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たかだか朗読で、と高をくくっていたが、村上の朗読は確かに上質で、三崎はすっかり眠ってしまった。朝、すっきりと目覚め、隣ですうすうと眠る村上を見て、三崎は、嬉しかった。健全であるように思えた。村上が、心底ありがたかった。野口とのセックスは悪くないものだったけれど、一生こうやってでしか眠れなかったらどうするんだろうな、という不安はないわけじゃなかった。それは気が遠くなる、漠然とした、具体的には口に出来ない類の不安で、付きまとわれていい気はしない。それが解消したように思えた。(もっとも、村上の声を失ってしまったらまた眠れなくなるのかな、とも考えたが。)
村上が「いいよ」と言ってくれたので、三崎はなんの不自由もなく、村上の元へ通った。毎晩、朗読してもらった。職場から本を選んで持ってきて、村上に読ませた。ベストセラー作家の処女作、児童向けの童話、短歌集、古典、哲学、なんでも読ませた。
寝場所を共にすることは、ほぼ、家に帰らないことと同義になった。村上の家には三崎のものが増えていった。まず着替え。歯ブラシ、シェーバー。気に入りの入浴剤。本、DVD、三崎の部屋でかろうじて育てていた多肉植物(野口が、いつか飲みに出かけて酔っぱらって買って寄越した)も村上の家に移した。夕食、朝食も共にして、昼食も、余裕があればふたり分の弁当を詰めた。洗濯は村上の部屋で一緒にまわしてしまう。
村上の朗読も良かったが、話すのも楽しかった。適当に言い散らかしているだけで、お互い、収集をつけようとしないのがかえって新鮮で良かった。なにより、考えずに済むのが楽だった。野口といるより断然楽で、それはやはり、野口の彼女に対する後ろめたさみたいなものを薄々感じとっていたせいだろうな、と思った。
あ、そういえばもう二十日もセックスしてない。それを乾燥状態というのか、安らぎというのか、よく分からないが、すっきりと眠れればどっちでも良かった。いつの間にやらもう年末で、今年はいつ帰って来るんだ、というメールを弟から受け取って、なんだか我に返った。村上の部屋は静かで、クリスマスのきらめきも、年始へ向かう慌ただしさも、感じられなかった。
村上の、自由な暮らしを好ましいと思った。なんにも縛られずに生きている。「ずっとバイトでいいさ、楽だから」と言う引っ越し業者の仕事は性にあっているようだったし、ふらりとネコと散歩に出かけては空の写真を撮って帰ってくる、気ままさ、みたいなものに憧れすら感じた。交友関係は少ないようだったが、ひとりが平気、という人間はいる。おそらく村上はその類で、ネコ一匹との暮らしを芯から楽しんでいるようだった。ストレスフリーな生き方。だからこそ出せる上質な声音。三崎にとっての安心そのもの。
実家に帰るのは面倒くさいな、と受け取ったメールを眺めながら呟くと、村上は「正月、休めんの?」と訊いた。
「正月は休館するよ。休みはある。忙しいのは、蔵書点検の時期かな。三月」
「あー、三月っておれもめったくそ忙しい」
「引越し屋ならそうだよね」
「そうそう。どっか、行く?」
ベッドでふたり寝転んで、好き好きに話を転がせて遊んでいた。話の方向が具体的になって、三崎は隣の村上を見た。
「正月。初詣とか」
「ふたりで?」
「誰か誘ってもいいぜ。どうせこの分だと、あんた、この家で寝正月だろう」
それはその通りだと思った。実家に帰らなければ、自分の部屋にも帰りはしない。せいぜいが郵便物を覗きに行く程度。村上の部屋で年越しをするつもりはなかったが、帰らないということは、つまりそういうことだった。
「野口先輩でも誘って、どっか詣でようか」
「先輩はこの時期必ず実家に帰るから、多分呼んでも来ないよ」
「じゃあふたりでいいか。あ、そうそう、ここ行きたいと思ってた」
村上は雑誌を取り出して、ページをめくる。旅雑誌で、表紙には地元・Sの名があり、特集を謳っていた。雑誌に掲載されるような場所へ行くのは面倒だな、と思った。Sなら近場ではあるけれど、わざわざ出かけたくない。
村上が指差したのは、一ページの四分の一にも満たない小さな記事だった。写真のほかに紹介文が三行ほどあるだけだ。Sにある有名な神社の参道をくだった傍にある、銭湯の記事だった。
「元旦でも営業してるの?」と三崎は村上に訊ねたが、村上は「さあ?」という顔で首を傾げた。
「営業してなかったら寄らずに帰ってくればいいし、営業してたら入ればいいんじゃないのか?」
「Sって寒いよね。ここら辺より気温が二・三度下がる」
