[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ひどい嵐だったのに、迎えに来てくれた。どこの家から借りて来たのか、白い軽トラックが乱暴に駅前のロータリーへすべりこみ、鶯(おう)の傍へ荒っぽく停車した。車のタイヤがすべってたてたひどい音に耳をくらくらさせていると、それを超える音量で「鶯! このばっかやろう!!」と怒鳴られた。ああ先生だ、と思うとその怒声もひどく安心で、その場に崩れたいぐらいだった。
早く乗れ、とやっぱり怒鳴られ、感動で痺れうまく動かせない足をもたつかせながらも車に乗り込む。ごうごうと吹きこむ雨風のせいで鶯はずぶ濡れだった。びったりと濡れて貼り付いた衣類が厄介で窮屈――濡れた前髪を分け、隣で苛つきながらもハンドルを握る森尾(もりお)を向く。
ずっと焦がれていた横顔は、確かに歳を重ねた。鶯だってその分年齢を重ねているのだから当たり前か。先生、先生、と一心にこころの内で呼びかけていた。その視線をうざったいと思ったのか振り払うように左手をひらひらと振った森尾は、しかしそのまま、鶯の頭に手を伸ばした。
「こんな日に帰国して迎えに来いだなんて、ココがいかれてんじゃねえのか?」
「一日も早く先生にお会いしたかったんです」
「まる十年便りも寄越さないでよく言う」
「この雨と風じゃ、花が散ってしまいますね」
「そんな花鳥風月を惜しむアタマか、これ」
鶯の髪をくちゃくちゃとかきまわして、左手は戻る。この雨風で全部流されてしまえばいいなと鶯は思っていた。なんだっけ、あれだあれ。舟に生命を一対ずつ乗せて地上に嵐をもたらし、大掃除をしてみせた神様の話。あんな風にして先生と二人だけ乗せてもらった舟で流れ、目を覚ましたら洗った朝が待っている、なんてことがあればいいのに。
森尾が暮らすちいさくて狭い借家に着くと、森尾は「酒」と言って居間へ行ってしまった。この家の勝手は知っている。洗面所へ向かうと衣類用のかごに雑にタオルが突っ込まれており、拝借して森尾の元へ戻った。本人に会えたのだから、一分一秒でも長く森尾の傍にいたかった。三十センチの距離だって許せない。
居間で、酒はすでに封が開いていた。鶯がこの家に到着してからのたった数分間のうちにあいた量だとは思えなかったから、おそらくは鶯が電話をかけるまでひとりで飲酒をしていたのだろう。飲酒運転をしていたことになるが、そんなことはどうでも良かった。酒を楽しみとする森尾が、鶯からの一報でそれを放棄してまで迎えに来てくれたことが、鶯には重要だった。
もうこの人の傍を離れてはいけない。そう強く思ったから、コップの酒を煽っている森尾の背中に、ぴたりと貼り付いた。
「――つめてえ」と森尾は言った。
「早く着替えろ、馬鹿が」
「その着替えですが、先生が僕の荷物を軽トラックの荷台に載せるものだから、中まで濡れてしまい、ありません」
「なら裸でいろ」
「僕が裸でいるなら、先生も脱いでください」
「たわけ」
「はい。なんでもいいです」
森尾の背に頬をくっつけて喋るのは、気持ちが良かった。森尾の着ているシャツ越しに、体温がじわじわと伝わってくる。黙った森尾に調子に乗って腕を胴に巻き付けると、森尾は身を捩って「この、馬鹿」と言った。人のことを馬鹿だのうましかだの阿呆だのと呼ぶ森尾の口の悪さを思い出して少し笑えた。懐かしさに胸が熱くなる。
「ニューヨークって言ったな」と森尾がこぼし、鶯は「そうです」と答えた。一昨日まで鶯がいた場所のことだ。
「なんで急に帰国だ。凱旋ってやつでもしたくなったか」
「ちがいます。先生の噂を耳にしました」
「俺がくたばってるかって?」
「…どうして先生ほどの才能のある人が画壇にのぼらないのか、不思議に思っていました。先生が画壇というものを嫌っていることは知っていたけど、それにしても評価が追いついていないと。…ずっと西道(さいどう)先生に妨害されていたんですね。どうして、言ってくれなかったんですか」
