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だるそうに寝返りを打ちながら「のどかわいた」と瑛佑が言うから、透馬はそのまま台所へ向かった。着替えている途中だったのを、瑛佑のために部屋を出てゆく。冷やしておいた炭酸水とグラスを取って、また寝室へ戻る。戻った途端に湿気た濃いにおいがして、ちょっと笑えた。
炭酸水の入った瓶を瑛佑の頬に押し付けてやると、瑛佑は微笑み、「ありがとうな」と言った。事後の火照った身体に、ぴりぴりと棘のある刺激は心地いいのだろう。喉を鳴らして美味しそうに飲む。羨ましくなり、透馬ももらった。
今日のセックスの最初の主導権は瑛佑にあった。たまにそういう夜がある。瑛佑が「させて」と言う夜で、身体の隅から隅まで瑛佑のくちびるや指でたどられる。されるまで分からなかったが、瑛佑のやり方は、淡白でいて、大胆だ。大きくひろげられたり、丹念に嬲られたり、強くつかんでこすられたりする。性感を引き出すのがうまく、汗でびっしょりになる。いままでこんなセックスを誰かとしていたんだな、と思うとシンプルに嫉妬する。そりゃ気持ちが良かっただろうと、過去、瑛佑の腕の中で喘いだ顔も見たこともない女たちのことをぼやりと思う。
そういうことを考えてしまうから、余計に瑛佑を組み敷きたいのかもしれない。こんな顔を、声をさせているのはおれだけなんだ、という自負がほしい。瑛佑からすれば「冗談じゃない」ということかもしれないが、その辺り、瑛佑にはまるっきり偏りがない。透馬がしたいと言えば「いいよ」と言ってくれた。瑛佑をいいように扱っている風で、甘えているのはいつだって透馬の方だ。
それがひっくりかえる。瑛佑の目が「したくてたまらない」とばかりに光ると、ぞくぞくする。妖しく色めきだつ気配に身をふるわせながら、瑛佑に身体をそっくり委ねる。こういう極限があることをいままで知らなかった。なにもかもを投げ出せて、そこにはなんの痛みもなく、ただただ性の喜びだけがある、瑛佑だけが透馬に見せられる世界。
瑛佑の手で頂点を見て、見たあとは、今度は透馬の番だった。できるだけ長くじれったく。「お返し」というわけではないけれど、触られると触りたい気持ちがふくらむ。瑛佑の切羽詰った声が聞きたくなり、早くと懇願する顔が見たくなる。必要とされたい。爪を立てても怒らずむしろ微笑んでくれたしなやかな身体をとことん甘やかし、その傷を舐めてまた高みへゆく。
そりゃ、のども渇くだろう。はじめたの何時だっけ? と思い返すのも面倒なぐらいに脳の髄までしびれている。瑛佑と交替に炭酸水を飲んで、ベッドとベッドの間に据え付けたナイトテーブルに置かれた時計を覗きみる。時間、午前零時。
先ほどからさあさあと響いているのは雨音だ。最中に気付いたけれど、二人で顔を上げて窓の外を見合って、また目を合わせて、キスをしただけだった。やわらかい雨で、気付かず眠ってしまえるぐらいのボリュームで街を濡らす。先程、キッチンの窓から少しだけ覗いてみた空は透馬の目には晴れ空と変わらぬ紺色で、でも確かに雨のにおいがした。
「明日晴れるかな」と呟くと、瑛佑は「うーん」と唸った。
「ま、大丈夫じゃないかな、」
「天気予報、昼過ぎから雨あがる風でしたね。式が一時からだから、ギリギリ?」
「秀実のことだから、きっと雨も負けて天気になるよ」
明日は秀実の結婚式だ。瑛佑、透馬ともども出席するが、一方は新郎の親族として、一方は友人としての出席なので、出発の時間が少々異なる。聞いた話によれば席順も少し離れているようで、完全に一緒というわけにはいかないようだった。まあ、どちらでもよい。同じ場所から出発できて、同じ場所に帰って来られる。瑛佑の着るスーツも透馬の着るスーツも、今日の夕方一緒に準備をした。
「そういえば昨日ヒデくんからメール来て」
「うん?」
「みずくさいぞーって」
「――ああ、」
「メールのすぐ後、電話かかってきて。えーすけから聞いてようやく納得したぞって。おれただのルームシェアだと思ってたから超びっくりしたしていうか話せよ大事なことはこのやろうーって」
秀実の口調を真似て話すと、瑛佑は寝転んだまま笑った。
「……瑛佑さん、ヒデくんにゆったんすね」
「黙っているのも不自然になってきたからさ。要するに、バレたんだ」
昨日、瑛佑と秀実は揃って休みを取って、秀実の買い物に付き合っていたと聞く。そこで瑛佑が秀実に二人の仲を話したらしい。驚いた秀実から即連絡が来た。怒りながら喜んでいて、淋しがってもいて、楽しんでもいた。様々な感情が素直に出る、秀実らしい電話を受けた。
だめだったか、と瑛佑が訊く。透馬は首を横に振る。それを訊ねたいのは透馬の方だ。普通に女性とつきあえる瑛佑の現在の恋人が男です、なんて、長いつきあいの友人でも言うのはかなり勇気を要しただろうに。
首を振った透馬を見て、瑛佑は満足げに笑った。
「もう、どこにも障害なしだ」
「……」
「かあさんにも言っちゃったし、秀実にも話した。高坂さんや夏人はとっくに知ってるし…透馬の方は、新花さんていうとびきりの味方がいるし」
「……おれ、母さんにもすきな人と暮らすって言って出てきちゃいました」
「はは」
充実の息を吐いて、瑛佑は「言っちゃったなあ」とこぼした。その言い方に、胸がしぼられた。本当に、もうどこにも障害はない。誰の目を気にすることなく暮らせて、こうやって愛せて、穏やかでやさしい時間が透馬の胸の中にふわりと座っている。
急にFでのことを思い出した。あの、胸が痞えながらも、綾と暮らした日々。話すつもりはなかったのに、「伯父さんといた時は」と口にしていた。衣擦れの音で、瑛佑が寝返りを打ってこちらを向いたのが分かる。
「――くるしかった。おれね、本当にばかだと思うけど、……伯父さんとあのまま一生あすこで暮らせるって本気で思ってたんだ」
瑛佑は喋らない。頷いたかもしれないが、お互いのベッドに横たわりながら話をしているだけでは、相手の様子を事細かく知ることは難しかった。