「行きたくないか」
村上は細い目をさらに細くして、微笑む。子どもみたいにだだをこねているだけの三崎を、そっと笑っている。三崎も微笑んで、首を横に振った。行きたくないわけじゃない。
「行く」
「決まりだな」
「何時ころ出かける?」
「起きてから決める」
そういう自由なところを、いいと思った。
S駅へ行くのに、最寄駅から二十分ほどかかる。超える駅はみっつ。車で行ってもちょうどよいドライブになる距離だ。元旦の朝に目が覚めて、同じく目を覚ましていた村上と視線が絡んで、彼が「行こうか」と微笑んだから、午前中の電車に乗った。車内は空いていて、向かいの席には四人組の大学生が座っていた。行先は同じくSだと、聞こえる会話から分かった。
電車に乗っている間ずっと、村上としたキスを反芻していた。
目覚めて村上が微笑んだ時、なんて幸福なんだろうと思った。自然に三崎も微笑んでいた。吸い寄せられるようにくちびるを重ね、うすい弾力に酔い、二・三秒遅れて肌が粟立った。途端、我に返る。しまった、キスをしてしまった。なんて言い訳しようと思っていたのに、くちびるを離した村上の台詞は「行こうか」だったから、深く考えるのをやめた。
なぜキスをしたか。もちろん、好きだからだ。空ばかり撮る村上の目線の先に自分がありたいと思った。ほかの誰かを向くなんていやだと思った。寝る前の上質な声色だけに惚れたわけじゃない、と隣の大きな身体を意識する。恋に落ちた瞬間はきっと、村上のごくシンプルな「おやすみ」で、三崎をやすらかに休ませようという行為が嬉しかった。
電車に乗っている時間をとても長く感じた。ずっとこうやって村上と隣りあって揺られていたかった。
← 3
→ 5
確かにこのままじゃいけない。不眠を扱う心療内科か精神科、そういうところにかかるべきなのかもしれない。
ぼんやりと考えながら歩いていると、後ろから「三崎」と声をかけられて、三崎はゆっくりと振り返った。
村上が、立っていた。
ダークグレイの長い上着と、タイトなジーンズは、村上の身長をますます長く見せていた。「帰りか?」と訊かれ、なにを言おうか迷って、結局ただ頷いただけだった。村上は「そっか」と笑い、「おれも帰り」と答えた。
「私服で通ってるの?」
「そう。ロッカーがあるから、そこで着替える。あ、ごめん、シャワーは浴びてないから、汗臭いかも」
「冬だし、そんな気にならないよ」
なんとなく、前に進みづらい。帰るのがいやなのかもしれない。どうせ一晩眠れない――ため息が出る。
村上が「うち、来る?」と訊いた。
「え?」
「眠れてるんなら、来る必要もないけど」
「行っていい?」
「いいよ。あ、ネコいるけど、平気か?」
「平気……」
「じゃあ、来いよ」
こっち、と村上は横手の道を指差す。
古い住宅が立ち並ぶ中にある、平屋の一軒家だった。「持家?」と訊いたが、それはないだろうな、と思った。案の定、「借家」という。「ネコも住める物件探してたら、こんなところになった。古いけど、気に入っている」とのことだった。
「ネコ、名前は?」
「ブチ」
「安易だ」
「分かりやすい方が馴染むさ」
点々と続く庭石を渡り、鍵をあける。主の帰宅を待っていたのか、脇から出てきたネコは、確かにブチ猫だった。白地に黒地。瞳が金色。ホルスタインにも見える。
村上が屋内の電灯をともす。と、三崎は目を瞠った。
部屋の壁という壁に、プリントされた写真が貼られている。マスキングテープで無造作に貼られているそれは、すべて空に関する写真だった。青空、星空、雷雲、夕暮れの電信柱、虹、月。撮ったのか、と訊くと、村上は頷いた。
「おれの趣味。前は雑誌に投稿してたけど、いまはもっぱら、家で楽しむ用」
「カメラ、いつも持ち歩いている、ってことだよね」
「そう」
「空だけ? 人物とかは?」
「人物はあんまり得意じゃねえな。好きじゃないのかも、人間のことが」
家の壁に、空がある。それはとても幻想的で、壮大で、純粋に感動した。一枚いちまいを熱心に眺める。そのあいだに、村上はシャワーを浴びに消えた。
空ってこんな色をするんだな、と思った。村上にはこんな風に映るんだな、と。自分はどうだろうかと考えてみるが、空など見あげた記憶はほとんどない。青色をしている、ぐらいの貧困な発想しかなかった。
夢中になっていたおかげで、村上がシャワーから上がったことに気が付かなかった。首筋にぺとりと冷たいものをあてられて、びくりと身体がこわばる。それは瓶に入ったサイダーだった。
「それとも酒やあったかいもんの方がいいか?」
「いや、いい。ありがとう」
