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友臣(ともみ)のバイト先の画塾で事務員を勤めている志摩(しま)の口癖は、「あまいお菓子はいかが」だ。
年齢はおそらく三十代から四十代ほど。痩せ型で、背が高い。結婚はしていないらしく、高校の同級生であったという塾長からよく「いいパートナー見つけろよ」と言われているのを、耳にする。低く穏やかな声をしているが、実は声量がとてもあり、たまに笑い声などで、その片鱗を垣間見る。趣味があって、確か仲間内とゴスペルサークルを結成していて、そこではいちばん下のパートを担当しているそうだ。
友臣は四年制の美大を卒業したものの、就職口がなかったので美大の院に進んで、それでも就職口がなかったので、教授の口利きで大学近くにある画塾にバイトとして入った。子どもらに絵を教えたり、美大進学希望者に実技対策をしたり、趣味で絵を極めたいという人に指導したりと、ちいさいながらも幅広くやっている塾で、友臣はそこで子ども向けの絵画クラスを担当している。子どもと言っても幼稚園生から中学生と幅広い。クラス自体は友臣とベテランの女性指導員のふたり体制で、言ってみれば友臣は、アシスタントだ。子ども相手なので、時に体力をつかう。そんな折にぐったりとしながら事務室へコーヒーをもらいにゆけば、そこには志摩がいて、友臣を見てにこりと笑い、「あまいお菓子はいかが?」と訊く。
出てくるお菓子はその時々で様々だ。まるい大缶のクッキー詰めあわせだったり、近所の和菓子屋の大福だったり、奮発して買ったという高級アイスクリームだったり。大抵はポットに保温しっぱなしのコーヒーがお供なのだけれど、時間がある時には、志摩はわざわざ湯を沸かして、丁寧に中国茶を入れてくれる。志摩のルーツが中国にあるとか、そういう訳じゃない。ただ、若い頃に旅行先で飲んで中国茶にはまり、以来、日常的に飲んでいるんだ、お菓子にも食事にもなんでも合うし、と志摩は言っていた。
その日も、志摩に「あまいお菓子はいかが」と声をかけられ、友臣は「いただきます」と応じた。先ほどまで子どものクラスの面倒を見ていたが、今日はこの後すぐ、受験生向けクラスに向かわなければならない。シーズンだから人手が足りないと言って、応援要請を受けたのだ。「じゃあ手っ取り早い方がいいね」と志摩は言い、紙のパッケージを封切って大きくてまるいビスケットを取り出した。海外旅行に行った友人からの土産だと言い、パッケージには「ginger & chocolate」と書かれていた。齧ると確かにジンジャーの味がして、なかなかスパイシーなビスケットだった。
コーヒーと交互に齧ると、美味しかった。疲れた身体に沁みるようだった。ほう、と身体を緩ませる。普段はふたりいる事務員のひとりが今日は風邪で休んでおり、事務室には、志摩と友臣しかいなかった。年上といえども、志摩は緊張感を強いる性格の男ではなく、むしろ逆だと言える。心地よい、と感じた。
志摩が「そういえば友臣くんはどんな絵を描くの、」と訊いた。にこにこしている。友臣は「抽象画です」と苦笑まじりに答えた。
「具体的なものを描くよりも、線とか点とかをひっぱったり配置したり、色で遊んだりする方が好きなんです。――あ、去年の展覧会のDM持ってます。見ます?」
「見たい、見たい」
志摩が興味津々に答えるので、手帳に挟みっぱなしになっていたDMを取り出して、志摩に渡した。大学の修了展のときにつくったものだ。はがきサイズのDMに印刷されているのは、こってりと塗ったカラフルな下地にあらゆる線が乗っている、というもので、実寸は二メートルもある巨大な絵だ。友臣としてはここに自分なりの哲学があり、宇宙があり、存在意義が込められているのだが、それをなかなか汲み取る人間はいない。ただ、ポップでカラフルで綺麗、そういう感想が多かった。
志摩もまた、うーんと唸り、「友臣くんらしい色あいだね」と言った。
「カラフルで賑やかだ」
「そうですね。よくそう言われました」
「でもちょっと淋しい?」
「え?」
