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「蒸しますね」彩がこぼす。「やっぱり店に入ればよかったかな」
「ま、日差しがないだけ昼間よりはいいだろ。ああ、少し風も出て来たか」
吹くか吹くまいか程度の微風だったが、ないよりましだった。千砂は迷っていた。再会は再会、けれどなにを話してよいものか。なにから話すべきなのか。彩の方はあれきりだんまりで、沈黙が気まずい。
仕方なく、千砂の方から喋ることにした。これくらいは、先輩としての見栄みたいなものだ。「いま、高校で教えてるんだって? 美術」
「ああ、そうです。赴任先はIです。ここより南の方になるので、夏場はほんと暑いです」
「よりにもよって高校教員とはな……。おれは、おまえはM美大に行くもんだと思っていたよ」
「はじめはM美大を受けるつもりでいましたが、事情が変わりました。高校三年生の先輩と全く同じ状況に追い込まれましたよ」
「離婚か?」
「いえ、死別です。父が急逝しました」
「それは……おれとは事情がだいぶ違うぞ」
「一緒ですよ。美大進学なんて目指しているわけにいかなくなったのですから」
「それで教育学部か」
「それでも絵の傍にいたかったので」
「……おまえは受かったんだ。すごいよな。それで教師になって、着々と」
言っているうちにむなしくなってきた。千砂が望んでも得られなかった未来をこの青年は生きている。羨望、嫉妬、……諦観、うつろな心。
「なんで夏期講習会に来なかった」と、なんとも恨みがましい台詞が飛び出て、千砂は愕然とした。
「――いや、すまない。いまのは聞かなかったことにしてくれ」
「聞いてしまいましたから、もう遅いです。……おれを待っていてくれましたか」
「別に、待ってたわけじゃ、」
「遅くなってすみませんでした。……先輩にはたくさん嘘ついたし、つかせましたね、おれ」
彩は、ベンチの背もたれに頭を預けて、足を投げ出し、暗い空を見あげるような姿勢を取った。「高校生の子どもら見てると、思うんです。おれは本当にあまっちょろいやつだったんだな、と」そう言って、息をついた。
「大きなことばかり言ってました。それが出来ると信じて、微塵も疑わなかった。そしてそれを他人にも、強要してしまった。その人のことが大好きなあまりに、どうしても同じ立ち位置でいたかった」
「大好きな人?」
「あなたのことですよ、馬鹿。前だって決死の想いで告白したのに、流された」
心臓に衝撃が走った。あまりの衝撃に息が詰まり、一拍置いて、脈がどくどくと唸り始めた。
また沈黙が出来た。千砂は大きく息を吸うと、彩に訊ねた。
「……高校生のころのおまえの夢って、なんだった?」
「画家になって、大きな賞総なめにでもして、富と名声を得る、ですかね」
「は、おれだっておんなじような夢見てた」
「いま、この歳になって思います。本当は絵が描ければそれでよかった。画家になんてならなくていい。賞とか、名声とか、そりゃあれば嬉しいけど、なくたって生きていける。たとえば、……ちいさくていいから、一室、絵の描ける部屋を持って、そこで、日々の余白の時間をつかって、絵を描く。傍らには好きな人がいて、その人と穏やかに暮らす。アトリエの場所は、森の際ぐらい、田舎でいい。夏場は涼しい風が吹く」
「……隠居したじいさんみたいな夢だな」
「素敵な夢だと思いませんか」
少し間を置いて、彩は「一生描き続けること。瞬発力ではなくて、持久力。これがほしい」と言った。
「指導していく子らの中には、途中で諦める子や、挫折する子も、多いです。絵の道で成功することは並大抵の努力じゃできませんから、おれもはじめは脅かします。その上で食いついてきた子らに指導する。家庭環境、集中力、技術に、ひらめきや発想。センス、思考する力、精神力、――まあ、とかく大変ですよ。大変なことを、おれは生徒に課しています。でも本当は、絵が好きであれば誰だって進んでいい道なんだと思う」
「……高校生の進路指導は大変そうだな、先生」
そう、千砂は笑ってやる。自分は彩みたいに美術を、絵のことを真剣に考えたことがなかったのかもしれない。だとしたら、彩の方がずっと、いまの職業は似合っている。そう思えた。
「彩、おまえ最近は絵を描いているか?」
「忙しくて、なかなか。今年この講習会に来れたことが、奇跡です」
「おれも全く描いていない。年に一度、この講習会でしか絵は描いていないよ。三百六十五分の、たった七日間だけの絵描きだ」
「ええ」
「大人になったら、ずーっと絵を描いているんだと思っていた。そういう大人になるんだと思っていて、でも、絵を手放しても生きていられるようになった。……おれも歳かな」
「まさか。まだまだでしょう」
「なあ、彩。おまえのそのじいさんみたいな夢に、混ぜろ、おれを」
そう言うと、彩は目をまるく大きくして、こちらを向いた。
「おれにも一室寄越せ。絵の描ける部屋をさ」
「……先輩はおれのこと好きってわけじゃ、ないでしょう。むしろ嫌われていいと思った。おれが先輩の立場なら、嫌いますよ、こんな後輩のこと」
「おまえのこと好きか嫌いかは、おまえの心なんじゃなくて、おれの心なんだよ」
「そうですけど……でも、」
「確かに、おまえ見てると『道』から外れたおれがむなしく思える。絵の神様に見捨てられて、おれは自分のことを可哀相だと思っていた。悔しくもあったし、憤ったし、なにより、淋しかった」
「……」
「でも、な」
不思議な気分だった。対話することで、彩という人間の輪郭がはっきり見えて、そのことが千砂は嬉しかったのだ。一度は同じ道を志した者同士だからこそ分かちあえる感情なのだと思う。
「おまえが絵ときちんと距離を置ける人間で良かった、といまは思うんだよ。虚しさとか、やるせなさとか、そういう感情を長いこと抱き続けて、手放せるときは、諦めたときなんだと思っていた。違うな。……とてもすがすがしい気持ちだ」
「本当に?」
「気分いいよ。だからな、彩。おまえの好きに、しろ」
「本気で?」
「今度、どっかの高原にでもさ、スケッチに行くか」
あの辺り、と千砂は適当に指を指して見せた。公園の樹木のあいだに、遠くの山が夜の闇に沈んでいる。もう立秋は過ぎた。高原は秋の気配だろうな、と想像する。
「交代で運転してさ」
「行きます。どこへだって、行きましょう」
「うん」
そうだな、と千砂は頷いた。そして立ちあがる。
「さて、今夜は帰るか。おれは風呂に入って、薬を塗らなきゃなんない時間なんだ」
「どこか悪いんですか?」彩の声音が一気に張りつめる。
「悪いっていうかな。夏場はいつもこうなんだけど、背中が――」
そう言いかけて、千砂は思い出した。高校三年生の夏、美術室に彩とふたりしかいなかったとき、あのときも汗ばんだ肌にワイシャツの繊維が擦れて痒みをもたらし、濡らしたタオルで肌を拭いて、薬を塗ってもらったことがあった。
彩も思い出したらしかった。「ああ」と軽く頷く。
「相変わらず、夏に弱いんですね」
それはほっとしたような、呆れたような、それでいてどこか嬉しそうにも聞こえる響きだった。
「まあ、な」
「だったらうちに、来ませんか」
と彩が言った。唐突な申し出に、千砂は目を瞠る。
「ここから車で三十分ぐらいです。幼馴染さんの家に行くよりは遠いですが、来てもらえたら、おれは嬉しい」
「うーん」
「どうせ、ひとりじゃ背中に薬を塗れないでしょう。誰が毎晩世話してくれてるか知りませんが、あなたの肌に触れていると思ったら、急に悔しくなりました」
「嫉妬って言うんだぜ、それ」
「嫉妬、結構です。うちに来てください」
ああ、彩だな、と思った。押しの強さは昔から変わらない。けれど確かに年齢を経た、千砂の後輩だ。
「――いいよ。行こう」
「はい。駐車場まで少し歩きます」
「うん」
ふたりは歩き出す。千砂のカルトンは当たり前のように彩が抱えた。わずかに前を行く後輩の後ろ姿が、いつかの夏の光景と重なって、千砂は目を細めた。
End.
