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一連の動作を瑛佑は表情も変えずに目撃した。内心は驚きでいっぱいであったが、珍しくはない。ただ、知った顔で、男同士、というパターンは初めてだった。
堂々として、馴れた風だった。その先や背景をあれこれ考えようとして、やめた。個人情報はあまり深追いしない方がいい。男が二人エレベーターに連れ立って乗った。瑛佑がいまホテルマンとして把握しておくべき事柄は、そこまででいい。
夕闇が濃くなり、宿泊客でロビーが混雑し始めた。同時に式も終了し、あふれ出た人でせわしくなる。結婚式の出席者の何組かはここへ宿泊し、他は帰るか別の宿へ向かう。神経質にチェックしたがトーマはロビーに現れなかった。宿泊名簿にも該当する名前はない。
普段の勤務終了時刻より十五分遅れて夜勤スタッフと交替した。夕方五時を過ぎたところだ。降り続く雨のせいで辺りはひたひたと暗く、寒かった。
携帯電話をチェックしてみたが、秀実からの連絡はなかった。明日は休みだ。約束としては部屋を訪ねることになっているが、具体的な話まではしていない。電話をかけるか、でもめんどくせえなと思いながら職場を後にすると、不意に「瑛佑さん」と声をかけられた。ホテルの裏口すぐにある雑居ビルの軒、ポーチに据えられた常夜灯の下トーマが引き出物の紙袋を提げて立っていた。
「こんばんは、花屋です」
「――どうしたんだ、」
「……いや、式で花を分けてもらったから、この間のお返しにあげようと思って」
雨の中待っていたらしい。胸に挿した花を瑛佑に差し出した。昼間のロビーでははっきりと青いと見えた花は、オレンジ色の光の下では黒ずんで見えた。
ありがとう、と受け取るにはためらわれた。お返しに花をあげようなどとは思っていないのは分かる。口実だ。この男になにを言うべきか迷っている瑛佑に、トーマはため息をつきながら「や、本当は違う」と首を横に振った。髪が揺れる。洗い髪を適当に乾かしたまま、整髪剤はなにもつけていない。髪がさらりと動き、わずかの間をおいて石鹸のにおいが届いた。
「さっき…その、目が合ったので……」
言いにくそうに目を伏せる。瑛佑はトーマを見据えて様子を窺った。
「瑛佑さんの勤め先があのホテルだってのは、知らなかったんです。…なんていうか、その、さ」
「?」
「色々分かっちゃいましたかね、て……」
言われて思い当たるふしは特になかった。知人が男とエレベーターでキスをしていたことか。瑛佑としては、式の最中にトーマが男と二人で部屋に消えたことなど大して気に留める事柄ではなかったが、トーマは明らかに気にしている。苦虫をかみつぶしたことはないが、こういう顔のことか、という表情でいる。
こんなところで立ち話をしても仕方がないので、部屋に誘った。どこか店に寄ってもいいが、雨降りなので早く帰ってシャワーと着替えがしたい。泊まるあてがないなら来るかと訊くと、トーマは弱り切った顔でちいさく「行きます」と頷いた。どうしていいか、本人もよく分かっていない様子だ。
どこへも寄らずに部屋に戻った。鍵を開ける前に、飼い猫の存在を明かさなかったことを思い出し、話した。アレルギーでもあればこの雨の中をまた追い出す羽目になるが、トーマは表情を緩め「ネコ、好きですよ」と答えた。「触りたい」
「飼ったことある?」
「あります、中学の頃。空きっ原にいたのを放っておけなくて、黙って拾った。でも交通事故ですぐ死にました。つらかった」
「泣いた?」
「恥ずかしいすけど……泣きました。――なまえ、なんていうんすか」
「トーフ」
「豆腐?」
「そう、トーフさん」