「言うほどのことじゃねえし、俺はあいつらが嫌いだからな」
「それにしたって…僕は西道先生の元にいたのに…――」
腕に力を込めると、今度こそ森尾は大人しく従ってくれた。濡れている服が、自分と森尾の体温とで徐々にぬくまってゆく。
日本画家である森尾の元へ弟子入りしたのは、鶯が十五の時だ。
家が近所だったおかげで、偏屈で人嫌いの森尾のことは母親のネットワークを通じずとも耳にしていた。それでも森尾に惹かれた。一度、森尾が絵を描いているところをのぞき見したことがあった。夏で、縁側を開け放ち、作業場だからと畳を外した板間の上、まだ白い襖に筆を乗せていた。森尾の友人でありこの近辺の家々を檀家として持つ山上の住職からの頼みで描いていた襖絵で、線の細い太いも描き分ける絶妙なタッチは、少年ながらに心を奪われた。
真剣な横顔に惹かれたのもまた事実だ。もしかしたら僕は同性愛者かもしれない、と思いはじめていた頃に唐突に降りかかった神様からの災いのようにも思えた。心臓が痛くて仕方がなかった。同じように絵を描きたいと思ったし、森尾に気付いてほしいとも思った。
嫌がる母親を説得し、こういうわけで絵を教えてくれませんかと後日改めて頼んだ。森尾は平然と「帰れ」と言ってのけたが、鶯が折れないでいると、「めんどうくせえ」に変わった。はじめこそ「目ん玉飛び出る額の月謝を請求するからな」と言っていたが口だけで、実際は常識の範囲内だったし、たまに鶯の母親が寄越す手作りの惣菜を喜ぶ素直さもあった。人間にも惹かれてしまえば、森尾から離れる理由がなかった。森尾の指導で絵を描き、夢中で描き続ける日々を送り、学校側の推薦もあって都市部にある美術大学へ入学した。森尾の傍に留まっていたい気持ちもあったのだが、才能で森尾を凌いでやりたい気持ちもまた強かった。
美大で鶯の指導に当たった教授を、西道と言う。西道は指導というよりも、美術界での世の渡り方を教えた。在学中に数々のコンクールを総なめにした鶯は、先進気鋭の現代画家として卒業後はニューヨークに渡った。これもすべて画壇で大きな力を持つ西道の指示によるものだった。
成長した自分を森尾に認めてもらいたい気持ちが鶯をさらに大きくさせた。
だから西道が森尾の才能を妬み、画家としての森尾を阻む存在であったことは、鶯を大きく失望させた。それを教えてくれたのは、西道と森尾をよく知る、やはり西道に才能を否定され気の毒な人生を送るしかなかった画家だった。森尾もそうなるんじゃないか、いや、いまがそうじゃないのか。いてもたってもいられずに、帰国した。すべてのことを放って。
故郷までの長いながい飛行機の中、まどろみの中で一瞬、鶯は冷静になれた。
四年学んだら森尾の傍に帰ってくるつもりでいた。それが少し、遅くなってしまっただけだ。これからは森尾の傍にいればいい。一瞬たりとも離れなければいい。
ただそれだけのことだと。
→ 後編
海保
ろくに眠れないまま迎えた夜明けは、感覚としては、「ぬめって」いた。どんよりと低い空、雨風こそ止んだものの、それがかえって表現の足りなさを示しているかのような空模様だった。もっときっぱりした天気が良かった。嵐なら嵐、晴れるなら晴れて見せろ、と海保はちいさく呟く。
明け方に、蓮司は着替えて出て行った。海保はそれに気づいていながら、追いかけることも、引き止めることもしなかった。行先は分からない。蓮司自身も定めていないのかもしれない。それからゆうに三時間が過ぎて、海保は起きあがる気になった。時計を見る。時刻、午前八時に近い。ラグランシャツに袖を通すと、つめたかった。
冷蔵庫に残っていた玉子を焼き、トーストに乗せて、コーヒーと一緒に朝食とした。こんな時でも腹は減るのだから、と海保は半ばあきれる気持ちで食事をする。絵を汚されたことを海保は怒っていないが、戸惑っている。蓮司に対して、どう接していいのかきっと分からない。