「伯父と甥っていう理由で、誰にも深く知れることなく暮らせると思った。でも、なんだろう、いつも心細くて不安で。作っためしぶん投げて庭の花蹴散らかして、伯父さんに乱暴したくなるような…そういう狂気じみたことを思うことが何度もあったよ」
「……」
「でもそういうのひっくるめて一生暮らしていけるって、信じてた」
あの痛みが、息苦しさが胸によみがえってくる。それに比べればいまはなんとゆるやかな幸福が透馬にあるのか。瑛佑に恋をしなければ分からなかった。自分はせつなくて一瞬たりとも輝かない時間のことしか知らなかったのだと。
くつろぐという言葉の本意や、安心の意味するところをきちんと教えてもらった。「本当によかったなあ」と秀実に言われたことが重なる。
「すいません、暗くなっちゃいましたね。もう寝――」
「透馬、そっち行っていい?」
と、瑛佑が訊いた。「それか、こっち来るか?」
セックスをしたのは瑛佑のベッドで、いま瑛佑は、事後そのままの姿でシーツに沈んでいる。一瞬だけ迷って、透馬は「来てください」と言って瑛佑をベッドに招き入れた。裸の瑛佑が飛び込んでくる。すぐさま身体に腕を絡ませて、泣きそうになっていた顔を瑛佑の首筋に埋めた。
強く抱きしめ、息を吐く。瑛佑の張った肌や熱い体温が心地よくて、本当に好きで、爆発する愛しさが身体の内側に抑えきれない。
痛いぐらいだったはずだが、瑛佑は黙ってされるままになり、透馬の背をゆるゆると撫でてくれた。
「――透馬の母さんってどんな人?」
不意に訊ねられ、触れた吐息に肩がびくりと引き攣れた。
「美人、ぽい。新花さんが、透馬の横顔はお母さんに似たんだって、」
「……でも、フツーのおばちゃんすよ。社長夫人である程度は身なりに金使えるってだけで。貴和子さんの方が、綺麗です」
「綺麗、っていうんじゃないだろう、あの人は」
「美意識が高くて、きちんとした持論があって、格好いい。おれもあんな人になりたいな」
「勘弁して――そうだおれ、透馬の横顔見るのが好きなんだ」
唐突に言われて、呼吸が詰まった。近くで目を合わせると、瑛佑ははにかみながら「――って言っちゃった」と答える。言うつもりはなかった、という風に。
「……はじめて聞いちゃいました」
「透馬のおしゃべりがうつった」
ふ、と瑛佑が笑う。無口な人が、透馬を安心させるために、喋ってくれている。背をゆるゆると撫でる手が心地いい。
「透馬の家族さ、いつか会わせて、な」
「……いつか……はい」
「うん」
深い息をついて、瑛佑は目を閉じた。このまま眠るようだ。透馬はすこしのあいだ、目をあけていた。絡ませ合った足先からあたたかく、目の前で規則正しく上下しはじめる静かな寝息や触れる髪先や、動きがにぶくなってやがて動かなくなる手や、瑛佑が眠りに落ちる間際のひとつひとつを感じながめていた。
「……明日、晴れますよね」
返事はない。深い吐息が肌を掠める。やがて透馬も目を閉じた、眠るために、明日のために。
End.
お目当てのアクセサリーを無事に手に入れて、秀実は満面の笑みで隣を歩いている。ピンクゴールドのピアスで、チョウをかたどったものだ。石のはまらないシンプルなピアスだがこれぐらいが日常使いにいいのだと言う。秀実から彼女の「梢ちゃん」へ渡す大事なプレゼントだ。
今週末、結婚式を迎える。皆の前で婚姻届を書き、その日のうちに提出をし、ハネムーンへと旅立つ予定だ。行先はハワイ。今日買ったプレゼントはそこで渡してやるのだ。結婚してくれてありがとう、という気持ちと、「梢ちゃん」の大学卒業祝いと、四月に迎えていても「お式でお金がかかるから」とごく質素に済ませた誕生日祝いを――諸々を兼ねた、要するに秀実があげたいから渡すプレゼントだ。
独身最後の休日は瑛佑と遊びたい、と言うから合わせて休みを取った。単に買い物につきあっただけで、揃って女性物ばかりを扱うジュエリー店へ入るのはかなり気恥ずかしかったが、秀実は気にしない。店員を巻き込み、あれやこれやと散々悩んだ末に選び出したピアスに、瑛佑の感想は正直「ほっとした」だった。このままもう一時間粘られた上に次の店へ、などと言われていたらおそらく先に帰っていた。
店を出れば二時をまわっていたから、ランチタイム営業の関係ないファミリーレストランへ入った。本当は焼肉屋へ入って飲もうという話だったが、「焼き肉ってプレゼントににおいうつりそうだからやっぱナシ」と言う。いやまあ、だったらどこかのコインロッカーに預けるか家に一度戻って置いてくるかした方がいいと思うけどな、と思ったが言わなかった。心の中では秀実が選び出した「ボリュームビーフステーキ 三種のソース添え」に関して大いに突っ込みを入れている。――バターと脂とソースのにおいがすごそうだ。
「買えてよかったー」と食事が来るのを待つ間に秀実がしみじみとこぼした。
「えーすけいて良かったよ。おれひとりじゃ決まらんかった」
「そうか」黙って見ていただけだけれど。
煮え切らない秀実の背中を押したのは、店員だ。良心的な彼女のおかげでなんとか決まった。
「いやー、昔からえーすけといると決断できるんだ。今日のところは奢るから、たくさん食え、な」
「そんなに大盤振る舞いでもつのか?」
「いやー、まあ、金はかかるな、うん」
結婚を具体的に考えたことがないから、秀実の費用は正直想像がつかなかった。瑛佑の考えている額の倍も何十倍もかかったりするのだろうか。透馬との引っ越しだってあれこれかかったもんな、と春先の出来事を思い返してみる。ふたりで暮らせる部屋を探すだけでけっこう大変で、家具もある程度を揃えたから余計に。
だがその甲斐あって、いまは毎日が楽しい。
透馬が歌いながら料理している背中なんか見ていると、微笑ましくなる。これを手にしたんだ、という実感がこみあげて、後ろからいたずらしたいような、見守っていたいような、複雑なもどかしさが生まれ、心の中が透馬でいっぱいになる。やはり引っ越して正解だった。毎日家に帰るのが楽しみだ。こんな嬉しいことはない。
店員が「鶏南蛮定食のお客様」と品を差し出して来て、我に返った。ちいさく手を挙げるのと、秀実が「あっちね」と瑛佑を指すのとが同時だった。店員は笑顔で応対し、また戻ってゆく。
