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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 ネコは、すぐ綾に見つかってひどく叱られた。それでもめげず「飼いたい」と言い続け、ついに綾が折れた。拾って来たものは仕方がないじゃないか、と祖父が快活に笑ってくれたおかげでもある。
 正式に真城の家の子となった証に、名前を付けた。縞々だから「シマ」と呼ぶと、綾は「安易だろう」と口元を緩めて息を吐いた。
 いま、笑ったのか? はじめて聞いた感情の吐息に、あたたかみを感じた。
「じゃあ、なんかいい名前、ある?」おそるおそる訊ねてみる。
「いや、おもいつかない」
「なんだよ」
 じゃあやっぱりシマだ。飼い猫には首輪をつけるものという思い込みがあって、なんとなく母親の少女時代の部屋にあった黄色いリボンをつけてみたが、シマは嫌がってすぐに取ってしまった。だったらいいかと放っておく。今のところ夜中まで子猫のトイレとごはんがうるさくて、そんな余裕がない。
 だが日々の生活は楽しくなった。ほぼ在宅で仕事をしている綾が、嫌がるかと思ったのに案外真面目に面倒を引き受けてくれた。次第に大きく重くなり家に慣れてきた子猫は、あちこちを駆け回るようになった。「青井くんのところに子猫がいる」というきっかけで、クラスメイトが数人遊びにも来た。そのうちの一人、せいたかのっぽでバレー部の柿内と喋るようになり、なんとなく一緒に過ごすようにもなった。
 ネコを飼い出してみたらいいこと尽くめだった。やっぱりあの時、拾って良かったと思う。シマ、シマ、としきりに可愛がっていたネコだったのに、シマはあっけなく死んでしまった。春間近、透馬の登校の際にぱっと外へ飛び出して、そのまま車道へ駆け出し、車に轢かれた。あっという間の出来事だった。
「――シマ!!」
 透馬の叫び声を聞きつけた綾が家から出てきた。子猫を轢いた車の持ち主が慌てて路肩に駐車し、青くなりながら透馬に近寄る。轢かれた子猫は首の方向がおかしく、透馬は情けないことに触れなかった。そこへ綾がさっと手を伸ばす。抱く、というよりは拾い上げる、に近かった。
 透馬を見て、静かに首を横に振った。まさか、うそだ、と呟いている透馬の手に、綾は子猫を持たせた。
 まだあたたかく、しかしずしりと重たかった。ゴム毬みたいにばねのあってしなやかに跳ねるはずの身体は、動かない。
「病院へ連れて行こうよ」透馬は必死で訴えた。
「だめだ。もう死んでいる」
「そんなの分かんないじゃないか」
「首の骨が折れている。おそらく内臓も。だめなんだ、透馬」
「分かんないじゃないか!」
 混乱のまま叫んだが、透馬にも回復は絶望的だと分かっていた。
 綾の手が、透馬の頭上に伸びる。
 透馬は思わずびくりと身体をひきつらせた。大人の男の大きな手が上にあれば、ろくなことはない。父親は透馬に触りもしなかったが、怒ると身振り手振りが大きくなる癖があり、それが嫌だったことを思い出す。
 身構える透馬の肩に、綾はそっと手を置いた。それは優しく穏やかで、敵意のなさを示していた。透馬の身体を学生服の上から擦りながら、うろたえっぱなしの車の運転手に「お騒がせして申し訳ない」と頭を下げた。
「いえ、ただ、いきなり飛び出してきたのでブレーキが間に合わなくて…」
「仕方のないことなんです。むしろこちらの不注意で、嫌な思いをさせたね」
「いえ……本当にごめんなさい」
「どうか今日のことはあまり気に病まずに。これから出勤でしょう、お気をつけて」
 綾はスマートに対応し、運転手を行かせた。そして透馬を振り返り、「庭に埋めてあげよう」と静かに言った。
「あのお嬢さん、隣の地区の田山さんの娘さんだ。免許取り立てでまだ運転が危なっかしい。いきなりネコが飛び出されたら、パニックになるだろうな」
 運転手をかばう言い方に腹が立った。たった今、かわいがっていたものを失った悲しみをそんなことで慰められるとでも思っているのだろうか。「仕方なくなんかない!」と怒ると、綾は口元を引き結んで黙った。