「いやさ、心理学なんかで、携帯電話や鞄や車のキーなんかにマスコットやキーホルダーをじゃらじゃらつけている人たちは、淋しいんだ、とか言うじゃないか。なんだかそういう色あいであるような気がしたから」
「そんなに考えて描いてないですよ。おれにとって心地いい色あいだから、」
「うん。あかるくていい色あいだと思うよ。きみらしい」
と志摩は言い、コーヒーを口にする。友臣は、なんだか自分の気持ちを言いあてあられたようで、ひやひやしていた。しばらく考え込み、それから「――まあ、そうなんですよ」と答えた。
「おれ、淋しいです。この淋しさは一体なんだろう? っていつも考えます。それはひょっとしたら、恋人でも出来たら解消する淋しさなのかもしれないけれど、でもちょっと、違う感じがして、」
「……そうだね、分かる気がする。淋しさと人恋しさって、きっと決して、イコールではないよね」
「うん、かも。……あの、歳を取ればうすれていくものなんですかね、これは」
「俺の経験から言えば、うすれないよ。躱し方を覚えるだけ。仕事に打ち込むとか、趣味に走って発散するとか」
「……そう、ですか、」
「でも、友臣くんくらいの年齢のころは、俺も淋しかった。淋しさから、無茶もけっこうやった。そういう衝動を伴うよね、淋しさ、ってのは」
「無茶、やったんですか?」
「そりゃあ、まあ、ね」
志摩は苦笑してみせた。同時に予鈴が鳴り、次の講義へと、友臣を立ちあがらせる。「じゃあおれ行きます。ご馳走様でした」と言って事務室を出て行こうとすると、志摩に「友臣くん、」と呼び止められた。
「いま恋人いない、ってさっきの発言を受け止めていいんだよね」
「うん、……いない、です」
「淋しい、とも言ったね」
「言いました」
「じゃあ、ちょっと考えてほしいことがあるんだ。俺と付きあって。――どうかな、」
唐突な告白は、きちんと意図が汲めた。近所の散歩に付きあってとか、そんな意味ではないということが分かる。面食らった友臣はぽかんと口をあけたまま、立ちつくした。志摩は頭をかりかりと掻く。
「……その、ね、友臣くん。きみが淋しいなら、俺が話し相手になろう。深夜までだって電話に付きあうし、こうやってお茶したりして、その、きみにとってわるい話じゃないと思う。飽きたり、嫌になったり、煩わしくなったりすれば、その場でポイ、で構わない。なかなか、きみにとって有利な話だと思うよ。ま、……俺は男、っていう最大の難関はあるけれども」
「……志摩さん、」
「その、きみさえよければ、考えておいてよ。引き止めてわるかったね、」
そう言われて時計を確認すれば、実技の開始時間まであと一分しかなかった。友臣は慌てて事務室を出て、階段を駆けあがる。こんな時に限って、三階の一室で実技などやるのだ。
走ったせいなのか、志摩の思わぬ告白のせいなのか、心臓がどきどきと痛んだ。
(なんだあ、ありゃ……)
言葉の余裕さとは裏腹に、すがるような、頼りない目をしていた。大人があんな顔をするんだな、とも思った。嫌だとは思わなかったが、気持ちが暴れている。整理をするにも、場所や、時間や、状況や、色んなことの余裕がほしいと思った。
(心臓、痛い)
講義中も不意に志摩の表情や言葉がフラッシュバックされて息が詰まるのだから、参った。
→ 後編
トップページでもちょこちょこ情報を更新したりしていますが、今月は電子書籍が配信になります。
諸々の情報が解禁になりましたので、お知らせにあがりました。
*「はじめての恋は甘くせつなく~全部あなたが教えて~」
(フルール文庫ブルーライン/KADOKAWA メディアファクトリー)
(クリックで大きくなります。)
イラストレーションはぱんのららら先生。フルール読者の方ならば、月間星座占いのイラストでおなじみですね。
12月15日(月)配信です。年内に二作も出せる運びとなってうれしいです。
電子書籍化に当たりまして、「はじめての恋、ひかりの寧日」から改題になりました。
書き下ろしSSつきです。前川・真山のその後、冬のはじめのお話を書かせていただきました。
ぱんの先生のイラストは、ああ原画が見たい……と思うほど、色彩が豊かで、あたたかです。
ポイントは、前川。ネクタイをくしゃっと適当に胸ポケットに突っこんでいるところ。それから真山のシャツ+ニット、という地味感。私よりふたりに詳しいのでは……? とラフをいただいた時に驚愕しました。
