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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 メールアドレスを交換した後、はじめて届いたメールが「たすけて」だったので、驚いた、というよりは怖くなった。助けを求めなければならないなにかがあの人に発生している、という事実に。気が急いて、即座に電話をかけた。電話に出た元貴(もとたか)はごくシンプルに「めし、食いに行こう」と言った。
 朝の七時半である。こんなに早く営業している店のことは、すぐには思い浮かばなかった。元貴はS駅構内にあるベーカリーカフェを指定し、「すぐ来て」と言った。平静と変わらぬ声で言われたから一瞬わけがわからなくなったが、言葉の内容はメールの「たすけて」と変わらぬように思えて、ますます焦った。いてもたってもいられず、部屋の最寄駅からの移動は、苛々した。絶対に電車をつかった方が早いと分かる距離でも、走っていきたい気持ちだった。
 もどかしい三十分を経てカフェに着くと、元貴はいなかった。店は早朝なのに混んでいて、この中のどこかにいるんじゃないかと必死に視線をめぐらせたが、どれも違う。電話をしても出なかった。からかわれたか、本当に「たすけて」と言わせるなにかが元貴の身に起こっているのか。半々の気持ちの決着もつかずただ混乱していた十分後、元貴は悠々と現れて「おはよう」と笑った。
 まぼろしを見ているかと思うぐらい、さっぱりと落ち着いた笑みだった。見た途端にからかわれていたことに気付き、「なんだよ、あんた」と首を折ってうなだれた。
「……なにかあったかと思って、焦ったじゃんかよ、」
「電車が遅れたんだ。線路に人が立ち入ったとかで」
「すぐ来て、って言ったくせに。メールぐらい寄越せよ」
「時間の指定はしていないよ」
 言われて、むっとした。確かにその通りだが、はいそうですか、と納得はできない。黙ったまま怒った表情でいると、元貴は軽く笑ってから「ごめん、つい」と悪びれなく言う。
「からかいたくなる。――めし、食おう。まだだろう?」
 このまま置いて帰ろうかと思ったが、そんなことができないぐらいに、元貴のことが好きだった。朝食を共にする日がこんなに早く来るなんて、信じていなかった。元貴に促され、二人でレジカウンターへ向かう。当店おすすめ、と書かれた、イングリッシュマフィンとコーヒーの、少ししゃれた(でもしっかりとした腹の足しにはならなそうな)モーニングセットを頼み、狭い店内に無理やり立ち食いのスペースを見つけて食べ始める。
 出されたコーヒーを、元貴は「まずい」と言ったが、横顔は楽しそうだった。一口つけて「美味い」と口にした。本当に沁み入る味のコーヒーだった。


 ◇


 「この後いいか」と訊かれ、朝食後も元貴に同行した。本当はアルバイトが十時から入っていてあまりよくはなかったのだが、それまでの少しの時間でもいいから元貴といたくて、頷いた。駅を出て、周辺をうろついた。まだ街のほとんどは朝を始めていない。スクリーンの下りた本屋に、電飾の消えたレンタルビデオショップ。どこへ行くのか車と人の行き交いだけはあって、しかしみな朝の空気の清々しさに後ろめたさを感じているかのように、重く口を閉ざしている。
 ずっと元貴の言った「たすけて」の意味を考えていたが、さっぱり分からなかった。
 なにをたすけて? なにからたすけて? いま隣を歩く元貴はひょうひょうと機嫌よく、なにかに困っているようには見えなかった。大体、初対面の時から元貴の態度はこうだ。なにを考えているのかいまいちよく分からない。気分にも行動にも一貫性がなく、自分よりも五歳年上だと言うが、落ち着きがない。
 ふと元貴が足を止めた。雑居ビルの案内を眺めている。
「なに?」
「ここ、入ろうか。こんなところにギャラリーが入っている」
 元貴の指差した先には、各階ごとに入っている店舗名が記された看板がある。その中の四階に、確かに「ギャラリー・K」と書かれていた。なにを展示しているギャラリーなのかまでは不案内に書かれていない。
「まだ早いんじゃねえの?」スマートフォンで時間を確認する。朝の九時から営業しているギャラリーであるのなら、行っても構わないが。
「なにが展示してあるんだろうな」
 聞いちゃいない。ビルのエレベーターは時間外だからか使うことが出来ず、わざわざ内階段をのぼった。案の定、「十時半からのご案内です」と受付嬢に言われた。中はまだ準備中で、それを眺めながら、開くのを待った。アルバイトのことは心底どうでもよくなっていた。
 たっぷり一時間半待って、入った先にあったのは写真の展示だった。
 全体的に青と白のトーンで、若い男ばかり写っていた。引き伸ばされたプリントは案外に大きくて、写真ってこんなサイズにもなるんだなと思った。写真の展示数はさほど多くないが、人気なのか有名なのか、開廊直後でも次々と人が入った。いかにも写真に興味ありそうな初老の男性から、主婦とおぼしき女性の二人組まで、様々だ。写真に興味を持てず、やって来る人間に気を取られていると、元貴が「あ」と写真の前で声を出した。
「これ知ってる」
「作者のこと?」
「じゃなくて、この構図とまったく同じ写真を見たことがある。写真集がうちにある」
 元貴が眺めていたのは、手が写しとられたものだった。誰かの腰に(多分、先ほどから写っている若い男の)、撮影者の手が当てられている。やさしく触れた、ごつごつと骨ばった男の左手。これになんの意図があるのかさっぱり汲めず、芸術って退屈だと、思った。それを元貴は興味津々に眺めている。
「面白いな。オマージュ、ってやつかな」
「有名なの?」
「見に来る?」
「え?」
「これからうちに来いよ。見せてやるから」
 元貴は嬉しそうに笑った。ちいさく舌打ちをする。元貴の家に行きたくは、なかった。