飼い猫――トーフは、瑛佑の帰宅の際には必ず扉へ寄ってくる。外へ出してほしいのではなく、瑛佑の帰宅を出迎えるためだ。今夜も玄関で待っていた。明かりをつけると、首輪についた鈴が軽やかに鳴った。「トーフ、ただいま」
まっしろな毛並みに、片耳にだけ焦げた茶色がアクセントになっているメスネコだ。挨拶をしながら、トーマは「白いからトーフ?」と瑛佑に聞いた。人懐こいネコは、トーマにも人見知りせずに喉を鳴らす。
「おしょうゆ垂らした豆腐が食いたい、って思ったらしいよ。名付け親は」
「瑛佑さんが名づけたんじゃないんすか?」
「前に付き合ってた人の飼い猫。旅行好きで、しょっちゅう俺に預けてくんだ。あんまり俺に預けるから俺の方が懐かれて、いいよ飼うからって言って、いまに至る」
「――元カノの、ネコ、」
「そう言う言い方をすると未練がましい感じがするよな。全然そんなじゃないんだ」
飼い猫の餌鉢とトイレをチェックし、手早く後片付けをする。人が来る予定ではなかったから物が散らかり、換気もしていない。脱ぎっぱなしの衣類を手に取り、部屋にひとつしかない椅子をあけた。
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瑛佑と秀実が同級生の間柄から義兄弟の関係になったのは十一年前、二人が二十歳になった年だ。二人は同じ中学に通い、クラスは一年だけ一緒だった。座席が近かったのでわりあいよく話をした。クラスが離れても話をしたし、マンガやゲームの貸し借りもした。お互いに片親同士だったのでそういう話題も出来た。家に泊まりに行ったこともある。
高校で別れても最寄駅までの通学路が同じだったので、顔は合わせた。大学でいよいよ離れたのだが、成人式で帰省した日に再会した。そこで義兄弟になることをお互いの親から明かされた。瑛佑の父親と秀実の母親が再婚する、という内容だった。
瑛佑の両親は瑛佑が小学四年生の頃、秀実の両親は秀実が中学へ上がる前に離婚した。伴侶のいない生活を送っていた瑛佑の父親と秀実の母親の出会いは、中学校の保護者会だ。お互い旅行好きの趣味が一致し、意気投合した。
そのうち子どもの手が離れたら、二人で好きなだけ旅行しましょうと決めていたそうだ。七年間の交際から結婚へ結びつけた両親は、約束通りにどこへでも行く。好きに動けるのは六十歳台まで、という人から聞いた話を信じて、海外へだって行く。
まさか友人の母親と自分の父親が男女の仲になっていたとは、なかなか想像しなかった。確かに二人とも独り身ではあったけれど、親のこういうことを想像するのは生々しい。だが秀実は単純に喜んだ。瑛佑の方が誕生日が三ヶ月早いので、兄ちゃんだ、と。おれは頼りになる兄貴が欲しかったからすっげえ嬉しい、と屈託なく言うから、瑛佑もそれで良いことにした。
男同士の話が出来る父ちゃんもほしかったんだ、と言って瑛佑の父親にもすぐに懐いた。臆面なく「おとうさん」と呼び、また「家族は近くにいるものだ」と自前の考えを主張した。別にあえてそうしたわけではないが、なんとなく近くで暮らしている。電車で二駅の距離に住み、行き来が多い。だから突然部屋に呼び出され鍋をしようと言われるのも、驚くことではない。
鍋会から十日ほど経ち、十一月に入った。昼休みにかかってきた電話で、秀実は「トーマが出てっちゃってつまらない」と淋しそうに言った。
トーマ、と言われるまで、瑛佑は先日の男のことは思い出さなかった。
『チエちゃんがやきもち焼いて、トーマを追い出しちゃったんだ』
チエちゃん、というのが秀実の現彼女の名前だ。会ったことはなく、名前でしか知らない。嫉妬深い、という新たな情報がインプットされたが、すぐ忘れる気がする。
「じゃあ、家に帰ったのか」