「先食うよ」
「おう」
三種のソース添えステーキの方が焼けるのが遅いらしい。食べ始めた瑛佑を、だが秀実はじっと見ている。食べにくくなり、瑛佑は顔を上げた。
「なに?」
「うん、」
「なんだってば」
「いやーさ、トーマ元気かなって」
「え?」
「え?」
どきりとして、言葉に詰まった。微妙にすれ違った会話に秀実もかたまっている。
引っ越したことは、秀実も知っている。引っ越す、とは話した。ただ透馬と暮らし始めたことは伝えていない。それよりも秀実は自分の結婚披露宴のことで手一杯で、たまに話す機会があっても、自分のことばかり喋っていた。いつものことだな、と思いつつ、いつ話そうかタイミングを見出せていない状況が続いている。
この場で透馬の話題がのぼったのだから、話すべきだろうか。付き合っている、ということを? いまさらながらにどっと汗が出てきた。鶏肉に手を付けられぬまま箸が止まる。
また店員がやって来て、秀実の注文を置いて行った。「肉、きたー」と喜ぶ秀実に、正直ほっとした。いやでも、いま言わないでいつ言うんだろう。
迷っている瑛佑を怪訝に思ったのか、秀実は「どうしたー」と笑顔を瑛佑に向けた。
「――あ、いや」
「鶏、まずい? それともおれのほしい?」
「違う。鶏は、多分うまい」
「おれに半分ちょうだいよ」
「いやだね」
慌てて食事をかきこむ。染み出た油は少々しつこかったが、それなりの味だった。食べている間に、秀実は器用に喋った。今日のプレゼントをどう渡すか、その作戦について。結婚式当日の不安について。楽しみについて。
結局、店を出ても瑛佑は迷っていた。満腹で思考がうすれる。もうどうでもいいか、と思っていたところで通りがかった花屋を見て、秀実がぽろっと「トーマに買って行ってやれば?」とこぼした。
この時ほど俊敏に人の顔を振り向いたことはなかったと思う。「え?」と言う秀実に、瑛佑も「え?」で返した。秀実の表情には、なんのうらおもてもなかった。
「――だって一緒に暮らしてるんだろ?」
「……」
「え、違ったっけ?」
「……あってる」
「だよなー、えーすけ言わねえんだもん。言えってんだなー」
そこまで言われたらもう、隠すのもおかしいだろう。瑛佑は腹を決めた。「悪かった。透馬と、暮らしてるよ」
「そっかー、楽しそうでいいなー」
「うん、まあ」――恥ずかしい。
「トーマ、どう?」
どう? と聞いてくる真意がうまくつかめないのだが、つきあっている感想を聞いているのだろうと思った。こみあげる照れを隠しながら、「かわいいよ」と答える。そう、かわいい。暮らし始めての率直な感想だ。機嫌がいいとうたい出すところも、遊び好きなところも、思いつめて甘えたくなっても言えないところも。少し幼い感じが透馬はいい。
「え?」と秀実がかたまった。
「ん?」
「かわいい?」
「かわいいっていうか…まあ、綺麗な男だな、と思う時も、あるけど」
「え?」
「え?」噛みあっていない気がしてきた。
「――まさかえーすけ、トーマが、好き?」
「――――」
瞬間、全部理解した。理解するのと「好き?」の響きに顔が火照るのが同時で、それは秀実にも確実に知られてしまった。つまり秀実は、言葉通り「一緒に暮らしている」のだと思い込んでいて、恋人として付き合っている、とは思っていなかったのだ。日本語って微妙だ。主語を省略できるからいつの間にか暗黙の了解でものごとがすすむ。
沈黙と、瑛佑の照れとで、秀実もまた悟ったらしい。口をぽかんと大きくあけて、「えええーー」と道のど真ん中で叫んだ。
「ちょ、秀、うるさい」
「え、嘘っ! えーすけってそうだったの? っつかそれ、片想い? じゃねえか、一緒に暮らしてるってことは、両想い? トーマとつきあってんの?」
「秀、ボリューム、」
「えーおれまったく知らんかったし! 言えよ! トーマも隠してんなよな!!」
騒ぎ立てて、最終的には怒りへ持って行って、秀実は終息した。ばしんばしんと背を叩かれ、痛いったらありゃしない。うるさい秀実を置いて帰ろうと本気で思ったから、歩みを早めた。秀実も追いかけてきて、二人してほぼ全速力で駅へと駆ける。
「逃げんなよ、えーすけ!」
「おまえがうるさいからだろ……」
「あーびっくりした。あーびっくりした、びっくりしたあ」
駅の改札、人の出入りが激しければもう、二人の会話に注目する人間はいなさそうだった。コインロッカーの前でようやく一息つく。秀実がでも「あはは」と楽しそうに笑うから、ああ言っても大丈夫だと、思った。
「透馬とつきあってるよ」
「ほおー」
にやにやと秀実は笑っている。その顔が見ていられず、目を閉じて、三回息を吸い吐きした。
「ていうかいつからだよ、」
「……去年の春先ぐらい」
「げえ、一年以上前じゃん! なんでゆわなかったんだよ!!」
「色々あったんだって……」
瑛佑の首に腕を伸ばし、おそらくはスリーパーホールドを決めようとする秀実をなんとか払いのけ、かわす。「楽しそうだな、おい」と言うから、そこは素直に「楽しいよ」と言ってやった。
かわしてもかわしても何度も腕を伸ばしてくる秀実に根負けして、ついには肩を組まれた。
「まー、よかったなー。トーマ一時期いなくなっちゃったし、辛そうだったから心配してたんだよなー」
「……」
「そっか、そーなんだな。おれ、ちっとも嫌じゃないからな、えーすけ。むしろ応援する。これからもよろしくな」
一方的にそう言って、秀実は腕を解いた。改札を指差し、「ボーリングでも行く?」と笑う。眩しいものを見たように、瑛佑は目を細くした。ああ、秀実だ。なんでも許容する、バカでハッピーで愛すべき、単細胞の義理の弟、親友。
下を向いて感動をごまかしながら、「そうだな」と瑛佑は頷いた。
「あ、新しく出来たジム行く? ボルダリング出来るってとこ」
「今日は準備がない」
「借りりゃいいだろ。見るだけでもさ、行ってみようぜ。ここから二駅ぐらいだし」
「まあ、いいよ」
ぱん、と肩を叩かれる。笑っている秀実の隣に並んで改札へと歩き出した。
End.