瓶に直接口をつけ、サイダーを飲む。本当に古い家だな、と、三崎はようやく写真以外に目を向ける。居間兼台所と、他に部屋がふた部屋。いちばん奥が村上の寝室になっているようだった。部屋と部屋はふすま障子で仕切られている。いまどき、ふすま、というところが古さを感じさせる。
「おれとあんた、席が上下してたの、覚えてない?」唐突に、村上が言った。
「……そうだっけ、」
「三崎、村上、で、おれがあんたの後ろだった。あんた、学校に来てるか来てないかよく分かんなかったけど、テストだけは受けただろう。いままで空席だった前の席が、テストのときだけ埋まるんだ。それをよく、覚えてる」
「……」
「もっとも、それだけだな、あんたとの思い出っていやあさ、」
三崎にはそんな思い出すらもない。高校のクラスメイトで覚えている顔は、ほぼない。担任ですらあやふやで、思い出せるのは、保健室と、保健室の窓際に飾ってあったゼラニウムの鉢と、学ラン姿の野口ぐらいだった。この身体も学ランを着ていたのかな、と目の前にある大きく長い体躯を眺める。風呂あがり、村上は薄着で、筋肉質な腕や、背筋、すっと切れ込む腰つき、性器のふくらみなんかが服の上から分かった。
じわ、と腹の奥底から性欲がしみ出した。気がした。
もっとも、村上にそんなことは告げない。そういえば村上は三崎の不眠を知っているが、野口とセックスしていることは知っているのかな、と思った。野口からは喋らないだろうが、自分はどうだっただろう。あの夜、喋ったのか、喋らなかったのか。仮に野口との関係を知られていれば、気持ち悪いと思われやしないか。あるいはセックス込みで今夜誘われた可能性もある。知られていなかったら、余計な情報を与えたくない、と思う。脳内がねじれそうだ。こんがらがる……面倒になり、考えるのを、やめる。余計なことを考えるから眠れないのだ。
村上が「おまえも風呂入って来いよ」とタオルを投げつけて来た。新品と思われる下着と毛玉のついた部屋着も丸め込まれている。
「めしは?」
「いい……」
「おれはまだだから、食ってる。ゆっくりあったまって来いよ」
また糸のような瞳をされて、三崎はなんだか居心地の悪さを感じた。廊下を進むと、三崎と入れ替わりにブチ猫が部屋に入って来た。ふすまの向こうから「なあんだよ」「寒いか」という、村上の甘ったるい声が聞こえた。
村上の言う通りに、シャワーをゆっくり浴びた。下着や部屋着は、案の定、大きかった。身長、いくつだろうな、と考える。野口は三崎と似たか寄ったかの体格で、服の貸し借りも、頭を悩ますことなく行えた。
洗面台の吊り鏡の脇にも写真が貼られていた。夕闇に赤信号が灯っている。上ばっかり見て生きてるんだな、と思った。あの細い目に映る世界。
着替えて戻ると、村上は寝室にいた。ベッドに背をもたせ、ネコをあぐらに載せて、雑誌をめくっている。カメラの専門誌のようだった。今度は三崎の方から声をかけた。「ごはん、もう食べたの」
「食った」
「なに食べた?」
「インスタントラーメン」
「そんなの、夕飯って言わないよ」
「腹が膨れりゃいい」
言いあっているうちに、こんな風にしていつかも会話をしたような気がしてきた。きっとあの、記憶をなくすほど飲んだ夜だ。そっか、楽しかったんだな、と分かった。三崎は微笑む。
「寝るか?」
「うん」
「本、選んで」
言われて、三崎は笑った。寝る前に本を読んでもらった記憶が、三崎にもあった。小学生に上がるよりずっと前、幼稚園生よりも下かもしれない、そのぐらいのころ。三崎が楽しそうにしているのを、村上も微笑んで見ていた。三崎は「それでいい」と指を指す。さっきまで村上が読んでいたカメラ雑誌。
「いちばん難しそうなところ、読んで」
「ふ、」
村上のベッドに潜りこむ。村上も当たり前のように隣に潜りこんできて、それが安心だった。ベッドは多少狭かったが、野口の部屋だってそう変わりない。狭さが落ち着いた。ベッドから濃く村上のにおいがする。いやなにおいではなかった。息を吸い吐きし、身体の位置や向きを落ち着かせると、三崎の方から「読んで」とねだった。
村上は部屋の明かりを絞り、ベッドサイドのスタンドだけ明かりをつける。
「――連載第二十四回、コタニマコトの、旅の話をしよう。さて、十二月であるが――」
聞きやすいと思える個所を選んでくれたのだろう。村上が読んだのは、写真家のエッセイだった。三拍子、と三崎は思う。歌うように流れてゆく声、それはまるでワルツで、身体がふわりと浮く。
低く、なめらかな、上品な声をしていた。心地がいい。たとえば舌の上で甘くとろける濃厚なチョコレート。たとえば丁寧になめして艶を出した革細工。イメージがとろとろと入れ替わる。まわっている感覚、夢見心地。