 ◇


 電車ではなく、バスをつかった。元貴の住む部屋は住宅街にあるマンションの三階で、ダークグレイのスタイリッシュな外装がいかにも最近出来たばかりのマンションらしかった。途中の家の庭に、藤の花が垂れているのを見た。うすい紫の見事な枝だ。日頃あるいているはずの元貴も一緒に足を止めて、しばらく二人で見入った。
 エレベーターを上がり、玄関を入るとまず、女物のローヒールの革靴と男物のサンダルが並んでいるのが見えて、ずきりと来た。靴箱の上には黒猫が描かれた版画が一枚、飾られている。上がってすぐ居間と台所になっていた。奥にもいくつか部屋があり、そのうちのひとつは扉が半開きになっていて、中が見えた。ベッドルーム、衣類が雑にベッドに脱ぎ捨てられている。
 部屋に着くなり居間に置かれた本棚に向かう元貴に一言断って、コーヒーを入れる準備をした。日常的に飲んでいることはよく知っていた。姉が好きだからだ。出しっぱなしの器具に豆をセットし、湯を沸かす。流しの中に沈んでいるカップをつまみあげて洗い、丁寧に拭いた。こっくりと深い茶色あるいは生成りの、色違いで揃えたマグカップ。
 新居に来たのははじめてだが、知っている人間の知っているにおいが、確かにただよっている。それから気配。揃いの食器や、壁にかけられたかばんや帽子、活けられた花に、姉のすきなオレンジ色のクッション。そのどれもが元貴のものと混在して、混ざり合って、ひとつの空間をつくっている。濃い姉の気配。
 部屋に入った瞬間から、身体中の鳥肌が止まらなかった。分かっていたことだというのに。もうなんべんも、元貴と姉が二人でいる想像をしてきたというのに。
 コーヒーを入れ終わる頃、元貴が傍へ寄って来て一冊の本をひらいた。
「見つけた。ほら、同じだろう」
 元貴の言う通り、まったく同じ構図の写真が本の中に収められていた。裸の男の胸に、撮影者と思われる男の手が当てられている。なぜこの写真を撮ろうとしたのか、いきさつは読み取れないが、濃厚な親密さは伝わって来た。古い白黒写真のタイトルは「恋人」だった。
 マグカップを持つ手がぶるぶるとふるえた。先程からずっと苦しかった胸から、酸素という酸素がすべて出て、肺がぺしゃんこになったような気分だった。ひどく気持ちが悪い。たすけて、というなら、いま自分の状況を言う。
 写真集を閉じた元貴は、静かにはっきりと、「現、」と名前を呼んだ。びん、と背筋が唸る。
 この人に名前を呼ばれるのは、二度目だ。初回は姉の紹介で、お互いに「元貴さん」「現くん」とぎこちなく呼び合っていた。
「――たすけてくれ」と元貴が言う。
「僕はずっと、女の人を愛せる男だと思って来たんだ。それで、結婚までして、……どうしていまさら」
「……」
「どうしていまさら、男と、……義弟と、恋に落ちなきゃならない」
 元貴の目は、苦しげに歪められていた。それでも恋の色に潤んでいた。おびただしい数の絵具を好きずきににぶちまけたような、極彩色の目をしている。それはきっと自分も同じで、苦しいのに、妙に煌いていたりするのだろう。
 手の中から揃いのマグカップが滑り落ちる。ごとん、と重たい音を立てて、それらは床にぶつかり、割れた。同時に元貴の肩を引き寄せて、腕の中に収める。元貴はずっとふるえていた。憐れで、悲しくて、なによりも愛おしくて、それがますます悲しかった。
「――現、」
「……なに、」
「きみを愛している。きみもそうだ。僕らは、恋に落ちたんだ。どうしようか」
「……他人事みたいに、言うな。余裕に思えて腹が立つ」
「そんなんじゃない。……僕は弱いから」
 元貴も、現も、この先は行き止まりだと気付いている。
 気付いていて、まだ行き止まるまでに少し道があることも知っている。だからそちらへ歩き出そうとしている。たとえわずかでも、なにがなんでも、この人と道を歩いてみたかった。
 まったくどうして、恋なんかに落ちるんだろう。義兄のいくつもの台詞が、頭の内側でがんがんと響き、頭痛と眩暈を引き起こす。たすけて、すぐ来て、どうしようか、愛している。
 混乱を振り払うように、元貴の頬を両手で挟んで顔を近付ける。いま、姉はいない。


End.