← 3
「ま、日差しがないだけ昼間よりはいいだろ。ああ、少し風も出て来たか」
吹くか吹くまいか程度の微風だったが、ないよりましだった。千砂は迷っていた。再会は再会、けれどなにを話してよいものか。なにから話すべきなのか。彩の方はあれきりだんまりで、沈黙が気まずい。
仕方なく、千砂の方から喋ることにした。これくらいは、先輩としての見栄みたいなものだ。「いま、高校で教えてるんだって? 美術」
「ああ、そうです。赴任先はIです。ここより南の方になるので、夏場はほんと暑いです」
「よりにもよって高校教員とはな……。おれは、おまえはM美大に行くもんだと思っていたよ」
「はじめはM美大を受けるつもりでいましたが、事情が変わりました。高校三年生の先輩と全く同じ状況に追い込まれましたよ」
「離婚か?」
「いえ、死別です。父が急逝しました」
「それは……おれとは事情がだいぶ違うぞ」
「一緒ですよ。美大進学なんて目指しているわけにいかなくなったのですから」
「それで教育学部か」
「それでも絵の傍にいたかったので」
「……おまえは受かったんだ。すごいよな。それで教師になって、着々と」
言っているうちにむなしくなってきた。千砂が望んでも得られなかった未来をこの青年は生きている。羨望、嫉妬、……諦観、うつろな心。
「なんで夏期講習会に来なかった」と、なんとも恨みがましい台詞が飛び出て、千砂は愕然とした。
「――いや、すまない。いまのは聞かなかったことにしてくれ」
「聞いてしまいましたから、もう遅いです。……おれを待っていてくれましたか」
「別に、待ってたわけじゃ、」
「遅くなってすみませんでした。……先輩にはたくさん嘘ついたし、つかせましたね、おれ」
彩は、ベンチの背もたれに頭を預けて、足を投げ出し、暗い空を見あげるような姿勢を取った。「高校生の子どもら見てると、思うんです。おれは本当にあまっちょろいやつだったんだな、と」そう言って、息をついた。
「大きなことばかり言ってました。それが出来ると信じて、微塵も疑わなかった。そしてそれを他人にも、強要してしまった。その人のことが大好きなあまりに、どうしても同じ立ち位置でいたかった」
「大好きな人?」
「あなたのことですよ、馬鹿。前だって決死の想いで告白したのに、流された」
心臓に衝撃が走った。あまりの衝撃に息が詰まり、一拍置いて、脈がどくどくと唸り始めた。
また沈黙が出来た。千砂は大きく息を吸うと、彩に訊ねた。
「……高校生のころのおまえの夢って、なんだった?」
「画家になって、大きな賞総なめにでもして、富と名声を得る、ですかね」
「は、おれだっておんなじような夢見てた」
「いま、この歳になって思います。本当は絵が描ければそれでよかった。画家になんてならなくていい。賞とか、名声とか、そりゃあれば嬉しいけど、なくたって生きていける。たとえば、……ちいさくていいから、一室、絵の描ける部屋を持って、そこで、日々の余白の時間をつかって、絵を描く。傍らには好きな人がいて、その人と穏やかに暮らす。アトリエの場所は、森の際ぐらい、田舎でいい。夏場は涼しい風が吹く」
「……隠居したじいさんみたいな夢だな」
「素敵な夢だと思いませんか」
少し間を置いて、彩は「一生描き続けること。瞬発力ではなくて、持久力。これがほしい」と言った。
「指導していく子らの中には、途中で諦める子や、挫折する子も、多いです。絵の道で成功することは並大抵の努力じゃできませんから、おれもはじめは脅かします。その上で食いついてきた子らに指導する。家庭環境、集中力、技術に、ひらめきや発想。センス、思考する力、精神力、――まあ、とかく大変ですよ。大変なことを、おれは生徒に課しています。でも本当は、絵が好きであれば誰だって進んでいい道なんだと思う」
「……高校生の進路指導は大変そうだな、先生」
そう、千砂は笑ってやる。自分は彩みたいに美術を、絵のことを真剣に考えたことがなかったのかもしれない。だとしたら、彩の方がずっと、いまの職業は似合っている。そう思えた。
「彩、おまえ最近は絵を描いているか?」
「忙しくて、なかなか。今年この講習会に来れたことが、奇跡です」
「おれも全く描いていない。年に一度、この講習会でしか絵は描いていないよ。三百六十五分の、たった七日間だけの絵描きだ」
「ええ」
「大人になったら、ずーっと絵を描いているんだと思っていた。そういう大人になるんだと思っていて、でも、絵を手放しても生きていられるようになった。……おれも歳かな」
「まさか。まだまだでしょう」
「なあ、彩。おまえのそのじいさんみたいな夢に、混ぜろ、おれを」
そう言うと、彩は目をまるく大きくして、こちらを向いた。
「おれにも一室寄越せ。絵の描ける部屋をさ」
「……先輩はおれのこと好きってわけじゃ、ないでしょう。むしろ嫌われていいと思った。おれが先輩の立場なら、嫌いますよ、こんな後輩のこと」
「おまえのこと好きか嫌いかは、おまえの心なんじゃなくて、おれの心なんだよ」
「そうですけど……でも、」
「確かに、おまえ見てると『道』から外れたおれがむなしく思える。絵の神様に見捨てられて、おれは自分のことを可哀相だと思っていた。悔しくもあったし、憤ったし、なにより、淋しかった」
「……」
「でも、な」
不思議な気分だった。対話することで、彩という人間の輪郭がはっきり見えて、そのことが千砂は嬉しかったのだ。一度は同じ道を志した者同士だからこそ分かちあえる感情なのだと思う。
「おまえが絵ときちんと距離を置ける人間で良かった、といまは思うんだよ。虚しさとか、やるせなさとか、そういう感情を長いこと抱き続けて、手放せるときは、諦めたときなんだと思っていた。違うな。……とてもすがすがしい気持ちだ」
「本当に?」
「気分いいよ。だからな、彩。おまえの好きに、しろ」
「本気で?」
「今度、どっかの高原にでもさ、スケッチに行くか」
あの辺り、と千砂は適当に指を指して見せた。公園の樹木のあいだに、遠くの山が夜の闇に沈んでいる。もう立秋は過ぎた。高原は秋の気配だろうな、と想像する。
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「行きます。どこへだって、行きましょう」
「うん」
そうだな、と千砂は頷いた。そして立ちあがる。
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彩も思い出したらしかった。「ああ」と軽く頷く。
「相変わらず、夏に弱いんですね」
それはほっとしたような、呆れたような、それでいてどこか嬉しそうにも聞こえる響きだった。
「まあ、な」
「だったらうちに、来ませんか」
と彩が言った。唐突な申し出に、千砂は目を瞠る。
「ここから車で三十分ぐらいです。幼馴染さんの家に行くよりは遠いですが、来てもらえたら、おれは嬉しい」
「うーん」
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「嫉妬って言うんだぜ、それ」
「嫉妬、結構です。うちに来てください」
ああ、彩だな、と思った。押しの強さは昔から変わらない。けれど確かに年齢を経た、千砂の後輩だ。
「――いいよ。行こう」
「はい。駐車場まで少し歩きます」
「うん」
ふたりは歩き出す。千砂のカルトンは当たり前のように彩が抱えた。わずかに前を行く後輩の後ろ姿が、いつかの夏の光景と重なって、千砂は目を細めた。
End.