 雪と連日の低温のせいで土が凍り、なかなか穴が掘れない。綾がタオルを持ってきて子猫をそれで包んだ。連れて来た時からずっと、ゲージに入れてある子猫お気に入りのタオルだ。
「昼間、土が緩んだらぼくがやっておく。手を洗って、学校へ行きなさい」
「……いい、おれやりたい」
 学校へ行け、と叱られるだろうか。予想に反して綾は静かに頷き、「ひとまず家に入ろう」と透馬を中へ促した。
 この時はじめて、綾は透馬にあたたかい飲み物を入れてくれた。この家は基本的に自炊をしない。米だけ炊いてあとは出来合いの総菜を買ってくるか弁当を買うかで、誰も料理はしない。だから透馬はてっきり、綾は料理が出来ないのだと思い込んでいた。
 とろりとやわらかくあまいココアだ。この家にこんなものあったのか、と透馬は驚きながらもそれを口にする。
 ココアを飲んで、凍みついていた心がほろっと融けた。つんと鼻の奥が痛くなり、目からぽろぽろと涙がこぼれる。泣きたくはなかったが、泣けて仕方なかった。ああもうあいついないんだな。そこら辺をころころ跳ね飛んでいた身体は、つめたくなってしまった。
 いないんだ、あんなに可愛かったのに。懐いて、こたつにあたる透馬の膝の上で眠るのが好きだったのに。
 嗚咽を漏らしながら一通り泣いて、泣き止む頃には眠くなった。離れで仕事をしている綾をそっと窺う。今までは邪魔するなと叱られそうで入ったこともなかった。
 部屋の中で、綾はなにかを筆で書いている真っ最中だった。筆耕、という仕事がどういう仕事なのかはよく分からない。襖から顔を覗かせた透馬をちらりと見て、「なに」と紙から顔を上げずに言った。
「……今日、学校行かなくても、いい?」
 綾は筆を丁寧に筆置きに乗せてからこちらを向いた。
「明日は行きなさい」
「うん」
「おやすみ、透馬」
 泣いて眠くなっていたことはお見通しだったらしい。おやすみなさい、とちいさく返して、透馬は扉を閉めた。


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2. 透馬(過去)


 つめたい風を頬に受けながら透馬は歩いていた。枯野原の中にずっと続く道を、マフラーに顔を半分も埋めて早歩きで行く。学生服の密な生地を細い針の一本一本で刺すように北風が身体に浸みこんでゆく。
 本来ならば自転車通学が認められる距離にあるのをわざわざ歩いているのは、ヘルメットの着用義務があるせいだ。校章入りのヘルメットなんてめちゃくちゃださいものを、この辺りの中学生は律儀に被って登下校する。今までいた学校では自転車通学の生徒自体が少数で、ヘルメットをかぶって登下校せずとも親か親の手配した迎えがあり、もしくは電車やバスで通えた。ないなんて、あり得ない。なんて田舎。苛立っているのは、寒さのせいだけではなかった。
 ほっぺた赤くして、量販店で親が購入したぺらっぺらのウインドブレーカー程度の防寒で強がり、人が通れば必ず挨拶をする。方言でまくしたて、コンビニどころか自販機での買い食いも規制され、健全でのびやかにあれとする校風――そうとしか言えない、に抗いもせず事実その通りに育ってしまう、なにもない田舎。透馬はこれらが気に入らなかった。
 もっとも、都会の私立校に通えずこんな場所に転校せざるを得なかったのは自分である。期待に応えられなかったふがいなさ、プレッシャーからの解放、心細さ。透馬を苛立たせているのはそういう様々な要因からだった。
 家まで走ったとして、まだ七・八分はかかる道のりだ。この地区は果樹園が多いが、いま透馬が歩く畑の一本道は売地でなにも植えられていない。農業を続けられなくなった農家が空き地にしていたところに、少し前まではどこかの建設会社が重機や建築資材を置いていたが、いなくなった。はびこった草木は枯れ、電柱だけが続く、くすんだトーンの淋しい一本道だ。
 そうだ、淋しくてたまらない。
 透馬は父親とどうしてもうまくゆかなかった。アオイ化学工業の社長子息、透馬の将来は生まれた時から決まっていた。上に立つ人間として恥じぬようにあらゆる教育を受けたが、それらはまだ我慢出来た。頑張ると母親がご褒美をくれる。偉いわねよく出来たわねと頭を撫で、美味しいおやつが出て、好きなものを買ってもらえた。ただそれが嬉しくて、嫌な英会話もそろばんもスイミングもヴァイオリンもなんとかこなせた。
