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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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千奈


 おびただしい量の黒い絵具が、F100号のキャンバスにぶちまけられていた。ただ絵具の缶をばしゃんと放ったような、決して「塗った」わけではないのは、一目見て分かった。キャンバスを固定していたイーゼルにも、イーゼルの背後の壁にも、黒が飛び散っている。そしてイーゼルの脇にまとめられていた油絵具の類は踏みつけられ、絵具がチューブの腹から飛び出し、テレピン油が上からメープルシロップのように垂らされている。
 油彩科四年の、海保(みほ)の卒業制作になる予定の絵だった。ほぼ完成を見ていて、この黒の下には、うすく溶いた油絵具であたかも日本画のように描かれた、モノトーンの女性像があった。短い髪をしていて、よそ行きと思われるワンピースを着ている。どこにでもありふれて存在している中年女性で、出かかった腹やしわやたるみを考えると、モデルとしては、美しいとは言えない。それを芸術ととらえる海保のセンスが光る絵だった。写実的に描くことで生命の迫力を見事に表わし、生々しさに鳥肌が立つような絵。その海保の絵が、誰もが羨みため息をつく才能が、黒に汚されている。
 絵の周囲には、絵の異変に気付いた四・五人の人だかりが出来ていた。登校したばかりの千奈(ちな)も、鞄を置くのさえ忘れて傍に寄る。卒業制作に入る四回生のみがつかえる絵画制作室だが、人の出入りは学部生なら誰でもできる。学校があいている時間ならば、一般の人間でも出入りは可能だろう。犯人を特定するのは難しそうだった。
「ひどい」
「いたずら、だよな? 海保がやったんじゃねえよな?」
「海保くんが自分でやるわけないでしょう。明らかにいやがらせよ」
「被害届出したら犯人捜してくれんじゃねえの? ひでえな、おい」
 仲間らは口々にそう言った。千奈も輪に混ざり、絵を呆然と見ていた。海保の描く人間は絶対に意思のある目つきをしていて、かつ穏やかで、人の一瞬の美しさを捉える、その感の良さも海保の才能だと思っていた。見る者を圧倒させる、ずば抜けた技術、センス。芸術は、見る人間があってこそだと海保は常々言っているが、その通りだと思う。見る者がいてこそ、その見る者の心にぽつっと一点の黒点を落とし、じわじわと浸食し、やがて染めゆく、そういう感動があってこそ、芸術。
 海保には人の心を動かす才があった。だからこれはひどい。一体誰が、誰が――心臓を冷やかせていると、がらりと扉のあく音がして、海保が「おす」と制作室に入って来た。
 誰かが事前にメールでも送ったのだろう、海保は絵の状況を知っていて、さして驚く風でもなく、仲間たちに「ひでえよなあ、これ」と苦笑してみせた。
 仲間たちは海保の言葉にどう反応すべきか、迷って沈黙が出来た。
「ペンキかな、アクリルかな。これ乾いてる?」そう言って海保は、誰も近づけなかった絵に、近寄る。それが仲間たちの口火を切るきっかけになった。
「アクリル絵具だと思うけど。学祭でつかったネオカラーの残り。そこに缶が転がってる」
「あ、本当だ」
「もう乾いてるみたいだし、削りゃ下の絵が出てくんじゃねえ?」
「下の絵も削っちゃわないか? アクリルだけにつかえる溶剤とか、なんかないかな」
「画布に食い込んでりゃ、完全には落とせねえだろうな」
 仲間たちは口々に言うが、海保は「んー」とイーゼル脇に広げられた絵具の海の傍に腰を下ろしてしまった。
「油絵具、買い直しだなあ」
「海保、そんなにのんきにしてんなよ。犯人見つけ出して、弁償させろって。卒制だぞ。これで一年棒に振ったら、それこそやってらんねえだろ、」
「んー、そうだな」
 曖昧に笑う。それからテレピン油にまみれた絵具のチューブをひとつ引っ張り出して、それをぬるりと、パレットに指で広げる。
 その指を、画布につける。
「……おい、海保、……」
 皆、黙った。海保は汚された画面の上からあたらしく絵を描き始めた。


