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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 仲間内でのあだ名は「ジェントル」、職場で「ジェントルさん」と呼ばれているのも知っている。名をよく知らぬ人が「あの紳士な人」と言うぐらい、もはや葛木の代名詞である。
 度が過ぎるおばあちゃん子で、祖母の教えを誠実に受け止めすくすく育った葛木は、誰にでも紳士的だ。座席は譲るし、ハンカチは拾って追いかけるし、おばあちゃんの手を引いて道を渡るし、エレベーターのボタンは長押しして扉をあけておいてくれる。おまけに笑顔。ごく自然で誰もがほっと息をつける無敵のスマイルを持っていて、毒気など簡単に抜かれる。
 そんなに皆に好印象、ぼくだったら絶対に疲れる、と皆川はいつも思っている。だが真正のジェントルマンである葛木にそんな疲労はありもしない。むしろ紳士にふるまえないことの方が彼のストレスになりうる。
 恋人なんだから、と隣を歩く葛木を横目に見て思う。せめて皆川に対しては、敬語ぐらい外せばいいのに。
「――どうしました?」
 と言ってそれはそれは紳士に皆川に微笑んでくれる。
「……葛木くんって、ぼくよりふたつも年下なのに、人間が出来ているなあって」
 出来すぎて、むしろこちらの体たらくに恐縮してしまうほどだ。こんな人間でも社会に存在していてすみません。葛木の恋人なんてポジションに収まってしまっていて、全世界共有の財産たるジェントルマンを占有してしまって大変申し訳ありません、と。
 コンプレックスなんかないんだろうな、と自分よりも二十センチ高い身長やシンプルに整えられた顔立ちを眺め、考え込んでしまう。皆川と言えばコンプレックスだらけだ。背が小さいこととか、声も小さいこととか、不器用なこと、取り上げるべき才能も特技もないこと、同性愛者であること等。
 平均かそれ以下。よくもまあこんなぼくに葛木が、このような分際で頂いてしまって申し訳なく、とまた誰に対してでもなく謝ってしまう。
 皆川の余計な思考など知らぬ葛木は、皆川の発言に対して「それはどうもありがとう」とにこりと笑う。言葉を真っ直ぐに受け止めるあたりもジェントルマン、見ろよこの世界遺産級の絶景スマイル。ほろりとほだされて、皆川はその笑顔を見られなくてうつむく。靴のつまさきが汚れていて、ああそろそろ手入れしてやんなきゃな、面倒だな、と思う。葛木はこんな風に思い煩うことなく、むしろ喜びとして、靴磨きもしていそうだと思えば余計に。
「あまり元気がないですね」
 笑顔で細くした目元をそっとあけて、葛木は小首をかしげる。口元に手を当て、高い背を皆川に合わせて下げた。「もしかして身体、つらいですか」耳元でささやく。
「すみません、精一杯やさしくしたつもりなんですが、加減がきかなかったのもほんとうです」
「……」
「みながわくんがかわいかったんですよ」
 ほんとうですよ、と耳に吹き込まれ、皆川は呻いてとっさにその場にしゃがみこんだ。その様子を見て葛木も慌てて皆川の背に手を添える。「やっぱりつらいんじゃ」と言って携帯電話でタクシーを呼ぼうとするので、ちがうちがうと携帯電話をひったくってやめさせた。
「違うから……そんなじゃなくて」
「どこか、座りますか?」
「だから……」
 このまま歩いて駅、でまったく問題ないのだ。けど、葛木にうまくそうと言えない。葛木に対する妙な意地と、先ほどまでされていたこととがまぜこぜになって、どういう顔をしてどういうことを言ったらいいのか、分からなくなる。
 今日ははじめて葛木の部屋に遊びに行って、はじめてセックスをした。