関連:「いきどまり



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日野と高坂



 幼い頃なんとなく夢をみていた光景があって、それは高坂と誰かのほかに、犬がいるのだった。中型の茶色か白い犬。つまり、犬が飼えるぐらいの間取りの家をほしいと思っていたのだろうし(高坂は一家四人でアパート住まいだった)、自分は子どもを持たないのだろうとその頃から予感していたのだろうし。
 そんな夢は歳を経るごとに見なくなり、それどころかつい数年前までは一人がいいと言い切って日野を遠ざけたのだから、いまとなっては「そういえば」の範疇だ。思い出しても、もう広く庭のある家も犬もほしいと思わなくなった。日野が隣にいる、それだけでいい。
 大体犬、って。なんで憧れたかな、と幼い頃の自分に苦笑する。高坂は生物を飼ったことがないし、興味もない。吠えてうるさい、という理由で、よその家につながれている飼い犬たちのことをあまり好ましく思っていない。そういえば瑛佑はネコを飼っていたんだよな、と友人のことを思った。秋ごろ、一方的に振られたかなんだかで恋人と別れ、春にまたよりを戻したとかなんとかで……情報が曖昧だから断定して言えないのだが、女が抱けるのだからそのまま別れときゃよかったのに、と、思わないでもない。
 数度しか会ったことのない、瑛佑の恋人のことも思い出す。青井透馬は、つらくないだろうか? もし日野と別れることになったらおそらく自分は、日野を追いかけない。その時点で人生を終わらせたい。今回のことはなにが原因か知らないが、青井透馬は一度は故郷へ帰ったと聞く。戻ってまで瑛佑とやり直したいなにかがあっただろうか。そんなに愛してしまって、瑛佑が女の方を向いてしまったら、その時こそ青井透馬は壊れてしまわないか。
 犬、から青井透馬の心情にまで想像が及んで、はたと我にかえった。休日、日野といつものカフェに来ている。手元にひらいている小説に家と犬の描写があったからこそ思い浮かんだ光景と想像だった。隣、日野は腕組みをして陽だまりのなか目を閉じている。(おそらく眠っている。)
 日野の眠っている姿を見るのは、気持ちがいい。特に高坂好みの青いシャツなんか着て眠っていてくれていると、うっとりと何時間でも眺めていられる。今日日野が着ているシャツはネイビーブルーで、白いボタンがちょうどよくアクセントになっている。日野は肌が白いからよく映える。眺めていたいが、時計を確認するとカフェに入って三時間は過ぎていた。日野の袖をついと引っ張る。
 日野の深い呼吸が一瞬とまる。
「夏人、」
「――ああ」と日野は大きく伸びをする。「寝てた」
「そろそろ出よう。昼時で、店が混んできた」
「これからどこ行く?」
「場所変えてめし食うか」
「家でなにか作ろうか?」
「じゃあ、スーパー寄ろう」
 ふ、と日野が高坂を見て微笑んだ。「なに?」
「とけそうだ」
「なにが?」
「こういう些細なことがしあわせで、融けそう」
 行こうか、と日野は立ち上がる。高坂も頷いて、椅子を引く。


 店を出てスーパーへ寄りつく前に、少し散歩をした。春の住宅街は平日だけあって静かだった。大きな家、吠える犬。先ほど思い出したことを反芻しながら日野と歩くのは、なんだか不思議な気分だった。感覚が昔に戻っているのに、日野と歩く事実はいま。
 並んで歩く道を、わざと歩をゆるめて、日野より遅れてみる。わずかな歩幅のずれに気付かない日野とゆっくりと距離が出来る。青い背中が高坂の視界の中で、少しずつ小さくなってゆく。高坂は目を細める。
 本当にこれはおれのものなのか。分かっているくせに、きちんと確認したくなる時が来る。たとえば今日なら、日野が高坂に振り向くまでの秒数をはかる。十九歳の日野と出会った時は、まさかこんな日が来るとは予想しなかった。先のことは分からない。このまま高坂がこの道から離脱しても、日野が気付かない日が来るんじゃないか、などと。
 そういうことが怖かったから、一人がいいと思っていたのだ。日野と添う日々を選んだからと言って、不安が全解消されるわけではなかった。元が恋愛に対して臆病だ。女を愛せていたらまた違っただろうと思うと、余計に。
 日野は振り向かない。ものの秒数にたまらなくなり、高坂から日野を呼んだ。
「――夏、」