 父親はおそらく透馬が、というよりは子どもが嫌いなんだろう。もしくは人間自体が。
 どんなに頑張っても父親からは褒められることがなかった。父親にとって百点を取れなければ透馬に存在の意味はなく、九十点なら「なぜできない」と責められる。声が太くよく通る人間で、怒ると耳にびいんと響くのが怖かった。岩のような顔つきは透馬にとっては鬼だ。
 父親に刃向おうとすれば、暴力になる。言葉では勝てないからだ。だが暴力を振る舞うには透馬は優しすぎた。ものに八つ当たりも出来ないまま、透馬の選んだ道は不登校だ。部屋に閉じこもり、日がなベッドで過ごし、夜だけふらっと外へ出た。繁華街、色んな人間が通る。営業を始める飲み屋、酔っぱらったサラリーマン、風俗の呼び込み、腕を組んで歩くカップル。一通り眺め、コンビニで漫画雑誌を立ち読みし、明け方頃帰宅する。そしてまた眠る。日々はこの繰り返しになった。
 透馬の通う学校は初等科から大学までエスカレーター式に進学できる私立校で、要するに金持ちの良い子が多かった。育ちの良い彼らの中で、透馬は浮いた。不登校児童をなんとかすべく担任や養護教諭、果てはスクールカウンセラーまで出てきたが、透馬は学校へ通う気になれなかった。だからと言って家に居場所もない。いられるのは父親が仕事で出かける時間帯の自室だけだ。困り果てた母親が、ついに父親に対して強気に出た。
『透馬を私の実家へ預けましょう』
 母・誓子(ちかこ)の実家には誓子の父親と兄だけが暮らす。F県の、ずいぶんと田舎にある。父親は反対したが、その頃より透馬のふたつ違いの妹の彩湖(さいこ)の利発さや素直さに才を認めたらしく、透馬からの関心が薄れた。最終的には「すきにしろ」で「おまえはだめなやつだ」だった。そうして透馬は秋、F県へ引っ越した。
 こちらへ来てから、いいことなんかひとつもない。
 父親のいない代わりに、出歩くべく街もない。学校も友達も皆遠い。母親も祖母もいない。いるのは無口な伯父と、病院と家との往復を繰り返す老いた祖父だけだ。
 伯父―真城綾(ましろりょう)の考えていることは未だに分からない。言葉数が少なく、あっても抑揚なく喋り、常に険しい顔をしている。整った顔立ちでそうされるので、ひどくつめたい印象がある。
 気軽に声をかけにくいのに加え、先日、母が昔つかっていたという岩絵の具の小瓶を割って以来ますます気まずい。ベッドで眠る間際に少し見るだけのつもりで部屋に持ち帰ろうとして割ったそれを、綾はひどく咎めた。ガラスが危ないと言って触らせてもくれなかった。
 苛々して淋しい。心臓にまで北風が突き通っているかと思えるほどだった。だがここで帰らないわけにはいかない。友人はまだそれほど親しくないし、周囲にはなにもなく、暖を取る場所もない。風がびゅうびゅうと吹きすさぶ中を一晩過ごすなど、ありえない。だから帰るしかないのだ。
 みゃあ、とちいさな鳴き声を風の音にまぎれて聞いた。透馬は足を止める。耳を澄ますと今度は先ほどよりもはっきりと声が聞こえた。すぐ傍の空き地に段ボール箱が放置されているのが見えた。
 疑い深く、そっと近寄る。中にはちいさなネコがみっつ入っていて、ふたつはもうぐったりと動かず、残ったひとつがもぞもぞと身体をふるわせて鳴いていた。
 そっと手を伸ばす。ぐにゃりとやわらかいそれは、しかししっとりと温かい。透馬の手は冷え切っていて、もはや感覚がなかった。それでもちいさいものの体温が知れた。触れた瞬間に手放せないと確信した。
 ―連れて帰りたい。
 こんな寒い中を、こんなか弱いものを置いて帰れる人間が信じられない。怖い、と思いながらも触れた残りの二匹ははっきり分かるほど冷たかった。胸がぎゅっと絞られて痛い。縞模様の一匹を胸に抱くと、それは透馬の手に爪を立てて生きる力を伝えてきた。
 置いて帰れるわけがなかった。しかし連れて帰っても、綾に素直に申告する気になれない。いつものつめたい顔で「置いてきなさい」ぐらい平気でいいそうだ――そう考えて、透馬の結論は「言わない」ことだった。綾には内緒で飼う。家の物置に入れておけばきっと大丈夫だ、と安易に考えた。