綾と暁永
幼馴染という間柄で、お互いのことはなんでも知れている。いまさらこいつがこういう性格で好きこのみはこうなんだとか、新しい発見を日常で感じることはない。誕生日はいつ、血液型はなに、好きな食べ物はあれで嫌いな食べ物はこれ。綾は暁永のことを訊かれればなんでも答えられるし、暁永だって同じだろう。忘れていることはたくさんありそうだけれども。
長いこと身の内にくすぶらせ続けてきた初恋は、ある日突然叶った。それは綾が長いこと待ち望んでいた瞬間で、でもその日がやって来たら、単純な喜びひとつだけではなかった。ずっと暁永の日に焼けた腕の中にいる自分を想像していたというのに、暁永に手をつけられると分かった夜は、申し訳なさでいっぱいになった。誰に対して? 甥に対して。淋しいからと都合よく傍に置いた透馬のことを急に思い出した。暁永についてようやくイギリスまでやって来た夜だったのに。
急に気持ちの整理なんかつかないよな、と暁永は言い、そっと背を向ける背中を慌てて引き戻した。綾の迷いまで知られてしまっているのなら、もう隠すことはなにひとつない。歳を取り、張りなく痩せた身体に舌打ちをしたくなりながらも、綾からシャツのボタンを外した。全部脱いで暁永に見せる。発音よく実に感慨深く、暁永は「daring」と言った。
「……日本人だろ」
「いやあ、海外生活長いからな。つい出ちゃうんだ」
「うそくさい」
「待たせたな、綾」
そう言われると、こみあげるものがあった。じわりと滲む視界が嫌で目元に手を寄せると、その手は暁永に掴みとられた。親指の付け根にくちびるを寄せ、手首の内側の骨の浮き出た部分を甘噛みされた。髭が当たってくすぐったく感じたが、それ以上に恋焦がれた男にそうされている事実が、綾を高ぶらせた。
新しい涙は、いよいよ結ばれるのだ、という感動からではなかった。あけすけに言うならば、溢れかえる性感から。暁永のくちびるが肘の内側までのぼった時、それ以上は身体を保っていられずに、綾はベッドへ深く沈み込んだ。
暁永もシャツを脱ぎ捨て、綾にのしかかってくる。
「待たせてわるかった」
「……もういいよ」
ここまでかかった年月のことを、それ以上は話さなかった。下手に蒸し返してまた機会を逃すのだけは避けたかったし、気まずい空気になる前に先を読んで回避する術は備わっていた。歳を取ることは、きっと悪いことだけじゃない。若い身体で抱き合いたかった思いもないわけじゃないが、いとしい人に裸体で触れ合っている事実は、感電死しそうなぐらいの衝撃をもたらした。
スローなセックスをした。イギリスでの初めての夜、長旅の労は置いてやさしく丁寧に触れあった。はじめに思い出した透馬のことは一瞬で、あとは忘れた。どうしているかだなんて、考える方が無理だった。
夜半、雨音で目が覚めた。ずっと頭痛がしていたから降るのだという予感はあったが、何時から降り出します、なんて天気読みが出来るほど精巧なつくりでもない。降り出した雨は弱々しく、そんな微細な音でも聞き漏らさず起きてしまう自分の繊細さに、いつもながらに呆れる。
隣の布団は空だった。時計を見る、午前一時半。まだ起きているのかと思いつつ、起き上がる。水を飲むために台所へ向かった。床木はきしきしと音を立て、雨音と不思議と調和する。
結局、二年で日本へ戻って来た。日本、というよりも、Fへ。イギリスは綾に本当に合わなかった。頭のやわらかなうちに英単語のひとつでも覚えておけば良かったのか。新しいものへの拒絶は自分で想像していた以上に大きく、イギリスでの綾はただひたすらに無口で引きこもりだった。暮らしているうちに分かり始めた英語はしかし聞くだけで、発音はしない。暁永がいなければ出かけることはしなかったし、当然、仕事もしなかった。家にいてたまに庭に出て、暁永のコレクションである花々をスケッチブックに描きつける日々。
それでいいよ、と暁永は言ったが、負担は大きかったに違いない。再び転勤の話がやって来た時、暁永は相談もせずに帰国を決めた。日本のめしは美味いだろうな、と言いながら頬を撫でられ、自分がそれほど痩せきってしまったことに気付いた。
帰国して古い馴染みと顔を合わせ、Fの空気を吸って、しみじみと自分はFの人間なんだと思い知った。若いうちに暁永と結ばれていても、ここを離れられなかったに違いない。そのまま壊れて青臭い勢いのままにうまくいっていなかったかもしれないと、狭い自分を思い返す。
いまは季節がめぐり、春だ。また筆耕の仕事を少しずつ受け入れ始めた。これが出来る喜びと、あとどれくらいこうして暮らすのか、という漠然とした不安とが織り交ざって、日々はやすらかに過ぎる。綾は、いま死んでもいいと思っている。暁永とFで暮らしているから。
蛇口をひねり、コップに水を汲んで、飲む。一口、二口と口にしていると、大きなあくびをしながら暁永が台所へやって来た。
「綾」
「まだ仕事か」
「いや、もう寝る。綾の顔をちゃんと見ておくのは、久々だと思ってさ」
ここ数日、暁永は出張に出かけて留守をしていた。帰宅したのは昨日の深夜で、綾は先に就寝していた。朝起きると、すでに大学へ出かけていた。そんな風にしてすれ違って、暁永の言う通りに顔を合わせたのは約五日ぶりだった。
暁永の出張中、少し体調を崩していた。医者に行こうかどうしようか思案していた矢先に暁永は帰宅して、すれ違いの中でも綾のために食事を用意してくれていた。暁永いわく「野生の勘」は、綾に対してとても敏感だ。一時期はそれもなくなったと絶望しかけていたから、いま綾の元に向けられた愛情はより一層の感動を綾にもたらす。
暁永の手がそっと綾の額に伸びた。熱くて力強く、綾は目を閉じる。
「元気か、綾」
「――少し、」
「眠れない?」
「眠りづらい」
「まだだるいか」
暁永の問いに、首を振った。大したことじゃない。でも甘えたい。心細いが、ひとりでやりこなせる程度。これをどう頑張っても、暁永に上手に説明できる気がしない。
「明日は教室の初回だから、緊張しているのかもしれない」