 葛木と付き合いはじめて二か月半、皆川からすれば「ようやっと」だった。仮に二人が婚姻を結ぶことが出来たとしたら、結婚するまでは清いおつきあいで、なんて流れになりかねないほど葛木のふるまいは「紳士的」だった。経験豊富とはいかないが、三十歳という歳に応じてこちらもそれなりに場数は踏んでいる。葛木だってそうだろう。だというのに、ここまで二カ月と半分。恋愛ってこんなに丁寧に進行したっけ? と考えたほど。
 ふたつ名通りのやり方だった。礼儀はきちんと、皆川を大切に、でも望んでいたよりずっと情熱的に。いままで皆川が経験してきたセックスは荒っぽくて自分勝手で少々雑だったから、今日のは余計に堪えた。世の中に「極上」という言葉が道理で存在するわけだ、と。
 あまやかされてとろかされて、夢との境が曖昧だ。自分が飴玉にでもなったような気がする。散々なめまわされて、温められて、いま地面に足がついている方が不思議。本当の自分は葛木の部屋のシーツの染み、ぐらいになっていそうな。
 早く帰宅してシャワーでも浴びて、自分のにおいになってリセットしたい。そうでもしないと飛んで行きそう。もしくは、明日ひどい罰が待ち受けている。
「いずれにせよここでこのままは寒いですから、どこか落ち着きましょうか」
 木々の向こう、灯かりのともる市道を見渡して葛木が言う。
「終電、まだ大丈夫みたいですし」
「……」
「みながわくん?」
 心配そうに揺れる声に、皆川はようやく立ち上がった。「大丈夫」と葛木に宣言する。こちらが近道だからと突っ切った真冬の公園は、不安になるほど人気がなかった。ぽかんとあいた広場に置かれた遊具が、風を受けてきいきいと鎖を鳴らすのが余計に寒々しい。比べれば葛木の部屋はとてもあたたかだったな、と後ろに置いてきた部屋が早くも恋しくなる。葛木が選んだ映画はとても面白かったし、合間に食べたハンバーガーはボリューミーで満足、葛木が入れてくれたコーヒーは熱く濃く、よい流れでしたキスはしっとりと、押し倒された床のカーペットの模様だって全部――ああもう、脳だけまだ夢の中。
 本当は帰りたくない。駅まで送られたくない。葛木の傍で一晩中過ごしていたい。
 帰りたくないと言えば良かったのにこんな風に歩いているのは、やっぱり葛木が紳士だからだし、皆川が自分に自信がないからだ。帰りたくないよ、だなんてとてもじゃないけど言えなかった。言ったとして、葛木は皆川を悲しませるようなふるまいは絶対に取らないだろうと予想がつく。本心や都合にかかわらず、笑って「いいよ」と言ってくれるに決まっていた。そうやって葛木を困らせる自分になるのだけは本当に嫌だった。
 それに今日は素晴らしい一日だったのだから、恋愛の欲に果てというものがないと分かっていても、これ以上を望んではいけない、と皆川は思っている。じゅうぶんだ。いやじゅうぶんすぎ、身の丈以上の日だった。これ以上スマートでジェントルな葛木の傍にいても、きっと自分を嫌いになるだけだろうし。
 いいんだ、と心の中でおさまりをつけようとしている皆川の肩にふと、葛木が軽く触れた。
「少し待っていてください」
 そう言って走り出す。公園が終わったすぐ脇にあるコンビニエンスストアへ駈け込んでゆく。軽い後ろ姿。それを見て皆川は唐突に、猛烈に淋しくなった。葛木のことだから、またジェントルの種を見つけて駆け出したのだろう。万引きを目撃してしまったとか、女性が落し物をして困っているとか、迷子の幼稚園児を見つけたとか。(ということが、過去のデートの際にあった。)それらを苦に思わず手を差し伸べてあげられるのは葛木の素晴らしいところなのだが、今夜ぐらいは、そんなもの無視して皆川に付き添ってほしかった。駅までの道のりを全部、皆川に向けてほしかった。
 皆川はすぐにコンビニから出てきた。手にビニール袋、ついでに道に落ちていたごみを拾い備え付けのくずいれに捨てる。皆川の元へ走って戻り、「どうぞ」と言ってビニール袋を差し出した。
 コンビニ限定の、缶入りのあたたかいホットチョコレートと、皆川の好きなメーカーのチョコレート菓子が入っていた。