自分のことなら、分かる。絵を描きたい気持ちと、それを蓮司に分かってほしい気持ちは揺るがない海保の意思だ。蓮司のことは、分からない。他人だから、いくら蓮司がスムーズに言葉を紡げたとしても、それは海保にとっては、想像でしか迫ってこない。どうして絵を汚すのか、噛みつくのか、泣いてまで傍にいるのか、分からない。海保はテーブルを見つめ、食いかけのトーストを見つめ、トーストの端からこぼれた玉子の黄身だまりを見つめる。人差し指ですくって舐めると、黄身は濃く、コーヒーを流し入れると、ひどく苦かった。
片付けもそこそこに、部屋を出た。大学の方向へ行くバスに乗り込む。大学よりひとつ手前の停留所は、ちょうど画材屋の前にある。大学構内にも画材屋はあるのだが、今日はなんとなく、目立ちたくなかった。開店直後で、人影はほとんどなかった。そこで絵具とオイルを購入し、紙袋を鞄に仕舞うでもなくぷらぷらぶら下げて、徒歩で大学まで向かう。
十分程度の距離で、蓮司のことを考えるにはちょうどよい時間だった。海保はなんとなく、左手で首筋を触る。もう痛まないし痕もだいぶ消えたが、かつてここを思い切り噛まれたことがある。あの頃から、蓮司はごく不安定な心を抱えていた。大事なものほど雑に扱いたい性分らしく、海保は色んな箇所に傷をつくった。
風も吹かず、雨も降らない曇天の下をのろのろと歩く。今頃、蓮司はなにをしているだろう。どんな気持ちでいるだろう。今夜は帰って来るのか。そもそも自分は、蓮司と暮らす部屋に帰るのか。
絵画制作室へ向かう途中、大学生協の前で、同じく油彩科四年の千奈と出くわした。まるで化粧気のない顔、ショートカット、トレーナーにタイトなジーンズ、スニーカー。いつも着ているツナギ姿ではないことから、彼女もまだ制作室には立ち寄っていないことが分かった。
千奈は海保の手元の、店名のロゴマークの入った紙袋を見て、なにが入っているのか察しをつけたのだろう、一瞬だけ眉根を寄せた。
「――今日は授業ないの、海保くん」しかし挨拶をする頃には、いつもの表情に戻っていた。
「俺、今年は卒業制作だけだから。千奈は? 授業?」
「そう、教職取ってるから、四年になったって言うのに一限目から授業があったんだよ。これから制作室行く?」
「行く」
「私も」
千奈と並んで歩き出す。千奈は昨日の事件に触れず、バイト先の児童館の話をした。放課後の子どもらに絵を描かせているのだという。時給は安いが、やりがいがある。子どもの描く絵は面白い。人手が足りていないから今度海保もどうだ、という話で、海保は「そうだな」と曖昧に笑った。子どもは、苦手だった。どう扱っていいのか分からないし、自分はおそらく一生、関わりあいがない。犬でも飼う方が現実的だろう。
絵画棟の三階にある制作室に、外階段からまわり込む。と、また海保の絵に数人の人だかりが出来ていた。海保の姿を認めると、ひとりが「海保!」と叫ぶ。
昨日汚されて、出現した銀河は、なくなっていた。F100号のキャンバスはずたずたに引き裂かれ、キャンバスの骨まで折られていた。少し後ろで千奈が「ひっ」と鋭く短い悲鳴をあげて、かえって冷静になれた。朝早く出て行った蓮司の姿が、すうっと脳内に駆ける。
「海保! これもう、被害届出した方がいいぜ!」仲間のひとりが悲痛な面持ちで言う。
「嫌がらせとしか思えない。おまえの絵ばかり狙うって、明らかにおまえに恨みがあるだろ、」
「ひどい」
「警察届けろよ」
「待った、その前に教授に報告して……昨日のこと、誰か教授に言ったか?」
仲間らは、昨日よりもずっと饒舌に喋った。海保は絵に近寄る。なにか蹴ったな、と思って見やると、それは刃がむき出しのままのカッターナイフだった。刃には暗く青い絵具が繊維と共に付着している。これで裂いた、と証言していた。
「海保くん!!」
千奈が叫ぶ。海保は絵を置き去りに、駆け出していた。
携帯電話はつながらなかった。電源自体が切られている。海保は舌打ちをしながら、続けて蓮司の職場の事務あてに電話をかけた。応答した女性職員は、蓮司はいま昼間部の講習中だという。ともかく、出勤している。いったん部屋まで戻り、自転車に乗り換えて、蓮司の勤めるアートスクールへと向かう。バスをつかうより、電車をつかうより、そちらの方が早いと判断した。
