較的大規模な商店街だ。高校に近いため、教科書も扱っている。春には大量の在庫をバンに積んで高校を訪ね教科書販売を行うし、その他参考書や辞書、学校図書館の注文も電話を寄越されればハイと対応する。高校があるから潰れずに成り立っている。
 今日は電子辞書の販売に来ていた。あらかじめ受けていた注文数を持参して、生徒昇降口前の指定された場所で販売した。午後三時からの販売に生徒は列を作り、連れてきた時田と二人では手が足りず、学校職員にまで手伝ってもらった。
 母親ひとりでやっている店のことが心配で、忙しさの波が引いた後は時田を一足先に店へ帰した。後片付けをし、煙草を吸いたくて屋上へ上がった。ぼんやりと壁に寄りかかって考え事に暮れていると、左後方で鉄の扉が突然締まった。警備員か巡回の職員が屋上の扉を閉め、鍵をかけてしまった。
 とっさに大声をだし、扉を叩いて自分を知らせることも考えたが、しなかった。なんだかとても面倒なことに思えた。このまま閉め出されても、死ぬようなことはない。どんなに閉じ込められていたくても、明日になればまた職員や生徒が登校して扉は開く。そこまで辛抱しなくても、携帯電話でいつでも助けが呼べる。
 そう考えたら、あと一時間ぐらいはここでぼんやりしていてもいい気がしたのだ。
 フェンスの方へ歩いて行って、校庭を覗き込んでみた。高いフェンスは先が内側に折れている造りで、越えられないようになっている。フェンスの向こうにもまだ1mほど屋根が続いている。ここは四階だ。地上15mほどの高さから見る校庭には、野球やサッカー、陸上に打ち込む生徒が小さく這いずっていた。声も届いている。
 どこかで吹奏楽部がぴろぴろと音を鳴らしている。歌も聞こえるか。下校する生徒の笑い声も響き、典型的な学校の放課後を、もう何十年も昔に学校を卒業したただの中年親父が、多少の危機的状況の中で眺めている。
 一時間ぐらいは、と高をくくっていたが、実際は三十分で限界だった。店はどうなっている。時田と母親だけで大丈夫か。トイレに行きたくなったらどうする。本気でここで夜を明かすつもりか。雨が降ったら、気温が急に下がったら。どうするつもりだと焦りが募る。
 さっさと携帯電話で職員を呼び出せばよかったのに、逡巡があって、それでもボタンを押せなかった。その矢先に暮れる空を見た。怯えるほど美しい空だ。現実から逃げ出したい気持ちがもくもくと湧き、脱出し損ねていることを可とも不可とも思う。
厄介事からは、死んでしまえば解放されるだろうか。屋上でこのままくたばれないか、だって明日も明後日も今日と同じ退屈な一日だと考えていると、鍵のまわる音がして扉が開いた。屋上へ教師が一人やって来た。
 眼鏡のかかった几帳面な横顔を見て、誰だっけ、と記憶を呼び起こす。よく世話になっている教師だ。確か、理科か数学の。いや、生物だ。生物科の七嶋――思い出した。
 声をかけるより先に、七嶋は電話を始めた。一直線に向かい側のフェンスへ歩きながら、耳元に当てた携帯電話でなにか喋っている。少しだけ笑っていた。「まだ学校、」と言ってフェンスにもたれた。「準備室は生徒がいるから、屋上」
 誰と喋っているのか、ずいぶんと親しげだった。七嶋は平林よりも五つか六つ若かったが、結婚しているかどうかは知らない。話相手が家族か恋人か友人かは判別がつかなかった。
 いつの間にか生徒は帰宅し、声が途絶えている。夕暮れの涼しい風が吹き、思わず身震いした。屋外で一時間以上も身体を動かしていないと、緊張しっぱなしで肩が痛い。
「――うん、きみは?」優しい声が響く。
「――良かった。なら、週末はそっちに行くよ」
「うん、――うん、」
「――そう、この間引率に行ったときに、」
 普段よりはるかに穏やかな語り口に、恋人ではないかと思った。だったら聞いていてはいけない。人のロマンスを盗み聞きしたい下世話な根性はあるが、自分に返って来るかと思うと冗談ではない。(もっとも語って聞かせられるような経験はないのだが。)
 七嶋の目を盗んでとっとと屋上を出てしまおうと考えたのに、七嶋はずっと入口の方を向いているから、出来なかった。のこのこと出て行ったのでは「何をしていたんだ」と思われかねない。だが、それも出来ないと帰るタイミングを逃し続ける。七嶋がこちらへ気付かないせいで七嶋の電話の内容を聞く羽目にもなっており、それがまた落ち着かなかった。
 それにしても、その歳でまだ恋に現を抜かせるだろうか、と考える。
 いま平林が誰かと恋が出来たとして、あんな風に電話は出来ない。きっともっと時間と周囲を気にして、つまらない返事しか出来ないのだろう。セックスは、心底どうでもいい。平林の乏しい経験では、自分でするのと恋人とするのと金でどうにかしてもらうのとはそう大差ない。
 七嶋をこっそりと眺めた。電話は続いているが、七嶋の表情が険しくなってきているのに気付いた。
ふう、と分かるように大きく息をつく。そして目を閉じる。顔をきつく歪め、「そんなわけないだろ清己」と呻いた。
「――生徒なんて、興味ない。きみが、――きみがいるのに、きみ以外に興味なんかない。なんでそんなこと、言うんだ、―――……ただでさえきみは遠いのに」
 逼迫した声に、身体の芯が緊張した。
 遠距離恋愛だろうか。そんな恋なんか、したことがない。電話口に愛を囁いたことだってない。ああいう顔をするのは恥だとさえ思った。そしてこの先もすることはないと思うし、なくても構わない人生だ。
 疲れるだけではないだろうか。面倒で、いつかきっと重たくなる。いまだけだ。心の中で反論する。誰に責められたわけでもない自分の恋愛観を、七嶋の声が真っ向から否定している気がして、言い返す。
 電話はまだ続いている。七嶋は「ああ」とか「うん」ばかりでほとんど喋らない。沈黙で、一体なにが分かり合えると言うのか。
 早く喋って欲しかった。喋って、電話を終えて、平林の存在に気付く前に去って欲しい。