「疲れている時や気が落ち込んでいる時は、あたたかいのとあまいものはきっと美味しいですよ」
 皆川のために走ってくれたのだ。ありがとう、と素直に言えない。
 あ、のかたちに作ったくちびるからはため息が漏れるだけで、それは白くなって空へとのぼり、消える。視線をそらしうつむく皆川に、葛木はついに長い息を吐いた。
「――やっぱり疲れますね、恋愛は」
 その一言が葛木のものとは思えなくて、びっくりして顔を上げた。同時に葛木の腕の中にすっぽりと包みこまれてしまう。
「みながわくんがなに考えているのか、僕には全然わかりません」
「……」
「今日はね、みながわくんに喜んでもらいたくて、気持ち良くなってほしくて、僕はとても緊張していたんですよ。みながわくんに少しでも嫌なそぶりをされたら立ち直れないぐらいに、です。あなたがとてもかわいくて好きで好きで、僕はとても幸せだったのに、みながわくん、全然笑いませんね。――心臓、聞こえていますか? まだこんなに緊張してる」
 手だって震えています、と葛木は皆川の背や肩にまわした手の力をさらにこめる。葛木の着ているコートの布地のつめたさが、頬にダイレクトに伝わる。火照っているから気持ちがいい。
「あなたが『帰る』って言った時の僕のショックときたら、終末がやって来たかと思えたぐらいだったのに。あいにく僕はジェントルマンがしみついてしまっていますから、帰るというあなたをこうして送ってしまう」
「……そんな、」
「いまこうしている間に、終電行っちゃえ、と思っているほど本当は卑怯者です」
 言うだけ言って葛木は皆川を放した。いつの間にやら終電に急ぐ人々が現れ、ひとりふたりと周囲を抜けてゆく。次第に人が多くなっていることで、はやく葛木と別れなければと思う。またね、と笑って手を振って。
 ――なんていう愚かな思いを実行するほどばかではない。皆川は、とても嬉しかった。そして恥ずかしかった。それでやっぱり嬉しかった。「ああ」と呻いてまた地面にしゃがみこむ。
「みながわくん、」
「――ごめん、帰りたくないよ」
 公園内とはいえ、駅への近道を塞いでいるのは確か、通行人の邪魔で迷惑だ。それでも自分の意思でうまく立ち上がれないのだから、仕方がない。
 葛木があんなことを言うから。
「ひとつ、お願いしていい?」
「なんでしょうか」
「ぼく、きみに優しくされたいけど、優しくされたくない」
「……複雑ですね」頭上で、困ったような、でも笑い出しそうな葛木の声がする。
「ぼくの前では、とびきりのジェントルマンでいてほしいし、いてほしくない」
「難しい」
「素のきみがいいんだ。素が紳士なら紳士で、そうじゃなくたって、」
 いくら紳士な心で生きているとはいえ、そんな風にふるまえない時だってあるだろう。無理をしてふるまってもほしくない。「ぼくはぼくで、なにを考えているかきみに分かるように、伝える努力をするから」
「……だいぶ複雑で厄介だけど」
「それは段々にわかってきました。そして困ったことに、みながわくんのそういう面倒くさいところ、僕は好きです」
 普段ならば回避するようなものの言い方をする。本当は毒だって含んでいるんだ、と分かってなんだか悔しくて嬉しい。葛木の助けを借りてようやく立ち上がる。
「じゃあ、戻りましょう――で、いいんですよね」
「いま帰されたら、泣く」
「良かった」
 外灯をバックにされては、葛木の笑った気配はしても細部まではしっかりと見えない。はやくちゃんと見たい。
 部屋までの道すがら、やはり声をひそめて、葛木が耳元で囁いた。
「――今日のこと。緊張に狂っていたから無我夢中だったというか、あんまり味わっていないんです。戻ったら、やり直しても?」
 顔から火が出るとはこのこと。
「……ぼく、どうなる?」
「さあ。ちなみに言っておけば、僕は肉食です。逃げるなら、いまのうち」
 逃がそうなんざ到底思っちゃいないだろう。だって葛木の手はしっかりと皆川の手を包んでいて、離さない。


End.