二十分ほど漕ぎ続けて、汗だくになった。荒い息を整えもせず、扉を押し開ける。アートスクールは細長いコンクリートのビルに入っていて、一階が事務所、二階、三階、四階が実技室となっている。事務所で事務員に訊ねると、海保のことを知っている事務員はなにも疑うことをせず「あと五分で講習終わるから」とコーヒーを勧めてくれた。丁寧に断り、汗をぬぐう。勧められた椅子に腰かけ、ずっと踵を鳴らしていた。
親切な事務員が海保の出現を蓮司に伝えてくれたおかげで、きっかり五分で、蓮司は現れた。その姿に、海保は驚いた。蓮司は肩まであった長い髪をばっさりと切っていた。細い顎先が露わになり、余計に寒々しく見えた。
蓮司は海保の顔を見て、またあの余裕で、意地の悪い、瞳だけは冷めた、悪夢のような笑みを浮かべた。「屋上行こうや」と上を指差す。古いビルにエレベーターは設置されておらず、四階の屋上まで、ぐるぐると階段をのぼって行った。
屋上には、こんな天気のせいか、誰もいなかった。高い建物の少ない街には、重たい雲がかかっている。フェンスを背に、海保は蓮司と対面した。蓮司はポケットを探って煙草を取り出すと、火をつける。
「――俺、もう絵はやめるよ」肺まで煙を吸い込み、深く吐きだして、蓮司はそう言い放った。
「……え」
「画家を、やめる。もっともここ数年は自分の絵なんか完成させたことないしな。依頼もない、出展もしない……そもそも端からもう、画家じゃなくなってんだ」
さっきまで固形だった風が急に溶け出して、流れはじめた。つめたい北風で、蓮司のすっきりとしてしまった首筋に吹いた一筋の風に対して、やめてくれ、と思った。もうこの人を寒くさせてやらないでほしい。この人を温めてやってほしい。海保は息を吐き、顔を歪めた。
「その必要はない」
「おまえが決めんな、俺が決めたんだから。……その方がいいのさ、おまえのために、これからおまえがつくり出す芸術のために」
蓮司は、せっかくつけた煙草をろくにふかしもせずに足もとに落とし、踏みつけて火を消した。そして握手を求めるかのように右手を差し出し、「俺が悪かった」と言った。
「絵のこと、ごめん。もうしない。怒っていい、殴っていい。……でも別れるだなんて言わないでくれ」
「……」
「愛している」
一歩、また一歩と蓮司は海保に近付く。そして海保にしがみついた。「別れるだなんて、言わないで」
海保の身体は、冷え切っていた。ここへ来るのにあんなに熱を渦巻かせていたというのに、冷めてしまった。蓮司がしがみついているのに、ちっとも温かくなかった。痩せた体を抱きしめ返しもせず、海保は空を仰ぐ。
雲が割れていた。青空がちらつき、それは、海保が目にしたどんな時の空よりも青かった。幼い頃飛行場で見た空とか、中学生の夏に学校のプールに浸かって見上げた空とか、蓮司と付きあい出して初めて行ったドライブで車中から見た空とか、海保がいままでに見てきたどの空よりも青く、高く、遠い。
いや、別れよう、と空を見上げたまま言った。蓮司の体がびくりと強張る。
「別れよう。俺が出て行く。……さようなら」
蓮司の肩を掴み、顔を見あわせてそう言うと、蓮司は苦しげに呻き、海保の手を払った。その勢いのままフェンスにぶつかり、そこに崩れ、体を折った。
海保は、蓮司を残して屋上を出る。階段をくだり、事務室に「どうもありがとう」と声をかけて、ビルを出る。振り返って屋上を見たが、蓮司がそこにいるかどうかは判別つかなかった。
一度雲が割れれば、青空はぐんぐん広がってゆく。
愛おしいな、と思った。この世界が愛おしくてたまらない。とくとくと痛む胸はしかし風に吹かれて、不思議と穏やかだ。さあっと差した光に、海保は「ようやくだ」と呟く。
ようやく絵を、思う存分描ける。差し込んだ光に、天から祝福された気がした。描ける喜びと、喪失の涼しさを平行させたまま、海保は自転車を漕ぎだした。
End.