ありがとうございます。
クリスマス前の配信になるので、読んでくださる方々にとっての、プレゼント感覚になればいいなあ、と願っております。
寒い冬の日がぽっと暖かくなりますように。そんな気持ちでいます。
冬ですね。
私の住んでいるところでも雪が積もりました。
明日、寒さの谷がやってくるとか。あたたかくして、よい週末をお過ごしください。
少々、奇妙な電話がかかってきたのは、散る葉の音がかすかに聞こえてくるぐらいにしんと静まった秋の夜だった。
『ツバキさん、のお宅でよろしいでしょうか?』
「どちらさまですか?」
『小山、と申します。M大の三年で、M町に住んでいます』
M町、といえば僕が住んでいる町で、M大、といえばこの町にある国立大学の名前だった。この辺の一般的な子どもらの、進学先だ。まだたどたどしい口調から、セールスの類ではない、ということは理解できたが、なぜM大の学生などが僕の自宅に電話を寄越すのか、分からなかった。
「何用でしょうか?」
『少し、お伺いしてみたいことがあります。直接お会いすることは、叶いませんか?』
突然電話をかけて、突然会ってみたいという。一体どういう心理だろうか。考えていると、小山青年は慌てて『興味があって』と自身の用件を詳細に話しはじめた。
『先日、町の商店街で、フリーマーケットがありました。僕のアルバイト先は商店街のベイカリーで、商店街の一員として、僕もフリーマーケットに参加しました。チラシ配りですけれど。それで、休憩時間に、フリーマーケットを覗いてみたら、がらくたのようなおもちゃ類と一緒に、本を出されている方がいらっしゃいました。本は段ボール箱に詰められて、take free、と書かれているんです。僕は文学部に所属するぐらいには本が好きなので、中を覗くと、僕の大好きな作家である、N先生の作品がずらりと並んでいました。先生、とお呼びするぐらいに好きな作家なんです。箱の中には、N先生がデビューされる前後の、初期に書かれた本、単行本や同人誌が、並んでいました。N先生がファン向けに出されている会報誌もありました。会報誌はバックナンバーがすべて揃っていて、感動しました。この町に、N先生の熱烈なファンの方がいらっしゃったと。単行本は、いまなら手に入らないような初版本ばかりです。同人誌ももちろん、僕ははじめて見ました。僕は本当にタダで持って行っていいのか、と、売り子に聞きました』
そこで小山青年は興奮を冷ますように息をちいさく吐き、また続けた。
『売り子は、おれには価値が分からねえ、好きに持って行け、と言いました。なんでも、知人から適当に処分するように頼まれた品だそうです。それにこれは、汚損があるから、とも言いました。中身をめくってみると、鉛筆で棒線が引っ張られていたり、染みが出来ていたりと、確かに汚損がありました』
「……」
『ですが、読めます。破られているとか、そういうひどい汚損ではありませんでした。僕は売り子に箱ごとください、と言って、段ボールをふた箱、引き取ってきました。家まで持ちかえるのが大変でしたが、満足でした。それで、家に帰って、改めて本を眺めました。――すみません、聞いていらっしゃいますか?』
「ええ、真剣に聞いていますよ」
『良かった。一から説明しないと気が済まない性質で、……続けます。それで眺めれば眺めるほどに、これらの本が大切に熱心に読み続けられた本だということが、分かってきました。本の最後に、なにかを剥がした痕があるのを見つけました。どの本にも、最後の一ページにそれの痕があるのです。おそらく、蔵書票だったと考えます。四角い痕が残されていました。何冊もめくって、そのうちのひとつに、インクのかすれが残っているのを見つけました。かすれ文字は、よくよく読んで、ローマ字で、TSUBAKI、と読めました』
「よく読みましたね」
『ああ、じゃあやっぱり、この本はあなたのものだったのですね。その後で電話帳をめくって、この町に、椿、という苗字の家が一軒だけある、というのを知りました。椿、は名前である可能性もあったのだけれど、こうして、思い切ってお電話差しあげた次第です』