遠くで、声が途切れた。まだ読んでいて欲しいと思ったが、身体は眠りに引きずり込まれている。
――おやすみ。
そう聞こえた後、ふっと真っ暗になった。
← 2
→ 4
元々が、眠りにくい体質だった。高校のころは、始終ぼーっとするせいで授業をまともに受けられず、事情を聞いた教師による恩情で、保健室登校をしていた。学校の保健室は、不思議と落ち着いた。そして当時保健委員の委員長を務めていた野口と知りあい、仲良くなった。
野口が先に学校を卒業したおかげでしばらくは会えなくなったが、社会人になって二年目、野口と再会した。野口は調理師の免許を取り、中華料理店のスタッフとして働いていた。三崎は、市立図書館の分館で司書として働いていた。不眠がたたって、仕事がつらい時期だった。そのことを野口に相談したら、人の好い野口はあれこれと方法を画策しては試してくれた。
セックスをする関係になったのは、再会して一年が過ぎたころだった。
大学時代、恋人だった男にしてもらえると眠れた、という話をきっかけに、三崎から誘ったのだと思う。ぼーっとしているおかげで、記憶にはいつだって靄がかかっている。野口の愛撫は、てきめんに効いた。昏々と眠って起きた朝、自分はこうやって生きていくしかないんだな、と思った。以降、眠れぬ日が続くと、野口を求めるようになった。
定期的なセックスは、ストレス解消にもなる。前よりも日々に張りが出て、昼間覚醒していられることは素晴らしいことだと実感した。野口には、三崎よりも大事な、彼女が存在する。高校時代から付きあっている、遠距離でなかなか会えない、愛おしい彼女だ。したがって野口と三崎、ふたりのあいだに恋愛感情は存在しない。ただ、三崎を寝かせるために(そして半分は、性欲のはけ口のために)、野口は三崎を抱いてくれる。
彼女にばれることなく、関係は日々穏やかに続いてゆく。村上の出現は、そこへいきなり吹いた突風、だと思うことにした。被害があったわけじゃない。過ぎれば忘れる。しかし、「昨夜は楽しかったな」と言った、あの穏やかに低い声が、いつまでも耳に残った。昨夜、楽しいことをしたのだろうか。やっぱり複数でセックスに及んだとか……よく眠ったはずなのに、頭がぼんやりとした。
それから三日経って、野口と飲んだ。雑居ビルの三階に入る、アジア料理の店だった。
「――で、あれから村上にしてもらってる?」と香草とエビの炒め物を取り分けながら野口が訊いたので、やっぱり肉体関係ってやつだったのか、と思った。
「村上となら、会ってないよ。あれきり」
「あ、なんか言い方わるかったよな、俺。そういう意味じゃなくってさ、村上に……寝る、寝かしつけてもらう、……あー、うまく言えねえや。なんか、そういうことしてもらって……ってなさそうだな」
「? 言ってることが分からない、先輩」
そもそも、先日の件だってなにがどうなってああなったのかさっぱり不明なのだ、と言うと、野口は改めて「おお」と驚いた。
「見事に記憶飛んでんなー。おまえ、いっぱい飲んだもんな」
「先輩と居酒屋に入ったことは覚えてる。けど、それから、村上と寝てたところのあいだが、抜けてる」
「んー、と」
野口は呆れ笑いをしながらも、説明してくれた。入った居酒屋でたまたま偶然、村上と居合わせた。村上はひとりで来ており、ちょうどよいからと言って、三人で飲んだ。村上は三崎のことを懐かしがり、三崎は村上のことを覚えてはいなかったけれど、ふたりはかつて親友だったんじゃないかという勢いで喋った。もっと飲みたいと三崎が希望し、場所を変えて、野口の部屋まで来た。三崎の不眠を知った村上は、「なんだそれ、おれには得意分野だ」と答えた。
「それでおまえは村上に寝かしつけられて、このあいだの朝だよ」
「……村上とやった、ってこと?」
「違いますー。俺も傍で聞いててびっくりしちゃったんだけどさ、……あいつ、朗読うまいのな」
「……朗読……?」朗読って、本を声に出して読む、あれか。
「声がいいだろ。市民サークルで朗読ボランティアの団体ってのがあって、一時期はそういうところで読み聞かせのボランティアしてたらしいぜ。で、『おれの読み聞かせのときには寝るやつが多いんだ』って。試しに俺が持ってた文庫本を読ませたら、おまえ、すぐ寝た」
「……嘘、」
「俺も寝そうになったもん。つまらない、って意味じゃなくて、心地よくて。催眠術師とかになれるんじゃねえ? っていうレベルだったな、あれは」
満足そうに野口は微笑んだ。三崎は、驚いていた。たかが朗読くらいで眠れるか? 風の音ひとつで目が冴えていた自分が?