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 三月まで綾と暮らし、別れた。ひどい時代だったのに、就職内定は辞退した。とてもじゃないけどFでひとり暮らしてゆく自信がなかった。気の毒に思ったのか誓子が就職先を世話してくれて、家から通える範囲の私立大の事務職に就いた。
 夜、自室のベランダから空を見上げながらFの土地やイギリスで暮らす二人を思う。別れ際、綾は本当にこれが最後と思ったのか、透馬にスケッチブックを寄越した。中には若い頃の暁永が栽培に成功したという青いケシの押し花と共にたくさんの花のスケッチが詰め込まれている。透馬が持っているのがいい、と言われた。
 Fの真城の家は、新花がつかい始めたと聞く。F大に通うのにちょうどいいとかなんとか。新花もまた暁永の研究室移動に伴いイギリスと日本とを半々に行き来していると言う。新花とはメールのやり取りをたくさんして情報交換を行っている。自分の感情の吐き出し口を新花に頼っている感じだ。
 結局、透馬は今までなにをしていたのだろう。
 家で暮らせなくて、Fを第二の故郷として育った。欲しいものが見つかり、たくさん出来、しかしそれらはみな透馬の手元に残らなかった。ただ引っかきまわしてきただけな気がする。はじめから父親に従っていれば。綾と暮らさなければ。誰にも出会わなければゆらゆらと漂うこともしなかった。
 おれという人間はなんて、
「――つまんねえな」
「なにが?」
 ひとり言に返答があったのでびっくりした。隣の部屋のベランダに男が立っていた。今夜は家にアオイ化学の人間を呼んで、花見会、などと言ったか。家に咲く桜の木の下で社員が宴会をひらいていた。宴はたけなわで、家のあちこちにアオイの人間が散らばっている。
「おまえ、青井透馬だろ」男がそう言った。透馬は顔をしかめる。
「出来の悪い社長の息子って有名だ」
 有名でもなんでも、面と向かって言われると腹が立った。「あんた誰?」と訊くと、男は「有崎」と名乗った。アオイ化学工業の重役で若い男がいるとは聞いていたが、それが有崎だとその時知った。
「つまらないってなにがつまらない?」有崎が訊く。
「関係ないでしょ」
「じゃあ話替える。おまえには興味があったんだ。おれもF大の出身でね、新花とは学部は違うけど同級生だ。おまえの先輩だよ」
 思わず有崎の顔を見る。「色々あったんだって?」
「つまらないって言うなら、俺も退屈してたところ。男いけるんだろ、透馬。おれと遊ぼうか」
 上流に所属する人間には上流のやり方があるのだろうか。分からないが、有崎のストレートな台詞に透馬は面食らった。食らいつつも、どうでもいい、という方向へ心が傾く。
 見た目は綺麗な男だ。抱かせてくれるのか抱かれるのかよく分からないが、後腐れなさそうで、遊ぶにはちょうど良いように思えた。
「なんなら服でも時計でも買ってやろうか。小遣いだってやるよ。貰っとけば、そのうち家が買えるかもな」
「――家、」
「楽しいことしようか」
 そう言いながら、有崎は一歩後退する。透馬に「おいで」とでも言うように微笑んでいる。ああ本当になんだっていい――急いで自室を出ると、隣の部屋の前で有崎が立っていた。
「退屈させるなよ、透馬」
 透馬を部屋へ押し戻し、鍵をかける。部屋の明かりは元より消えていた。男の輪郭が、夜に危うい。


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 しばらくこっちにいるんだ、と暁永は言った。実家には顔を出した程度で、後はずっと真城の家に居座った。元々、人の心や距離の隙間にすっと入りこめる性分だ。生活に違和感なく溶け込まれ、ずっとこうやって三人で暮らしていたんじゃないかと錯覚する。わけがわからなくなる。
 帰宅すると綾が起きている時間が増えた。なにをやっているかと思えば、居間で暁永と退屈げにテレビを見ていたりする。深夜に放映されるバラエティのくだらなさを嫌がっていた人だというのに、暁永につきあっている。暁永も流して見る程度だったが、時折綾に話題を振り、一言二言喋って、綾の返しに笑っていた。
綾はすました顔で茶をすすり、テレビではなく文芸誌をめくる。たわむれに暁永は綾の髪を引っ張り、「白髪」と言ってまた笑う。誰が見ても分かる、二人の仲は実に親密だった。