つてを頼りに、また教室をひらけることになった。場所は、しばらくは区の公民館を借りる。手習いのひとつとしてどうかと講師申請すれば、ぜひお願いしますと快い返事があった。
「おれももう寝るよ。一緒にやすもう。――そうだ、昼間」
そう言って暁永はズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。部屋着のズボンにそれを持ち歩くとは考えられなかったから、綾の起きた気配に、本当はこれを目的としていたのかもしれない。
画面を眺めながら、「誓子から。透馬が引っ越した、って」と暁永が嬉しそうに言う。
透馬。その名を聞いて、ああそうか透馬か、と思った。正直、いまの生活に透馬の存在はいらなかった。伯父と甥、かつては共に暮らし愛した仲であるが、透馬のことなど思い出しもしなければ、考えもしなかった。
引っ越した、ということは、あの家を出たということだ。訪れたことはないが、妹の嫁ぎ先にあまりいい印象を抱いてはいない。青井という男が嫌いだ。そこまで考えて、ようやく透馬にとっても居辛い場所だったのだと思い至った。
「すきな人と暮らすからって言って、出て行ったらしい」
暁永が見せてくれた画面には、確かに誓子と暁永のやり取りが記されていた。一通り眺め、暁永に返す。綾はこの手の類の機器を持っていないから、つかい方がよく分からない。対して暁永は若い世代との交流が必須のせいか、とても詳しい。正反対だ。
どうして一緒にいられるのだろう、と目の前の暁永を見て思った。思いが通じるまでが長かったせいか、疑い深い。この先も続くなんて信じられないから、やっぱりしあわせないまのうちに死んでしまいたい。満ちているから、いま終わっていい。
「よかったよなあ、透馬」と言った暁永の台詞は、半分ぐらいは聞いていなかった。
「――綾、なんか思いつめてる?」
問いかけられ、我に返った。
「いや、……やっぱりまだ調子、よくないのかもな」
「そうだな。寝ようか」
「ああ」
さっきまで熱心にいじっていたスマートフォンをすぐそこのテーブルへ放ると、暁永は手を握ってきた。ほっと息をつく。幼馴染だから、という理由だけでなく、暁永にはすべて理解されている。身体も、思考も、不安と安寧で完結されたFでの静かな日々をうっとうしく思いながらも愛している綾のことは全部。
揃って並ぶ布団に潜りこんだが、暁永が手を伸ばしたので、布団から手を出してまた握り合った。
「綾、おれたちはなあ、えらく元気なじいさんになるんだよ」
眠る間際に、暁永が言った。
「あのじいさんたち長生きですね、もういくつですか? ってぐらいまで、生きる」
「やだ、無理。ぼくはもたない」
「ずーっと手ぇつないで寝る仲だぜ。あと二十年? 三十年? 百年でも二百年でもなんでもいいや。とにかくいまから退屈してんなよ、綾」
「……」
「ようやく、これからだろ」
暁永の手に力がこもる。ぎゅうっと握られ、その手を綾は目元へうごかした。頬ずりをするように、いとしさが伝わるように。
本当は、信じていたい。死ぬ瞬間まで暁永が添える人生を。
「――明日、暇?」
声のボリュームを間違って、はじめの「あ」だけが大きく響いた。
「暇じゃないけど、夜はいる」
「じゃあ明日の夜、して、暁永」
「おお」
大げさでなく、暁永は驚いた声をあげた。少し期待も混じっている。「今夜じゃなくて?」
「……もう遅いだろ……」
「――ふうん、楽しみだな」
手を握ったまま、暁永は布団から這い出て顔を寄せてきた。軽く、キス。「明日はうなぎでも取るか」と言いながら離れていく身体に軽口をたたいて、目を閉じる。
頭痛はいつの間にか収まった。雨はじきにやむ。
End.
透馬と瑛佑と貴和子
瑛佑の都合がつかないようならだれか若い男をあてがってくれ、というのが先方の要望だったが、瑛佑がだめなら透馬、という図式になるのは言わずとも承知されていた。出勤する瑛佑と一緒に家を出て、駅で別れ方向の違う電車に乗る。着いた先は動物園の傍にあるカフェだ。九時開園の動物園に合わせて早朝から営業している店であり、八時半という時間にもかかわらず人がいた。
カウンターでオーダーと精算を済ませるタイプの喫茶店だ。焼きたてパンも並び、五百円でモーニングセットも頼める。朝食は済ませているので、コーヒーを頼んで店内を見渡した。窓際の二人掛けのテーブルに見たことのあるショートカットを発見し、あえて背筋を伸ばすことを意識して歩く。きっと瑛佑は、職場でこうやって歩いている、と想像しながら。
透馬に気付いた貴和子は、「おはよう」と微笑んだ。
「おはようございます。ホテル、どうでした?」
「部屋はまあまあね。マッサージは良かったわ。プールでも泳げたし」
「今日は動物園に一日、でいいんですよね」
「そう、よろしく」
「こちらこそ」
新幹線で休日を利用してわざわざこちらへやって来た瑛佑の実母・貴和子は、昨日は動物園の最寄駅ちかくのシティホテルに宿を取って「おひとりさま休暇」を楽しんだ。息子の職場でないホテルを選んだのは単に立地と電車接続の都合である。マッサージを頼みプールで泳ぎ、広いバスルームを堪能して展望レストランでの和食フルコースを楽しみ、バーでも飲む、という旺盛さだ。存分に堪能した翌日は動物園に行きたいから相手役をひとりよろしく、ということで都合のついた透馬が仰せつかることになった。話を聞いた秀実も行きたがったが、彼もまた仕事である。しかも再来週には自身の結婚披露宴が待ち構えており、実はそれどころではない。
風薫る新緑の五月だ。四月に花を散らした桜の枝は青々と若葉をしげらせ、街に緑を呼んでいる。ついこの間までは風流な家の先に藤が見事に垂れていたが、現在はばらがひらいている。もうじき近くの通りで植木市が開催される、という広告も見た。仕舞い込むのを億劫がったこいのぼりがたまに視界に泳ぐ、さわやかな季節だ。
窓の外を見て息をつく透馬に、同じことを思ったのか貴和子も「いい季節ね」とつぶやいた。
「晴れてよかった。でも紫外線がひどそうね」
「一日屋外ですから、焼けそうですね」
「透馬くんの方が気を付けた方がいいんじゃない? 見たところ、焼けると赤く腫れるタイプでしょう」