 動物を飼ったことはない。触れた経験と言えば、学校で飼育していたウサギと鯉の餌やりぐらいだ。温めたらいいのかなにを食べさせたらいいのか、分からなくて怖い。でもこのちいさくてあたたかなものを守ってやりたい、とただそれだけを思っていた。


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 部屋の片隅に積んだ衣装ケースの中身を探っている星(せい)の後ろ姿を、すっかりぬるくなったコーヒーを飲みながらただぼんやりと眺めていた。白いTシャツと黒いボクサーパンツという恰好で、見慣れたそれにいちいち心が動いたり興奮したりはせず、ああまだ悩んでら、と思う程度だった。二の腕に出来た引っかき傷が少し痛々しい。星は乾燥肌で、特に冬場はこういう引っかき傷をよく作る。掻いてはいけないと本人もよく承知でいて、でも寝ている間に好きに掻いてつくってしまう。
 星の方向を向いた際にスツールがきいと音を立て、星が振り返った。星のことを見ている一國(いちくに)を見て、「なに着ればいいと思う?」と聞いた。
「出かけんの?」
「本屋行ってそのままカフェ、いつものコース」
「Tシャツじゃだめなの、ボーダーの」
「寒そうだからさ」
 簡単でシンプルな服装を好む男で、コットン地のボーダーTシャツは数枚色を変えて持っているぐらいの気に入りだ。普段は会社員で、スーツを着ている。休日ぐらいは楽をしながらも洒落たい気持ちがよく現れていると思う。実際、星はそういう恰好がちょうどいい。
「アウターを厚いのにすりゃいいんじゃないの。あの、中綿のモッズとか」
「あれ重たくて肩凝るんだよね。あ、そうだイチ。イチのニット貸してくれ、こげ茶のやつ」
「いいけど、洗濯して乾いてたっけな」
 一國が言うが早いか星はすぐにベランダへとつながる隣の部屋へ行ってしまった。やがて「さみ、」と言いながら戻ってくる。一國が好んでよく着ているシェットランドセーターを手に、「これにはこのパンツだな」と着る物を決めてようやく着替え始める。
 悩めば長く、だが決めたら早いのが星だ。コートまできちんと着こみ、じゃあ行ってくると去ろうとする背中に一國は「待って」と声をかけた。
「僕も行く」
「仕事は?」
「今日はもういいや」
 一國は在宅でグラフィックデザイナーの職を持っている。今日は市内に新しくオープン予定の花屋のフライヤーデザインに取りかかっていたが、星が出かけると聞いて一気に集中力が切れた。自由業、時間の調整は自分次第だ。
「本の発売日だし」
「ふうん」
「五分待って、顔だけ洗ってくるから」
「うん」
 たとえばこれが付き合いはじめの頃だったら、「うわ嬉しい」という顔ではにかんだだろう。それともはじめからこんなにそっけない奴だったっけな、と洗面所で顔と服装のチェックをしながら考える。もう昔のことで忘れてしまった。忘れるぐらいの年数を、星と一緒に過ごしている。



 星と一國が気に入っている本屋は駅より少し離れた場所にある。品ぞろえが良く、カフェが併設されていて、立地のおかげでさほど混雑する店でもないからだ。星は漫画の新刊を、一國はデザイン関連の季刊誌と小説を二冊買ってカフェに移動した。二人とも甘党で、ここに来ると絶対に甘ったるいドリンクをラージサイズで注文する。今日の注文も二人同じに、はちみつのたっぷりかかったカフェラテを。
 席に向かい合い、しばらく無言でお互いの手元に用意した本をむさぼっていた。星は漫画が楽しいらしく、家にいる時と同じように表情をくるくると変えながらページを繰っている。そんな星と自分の姿を客観視して思わず周囲を気にしたが、誰も二人に注目している人間などいやしないのだ。そりゃそうだよな、男二人で歩いてりゃみなホモだなんて思うもんか。少し前なら神経質に気にした事柄が今では平気で、思ったことすらじきに忘れる。雑誌をめくっていた一國は、尊敬している建築家のインタビュー記事を見つけて、すぐに夢中になってしまった。星といることもどうでもよくなるぐらいに。
 そのうち漫画を読み終えて退屈し出した星が、一國にちょっかいを出し始めた。どこかへ消えたな、と思うとすぐに戻って来て、本屋の文具コーナーで購入したと思われるメモ帳になにかを書きこんで、一國が読みふけっている雑誌の一ページへほいと紙片を滑り込ませてくる。