「あいつが言ったこと、覚えてない?」野口に言われ、首を横に振った。
「今度眠れなくてしんどいときは、おれんちに来いよ、って。アドレスだって交換してたじゃん」
言われてスマートフォンを確認すると、確かに村上の名前が登録されていた。村上士信(むらかみしのぶ)というフルネームで。
「いつまでもさ、おれとやってるだけじゃ、だめなんだよ」
しみじみと野口が言って、三崎は真意をはかり損ねて首を傾げる。
「気持ち良くない?」
「そういうことじゃなくて」
「あ、彼女に悪い、とか」
「それは思ってるけど、おれの問題だから。――そうじゃなくて、」
野口はビールを飲み干してから、言った。
「上手に眠れた方がいいんだ。歪んだ寝方じゃなくって」
それと村上がどうして結びつくのかが、よく分からなかった。
← 1
→ 3
「三崎(みさき)」と肩をそっと叩かれて、重たいまぶたをあけた。横に細長い視界に、野口(のぐち)の顔が映っている。
「俺、もう行くから。鍵、よろしくな」
野口は部屋のローテーブルの上を指差す。そこに野口の部屋の鍵が置いてあるようだった。三崎は頷くふりで、また目を閉じる。とても眠い。
ひどい不眠症だ。睡眠までの導入に時間がかかる上、睡眠の質が悪い。深く眠った経験がほとんどない。常にだるく、眠い、と感じる。そのせいか全般にしてぼーっとしている、というのが三崎という男だ。
誰かの体温があるのがいいのか、それとも疲労が効くのか、あるいは「出したら眠くなる」男の性なのか、セックスをすると、深く眠れる。これに気付いてから、不眠の夜が続くと、野口にセックスを求めるようになった。それが三年ほど前のこと。
だから、記憶は曖昧だが、昨夜もいつものように野口の部屋にやって来て、セックスしたんだろうな、と思っていた。
ところが野口は「村上(むらかみ)にもよろしく言っといて」という。村上? 聞いたことがあるような、ないような名前だ。少しだけ意識が覚醒する。
覚醒してくると、背中に、すうすうと誰かの寝息が当たっているような気がして、驚いた。
「――え?」
三崎は思わずベッドから起きあがる。三崎の隣には、三崎よりも大きな男が横たわり、寝息をたてて眠っていた。訳が分からない。理由を訊こうにも、野口はさっさと部屋を出て仕事に向かってしまっていた。
てっきり複数での行為にまで及んだかと思ったが、身体に違和感はなかった。野口とすら、してはいないだろう。ではなぜ自分は眠れたか、知らない男の隣で――ぐるりと部屋を見渡せば、ここは確かに野口の部屋であるから、野口の知りあいだろうか。
野口にされたように、男の肩を叩いてみる。村上、と言ったか。長い前髪が邪魔をしていて、顔をしっかりと把握できない。手足が長いな、と思った。もう一度肩を叩くと、男は目をあけた。細い筆を入れたような、流れる目をしていた。
「――おす、」
「……おはよう、」
寝起きのせいか、地声なのか、声は低かった。男は寝転んだまま「野口先輩は?」と訊く。三崎はぼーっとしたまま、玄関を指した。男はそれで納得したようで、「仕事か」と呟く。
他人の部屋の他人のベッドで部屋の所有者ではない見ず知らずの男と同衾していた。この理由を、知りたい。
昨夜はいつものように仕事が終わってから野口に連絡を取った。野口は、飲みに行こうぜ、と言ってきた。それで駅前の居酒屋で待ちあわせて、飲み始めた。酒が入ると覚醒するときがあるから、あまり飲みたくはなかったのだけれど、どうせこの後「やれば」眠れる、と考えた。野口は、アルコールが入った方が元気になるし、という打算もあった。
その後の記憶がない。そんなに、記憶を飛ばすほど飲んだだろうか? そんなことを男を眺めながらぐるぐると考えていると、男は、ふっと笑った。笑うと目が糸のように細くなった。
「理解が及ばねえ、って顔、してんなあ」
男は立ちあがり、洗面台へ向かった。そのあいだに三崎は野口にメールを打った。本当に、本心で、この男の正体が分からなかった。
幸いにも三崎のメールに野口はすぐに応答してくれた。
「誰、あの人」
『誰、って、村上?』
「そう、村上って人」
『覚えてねえの? って昨夜も同じ話してたな、おまえ。だいぶ飲んでたから、忘れたか』
「記憶ない」
『久々に会った同級生、ってやつ。村上も俺とおまえと同じ西高出身で、おまえとは、クラスが一緒だったらしい』
「覚えがない」
『って昨夜も言ってたな。仕方ねえよ、おまえは高校っていっても保健室か生徒相談室とお友達だったからな。覚えてないこと、村上はけらけら笑ってたから、あんまり気にしなくていいよ』