「そうなんですよ。おれとしてはヒデくんみたいに、とは言わなくても、少しは焼けて見た目の貧弱さを解消したいんですけど」
「そう気にするほど弱くは見えないし思わない。さてそろそろ行きましょうか」
貴和子の台詞にどきりとしながらも、促されて急いでコーヒーを飲み干す。紫外線対策はその年頃の女性には必需であるだろうに、貴和子はサングラスをかけただけで日傘すら差さない。薄手のタートルネックのシャツ一枚にタイトなパンツといういでたちに、体型のゆるみをゆるさない彼女の美意識が感じられる。ほんっとかっけえな。瑛佑とよく似ている、と思うと笑みがこぼれ、一方で今日いちにちはおれもかっこうよくなければ、と気を引き締めた。
開園の五分前、チケット売り場は並んでいた。透馬がひとりで買ってくるつもりでいて、貴和子も一緒にならんだ。「ひとりで待ちぼうけしててもつまんないじゃない、せっかく二人で来ているのに」と言われ、その通りだなと思い直す。瑛佑の話では「女性扱いを嫌う」と聞いていたから、余計な気を利かせるのはやめよう、と思う。
「なんで動物園ですか?」と訊けば、「水族館のリベンジ」と答えた。
「瑛佑が相手をしてくれるなら寺社詣でにしようと思ったんだけど、透馬くんが相手なら絶対に水族館か動物園か植物園にしようと決めていた。そちらの方が興味あるでしょうし、前回は笑いもしなかったしね」
冬に貴和子とKへ出かけた際のことを言っている。その節は大変もうしわけなく、と苦笑いするが、貴和子は「気にしてないから」とさっぱりと言った。
「透馬くんが笑うところを見たいと思ったのよ。動物園で楽しんで、どこかであまいものでもいただきましょう」
「……ありがとうございます」
「動物園だなんて瑛佑がちいさい時以来だわ」
「……瑛佑さん、どんな子どもでした?」
「無口で、でもやんちゃだったわ」
瑛佑のこととなると気になる透馬を微笑する。それでも聞きたい。やんちゃ、という辺りが興味をそそり、サルやゾウやキリンを眺めながらたくさん話を聞いた。貴和子もそのつもりで来たようで、透馬にたくさん話をしてくれた。
貴和子はやはり研究者らしい視点で、動物園のあちこちに貼られた表示や説明書きをよく読んだ。それを貴和子流に解釈して透馬に聞かせてくれるのも面白かった。まなざしのきつい人だから合わないんじゃないかと感じていたが、そうでもない。すきな人の母親だと思えば余計に微笑ましかった。貴和子の顔立ちや喋る癖に瑛佑を感じて。
園内は広く見飽きなかったが、そこらに点在する喫茶室のひとつに入り、貴和子とアイスクリームを食べた。チョコレートとバニラを白黒のパンダに見立て、ビスケットで目鼻まで表現されている。貴和子とはあまいもの好きという共通点がうれしい。瑛佑もつきあってくれるが、透馬ほど熱心じゃない。
ふと、きちんと伝えておくべきだと感じて、アイスクリームを食べ終わってから貴和子へと居ずまいを正した。
「? なにか?」
「すいません……おれ、瑛佑さんと」
「知ってるしってる。つきあっていることなら聞いているから」
野暮ったいことはしないで、と言わんばかりに手をひらひらと振る。彼女はまだアイスクリームを食べ終わっていない。ちゃんと最後の一口が飲みこまれるのを確認してから、透馬は口をひらいた。
「あの、たからものだと思っています。神様がおれにくれた、ご褒美」
さすがに意外だったのか、貴和子は滅多に変化させない目をひらいて透馬を見た。
「産んでくれてありがとう、って言いますか。……その、本当に会えてよかったと思っているから、」
貴和子が瑛佑を産んでくれなければ、透馬と会うこともなかった。そして貴和子が産んだ瑛佑だったからこそ透馬は瑛佑のことが好きで、瑛佑がべつの誰かだったらこの恋はきっとなかった。瑛佑が瑛佑であるみなもとの一因が貴和子だ。そのことを、感謝せずにはいられない。
長かった恋とようやく決別し、いまはあたらしい季節を踏んでいる。まいにちうれしいと思っている。伸びる新芽の背丈を測るのが心待ちであるかのように。
グラスにもらった水を一口飲み、貴和子は「それはよかった」と言った。口調こそそっけなかったが、表情はとても満足げであった。
「喜んでくれる人がいるなら、失敗だと思っていた結婚もそうでもなかったね」
「失敗だと思ってたんですか」
「思ってた。お見合いだったし、私はやりたいことがあったからね……こんな言い方はとても失礼だと承知で言うけど、結婚できないあなた方がある意味うらやましいよ」
意外なことを言われた。その真意が見えず、「え?」と問いなおした。
「恋愛でもしなきゃ一緒になろうなんて思わないでしょう。その情熱が。息子は、そういう経験をしたのねえってしみじみしちゃう。私はしないで終わりそうだから」
貴和子らしいぶっ飛んだ意見だったが、透馬は頷いてしまった。情熱が。確かにそうだと、泣きそうな思いで笑顔をつくる。瑛佑をありがとう、と。
閉園まで粘り、チャイムの音が鳴り響く中、動物園を後にした。入園した門とは反対側の門の出口で、仕事を終えた瑛佑が待っていてくれていた。あらかじめ連絡をしておいたおかげだが、誰かが待っていてくれている、というのは単純にうれしい。腕組みをしてぼんやりと空を見ていた瑛佑が、透馬と貴和子を見つけてふっと笑う、その表情の変化に思わず笑みがこぼれる。
食事をして解散の予定だったが、貴和子はまっすぐ帰るという。「お弁当でも買っておひとりさま旅を続けたいのよ」と言うから、透馬がいいと思う弁当屋に立ち寄って惣菜をテイクアウトした。ついでに瑛佑と透馬の今晩の品も。
乗り換えの駅までは三人一緒に行動した。待ち時間で、ふと瑛佑が「そういえばいまさらだけど」と貴和子に声をかけた。
「おれ、この人と暮らしているから」
そう言って透馬の肩をつかんで引き寄せる。
「一生、そういうつもりだから」
「……」
「だから結婚とか子ども、ってないけど、」
「あほか」
言い詰まった瑛佑にきっぱりと貴和子が言い放った言葉が意外だった。そういえば普段は西に暮らす人だ。透馬の前でこそ綺麗な標準語を喋ったが、ものの言い方が軽い方が馴染んでいるのだろう。