 ん? と日野が振り返る。
「あそこの家、屋根に飛行機の模型が引っかかってる」
「あ、本当だ」
「小さい子でもいんのかな」
「取れなくなっちゃったんだろうな」
 高坂の元まで戻って来た日野は、えい、と空中のなにかを掴むかのように、大きく伸び上がった。伸びた拍子に衣類が上にひきつれて、なめらかなかわき腹が一瞬だけあらわになる。
「なにしたの?」
「こうやって飛行機つかめないかと思って」
「無理だろ、いくらおまえが身長高くても」
「そうだね」
 日野は、高坂の目を見て微笑む。きっと先ほど行った高坂の些細でくだらない事柄を、見透かしている。今度こそ離れない、という意思で、高坂の隣へぴったりと寄り添う。
「――今日もまたなにか色々と考えてるんだろ」
「……」
「しょうがない人だな」
 そっと伸びてきた手は、高坂の右手をやさしく掴んで、離れる。一瞬の体温に、高坂はひどく安心して、でも同時に、胸が締め付けられる。まだ日野に恋をしている。


 スーパーマーケットではなく、百貨店の地下に据えられた生鮮食品店を選んだ。少し変わったチーズや肉を日野が「買いたい」と言ったからだ。高坂も、中に入っている酒のコーナーの品ぞろえに興味があった。その前に、また寄り道。エスカレーターを何階分もあがって、ベビー用品を扱う売り場に足を向けた。高坂の姉・尚子の息子が、あと少しで一歳の誕生日を迎える。
 なにか贈ろうか、という話だけで、具体的なものは選び出さなかった。ベビー用品近くのステーショナリーの売り場で、知っている顔を発見した。瑛佑だった。
 真剣な顔でなにか四角い箱を手に取って見つめている。高坂たちに気付くと無表情のまま軽く頭を下げた。ふたりで近寄る。
「なにやってんだ?」
 と、瑛佑の手元を覗き見る。瑛佑が手にしているのは、厚紙のボックスに本のように収められた色鉛筆のセットだった。青い色ばかりがグラデーションに、三十色。
 中身を抜き出して確かめていたらしい。瑛佑が色鉛筆に興味を持つなんてえらく珍しい。野外スケッチでもはじめる気になったのだろうかと理由を問えば、「いや、おれも見つけたのは偶然で」と言う。
「見つけたら、透馬に買って行ってやろうかな、という気になって」
「……」そういえば、絵を描くのだと前に瑛佑から聞いた。
「もう持ってるかもしれないし、色鉛筆はつかわないかもしれない。聞いてみなきゃ分かんないな、と考えていたんですが、もういいや。すいません、これ」
 と店員を呼んで、あっさりと購入を決めてしまった。たかが色鉛筆、だが五千円もしていてびっくりした。同じシリーズで、赤や黄色、緑やモノトーンといった系統も出ているらしい。すべてそろえたら万単位になる。
 青い色だけ、というところがいかにも、青井透馬へのプレゼントらしかった。
 この後瑛佑も家に来るかと誘ったが、今日は実家へ顔を出す用事があると言う。だが地下フロアでの買い物までは共に済ませた。ふたりが買い込む品々を見て「やっぱ行きてえ」と言うので、用事が済んだら来る話になった。そうして瑛佑とは別れる。
「思った事喋っていいか?」
 と帰る道々で日野に尋ねる。日野は小首を傾げてちいさく頷いた。
「おれ、正直、青井透馬のこと、あんまりよく思ってないていうか、瑛佑に恋なんてさ、やめときゃいいのにって思ってたんだけど、わるくなかった」
「わるく?」
「ていうか、良かった、と思った。ちゃんと瑛佑と想いあってんだなあって。さっきの、青い色鉛筆」
「ああ、」
「ああいうもの、とっさに贈れちゃう仲なんだな。――夏人にも買ってやろうか?」
 そう言うと、日野はふわりと笑った。「おれはつかわないよ」と答える。
「色、綺麗だったね。今度見せてもらおう」
「後で瑛佑から連絡来たら、青井透馬も来るように言おうか。そうだ、夏。小さい頃、なんか動物飼ってたか?」
 唐突な質問に、日野は「ええ?」と訝しげな声をあげた。
「犬、いたけど」
「へえ」
「なんでいきなりそんな話?」
「いや、犬、と青井透馬、がおれの中じゃいま結びついてるから」
「犬っぽい、ってこと」
「違うんだけど、説明は、難しい」
 どちらも高坂が見た幻想のようでいて、片方は今日の瑛佑の一件でくっきりと実体化した。それがなぜだかとてつもなく嬉しくて、日野に知らせたいのに、知らせないでいいとも思う。
 そういう日々だ。