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夏になって、夏期講習会に参加するも、彩は来なかった。彩と同学年の山本という後輩が講習会に参加していたので話を聞いてみたが、「彩くん、いま東京のはずですよ」という答えに、千砂は驚く。
「あっちの方が美術予備校っていっぱいあるじゃないですか。夏休みつかってそこ行ってくるって言ってました。東京には彩くんのお父さんもいるって話ですし、ほかの同年代の仲間と切磋琢磨で、ガンガン描いてるんじゃないですか? こんな、田舎のちいさい講習会よりも」
彩の方から「夏休みに会おう」と言っておいて、これは裏切りじゃないかと、千砂は思った。思ったが、まだなんとかこらえた。山本の言う「田舎のちいさい講習会」はその通りで、高校二年生という彩の学年を考えれば、確かに美術予備校の夏期講習会に参加する方が受験のプロによる的確な指導も受けられるし、全国から集まる同学年の仲間やライバルの存在は大きい。実りがあるだろう。
翌年も千砂は市立美術館での夏期講習会に参加した。これにも、彩は来なかった。やがて風の便りで彩はM美大ではなく、H大学教育学部に合格したと聞いた。千砂が最悪のコンディションで足掻きながら受験して、受からなかった国立大学だ。そこの美術教育コースに進んだという。
何年経っても彩は現れなかった。風というのは便りばかりはしっかりと運んで来て、彩が大学を無事に卒業し、教員採用試験にも合格して、美術科の教員になれたことも知った。
千砂が目指したのは、画家だ。だからM美大へ進みたかった。しかし神様はそれを許してくれなかったから、せめて美術の傍にいたくて、千砂は教員という道を目指したのだ。それも自身の実力不足で阻まれ、高卒で農家の手伝いに明け暮れている自分がいる。そういう、現実と憧れた未来とのギャップ。自信の喪失。
彩は、まず環境に恵まれていたと千砂は思う。美術予備校に通うだけの金が用意されていたのだ。絵は、修練して見方や描き方を覚えればちゃんと上達する。それぐらいの才能や技術力は彩にはあったはずだ。だからせめて、M美大へ進学してほしかった。自分が妥協して受験してもなお受からなかった教員の道など、彩には進んでほしくなかった。
彩を信じているのか信じたいのか、夏場の七日間の夏期講習会だけを、千砂はばかみたいに受け続けている。千砂はもう何年も「絵」を描いていない。彩が知ったら幻滅するだろうか。高校生のころみたいに、ただ夢を追いかけ無我夢中になり、キャンバスに向かうことを、いまはしなくなった。
もっとも、約束破りは自分も同罪である。千砂は、あんなに強く志願しておいて、M美大を一度も受験しなかったのだから。
彩がもっと早くにこの講習会に現れていてくれたら――千砂は「諦め」という感情を知らずにいられたのに、といま、思う。
自分の負の感情に、向き合わざるを得ない。だから彩には会いたくなかった。
◇
本当に逃げてやろうかと思った。けれど、千砂は彩を待った。どうしてあんなやつの言うことなんか聞いているんだろうな、と千砂はぼんやりと考える。田舎町であれど、夏は夏だ。風が凪いでいるおかげでとても蒸し暑い夜だった。
カルトンを持つ右腕がだるい。この大きな画板は重たく、おまけに汗で湿ってきて、肘の内側が不快だった。背中に背負ったリュックサックと背中の隙間が蒸れている。肌の発疹が悪化しそうだと思った。
千砂よりも早く美術館の講座室を出たと思っていたが、彩の出現は千砂よりも十分ほど遅れた。彩は手ぶらだった。「先に駐車場の車に荷物を積んでいたので」と言う。
「先輩、車じゃないんですね。ここまでどうやって通ってます?」
「幼馴染が嫁さんもらって、この近くのマンションに住んでるんだよ。車動かすのがあほくさくなるぐらいの距離だ。講習会中は、そこに世話になってる」
「なるほど。じゃあ、そのカルトンはおれが持ちます」
と、千砂のカルトンを彩は引き取り、脇に抱える。長く細い腕は学生時代と変わらない。「なに食べたいですか?」と彩は訊ねてきたが、千砂は到底食事などできそうになかった。彩の出現で、吐きそうになるぐらい緊張していた。
「おれはめしはいらねえ。飲み物だけありゃいいからさ、おまえの好きな店に行きな」
「食べないんですか? なにか食べて来てた?」
「いいや、別に特に腹が減ってるわけじゃないから」
「おれも同じです。腹が減っているわけじゃないです。ただ、先輩と話がしたいと思ったから、適当な言い訳作りました。こじつけです」
「じゃあその辺の自販機かコンビニで飲み物でも買って、夜の公園のベンチ、でもいいわけだな」
その方が気兼ねなく話が出来そうだった。美術館の裏手にはわりと大きな公園があるのだ。彩が「そうですね」と同意したので、コンビニまで歩いてめいめいの飲食を買い、また歩いて公園にやって来た。
「夜の公園って好きですか、先輩は」
「変なやつが多そうだからあまり近づかない、かな。おまえは?」
「最近、夜走ることを習慣にしているので、設備の立派な、外灯で明るいような公園ならよく利用します。ほら、空港周辺のスポーツ公園とか」
「ふうん。じゃあまあ、明るいところに座っとくか」
すぐ脇に外灯のあるベンチを選び、並んで座った。外灯には夜虫が群れていたが、そんなに気になるほどの大きさや数でもなかった。
講習中はビールが飲みたいと思ったが、コンビニで千砂が購入したのはペットボトルの冷茶だった。それと口しのぎ程度のチョコレート菓子。彩も炭酸飲料のほかにパンを買っていた。それらをがさがさと音を立てながら、まずは口にした。
← 2
→ 4
「あっちの方が美術予備校っていっぱいあるじゃないですか。夏休みつかってそこ行ってくるって言ってました。東京には彩くんのお父さんもいるって話ですし、ほかの同年代の仲間と切磋琢磨で、ガンガン描いてるんじゃないですか? こんな、田舎のちいさい講習会よりも」
彩の方から「夏休みに会おう」と言っておいて、これは裏切りじゃないかと、千砂は思った。思ったが、まだなんとかこらえた。山本の言う「田舎のちいさい講習会」はその通りで、高校二年生という彩の学年を考えれば、確かに美術予備校の夏期講習会に参加する方が受験のプロによる的確な指導も受けられるし、全国から集まる同学年の仲間やライバルの存在は大きい。実りがあるだろう。
翌年も千砂は市立美術館での夏期講習会に参加した。これにも、彩は来なかった。やがて風の便りで彩はM美大ではなく、H大学教育学部に合格したと聞いた。千砂が最悪のコンディションで足掻きながら受験して、受からなかった国立大学だ。そこの美術教育コースに進んだという。
何年経っても彩は現れなかった。風というのは便りばかりはしっかりと運んで来て、彩が大学を無事に卒業し、教員採用試験にも合格して、美術科の教員になれたことも知った。