 海保が同性愛者であることと、五つ年上の恋人と暮らしていることを、千奈は知っている。
 どんな性癖だっていいと思う。ゲイだろうが男の恋人と同居していようが、千奈が海保の才能に憧れている事実は変わらない。凡人の自分が、三浪してまで入った美術大学で、海保と知りあえたことは、素晴らしいことだと思う。友人であることが誇らしい。だから海保の性癖は、大した問題ではなかった。
 ただ、海保の恋人のことはよく思っていなかった。海保の恋人も画家で、現在は美大進学希望者向けのアートスクールで絵を教えていると聞く。この大学のOBであり、従って海保や千奈の先輩にあたる。海保が連れてくるまでもなく、現在も油彩科の教授と行き来があるので、大学には頻繁に顔を出している。そもそも、それが出会いのきっかけで海保と付きあっているのだ。
 精霊みたいな人だ、というのが印象だった。影のうすい、独特な雰囲気をまとった痩せた男。芸術家らしく身なりにあまり気を遣っておらず、肩まである髪を団子に結ったり結わなかったり、無精ひげを生やしたり生やさなかったりしていた。顎が尖って細い。少しぐらい見かけを気にすればいいのに、と思ったが、言わなかった。目つきを怖いと思っていた。やけにぎらついていて、常に戦闘に挑んでいるような。話しかけようものなら刺されそうだとさえ思った。近寄りがたい類の男だった。
 絵画制作室に立ち寄った海保と、海保の恋人の会話を、偶然聞いたことがある。千奈は制作室にいくつもある巨大なキャンバスの裏側の、ちょうど暗く影になっているところで授業と授業のあいだのあいた時間をつかって昼寝をしていた。その頃はバイトが忙しく、思うように睡眠時間が取れなくて、学校の制作室で取る仮眠が多かった。後からやって来たふたりは千奈に気付かず、だから少々込み入った話をしていた。痴話喧嘩の類と言えるのだろうか。会話から察するに、海保が当時制作していた絵に、恋人が難癖をつけているようだった。
 制作中の絵は、F30号の油絵で、やはりモノトーンで描かれた男性の半身像だった。目のあたりを、こちらは色とりどりの花で覆っているから顔かたちがはっきりしないが、男性のモデルが恋人だということは分かっていた。半開きにあいたくちびるが艶めかしく、海保の絵の中に珍しく、官能を見たのをよく覚えている。あの絵は後にどこかの画会が主催する品評会に出展されて、確か最高賞を取ったはずだった。
 その、出展前の最後の筆を入れている最中だった。恋人は、「最低な絵だ」と言った。海保が困った顔をしているだろうことは、切れ切れの会話から想像できた。
――破ってやりたい絵だね。おまえの絵はただ写実的なだけで、なんにも面白くねえ。リアルに描きたいだけなら、写真でも撮って引き伸ばせよ。
――それじゃ意味がないんだってことを、あなたも充分分かっているでしょう。
――嫌いだね、こんな絵。最低だ。存在するだけで芸術が穢される。おい、カッター持ってこいよ、切り裂いてやる。
――……参ったな。
 なにやらただならぬ会話だ。キャンバスの裏側から少しだけ這い出てみると、海保が男をきつく抱きしめている姿が見えて、ぎょっとした。
――今日は特に機嫌がわるいね。
 囁き声でも、ちゃんと耳に届いた。海保の、普段はのんきとしか言えない声音が、穏やかにくすぐったく、融けている。その声に、ふたりの男の立ち姿に、ばくんと心臓が音を立てた。聞こえていやしまいか、と思ったほど。
 海保の腕の中で男はしばらくもぞもぞと体を動かして暴れていたが、細腕ではかなわなかったのだろう、大人しくなった。
――今日は制作しないで帰るよ。なにか食べて行こうか。
――……。
――あなたが好きだ。
 すると、海保の恋人の顔が持ちあがり、ふたりは抱きあいながら見つめあう格好になった。恋人は頭を傾け、海保の剥き出た首筋にくちびるを押し付ける。海保は黙ってされるままになっていたが、しばらくして唐突に「痛い」と言って恋人の体を突き放した。
 首の左側の付け根を、右手で撫でている。そこは赤くなっており、歯形があって、血がにじんでいた。
――噛まないでくれ。
 そう言う海保に恋人は鋭いまなざしを向けている。そしてさっと体を翻し、ばたばたと音を立てて制作室を出て行った。海保はしばらく傷口を手で押さえていたが、やがて駆け出す。
 男を追って走り出した海保と、キャンバスの裏から身を乗り出していた千奈とで、目があった。
 海保は驚いて目をまるくしたが、すぐに困り笑いの表情に変えて、去った。千奈はキャンバスの裏から這い出て、改めて海保の絵の前に立つ。絵の中の男の、鎖骨の付近にほくろが描かれていた。あの海保の恋人の鎖骨にも同じく存在するほくろだろうか。海保の絵は千奈の心を掻きむしり、乱し、鼓動を速くさせた。見続けることが叶わなくて絵の前で目を閉じた、その経験や感覚もはじめてだった。


→ 2




拍手[31回]