End.



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新花と透馬



 川澄の知人の作家のトークイベントに招かれたから、と言って新花と川澄が揃って上京したのが四月。イベントは夜からで、その前に新花が「買い物につきあって」と言うから透馬も同行した。川澄は昔勤めていた出版社に顔を出し、そのまま友人と会ってくると言い、開場時刻となる十八時半まではそれぞれに過ごす予定らしい。
 イベントに「透馬も来る?」と誘われたが、本を読まないおかげでその作家のことを知らず、行っても会話に置いていかれるのだろうと思ったから断った。それに、新居に越してからまだ荷解きをすべて終えていない。必要最低限のものは封を開けて収めるべき場所に収めたが、たとえば画材や雑誌や衣類の一部は、依然段ボールに詰めたままだ。やることがないわけじゃないのだ。
 新花は、こちらへ来たら絶対に寄りたいお茶屋さんがあるのだと言う。中国茶を扱う店舗で、二階がティールームになっている。一階でお茶を選んだあと、二人で二階へのぼった。徹底的に女性をターゲットとした店で、茶の種類が豊富だから軽食のメニューはないのかと思えば、そこは新花が気に入る店で、ちゃんと食事も出来るようになっていた。新花は東方美人を、透馬は凍頂烏龍茶を選び出し、あとは粥なり飲茶なり角煮なりを取って昼食とした。窓際のカウンター席で、休日で混雑する大通りを見下ろせた。
 中国茶、という特殊性からか、さほど人がいなくてのんびりくつろげる、いい店だった。ただし新花がいるから来られる店で、ひとまず男性客は透馬以外に見当たらない。瑛佑と来ようかな、という気にはなれなかった。出された茶器のこだわり方には関心を持ったけれども。
 料理が運ばれてきて、各々箸をつける。唐突に新花が「わたし、真城のことはあまり好きじゃないの」と言うから、口にしかけたスープをまた置く羽目になった。
「……いきなりなんだよ、新花ちゃん」
 どうせなら食事の後にすべきだ、こんな話は。だが新花は続ける。
「柄沢と一緒だからなんとなく付き合いがあるけど、気が合う訳じゃないのよ、決して。ましてや味方でもない」
「……伯父さんと、なんか、あったの」
「なんかっていうほどなんかあったわけじゃくて。ほらあの人、なにもできないじゃない」
 なにも、と言われて、透馬はなんとなく頷いた。綺麗な字は書けるけれど、食事は一切つくらない。病弱で、頼りになる大人、というわけにはいかなかった。生命維持に直結する事柄(たとえば食事や健康な肉体、運動)がことごとく苦手だ。そういう意味で「飾り」で生きている人で、新花の言う「なにもできないじゃない」の言葉がわかる。
「イギリスでも柄沢に頼りきりだったし、いまも柄沢がいないと死んじゃうんじゃないかっていう生活してる」
 先日、柄沢の家の庭で花見をしたのだと言う。研究室の学生の混じった、新入生歓迎を兼ねた花見だ。Fは寒い土地なので、この辺りより桜が咲くのがずっと遅い。
「ひとりで影薄くして、家の中に閉じこもってるわけ。いくら学生がいるからってさ、人嫌いも真城の場合はただのわがままよね。柄沢もマメに世話なんか焼いちゃって。わたし、自立しない大人が嫌い」
 新花らしい口調でずばずばと言う。透馬は苦笑しきりだった。新花の言葉に「とりあえず食おうよ」と言って、ようやくスープを匙ですくう。
 確かに学生連中なんかが押し寄せたら嫌がって家から出て来なさそうだな、と綾のことを思う。はかない、というよりは新花の言う通り「わがまま」なんだろう。一緒に暮らしていた時も、考えてみれば、そうだった。一人では危うい人。それでも透馬と暮らしていても、かたくなに暁永のことを想い続けていた。
 一方で直情的な人だったから、淋しいと思ったからこそ透馬といることを選んだのだろうし、あの生活が続けば、いつかは透馬の望むかたちになっただろう。と考えて、ぞっと背筋がつめたくなった。Fでの、あの絶望的な暮らしを良しとしていた自分は、一体なにに酔っていたんだろう。あのままふたりでいて、あかるい未来はなかった。
 つい箸を置いて、考えにふけってしまった。頬杖をついて黙考をはじめた透馬の背中に、新花の手が触れる。
「ごめん、話が変な方に向いちゃった。ちがうのよ、真城への愚痴を言いたいんじゃなくて」
 ぱんぱん、とそのまま背を叩かれる。
「だから透馬は、いまの暮らしを選んで正解、って言いたかったのよ。わたしはね、透馬が好きなら仕方ないと思って真城と透馬を見てきたけど、うまくいってほしいとは思ってなかった。―いまは違うの。心からうれしい。引越しおめでとう」
 新花はにこりと笑った。そのあまくやわらかい笑みに、綾に支配されかかった心がゆるむ。女の人っていいなと、なんだか唐突に思った。母性本能とやらが備わっているせいかあちこちやわらかく出来ていて、あまえたくなるところが。
 無性に瑛佑の顔が見たい。そう思いながら食事を再開する。新花はよく食べるので、ぼんやりとしていると皿がなくなる。飲茶が美味しかったので、追加でオーダーした。それからデザートも頼む。食後の贅沢まで楽しめるのだから、新花のつきあいでも透馬は満足だ。
 食後、引越し祝いを買ってあげる、と言われ、言葉に甘えることにした。
「なにがいい?」
「うーん」
 しかしいざ訊かれるとすんなりと思い浮かばない。必要なものはおおかた揃えてしまったし、持ち合わせで間に合ってもいる。この間まであったらいいなと思っていたほうろう引きの鉄鍋は、瑛佑が買ってくれた。
「今度Fの美味しいもんでも送ってよ」
「あら、じゃあ今日はいいの?」
 腕時計を見て、「時間まだあるんだけど」と言う。時間があるなら、と街を歩いてみる。長蛇の列のチョコレート専門店、切りっぱなしのデザインが売りの革製品の店、チューリップとばらがひらく花屋、あめ色のつまさきが揃った靴屋。覗いてみたが、ウインドーショッピングの程度でどれもひらめかない。
「じゃあ、ケーキ買って」
 これもまた人が並ぶ洋菓子屋を指して新花に言うと、人混みに嫌そうな顔をしたが、お祝いだしね、と列に並んだ。
 フランスで菓子修行したというパティシエが帰国して出した一号店で、最近、テレビや雑誌で紹介されているのをよく見る。見た目が華やかで、好きなのだ。三十分並んで、角型のチョコレートケーキをホールで買ってもらった。細工が細かく、散らされた金粉がチョコレートのダークブラウンにきらきらと光っている。ふたりで食べきれるのか不安になるような大きさのケーキだ。嬉しかった。
 待ち合わせた場所で川澄と合流し、軽くコーヒーを飲んで、別れた。またね、と新花が手を振る。透馬も振り返してやる。
 帰宅すると瑛佑はすでに帰宅しており、カウチでうたたねをしていた。ケーキをキッチンのステンレス台に置いて、そっと近寄る。
 床に膝をつき、瑛佑の顔を覗き込む。すう、すう、と一定のリズムで刻まれる寝息、閉じた目蓋、眉の生え際。しばらく見つめてから、そっと触れてみる。肩に、剥き出した首筋に手をひたりと当てると、瑛佑はふっと目を覚ました。
 近い位置にあった顔に、驚いた風だった。だがまだ眠いのか、目を閉じる。寝返りをうち目をこすりながら「おかえり」と瑛佑は言った。
「――新花さん、元気か?」
「元気げんき。ケーキ買ってもらいました」
「そうか」
「引越しおめでとう、って」
 もう少し顔を近付けて、瑛佑と額を合わせる。ちかくで見る目は、穏やかでやさしかった。瞳に透馬が映っている。きっと自分の瞳にも、瑛佑が映っているのだろう。
「三十分も並んで買ったケーキです」
「うん」
「あと今日は、お茶買って来たんです。中国茶の店に行って――」
 額を合わせながら、しばらく話をする。瑛佑はじっと聞いている。笑ったとき、それが合図だったかのように、キスをした。