『その本おもしろい?』
 口では訊かずにわざわざこんなことをして遊ぶ星に、少々のうざったさを感じつつも一國は応じる。星の寄越したメモ帳の一枚に、日頃持ち歩いているペンで言葉を書き足す。
『おもしろいよ』
 星はにやりと笑い、またそこへ文字を足す。
『表紙の絵、見たことあると思ったら夏に展示会してた人の絵だよね』
 そうだったっけか、と表紙を見返す。そういえばいつか百貨店のギャラリースペースで展示会をしていたのを、やはり星と歩いていて見かけた。思い出した。
 星はさらに言葉を足す。一國も返してやる。
『あした会社行きたくない』
『文句言わずに通え』
『イチ、まじめ。休んでいいよ、ぐらい言っていいんじゃねえ?』
『稼ぎは大事だから』
『わかってるよ!』
『明日の弁当なにがいい』
『元気でるやつ。肉がいいなー』
『帰りに買い物』
『OK』
 つらつらと重ねて書いているうちに、星は絵を描きだした。趣味の範囲を出ない、個性的で下手の部類の、しょうもない落書きだ。なにに感化されたのか、いきなりロケットを描く。そこにみかん。ネコ、吹き出しを描いて「のんびり寝てたいにゃー」の文字。今日は出かけるまでの半日をそうして過ごしていたくせにまだ寝たいか。
 ―と、口に出して言ったら、まるでそれがゲームオーバーだったかのように星は声を立てて吹き出した。
「だって寒いんだもん。鍋で熱燗で飲みてー、飲んで酔っ払って気持ち良くなって寝てー」
 一國もつられて笑った。鍋、いいな。だから帰ろうということになり、上着を着て席を立つ。



 買い物の帰りに星がいきなり「あ」と呟いた。目線の先は暮れきった空だ。視力のわるい一國には見えないなにかを見つけたか。「人工衛星」と星が言うので、一國は思わず「どこ?」と積極的に空へ目を凝らした。
「あそこ、西の空よりちょっと北寄りに明るい星がすーっと動いてんの、わかる? 左から右に」
「わかる。え、あれが衛星?」
「この時間、まだあの辺は太陽光が当たって反射してるんだな。人工衛星自体は発光してねえもん。あんなにはっきりしてんのは俺も久々に見た」
 星の言う通りに、一等星並みに眩しい星がゆっくりと動いている。流れ星よりもずっと遅く、目で追える速度で。人工衛星なんて意識したことがなかった、と言うと、星は「俺しょっちゅう探してるよ」と言った。
「webで予測見てこの辺通るかなーとか、見てる」
「知らなかった」
「一國は空に興味なさすぎ」
「あれぐらいゆっくりだったら願い事三回余裕で唱えられるな」
「流れ星じゃねえって」
「空で光ってればなんでも星に見える」
 天体に興味を持ったことのない一國と違って、星は(その名の通りに)好きで望遠鏡まで持っている。今度星を見せてもらおうかな、と初めて思った。もう七年も一緒に暮らしているのに、なんでいまさら、と言われるかもしれないが。人工衛星をすぐに見つけられる星に、なんだかくすぐられた。
「なに唱えるの」
 星が聞いた。
「お願いごと」
 いまさら、と再び思う。星とずっと一緒にいられますようにとか、星が僕に飽きたりしませんように、などという恋愛の上澄みだけをすくったような願いは一國にはない。すぐに思い浮かぶような鮮烈で切実な望みはなかった。本当にひとつも思い浮かばなかった。
 七年も暮らして来て、星とはすっぱいのもあまいのもにがいのも経験してきた。男同士で好き合って暮らすことを悩んだり、苦に思ったりその分の大きな喜びがあったり、星が笑うたびに嬉しくなったり淋しく悲しくなったり、なんて純粋な動悸は、いつしか普通の心音と変わらなくなった。超えてきてしまったから、いまある日々は退屈で当たり前で平凡だ。きっとこの街の誰にもありふれて存在している。
「星は?」
「新しいデジカメがほしい! かな」
「じゃあ僕は洗濯機をいい加減に乾燥機付きに変えたい、かな」
「所帯じみてんなー」
「あ、衛星見えなくなりそう」
 山の際に差し掛かって消えてしまいそうな衛星に、慌てて「洗濯機洗濯機洗濯機」と唱えた。星が盛大に笑い、「買ってやるから」と一國の肩を叩いた。「人工衛星がそんな願い背負ってまわってるなんて思わなかったよ」とも言う。