← 4
海保のことを、心から愛している。愛せないのは、海保の才能だ。
「或る家族のかたち、或いはつながり」と題したシリーズの絵画制作を、海保は行っている。それはひとつの家族に密着した、映像で言えばドキュメンタリーみたいなもので、海保自身が接した家族を、海保がいいと思った格好でモデルになってもらい、ひとりずつ描いてゆくものだ。綿密にデッサンを繰り返し、制作に気の遠くなるような時間をかける。
海保はずっと、人間に興味を持っていた。大学に入学する前から海保の観察対象は人で、誰でも、何人でも描いた。蓮司自身もモデルになってやったことがある。目元に花を乗せたその絵は、品評会で、最高賞を取った。いまはコレクターの元にあるはずだ。あの絵でずいぶんな大金と名声と縁を、海保は得た。
何年も留年していて一向に卒業しないが、それほど海保にとって美術大学は居心地のよい場所であるようだった。そして学部生のうちから方々にファンがつき、注目もされ、コレクターまでつく、妬ましいほどの才能を持つのが海保だ。一方で蓮司は、大学を卒業し、画家と名乗ってはいるものの、そんな運も才もまるでなかった。三十歳を過ぎて、画塾をひらく仲間のお情けで講師の職を得ているが、もういい加減に、画家であることを諦めるべきだった。海保に比べれば、蓮司の才能など、「ある」うちにも入らないのだろう。神から愛された才能のある男と、「夢」にしがみつきながら一向に芽も出ず、生活のための金稼ぎに身を投じた男。そんなふたりがどういう訳で恋人同士などやっているのか、蓮司は分からなくなる。これは幸運なんかじゃなくて、災いだとすら思う。
「或る家族のかたち、或いはつながり」シリーズの、現在のモデルは、蓮司の家族だった。蓮司と、蓮司の父と、母。老いはじめた両親をモデルに絵を描く、と決めた時の海保には、激しく抵抗した。父などと会うな、母などを描くな。俺をもう、描くな。そう言ったのに、「大事な人たちだからきちんと描きたい」と言って、海保は意思を曲げなかった。
手始めが、蓮司の母・彩也子だったのだ。それを蓮司は完成間近で汚した。どういう意味で行ったか、分かっただろう。それでも「描く」と言い切る海保は、蓮司の存在そのものを否定していることに、なぜか気付かない。
蓮司の制作対象も、人だ。とりわけ家族だった。母のことは何度も描こうと試みて、そのたびに筆を折りキャンバスを裂く、という行為を繰り返している。蓮司は絵が好きだ。好きだからこそ、見る目が出来ている。その確かな「目」で自分の絵を見れば、拙すぎて、耐えられなかった。蓮司の思い描く絵を、蓮司は自らの力量不足のおかげで、描くことが出来ない。描きたいものがはっきりと見えているからこそのジレンマを、海保は悠々と乗り越えてゆく。海保の描き出す人間の迫力は、蓮司の目指すもの、そのものだった。
海保のことは、愛している。海保に触れられると、自分というかたちが溶けて、あたらしいかたちへと組成されそうだ、と嬉しくなる。たとえば自分は、どろどろの粘状になって、海保だけがつかう絵の具になりたい、と思う。そうやって海保がキャンバスに自分を描いてくれれば、永久に海保のものとして閉じ込められる。そんな夢想にふけってしまうぐらい、海保を愛している。
だから蓮司は、首を横に振った。そして海保の目を見て、「愛しているよ」と答えた。
風が吹き始めた。明らかに荒れ模様の激しい風に、髪が巻きあげられる。シャツ越しにつめたい風が突き通り、蓮司は思わず、うすい身体をふるわせた。海保はそれを見て、「中、入ろう」と部屋へと蓮司を引っ張る。
部屋の中へ入ると、海保に、背後から強く抱きしめられた。海保の容赦ない力加減に、蓮司はうなだれた。うなだれた途端に視界が涙で滲んだ。
急激に、今回の行為を、後悔した。それから、自分が情けなくなった。海保に愛されるのは、これだからいやだ。海保は蓮司自身を鏡に写し取るかのように存在する。海保の瞳に蓮司が写されて、その醜さに、蓮司はみぶるいする。
身体から力が抜け、蓮司は、その場に崩れかかる。海保の腕がそれをしっかりと支えている。蓮司の軽い体を持ちあげ、寝室へと運ばれる。