そこで水音がして、村上が戻って来た。元・同級生であるというなら、悪い仲ではないんだろう。メールをほったらかし、時間を確認した。朝の九時だ。
「ええと」三崎の方から口をひらいた。「ごはん、食べる?」
「野口先輩の家だろ、ここ」
「そうだけど、いつも勝手にやってるから」
「高校のころから仲良かったよな」
「んーと、まあ……」確かに野口とは仲が良かった。共にベッドインする関係にまでこじれるとは思っていなかったが。
「おれはアパートに戻るよ。バイトに行かなきゃなんねえ」
「なんのバイト?」
「引越し屋」
確かに、男は体格が良く、肉体労働に向いていそうだった。
「あんたは?」
「おれは、……もうちょっと、寝てく」
「そうか。じゃあ、おれ行くわ」
「うん」
もう会うことはないだろうと思っていたのに、村上は笑って「またな」と言った。
「昨夜は楽しかったな」
「……」
「さいなら」
村上は手を軽く振って、玄関を出ていく。昨夜のことを、三崎はさっぱり思い出せないのだった。
→ 2
ちょうど一週間続くお話になります。
おつきあいください。
間が悪いというのか、良いというのか、志摩の作戦的なものだったのか、その日はその年最後の講習日だった。仕事納めの日、というわけだ。忘年会は新年会と合わせて年明けに行う。新年の講習は四日からで、それまでの約一週間、志摩と会わない日が続くことになる。
そういえば志摩の携帯アドレスを知らないままだった、ということに気付いた。いままで志摩個人に用事が発生したことはないし、あったとして、画塾の事務室のナンバーをコールすればよいだけだ。飲み会や、それこそ「あまいお菓子を」食べあうお茶会など、個人に踏み込める機会はいくらでもあったのだから、聞いておけばよかった、と友臣は後悔した。志摩に会えないことで焦れている。会ったら、聞きたいことがある。
年末年始、友臣に帰省の予定はなかった。帰ればどうせ、母や親戚などから小言を言われるに違いなかった。無理を言ってまで美大に入ったが結果はアルバイト生活を続けていること。とりわけ、上の兄や姉が結婚して子どもが出来てから、両親の気がかりは友臣だけになった。それならほっといてくれよ、とも思うが、末っ子だけに心配が多いのか、しょっちゅう電話を寄越すし、友臣の暮らす町へも遊びに来る。ならば帰省してもしなくても一緒かな、と思った。だから帰らない。
仲間から忘年会の誘いや、スノーシューをやりにNまで行かないか、という誘いもあったが、なんとなく受ける気になれず、断った。頭の中を占めているのは志摩で、会いたいな、と思う。部屋の掃除も終えてあとは年を越すだけ、という段になった大晦日、唐突にお参りに行こうと思いつき、しっかりと防寒をして外に出た。そういえばデパートの前の広場で、カウントダウンイベントをやると、新聞広告にあった。顔を出したことはなかったが、出せば面白いかもしれない。広場の位置は、ちょうどお社と方角を同じにする。年末の特別営業をする店でもあったらそこに入って、一杯やるのもいい、と思った。
町は思いのほか静かで、しかし広場まで来れば、さすがに賑やかだった。そこに紛れるか、通り沿いで営業しているレストラン・バーに入るか、二年参りに出かけるかで迷っていると、本当に偶然、通りがかりの志摩とばたりと出くわした。志摩は暗い色のステンカラーコートにマフラーを折り目正しく巻いていて、きっちりとした身なりに、どきりと胸が高鳴った。会いたい、と思っていた人に突然会えたせいかもしれない。
志摩も目をまるくして、唐突な出会いに驚いている風だった。
「――志摩さん、」
「友臣くんもこの店に入るの?」
と、志摩は友臣が入店を迷っていたバーを指して、言った。友臣は素直に「どうしようか迷っていて」と答える。
「広場のカウントダウン行くか、お参りに行くか、」
「ああ。ひとりなの?」
「そう、ひとりです。志摩さんは?」
「俺もひとり。この店のスイーツを食べおさめてやろうと思って」
ライトに照らされた黒板を見る。デザートが幾種類か出せるようだと確認できた。
「ここのチーズケーキがたまらなく好きなんだ、俺」
「ほかにもありますか?」
「あとはブラウニーも美味しかったよ。お酒もいいしね、俺はよく来る」
黒板には「夜明けまで営業」と書かれている。「いいですね」と頷くと、志摩はふっと笑った。
「友臣くん。良ければ俺と、あまいお菓子はいかが?」
「いいですよ。喜んで」
ふたり揃ってちいさく笑いながら店に入る。程よく混んでいて、蒸していて、心地よかった。