「それはそれは」
小山青年の熱心な口ぶりは、ぼくを微笑ましい気持ちにさせた。
「確かにそれらは、ぼくの本でした。知人に処分を頼んだのも本当です。それで?」
『疑問があって。あんなに熱心に読まれていた本を、あんな場所に出すなんて、と。手放してしまった理由を知りたいんです。そしてもし、いま、N先生のご本には興味をなくしてしまわれたとしても、たとえばいまなにを読んでいるのかとか、そんなことが聞きたい。つまり、本の話がしたいのです』
「なるほど」
たった一本の電話だけで、ぼくは小山青年に会おうという気になった。本の話なら、ぼくもしたいと思っていた。自宅に来られるかと訊くと、「住所さえ分かれば」という返事だったので、自宅に招くことにした。三日後の昼過ぎに、小山青年の訪問が決まった。
三日後、現れた小山青年はぱんぱんに膨れたトートバッグを肩から提げていた。ひょろりと背の高い、眼鏡をかけた青年で、いかにも文学部の青年らしい佇まいだった。家に入ると、脱いだ靴をきちんと揃えた。行き届いている躾に、好感を持った。
居間に通し、青年が持参した焼き菓子(いわく、祖母の手作りだという、いちじくのタルト)にコーヒーを入れて、カウチに向かい合わせに座った。小山青年は部屋の様子を眺めていたが、脇に置いたトートバッグから本をいくつも取り出すと、それらをテーブルの隅に重ねた。
「これが先日、僕が手に入れた本です」
「うん……間違いないね。たしかに、ぼくのものだった」
覚えている、コーヒーをこぼしてうっかりつくってしまった染みも、これは、と思った個所には鉛筆で書いた、その棒線も、最後のページに貼った蔵書票の痕も。たった数週間ぼくの手元を離れていただけだったのに、とても懐かしかった。
「そういえば椿さんは、蔵書票作家としてご活躍なんですね」
と、小山青年が言った。
「蔵書票作家というより、版画家、なんだけどね。蔵書票を頼まれることが多くて、いつの間にかそういう名称がついてしまったよ」
「作品を、ホームページで少しだけですが、見ました。白黒で、細かい模様が細部にまでわたっていて、とても素敵だった。あの、最後に貼られていた蔵書票も、ご自分でつくったものなのですか?」
「そうだね。でも、いまはつかっていない」
「……」
「どうしてあの本を手放したか、だっけか。ぼくの話長くなるけど、聞く気、ある?」
「もちろん、そのために来ましたから」
「ん、じゃあ、話そうか。あのね、ぼくもね、作家のNのことは、先生とお呼びしたいぐらい、大好きなんだ」
いまから二十年以上も昔になる。ぼくはまだ学生で、N先生のことは、当時はまだ知らなかった。大学に入って、僕は芸術コースの版画専攻だったから、あの頃からそんなことばかりしていたんだけど、偶然、隣の大学の文学部だってやつに知りあってね。下宿先が同じだったんだ。すぐに仲良くなったよ。彼は芸術のことはさっぱり分からないと言っていたけれど、ぼくのすることに興味を持ってくれた。蔵書票をつくってくれないか、といちばんはじめに依頼してきたのも彼だ。
彼の部屋には本しかなかった。床がたわんで、底が抜けそうだと心配したぐらいに本ばかりだった。中でも、彼がいちばん気に入って熱心にコレクションしていた作家が、N先生だった。ファンクラブに入り、新刊が出れば即購入した。あのころ、N先生はまだデビューしたばかりだったのに、すでに熱狂的なファンがいて、彼もまた、そのひとりだった。サイン会があれば出かけた。ファンレターを何度も出して、返信が来た時は狂喜乱舞していたほどだったよ。
彼にすすめられてぼくも本を読むようになった。N先生の文章はリズムが良く、流れるようで、日ごろ本を読まないぼくにも水を飲むようにするすると読めた。次第にぼくも虜になって、N先生の本を揃えるようになった。雑誌に掲載されれば、掲載誌を買って、同じく掲載誌を買った彼と、朝まで語りあう。そんな日々を送って、ぼくはとてもしあわせだった。
本を読む理由は純粋に「面白い」からだったけれど、もうひとつ、よこしまな理由があった。ぼくは彼が好きだったんだ。