ごめん、と弱々しい声で誰へも向かっていない謝罪を口にすると、海保は息を吐いた。
「俺は、描くからね」
それはどこまでも潔く清い意思表明で、蓮司の心をすっと突き刺すナイフだった。どうして一緒にいるんだろうな、と蓮司は思う。傍にいれば、傷つけあってばかりいる。お互いがお互いにとってマイナスにしかならないのに、離れる決意が出来ない。
声もあげず、静かに嗚咽する蓮司をベッドに横たえ、海保は服を脱ぐ。海保の体には、蓮司と付きあいはじめたこの数年でついた傷が、残されている。古いものは、首筋の噛み痕から、引っかき傷、打撲傷、それらは全部、蓮司がつけた。本当は首でもへし折ったら気が済むのだろうか。考えたが怖くて出来ず、中途半端に傷は増えた。
対照に、蓮司の体は綺麗だ。海保は蓮司の体になにも残さない。
薄着になった海保が、蓮司の隣へ滑り込んでくる。涙の止まらない蓮司を、抱きしめる。まさぐる手は、決して性的なニュアンスを持たなかった。ただただ、蓮司を癒すためだけに動く。それが悲しかった。
海保の体温がじわじわと蓮司に伝わる。その熱さが、取り巻く情熱が、蓮司は怖い。
筆を持つことさえ諦めれば、この恋は幸福に成就する。分かっていて蓮司はきっと、明日もまた、苦しみながら、塾の生徒に、デッサンを指導するのだろう。
報われないと知っていて、絵も、海保も、諦めたくないのだ。自分の強欲には、ほとほと嫌気が差す。絶望の淵で、蓮司は泣いた。自分の卑怯さに、才能のなさに、海保の幸福に、海保への嫉妬に、頭痛を感じながら泣いた。
海保の左手が、蓮司の右手に絡んだ。黒く汚れた指先を、海保は撫でる。
眠って起きたら、あかるいといいと思った。冷たかった体が温まり始め、意識が混濁し始める。もし世界があかるければ、芸術の神様を嫌いにならずに済む。
海保のことも、なにもかもを愛しきれる。自分もきっと好きになる。なんだって出来る、そういう穏やかな海を、夢見ている。夢だけは見る。
やがて雨音がし始める。海保も蓮司も、目を閉じつづけた。眠れなくても、長い夜の先にある、あかるい光を待つ。
← 3
→ 5
海保が部屋に置いて行った音楽再生プレイヤーのイヤーフォンを耳に当てて、適当に曲を流していた。聞く音楽にこだわりのない男で、人が貸してくれるCDを片端からパソコンに突っ込んで、同期しては持ち出している。八十年代アイドルの歌謡曲から、クラシックの名盤まで。いま蓮司(れんじ)の耳に流れているのは、ヴィヴァルディの「四季」協奏曲第四番、アレグロ・ノン・モルト。厳しく凍える、冬の一曲だった。
ベランダの窓を開け、煙草を吸いながらそれを聞いていた。これから天気が崩れるらしく、「激しい雨が予想されます」と気象予報士が昼の情報番組で喋っていた。警戒を促してもいた。ベランダに置かれた植木の数々を、仕舞い込まなければならないな、と思いながらも、身体は動かなかった。プレイヤーの音量は最大で、そのおかげで海保の帰宅に気付かず、両側からぷつっとイヤーフォンを引き抜かれて、ようやく我にかえった。
振り返れば、恋人は難しい顔をして立っていた。
「――よぉ、おかえり」
そう言って、煙草をふかし直す、その手首を取られ、煙草がベランダの床に落ちた。すぐさま海保がそれを踏みつけ、火を消してしまう。まだ長かった。
「――もったいない」
「そっちこそ」
と、海保の目線が蓮司の指先に注がれているのが分かった。蓮司の指先は、洗っても洗っても肌の溝へと浸み込んで落ちなかった絵具で黒く汚れている。
朝早く大学へ忍び込んで制作室で蓮司がなにをしたのか、海保はすべて見通している。
「残った絵具は、来年の文化祭でつかうんだ」
「来年まで取っといたら乾いちまうだろうから、つかってやったのさ」
「文化祭だけじゃなく、学校行事は色々とあるんだ。それにつかった」
「じゃあ、小遣いやるから、買いなおして来な。アクリル絵具と、油絵具と、ペインティングオイルか。キャンバスも注文するか? あとは?」
「どうしてあんなことを?」