「流れ星も人工衛星ぐらいの速度で落ちてくれたら世界中の人間の願いが叶うのにな」
「叶わないから願うんだろ」
「星ってロマンチストなんだかリアリストなんだか時々わかんなくなるよ」
「え、嘘だろ? 七年暮らしてて?」
「いやそんなもんだろ」
 星のことがすべてわかりたい、と思っていた付き合い当初と比べれば、いまはなんてもどかしい感情なのだろうか。だが一國は満足している。星のことが全部分かってしまったら、それはひどくつまらないと思うからだ。
 こうして言い合える誰かが星で良かった。退屈を共有できる関係が星であることが、一國の満ちた日々にしみじみとしみる。
 願い事を急いで三度唱えなくてもいい毎日。いま願うとしたら、明日もどうか同じような一日を。


end.






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 待っているから、と言っておいて、待ち続ける気はなかった。きちんと把握しなければ逃し続ける。一通りうなだれきってから首を振って立ち上がり、瑛佑は違うナンバーをコールした。
 三度目の着信音の途中で、新花が『はい』と応答した。
「……透馬、いまそちらに?」
『いえ。一緒ではない、という意味だけれど』
「どこにいるか、知ってます?」
『大方の目星は』
 ひとまずそこで安心した。
「新花さん、以前おれの味方をしてくれると言いましたよね」
『ええ、言ったわ』
「透馬のことなんですが、」
『……そんな気がしてたの。いま、立て込んでいるから。今度はあの子なにをやらかしたの?』
「別れよう、と言われました」
『なにそれ』
 新花は大きくため息をつく。
 なにが立て込んでいるのか。透馬をFに駆り立てるなにかがそちらにあるのだ。
「でもおれはそれを容認してはいないんです。話し合いたいんですが、透馬はこちらにいないと言うし、とにかく帰らないの一点張りです。……透馬がかたく隠しているなにかがなんなのか、知りたいです」
『いまこの場でいい? 会って話す方がいい?』
「いますぐ聞いて状況が変わるなら、いま。変わらないなら、直接お会いしたいです」
『ん、そうね……』電話の向こうで新花はふっと笑った。『冷静で結構だわ。頼りがいがあるわね』
『会いに来れるかしら』
「はい、行きます」
『じゃあそうしましょう』
 新花の方は時間はいつでもいいという話だった。瑛佑の次の休みは明後日だ。翌日の晩、仕事を終えてすぐ特急列車に乗り、F県の新花の元へ向かった。新花は駅まで車で迎えに来てくれていた。
「そういえばどうして別れようなんて言われた?」
 車内にて別れ話の理由を訊かれ、瑛佑は「浮気されました」と答えた。
「――らしいです。おれは現場を見ていないし、透馬の言い分も怪しいので信じてはいませんが。でも透馬は、この通りのろくでなしなので別れようって」
「浮気って、有崎と、ってこと?」
「知っているんですか」
「透馬とも有崎とも付き合いが長いからね。でも私も瑛佑さんと同じで、透馬はそんなことしてないと思う。というか、できっこない」
 実際のところは分かんないけど、と言いつつも新花の口調はきっぱりと歯切れ良かった。
「有崎、いま別の若い男に夢中のはずだし」
 新花の言い方にぎょっとした。
「そんなことまでご存知なんですか」
「大学が一緒でお互い顔を知ってるだけ。アオイの一部じゃ噂になってたのよ、透馬と有崎。それを最近は聞かなくなった上にそういう話を耳にしたの」
 確かに瑛佑の元へやって来た有崎には、あたらしい男がいた。新花の言葉に、確証はなくても正直ほっとした。本人がyesと言っている以上、事実があったのかもしれないのだが。
 なんなら有崎に訊けばいいのか、と考え、首を振った。新花に頼めば可能だろうが、そうまでして確かめても本意と外れる。知りたいのは透馬と有崎の関係よりも、透馬が別れ話を切り出した本当の理由だ。
「それに透馬は、瑛佑さんのことが本当に好きでたまんないのよ。別れようって言うぐらい」
 そうだったとして、そこが理解できない。なにも説明されないまま一方的に宇宙人ぶりを発揮されても困る。透馬の真意をきちんと知りたい。