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 村上の家、とりわけ寝室としてつかっている部屋の壁に、村上はべたべたと写真を貼っている。撮ったものを上からどんどん重ねて貼るから、下にある写真がもう見えない。どれもこれも空の写真で、しかし青ばかりでなく、濃い闇に浮かぶ白い月から朝焼けの黄金まで、色彩は様々だ。ここへ来てから三崎はよく、空にぽかりと浮かぶ夢を見るようになった。夢見心地の声音を村上がくれるおかげだが、眠る前に見る残像、すなわち空の写真の数々も、夢の要因だろうと思う。
 休日、その写真をおもむろに村上が剥がし始めた。三崎は思わず「剥がしちゃうの?」と声をあげる。
 村上は意外そうな顔で「なんて声だよ、あんた」と振り向いた。
「写真、どうするの?」
「どうもこうも、ただ整理するだけだよ」
「捨てちゃわない?」
「いい加減に古いのは捨てるかもなあ。ここに引っ越してからずっと貼り溜めてるから、もう六年? 七年になるか」
 糊の弱いマスキングテープだけで、よく七年ももったと思う。村上は乱雑に写真を剥がしては段ボール箱に突っ込んでいく。三崎はそれを丁寧に拾い出し、マスキングテープを慎重に剥がして、一枚一枚を眺めながら重ねていった。
 どれも空の写真、空、空、空。よくもまあ飽きないものだ。と思っていると、下の地層が暴かれるにつれて、他の写真も出てきた。古びて誰もいないメリーゴーラウンド、動物園入口で風船を売る人、スニーカーを履いた足、雨で濡れたアスファルト。
 露出が合ってなくて白飛びしている。いま、色鮮やかな空の写真を撮る村上とはまた、違う意識で撮っていたようだ。それを三崎は微笑ましく思いながら眺める。カメラに、朗読に、ネコとの暮らし。本を読むぐらいしか趣味のない三崎にとって、村上はとかく多芸に映る。
 一番古い層に辿りついたと思う。幾重にもかさなった写真を慎重にめくると、金髪の村上自身が出てきて驚いた。壁にもたれ膝を立て、煙草を吸っている。細い目はしっかりとカメラを捉え、口元は煙草で見えないとはいえ、気だるげな表情にずきっと来た。
 自分で撮ったものかとも一瞬考えたが、被写体に人を選んで来なかった村上がセルフポートレイトを撮るとは思えなかった。誰かが撮ったものだろう。誰だろうな、カメラをねめつけてはいるが、村上の表情は優しい。親しい誰か……考えをめぐらせながらそれを眺めていると、気付いた村上が「おっと」と言って写真をひったくった。
「――ずいぶんと昔のが出てきたな」
「……それ、何年前?」
「高校卒業したてだよ。卒業したからもう校則なんざ関係ねえと思って、金髪にしたんだ」
「それで煙草も?」
「まあな」
「……もう一回見せて」
 手を差し出すと、村上はしぶしぶ写真を寄越した。三崎は写真を眺める。よっぽどくつろいだ時でないと、この表情は撮れないと思う。いい写真だ。ずっと眺めていたい――そこまで村上が気を許した誰かが、撮った。
「誰が撮ったの?」と訊くと、想像通りに、しばらくの沈黙が出来た。
「――昔の恋人」
「男? 女?」語気が荒くなり、なんだか追及しているみたいな言い方になった。
「男」
「その人もカメラやってたの?」
「いや、おれの勝手に持ち出して遊んでただけだよ。うざったいぐらい撮られて、全部処分したと思ったんだけどな。まだ残ってたか」
 ち、と村上は舌打ちをした。それから三崎の手元から写真を引き抜くと、「捨てるから」と言った。
「えっ?」
「面白くないだろ。別に。前の恋人が撮った写真とかさ」
「いやだ、おれこれ欲しい。おれが持ってたい。だめ?」
「なんで……」
 と言いかけて、村上は観念したように「分かったよ」と言った。「あんたが強情なのは知ってる。持ってけばいいさ」
「おれにもう用はない」
「……その、恋人だった人のこと、訊いていい?」
「いやだ、思い出すといらつくから」
「どうして?」
「ろくな思い出がねえ。子どもみたいにわがままなやつで、自分勝手で、振り回された」
 そう言いながら苛々してきたらしい、村上はまた舌打ちをした。言葉こそ乱暴だが性格は穏やか、と言える村上には、珍しい態度だった。三崎は写真を手に、「ごめん」と言う。
「あんたが謝ることじゃないさ。別れてせいせいした相手、ってこと」
 もうこれ以上は訊くな、というふうに、村上は立ちあがった。「コーヒー入れるけど飲むか」と訊かれて、三崎は頷く。台所へ向かう背中を見送ってから、改めて写真を眺めた。あまり長いこと見惚れて眺めているとまた取りあげられそうだったので、ほどほどにして、それを鞄の中に入れていた文庫本に挟み込んだ。


 *


 図書館の入る施設はいくつかの団体が入る複合施設で、周辺施設よりも背が高い。晴れたある日、三崎は屋上で食事を取った。文庫本を片手に、サンドイッチを頬張る。と、挟み込んだまま忘れていた写真が出てきた。煙草を吸っている、金髪の、いまよりも若い村上。
 三崎はそれを眺める。村上の元・恋人が撮った写真。村上はよく思っていない風だったが、写真は事実を語る。どれだけ村上が彼に心をゆるし、愛おしんでいたのかを、よく表していた。
 この写真を見ていると、この目が、姿勢が、思いが、三崎に向けられたものだと勘違いしそうになる。この写真の村上はそうじゃない。カメラを向けた、三崎の知らない誰かを愛していた。
 黒々とした嫉妬の雲が、心の中に立ちこめる。それでも写真を手放す気になれない。魅力とはこのことを言うのだろう。感情が込められている。破り捨てたいような気持ちと、大切に持っていたい気持ちとが混じりあって、どうしていいのか分からずに、ただ茫然と見尽くすしかない写真。
 風が吹き、三崎の手元をさらった。風に煽られて、写真が飛ぶ。一瞬の出来事だった。
「あっ」
 思わず声をあげて写真を追ったが、空高く舞い上がった写真は、そのまま屋上を超えて街へ放たれた。その紙片を目で追いながら、三崎は安堵していたし、残念にも思った。もうこれでは拾いようがない。十八歳の村上を、あの一瞬を見ることは叶わない。
 眩い金髪で三崎でない誰かを愛していた村上は、永遠に封印されてしまった。
 三崎はしばらくフェンスの際で街を見下ろしていたが、諦めて、ベンチに戻った。サンドイッチを齧り直しながら、三崎は考える。写真を撮ろう。村上と、写真を撮ろう。三崎だってコンパクトデジタルカメラぐらい持っている。それで、三崎と村上のふたりの写真を撮ろう。
 村上は嫌がるかもしれない。案外、笑って許容するかもしれない。どちらだろう。どちらでもいい。写真を撮ろう。


End.



三崎と村上:
この夜が明けたら
うららかに春の光が降ってくる
春と煙草




拍手[43回]