 こういう時、ひどい疎外感を思う。二人が二人でいる機会は何度か見ていて、透馬には分からぬ次元のやり取りで笑い合うのだ。その日はそこへ入り込む気が失せて、離れへ向かった。今までここは綾の領域だからとあまり足を踏み入れないようにしてきたが、今日ばかりは二人の声の届かぬ場所に行きたかった。
 やはり綾は行くのだろうか。あの親密さを拒否するなんてあり得ない、と思う。やりきれなくなる。
 綾の仕事場はきちんと整理されている方だが、それでも手本や書物の数が膨大でどうしても片付かなくなる。この雑然さが、透馬には安心だった。綾の作業机に近寄り、椅子に腰を下ろす。広い天板、多種多様な筆、インク。それらに触らぬように注意を払いながら抽斗をあける。そういえばここになにが入っているのかなと、思い立ったからだ、
 やはり書き写した文字だったり、古い小銭だったり、文具だったりがごちゃごちゃと入っている。そのうちその中に平たい缶を見つけた。有名菓子メーカーの絵柄がプリントされているそれはずいぶんと古い。中をあけると、大量の手紙が出てきた。
 すべてのあて名は綾で、差出人は暁永。国内外のあちこちから綾に充てて手紙を出していたようだった。そのことを、全く知らなかった。朝と夕方、郵便受けを覗くのは綾の役割で、それに意味があったと考えたことがなかった。
 開封済みのそれらをひらいてみる。暁永の字ははらいが横に広がる癖字で、慣れるまで読むのに苦労した。
『今日はN県の施設で栽培実験。この間わけてもらった種が発芽しない。やはり標高の低い場所ではだめなのかな。来週はイギリスに行く。支度が間に合わない。英単語耳からこぼれそうだよ』
『メコノプシス・ベトニキフォリア。咲いたよ。今度持って行くから絵を描いてくれ』
『こっち来てから本当にうまいめしって出会わない。日本食が恋しいから、コリアンマーケットで調達してきてなんとか工夫してる。脂ばっかりだから次あった時は太ってるのかも。綾、ちゃんと食ってるか?』
『ああ、Fに帰りてえな』
『ようやく戻れると思ったら今度はK県。あっちは酒が美味いよな。今度送る』
『この間学会で発表された新種の花。あれ、おれも見たことあったんだ。悔しかったな、先に気付いていれば夢かなったのにな。無性に綾の絵が見たい』
『綾 ←書いてみただけ。おまえみたいな綺麗な字は書けないな』
『綾、元気か?』
 あちらこちらに散らばる「綾」の文字。そのやわらかな呼びかけに、泣きたい気持ちになった。暁永の想いは綾にあったのだとはっきり伝わる、純然たるラブレターだと思った。いままで一方通行だと思っていた二人の恋が、重なる。暁永もまた故郷を愛しているし、綾を愛している。
 この家に綾と暮らしたかったのは暁永の方だったのかもしれない。
「――なんでこんな大事なこと、言わないんだ」
 気付けば口に出していた。ただ二人の恋のやり方が、せつない。暁永の想いの深さと綾のそれとがようやく噛みあうのならば、自分はいてはならないと思う。猛烈に淋しい。中学生の頃、ここへ来て淋しかった、あの時の感情によく似ている。
 かたん、と音がして振り向くと、綾が戸口に立っていた。透馬が手にしている手紙を見て、驚いた顔をしている。「それ」と綾が言うのと「伯父さん」と透馬が声をかけるのとが同時だった。しばらく沈黙が出来る。
「おれ、実家に戻るよ」
 もうここでは暮らせない。綾がいないのならば、透馬ひとりで暮らしても意味がない。
「だから暁永さんと一緒に行きなよ」
「透馬」
「家は……残らないかもしれないけど。でも、ずっと暁永さんが好きで、暁永さんもようやく応えてって、それってすごいことだろ」
 透馬の手の中で手紙がふるえている。「綾」と「F」の癖字。
「行きなよ。おれは、戻るから」
 綾の顔が見れなくて、たまらず、透馬は目を閉じた。


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 綾との日々を噛みしめるように暮らした。大学に通っていても、バイトに精を出していても、帰宅すれば綾がいる。離れた期間があったからなのか、障害があると分かっているからなのか、なおさらに大切だった。
 綾からは変わらず字を教わっている。絵も、一緒に描く。時間がすれ違っても食事は二人分用意するし、寝る前に綾の部屋を覗く習慣も変わらない。たまに、キスをする。思い切り抱きしめて眠るとき、綾の髪が鼻先にあたってくすぐったいのが安心だと思う。