千砂が目指したのは、画家だ。だからM美大へ進みたかった。しかし神様はそれを許してくれなかったから、せめて美術の傍にいたくて、千砂は教員という道を目指したのだ。それも自身の実力不足で阻まれ、高卒で農家の手伝いに明け暮れている自分がいる。そういう、現実と憧れた未来とのギャップ。自信の喪失。
彩は、まず環境に恵まれていたと千砂は思う。美術予備校に通うだけの金が用意されていたのだ。絵は、修練して見方や描き方を覚えればちゃんと上達する。それぐらいの才能や技術力は彩にはあったはずだ。だからせめて、M美大へ進学してほしかった。自分が妥協して受験してもなお受からなかった教員の道など、彩には進んでほしくなかった。
彩を信じているのか信じたいのか、夏場の七日間の夏期講習会だけを、千砂はばかみたいに受け続けている。千砂はもう何年も「絵」を描いていない。彩が知ったら幻滅するだろうか。高校生のころみたいに、ただ夢を追いかけ無我夢中になり、キャンバスに向かうことを、いまはしなくなった。
もっとも、約束破りは自分も同罪である。千砂は、あんなに強く志願しておいて、M美大を一度も受験しなかったのだから。
彩がもっと早くにこの講習会に現れていてくれたら――千砂は「諦め」という感情を知らずにいられたのに、といま、思う。
自分の負の感情に、向き合わざるを得ない。だから彩には会いたくなかった。
◇
本当に逃げてやろうかと思った。けれど、千砂は彩を待った。どうしてあんなやつの言うことなんか聞いているんだろうな、と千砂はぼんやりと考える。田舎町であれど、夏は夏だ。風が凪いでいるおかげでとても蒸し暑い夜だった。
カルトンを持つ右腕がだるい。この大きな画板は重たく、おまけに汗で湿ってきて、肘の内側が不快だった。背中に背負ったリュックサックと背中の隙間が蒸れている。肌の発疹が悪化しそうだと思った。
千砂よりも早く美術館の講座室を出たと思っていたが、彩の出現は千砂よりも十分ほど遅れた。彩は手ぶらだった。「先に駐車場の車に荷物を積んでいたので」と言う。
「先輩、車じゃないんですね。ここまでどうやって通ってます?」
「幼馴染が嫁さんもらって、この近くのマンションに住んでるんだよ。車動かすのがあほくさくなるぐらいの距離だ。講習会中は、そこに世話になってる」
「なるほど。じゃあ、そのカルトンはおれが持ちます」
と、千砂のカルトンを彩は引き取り、脇に抱える。長く細い腕は学生時代と変わらない。「なに食べたいですか?」と彩は訊ねてきたが、千砂は到底食事などできそうになかった。彩の出現で、吐きそうになるぐらい緊張していた。
「おれはめしはいらねえ。飲み物だけありゃいいからさ、おまえの好きな店に行きな」
「食べないんですか? なにか食べて来てた?」
「いいや、別に特に腹が減ってるわけじゃないから」
「おれも同じです。腹が減っているわけじゃないです。ただ、先輩と話がしたいと思ったから、適当な言い訳作りました。こじつけです」
「じゃあその辺の自販機かコンビニで飲み物でも買って、夜の公園のベンチ、でもいいわけだな」
その方が気兼ねなく話が出来そうだった。美術館の裏手にはわりと大きな公園があるのだ。彩が「そうですね」と同意したので、コンビニまで歩いてめいめいの飲食を買い、また歩いて公園にやって来た。
「夜の公園って好きですか、先輩は」
「変なやつが多そうだからあまり近づかない、かな。おまえは?」
「最近、夜走ることを習慣にしているので、設備の立派な、外灯で明るいような公園ならよく利用します。ほら、空港周辺のスポーツ公園とか」
「ふうん。じゃあまあ、明るいところに座っとくか」
すぐ脇に外灯のあるベンチを選び、並んで座った。外灯には夜虫が群れていたが、そんなに気になるほどの大きさや数でもなかった。
講習中はビールが飲みたいと思ったが、コンビニで千砂が購入したのはペットボトルの冷茶だった。それと口しのぎ程度のチョコレート菓子。彩も炭酸飲料のほかにパンを買っていた。それらをがさがさと音を立てながら、まずは口にした。
← 2
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◇
彩は高校の後輩で、二学年うしろにいた。千砂が所属していた美術部に彩が入部してきたとき、千砂は「生意気だな」と思ったことをよく覚えている。一年生のくせに千砂よりも身長が高かったせいかもしれない。それでいて逞しいわけではなく、華奢に部類出来る身体つきをしていた。制服のワイシャツが痩せた体躯によく似合っていた。入学して初年度という学年は誰も初々しいものだと思っていたが、彩は程よくこなれて、自分のスタイルを確立していたように思う。
性格は、非常にマイペース。自分以外の他人に興味がなく、人からの評価も気にしない。そういうところにも、苛々した。千砂は人の目を気にしてばかりいたからだ。
千砂のどこが彼のお気に召したのか、彩は千砂に懐いた。
先輩、先輩とよく慕ってくれた。千砂が目指していたM美大へおれも行きたい、と言うようになった。千砂の家はあまり裕福ではなかったので、国公立であろうと美大進学は難しそうだったのに、彩は「才能も実力のある人が大学という研究機関で学べないのはおかしい」と異を唱え続けてくれた。千砂の絵を褒め、「おれもこんな絵が描けるようになりたいです」と感動してくれた。
千砂にとって高校三年生という年は、怒涛だった。受験生という大事な時期に、父母が離婚したことがまず大きかった。千砂は進路希望先を変更せざるを得ず、美大から美術系の教育学部に志願を変えた。どうせ美大に行ってもまともな就職先は望めない。美術の教員にでもなれれば公務員で一生食べるに困らないだろうと踏んだ。絵ばかり描いて来た高校生活で、センター試験対策はろくにしてこなかったため、教師との相談の結果、実技重視の国立大学を選んだ。しかし急な志願変更では間に合わず、推薦入試を受験するも、失敗する。受験はストレスでしかなく、楽しかったはずの実技の練習時間が、苦痛になった。第二志望、第三志望と続けて受験したが、どれもだめだった。進学先が決まらなくても、高校は時期が来れば卒業してしまう。最後の抵抗とばかりに三学期の期末になって欠席を続けたが、いままで人の目を気にして素行が良かったために、大した足掻きにもならなかった。
経済的に困窮していたために、浪人、という道すらも選べなかった。食べていくために働かざるを得ず、しばらくは千砂の母方の叔父で農業を営んでいる家に世話になることになった。比較的大きな農家で、桃やプラム、りんごなど果樹を育てており、またそれらを加工してジャムやジュースも作っていた。
ことが決まると、急に引っ越しになった。県外へは出ないが、ここよりもっと田舎の町へ行く。引っ越しの手伝いにと、春休みをつかって彩は千砂の家へ来た。「人手はないよりあるに越したことないでしょう」と言い、千砂の部屋の衣類や雑貨などを手際よくまとめてゆく。
「慣れているんだな」と言うと、彩は「おれの家は転勤族ですから」と答えた。