End.



拍手[78回]

 十年働いて正社員としては雇用されなかった。ずっと契約社員として働いてきた宇野のことは、社内じゃほとんど「どうでもいい人」だ。無口で、必要最低限のことも喋らないからコミュニケーションどころか仕事上必要な連絡を取ることでさえ苦労したし、おかげでやらかした失敗も何件も数え上げられる。本人にそれを伝えても、やはり没コミュニケーションで「ああ」とか「はい」ぐらいしか言わない。反省など皆無、それでも忙しい仕事なので、宇野のように仕事に文句言わずに一通りをこなせる存在はありがたかったような…いや、やっぱり迷惑だったような。
 その年の契約更新をしないと聞いて、優良(ゆうら)は少し驚いた。十年務めた会社を、あっさりと辞められるものなのか。上から首を切られたわけではないし、十年も勤めれば契約社員と言えども待遇はそれなりによくなっていて、給料もさほどは悪くなかったはずだ。休みも取りやすかったと思う、少なくとも正社員という身分に縛られサービス残業が当たり前の優良よりは。
 おそらく優良よりも十五歳は上、下手すると二十歳離れるだろうか。痩せて背の高い男で、長めに伸びた髪が不衛生だ、という指摘もあったが本人は知らん顔だった。身のこなしは素早く、常に急いでいるイメージだ。てきぱきしている、というよりは、急いでいる。なにかに対して常に怒っているようにも感じる。
 同僚たちは「辞めてどうすんだろうな」「宝くじでも当たったかな」とどうでもいい噂をしていた。ただ、「宇野さんに辞められて四月からどうすんだ」という話は、出ないわけではなかった。宇野の後釜は決まっていない。募集をかけて、採用して、一から教え込んで――まあおそらくはそういうのを自分がやるんだろうな、と優良は思う。入社して三年、春から四年目だ。若手よりは中堅の立場に入って来たが、まだまだ下っ端だ。契約社員がほとんどの社内じゃ、年上に指導をせねばならない機会は何度もあって、その摩擦に毎回胃を痛めている。
 三月、年度末だけあって忙しい時期だが、年休消化をせねばならないと言って、休みが増える。仕事していた方がいいんだか、無理に休まされるのもどうなんだか。することもないのでうらうらと街を歩いていた平日の昼、駅前で宇野とばったり出くわした。宇野は先日の金曜日をもって正式に退職したばかりだった。
「――え?」
 こんにちは、ではなく、そんな声が出てしまったのは、宇野のいでたちに驚いたからだ。長めの髪はさっぱりと短くなっており、日頃は制服姿でしか見なかった長身はいま、黒の革ジャンにスキニータイプのパンツを身にまとっている。三月の日差しが眩しいのかサングラスまでかける様は、どこまでも攻めの格好だ。私服姿だとこうなるのか、予想しなくて慌てた。
 サングラスを外しながら、宇野は「どうも」と挨拶をした。
「――休み?」
「はい、年休を年度内に消化しなくちゃいけなくて……宇野さんは、買い物?」
「いや、引越し」
 いでたちに驚いていたからうっかり見落としていたが、よく見ればボストンバッグを提げていた。引越し、と聞いてさらに驚く。退職してまだ一週間経っていない。
「どこに?」
「南の方」
 南へ行くには少し暑そうな格好だが、宇野の長身と相まって、黒ずくめの身なりは目を惹いた。いい意味で目立っている。それは、サングラスを外した時に思わぬ柔和な瞳が現れたせいかもしれないし、髪を切った方が似合っているせいかもしれない。いままではうざったい前髪や素早い行動のせいで、まともに顔を突き合わせて見つめあおうなんて機会がなかった。
 うっすらと浮かべた笑みは若々しく、本当の年齢はもっと下なんじゃないかと思わせた。
「宇野さんが仕事辞めるって言うもんだから、けっこう大変ですよ。なんで辞めて、引越しまでするんですか?」
「宝くじが当たった」
 答えてから、宇野はにやりと笑う。「――ってしょうもねえ噂してんだろ、あんたら」
「ばれてますね」
「あんたらは声がでかい」
「本当に宝くじ当たったんですか?」
「いや? 男に逃げられた」
「え?」
「最愛の男。俺はしつこいゲイなのさ」
 言われて、固まった。どう返事したらいいのだろう。優良の思いをさらにかき乱すように、宇野はうすく笑いながら「追っかけるための旅に出るんだ」と言う。
「とりあえず南の方面行きの切符を買ったらしいから、同じ切符を買って、あとは勘で」
「まじすか」
「まじ」
 ゲイって、男が好きって、と優良は頭の中で懸命に考える。仕事を辞めてまで恋人を追いかけるだなんて、ゲイでなくても度が過ぎている。少なくとも、そんな情熱は優良には備わっていない。あっけに取られて「まじすか」の後が続かない。どうこたえよう、と悶々としていると、宇野は「いまのがパターン二な」と指を二本立てた。
 パターン二?
「――へ?」
「三つ目は、故郷のおふくろに介護が必要になった。さて、どれがいい?」
「……こうもからかわれると、正解があるとも思えないんすけど…」
「いや、あんたあんまりいい反応するからさ」
 からからと宇野は笑った。そのほどけた満面の笑みに、優良も笑うしかなかった。こんなに喋る人だったんだな、という発見と、はじめて見た笑顔と。おちょくられたことに対する怒りは沸かなかった。
「――ゆうら」
 突然名前を呼ばれ、びくっとした。
「……さん、って、いかにも今時の名前っぽいよな」
「……あんまり気に入ってはいないんです」
 はは、と宇野は笑った。優良は、自分の名前が本当に好きではない。せめて上の苗字で呼んでくれと思うのに、歳が若いせいか、職場でも「優良、優良」と呼ばれるのが嫌だ。もっとしっかりとした響きの名が良かった。漢字も、これじゃ優等生すぎて名前負けだ。
「俺はさ、一か所に留まりたくねえんだ」
 唐突に、宇野が言った。
「安定が第一と考えるおたくらの世代には考えらんないことかもしれないけど、俺はゆらゆら漂って生きていたいのさ。だから十年はちょっと長すぎた。まあ、あんたがいたのってその十年のうちのたかが三年ぐらいだけど、」
 再び宇野はサングラスをかける。レンズの間の弦を押す、その指が長い。
「あんたの仲間らがあんたの名前呼ぶじゃん。それ聞いてる分にはいい気分だった」
 じゃあな、と言って宇野は先を進もうとする。いい気分だった、と言われたことはない。優良はとっさに宇野の名前を呼んで引き止めていた。
「宇野さん! 本当は、どれなんですか?」
「ああ?」
「辞めた、理由」
「どれだと思う?」
 後ろ向きに歩きながら、宇野は歩みを止めない。本当に行ってしまう。
「い、一番」
「はは」
「ちゃんと正解教えてくださいよ…」
 ひらりと身を翻して、宇野は片手を挙げた。吸い込まれるように駅へと進み、軽やかに、いなくなってしまった。


 後日、親展、と書かれた茶封筒を総務課の女子社員に渡された。社名に優良の部署名、優良の名前。切手の日附印は知らない局の、三日前のものだった。差出人の名前はない。
 不審に思いながら封をあけると、一枚の写真が出てきた。どこまでも青い空、青い海に白い砂浜、それをバックに男が二人並んで立っている。手こそつないでいないがごく親密な距離で肩を触れ合わせ、アロハシャツを着て、麦わら帽子をかぶっている。
 片方の男は知らなかった。強い光の下でも分かる、えくぼが魅力的だ。もう片方ののっぽの男は、知っていた。胸のポケットに挿したサングラスは、見覚えがある。
「……宇野さん、アロハ似合わねえー…」
 先日の黒づくめと言い、この変な柄のアロハシャツと言い、宇野のセンスはさっぱり不明だ。いいんだかわるいんだか。だが二人で笑っている写真を、優良は嫌だと思わなかった。
 もし優良がこの名前でなかったら、果たして宇野はこの写真を送ってくれただろうか。
 同僚に見られぬよう、大事に手帳に挟み、鞄に仕舞った。新年度はもうはじまっている。



End.