『それは知んない。あいつあちこちに仮宿持ってる奴だから、単におれのところが飽きたのかもしんねえし。でも、なんかな。すっげえ居心地っていうか、人心地? が良くてさ。気も合うし、このままルームシェアとかさ、おれはどうかなって思ってたんだけどな』
「そんなに仲良かったか」
先日の様子を思い浮かべてみる。確かに二人ともすっかりくつろいでいて、気心が知れ切っている雰囲気があった。
『すげー淋しいから、遊びに来いよ、えーすけ』
「彼女のとこ行けよ」
『チエちゃんなあ。あれ以来ちょーっとご機嫌損ねて、なんか面倒になってきた』
「合コンのことなんかばれたらおまえ殺されそうだな」
『だって『来ない?』って訊かれたら『行く』って言うだろう?』と秀実は言い訳した。この男は平然とそういう台詞を口にするのだが、元が馬鹿でつまりハッピーな性格なので憎めない。秀実はさらにいまの悩みや心配をつらつらと語って聞かせてくれる。レストランに頼んでバックヤードまで運んでもらったハヤシライスを食べながら適当に相槌を打った。秀実の電話は用件がなくても長い。
トーマが出て行ったことか或いは彼女とうまくいっていないことかが、打撃になっているようだった。いつもより早口に喋り、「淋しい」と「つまらない」と「トーマまた来ないかなあ」を繰り返した。もう昼休みが終わるから切る、と言ってもあとちょっと渋る。仕方がないので次の休みは部屋に行くからと宥めて、ようやく通話を終えた。
秀実の淋しがりは、度が過ぎている。雨の日に知人に宿を貸して、そのまま住みつかれる方がどうかと思うのに、よっぽどトーマにはいてほしかったのか。自分なら、と考える。誰かと暮らす想像を今までしたことがない。ないからおそらく、三十代の今でもひとりだ。
数日後、ホテルの斎場で結婚式が一件あった。連日の寒暖差のおかげで庭の紅葉が見事だったが、雨で庭に出ることは叶わなかった。
新婦はアオイ化学工業の社長令嬢で、新郎とは幼い頃からの許嫁だったと言う。アオイ化学工業と言えば、染料や顔料、派生して塗料や化学薬品を扱う一流企業だ。最近では植物に独特の染・着色を施す技術で、ちょっとした話題になった。
豪華な式だった。次々とハイヤーが到着し、きらびやかな衣装の人間がたくさん出入りした。ウェディング部署のスタッフもいつになく気合を入れ、客を迎え入れる。その中のひとりにトーマがいた。
と言っても瑛佑はフロントスタッフである。ウェディング会場とは受付口が異なるため、直接対応をしたわけではない。式の途中、式場から出てきてロビーの数人掛けのソファに腰かけた男を、いつもの癖でチェックした。オールバックの前髪と銀縁の眼鏡のおかげですっかり別人だったが、数秒遅れてトーマだと気付いた。
疲れた風に頬に手を当てうなだれている。一服するために式場を抜け出て来たか。そうやって十分ほどした頃、ひとりの男がトーマの前に立った。
立ち姿の優雅な男だった。歳の頃は三十代後半、背はさほど高くないが均整がとれている。仕草が流麗で、高い地位と給料を示すように高価な時計と礼服を身に着けていた。
男もトーマも胸に青い花を挿していた。ウェディングスタッフが来場者にこれを配っているのを先ほど確認している。アオイ化学工業が新開発した青い花に違いなかった。
やって来た男に仏頂面を向けながらも、トーマは立ち上がった。男が先に歩き、トーマがわずか後ろを続く。揃ってエレベーターに乗り込む瞬間、男がトーマの白いタイを引っ張った。引き寄せられ、トーマは顔を男に近付ける。影が重なる。
直後、男の頭の向こうに見えたトーマがこちらに気付いて目を大きくあけた。
遮るように扉が閉まり、エレベーターは上へ向かった。
← 2
→ 4