 日曜日に部活動はなかったので、開店直後の洋菓子屋に突入して、ケーキを購入した。晴の感覚では祝いごとならホールケーキだろうと思うが、それぞれにリクエストがあるので、ピースケーキを選ぶ。駒川の好きなムースの類は、りんごのムースとキウイフルーツのムースの二種類があり、迷ったので、公平に皆二個ずつ買った。好きなものを分けあえばいいと思う。
 ここのところ良い天気が続いている。駅前の繁華街から駒川の自宅まではバスで四十分ほどかかる。バス停からも十分ほど歩いたはずだ。駒川の家には何度か行ったことがあり、子どもたちも、晴の顔をもう覚えている。
 家に着いたのがちょうど開始時間の十分前だった。駒川の娘――今日の主役である奏(かな)が出迎えた。彼女は九歳、この春小学校四年生に進級したばかりだ。弟の颯介(そうすけ)はまだ幼稚園生だ。でもかなり喋る。
「ハレちゃん!」と奏が叫ぶ。頭には、駒川が編んだカンカン帽をかぶっている。上手いものだと思う。大きなケーキの箱を渡してやると、彼女は「ありがとうございます」と覚えたての敬語で答えた。
「お父さんは?」
「あっちで料理つくってます」
 確かに家じゅうに、こうばしい香りがただよっていた。奏に案内されるままに、晴は進む。キッチンまでやって来ると、駒川は紺色のエプロンを身に着けて息子と共にちらしずしの最後の飾りつけをしているところだった。
 晴の顔を見て、ふっと笑う。つきりと心臓が鳴り、違和感を、晴は一瞬考える。
「――ようこそいらっしゃいませ」
「どうもお邪魔します」
「おとーさん、ケーキもらった。ケーキだよ、ケーキ」
「待て待て、食後の楽しみに取っておけなあ」
 テーブルの上にはご馳走の数々が運ばれる。から揚げやエビフライなど子どもが喜ぶ品がメインで、でも晴の好みに合わせてアボカドのサラダが用意されていて、嬉しかった。ちらしずしに、ちいさなココット容器にはグラタンもあった。
 子どもたちにはジュースをあけ、大人用にはビールやチューハイを出して、駒川はそれをグラスに注いでくれた。
「誕生日おめでとう、奏」
「奏ちゃんおめでとう」
「おめでと!」
 乾杯をして、宴は始まった。駒川の料理は申し分なく、子ども向けなら多少くどいかと思っていたが、するりと入った。途中、食べることに飽きてしまった子どもらはアニメーションのDVDを見始めた。それを遠目に眺めながら、駒川と酒を酌み交わし、料理をつつく。
「――このアニメDVDは今朝、元嫁から届いたんです」と駒川は子どもたちから目を離さないまま言った。
「……誕生日プレゼント?」
「そういうことですねえ」
「……会いに来たりは、しないんですか?」
「月一で会ってますよ。でも今日はお祝いできないって。明日から遠方で会議があって、今日の内に前乗りするそうです。それに子どもたち、とくに奏は、微妙な年齢になってきましてね。元嫁と会うと決まって不機嫌になるんです。甘えたいのに甘えられないからなのか、自立したいのに自立できないからなのか、きっと彼女の中で色んな要因と、葛藤があるんでしょう」
「……」ぐびり、とチューハイを煽る。
「ズィス・ファイト・オブ・マイ・ライフ・イズ・ソウ・ハード。――ってご存知です?」
「なんですか?」
「最近聞いた歌がそう言ってました。本当にね、so hard」
「……」
「でも楽しいですよ」
 とビールを飲んで、駒川は微笑んだ。しばらくの沈黙の後に、晴は決心して口をひらく。
「――振られたんです」
 駒川がこちらを向いた。
「例のあの子に、この春。振られたというよりは、失恋が決定しました。……子どもを連れて歩いているところを、見て、」
「……」
「ああぼくは、こんなに彼と添いたかったのに、もう、そんな人生は用意されていないんだと分かって――」
 本音を漏らすと、声がふるえた。そう、それがなによりも痛かった。望んでいたことは、叶わないこと。ほぼ諦めていたことだったけれど、奥底の一点ではずっと期待していた。晴はうつむく。駒川は一言、「かわいそうに」と言った。
「This fight of my life is so…hard」
「……はい」
「そう、……難しいものですね」
 駒川はとん、とん、とテーブルの上で指先を叩いて戸惑っていたが、その腕を晴の背にまわして、手のひらをあてた。晴は驚いて、顔をあげた。久々に感じる人の体温だと思った。
「――さすってもらうと楽でしょう。痛いの飛んで行け、というやつです」
「……あまり優しくしないでください。ぼくは男が好きな男なので、……優しくされると期待します」
「こんなときまで自分にブレーキかける必要はないと思いますよ。どうぞ、感情に素直に」
 そんなことを言うから、泣くつもりなんかなかったのに、泣けた。情けなくなる。目元を手で覆い隠し、「すみません」と謝るも、駒川はやさしく背を叩き続ける。
 ひとしきり泣いたら、感情の昂ぶりが徐々に治まってきた。駒川がお湯で絞ったタオルを渡してくれたので、ありがたくそれを顔にあてる。
「――なにがしたいですか?」
 と駒川が訊いた。
「失恋記念。いままで我慢していて、出来なかったこともおありでしょう。なにがしたいですか?」
「……携帯電話を替えるとか、髪を切るとか、ひととおりやってしまいました」
「おお、そうでしたね」
「でも、落ち着かなくて」
「ぼくはもう一度ぐらい恋がしたいな、と思いましたよ。元嫁と別れたとき」
 駒川はそう微笑んだ。その顔を見て、元嫁、という単語を聞いて、心臓がつき、と痛んだ。
「もう苦いところもしんどいところもとことん味わい尽くしてますからね。今度恋愛したら楽しく、穏やかに恋愛できると思いました」
「……そういうのは、ぼくはもう、いいです」
「まさか。まだまだ、これから」
「……ごめんです。あの、気持ち悪い話かもしれませんが、たとえばぼくがこれから駒川先生を好きになったとして」
「――はい」
「駒川先生は女性が好きな方だし、お子さんもいらっしゃって大切にしてらっしゃるし。――ぼくに利がない。そういう思いを、もうしたくない」
 喋っているうちに、本当に苦い思いがした。駒川に失恋したような気分。
「……ぼくは、」
「たとえば、僕が野山さんを好きになったら」
 晴の言葉を制して駒川は朗らかに言う。仮定の話でも充分びっくりした。
「楽しいと思うけどな。毎日笑わせてやります。悲しい思いしている間なんかないぐらいね。確かに子どもはいますけど、ひっくるめて四人で楽しめる、と信じます」
「……ふたりがいい、と駄々をこねたら?」
「ふたりの時間もつくりますよ、もちろん」
 アニメーションがエンディングを告げる。奏がこちらを振り向いて、「ケーキ!」と叫んだ。駒川は「はいはい」と立ちあがる、その腕をそっと掴んだ。駒川は腰を宙に浮かせかけて晴を見遣る。
「――あの、……どこまで本気に、していいですか……?」
「野山さんが楽しいと思えば、どこまでも本気にしてくださって構いませんよ。――という言い方は、ずるいか」
「ずるいです」
「大人になるとずるい言い方をたくさん覚えますね。――この続きはまた、ふたりのときに」
「ふたり、……」
「大事なことなので、ゆっくり丁寧に話しあいましょう」
 にっこりと笑って、駒川は席を離れた。キッチンに向かい、冷蔵庫からケーキの箱を取り出す。「重いと思ったらケーキがたくさんだよ、奏」「すごーい!」「見せてー!」口々に叫ぶ声が聞こえる。
「わたしショートケーキと、プリン!」
「あ、だめだよ奏、プリンはきっとハレちゃんが食べるよ」
「ぼくもプリンがいい」
「野山さあん、プリンが人気なんですけどー」
 駒川が困り笑いをしながら晴を呼ぶ。まるでそこいらじゅうが眩く光っているようだった。
 好きになってもいいかもしれない、と思った。