 変化のない毎日の大事でちいさな幸福を積み重ねて生きてゆく。無駄だと思える時間は一秒もなかった。日々が隙間なく綾で埋められ、自身も綾で染まる。いま細胞のひとつひとつまで綾と同じもので出来ているんだと思うととてつもなく嬉しかった。
 春が終わり夏が来て秋を過ごし冬を迎える。繰り返して四度目を超えようとする冬のはじめ、帰宅すると暁永がいた。こたつにあたりながらみかんなんか食べていた。
「――おす、久々」
 驚きすぎて声が出なかった。とっさに綾の存在を探す。きょろきょろと視線をめぐらす透馬に、「綾ならいま仕事中」と言って離れの方角を指した。そうだ、いまは教室の時間だ。
 一向に姿を見せなかった男が急になんの用だと言うのか。懐かしく思う気持ちより心は理不尽の方向へ傾き、不機嫌な態度で「急になんだよ」と聞いた。
 久々すぎて口のきき方がどうだったかも忘れていた。暁永は以前と変わらぬ余裕の笑みで「でかくなったなあ」とのんきにこぼす。
「新花から聞いちゃいたけど、しみじみしちゃうな」
「暁永さんはおっさんになったね。なにその、口髭」
「教授らしくしてみようかと思ってさ」
 元が端正で男らしい顔つきをしていたから、さらに迫力や凄みが増している。正直、ひるみそうだった。「教授」という肩書を聞いておや、と思う。聞くと暁永は「昇進したんだ」と言った。
「というかおまえF大のくせに」
「学部違うと関わりないでしょ。キャンパス無駄に広いし、理学部棟なんて行かねー」
 そりゃそうか、と暁永は笑った。笑ったおかげではじめに感じた怒りや納得いかない思いをほだされてしまった。一通り笑ってから、いや違う、と気付く。なにをしに来たのか、だ。
「伯父さん、風邪で倒れたりなんかしてないから。―っつか大事な時に来なかったでしょ、あんた」
「そうだよな。悪かった、と思ってるよ。新花なんか代打にさせて。研究に夢中でさ。あとは、色々知らなかった」
 ひどく真面目な顔で暁永は言った。真顔はとても優しい顔をしている人なのだと、こうして見るとよく分かる。綾が長いこと惚れている男。
「この家、青井のもんになってたとかさ」
「いまさら」本当にいまさらだった。なにを言おうというのか。
「いまさらだな。――さっき綾に話をしてきたところだ。ようやく拠点がイギリスに定まりそうだ。研究室はF大に残るけど、新花によく面倒見てもらってるから、あちこちせずに落ち着きそうなんだ」
 唐突な話を、だが透馬は「だからなんだ」と思った。いまさら暁永がここに帰って来なくたって、ずっと向こうにいようがどこにいようが、関係のない話だ。透馬は大学卒業後もこちらに残り、綾と暮らしてゆくつもりだ。一生それでいいと思っている。そこに暁永はもう、入り込めない。
 だから暁永が「綾、つれてゆくからな」と言った時は、耳を疑った。
「――え?」
「いままでは綾がこの家にこだわってると思ったから、ここに置いといた。おまえ、っていう危険因子の存在を知っておきながらも置いといたんだけど、さすがにもう、な。家は綾のもんじゃないし、いつ青井が好きにしてもおかしくないだろ。ちょうどいいと思う。おれももう、あんまりフィールドワークばっかり言ってられなくなった。綾の傍にいてやれる」
「ちょっと、おい、どういうことだよ」
「そういうことだよ」
「いきなり来て『綾つれていきます』『はいそうです』になるわけないだろ? なんで…いままでほったらかしだったじゃないかよ。伯父さんなんども好きだって言って、そのたびになかったことに、って」
「応えられなかったんだよ」
「なんで」
「綾の親父さんに釘さされてた」
「……」まったく知らなかった。祖父が二人の恋に介入していたなど。
「死んだときは正直ラッキーだと思ったんだよ。そのまま連れて行こうと思ったけど、おまえがいるからって迷った、綾は。元から内向的なやつで、身体も弱いし、この土地は静かな分綾に合ってる。無理に連れて行ってもなって思ってずっとここまで来たけど、もうやめにするわ」
「勝手すぎる」
「分かってる。それにまだ、綾から返答はもらってない。今日は話をしに来ただけ。おれと一緒にイギリスに来るか、ここでおまえと暮らすか」
 ぽいとみかんの皮をくずかごに放り投げ、暁永は立ち上がる。勝手に台所をつかい、食事を用意してくれていた。だがそんな暁永のことなど構わず透馬は部屋を出てゆく。離れで作業をしているはずの綾の元へまっすぐに向かった。
 いま聞いた話をどう受け止めているんだろう。離れへ飛び込むと教室代わりの室内には誰もおらず、奥の作業台に文字と紙に埋もれるようにして綾がいるだけだった。生徒の指導は終え、作品を添削している。