拍手[81回]

 朝食は? と聞いたら「パンケーキがいい」と答えたからとびきりのものを用意した。きみがすきなパンケーキはうすっぺたく、ナッツが入っていて、バターの利いた、ベーコンエッグの添えてあるものだ。たっぷりの生クリームとメープルシロップも忘れない。「このあまいのとしょっぱいのが一度に楽しめるお得感」と嬉しそうに話すから、僕はけっこう練習したんだ。きみ好みのパンケーキを用意できるように。
 三月三十一日の学生寮の朝は不思議と静かだ。今日、残っている卒寮生はいっせいに寮を出てゆかねばならないし、明日からは入れ替わりで新寮生が入寮する。もっと慌ただしい朝であっていいはずなのに、みな眠りを貪っている。――もっとも、卒寮生のほとんどは前もってアパートを決め引越しを済ませているので、最後まで残っているのは僕ときみぐらいだけれど。
 四年間、相部屋で過ごしたきみ。寝起きが悪くて、人に「起こして」と頼んでおいて起きない。まあ今日は、ゆっくりやっていい。寮の共同炊事場で二人分の朝食を用意していると、一階一〇五号室の後輩である西野がのそりとやって来た。
 こいつは大喰らいだ。まずいやつに見つかった、と僕は苦笑する。
「いーいにおい」
「おまえのじゃないよ。俺とハルのめしだから」
「えー、超本格的じゃないすか。おれにも食わしてくださいよ」
「おまえのはナシ。今日は、だめなんだ」
 そう、今日はだめだ。「ハルさんに聞いてくるっす」と僕らの部屋三〇三号室に向かおうとする西野のジャージの裾を慌てて引っ張った。
「おまえが起こすのも、今日は、だめ」
「最後だからすか?」
「まあなー」
 朝食の準備が出来たところで僕は部屋に戻る。二段ベッドの下、ぐうすかと眠っているきみのほっぺたをべちべちと叩いて、「起きろー」と何度も言ってやる。
「お待ちかねのパンケーキだぞ」と言ってやると、きみは目をこすりながらも起き上がった。
「パンケーキ? まじで作ってくれたん?」
「おう、まじまじ」
「鷹野のパンケーキかー」
 それじゃあ起きる、とか、まだねみー、とか、ごにゃごにゃ言いながら眠りに入ろうとする、その頭をまたひっぱたく。
「西野に狙われてっからな。食われちまうぞ」
 それを聞いて、きみはようやくベッドから出た。


 食堂には西野がちゃっかり座っていて、僕らの朝食は西野と同席となった。パンケーキを羨んだ西野ではあるが、「朝から甘いもんはいいっす」と言って自分はベーコンエッグに白米を用意した。きみが、僕の用意したパンケーキにナイフを入れる。バターと、生クリームと、メープルシロップをたっぷりかけてパンケーキを口に運ぶ。なんともあまく、かわいらしい、最高の顔をした。
「んー、あま。うま」
「そうだろ」
「鷹野、店出せるんじゃねえ? パンケーキの店タカノって、」
「表参道に?」と言うと、西野が「だはは」と笑った。
「そりゃ地元に帰って家継ぐよなあ」
 きみがしみじみと言った。まあね、となんでもない風で、僕はパンケーキに目玉焼きを乗せて頬張る。
 僕の家は洋食屋で、地元じゃちょっと有名だ。三男坊だから家を継がなくともよい立場だったが、僕ら三兄弟の中でもっとも食に興味があったのが僕だし、向いているのもまた僕だった。大学は遊び半分で進学させてもらったが、卒業したら家は継ぐ。これは四年前からの約束だった。
 食堂に差し込む朝の光に透けて、きみの茶色く染めた髪がさらに赤く見える。白い肌がまばゆく発光しているように見えて、ぼくは瞬きをした。きみと暮らした四年間、朝食の係は必ず僕で、きみは僕の食事を食べてばかりだった。そのたびにいい顔をするので、きみと同室でよかった、と僕は心から思っている。もちろん、淋しい。
 ただ、この淋しさはきみが僕に抱くものとまた、違うだろう。
 一時間半ほどお喋りをしながらきみと僕と西野の三人で食事を楽しんで、後片付けをした。食器や調理器具の類は、寮の後輩に譲る約束だ。荷物は手荷物を残してすでに実家に送ってある。夕方から行われる送迎会に出席して、夜行バスで僕は生まれ故郷へ戻る。
 ふあ、ときみが大きなあくびをした。
「まだ、ねみー」
「ほんとよく寝るよな、ハルは」
「昨夜ばかみてーに遅くまで飲んで喋ってたのにさー、朝早くてもぴんぴんしてるおまえの方が不思議だよ」
「また寝る?」
「鷹野は?」
「俺はちょっと散歩しようかなって。腹ごなしに」
 荷物はまとめきっているのですることがないのだ。
「ふうん」
「ハルも行こうぜ」
「まあ、鷹野が言うなら、な」
 素直じゃない。ばかめ、と僕はきみの頭をぐしゃぐしゃにかきまわす。猫毛のやわらかな髪。