「高校にあがる前までは父の転勤について行きましたけど、大学受験もあることだし、と言って高校からは祖父母の家にいます。そうやって生活が落ち着くまでは、あっちこっちしてました」
衣類を畳み、段ボールへ詰めて、封をしてマジックで「冬服」と書きこむ。そして「これはどうしますか」と、千砂が大事にしている画材の類を指して言った。
「持って行きますよね、当然」
「……おれひとりで叔父さんの家に一部屋もらえるわけじゃないんだ。農繁期のお手伝いさんと相部屋だって。イーゼルとかカルトンとかキャンバスとかな、そんなでかくて邪魔なもの持って行けないよ」
「絵を描くのを、やめる、ということですか?」
「いまは、という意味だ。やめねえよ。やめられるもんか。でも、……そんな状況にいま、おれがいない」
しばらく部屋を沈黙が支配した。そして彩は、「じゃあこれ、おれが預かっておきます」と言った。
「おれ、カルトンは持っているけどイーゼルまでは持ってないんです。家での練習用に、借りていていいですよね」
「おまえな」
「先輩、おれはM美大を受けるつもりでいます」
彩はそう言い放った。力強い瞳が千砂を捉えにかかる。そのまなざしから千砂は逃れるように、目線を日に焼けささくれた畳の目に落とした。真正面から彩に立ち向かえない。立ち向かうだけの力が、そのときの千砂にはなかった。
「だから先輩もM美大を受験してください」
「受からねえよ、どうせ。受かっても金がねえ」
「じゃあ、死に物狂いで働いて金貯めて、めっちゃめちゃ実技も練習して、誰よりも上手くなって大学に来てください。待っていますから」
「なんだよ、おまえはもう受かったような口をきくんだな。デッサンでハーフトーンも作れないくせに」
「十代の伸びしろを馬鹿にしたらいけないと、これは祖父がよく言います。夢は叶うものだし憧れには手が届くときが来る、と。それをおれも信じています。おれだって死に物狂いで勉強して、実技も練習します。だから先輩、」
「……」
「一緒に行きましょう」
彩の目は野望に燃えて光っていた。千砂は深く大きくため息をつく。後輩にこんなことを言われたら、自分には無理だと諦めてしまうことの方が難しいような気がした。とっくに消えたかと思っていた炎が、息を吹きかけられて再び燃え始める。やはり、なんとしてでも、なにがなんでも、自分の力で美大へ進学したいと思った。
彩が「夏期講習会」と思いついたように呟いた。
「あ?」
「夏場、市立美術館で一週間だけ開催される講習会です。去年、先輩が参加した、」
「ああ、美術館の講座室つかって裸婦デッサンやるやつ? あれが、なに」
「学生から一般まで、安い講習料で参加できますよね。去年はおれ行けなかったけど、今年は参加するつもりです。そこでまた会いましょう」
「……分かった」
その答えを聞いて安堵したのか、彩は微笑んでみせた。「また会えますよね、絶対」
「高校卒業して引っ越しするって言ったって、死ぬわけじゃねえんだから」
「うん、そう、良かった。おれ、先輩が好きだから、もう会えないのは嫌なんです」
彩は満足そうに息を吐いたので、その「好き」がどういう意味で発せられたものなのか、千砂はつい聞き損ねた。同性の先輩と後輩で、仲が良ければ、「好き」という感情はごく当たり前に持つものなのだろう、という風にも捉えた。
「じゃあ、元気で」
「また夏休みに」
ほこほことぬるい春の夕暮れの中を、彩は軽い足取りで自身の家へと帰宅して行った。それが最後に見た彩の後ろ姿だった。
← 1
→ 3
彩は高校の後輩で、二学年うしろにいた。千砂が所属していた美術部に彩が入部してきたとき、千砂は「生意気だな」と思ったことをよく覚えている。一年生のくせに千砂よりも身長が高かったせいかもしれない。それでいて逞しいわけではなく、華奢に部類出来る身体つきをしていた。制服のワイシャツが痩せた体躯によく似合っていた。入学して初年度という学年は誰も初々しいものだと思っていたが、彩は程よくこなれて、自分のスタイルを確立していたように思う。
性格は、非常にマイペース。自分以外の他人に興味がなく、人からの評価も気にしない。そういうところにも、苛々した。千砂は人の目を気にしてばかりいたからだ。
千砂のどこが彼のお気に召したのか、彩は千砂に懐いた。
先輩、先輩とよく慕ってくれた。千砂が目指していたM美大へおれも行きたい、と言うようになった。千砂の家はあまり裕福ではなかったので、国公立であろうと美大進学は難しそうだったのに、彩は「才能も実力のある人が大学という研究機関で学べないのはおかしい」と異を唱え続けてくれた。千砂の絵を褒め、「おれもこんな絵が描けるようになりたいです」と感動してくれた。
千砂にとって高校三年生という年は、怒涛だった。受験生という大事な時期に、父母が離婚したことがまず大きかった。千砂は進路希望先を変更せざるを得ず、美大から美術系の教育学部に志願を変えた。どうせ美大に行ってもまともな就職先は望めない。美術の教員にでもなれれば公務員で一生食べるに困らないだろうと踏んだ。絵ばかり描いて来た高校生活で、センター試験対策はろくにしてこなかったため、教師との相談の結果、実技重視の国立大学を選んだ。しかし急な志願変更では間に合わず、推薦入試を受験するも、失敗する。受験はストレスでしかなく、楽しかったはずの実技の練習時間が、苦痛になった。第二志望、第三志望と続けて受験したが、どれもだめだった。進学先が決まらなくても、高校は時期が来れば卒業してしまう。最後の抵抗とばかりに三学期の期末になって欠席を続けたが、いままで人の目を気にして素行が良かったために、大した足掻きにもならなかった。
経済的に困窮していたために、浪人、という道すらも選べなかった。食べていくために働かざるを得ず、しばらくは千砂の母方の叔父で農業を営んでいる家に世話になることになった。比較的大きな農家で、桃やプラム、りんごなど果樹を育てており、またそれらを加工してジャムやジュースも作っていた。
ことが決まると、急に引っ越しになった。県外へは出ないが、ここよりもっと田舎の町へ行く。引っ越しの手伝いにと、春休みをつかって彩は千砂の家へ来た。「人手はないよりあるに越したことないでしょう」と言い、千砂の部屋の衣類や雑貨などを手際よくまとめてゆく。
「慣れているんだな」と言うと、彩は「おれの家は転勤族ですから」と答えた。
「高校にあがる前までは父の転勤について行きましたけど、大学受験もあることだし、と言って高校からは祖父母の家にいます。そうやって生活が落ち着くまでは、あっちこっちしてました」
衣類を畳み、段ボールへ詰めて、封をしてマジックで「冬服」と書きこむ。そして「これはどうしますか」と、千砂が大事にしている画材の類を指して言った。
「持って行きますよね、当然」