「端から期待していないわ。大体そういうのは向き不向きってあるのよ。あなたより秀ちゃんの方がよっぽど向いているでしょう」
「――かも、な」
「たのしくやんなさい」
重たげに貴和子は息を吐いた。まったく、妙な気を起こして息子をかわいがろうなんて思うもんじゃないわね、とひとりごとを言う。「あなたといい、透馬くんといい、こちらの肝をひっくりかえすようなことばっかり言う」
「もっと敬老の精神をもちなさい」
「自分を老人だとも思っちゃいないくせに。――あ、電車、」
瑛佑が言った先に、新幹線がホームへすべりこんでくる。ごお、と風が巻き、瑛佑と透馬の毛先を揺らす。
別れ際、貴和子は「二人目の息子ね」と言いながら透馬の肩をそっと叩いた。
「――じゃあおれは、二人目の母さん、って思っていいですか?」
「いいけど、母さん、と呼ぶのはやめて。いままで通り名前がいい」
「今度あそびにいきます」
「楽しみにしてる。あまいもの、用意しておきましょう。――今日はたのしかったね」
貴和子がそう微笑むのと同時に発車ベルが鳴り、ドアが閉まった。また風が揺らぎ、貴和子を乗せて列車が走る。見えなくなるまでホームにとどまる。
ところで、と瑛佑が言った。駅内は新たな電車の到着を告げるアナウンスがわんわんと響き、瑛佑の声が聞き取りづらい。一歩瑛佑に寄った。
「かあさんの肝を冷やす発言、ってなに?」
「……『瑛佑さんを産んでくれてありがとうございます』っていう話はしました」
「……」
「あの、おれさっき瑛佑さんが言ってくれたこと、すげえうれしかったですよ」
「……」
「恥ずかしかったすけど、…瑛佑さん?」
透馬の呼びかけに、瑛佑はといえば片手で口元を覆い隠していた。あれ、もしかして照れた? 思いがけない行動、たわむれに頬を突いてみれば指先に熱い感触があった。
口元に持って行った手を、耳を経由してうなじへと持って行く。明らかな照れ隠しに、透馬は笑った。胸の中がこんなにあたたかい。
おもいきり瑛佑の腰をひっぱたいた。
「――いて」
「瑛佑さん、かわいすぎる」
「透馬が変なこと言うからだろ。……恥ずかしい、ふたりしてのろけみたいなことかあさんに言っちゃった」
「すきですよ」
「……」また黙る。
「だから早く帰りましょう」
瑛佑も笑って、「接続詞がおかしい」と透馬の背中を叩き返した。地下に据えられたホームを出ると、途端に薫風につつまれる。人気の少ないのを見計らって手を握る。また夏が来るのがうれしいと、唐突に思った。
End.
一日中雪の降る日を体験したことがある。降雪量が特別に多い地域ではなかったから、あれは異常気象だったと言える。さんさんと降る雪は重たく、ただひたすらに静かだった。雪の舞い落ちる微かな音を聞いているうちに眠たくなって、雪の降っている間中寝ていた記憶。
いまそれを体験すれば、そんなのんきには過ごせない。除雪の心配、凍結の心配。雪の重みで家がつぶれないか、道はあいているか等。心配や悩み事の数だけ経験を積んで大人になった証拠だ。先日の大雪の際には川澄とずっと雪かきをしていた。
瑛佑は大雪を経験したことがないという。透馬からすればあり得ないのだが、この付近に暮らしていればまあ、雪などまずない話だ。笑っちゃえるぐらいの積雪でも、近隣の住人にとっては自然災害。瑛佑は大丈夫かな、とさらさらと舞う雪を見て思う。けっこう積もるかもしれない。
雪の降る日は眠たくなる。
綾は、低気圧の日は決まって頭痛のする人間だった。特に雨の日。気圧の変化で脳の血管が収縮して起きるものらしいよ、とどこかで聞き拾った話を他人事のように話していた。雨の日がそうなら雪の日も頭痛すんの、と訊いたが、そこまで繊細じゃないと言った、あのうすい笑み方。
綾が頭痛なら、透馬は眠気だ。寒くなるせいだと思い込んでいたが、雪の日は案外暖かいものだ。音を吸収して静かになるから? 薄曇りで暗いから? 分からないが、とにかく眠い。眠っても深い眠りなど訪れずに、浅い夢ばかり見るのだと分かってはいるのだけどつい布団に潜りこんでしまう。
飼い猫のトーフが透馬の布団にやって来た。
椅子の上で、ブランケットにくるまっているだけでは寒かったようだ。瑛佑のにおいのする布団へ、ちょいちょいと前足を出して様子を窺い、入ろうとする。そっと布団を持ち上げて迎え入れてやった。瑛佑のにおいは、このネコにとっても透馬にとっても安心するものだと知らされる。
明日はスーツを着て、会社の面接だ。まだなにも準備をしていないのに、こんなことでいいのかな、と腰の傍でまるまるネコを撫でながら思う。良くなかったとしても布団を出る気にはなれない。いまごろあの人は、と薄い背中を思い出す。ここでこんなにひどい雪なのだからFではもっとひどくて、深々と降り積もる雪に頭痛を訴えていたりするのだろうか。それでもと外に出てしろい身体を風に当てて、空を眺めたりしているのだろうか。
淋しいと思う気持ちは、瑛佑を思い出すことで薄れた。いまごろ瑛佑は、そりゃ仕事の真っ最中だろう。丁寧ではっきり通る口調で、客に応対している姿を想像する。あんなにスマートなのに、透馬のやわっちい腕の中に収まってくれる人。
ネコ一匹とヒト一人でぬくまってゆき、思考がうすらいでゆく。本当はきっとこんなことじゃいけない。聞こえないほど静かな雪の降る音を聞いて、ぽかりと白の中に浮かぶ夢を見た。
夕方、なんとか目が覚めたので瑛佑を迎えに行ってみた。やはりけっこう積もっている。雪はみぞれが混じり、道路はぐちゃぐちゃでスニーカーでは間に合わなかったが、遅い。傘は差さずにコートのフードをすっぽりとかぶり、慣れた足取りでKホテルまで向かった。道行く人は滅多に降らない雪に戸惑っている風だったが、これぐらいの雪、透馬は平気だ。
瑛佑の勤務終了は、いつもより遅かった。
雪のおかげで足止めを食らった帰宅困難者を、迅速に受け入れ始めたせいだ。ホテルまわりの雪かきにも人手を取られ、中は慌ただしかったという。終了予定時刻よりもたっぷり三時間、かかった時間は本屋でつぶした。メールを入れておいたから、待ち合わせはスムーズに出来た。