生蟹はすでに殻をむかれていて、後は鍋に放り込めばいいだけになっていた。「三日前の拾いもの」男が上手にやってくれた。他の具材もきちんと包丁が入っている。シイタケの傘に十文字が入っていて、ニンジンが花や松に切り抜かれている。手製のポン酢や大根おろしもある。「凝りだすと止まらないんすよ」と男は笑った。
鍋を囲みながら、秀実が拾い物の経緯を話してくれた。三日前、煙るような雨だった日、駅前のドラッグストアの軒下でずぶ濡れになっていたトーマを秀実が拾ったという。
「なーんか見たことあるやつが濡れてんなーと思って見てたら、トーマも気付いて『あっ』て」
「知り合いだったのか」
「知り合いっつか、合コンの面子合わせにいたんだよ、先月の」
な、と同意を求め、トーマも苦笑しながら頷いた。超絶淋しがりで人見知りをしない秀実は、彼女がいてもいなくてもしょっちゅうこういう場に出かけていく。全く知らない人間と楽しく酒が飲める性格だ。基本的に一人の行動を好む瑛佑には縁のない世界で、想像すら難しい。
トーマは数合わせのひとりだったので、名乗っただけで特に話をしたわけではなかった。それにトーマはすぐ帰った。お互いの趣味や特技について語らっている、まだ会の序盤だったのに、トーマの携帯電話が鳴り「用事出来たから」と言ってその場から引き上げてしまった。女子連中のテンションがそれで一気に下がり、合コンは大した収穫もなく終わった。それが一ヶ月前の出来事だ。
そして三日前に再会した。あまりにも濡れているから、秀実が部屋に連れ帰った。風呂と着替えを貸し、買って来た弁当を二人で食べた。どうして家に帰らないのか、秀実は聞いた。トーマは実家暮らしで、家はSヶ丘にある。Sヶ丘なら、この部屋の最寄駅の沿線上、三〇分ほどで帰れる。
家出、とトーマは答えた。「実家暮らしって嫌気が差す時、あるでしょう。親の顔が見たくない時がさ」
「おれも淋しがり屋だし、トーマも淋しがり屋だから、すっかり話が合ってさ。帰りたくなるまでここにいていいぞーって言ったの」
「そうか」
生蟹を鍋でくゆらせながら秀実の話に相槌を打った。瑛佑なら、こういう出会いがしらで誰かと同居なんてパターンはあり得ない。秀実だからこうなる。誰かが傍にいないと落ち着かない男で、淋しいから付き合ってよと、夜中に呼び出され朝まで遊んでやったことも何度もある。
「ただ置いてもらうのも心苦しいからメシと洗濯の係、やってんです」
「料理、得意なんだな」
「そうでもないです。仕込まれたから、やり方を知ってるだけ。自分じゃあんまり作んないすよ」
そう言いつつも、綺麗に殻の剥かれた蟹は食べやすい。食材に包丁の入れ方を知っているのだから、普段から作っているに違いないのだろう。食は進んで、あっという間に食べ尽くした。シメの雑炊は絶対に美味しいよ、とトーマは最後まで世話をしてくれた。これじゃ秀実はこの同居人を手放せないだろうな、と思う。
もう一度改めてトーマを眺めてみた。ごくごく平均的な身体、少し痩せ型。声音はハスキーで、快活に笑う。立ち居振る舞いが良い。あぐらをかいていても粗雑にならず周囲をよく見て気遣っている。黒目がちの、優しい顔立ちだ。笑うと人懐こさがさらに増す。こりゃ女も秀実も放っておかないわ、という顔だ。
目が合うと、瑛佑にも笑顔を向けた。笑ってはみたが、瑛佑が無反応なのできまり悪く頭を掻いた。それを見た秀実が「わるい、こういうやつなんだ」とトーマに弁明する。
仕事以外の場ではひどく無口で、表情も乏しい。心中じゃあれこれ考えているのに面へ出ない性分を、付き合いの長い秀実が第三者へ説明する機会はこれまで何度もあった。
「顔に出ないし喋んないの。でも冷たいやつじゃないから。多分トーマ見ながらこいついくつだ? って頭ん中で思ってたよ」