彼の傍にいたかったから、本を買って部屋に押しかけた。語らいあえる時間は、幸福そのものだった。彼が本に夢中になるときの、下がって目元を覆い隠す前髪や、あぐらや、角ばった手指を、いまでもありありと思い描ける。
もちろん、ぼくは男だ。失恋は決まったようなものだった。彼には中学校時代からのつきあいのある彼女がいて、大学卒業後は結婚をしたい、と言っていた。はじめから失恋だったんだ。それでも好きだった。
彼の蔵書票には、「羽鳥」という彼の姓から、鳥と風紋を描いた。ぼくの蔵書票は、花、椿と、月を描いた。両方あわせると花鳥風月になる、というつくりで、それを彼は、気に入ってくれた。ずっとつかうよ、と言って、だからぼくは何枚も蔵書票を刷った。もちろんぼくのほうは、少しでも彼とつながる方法がほしくて、考えた図案だった。
大学を卒業して、彼は彼女の待つ、故郷へ帰った。たくさんの本と一緒に。
ぼくの手元には、N先生に関する膨大な本が残った。叶わぬ恋なのだから捨てようかと何度も試みたが、出来ず、新刊が増えるたびに、蔵書は増えていった。そうこうしているうちに、二十年なんてあっという間に過ぎてしまった。
春になって、なんていうのかな、唐突に、本を持つ必要がなくなった。もう、N先生を追いかけるのは、やめにしたんだ。だから蔵書票を剥がして、知人に処分を頼んだ。
喋るとさすがに喉が乾いた。コーヒーを飲み、頂いたタルトも口にする。頬張るとそれは甘く、じゅ、といちじくの水分が口の中に広がって、とても美味しかった。
「……なぜ、本を持つ必要がなくなったんですか? 必要がなくなったというよりは、嫌になった、んですか?」
「……」
「その、N先生の著書と、好きだった男性のことを、重ねていらっしゃったんですよね。だから……」
青年はしらばく言葉を選んでいたが、やがて黙った。問いに、ぼくはそっと笑って見せる。
「確かに、N先生の本を持っていることがつらい時もあったよ。でも言っただろう、いまは、必要がなくなったんだ」
おいで、と言ってぼくは小山青年を立ちあがらせる。居間を抜け、廊下のいちばん奥の部屋をノックすると、しばらくの沈黙の後に、「いいよ」という返事があったので、扉をあけた。
「仕事中、申し訳ないね、セイジ。ちょっとN先生の本、漁らせてくれ」
「あー、好きにどうぞ」
ここは書斎で、書庫でもある。文筆業をしているセイジの仕事をする大きな机があり、他は、すべて本で埋まっている。小山青年は興味深げに辺りを見回していたが、ぼくが手招きすると、通路にまで積み上がる本を崩さぬように慎重に歩いて傍までやって来た。
その、壁に据えられた本棚には、N先生の著書がすべて揃っていた。青年は目を瞠り、ふらりと本棚に近付く。
ぼくが処分を頼んだ本とまったく同じ本が、ここには揃っている。
「――どういうこと、」
「一冊取って、蔵書票を確かめてごらん」
ぼくが言ったとおりに小山青年は一冊手に取り、裏からページをめくる。最後の一ページに貼られた蔵書票は、花と鳥が描かれている。『TORITSUBAKI Exlibris』というのが、ぼくらのあたらしい蔵書印だ。
「彼は――羽鳥は、いま、ぼくの傍にいる」
机に向かって黙々とペンを滑らせているセイジの方を、顎で示す。仕事に夢中になっているセイジは顔をあげない。髭面の、昔より老いた横顔を見て、ぼくはセイジと語らった二十代のはじめを懐かしむ。
小山青年を見ると、彼はぽかんと口をあけていた。
「お互い、一緒になる決心をしたから、本を一冊ずつ持つ必要がなくなった、というわけさ」
「――」
「きみのような人に本が渡って、ぼくは嬉しく思う。本は、物語は、作家の創造であり、憧れであり、あるいは嫌悪であり、すべてで、いわば、魂だと思う。それを読み解けるぼくらは、感動を喜びとして受け取るという、幸福を知った。人生が豊かになる魔法だ。――きみにとっても、本がそういうものであればいいなと、思う」
そこまで喋ると、机に向かっていたセイジが「ふっ」と吹き出した。話半分でも、ぼくの台詞を聞いていたらしい。書く手を止め、こちらを振り返った。
「N先生の本、好きなのか」と小山青年に訊く。
「大好きです。素晴らしいです、N先生は」
「そうか。じゃあまた、遊びにおいで。N先生や、本について語らいたくなったら、いつでもここへ来るといい」