 透馬を見るとぎょっとした顔つきをした。その表情で綾もまた迷っていることが窺えた。
「イギリス、行くの?」
 思ったよりも低い声が出た。
「行かないよね?」
「……」
「ここにいるよね?」
 綾は肯定も否定もしなかった。蛍光灯の明かりで白く明るい室内、透馬は一歩二歩と綾に近寄る。手を伸ばせば、綾は腕の中に収まってくれるはずだった。だが今夜ばかりは透馬になびかない。うつむき、ちいさく息を吐いた。
「――都合がいいな、ぼくは」
 言葉が心臓を乱暴に鷲掴む。「いやだ」と言うと、綾は首を横に振った。「まだ迷っている」
「透馬と暮らすことを選んでおいて、いざ暁永が迎えに来たら――ごめん、嬉しかった」
 片手で顔を覆い、肩をふるわす。乱暴に綾に近寄り、その肩を掴んだ。
「いやだよ。おれは――就職だって決まったし、春からもここで伯父さんと暮らすつもりで、」
「まだ決めたわけじゃない。けど、…透馬には申し訳ないと思ってる。だめなんだ、暁永が迎えに来てくれたことが嬉しくて、」
 変わらず顔を手で覆い隠している。それを無理に引き剥がすと、綾は悲痛な顔をしていた。
「家なんかどうでもいいって暁永の前だと思う。一も二も三も暁永で、いてもたってもいられない思いがまだある。――ずっと、ずっと暁永が好きだ」
 普段は表情を崩さぬ人が、顔をくしゃくしゃに歪めて苦しんでいた。喜びと、申し訳なさと、迷いとで。その心情が痛いほど伝わって来て、透馬も苦しかった。どうして、どうして、どうして、と。
 綾の身体を突き放し、離れを出た。


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 青井を説き伏せるつもりなど毛頭なかった。どうせなにを言っても反対されると分かり切っていたから、誰にも相談せずに行動した。大学に退学届を提出し、バイトも辞め、最低限の荷物だけ提げて綾の元へ押しかけた。
 押しかけられた当初、綾は困惑していた。この家の権利は青井にある。いつ追い出されても不思議はなく、二人して路頭に迷うことだけは避けたいと考えているらしかった。
「ま、でもさ。そしたら安いアパートでもなんでも見つけて暮らせばいいじゃん。一人よりふたりの方が絶対にいいよ」
 居酒屋のアルバイトまで早々に見つけ終わってから言われるのでは、説得力が違うらしかった。綾は笑った。「そうだな、なんとかなるか」と。
 青井は直接来ずに、誓子がFまでやって来たのは一月も終わりの最も冷え込む時期だった。そうかいつの間にか年が明けていたんだな、とその時ようやく思った。年が明けているどころか、自分が誕生日を迎えていたことすら忘れていた。いつの間にか、十九歳。
「父さん、あんまり怒っていないんじゃない?」
 やって来た誓子を迎え撃つような思いで、先手を取って言ってやった。誓子は重たい息を長く吐く。
「のんきなこと言わないで」
「だってあいつの関心ごとは、彩湖だろ。彩湖のことならなんでも優先するし、かわいがってる。将来は彩湖に会社をって考え始めてるよな、いま」
 家にいる時から思っていたことを口にすると、誓子は黙った。また長く息を吐き、「行動の速さとそつなさをむしろ褒めていた」と言う。
「でも怒ってる。なんなら家を今すぐ取り壊して放り出してもいいんだ、とも言っていた」
「それぐらいは見越してる。いいんだ、どこだって暮らせれば」
「……透馬、そんなに綾と一緒にいたい?」
「決めたんだ、もう」
「綾が、好き?」
「好きだよ。だから側にいたいって思うことは、まちがってる?」
 純粋な動機だ。伯父に恋心を抱くこと自体がまちがっている、と言われればそこにも肯くしかないが、透馬の中でいま感情はとてもシンプルでストレートだった。綾が好き、だから側にいたい。一緒に暮らしたい。なにを置いても優先したい、かけがえのない想い。
「……将来を、どう考えてる?」
 誓子は聞いた。疲労を隠そうとして化粧がいつもより分厚くなっているのが気の毒だった。
「バイトを決めたと聞いているけど、ずっとそうやって生きてゆくつもり?」
「様子見かな。今年はもう無理だけど、来年、受験しようと思ってる」
「F大?」
「そう、F大工学部。こうなったらもう欲しいもんは全部手に入れてやろうと思ってさ」
「学費や生活費はどうするつもりなの? 国立大とは言っても決して安いものではないわ。今回の件でもうあなたには一切の援助をしないでしょう、青井は」