秀実の台詞はその通りで、瑛佑は無言でうんと頷いた。
「そうなんですか? おれ、いくつに見えます?」トーマが瑛佑に訊ね返す。
「二十歳ぐらい」
笑わせるつもりで適当な数字を答えると、トーマはジョークをきちんと受け取って「そんなわけないでしょ」と明るい声をあげた。「冬生まれなんです。今度の冬で、二十八歳になります」
「三十路だな」と秀実がすかさずからかう。
「えー、こんなにくすみない肌で眩しいのに」
「男にだってお肌の曲がり角はあるんだぜ。おれ曲がったもん、トーマよりちょっと前ぐらいの歳で」
「げ、やめろって」
秀実とトーマの会話はテンポがいい。お喋りの秀実に喋らせておくと口を挟めず、瑛佑などは黙って会話を聞いてばかりいるのだが、トーマはタイミングをついてはっきり受け答える。聞いているだけで瑛佑も気持ちがいい。
二人の声や表情を眺めながら、コップに半分だけもらったビールを舐める。瑛佑は、こういう場ではほとんど黙っている。人の話を聞くともなしに聞きながら、ゆっくりと箸を進めるのが好きだ。
← 1
→ 3
その日は花を抱えていた。カスミソウとトルコキキョウ、カーネーション。白と淡いグリーンで揃えた花は弔意を表す。献花のために大量に用意したものを、余ったためにもらってきた。
瑛佑の勤め先であるKホテルには大小の催事場があり、学会も会議もパーティも行われる。今回は故人の追悼会で、花はそこで用意したものだ。こういう花の多くは来場者の手土産に持ちかえらせ、余っても女子社員が持って行く。花を飾る趣味もないのでいつもなら貰わない。
花を貰ったのは、義母にあげようと思ったからだ。義母は花を喜ぶ。たとえ葬式で分けられた菊だろうが路上に落ちてしまった椿だろうが大事に飾る。以前、瑛佑の職場で花が余る話をしたら羨ましがったので、じゃあ今度なにか余ったら貰ってくるよ、という話をしていた。いい機会だと思ったのに、義母は留守だった。父と二人で旅行に出かけている。
誰かにあげるものでなければ、瑛佑は花に興味を持たない。男の一人暮らし、部屋に飾っても、と思案していたところで秀実に呼び出された。だからこうして秀実の部屋に花を持参した。笑われても話の種にはなる。秀実は友人が多いから見てくれる人もいるかもしれない。見てくれる人が多い方が、花はいいものなんだろう。
インターフォンは鳴らしてみたが応答は待たなかった。部屋にいればすぐに返事をするし(近所に響く大声で、だ)、いなければ持っている合鍵で入ればいい。返事は一向に聞こえてこないのでまだ帰宅していないんだと理解した。だから扉をあけてすぐの調理台に男が立っているのを見て驚いた。とっさに声が出なかった。
しかも秀実ではない。大柄で筋肉をがちがちに纏っている秀実を想像していた瑛佑からすれば、第一印象は『細い』だった。実際はごく一般的な体型だ。紺色のスエットに白いTシャツを着ているが、サイズが合っていないので腰や胸の周りがゆるい。細くてストレートな髪は濡れている。太いセルフレームの眼鏡と前髪で表情が全く読めず、歳も分からない。瑛佑を見て向こうも固まっている。
「――きみ、」瑛佑が先に口をひらいた。「花、いる?」
「……もらう、」
「どれがいい」
「じゃあその、緑のひらひらしたの、」
男が指したのはグリーンのカーネーションだ。一本だけ渡すつもりだったが、花は根元の部分を輪ゴムでがっちりと括ってあり、思うように抜けない。結局全部渡した。他にあげる人間を思いつかないので秀実に持って来た花だ。誰が受け取っても構わない。
というか、誰だ。