End.


← 前編



作中出てきた歌詞はOWL CITY/Beautiful Timesより。歌詞が美しいです。




拍手[58回]

 家庭科準備室の駒川羊介(こまがわようすけ)を訪ねると、準備室内にいた駒川含む四人の教諭すべてがそれぞれの机で黙々と編み物をしていた。
「――あ、あのー、駒川先生……」非常に声をかけにくい。
「はい、はい。ここの段のこま編みだけ終わらさせてくださいそしたら話を聞きます」
 と駒川は編地から目を離さずに答えた。駒川の向かいにいた中年の女性教諭が「駒川先生のこま編み」と呟き、それを合図に他の三人が吹き出した。晴(はれる)にはその意味がちっとも分からない。なんだ、コマアミ。フェルマータやスタッカートと言ってくれた方がまだ分かるのに。
 駒川の隣の席の若い女性教諭が気を利かせて「お入りください」と、扉をあけたまま突っ立っている晴に入室を促した。
「先日から我が家庭科準備室メンバーは編み物部を結成したんです」
「編み物、ですか。なにを編んでいるんですか?」
「立川先生はサマーベスト、鈴木先生はドイリー、私がショールで駒川先生はカンカン帽です」
「――はあ」
 なんのことやら、である。すると間もなく駒川が「編めた!」と叫ぶので、駒川の机の元に寄った。机の上には糸(だと思う。なにかの繊維のかたまりにも見える)と鋏、金色の編み棒に、編みかけの編地と本が広がっていた。本に記されている記号はまったく読み取れなかったが(楽譜の方がずっとたやすく読める)、写真の女性がかぶっているのは、麦わら帽子だった。
「え、これを編んでいるんですか?」
「そうですよ」
「麦わら帽子って編めるんですか?」
「麦わらじゃないですけど、編めますよ。こういうね、ちょっと特殊な糸つかって、ぐるぐるっと編んでいけば」
「……駒川先生がかぶるんですか?」
「それもいいですけど、これは子ども用です」
 と駒川が言うと、駒川の斜め向かいに座っていた、この部屋のメンバーでは二番目に若い女性教諭が、「お子さんの誕生日プレゼントにするって約束しちゃったんですよねー」と口を挟んだ。
「あ、お子さん。……女の子と男の子、どちらの誕生日ですか?」
「女の子の方です」
「誕生日はいつ」
「四月二十五日。さてすみませんね、野山先生の用事をお聞きしましょうね」
 駒川はにこっと笑い、「島根ユリカの件ですか?」と訊いた。
「あ、そうです。昨日ぼくのところにやって来て、やっぱり実技を見てほしい、と」
「O大の幼児教育コースね。あそこは二次試験で面接と実技やりますからね。過去の課題曲、訊きました?」
「あ、はい。島根さんは中学までピアノやってた、というので、……そんなに難しくはないと思います。幼児教育ですし」
「矢野はどうです? H音大って、正直行けるもんなんですか?」
「レベルは高いですが、ひょっとすれば指定校推薦枠で行けるかもしれません。昨年、H音大にはうちからひとり推薦で出ていますが、彼女の評価が良いみたいで。矢野くん、評価点いいですしね」
「推薦っていうと、実技と面接ですか」
「そこはぼく見ますんで」
「助かります。芸術系の進路はねえ、どうしても専門科の先生にお願いするしかないんですよねえ」
「家庭科もそうじゃないですか」
「いやー、僕は編み物出来てもピアノ弾けないからね? ありがたいねえ」
 という言い方がしみじみと年寄りくさかったので、晴は思わず吹いた。駒川は同い年だ。どうも他の科と違って家庭科は、やわらかいというか、のどかというか、ものごとの受け止め方が楽観的だ。
 家庭科唯一の男性教諭である駒川は三学年ひとクラスの担任であり、こんな物言いをするが、進路指導に熱心だ。同じ高校に勤めだして三年目、同い年というだけあって気が知れていて、何度か飲みに行ったこともある、良き同僚だ。生徒や同僚らと出来るだけかかわりを持たないで来た晴だが、駒川とはなんとなく、公私ともに付き合いがある。
「ところでイメチェンしたんですね」と駒川が話題を変えた。
「え、ぼくですか?」
「そう、あなたです。髪切って、パーマでも当てました?」
「いえ、髪を切っただけです。この長さにすると、癖毛が出てしまって」
「いい感じにスタイルチェンジしましたね。似合っていますよ。ねえ?」
 と、部屋の女性教諭に同意を求めて、彼女らも笑って頷いた。「顔のかたちが良いのが分かりますねえ」「少し色入れたらもっといいんじゃないですか?」「素敵」と口々に言われ、晴は照れた。
「野山先生ってずっと同じ髪型だったから、短くすると新鮮ですね。襟足とか」
「どこ見てんですか、もう」と女性教諭のひとりが突っ込む。
「なにか心境の変化でもありましたか?」
 駒川は晴を見あげて、またにこりと笑った。晴はごまかしきれないのを感じながら、他の教諭の手前、「春なので」と答えた。
「新学期ですから」
「そうですねえ」
「では、ぼくはこれで」
 去り際、駒川に「また飲みましょう」と誘われた。軽く頷いて、家庭科準備室を出る。
 校庭が見えた。いま桜はちょうど散り際で、ひらひらと白い花びらを風に扇がせている。