「はい、ありがとうございます」
小山青年は、セイジの言葉にとても嬉しそうに頷いた。ぼくも微笑む。
「きみにも、蔵書票をつくってあげよう。きみには、どんなモチーフが似合うかな」
そう、ぼくは言った。
その後、小山青年とは日が暮れるまでたっぷりと語らいあい、夕飯まで食べて、帰宅して行った。セイジは一向に書斎から出ては来なかったが、夜も十時をまわろうかというころ、「腹減った」と言って書斎から出てきた。
「タルトとコーヒーがあるよ」
「へえ、しゃれた夜食だな。あの男の子は帰ったのか」
「帰った。でもまた来るって」
「うん」
タルトを切り分け、トースターで温める。(セイジは、焼き菓子は温かい方を好むのだ。)そのあいだにコーヒーをゆっくりと淹れる。カウチに深く座り込んだセイジは、「ああいう若いの見ちゃうとさ」と言った。
「なに?」
「歳取ったな、って思うよな」
「学生時代に出会って、もう二十年以上経つから」
「おまえ、いま、楽しいか?」
「楽しいよ。――だって、きみがいるからね」
セイジは、大学を卒業して一度は故郷に戻ったものの、数年前にこちらへ再びやって来た。本格的に一緒に暮らしはじめたのはこの前の春からで、時間はかかってしまったけれど、ぼくが学生時代に思い描いていた未来を確かにいま、手にしている。
一緒に暮らせること。傍で、セイジを飽きることなく眺められること。セイジのために食事を用意してやること、あるいはその逆があること。一冊の本を共有できること。
幸福が胸に迫る。しかしそれは泣きそうなほどの情熱を伴った感動ではなく、こんなにも安らかで穏やかで、しんと静かだ。
かたかた、と北風が窓を叩く。もうじき冬が来る。
「週末は、落葉を見に行こうか」
唐突に、セイジが言った。
「弁当と、N先生の本を持って」
「小山くんも誘う?」
「うーん、どっちでもいいかな。うん、どっちでもいい。いても、いなくても、どっちでも楽しい」
「いい子に本が渡ったね」
「ああ」
手招かれ、コーヒーとタルトをセイジの元へ運ぶ。テーブルへ置くと、隣に座るように促された。
セイジはそのまま、ぼくの肩に頭を預けてきた。
「いい夜だ」
セイジは微笑んだ。いまこの瞬間を、ぼくはうれしく思う。
ぼくと、セイジと、N先生の本と、それらを語りあえる仲間のいる日々。
End.
愛、という厄介なもののことについて考えるのは、高坂が愛に対して疑心暗鬼だからだ。幸福になりきるのを、どこかで拒んでいる自分がいる。こんなに心をまるごとすっかり委ねてしまって、いつか来るだろう別離のときが怖い。つきあうとき、日野は「みんなひとりだ」と言った。「ひとりが寄り添ったり集まったりしているだけだ」と言い切る彼もまた寄り添うことの悲しみ苦しみを知っていて、そんな日野とだからこそ添い遂げる決心をしたけれど、その恐怖からすべて解放されたわけではない。たまにぞっと、背筋に寒気が走るほど、怖くなるときがある。
愛ってなんだろうな、と漠然と考える。答えは出ないのを承知で。たとえば日野に対して、眠そうにおおあくびしている姿を微笑ましいと思ったりすること、起きぬけの気だるい表情になぜかむらっと性欲が湧くこと、「しょうもない人だな」と言って、延々と考えをループさせてしまう高坂の頬にそっと触れるその熱量に、つきりと心臓が痛むこと。それらも次第に、慣れて飽きてしまうこと。いや、こういうのは恋の領域なのか? とりとめもなく考えをめぐらせながら、風呂に浸かったりなど、する。こんなことを考えてしまう自分はつまり、日野に骨の髄まで参ってしまっているのだし。
日野が「Kに行こう」と誘うので、日野の店の定休日に合わせて高坂も休みを取った。特別快速が走っているおかげで、さほど多くの乗り換えをせずに、Kまでは一時間足らずで行ける。古い寺社が有名な街で、高坂はKに来たことがなかった。「けっこう歩くよ」と日野が言うのを適当に聞き流していたが、案内板に「K宮まで徒歩三十五分」だの「ハイキングコース4.5㎞」だのと普通に書かれているのを見て、いつもの休日の服装、いつもの靴でやって来た自分を、軽く後悔した。