部屋は間違っていないはずだ。鍵は開いたし、よく見知った色合いの内装だ。普段秀実が使っているお気に入りのマグカップはシンクに乗っている。玄関から見える室内のソファには秀実がいつも好んで着ている赤い派手なジャージが丸めて置いてある。
お互いにお互いをまじまじと見合ったままやっぱり黙り込んでいると、調理台の奥にある脱衣所の扉が開いた。濡れた髪をタオルで拭いながら秀実が出てきた。
「ん? 花キレーじゃん。バラ?」
男が抱えた花束に鼻を近付けて秀実が言う。男が「ヒデくんって花はバラしか知らないんだろ」とようやく笑った。親しいそぶりだ。緊張が少しだけほどけた。
野梨子さんにあげようと思ったんだけど、と瑛佑は喋った。野梨子、というのは義母のことだ。二十歳を過ぎてから母になった人を、未だに母さんと呼べない。
「旅行だって知らなかった。うっかりしてた」
「かあさんたちはすぐどっか行くからなあ。そうそう、旅先から土産を送ってくれてさ。カニ。しかも生だよ、生」
「生蟹なんか調理できないよ、」
「ちょうどいいのがいるから、大丈夫。もう寒いからさ、かにしゃぶしようぜ。豚も買って来た」
ちょうどいいの、と言いながら秀実が男の背をぱんと叩いた。少しだけ瑛佑のいる方へ男が押し出される。男は「いてぇ」と秀実に笑って抗議した。
「トーマ」と秀実が発音した。おもちゃかペットの名のように軽く呼ぶので、それが男の呼び名なんだと分かるまで数秒あいた。
「これ、おれのおにいちゃんの瑛佑」
「どうも」
「で、瑛佑。こっちがトーマ」
はじめまして、と頭を下げ合う。秀実がいつもお世話になっています、と付け加えたが、秀実と男は首を横に振った。
「いつもじゃねえよ。こいつは三日前の拾いもんだ」
秀実が自慢げに言った。宝物を拾った子どもの顔をされても、瑛佑にはその嬉しさがちっとも理解できない。
→ 2
Tシャツにそれを合わせ、深谷の家を訪ねた。無地の服ばかりを好む隆央(たかひさ)のちょっとした心境の変化を見抜いたか第一印象がそれほど違ったか、とにかく深谷はやって来た隆央を見て「お」と声を発した。
「長袖だ」
そっちかい、と隆央は苦笑する。
「深谷さんだってそうじゃんか」
「秋だね」しげしげと隆央をあの目で見る。「とても似合うよ」
深谷のその台詞を聞いてから、猛然と恥ずかしくなった。やっぱりこんなの着てこなければよかったという後悔と、もっと褒めてほしいという気持ちと。そしてなぜだか深谷も照れて頭を掻いている。以前だったら、こんな台詞もあんな台詞も平気で口にしていた。
しばらく沈黙していた。なんだか気まずい、というか、お互いに面はゆい。こんなんで今日の鑑賞が耐えられるのだろうかと危ぶんでいると、深谷は「よし今日は出かけよう」と言った。
「ぼくもちゃんと身支度してくる。ま、あがって。で、ちょっと待ってて」
「え、なんで」意図が汲めなかった。家にすっかり引きこもり、好きなことをして過ごす隆央を眺めている、のがこれまでの深谷だった。「用事あった?」
廊下を進みながら深谷はひらひらと手を振った。「今日は天気がいいし」
「K市とかどうかな」超有名観光地の名が挙がった。
「Kって、結構遠くない?」ここからだと直通の電車もバスもあるが、移動には一時間半ほどかかる。そんなにがつっと出かけたいのだろうか。至ってインドアな、深谷が。
「この間書店で特集雑誌が並んでてさ、行ってみるのもいいかなって、思っていたところだった」
「行ったことある?」
「昔母親連れて一度だけ。隆央くんは?」
「高校があっちだったから、まあ、」
「ああ、そうか」
だったらなおさら頼もしいな、と深谷は笑った。
「なんかいいとこ連れてって」
着替えてくるから。そう言って、深谷は寝室として使っている部屋へさっさと行ってしまった。
◇