 よく晴れていてくれて嬉しかった。僕はよく散歩をするので、歩く、となればルートがいくつか候補にあがる。住宅街の中を歩いてゆくコース。これは途中に銭湯がある。川沿いを下って市立図書館で引き返すコース。花の時期や紅葉の季節はもってこいだ。繁華街の裏手を歩くコース。これは夜は少々危険だが、昼間ならけっこう楽しい。人間を観察したいならここを歩く。
 川沿いのコースにした。桜がほころびかけているからだ。きみはスマートフォンのアプリケーションを起動させて、写真をぱちぱちと撮っていた。空、花、傾いた建物。僕にも向ける。日頃はいやがってやめさせるのだが、最後だしいいかと思って、放っておいた。きみはそれを喜んで、何枚でも撮る。
 途中、小さな商店で実家への土産を買った。こちらでよく出回っている、珍しい品種のみかん。五玉がネットに入っていて、ついでに隣に並んでいたキャラメルも求めきみに渡した。
「なに、くれんの?」
「このシリーズさ、覚えてるか? ひでえ味の種類があって、入寮早々おまえが俺にくれたんだ。キャラメルいる? って、パッケージかくして」
 さも無邪気にくれたキャラメルは、たしか黒こしょう味だとかわさび味だとか、そんなのだった。
「あったあった。よく覚えてんな。先輩からもらって、困ってたんだよ俺も」
「面白がってくせに。ひどい味だった」
「鷹野とどんなふうに仲良くなれっかなーって、探ってた頃だ、きっと」
 知らない顔同士がいきなり同室で、はじめは戸惑いも大きかった。きみは僕よりもずっと人見知りが激しいから、はじめは辛かったに違いない。ふざけたキャラメルは、僕らの距離を一歩狭めてくれた。そうやって日々を重ねるうちに一歩、一歩、と、僕らは実に親密な仲になった。
 親友、と僕は思っている。ばかみたいに笑いあい、毎朝なにがあっても朝食を共にした最高の友人。だがきみは違う。相部屋になって一年後、きみは夜、泣きながら僕のことが好きだと告白した。ごめんな、気持ち悪いよな、でも好きなんだ、ごめんな、ごめん、と。
 嫌だとは思わなかったが、だからと言って付き合う方向へは向かなかった。あのことは忘れて、と朝、きみが言って、僕はこのことを胸の内に仕舞っておくことにした。恋心に気付かないふりで、親友の体で。僕はきみにひどいことをしてばかりいた。恋ではなかったけれど、きみとは本当に、一緒に暮らせて毎日がたのしかった。
「ハルは楽ちんだな」と僕はきみに言う。
「引越しがなくて、楽」
 きみは、大学に残る。大学院に進むのだ。
「でもな鷹野、俺は緊張してんだよ。明日から相部屋になるやつどんなのだー、って」
「人見知りだもんな」
「そうそう、人見知り」
「いいやつが来るさ。あ、いっそ西野と相部屋になったらどうだ?」
「ごめんだ、あんなデブ。部屋の湿度があがる」
 ちがいない、と僕らは笑い合って、桜の咲き始めた道を辿る。


 部屋に戻ると、昼を少し回っていた。昼寝をしたい、とあくびをすると、きみは「俺のベッドつかっていーよ」と言った。僕の布団はすでに実家へ送ってしまっている。
 少し間ができる。僕は頷いて、「一緒に寝るか?」と訊いた。
 最後だから。
「腕枕でもしてやろうか」
「ふざけんなよ、ばか」
「ハルは? 寝ない?」
「俺ちょっと、買い物」
 そう言ったが、部屋を出てゆく気配がない。どうも、見られている気がする。きみのベッドを拝借したが落ち着かず、僕は「やっぱり一緒に昼寝するか?」と訊いた。
「……いや、鷹野が寝てる姿を見るのも多分これが最後だろうと思ったから、見てる」
「悪趣味だぜ、それ」
 部屋の内鍵をかけてしまえば、そうそう飛び込んでくる失礼な輩もいないだろう。「来な」と言うと、きみは数秒ためらってから、ベッドへ潜りこんできた。
「鷹野、ひでえ」
「うん」わかってる。僕のこの行動が、どれだけきみを傷つけているか。
「……俺がおまえにキスしたい、って言っても、今日は拒まねえんだろ」
「……かな、」
 途端、きみはみるみる泣きそうな顔をした。頭を掴んで、引き寄せる。「あー泣くな、泣くな」と幼い子をあやすように背中を撫でてやる。
「鷹野の、ばーか」洟をず、とすすり上げてきみは悪態をついた。
「すきだよ」
「ああ」
「鷹野、すき」
「うん」
「すきでたまんないんだ……なんで遠く行っちゃうんだよ」
 僕の胸の中で、きみは泣く。僕は背を撫で、髪に頬ずりをする。
 でも気持ちには応えてやれない。僕にとってきみはそういう対象ではなかった。ただひたすらにかわいかった。恋愛感情ととらえられなくても、愛情は、きみに対して人一倍強く感じていた。
 惜しい、けれど、今日で別れる。僕の愛情は、しょせんその程度だ。僕がそうしたいからきみを甘やかしている。僕がこうしたいから、いまこうしてきみの髪に触れている。
 きみは失恋をする。端から失恋だったのを、ずるずると今日まで先延ばしにしていた。僕は、楽しかった。ちょっと優越感もあった。そして、嬉しかった。きみに会えて。
 いつか僕にもきみにも、今日よりもっと大事な日や人が現れる。他人と感情やスペースを共有することを、自らの意思で選んで、守りたいと思う日が来る。そうしているうちにそれが当たり前になって、摩耗して、いまある純粋な感情を忘れてゆくのかもしれない。そうやって大人になって、今日のことを思い出しても、胸も痛まない日が来るのかもしれない。
 でも今日の日は、僕が生きてきた二十二年間で一番淋しいし、悲しい。きみは僕以上に感受性が豊かだから、泣いているのが、可哀想で、愛おしい。
 いま二十二歳の僕らが感じている思いをいつまでも抱えていては、大人になれない。でも僕は、忘れたくないと思う。今日を、いまを。
 だからきみ、もう泣くな。僕らは確かに共にした、時間を、感情を、こうして抱きしめあうことを。


End.





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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
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