「……おれひとりで叔父さんの家に一部屋もらえるわけじゃないんだ。農繁期のお手伝いさんと相部屋だって。イーゼルとかカルトンとかキャンバスとかな、そんなでかくて邪魔なもの持って行けないよ」
「絵を描くのを、やめる、ということですか?」
「いまは、という意味だ。やめねえよ。やめられるもんか。でも、……そんな状況にいま、おれがいない」
しばらく部屋を沈黙が支配した。そして彩は、「じゃあこれ、おれが預かっておきます」と言った。
「おれ、カルトンは持っているけどイーゼルまでは持ってないんです。家での練習用に、借りていていいですよね」
「おまえな」
「先輩、おれはM美大を受けるつもりでいます」
彩はそう言い放った。力強い瞳が千砂を捉えにかかる。そのまなざしから千砂は逃れるように、目線を日に焼けささくれた畳の目に落とした。真正面から彩に立ち向かえない。立ち向かうだけの力が、そのときの千砂にはなかった。
「だから先輩もM美大を受験してください」
「受からねえよ、どうせ。受かっても金がねえ」
「じゃあ、死に物狂いで働いて金貯めて、めっちゃめちゃ実技も練習して、誰よりも上手くなって大学に来てください。待っていますから」
「なんだよ、おまえはもう受かったような口をきくんだな。デッサンでハーフトーンも作れないくせに」
「十代の伸びしろを馬鹿にしたらいけないと、これは祖父がよく言います。夢は叶うものだし憧れには手が届くときが来る、と。それをおれも信じています。おれだって死に物狂いで勉強して、実技も練習します。だから先輩、」
「……」
「一緒に行きましょう」
彩の目は野望に燃えて光っていた。千砂は深く大きくため息をつく。後輩にこんなことを言われたら、自分には無理だと諦めてしまうことの方が難しいような気がした。とっくに消えたかと思っていた炎が、息を吹きかけられて再び燃え始める。やはり、なんとしてでも、なにがなんでも、自分の力で美大へ進学したいと思った。
彩が「夏期講習会」と思いついたように呟いた。
「あ?」
「夏場、市立美術館で一週間だけ開催される講習会です。去年、先輩が参加した、」
「ああ、美術館の講座室つかって裸婦デッサンやるやつ? あれが、なに」
「学生から一般まで、安い講習料で参加できますよね。去年はおれ行けなかったけど、今年は参加するつもりです。そこでまた会いましょう」
「……分かった」
その答えを聞いて安堵したのか、彩は微笑んでみせた。「また会えますよね、絶対」
「高校卒業して引っ越しするって言ったって、死ぬわけじゃねえんだから」
「うん、そう、良かった。おれ、先輩が好きだから、もう会えないのは嫌なんです」
彩は満足そうに息を吐いたので、その「好き」がどういう意味で発せられたものなのか、千砂はつい聞き損ねた。同性の先輩と後輩で、仲が良ければ、「好き」という感情はごく当たり前に持つものなのだろう、という風にも捉えた。
「じゃあ、元気で」
「また夏休みに」
ほこほことぬるい春の夕暮れの中を、彩は軽い足取りで自身の家へと帰宅して行った。それが最後に見た彩の後ろ姿だった。
← 1
→ 3
鉛筆や木炭が紙の上を滑る。そういう、乾いてかすれた音しか聞こえない。周囲はものすごい熱気に包まれている。盛夏のさなかだというのに冷房を端から切ってあるのは、フロアの中央にポーズを取った裸婦がいるからだった。ヌードモデルを中心にして、イーゼルが乱立している。ちょっとした森みたいになっている。
裸婦を前にみな、自分の腕前を信じて夢中でデッサンをしている。千砂(ちずな)もそのひとりで、しかし彼はいま背中に猛烈な痒みを感じていた。夏はこれだから嫌だ。千砂の肌は夏にとことん弱く、汗や紫外線や衣類の繊維といった刺激ですぐに発疹を起こし、それは痒みをもたらす。
肌の上を汗が滑り落ちる感覚に思わず身震いした。白いシャツの下で、千砂の肌は熱く湿り気を帯びて、発汗している。下着の中など蒸れてぐちゃぐちゃで、気持ちが悪かった。早く家に帰ってシャワーを浴びたい。クーラーをガンガンに効かせた部屋でビールの一杯でも仰いで、なにも考えずに大の字で眠ってしまいたい。
「手が止まりましたね。少し見ましょうか」
と、講師に声をかけられ、千砂の意識が場に戻る。老齢の柔和な面差しの講師に促され、千砂は一礼してから自分のポジションを講師に譲った。
いまは夏期講習会の真っ最中だ。講習内容は、裸婦デッサン。千砂が幼少から住むこの街の、市立美術館とそれを母体として動く美術会が主催して毎年行われている。七日間のみだが参加者は多く、抽選となる年もある。若い者は高校生からいて、千砂自身も高校生のころから参加している。
「ここ、骨盤があるのが感じられないように思うんです」
と、立ちポーズの裸婦と、千砂がワトソン紙に引っ張った線を見比べて、講師が指摘する。
「若干ですが、寸胴に見えます。もう少しメリハリがついた方が裸婦らしいと思います。腰の線はもっと内側に入るでしょう。それから下半身へ、尻の辺りは膨らんで、大腿へ。骨に脂肪と筋肉がついて皮膚で包んでいることを、意識して」
「はい」
「あとは大方いいとは思います。そこだけ直したら、――水彩道具を持っているようですが、これから着彩しますか?」
「そうです。形だけ取れたら」
「ではもう着彩してください。着彩しながらでも直せるかたちだと思います。色を入れるとき、背景も描きこんでください。雰囲気で結構です。あなたはこれだけ描きこめる人ですから、デッサンを完成させるというよりは、絵として画面を完成させることに意識を置きましょう」
「背景、」
裸婦を挟んで向かい側にも、千砂と同じくイーゼルを立ててデッサンを行っている人物が複数いる。あえてそちらに目をやらないようにしていて、講師から指摘されたので千砂はぎくりとした。
「裸婦だけでは、絵が浮きます。いつまでも画学生のような絵を描いていればいいというわけではありませんよ。もうそろそろ一段階上へ進みましょう」
この講師は千砂が高校生のころから変わらずで、もう何年も千砂の絵を見てくれている。痛いところを突かれて、千砂は思わず目を閉じる。同時に裸婦がセットしたアラームが鳴り、今日の講習の終了を告げた。
「じゃあ、明日は着彩から始めてください。腰の辺りの形を直しながら」
「はい。ありがとうございました」
講師が去る。皆がイーゼルを片付け始める。その流れに逆らって、千砂と対岸でデッサンをしていた男が、千砂の方向へずんずんと歩みを進めて来た。細い涼やかな目、際にほくろが浮く。端正に顔立ち整った良い男だ。もっとも、千砂自身はそのことをあまり評価していない。
「――先輩」
と男が言った。千砂はこの講習会に今年ばかりは参加しなければよかったと後悔している。
「彩(さい)、」
「この後なにか予定はありますか? どこかでめしでも、行きませんか」
「おまえ、そんなのんきにしている暇があるのか? 明日も学校だろ」
「いまは夏休みですから」
彩はふっと目を細めた。
「片付け終わったら、美術館の門で待っていてください。逃げないでくださいよ」