K駅に着くとどこを向いても人、そして鳩しかおらず、思わず「うわ」と声をあげてしまった。深谷は本当にここへ来たかったのだろうか。隣を見ると深谷もまた苦笑いしており、それから「ここへ来たらお宮へお参りするのが一般的なルートなのかなあ」と観光案内所でもらったパンフレットを眺めて呟いた。
「隆央くんのオススメは?」
「ええー、訊かれても……」ばっちりと視線が合いそちらに心臓が高鳴った。一瞬逸れた気を必死で引き戻す。「お宮からここの歩行者天国は人が多いから、この道を横手に入って、とか」
「高校はどこだったの、」
一緒に地図を覗き込む格好になり、家にいるよりも外にいる方が近い、と意識してまたひやりとした。
「ここ、この端っこのとこ」
「けっこう遠いな」
「高台にあるから見晴らしは良かったけどな、海が見えて」
「じゃあそこ行こうか」
あっさりと決めて、バスはどの路線を使えばいいのかなどとバス乗り場の方へ向かってしまう。後ろ姿を急いで追いかけ、正解のバス乗り場へ引っ張る。
こんなかたちで母校に向かおうとは想像しなかった。「歩きたい」と言った深谷は高校の最寄りのバス停よりもひとつ手前で降り、二人でうらうらと歩いた。ここまで来れば観光客はさすがにいないが、住宅街のど真ん中、生活道路として一般市民の出入りはある。隆央の後輩だと思われるジャージを着た高校生も、休日であるのに見る。
交差点の角にぽつんと建った商店を覗き、「ここでなにか買ったりした?」と楽しげに訊ねられた。隆央がうんとも言わないうちに深谷は梨をひとつ買い求め、商店の主人に頼んでそれを半分に割ってもらった。片方を寄越す。
「さすがにこんな買い食いはしたことないよ」深谷にそう言うと、「じゃあなにを買った?」と訊き返された。
「チョコレートバーとか、アイスとか肉まんとか、ジュースとかパン、カップめん」
「かなり利用していたんだ」
「この辺ってここぐらいしかなくて……あとは学校の購買と、さっきのお宮付近まで下るとか」
「なるほど」
梨は瑞々しく硬くすっぱく、あまかった。果汁で手をべたつかせたまま、高校までの急な坂をのぼる。のぼりきってすぐにあるグラウンドの水道を拝借した。またどこからか深谷がペットボトルのお茶を調達してきて、隆央に渡してくれる。
グラウンドから見える坂下の町並みを、深谷と共に眺める。微妙に色の違う屋根がなんとか重ならないように寄り集まって広がっている。その向こうにはなだらかな山があり、さらに向こうは海だ。この眺めを教室の窓から見ているのが常だった三年間に思いを馳せたが、深谷の視線に気付いてすぐに振り返った。ぼんやりと景色を眺めている隆央を、熱に浮かされたように見ている。
目が合うと、それでも初心に顔を逸らした。決まり悪そうに耳の後ろを掻き、また隆央を向いて、「どんな高校生活だった?」と優しく訊ねられた。
「どんな、って」
「部活やってた?」
「やってた。…笑うなよ、放送部」
「へえ」
意外、という顔をした。隆央も意外なのだ。
「機械もの扱うのが好きだったから、友達に入れられて裏方やってたんだよ」
「アナウンスをしたりは?」
「それは、朗読の上手い奴がいてさ。声にもセンスってあるんだな、ちょっと掠れるのに、響いて」
「それが、もしかして放送部に入れてくれた友達?」
「そう、仲良くて、……」
隆央に喋らせたいのか隆央のことを聞きたいのか、はたまたいつものように眺めていたいのか。深谷の要求がさっぱり分からない。問いに問いが重ねられ、隆央ばかり喋っている。そのたびに嬉しそうに頬を緩め、目が合うと逸らされ、また質問が降る。