 ◇


 新入生がやって来るたびに約束を思い出してはずきりと痛んでいた胸は、今年こそ痛まないだろうと思っていたのに、まだひりひりした。三月に完璧な失恋をして、それは潔い失恋だったのに、未練というものは厄介だ。長年にわたって沁みついた癖や反射かもしれなかった。
 三月以降の晴の行動と来たら、忙しかった。住居を無理に移し、携帯電話を新規で契約し直した。髪を切り、ついでに眼鏡のフレームも変えた。外見も含めて変化があれば、胸の痛みは薄れると思ったのだ。
 髪を切ったらすっきりと涼しく、視界が明るくなった。同時に、晴はついに観念した。自分はこの先、人と添うことはないだろう。ひとりで生き、ひとりの人生を全うする。誰かを想うことで心に引っかき傷をつくるのはもう金輪際ごめんだと思ったし、それでも人の傍が良い、と思う気持ちに諦めもついた。ああ、じゃあほら、ネコでもイヌでも飼おうかな。そんな気分でいる。
 砕かれた希望、期待、あたらしい覚悟。それでやってゆけると、晴はかたくなに信じ込んでいる。


 ◇


 数日後、今度は駒川の方から音楽準備室にやって来た。ちょうど部活動の指導を終えて、生徒を帰した後だった。「うちのクラスの生徒の進路について、ちょっと」という。
「ほら、軽音部の園田。このあいだようやく進路調査票を提出しましてね。音楽系の専門学校へ行きたいと、言いだしたんです」
「専門、と言ってもピンからキリまでありますから。……どこを希望してます?」
「K音楽専門学校です」
「Kなら確か資料揃ってますよ。何年か前に、ひとり進学してますね」
「あいつは素行がまあ悪くてね。家庭環境が――」
 音楽室内にある学校案内のファイルなどをめくりながら、駒川と話した。駒川の喋り方はやわらかく、穏やかで優しいが、芯がある。頑なな意思も感じる。こういう喋り方、あの子もしたな、と過去のことを思い出す。まだ胸は痛む。まだ思い出す。
 ついぼうっとしてしまったらしい。駒川に「野山先生?」と指摘され、はっとした。
「――あ、すみません。ちょっと、」
「なにか変化がありましたよね、野山さん」
 と駒川は言った。
「いつか話した彼?」
 的確に言いあてられ、ぎくりとした。沈黙は肯定だ。
 駒川とは、かなり腹を割って話をしている。晴は駒川の離婚の詳細を知っている。ふたりの子どもの親権を駒川に預けてまで駒川の元妻がしたかったことは、女性としての自立だった。自由に働きたいから、という理由で駒川ら夫婦は別れた。「それぞれに色んな道があるんだよねえ」と自分に言い聞かすように語った駒川の、いつかの夜の酔った表情を、はっきりと覚えている。
 そして晴はゲイであることを打ち明けた。秘密には秘密で返そう、という等価交換の思いがどこかで働いたのかもしれない。過ちを犯して付きあった生徒がいたこと、彼をいまでも待っていることを、駒川には告白した。やはり自分も酔っていたのだ。駒川は驚いたふうだったが、「色んな道、色んな道」としみじみ言った。その遠い表情もまた、覚えている。
 ここまであからさまに知れてしまっては、駒川にはきちんと言うべきだろう、と思い、口をひらいた。けれどなにも言えず、晴は口をつぐむ。それを何度か繰り返していると、駒川は「ぶっ」と吹き出した。
 ぴんと張り詰めていた空気がぐっと緩む。
「すみませんね、笑っちゃって。いやでも野山さん、面白くて」
「……うまく言えなくて、……すみません」
「いやー、僕も立ち入ったこと突っ込んじゃってすみません。――野山さん、今度の日曜日あいてます?」
 唐突に訊かれ、晴は顔をあげた。
「うちの子の誕生日会をやるんです。よければうち来ません? 飲んでいいですよ。なんなら泊まって行っても」
「……あいてます。でも、」
「じゃあ、おいでください。僕、腕によりをかけて料理つくりますから、野山さんはケーキを買ってきてください」
「……」
「十二時からはじめますよ」
 ね、と駒川は念押しした。その言い方がまるで子どもに言い含めるようなあまい言い方だったので、晴はなんだか恥ずかしくなった。はい、と頷くと、駒川はにこりと笑った。
「子どもが好きなのは、駅前商店街『ジゼル』のショートケーキです。下の子は、チョコレートケーキ」
「ジゼルのショートケーキとチョコレートケーキ、ですね」
「僕とあなたの分も忘れずに」
「……駒川先生はなにがお好きなんですか」
「僕はムース系が好きだな。野山さんは?」
「プリンが」
「ああ、いいですね。プリンも好きですよ」
 じゃあ日曜日に、と言って、軽やかに駒川はいなくなった。