「は、」
彩は言うだけ言うと、自分のイーゼルの元へ小走りに去って行った。去り際、彩はぽん、と千砂の背、というよりも腰の付近を軽く叩いた。汗の流れている肌の、発疹がさらに腫れた気がした。熱を持っている。熱くてたまらない。
高校生だったころから、十年の先は経った。それでも未だに彩の言葉、行動には心を動かされる。脅かされる、という表現の方が正しいだろうか。心の安寧が、彩の行動で踏み荒らされる。心が波立ち、ささくれ立つ。彩だけがもたらす突風、嵐だ。
それを自分は望んでいるのか、拒みたいのか、よく分からないでいる。こんな歳にもなって、未だに。
裸婦を前にみな、自分の腕前を信じて夢中でデッサンをしている。千砂(ちずな)もそのひとりで、しかし彼はいま背中に猛烈な痒みを感じていた。夏はこれだから嫌だ。千砂の肌は夏にとことん弱く、汗や紫外線や衣類の繊維といった刺激ですぐに発疹を起こし、それは痒みをもたらす。
肌の上を汗が滑り落ちる感覚に思わず身震いした。白いシャツの下で、千砂の肌は熱く湿り気を帯びて、発汗している。下着の中など蒸れてぐちゃぐちゃで、気持ちが悪かった。早く家に帰ってシャワーを浴びたい。クーラーをガンガンに効かせた部屋でビールの一杯でも仰いで、なにも考えずに大の字で眠ってしまいたい。
「手が止まりましたね。少し見ましょうか」
と、講師に声をかけられ、千砂の意識が場に戻る。老齢の柔和な面差しの講師に促され、千砂は一礼してから自分のポジションを講師に譲った。
いまは夏期講習会の真っ最中だ。講習内容は、裸婦デッサン。千砂が幼少から住むこの街の、市立美術館とそれを母体として動く美術会が主催して毎年行われている。七日間のみだが参加者は多く、抽選となる年もある。若い者は高校生からいて、千砂自身も高校生のころから参加している。
「ここ、骨盤があるのが感じられないように思うんです」
と、立ちポーズの裸婦と、千砂がワトソン紙に引っ張った線を見比べて、講師が指摘する。
「若干ですが、寸胴に見えます。もう少しメリハリがついた方が裸婦らしいと思います。腰の線はもっと内側に入るでしょう。それから下半身へ、尻の辺りは膨らんで、大腿へ。骨に脂肪と筋肉がついて皮膚で包んでいることを、意識して」
「はい」
「あとは大方いいとは思います。そこだけ直したら、――水彩道具を持っているようですが、これから着彩しますか?」
「そうです。形だけ取れたら」
「ではもう着彩してください。着彩しながらでも直せるかたちだと思います。色を入れるとき、背景も描きこんでください。雰囲気で結構です。あなたはこれだけ描きこめる人ですから、デッサンを完成させるというよりは、絵として画面を完成させることに意識を置きましょう」
「背景、」
裸婦を挟んで向かい側にも、千砂と同じくイーゼルを立ててデッサンを行っている人物が複数いる。あえてそちらに目をやらないようにしていて、講師から指摘されたので千砂はぎくりとした。
「裸婦だけでは、絵が浮きます。いつまでも画学生のような絵を描いていればいいというわけではありませんよ。もうそろそろ一段階上へ進みましょう」
この講師は千砂が高校生のころから変わらずで、もう何年も千砂の絵を見てくれている。痛いところを突かれて、千砂は思わず目を閉じる。同時に裸婦がセットしたアラームが鳴り、今日の講習の終了を告げた。
「じゃあ、明日は着彩から始めてください。腰の辺りの形を直しながら」
「はい。ありがとうございました」
講師が去る。皆がイーゼルを片付け始める。その流れに逆らって、千砂と対岸でデッサンをしていた男が、千砂の方向へずんずんと歩みを進めて来た。細い涼やかな目、際にほくろが浮く。端正に顔立ち整った良い男だ。もっとも、千砂自身はそのことをあまり評価していない。
「――先輩」
と男が言った。千砂はこの講習会に今年ばかりは参加しなければよかったと後悔している。
「彩(さい)、」
「この後なにか予定はありますか? どこかでめしでも、行きませんか」
「おまえ、そんなのんきにしている暇があるのか? 明日も学校だろ」
「いまは夏休みですから」
彩はふっと目を細めた。
「片付け終わったら、美術館の門で待っていてください。逃げないでくださいよ」
「は、」
彩は言うだけ言うと、自分のイーゼルの元へ小走りに去って行った。去り際、彩はぽん、と千砂の背、というよりも腰の付近を軽く叩いた。汗の流れている肌の、発疹がさらに腫れた気がした。熱を持っている。熱くてたまらない。
高校生だったころから、十年の先は経った。それでも未だに彩の言葉、行動には心を動かされる。脅かされる、という表現の方が正しいだろうか。心の安寧が、彩の行動で踏み荒らされる。心が波立ち、ささくれ立つ。彩だけがもたらす突風、嵐だ。
それを自分は望んでいるのか、拒みたいのか、よく分からないでいる。こんな歳にもなって、未だに。
その夜僕らは早々に同じ布団に潜って、泥のように眠った。降り続ける雨が僕らの睡眠をより深く長く持続させた。朝になってアラームが鳴り、ぼんやりと覚醒したが、ふと隣を見て一人の寝顔を見て、あどけない寝顔は昔と変わらずで、でもどこかやつれているように見えて、なんだかまた泣けてしまった。十年経った。もう二度と会えないんじゃないかと途方に暮れた十年前を振り返って、あのときの僕に「また会えるよ」と言えるのだと思ったら、涙が出て止まらなかった。再会の喜びというよりは、時が過ぎたことへの哀愁みたいなもの。つまり、ノスタルジア。
目を閉じて泣く僕の頬に、一人の手が伸びた。一人を起こさないようにと思っていたのに、涙の気配で、彼は起きたらしい。「朝っぱらから、泣くな」と起き抜けの低い声で、一人は言った。頬に伸びた手が頭を包み混んで引き寄せられたので、僕は遠慮なく、一人の胸にすがった。
一人の胸はしっかりと張っていて、心音が聞こえた。静かに、確かに動いている。僕はその音に聞き入った。聞き入りながら、一人の身体を意識した。着ているシャツ(僕が貸した)からたちのぼる一人のにおいだとか、呼吸をするたびに上下する胸板だとか、頭を抱え込んでいる長い腕と大きな手のひらだとか。
「どうして泣くんだ」と一人は訊いた。
「――いろんなことだ、と思う」
「言ってみろ、ひとつひとつ」
「……きみの体温は高いな、とか」
「おまえも温かいよ」
「十年経って会えると思わなかった、とか」
「おれも、思わなかった。一生借金返済で終わると思ってたから」
「一人が疲れているときにおれを頼ってくれて嬉しい、とか」
「それしか思いつかなかったんだ。すんなり会えるとも思ってなかったけど」
「夏の一人ははじめて見たから、驚いたり……」
「おれも、驚いたよ」
そこで一人は起きあがった。必然、僕も身体を起こす。
「ひょろっこい都会人だと思っていたのに、いつの間にかスーツが似合うようになっていた。肌が白いのは知っていたけど、腕や足を見て、こんなに白いのか、って驚いた。――驚いて、おれは、……触りたいと思った」