この件に関して、蓮司のたわごとに付きあう気はないようだった。蓮司はポケットを探る。まだ煙草は残っていただろうか。指は空の箱をつまみあげる。苛つきながら、それを手のひらで潰す。
制作室に侵入するのはたやすかった。美術大学のOBである蓮司は地理に詳しく、閉まった制作室の鍵の、ちょっとしたコツを必要とする開け方も熟知していた。まだ卒業制作提出期限に余裕のある時期だからか、徹夜で、あるいは朝早くから制作をするような学生もいなかった。勝手知ったる制作室の棚を漁って、イベントで使用するためのアクリル絵具の大きな缶を開けると、蓮司の指に、缶の内側にまとわりついた絵具が、べったりとついた。アクリル絵具特有のにおいが鼻に届く。数あるキャンバスの中から迷わずに海保の絵の前に向かい、それを思い切りぶちまけた。足りなかったので、また一缶、二缶と取り出して、缶ごと投げる。几帳面な海保らしく制作中も整然と陳列された道具の類を見て、それにも腹が立ったから、蹴散らして、絵具は足で踏みつけた。一応雑巾でスニーカーは拭ったが、おそらくまだ、絵の具がこびりついているだろう。それは靴箱に仕舞いもせず、玄関に脱ぎ捨てたままだ。
犯人が分かっているからには、もっと早くこちらへ来ると思っていたのに、海保の登場は遅かった。海保の質問には答えずに、「あの絵、どうした?」と訊き返すと、海保はかたい表情のまま首をちいさく横に振った。
「彩也子(さやこ)さんが、銀河になった」
「あの上に描いたのか」
「お遊びみたいなものだけどね。あの黒を見て、思いついた。もっと素敵に出来る、って」
「そりゃ、なにより」
ちり、と心臓の一部分が焦げついた気がした。迷ったのだ、絵具をぶちまけてやるか、キャンバスを裂いてやるか。でも、キャンバスを裂いたとして、海保はまたあたらしくキャンバスを張って、女を描きなおすだろう。蓮司が何度侵入して何度絵を壊そうが、海保は絵を描くだろう。だから今回は、「絵」を「汚す」手段を取った。あるいは、「芸術」を「汚す」手段だ。
海保は大きく深く息をついて、「また描きなおす」ときっぱり言い放った。
「これから描きなおしたんじゃ、おまえの描き方じゃあ、期限に間にあわないだろう」
「いい。大事なシリーズだから、大事に描く。彩也子さんにはまたモデルを頼む。何度も頼む。絵を汚されても、何回されても、俺は諦めない」
だったら「彩也子」を殺さないとな、と頭の片隅で思った。海保は、意思のある瞳を歪める。
「――あなたがしたことは、俺じゃなくて、芸術や、彩也子さんを、はずかしめる行為だ」
「その通り」
「そんなに憎むほど、彼女を愛してはいない? 芸術を嫌っている? それとも、」
一度目を閉じ、息を深く吐き、吸う、その一連の動作がスローモーションのように見えた。
「俺を愛せない?」
それはひどく悲しい顔だった。いい顔をする、と思う。これが見たくて、見たいはずではなかった。
← 2
→ 4
黒いアクリル絵具をぶちまけられたF100号のキャンバスの前に座り込んでから、もう五時間が経つ。海保は講義に出席せず、ずっとそこで絵を描いていた。必要があれば脚立にのぼり、大きな刷毛を時につかいながら、黒の上に、青や、黄色を、乗せてゆく。千奈は海保の後ろに椅子をひとつ取って、その様子を定点でビデオカメラをまわすように、見ていた。
なんとなく、いつか見た海保と恋人の様子を思い返していた。あの後、海保の首筋には絆創膏が貼られ、それはいつまで経っても剥がれなかった。あれ以来、海保が襟のあるシャツばかり着るようになったのも、きっと傷が残ったからだろうと察する。ひょっとして海保の身体には、恋人につけられたあの類の傷がたくさん残されているのではないだろうか。そういう想像さえしてしまう行動だった。
今回の事件も、海保が落ち着きはらっていることと言い、黙々とあたらしい絵を描き続けていることと言い、犯人は海保の恋人なのではないかと想像した。いくらなんでもまさか、と考えを振り払うが、思考がめぐる。ぞろりと黒い蛇が這うような、粘ついた暗い目をした男を思い出す。