 ふと、車のライトに照らされてなにか金色のものが映った。スピードに負けじとよく見ればそれは商業施設の看板で、瑛佑がそれを見終える直前には青色に変わり、闇に霞んで見えなくなった。いまの光り方を、瑛佑は過去に見たことがあった。花だ。
 瑛佑の視線の先に気付いていたらしく、新花が「アオイの技術よ」と説明した。
「花と同じ原理で、ああいう広告にもつかってるの」
「目立ちますね」そういえば瑛佑の住んでいる街でも、ちらほらと目にするようになった色合いだ。
「気味が悪いわ」
 ばっさりと言い捨てた新花になにも返せなかった。
「あの色はみんな嫌ってる。嫌ってるけど、青と黄色なんて補色、強烈だから脳に残っちゃうの。本当の青い花の美しさを青井は信じてないのよ」
 確かに人工物ならではの毒々しさを持つ色だとは思っていた。それにしても新花の言葉の迫力は凄まじかった。
「透馬も、嫌いなんですか」
「アオイのあの色の花? 嫌いに決まってる」
「じゃあ、あれはなんだったんでしょうね。透馬が置いてったスケッチブックに、青い花の押し花が挟んであって」
「嘘、スケッチブック?」
 ミラー越しに新花と目が合った。
「でも透馬の描いた絵ではなさそうなんです。サインが」
「もしかして、真城?」
 その通りだった。瑛佑は頷く。実物は鞄に押し込んであって、いまそれは後部座席に乗っている、と新花に話す。
「後で見せて。多分、その花は本物の青い花なんだわ」新花は言い切った。
「真城が大事にしてた花を、透馬が持ってるんだ」
「……よく、分からないですが、」
「着いたらちゃんと話す」
 あと五分くらいで着く、と言う。
「あの、透馬は、いまどこに」
「帰って来てはいないわ。もっとも、帰っては来れないけれどね。多分、友達のところに」
 新花の向かった先は真城家ではなく、別の場所にある一軒家だった。真城の家とはまた趣の違う、ごく一般的な二階建て木造住宅。「別宅」と新花が笑う。
「透馬から聞いたかしら。旦那の家よ」
 家の中から髭面の、やや頭髪の薄い髭面の男が出てきて「いらっしゃい」と頭を下げた。まなざしのやわらかな、純朴そうな男だった。
「今夜はここに泊まっていって」
「ありがとうございます。お世話になります」
「さて、……どう話そうかな、」
 通された居間で、新花は視線を左上にあげて思考をめぐらす。家の主人がコーヒーを持ってきてくれたのを機に、ようやく口をひらいた。
「真城の家は取り壊しが決まってね」
 寝耳に水だった。まったく知らぬ話に、瑛佑は耳を疑った。「え?」
「あの家は青井の持家でね。青井がそうと決めたから、取り壊し。明日には業者が入って、あそこは更地になるそうよ」
「そんなに簡単に?」
「古い家だしね……」
 透馬と過ごした三日間を想う。ここで透馬が育ったのか、と感動し、庭で焼き肉をして無茶なセックスもした家。あの古く懐かしい家が取り壊しだなんて。
 新花はコーヒーをこくりと飲んで、息を吐いた。
「あのね瑛佑さん。透馬はね、ずーっとずっと好きな人がいて、ほしいものがあって、でもそれをことごとく阻まれている可哀想な子なのよ」
 すきな人、ほしいもの。それは瑛佑ではなくおそらくは有崎でもない別の誰かだ。
 だが瑛佑の心はもう、透馬を好きでいる。笑顔が見たいと思っている。透馬の嘘を、本心を、誰よりも知りたいと望んでいる。


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「ばれた、って、ばれてやましいようなこと、したのか」
『おれが有崎さんと一緒のとこ、見たんじゃないんですか?』
 やっぱり有崎か、と思った。心のどこかで、有崎ではない潔白な間柄の誰かとなにかの必要に迫られて、という可能性を信じていた。「おれじゃない、秀実が」
『そっか、ヒデくんに見られちゃってたんですね』
「……なあ、透……」
『瑛佑さん、この通りおれはろくでなしなので、別れてください』
 一方的な言い分。さっぱり訳が分からなかった。
「なに?」
『別れて、ください。今までありがとうございました。でもおれ、やっぱり有崎さんと離れらんないっていうか、身体の相性? が良くって、無理』
「本気で本心で本音か、それ」
『……有崎さんとずっと切れてなかった、って言ったら?』
 自嘲気味に透馬は笑った。『瑛佑さんに、ずっと嘘ついてました』