→ 後編



晴の失恋:晴れて幕引きの青



拍手[21回]

 訃報は、遅れて届いた。出先から帰宅すると封書が届いていた。差出人は嶋田さつき。まるっこい、でも丁寧な字で綴られた手紙は、三枚にも及ぶ大作だった。
 そこに、嶋田さつきの夫・嶋田緑朗(しまだろくろう)が亡くなった旨が書かれていた。


 歳が二十歳も離れているのに、あなたのことを「友人」だと言い張る主人を不思議に思っていました。ことあるごとに、主人はなにかとあなたのことを気にかけていました。その訳が、主人が亡くなってから分かりました。主人の日記をひらいたのです。あなたへの愛情がくまなく記されていて、わたしは驚くと同時に、納得もしたのです。
 葬儀は身内だけで済ませましたが、よければ線香をあげに来ていただけないでしょうか。主人も喜ぶと思います。なにより、わたしがあなたにお会いして、お話をお伺いしたい。


 手紙にはこう書かれていた。これは嶋田さつきからの呼び出した、と理解したとき、時生(ときお)は大きくため息をついた。死んだ嶋田緑朗に、未練はこれっぽっちもなかった。死んでなお修羅場を用意してくれたことに、苛立ちすら感じる。
 そうか死んだのか、と時生は思う。ようやく死んだと思うのか、まだ生きていてほしかったと思うのか、よく分からない。ただ、それはもう少し先の話である気がしていた。時生と二十歳年の違う緑朗は六十歳で、まだ充分若いと言えた。
 手紙の最後には、嶋田さつきへの連絡先が記されていた。やむなし、覚悟を決めて時生は受話器を取った。


 ◇


 出会ったときすでに緑朗は結婚していたが、ひと目見てお互いに恋に落ちてしまった。時生は二十歳で、緑朗は四十歳、大学の助教授と学生、という間柄だった。当時、緑朗は故郷に妻子を残して単身赴任中だった。自炊するよりは学生食堂で食事を取る方が栄養があって美味しい、と言う理由で、閉店間際の学食でひとり食事を取っていた。閉店間際の学食は、その日の残り物を叩き売るので、より安価で食事が取れた。貧乏学生だった時生にそれはありがたく、やはり食堂に通っているうちに、緑朗と仲良くなった。
 お互いに熱のある目で見ていたので、性癖をカムアウトするまでもなく、ふたりは自然に恋愛関係に陥ってしまった。故郷に妻子がいることを緑朗がどう思っているのかは分からなかったが、時生にとっては、そりゃあもう面白くないことだった。顔も見たこともない妻のことを考えては嫉妬に駆られ、夜九時になると必ず緑朗が妻にかける電話を、苛ただしく思っていた。それまで散々自分を愛してくれた手や、指や、声や、身体が、九時になるともう離れ、遠い故郷の妻へ向かうのだ。時生にとってのはじめてのこの恋愛は、様々な感情をもたらして、時生を不安定にさせた。泣いてしまいそうなほどの恋の喜びから、嫉妬、鼻がつんとするほど苦い涙、付きまとう不安。緑朗は優しかったが、優しいだけ身に堪えた。恋愛して楽しいだなんて、とても言えなかった。
 時生が卒業すると同時に緑朗は故郷の大学へ赴任することになり、関係は自然解消するかと思われたが、続いた。遠いT県から緑朗は「出張」と偽ってやって来ては、我も忘れて抱きあった。時生が就職して数年経ってもまだ続いた。そのころ、時間的にも金銭的にも余裕のできつつあった時生は、夏休みを少し長めに取って、緑朗の故郷へ遊びに行った。大胆にも緑朗と妻子が暮らす緑朗宅に宿を頼み、妻が用意する食事を食べ、子らと遊び、風呂に浸かり、布団で休んだ。
 古く広い、田舎の家だった。熱帯夜で、眠りづらかった。客間に敷かれた布団に横たわっていた時生は、ふと起きあがり、縁側に出た。そこには蚊取り線香を焚きながら一杯やっている緑朗の姿があった。
「さつきさんは?」と訊くと、緑朗は「休んだよ」と言った。子どもも休んだ、と言う。そして自分が舐めていた杯を差し出して、「きみもやるかい」と時生を誘った。
「ここは蒸し暑くて、眠れないだろう」
「確かに、気候が全然ちがう」
「――しかし、きみの行動には驚いたな……」
 と、緑朗は杯に冷酒を注ぎ、それを時生に寄越す。盃を受け取って、時生はそれを舐めた。地元の酒だといい、ずいぶんと濃い芳香のする、辛い酒だった。
「おれがここへ来たこと?」
「そう、きみがここへ来たこと」
「一度見てみたかった。緑朗さんが、どんな家に住んで、どんな人と結婚して、どんな子どもがいるのか」
「悪趣味だ」
「おれに手を出してる時点でもう、悪趣味はお互い様だよ」
 喋っているうちに苛々し、疲れた、と思った。こんなところまで来て、なにをやっているんだろう。堂々とおおっぴらに恋がしたいと思った。緑朗との恋はもうどろどろに淀んで、澱が深い。
「――別れようか」
 そう言うと、緑朗は眼鏡の奥の瞳をまるくした。
「まさか、それを言いに来たの?」
「そういう訳じゃないけど、いま思いついた。もう無理、おれは疲れた。緑朗さんはそう思わない? 無理があるって分かるだろう?」
「……たとえば、ぼくが離婚したら」
「ああ、そういうのやめて。あなたは奥さんも子どもも大事なうえで、おれとこうなっているんでしょう。どっちかなんて選べっこないんだ。強欲な人だよ。……おれは、そういうところにもう、疲れた」
「……」
「別れましょう」
 そう言うと、緑朗は視線を落としたが、やがてきちんと時生に目をあわせて「はい」と言った。翌日、帰る日は緑朗の妻にたくさんの土産を持たされた。途中のPAでそれを時生はすべて捨てた。