海保は大きく伸びをして、立ちあがり、脚立を脇に除けた。絵と少しだけ距離を取り、しばらく自身の絵を見つめている。それからこちらを振り返った。いつか目を合わせた時と同じ、困ったような笑い顔だった。
「完成?」千奈は、努めて懐こく、かつ、女を殺した声で訊ねる。海保の前ではいつも性を殺す。海保には「女性」を見せて警戒されたくない、という思い込みがある。
「いや、腹が減った」
「あはは。もう五時間経ってる。学食、まだあいてるかな」
海保が描いたのは、人を飲み込み覆いつくし、沈み込ませるような、圧倒的な銀河だった。五時間、という短時間で描いたからタッチはごく荒く、しかし重い。絵の前に立つ海保の姿が、ほのかにあかるく光って見えるほど暗い銀河。一方で星々に乗せられた色味は鮮やかで、黄色や、赤や、オレンジや、緑といった、なんとも言えない色合いが灯っている。星はきっかりと空の丸写しで、日頃から星座版と実物とをよく見比べているのだろう、という観察眼が窺える。
絵の前に海保が佇んでこそ、完成の絵だと思った。一体、海保はどういう心でこれを描くのだろう。いままであれだけ丁寧に時間をかけて描いてきた絵を潰されて、それを超えて、現れた銀河。尋常な神経では、耐えられそうもないというのに。
芸術を深く愛し、また芸術から愛されている海保のことを羨ましいと思う。海保の絵にいちいち感動する自分が憎いと思う。それで千奈は、「あ」と声をあげた。声と同時に一筋の涙が頬を伝って、海保に関すれば涙もろい自分がいやになった。
海保がぎょっとした顔で、「おい、なんで千奈が泣くんだよ」と言う。
「――なんか、分かったかもしれない」
「え?」
「この絵を、潰した人の気持ち」
海保を愛していて、才能に嫉妬していて、正気じゃいられないのだろう。いっそ嫌いになれたら楽なのに。あるいは溺愛出来たら。――もし私が海保に愛されることができたとしたら、自分の才能のなさなんかとっくに見切りをつけて、海保の愛を一身に受けるだけの存在になるだろう。
「海保くん、描くの、やめちゃだめだよ」
目元を擦り、押さえながら、そう言った。
「絶対、絶対に、海保くんは描きつづけろ」
「……よく分からないけど、ありがとう」
海保は、困ったようにその場で床を二・三度踏んだ。その足踏みが可笑しくて、千奈は思わず吹き出して、顔を上げる。海保は相当に困っているらしく、「女性が泣くのは、どうもだめなんだ」と言った。
「なんで?」
「困る、これに尽きる。……男泣きも困るけど」
「そういうもの? ……ごめん、これで泣き止む」
だが海保は、人の涙に少し慣れておいた方がいいと思った。おそらくこれから、彼の人生は、人を圧倒させ続けるものだからだ。
海保の手が、こわごわ、背中に当てられる。不器用な当て方で、女性の扱いに相当苦戦していることがわかる。めし食いに行こう、と言われて、千奈は頷く。外へ出ると、階段の踊り場で風に吹きあげられた。
空模様を見て、海保が「雨でも降るのかな」と呟く。
「雨っていうか、嵐が来るらしいよ」
「今夜は晴れないのか」
「大荒れでどしゃぶりだって話」
「……星が見たかった」
その呟きは、まるで星を描いた本人さえも本物の光を知らないようなひどくもの悲しい響きで、不思議と千奈は、安堵した。
→ 3
← 1
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
| 05 | 2026/06 | 07 |
| S | M | T | W | T | F | S |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | |
| 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
| 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
| 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 |
| 28 | 29 | 30 |