← 8(慧介-2)
→ 10(平林-2)






拍手[38回]



 さっぱりした気持ちで「おまえが言う通りだった」と鞠子に告げた。十月初旬、今度は放課後に鞠子の家に行ってアイスクリームを食べていた。鞠子は家業の青果店の、店番中だ。
 鞠子は意味分からないという風に首を傾げて、「おれ、なにか言いましたっけ」と訊ね返した。
「ずっと前に言っただろ、東京のおじさんは忙しかっただけなんだ、って」
「――はあ、その話ですか」顔がうんざりしている。
「あれ、そういうことにした。そうなんだよ、忙しかっただけなんだ」
「はあ?」
「しょうがないよな、かっこいい大人はそうじゃないとな」
 鞠子は心底分からない、と首を横に振る。
 結局、メモ書きの住所は訪ねなかった。悩んだ末あのメモは燃やしてしまった。友隆小父につながる人物が住んでいるかどうか、色々と確証のない物事であるし、友隆小父を暴くような行為に後ろめたさを感じた。というか、自分が心底嫌になった。だから、やめた。
 火を直接扱うのは理科の実験以来だった。父親のつかう灰皿の上で、紙切れはぽっと炎をあげて焦げて消えてしまった。燃やして、清々した。そうしてから、鞠子を労わってやる気持ちになった。
 ぼくにしたら珍しく、鞠子にアイスクリームを買って行った。ぼくらがいつも買うメーカーのものより百五十円も高い新商品だ。なにか裏があるんじゃないかとびくびくしながらアイスを受け取る鞠子が、可笑しかった。鞠子といると楽しいのは、中学からずっと変わらない。
 東京へ行くのやめたんだ、と告げると、鞠子はしばらくの沈黙の後に「えっ」と簡潔に叫んだ。
「大学、志望校変更。地元にする」
「地元って、これから変更? あんた東京がいいってあれほど言ってたのに」
「んー、でもなんかいい。東京はさ、就職のタイミングで行ったっていいじゃん。親も喜んだし」
「そういうこと言ってると一生出損ねますよ」
 呆れた、と言わんばかりの顔で言う。その顔に「だからこれからも頼むよ」と言うと、鞠子は口を中途半端に開けたまままた黙った。
「いいじゃん。こっちって、おまえいるし」
「いますけど、そりゃ、」
「そりゃ、なに。おまえも『大学は東京に』って考えてた口?」
「……考えてましたよ、東京。先輩行くって言うし」
 お、と思わず声が出た。鞠子を見ると、怒っているのか迷っているのか照れているのかよく分からない顔で、そっぽを向いていた。
 その顔を振って、こちらを向いた。「でも地元にするって言うなら、おれもこっちにします」と鞠子は言う。
「言っておきますけども、おれは先輩よりも真面目で勉強ができますから。地元だったらSランク狙いです。K学院大」
「え、ちょっともっと落とせよ、ランク。一緒のところ行こうぜ」
「あんたが勉強頑張ってください」
「無理だよ。これから志願変更すんだぜ」
 鞠子が大学受験をするまで、あと二年ある。鞠子が考えなおして志望校を変える方がいい。あ、違うか。思いつきに、ぼくは頷く。
「二年かけてベンキョしたら、さすがにK学院大もおれを入れてくれないかな。そしたら一緒に入学出来るな」
「……ばっかじゃないですか」
 呆れきって鞠子は、笑い出した。


End.



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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
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長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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