テーブル席があいていたので、カウンターではなく、そちらへ座った。志摩はマフラーを取りコートを脱いだが、その下は、ブラックのシャツにジャケット、という「正装」だった。ノータイで、一番上のボタンは外されている。冠婚葬祭に出かけた感じではない。意外に思って目をひらく友臣に、志摩は苦笑してみせた。
「さっきまで仲間と別の店で、ライブをして来たんだ。カウントダウン前の余興」
「ああ、ゴスペル、でしたっけ」
「そうそう。五曲ぐらい歌ってきたよ。こーんなのなんかつけてね」
そう言って志摩はポケットからえんじ色の蝶ネクタイを取り出した。それを襟もとでかざしてみせてくれる。愉快そうに「似合うだろ?」と言うので、友臣はおかしくて笑った。「口髭なんかあったらもっと似合ったかも」と冗談を口にする。
「その、お仲間さんは?」
「同じ店で飲んでいると思うよ。そのままカウントダウンするんじゃないかな、」
「抜けてきて良かったんですか?」
「大丈夫。ここのケーキをどうしても、と思っていたし、」
そこでメニューに落としていた目を友臣に向けた。
「――なんだか、ひょっこり偶然、こうして会えてしまったし」
志摩は笑ったが、明らかに照れ笑いだった。友臣は腰の据わらない感覚を味わう。
志摩はチーズケーキとスパークリングワインを頼み、友臣はブラウニーと、ウイスキーを炭酸でごくごく薄く割ってもらった。注文が届くと同時に日付が変わったらしく、店員に「ハッピーニューイヤー」と声をかけられ、ふたりで同じ文句を返す。志摩の言う通り、ブラウニーはしっとりと濃く、ほろ苦く、甘かった。志摩の頼んだチーズケーキも、土台のビスケット地がしっかりとしていて、見た目からも濃厚さが伝わって来た。
志摩がふと、「良かったよ」と笑った。
「新年早々、よいことがあった。まさかこんな風にあまいものを友臣くんと楽しめるとは思わなかったな」
「……それなんですけど、志摩さん、」
「うん」
「志摩さんはおれのこと、好きなんですか……?」
そう言うと志摩は、しばらく黙った後に「好きだよ」と答えた。こちらが面食らうほど、ストレートにぶつけてくる。心臓が高鳴ったが、怖気ている場合じゃないぞ、と友臣は口元を引き結ぶ。
「いつから、」
「いつ、からかなあ。気が付けばって感じだな」
「おれが聞きたいと思ったのは、そこらへん、志摩さんの気持ちなんです」
そう言うと、志摩は首をわずかに傾げた。
「志摩さん、おれにとって都合いいよ、みたいな言い方をしたでしょう。それってつまり、おれが淋しいって言ったらほいほい呼び出されて、きっとこうやって茶でもして、おれがすっきりしたら用済みで、さようならって言っても文句は言わない、ってこと?」
「そうだね」
「おれ、そこまでしてもらう理由がないです。志摩さんに見あわない」
「理由ならあるさ、俺がきみを好きだということ。こればっかりはね、仕方がない。俺はきみに惚れているから。惚れた弱みっていうやつだ」
「……」
「俺がこうやって相手になることできみが淋しくないんだったら、それは俺の喜びになるんだよ」
「……たとえばおれが、これっぽっちも志摩さんのこと、好きじゃなくても……?」
「感情はいつだって、同量にはならない。仮に両想いの恋人同士でも、片想いなんだ。っていうのが俺の経験則。そうやってあまいところを吸ったり利害を一致させたりして、みな一緒にいる。大方のカップルがそうさ」
「……」
「俺は本当にきみが好きで、大事で、参ってるんだ。きみはそれを逆手に取ればいいんだと思うよ。なんだこの変態野郎、男に勃起なんかしやがって、って罵ったっていいし、かこつけられるようならかこつけて、あまいものでも奢ってもらえばいい」
なんだか志摩らしかぬ露骨な表現を聞いた気がして、友臣は顔を赤くして「志摩さん!」と志摩に抗議する。志摩も笑い、「だって本当にそうなんだよ」と困った顔をした。
「俺だって、きみを好きでいることの利益をちゃんと受け取ってる。わるくない話だと思うよ。さあ、どうかな、」
「……」
「ちなみに余裕ぶっているように見えるかもしれないけど、いま俺の心臓は、ステージに立つ時よりもずっと緊張している。音、すごいよ。聞く?」
「人がいます。どうやって、」
「手でも当ててみたら伝わるんじゃないかな、」
そう言って志摩は、友臣に手を差し出した。催眠術でもかけられたかのように、抗えない、と感じながら、友臣は志摩の手のひらの上に手を重ねた。その手はテーブルの向かいの、志摩の胸の上に乗せられる。志摩の指はつめたかったがそれは表面だけのようで、シャツ越しに志摩の熱い体温が伝わって来た。