「――」
「いや、ずっと思ってたんだ、それこそ出会ったころから、触ってみたいって。――気持ち悪く、ないか」
僕は首を横に振った。
「触っていいか?」
訊かれて、僕は両の手のひらを一人に差し出した。一人はその手を、握った。さっきまで泣いていた僕は、手のひらにまで汗をかいていて、それを知られるのが恥ずかしかったが、一人に触れられる喜びの方が勝っていた。
「キスを、しても?」
了承の代わりに、僕は手のひらに力を込めた。一人の顔が近付き、僕らは手を握りあったまま、キスをする。唇と唇を合わせるだけの、挨拶みたいな、もしくはとても幼いキスだ。でもそれが、いまの僕らにはちょうど良いのだ、と感じた。
スヌーズ機能にしておいたアラームが再び鳴って、僕らは唇を離した。
「会社、行かなきゃ」
「……おまえには手持ちのカードが多そうだな」
「……きみは昨夜、なんにもないって言ったけど、そのカードにおれも加えてもらえるなら、一枚残っている……と、うぬぼれてもいい?」
「……そうだな、いちばん手放したくなくて、最後まで取っておいたカードだ」
「そっか」
「うん」
「嬉しいよ」
「……」
「おれはずっと、一人の『唯一の人』になりたかったし、一人のことがおれにとっての『唯一の人』になればいいなと、思っていたんだ」
そう言うと、一人はたまらない、とばかりに僕を強く抱きしめた。ああまた離れがたくなってしまうなと思いながらも、抱擁をやめる気にはなれなかった。ひとりでは感じられない他人の体温が、力加減が、香る体臭が、走る脈動が、僕には喜びだった。一人もおそらくそう感じてくれていたんだと思う。
離れたくなかった。けれど、僕には僕の日常があって、そこから外れるわけにはいかなかった。だから僕は惜しみながら、一人の胸を押して距離を取った。
「遅刻する……行かなきゃ」
「分かってる。一晩、ありがとうな」
「きみは、このあと……」
言葉が紡げない。本当はここにいろよと言いたかった。フリーなら、なんにもないなら、一人をくれよ、と。だが僕は臆病だ。言葉ひとつに、ためらいがある。
一人は固い表情で、「おれは根っからの田舎者だからさ」と答えた。
「おまえの家にいながら、でも、故郷が恋しい。本音は、帰りたい。おそろしく雪が降って、ソリでもスキーでもスノボでも、し放題のちいさな町にさ」
「そう……」
「帰るよ。……と言ってももう家はないし、仕事も見つけられるかどうか分からないけど、」
「……」
「駅まで、一緒に行く」
一人は、時間があるから鈍行でゆっくり帰る、と言った。大した食事もとらず(そもそも食材を買っていないので、作りようがなかった)、身支度だけして、僕らは揃って部屋を出た。昨夜からの雨は止んでいたが、空を覆う雲は厚い、曇天。途中のコンビニエンスストアで飲み物だけ買い足して、特に会話もなく、駅までの道を行く。
駅はとても混雑していた。ちょうど通勤・通学ラッシュの時間帯だった。僕はいつも少し早めの比較的空いた電車に乗っていたので、この人の多さには、うんざりした。一人からは「すげえな」という感想が漏れ出た。「うん、すごいんだ」と僕は頷く。
一人の乗るべき電車は、僕が乗るべき電車とちょうど逆方向にあった。「じゃあ、元気で」と一人は言い、僕らは改札口のすぐ傍で握手を交わし、それぞれのホームへと向かった。階段を降りる前に後ろを振り返ったが、一人の姿は人混みに紛れて、もう分からなくなってしまっていた。
とても、とてつもなく気分が悪かった。心臓がずきずきと痛み、なにも食べていないくせに吐き気がこみ上げた。それは全部この天候のせいにしたくて、出来なかった。一人とまた離れるせいだと分かり切っていたからだ。昨夜の、一人のおかげで温かった布団や、夏服で座り込んでいた一人や、握った手のひら、――そういうものが、次々と心に浮かんでは、僕を責める。どうして一人を行かせるのか、と。
せめて次の約束をしたい、と思った。なんでもいい、また会いたい、の一言でいい。いや、またなんていつかの言葉じゃなくて、もう、いま、いますぐ会いたくなっている。顔が見たい声が聞きたい身体に触れたい、話をしたい。
だから僕は走った。まだ間に合いますようにと願いながら、一人が向かったはずのホームへと向かう。階段を駆けのぼり、来た道を逆走する。何度も人とぶつかりそうになっては、謝りもせずに、ただ走る。
ほぼ真正面から来た人に、僕は気づかなかった。まともに身体と身体がぶつかりあって、僕は後方へ一・二歩ステップを踏んで、転んだ。ちょうど改札の付近だった。痛い、と思いながらも僕は顔をあげる。相手の顔を見て僕は息をのんだ。一人が立っていたからだ。
「大丈夫?」
一人も、この偶然は予期していなかったはずだ。そういう顔で、僕に手を差し出した。立ちあがりながら、僕は「なぜ?」と訊いていた。
「――やっぱり帰れない、と思ったから」
「……」
「もうちょっと一緒にいたいと思ったから、引き返した。――おまえもそう思ったからここまで引き返してきた。……合ってる?」
僕は頷く。一人はほっとしたみたいで、息をついた。それから尋ねる。「今日、どうする」
「会社、休む」
僕は即答した。
「少し、歩こうか。この街を案内するよ。昔ながらのいい喫茶店がわりと多い街なんだ。そこでモーニングを食べよう。ほかにもこの街には、大きな公園がある。池もあって、ボートが漕げるよ」
「ああ、いいな」
「歩きながら、話そう。いままでのこと、これからのこと。どうでもいいことも、たくさん。きみのことならなんでも聞きたい」
「おれも聞きたいよ、おまえのことならなんでも」
「うん」
とんでもなく嬉しかった。それこそ、また泣いてしまいそうなぐらい。僕と一人は改札を出て、外へ出た。先ほどよりも辺りは明るくなっていた。
「あ、一人」
僕は空を見あげた。重たい雲と雲の隙間から日差しが出て、それはとても強い光線で、僕らは思わず目を細める。
「日差しが出て来た。――今日は暑くなりそうだ」
「そういえば、夏至が近いな」
「え?」
「夏が来るってこと」
そうか、と僕は頷く。夏の一人を、僕は知らない。だから今年の夏はどんなに暑くても、きっと嬉しかったり、楽しかったり、新鮮だったり、そういう新しい感情が待ち受けているんだろう。
切れた雲の隙間から、青空が見えた。雨が洗ってくれたから、清々しい見事な青だった。
そう、夏が来る。
End.
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
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甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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