「ここの、弁天様祀ってあるとこ行きたい。徒歩二十五分だって。バス、つかう?」案内板を覗き込みながら日野が高坂に訊ねる。
「あー、いいよいいよ、おまえに任す」
「じゃあ、ゆっくり歩く」
「なんで弁才天? 水や芸術の神様だろ、あれ」
「弁才天の才が財の言い代えで、財宝の神様。商売繁盛」
「ああ、なるほどね」
なんでもありだな、などと言いながら、ゆるい坂道をのぼっていく。途中、山側の道へ折れる。最後の坂は、かなりきつかった。岩をくりぬいた参道に気分はけっこう上がって、抜ければかなりの人で賑わっていた。
「平日の午前中なのにな」
「修学旅行生とぶつかったっぽい」
セーラー服を着た中学生と思われる体躯の少女や、スクールセーターを着た男子学生の姿がちらちらしている。日野と高坂の傍をきゃあきゃあ言いながら走り抜けてゆくのを、高坂はややうっとうしく思い、日野は「元気がいいな」と微笑んで眺める。
お参りを済ませ、土産物やお守りの類をひやかして眺める。人の多さに、というよりも学生のうるささに少々うんざりしていた高坂は、早々に場から退きたかったが、日野が「お守り買ってく」というので休憩用に備え付けられた竹製のベンチに腰かけて待った。見上げれば、青空にうろこ雲が浮かんでいる。そういえば今朝はけっこう冷え込んだ。歩いたからいまは身体が火照っているが、紅葉がはじまっていたり、風がつめたかったり、気付けばすっかり秋だった。
日野は店用に商売繁盛のお札を買った。来た道を戻ろうとして、さらなる学生の集団が前方からやって来たので、気が変わって、裏から出た。山を切り崩して建っているので、裏道もまた、すごい坂だった。くだり切る直前でまた別の寺社への看板が出てくる。今度は稲荷と来た。
「本当に寺社の数が多いんだな」それはもう、呆れるぐらいに。
「寄り道して行っていい?」と日野。
「お稲荷さんなんか興味あんのか?」
「いや、こっちの方は人が少なさそうだと思ってさ」
「ふうん」
せっかくKまで来たしな、ということで、もうしばらく歩くことにした。参道に入る前に縁結びだという十二面観音があって、誰もいないさびれた御堂だったが、日野は賽銭を投げ入れて礼をした。「なんで?」と訊けば、「お礼」と言う。「神頼みはしてないけど、良縁は結んでもらったから」
「……悪縁かもしれないぞ」
「それはそれで死ぬまで離れなさそうだから、いい」
日野が笑う。高坂は目を閉じて、不意に訪れた動悸をやりすごすように息を吸う、吐く。
この稲荷もまた、山の中腹の立地だったから、階段がきつかった。延々と連なる赤い鳥居の下を歩いてゆく。苔むして、明らかに先ほどまでとは空気が違った。誰ともすれ違わないのがいいと思った。息を切らしながら、ようやく鳥居を抜ける。
境内までたどり着いて、日野が案内板を読んだ。「ご利益……商売繁盛、家内安全、芸能上達」
「今度は家内安全でも願っておくかな」
「人、誰もいないね」
「あんまりご利益をうたうような有名な神社じゃない、ってことなんじゃないか」
賽銭を投げ入れ、礼をして、目を閉じる。日野と過ごす日々を願う中で、本当に最後は一緒に死ねたら、いますぐ一緒に終われたら、ということをちらりと思った。目をあけると、日野はもう参拝を終えていた。こんな山の中の小さな神社であるのに、お守り、おみくじ、土産に占いと商売に余念がない。日野はそれを面白がって、「おみくじやろうよ」と高坂を誘った。
「おみくじなんて、いつ以来かな」
「俺、多分、小学生の家族旅行で姉貴と一緒に引いて以来」
「どこ行ったの?」
「あの時はどこだったかな。確か、四国の、」
百円支払って順番にみくじを引いた。結果は日野が中吉、高坂が吉。どっちが良かったんだっけ? などと言いあいながら、互いの手元の紙くじを読む。願望、時をまて叶う、転居、うつったほうがよい、学問、はげめ。
恋愛、愛しぬくこと、と書かれていて、高坂は寸の間、息が詰まった。
隣の日野に「どうだった?」と訊けば、日野はふっと笑ってみせた。「恋愛のところ、すごいこと書いてあった」
「なに?」
「『愛しぬくこと』」
「……」
「あれ、滋樹も一緒?」