 ◇


 あれから時生は一度も緑朗の家を訪れていないし、連絡すら取っていない。
 ずいぶんと年数が経ったので顔も思い出せやしないんじゃないかと思ったが、仏壇に置かれた遺影の緑朗を見た途端に、ちゃんと思い出した。記憶の中の緑朗よりは歳を取っていたが、緑朗だった。手を合わせ。目を閉じる。終わってから振り返ると、さつきがその様子をじっと見ていた。
 さつきもまた、変わっていなかった。それなりに緩んだししわが寄ったし膨らんだが、さつきだと分かった。「こちらへどうぞ」と言われ、仏間の隣の座敷へ移る。足の低いテーブルに冷茶とぼたもちが用意されていた。ああそうか、彼岸だっけ、とカレンダーを思い出す。
 座布団に座り、茶を煽る。春先の気温の高い日で、冷たい飲み物がありがたかった。さつきは手元に用意していた、革のカバーのかかった手帳を時生へ差し出した。同じサイズの同じく古した手帳が、何冊かある。
「これ、捨ててしまうところだったんですよ」とさつきが言う。
「え?」
「亡くなる直前に、緑朗が仲の良い友人に預けたものだったの。自分が死んだら処分してくれ、と頼んでいたそうよ。その方は、捨てようかと思ったけれど、形見になるからと言って持ってきてくださったの。ひらいて、……驚いたわ」
「拝見してよろしいでしょうか」
「どうぞ」
 日記だった。五年分まとめて書けるようになっているもので、いちばん古い日付は二十年前だった。そのどの欄にも「トキオ」という文字が記されているので、心臓が痛んだ。古い日付では、恋の喜びを。時生への愛を。別れてからは未練を、それでも時生の幸せを願う旨を。日が経つにつれて、それは闘病日記に変わった。肺を悪くしていたのだ。もう長くないと悟りながらも、「トキオは元気でいるだろうか?」と記している。


 僕がいない世界の空気も君は吸うんだろうな。
 どんな味がするものか、会って聞いてみたかった。


 最後の欄には、こう書かれていた。この「君」がさつきでなく、時生を指していることは、前の文章から充分理解できた。そもそもこの手帳にはさつきや子のことなど記されていないのだ。時生を思い慕うためだけにしたためられたものだった。
 さつきの手前、ざーっと斜め読みしただけだが、涙が溢れそうになる。こんなに想われていたことに、胸が熱くなる。自分はといえば、緑朗のことは、すでに過去のことだった。会いたい気持ちよりは、会って面倒な感情を引き起こされることを厭う気持ちの方が強かった。
「これもどうぞ」そう言ってさつきは、箱を差し出した。ちいさく細長い紙製の箱で、なにか菓子でも入っていたのだろう。開けると、綿が敷いてあった。その綿を取り除くと、枯れた小枝が出てきた。先端にまるい実がふたつばかりくっついている。
 触れるとちくりと、棘が刺さった。瞬間的に思い出した。いつか、緑朗と川っぺりを散歩したときに、ノイバラの枝を見つけた。あれは冬で、枯れ色の木々の中で赤い実をつけるノイバラを見て、なんだか無性に愛おしくなり、無理に摘んだものだった。鋏もなにもつかわなかったのでちいさな棘が時生の指に刺さり、帰宅してから、緑朗がルーペをつかいながら棘を抜いてくれた。
 その枝を大事に取っていたのだ。贈り物をしあわなかったふたりの、唯一残った「もの」だったのかもしれない。うつむいたまま、顔を上げられなかった。それでもなんとかこらえ、正面のさつきを向く。
「すみません、私は、」と口をひらきかけると、さつきが「いいえ」と制した。
「謝って欲しくてわざわざ来て頂いたのではありません」
「……」
「わたしね、緑朗には感謝しているんです。わたしや子どもに後ろめたいことがあっても、最後まで隠してくれた。一緒にいた時間はしあわせでしたし、不満はなかったわ。ただ、……あなたはそうではなかったかしら、と」
「……」
「同じ人を愛していて、こんなに差が出てしまった。わたしが女であなたが男だったからかしらね。緑朗が男の人を愛せるなんて、わたしちっとも知らなかった。……だからこれからも、知りません」
「え?」
「なんにも知らないのよ。その手帳の中身も、小枝の意味も。そういうことにしておきましょう」
 そう言ってさつきは自分の分の冷茶を飲み、「お代わりはいかが?」と訊いてきた。余裕から来るのかと思ったが、さつきの笑みは無理があるようで、この件で彼女も充分傷ついていることが窺えた。緑朗は「結構です」と固辞し、立ち上がる。暇を告げると、さつきは「そうね」と遠い瞳で微笑んだ。
 小枝と手帳は引き取った。その方がさつきにとっていい気がしたからだ。これは己が責任を持って処分しよう、と決める。帰り道、休憩のために立ち寄った高速道路のPAで、小枝を取り出して眺めた。
 まるで骨をもらったようだと思った。緑朗の骨。かつて愛していた人が残した欠片。

(僕がいない世界の空気も君は吸うんだろうな。)

 清しいよ、と時生は呟いた。緑朗のいない世界の空気は清浄で、肺を潤す。手の中の小枝を思わず握りしめる。やはり棘が刺さり、時生は痛みに呻いた。


End.



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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
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