遠くでとくとくと、志摩の心臓が唸っている、ということを意識した。友臣の体温は人肌に触れて、一気に上昇した。いつまでも触れていたいような気持ちになったが、いつまでもこうしているわけにはゆかなかったので、友臣の方から手を引っ込めた。志摩もそれを咎めはせず、離れた手はワイングラスのステアに着地して、志摩は一口、ワインを口にする。
友臣は口元を押さえた。気持ちが悪いのではなく、むしろ逆、にやけてしまいそうだったから、押さえた。こんな風にして人から想われるのはいいものだな、と感じた。いまの心臓の感覚で確信する。志摩は本当に友臣の望むとおりに行動するのだろう。友臣を裏切らないのだろう。
憐れにも思ったし、嬉しくもあったし、なによりも喜びに深々と打ち抜かれた。ひとりではない、という、絶対的な味方の存在。友臣は手を口元から自身の心臓の上に移動させて、息を長く吐いた。席の向かいから志摩が「大丈夫?」と心配そうに声を寄越した。
「酔った? 気持ちわるい? それともやっぱり、俺がだめ?」
「そうじゃ、ないです」
「でも、具合が悪そうだよ」
「いや、……具合は、いいです」
なんだかおかしくなってきて、友臣はふふふ、と笑った。志摩がびっくりした顔をしている。
「酔いました。酔っぱらうとおれ、笑い上戸なんです」
「そうか」
「ふふ」
「なんだか、いいことを聞いたな。きみは笑うとかわいいから、笑わせたいな、と、いつも思っていた。それであまいお菓子はいかが? なんて言ってた」
なんだ、そうだったのか。友臣はまた笑う。幸福な気持ちでいっぱいだ。新年になんてふさわしいのだろう、と思う。
夜明けより少し前に店を出て、志摩と一緒に近所の神社を参拝した。いちばん冷え込む時間帯だからか人影はまばらで、せっかく設営された露店のほとんどは、ビニールシートを下げて営業を停止していた。
志摩と並んで賽銭を投げ、礼をして、目を閉じる。再び頭を下げ終わっても、志摩はまだ手を合わせたままだった。しばらくの後に、志摩が一礼して顔を上げる。熱心にお参りしていた内容はなんだと訊くと、志摩は「そりゃ決まっているだろう」と白い息を吐きながら答えた。
「俺の賭けに、きみが乗ってくれますように、だ。真剣だよ、もう。今年で四十になるっていうのに、こんなにばかみたいに神頼みする日が来るなんて思わなかった」
「叶うといいですね」
「他人事だな」
「いや、もう答えは決まってるんです」
そう答えると、志摩は急に顔つきをこわばらせた。
「……きみは、おじさんの心臓をコントロールするのが上手い。心筋梗塞でも起こしそうだ」
「あー、緊張してます?」
「そりゃあ」
ちか、と視界の端になにか輝くものがあって、それは、太陽だった。初日の出だ。赤い光線は徐々に上昇し、志摩も友臣も、同じ色に染められてゆく。
志摩が、「友臣くん、」と答えを催促した。友臣は微笑む。まだ酔いが残っているような、足元から浮く感覚がある。
「とりあえず今日これからあいているようなら、おれんちに来ません?」
志摩は瞬時に目をまるくしたが、そのままの表情で「行く」と即答した。
End.
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年が明けました。昨年は色々と変化の年でありましたが、いままで通りおつきあいいただいた方々も、あたらしくおつきあいいただいた方々も、本当にありがとうございました。
また今年一年、どうかよろしくお願いいたします。みなさまの一年が、実りあるものでありますよう。
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暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
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お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
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短編「みんな嬉しいお菓子の日」
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甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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