高校から下って再びバスに乗り、今度は駅より手前のバス停で降りた。人でごった返す歩行者天国を歩く。ここでも深谷の疑問は繰り返され、おまけにべたべたに甘やかされた。「アイス食べる?」「なにか飲む?」「あれ美味しそうだよ」等々。日頃がつめたい人だとは決して言わないが、静かな時間を好む深谷と別人格なんじゃないかと疑えたほどだ。
もう今日は一体なんなんだ、と駅前の喫茶店に入ってから深谷に訊ねた。深谷はきょとんとしてから、ばつが悪そうに顔を逸らし「やっぱ変だったよね」と言った。
「……いや、夏休みにさ……隆央くんに、脱いでもらったでしょう」
夏休み、一度だけ深谷の前で裸になった。家はクーラーが効いていて涼しかったのだが、周囲の暑さにかこつけて申し出た。躊躇しながらも「いいの」と訊いた深谷の目は確かに光っていたのに、それだけで、それきりだった。大胆な行動に出てなにもなかったのだから、あの時の自分を呪いたい。
いきなりその話題を振られて、周囲に聞かれちゃいないかとうろたえた。そういえば深谷はいつもこうだ。自分よりもはるかに大人のくせに、場をわきまえて視線や発言に気を付ける、ということをしない。
幸い店はごった返しており、各々の事情で忙しい。睨みつけるように深谷に「それがなに」と言うと、深谷は困り顔で「あれ以降、あなたと二人だとだめで」と答えた。
「部屋の中であなたと二人っきりだと考えたら、どうにも耐えられないような気がした。でも今日、隆央くんは長袖になっていて、あああれはもう見れないのかとがっかりする自分もいて」
「……なに言って……」
「そう思うくせに、今日の格好はとてもすてきで、連れ出したいと思った。こんな子と歩いているんです、って周囲に見せたかった。歩きながら色んなこと聞いて、甘やかしたかった。でも見せたくない気もしてくる。家に閉じ込めておけばよかったって行きの電車で後悔していたから、もう、なんていうかな」
色々とぐるぐるしててまとまっていない、申し訳ない、と深谷は言った。本当に参っているようで、子どものようにテーブルに頭を伏せた。
こんなことを聞かされて、平気な顔じゃいられない。いられる訳がない。
倒れそうだった。足からふるえが来る。深谷に引っかきまわされているように思っていて、自分はちゃんと深谷を虜に出来ていた。猛烈な喜びと羞恥が一緒に押し寄せ、たまらない。頭から突っ伏したいのは隆央の方だ。そっちばっかり上手でずるい、とさえ思う。
「深谷さん、帰ろうよ」吐息をこぼしながら、ようやく言えた。
「おれだってもうだめ。だからそういうこと、外じゃ言うなって言うんだ……」
「すみません」
「おればっかり喋らされて子どもみたいだって、思ってたんだよ」
「それもすみません。でも舞い上がって浮かれて、変にそわそわして、子どもみたいはぼくの方。中身子どもでも外側はおじさんだからさ、こわれそうだよ」
ようやく顔を上げた深谷に、再び「帰ろうよ」と言った。笑ってやろうと思ったのに上手く笑えず、声は上ずって子どもじみた。
それを目の当たりにした深谷がまたそっぽを向く。
「そうだね、帰ろう」
「うん」
「でも一時間半もかかるんだよねえ」
ここへ来ようと言ったのは深谷だ。そんなこと知るか、と突っぱねようにも、隆央も同じことを憂いていたので「うん」としか頷けない。
一時間半もこんなあまく急いた気持ちで電車に乗っていたら深谷の言う通り壊れる。心臓割れてはじけて、死ぬ。
帰り道に思いを馳せながらしばらく喫茶店で二人、向かい合ってコーヒーを啜っていた。
End.
前の二人→「虜になればいい」
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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