外は暗く、寒そうだった。透馬を発見するなり瑛佑は顔の前で両手を合わせて目を固く瞑った。その「ごめん」のポーズに、そんな場合じゃないのに、透馬はふっと笑った。心が暖かくなる。
今日一日、眠っていても淋しかった。寒かったせいかもしれない。早く瑛佑の顔が見たかった。三時間立ちっぱなしでもいいから顔が見たかった。
「悪い、先に帰ってもらえばよかった」
「それじゃ迎えの意味ないじゃないすか。……自転車は?」
「今日は無理。置いてく」
「だいぶひどいすね、雪」
これぐらいなら交通がマヒします、と言われても頷ける降雪量だ。瑛佑は透馬を気遣って「タクシー拾うか?」と訊いたが、首を横に振った。「駅まで行ってみて、だめそうなら、歩いて帰りましょう」
「これぐらいの雪なら、ちーっこくても雪だるまぐらい作れそうすね」
「また遊ぶのか」
「ちょっとだけ。瑛佑さん、めしは? 今夜どうすんのかなーって思って、一応肉と野菜を煮込んではあるんですけど」
「ああ、いいな。温まりそうだ」
「じゃあ手身近に遊びながら帰りましょう」
言うが早いか手近にあった雪をすくい、瑛佑のコートめがけてえいっと放る。驚いた瑛佑はとっさにかわそうとしたが、さすがにかわしきれずただ身体を捩っただけの格好になった。
あはは、と笑う。瑛佑は「やったな」とにやりと笑うと、せっかく手元に準備しかけていた折りたたみ傘を丁寧に仕舞い、透馬よりももっと俊敏な動作で同じく手元の雪を透馬に投げつけた。
「うおっと」
なんとかよけても、よけた先にまた雪。ぱん、とぼやけた雪の感触が胸に見事にヒットする。
「ちきしょー」
「透馬が先だろ、ほら」
また放られる。透馬も投げ返す。逃げたり走ったり追いかけたり。通りすがりの通行人が迷惑そうに顔をしかめて横をすり抜けて、ようやくやめた。息がすっかり上がっている。
こういう時、日頃の運動不足がたたる。瑛佑の方が鍛えているので、透馬より断然に余裕綽々だ。はあはあと息を荒げながら笑い合って、空を見上げる。次第に雨が混じり始めていた。
薄曇りの、もやもやと鈍い紺色の空。
「滑って転ぶなよ」
「うん」
もうあまり意味がなかったから傘は差さずに、駅まで歩いた。人の多さを目撃してからは顔を見合わせて、やっぱり歩くことにした。少し足が重い。濡れているから爪先が痺れている。早く風呂に浸かりたかったが、瑛佑といつまでもこの道を歩いていたい気もする。
「しりとり」
「またか」
「喋ってないと口の中まで凍りそうだからさー。今日はしり二文字を取るのにしましょう。しりとり……とり、……トリむね肉」
「ほんと主婦みたいだ。にく、……食いてえ、しか出てこない」
「はは」
「にくまれっこよにはばかる」
「お、上手い。はばかる…かる? えー? 軽井沢?」
「ざわ…難しいな。さわ、でもいい?」
「OK」
「さわ……沢木耕太郎」
「作家でしたっけ」
「うん。『深夜特急』だけ読んだ」
「おれはないなあ。うちにあります?」
「あー、どうだったかな。多分仕舞い込んでる。探すよ」
「瑛佑さんが本読むなんて、高坂さんの趣味?」
「いや、単に旅行記? だったからさ」
話をあちこちに飛び火させながら、続きの単語を言っていく。ろうそく。そくたつ。たつのおとしご。しごとつかれたよ。おつかれさまです。
家に帰りついて、順に風呂に浸かる。透馬の作った煮込みを、無言ながら瑛佑は旺盛な食欲で頬張る。その姿を見て、胸の内側がじわっときた。今日いちにち心細かった事実が瑛佑を見てせつなく蘇ってくる。
迎えに行ける誰かがいるって、なんて贅沢だろう、と噛みしめる。言葉を返してくれる。裏も表もなく、瑛佑は透馬のことが好きだ。その愛情が、全部自分のものだなんて。
面接が無事に済んだら部屋を見に行こう、と瑛佑が言った。透馬と瑛佑が暮らす予定の、二人の部屋だ。
「――それでさ、ちゃんと部屋が見つかったら、お祝いしよう」
「引越し記念、すか?」
「それもあるけど。透馬、先月――先々月か、に、誕生日来てるだろ」
そんなの透馬本人だって忘れていたし、いまさらどうこうする話でもなかった。正直、瑛佑がそんなささやかなことにこだわるとも思えない。明らかに気を遣ってくれているのだが、それが、嬉しかった。
瑛佑がいると、嬉しいことばかりだ。本当に大好きだ。一生この人といられますように、というシンプルな願いしか見当たらない。
いつか飽きるんだろうか。いまはなにがあっても手放す気になれないこの人を、足で蹴飛ばしてみたくなったり、顔も見たくない日が、来るんだろうか。
幸福に飽きる日が来るんだろうか。でもそれは、いま考えなくてもいい。そんな時間があったらいまを味わっていたい。瑛佑が、透馬を見ている。
「――だからさ、瑛佑さん。知ってるでしょ、おれにとっての『誕生日』の概念を」
「透馬がいちばん嬉しいと思うことをする日だろ。すれば、いいじゃん」
「瑛佑さん、どーんとすげえもの贈られちゃうかもしれないんですよ」
「透馬、またおれになにかプレゼント考えてんの?」
「いや、ノープランですけども。ほしいものあります?」
「ふ、」
違うだろ、と瑛佑は突っ込んで、笑った。あ、いい顔をするなと思う。続けて「透馬の誕生日っておれにとっても楽しい日だよ」と言われて、一瞬、吐いた息を吸い忘れた。
言った本人も思わぬ響きに照れ臭くなったのか、耳を掻く。
「――ひとまず明日、面接がんばれよ」
「はい。あ、あの、」
「ん?」
「……今夜はもう少し、話をしていても?」
「……トークテーマは?」
「来たるべきおれの生誕祭に向けて?」
「はは」
瑛佑の声色が跳ねあがる。普段、あまり声を出さない人だから、こういうところにいちいち心臓が高鳴って、おかしくなる。
外は雨にかわった。雨音は部屋へと忍んでくるが、二人のあいだは暖かい。
End.
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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