『瑛佑さんのことだって、好きなんかじゃなかったですよ』
「嘘だろう」
『……本当です』
「いや、嘘だ」
 透馬の必死な声を聞いてそう思った。透馬に嘘はつけない。有崎との身体の相性が? ずっと切れていなかった? ばかな嘘だと思う。
 何度も好きだと言ってくれたことを、信じている。たくさんのキスや心までほぐす愛撫がまるきり嘘だったわけがない。瑛佑がいればいいと言ったあの時の声が本心、いまを嘘だと信じる方が無理だ。
 そもそも瑛佑に対して嘘をついて恋をして、なんの得があったと言うだろう。
『……宿が欲しかっただけなんですよ、初日も、その次も。家に帰らない理由が』
「……」
『ヒデくんみたいに単純だったら住みこんじゃおうと思ったのに、瑛佑さん、誠実だったから』
「それ、どこまで本当?」
『全部本当ですよ』
「それにしたって、いまの話じゃ無理があるだろう。宿がほしかったから好きだって言うなんて」
 話しているうちに膝がふるえてきた。透馬に関して、ただただ悲しかった。
 電話の向こうから、喉元がぐっと詰まる雰囲気が伝わった。
「いままでのことが全部、嘘?」
『――大体、瑛佑さん元は女の人の方が好きなんですから、根本からうまくいきっこないんですよ』
「それは話のすり替えだ」
『……』
「透馬、一体なんなんだ」
『……』
「本当のことが聞きたい。嘘はやめてくれ。……おれと、別れたい?」
 深い悲しみが、と思った。透馬が抱えるなにかが、透馬をひどく歪めている。冷静になれないほど、こうして突き放すことしか出来ないぐらいに。
 透馬はしばらく黙っていた。瑛佑はじっと耳をすませる。やがてちいさく『瑛佑さんはいい人すぎる』と呟いた声が聞こえた。
「電話じゃ埒あかない。透馬、いま会えるか。会おう」
『無理です』
「どうして」
『離れてるから』
「離れてる、って」
『おれいま、Fにいるから』
 さすがにそれは予想だにしなかった。
「じゃあ早く帰って来い」
『無理。帰りません』
「だったらおれが行く」
『やめてください!』
 はっきりとした拒絶だった。今度は本心だと分かる。さっきまでの「別れてください」云々とはまるで別物だった。
 触られたくないものがFに存在する。
『――とにかくおれはもう帰らないので、おしまいです、瑛佑さん』
「あのな、透馬」
 慎重に言葉を選ぶ。冷静に、いまを逃したら絶対に後悔するから、確実に。
「男だとか、不倫だとか浮気だとか、とりあえずそういうの、いい。おれは透馬っていう人間が好きなんだ。別れてくださいと言われてはいそうしますって言えないぐらい、きみが好きだ。おれにとってこれは、簡単なことじゃないんだ」
『……』
「きちんと話そう。今日はひとまず、……切るから。落ち着いたら絶対に連絡をしろよ、待っているから」
『だめです』
「だめじゃない。……待っているから、」
 電話を切るのがとても怖かったが、瑛佑の方から通話を終了した。着信拒否されたら、携帯電話を替えられたら、などととりとめないことをたくさん考えた。だがそれらは悩んでも仕方のないことに思える。
 透馬のかたくなさが悲しい。浮気があったのかどうかよりも、透馬の下手な拒絶のやり方の方がずっと悲しい。淋しい。
 その場にしゃがみこみ、しばらくうなだれていた。どうすべきか考える。どうなっているのか考える。透馬は多分嘘をついている、それだけは分かってもそれ以上は分からない。


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プロフィール
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粟津原栗子
性別:
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
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2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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