「それは色々と方法があると思う。というかもう、いいよ。父さんの保護下にいるからこんなめにあうんだろ。だったら全部自力でやる」
 元々、真城の家でそんなに裕福な暮らしをしていた覚えがない。青井の家にいたぬるい時期を思えば雲泥の差だろうが、あの日々よりも苦労してまで欲しいものを手に入れることの方がはるかに素晴らしいと思った。
「とりあえず一年は、受験生とアルバイト」
「綾はなんて言ってるの」
「応援する、って」
 誓子は黙り、目を閉じた。そんな風に疲れさせてごめん、と言うと、それでも母は笑ってくれた。
「やりたいこと見つけたんだもんね。応援、しなければね」
 以前のように宿泊はせず、すぐに帰って行った。そして後日、透馬の持っている銀行口座にまとまった額の入金と、手紙が届いた。ひとまず青井に、あの家に透馬と綾とが暮らすことを認めさせたこと、ずっと大切にしていた絵をいくつか売って出来たお金を入金したことが書かれていた。
『身体を壊さないようにやってください。あなたの人生を生きるのはあなただから、やれるだけの応援はしてゆきます。母』
 手紙を読んで、ぎゅっと胸の上を押さえた。不安がまったくないわけではなかったが、いまはやりきってやろうという気持ちの方が強かった。
 アルバイトをしながら自力で勉強をした。高校三年の夏に綾に失恋をして以降、まともに勉強をしてこなかったから、勘を取り戻すのにとても苦労した。懸命になってテキストを追い、母校に出向いて元・担任に教えを乞い、美術教師からもデッサンの指導をつけてもらえた。新花も勉強を見てくれたのが何よりも助けになった。
夕方から深夜は駅前の居酒屋で働く。そんな生活なのに、傍らに綾がいるだけで充実し、張り切れた。くたびれて帰って来ると綾はもう就寝していたりするのだが、眠っている顔を眺められること。そして朝起きて「おはよう」が言えること。それはもう、喜びでしかなかった。
 一年後、念願のF大に合格した時は綾もこれ以上なく喜んでくれた。お祝いにと地元の酒造の中でも少しいい日本酒を選び、それに合うようなシンプルな和食の膳をつくり、乾杯をした。綾の大事にしている鉢植えの梅のつぼみがちょうど頃合いに花開き、家じゅうによい香りが漂う夜だった。日本酒特有の辛みと強烈のアルコールの良さがまだ分からないのだが、綾と共に過ごせる夜は充実していた。
 春からの生活のことをぽつぽつと話し合いながら、箸を進める。雪見障子をあけておいたから、徐々に春に近付きつつある庭を眺められた。
「大学生か」感慨深げに綾が言った。
「というかもう、二十歳だもんな」
「二年も浪人した計算だから、二十歳で大学一年生」
「いや、すごいことだと思う。―本当に、すごいよ」
 そう言って盃を舐める。こくりと上下する喉にずきりとした。また一年共に暮らして、綾とは今まで通りの生活を続けている。触りたいと思うことはあっても、触れたことはなかった。
 綾の気持ちはいまどこにあるのだろう、と綾を眺めながら考える。
 暁永はあれから一度も姿を見せない。現れない男のことをまだ想ったりやりきれなくなったりしているんだろうか。透馬が抱く綾への気持ちは変わらない。ずっと好きだと言い続けている。
 「あんまり見るな」と綾が居心地悪そうに身じろいだ。それをきっかけに盃を置いて、綾へと身を乗り出した。
「伯父さん、好きだよ」
「……」
「キスしていい?」
 酔っぱらって気が大きくなっている、と発言を耳で聞いて理解した。だが衝動は止まらない。綾は透馬から逃れるようにそっぽを向く。それでもしつこく顔を寄せると、合図であるかのように目を閉じた。
 まぶたへくちびるを寄せ、一度離れる。綾が薄目をあける。くちびる同士でそっとキスをすると、背筋がびいんと唸った。
 ふわふわと頼りないキスをして、透馬は畳に寝転んだ。これ以上をどうしていいのか分からない。強引に自分のものにしていいのか、綾の拒絶が怖いのか。
 だがこうやって暮らしてゆくんだと思った。


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プロフィール
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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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