運勢も他の項目も一致しないのに、するはずがないのに、恋愛のところだけはふたりぴたりと同じことが書かれていた。あいしぬくこと、と口の中だけで呟く。たかが百円のみくじでも、その言葉は、確かに響いた。みくじを結ぶことはせずに、そっとポケットに仕舞いこむ。
「中吉と吉とで同じことが書いてあったらだめだよな」と、誤魔化すように軽く笑った。
「こういうのって、あらかじめ文言が決まってて、ランダムに印刷されてるだけなのかな」
「そうかもな」
なんとなく境内にとどまって、自販機で買った水を飲んだ。隣にいる日野のことが、愛おしくてたまらない。山道をのぼったせいで火照った身体がようやく冷えてきたころ、高坂の方から「そろそろ帰ろうか」と言った。
「滋樹」と手を引かれた。振り返ると、日野の目は静かに、情熱に燃えていて、高坂は息苦しくなった。たまらず、引かれるままに、高坂の方からも日野に身を寄せる。無我夢中で、キスをした。こぼれる吐息が熱い。こんな場所でなければ舌を差し込んだものを、と歯がゆく思いながら、くちびるだけを丁寧に重ねあわせて、慎重に離れてゆく。
そのまま抱きあいながら佇んだ。
「……人来たらどうしよう」
「そうだね」
「こんなところでこんなことしてたら、ばち、当たりそうだよな」
「うん」
耳元でさも苦しげに、日野が「あいしぬくこと……」と囁き、高坂は大きくふるえた。その身体を、日野はますます強く締めあげてくる。ぎゅっと腕の中に閉じ込められて、高坂もまわした手を締め返す。
「帰ろうか」
「うん」
同じところへ帰るのに、名残おしみながら、身体を離した。
愛とはいったいなにか、と、帰る道々でやはり高坂は考えた。こんな風に突然湧き上がってくる、くるしいほど身体をぶれさせる感情の、正体。
これで帰れば、ひとまずふたりは、はらごしらえをするのだろう。きっと日野が今日も美味しいものを用意してくれる。ひょっとしたらそのために、帰り道の途中で食材を買い足してゆくかもしれない。
食事の前に、高坂は風呂に浸かりたい。たくさん歩いて汗をかいたから。日野が食事を準備してくれているあいだでいい。おそらく日野も食事をした後、入りたいと言うだろう。
そして多分、まだ陽の出ている時間から寝室に引きこもって、身体を、心を、むつみあわせる。高坂は日野の青いシャツを脱がせるところまで想像している。日野が自分の肌に歯を立てることを、ゆるす。まどろむように求めあいながら、愛しぬくことを、噛みしめながらきっと日野とセックスする。
そう、愛しぬくこと。それを高坂は、考える。怖がりながら、でも、至極前向きな気持ちで。
End.
電子書籍化、ありがとうございます。
イラストレーションはユカジ先生です。
青がとても綺麗で嬉しいです。
名前のところにもちゃんと青が乗っているんです。デザイナーさんのナイス仕業です。嬉しいうれしい。
サムライ・ブルーならぬヒノ・ブルーと呼んでいいでしょうか。
トップページの仕事情報にも貼り付けておきたいと思います。
10月15日配信開始です。どうぞよろしくお願いします。
ちなみにですが、電子書籍をお勧めする際に、「フル恋い。」(フルール×うた恋い。電子書籍入門マンガ&ブックガイド)のお目通しを推奨しております、勝手に。
分かりやすいし清少納言ちゃんかわいい。
もう電子書籍なんかさくさく活用されている方も、いや分からんという方も、フルールさんのトップページのバナーより、ぜひ一度。
続いてもうひとつ。
本日のフルールさんの更新で、「はじめての恋、ひかりの寧日」後編が掲載になっています。
フルールさんのサイトへ。
編集部さんのtwitterもどうぞ。
書道に関しての思いは前回語ったので省略。
こちらも楽しんで頂けると嬉しいです。
ぜひご感想もお待ちしています。
*ずいぶんと遅くなりましたが、「楽園」掲載時にご感想を送ってくださった皆様、ありがとうございました。編集さんから転送して頂いたものを、嬉しく思いながら眺めています。
本当に励みになります。ありがとうございます。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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